リライト希望作品 弥田作『Fish Song 2.0』 ( No.3 ) |
- 日時: 2011/01/15 23:55
- 名前: 弥田 ID:TSL7P6QI
ストリート・ムーン・マニアックはネオンの海に沈んでいる。そのきらきらと輝く光に溺れてわたしは浮いたり沈んだり、ぷかぷか気楽にただよっていた。流れてきたくらげがくらくら笑って、その愛らしさに思わず抱きしめたいくらい。 あの子は電灯の下、そっとたたずんで、わたしが名前を呼ぶと手を振ってくれる。肩の上で切りそろえた髪がちいさく揺れて、そのかわいらしさに思わず抱きしめたいくらい。 ふいにぽちゃん、と音がして視界の端に魚が一ぴき飛びはねた。ピラルクーの身体に、きれいな女の人の顔。 「やあ、アルバート・フィッシュだ」 おおきい。とても大きかった。わたしの身長と同じくらいあった。その長い胴体に手を伸ばすと、指先の隙間をすっと通り抜けて、だまし絵みたいな光景がただただ楽しい。抱きしめようとすると、跡形もなく消えてしまって、いったいどこに行ったのやら。 「ねえ」 と声がして振り返ればあの子がいる。上を指して、 「行こうよ」 わたしは笑って、うなずいて、飛びついて、抱きしめて、腕の中にはたしかな体温があって、ぬくぬくとして柔らかで、その感触にもういちど笑った。 そうして、ふたり、ぷかぷかゆっくり昇っていく。向かうさきは夜空に浮かぶお月さまサ。笑って、ふたり、ぷかぷかゆっくり昇っていく。
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聞いたところによると、この一帯は静かの海と呼ばれているらしい。水もないのに海なんて、ネオンもないのに海なんて。変なの、と呟くと、文句はケプラーに言いなさい、なんて怒られた。あの子のショートカットは無重力にもへっちゃらで、ふんわりとカーブがかって太陽風にそよそよそよぐ。背後に金星がゆれて、あたりは無音。あの子の呼吸の規則ただしい響きだけが耳をくすぐる。上下にうごく胸元から細い首筋が伸びてすこし色っぽい。その純白に頸動脈が淡く走って、中を流れる赤血球に思いを馳せる。指先から子宮まで、身体中をめぐるちいさな細胞。ちょっと羨ましい、なんてそんなことを思った。あの子の頬に手をかさねると、なめらかな肌の感触に、表情筋のしなやかさ。そして、その下に断層をなす脂肪の柔らかな手触り。 わたしが一個の細胞ならよかった。クラゲみたいに透明で、満月みたいにまんまるで、りんかくがあいまいにぼやけていればよかった。あの子が隣にいて、ふたり、どろどろに融けあって、ひとつだったなら、それだけで全部よかった。 でもわたしたちは人間で、どうしようもないくらいに人間で、しかたないから後ろに倒れ込んで、あおむけに寝ころがった。舞い上がった塵を吸い込んで、咳きこんで、それを見てあの子が笑う。同じように倒れて、同じように塵を吸って、同じように咳をした。 「咳をしてもふたり、だね」 そう言ってまた笑う。 ――最初からひとりだったなら、それでよかったのだ。 見あげれば地球。そのテクスチャに重なって、まんまるな眼球が、じろりとこちらを覗いている。それはアルバート・フィッシュの瞳で、証拠に、眼球のイメージに重なって、さきほどの女の人の顔が見える。こうして見てもきれいな人で、どこかで見たことある顔だと思ったら、それは隣のあの子の顔に他ならなかった。 ふいにアルバート・フィッシュが泳ぎだす。よじるように身体をねじって、もがくように背中をあがいて、軌跡が複雑な紋様をえがく。それがだんだんと単純化してきて、四角形となり、三角形となり、やがて完全な円を描くと、尾を噛み、まんまるな状態を保って、その光景に、地球のかたちが重なった。 にやり、とアルバート・フィッシュが笑う。 世界のりんかくが融けていく。ゆっくりゆっくりほどけていく。
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はっと気がつけば、見慣れた地元の歓楽街に立ち止まっている。ネオンはいっぱいに輝いているけど、たちこめる光に飛び込むことなんてできない。できるはずもない。ネオンの海の見える通り、ストリート・ムーン・マニアック、なんて。そんなの馬鹿みたい。笑ってしまうくらいだ。空を見あげると、すこしだけ欠けた月が浮かんでいる。満月のまんまるからはほど遠い、歪なかたち。でもその歪さが現実なんだなあ、なんて、うなずいて。なんとなく切なくなって。 電灯の下、そんなわたしを見ているわたしがいた。振り返ったわたしが見えて、わたしを見ているあの子が見えた。 その時、わたし、あの子だった。 その時、あの子、わたしだった。 その時、ふたり、ひとりだった。 その時、ひとり、ふたりだった。 「あっ……」 驚きに思わず漏らした声は、いったいどっちが発したものなんだろう。互いに歩み寄りはじめたその一歩目は、いったいどっちが踏み出したんだろう。そんなのもうわからない。わたしたちはひとりで、融けあった一個の細胞で、全身を巡る赤血球すら共有していて、わたしはB型で、あの子はO型で、でもそんなの関係なくて、この身体はふたつの心臓で動くひとつの血液循環系で、あの子がわたしの鎖骨をやさしくひっかいて、そこからにじむ血しょうの、黄昏みたいに鮮やかな赤色! 「好きだよ」 って、そう伝えるのに勇気なんていらなかった。 「わたしも」 って、そう伝えるのに恐怖なんてなかった。 頬と頬を寄せ合った。額と額を付き合わせた。掌と掌を重ね合った。そうして、唇と唇を、ゆっくり近づけていって、ああ、やっぱり、むなしいな。 遠くから歌がきこえる。かすかにきこえる。へたくそな歌が、きこえる。メロディーは不安定で、歌詞の意味もよくわからない。ただひとつわかるのは、それがラブソングだということ。都市を泳ぐ魚が出会ったマネキンにガラス越しの恋をする、ちょっと馬鹿みたいなラブソングだということ。 それはわたしとあの子しか知らない歌だ。 きこえる。こまくをやさしく震わせて。 本当に馬鹿みたいなのは、わたし自身だったのだ。 ふと見あげれば、欠けた月のイメージに重なって、アルバート・フィッシュが浮いている。 「ねえ、あんたってさ……」 やさしいの? ざんこくなの? きちがいなの? かみさまなの? いろいろな言葉が沸いては消えて、消えては沸いて、けっきょくこう尋ねた。 「いったい、なにものなの?」 問いかけると、驚異の魚はにやりと笑って、ひらめいて、消えた。それを見たわたしも笑って、わたしであるあの子に別れを告げる。 「じゃあね」 「うん。じゃあね」 名前を呼ぶと、あの子であるわたしは手を振って、 すべては泡に弾けた。
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目覚めると屋上に寝ていた。仰向けに眺める空には、流れる血よりもずっと鮮やかな夕映えが一面に冴えわたっていた。 そうして、へたくそな歌が聞こえる。 「――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートの中で、くらくらくらくら笑っていてさぁ。……っと、起きたか。おはよう」 「おはよ。……ていうか、その歌あんまりうたわないでね、って言ったよね。もう」 「なんでさ、いい歌だと思うよ」 「純粋に恥ずかしいんだよ」 「いいじゃんいいじゃん。きっといつかその恥ずかしさが快感に」 「ならないならない」 「照れるな照れるな」 「照れてない照れてない」 必死のわたしの言葉を、あの子はふん、と鼻で笑い飛ばす。そうしてすこし恥ずかしそうに言う。 「この歌、好きなんだ。すこし私に似ている気がして」 「似てない似てない」 似てるはずがない。だってさ。それはさ。 「もう、ちゃちゃをいれるなよ。最後まで聞きなさい。……だからね、別にあんたが作った歌だから、とかそんなんじゃなくて、純粋にうたいたいからうたってるんだ。これは凄いことだと思うよ。六十億人の有象無象がいて、その中のふたりがそうとは気付かないシンパシーを持っていて、そうして、ふたり隣り合わせに立っていて、さ。とんでもない確率だよね。奇跡だよね。今なら宝くじだって当てちゃいそうだ」 「……」 「……」 「……、ねえ」 「なに?」 「そのセリフ、すっごくクサいよ」 「……、ごめんなさい」 空にはいっぱいの黄昏だ。あの切ない輝きがいまにも降ってきそうなくらいだ。そんな空の下、わたしが笑って、あの子も笑った。強く風が吹いた。みじかい髪がちろちろとなびいた。遠くに金星がゆれて、放課後の学校は野球部の怒鳴り声ばかりがうるさい。 「ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁー」 「もう。だからうたわないでってば!」
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自転車にのって坂をくだる。 あの子はいまごろ彼氏の原付のケツに座って帰宅しているはずだ。むくむくと隆起した腹筋にしがみついて、ぬくぬくと暖かいなあ、なんて思っているはずだ。 ブレーキから手を離すとスピードが全身を駆けめぐる。このまま流れて風になってしまいたいけれど、わたしの確固とした境界線がそれを許さない。許してくれない。 シンパシーという現象。共鳴。ふたつの音叉。ふたりの人間。 坂が尽きていく。すこしずつブレーキを握って、すこしずつ減速していく。スピードがほどけていく。 地平線に煙突が屹立して、もくもくと煙をふきだしているのが見える。その上で、欠けた月が刃物のように輝いている。燐光に肌がちりちり震えて、いまにも切り裂かれてしまいそうだった。 口笛を吹く。自作の歌のメロディーを。作った翌日に友達に聞かせてみせて、夜中ベッドで死ぬほど後悔した曲を。 音の連なりが脳を満たすので、わたしは何も考えないですんだ。からっぽの頭のままペダルを踏む。そのスピードがチェーンを伝わって、自転車は進む。風をきって進む。
―――――――――― これがどう変わっていくのかまったく想像できないですw よろしくお願いします。
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