ジンジャー・エール ( No.3 ) |
- 日時: 2011/02/13 17:32
- 名前: 弥田 ID:B5W4/fgY
煙突から吹き上がる煙はもくもくと確かな輪郭を持っていた。町外れの製鉄工場。ごううおおおお……、ごううおおおお……、と低いノイズのような轟きが、風に乗って僕らのもとへと運ばれてくる。まるで世界の果てに眠る竜のいびきの残響のように……。 「あの煙がさ」 と隣を歩く少女は言った。彼女は生まれつきの金髪をきんきら陽に反射させ、毛先は溶け込んで光みたいだった。 「あの煙が、雲になるんだ、ってむかし、ほんきで信じてた。きみはどう?」 真っ白な煙は、風にあおられながら天にまで届く勢いでたかくたかく屹立している。なるほど、あれが雲に、と、そう思えばなかなか愉快な心地だった。 「逆に聞くけれど」 と僕は言った。 「いまは、どういう仕組みかわかってるのかい? その、雲がどのように発生するのか、ということをさ」 「知らないよ」 彼女は不機嫌そうな顔をして言った。金の眉根にしわがよった。深い陰影が走って、まるで地図に描かれた山脈のようだった。 「でもこれだけは分かる。雲はいつだってあの煙みたいに白いわけじゃ、ない」 ない。と、もう一度だけ呟いて、少女はくるりと回転した。クリーム色のワンピースの裾が大きくひるがえり、冬の公園に見事な花が咲いた。 快晴の空を、少女は見あげた。雲一つ無い真っ青な空。気取った画家がさも得意げに塗りつぶしたような、鼻持ちならない色合いをしている。 雪が降らないかしら。と、少女は言った。 「雪なんて! たださむいだけだろう。あんなのを喜ぶなんて、キミもまだまだ子供だね」 「なんとでも言えばいいわ。雪のよさがわからない大人になんて、わたしなりたくないもの」 「雪のよさ、ねえ。大人っていうのは実利主義を徹底できる人間だと思うけれども」 「じゃあ、きみもまだまだ子供じゃない」 「うへ、うへへ。そう言われて反論するほど、僕は子供じゃない」 「あっ、そう」 言ってふたたび、少女は空を見あげる。青い目に青い空がうつって、深まった色合いが光を複雑に反射し、まるでよくカットされた宝石のようだ。彼女はじっと空を見つめて、動かない。彫像。切り取られた映像のワンシーン。スナップ写真。誰かの妄想する、誰かの理想の女性像、ロリータ。 少女のかたちの陰影を見つめながら、僕は雪の処女性について考える。夜通し純白に降り積もった柔らかな雪は、幾人ものひとびとに踏みしめられ固く凍り、やがて泥とまざりあい茶色く穢されながら溶けていく……。 風が吹いている。冬の公園はひどく寒い。こんな季節に薄着の彼女の二の腕に鳥肌が浮いているのを見た。 「喫茶店でも行こうか」 「いいね。わたし、ジンジャー・エール」 視線をもどした少女がすたすたと先を歩いて行くので、ベンチから立ち上がってその後を追った。 公園を出ると、都市がひろがる。 アスファルトの道を、ふたり、歩く。さきほどとはうってかわって、注意深く足下を睨んでうつむきがちの少女は、たとえば宝物だとか、たとえば明日への希望だとか、生きていくために必要ななにか、を探してでもいるようにキョロキョロと落ち着きがない。時折犬の糞なんかを見つけては、キャッキャと笑いながら僕に教えてくれるのだった。 「見て、あれ、犬のうんこ」 住宅街のまんなかに僕らはいる。この複雑で迷路のような地形を抜ければ、喫茶店のある通りに出る。けれど、本当に抜けることができるのか? 僕は不安を抱えている。両脇の石垣がひっそり息づいている。その息遣いを感じる。世界の果てに眠る竜の静かな寝息をぼんやりと思う。 ――はたして竜は、いびきをかいて眠っているのか、それともしんしん粛々と眠っているのか。 そのどちらともがありありと想像できるようだった。 「ねえ」 ふいに少女が声をかけてきた。 「喫茶店に行くのはやめない?」 「いいけど、どうして?」 「他に行きたいところがあるの」 彼女は石垣に張ってあるポスターを指差した。そこにはどこか遠い雪国の、真っ白に覆われた白銀の景色が印刷されている。 「ここに?」 「うん。ここに」 僕はゆっくりと頷いた。 「やっぱりきみは、大人ではないよね」 と、少女は嬉しそうに笑った。
○
僕らは暖かな部屋の中、事後の気怠さを肌の接着によって共有しながら、裸で抱き合いベッドに横たわっていた。外は夜だが、一面に積もった雪が月光を反射し、おぼろげな青白い光で満たされていた。 煉瓦造りの煖炉で、なまめかしい炎がちろちろと踊っている。ごううおおおお……、ごううおおおお……。こんなところまで来たというのに、竜の影は僕らをとらえて離さない。いや、むしろ力強くなっている気配だ。もしかしたら、彼の居場所が近いのかも知れない。となると、ここは世界の果ての一帯だ、ということになる。 少女が急かすので、僕らは一枚の毛布にくるまりながら、窓辺に立ってじっと夜の光景を眺めていた。 ごううおおおお……、ごううおおおお……。 雪の上を、狂人が走り回っている。彼は竜を見たのに違いない。証拠に彼は、雪にまみれながらこう宣言するのだ。 「わ、私は見ました、偉大なる光景を! あ、あれが、あれこそが世界の果てです。私の意識を白銀に塗りつぶし、まるで想像のナイフのきらめきのように、鋭いひとすじの光にしてくださったのです。それは強烈な色彩でした。それは鮮やかな音階でした。私は見ました。見たのです。偉大なる光景を!」 そうして彼は右手に握った想像のナイフを心臓に突き立て、真っ赤な血液をまきちらしながら死んだ。 窓から風が吹き込んでくる。この国はひどく寒い。こんなところで薄着の彼女の二の腕に鳥肌が浮いているのを見た。 「喫茶店でも行こうか」 「いいね。わたし、ジンジャー・エール」 僕らは宿を出て、元来た道を歩いて行く。都市へ、都市へ! やがて三〇分かけて都市に戻った僕らは、ぬくぬくと暖かな喫茶店でくつろいでいる。僕はホット・コーヒーを頼み、彼女はジンジャー・エールを頼んだ。 ごううおおおお……、ごううおおおお……。 エアコンが空気を吐き出している。 「あ」 ふいに少女が窓の外を指差した。 「雪が降ってる」 なるほど、確かに降っている。しんしん粛々と、静かに積もっている。明日になれば、きっとあの雪国のように、見事な銀世界となるだろう。 「雪だね」 と僕は言った。 「雪だよ」 と少女は言った。 ごううおおおお……、ごううおおおお……。 しんしん、しんしん。 竜の臭い息が顔面に吐きかけられる、生々しい感触があった。僕は少女に気付かれぬよう、そっと笑った。
------ なんというか、時間が足りませんでした……(言いわけ乙!
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