リライト作品『Fish Song 2.0』 ( No.25 ) |
- 日時: 2011/01/23 11:27
- 名前: HAL ID:953c.MQI
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
弥田さまの『Fish Song 2.0』をリライトさせていただきました。
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ストリート・ムーン・マニアックはネオンの海に沈んでいる。そのきらきらと輝く光に溺れてわたしは浮いたり沈んだり。流れてきたくらげがくらくら笑って、その愛らしさに思わず抱きしめたいくらい。 見下ろせばいろとりどりの電飾の下、佇むあの子は笑って手を振ってくる。切りそろえられた前髪がゆらゆら揺れて、その愛らしさに思わず抱きしめたいくらい。 ふいにぽちゃん、と音がして、振り向いた先で魚が一ぴき飛びはねる。ピラルクーのからだに、きれいな女の人の顔。赤みがかった銀のうろこ。 「やあ、アルバート・フィッシュだ」 おおきい。とても大きい。わたしの身長とかわらないくらい。だけど手を伸ばすと、指の隙間をすうっと通り抜ける。わたしは自分の手を見つめる。アルバート・フィッシュは女の顔で笑っている。もう一度手を伸ばす。やっぱりすり抜けてしまう。だまし絵みたいなその光景。だんだん楽しくなってきて、抱きしめようと飛びつくと、とたんに跡形もなく消えてしまう。えらのある胴体も、あんがい細い尻尾も、細い首筋も、きれいな顔もぜんぶ。最初からなかったみたいに。 「ねえ」 と声がして振り返ればあの子がいる。水面を指して、 「行こうよ」 わたしは笑って、うなずいて、飛びついて、抱きしめて、腕の中にはたしかな体温、ぬくぬくとしてやわらかで、その感触にもう一度笑う。 そうしてふたり、昇っていく。向かう先には夜空に浮かぶお月さま。白くて、丸くて、けばけばしいネオンと対照的な、そっけない顔。わたしが笑って、あの子も笑って、ふたり、ぷかぷかゆっくり昇っていく。
着地した場所は、ごつごつしていて、暗くて、ついでに寒かった。さっきまでとは大違い。 あの子がいうには、このあたりは静かの海というらしい。水もないのに海なんて。ネオンもないのに海なんて。ヘンなの。そういうと、文句はケプラーにいいなさい、なんて怒られた。 あの子のショートカットは無重力にもへっちゃらで、太陽風にそよそよそよぐ。あの子の背後に金星が昇る。 無音の世界。あの子の呼吸と、かすかな鼓動だけが、わたしの耳をくすぐる。あの子の上下に動く胸元から、細い首筋がすうっと伸びて、それがなんだか色っぽい。真っ白い肌に頚動脈が淡く透けている。その中を通る赤血球を、思い浮かべてみる。あの子の指先から心臓を通って子宮まで、体中をぐるぐる回る、ちいさな粒。ちょっとうらやましい、なんて、そんなことを思った。 血管の透ける白い首に、そっと手を伸ばす。触れる手のひらにしっとり吸い付くような、あの子の肌。くすくす笑う吐息が指をくすぐる。くすぐったくて、わたしも笑う。 ――わたしたち、ひとりだったらよかった。 わたしがあの子の中を漂う、たった一個の細胞ならよかった。クラゲみたいに透明で、満月みたいにまんまるで、輪郭があいまいにぼやけていればよかった。あの子と二人、どろどろに溶け合って、わたしたち、ひとつだったら、それだけで全部よかった。 でもわたしたちは人間で、どうしようもないくらいに人間で、しかたないから手を放して、ゆっくり後ろに倒れると、ごつごつした石が頭に当たって、細かな塵が月面を舞った。思わず咳き込むわたしを見て、あの子は笑う。笑ってから、同じように倒れて、同じように砂塵を舞い上げて、同じように咳をした。 「咳をするのもふたり、だね」 そういって笑う。その目がきらりと光って、そこに地球が映りこむ。 あの子の瞳から目を逸らして、その視線の先を追えば、真っ暗な空にぽつりと浮かぶ、青い地球。まるいその形を、ぼんやりと眺めていたら、そこにアルバート・フィッシュの瞳が重なって見えた。 地球の背後にぐんとひろがるおおきな顔は、ネオンの海で見たものと同じ。何度ながめてもため息がでるほどきれいで、それにしても、どこかで見たことがある顔だと思ったら、それは隣で寝転がっている、あの子の顔にほかならなかった。 アルバート・フィッシュが体をよじる。真っ暗な海を泳ぎだす。体をねじって、尾をくねらせて。その残像が複雑な軌跡を辿って、めまぐるしく移り変わる。じっと見つめていると、それがだんだん単純化していって、四角形になり、三角形になり、やがて完全な円を描く。その後ろに重なる、真ん丸い地球。わたしたちはそろって歓声を上げる。あの子は上機嫌に歌いだす。それはいつかどこかで聴いたメロディー。 自分の尾をかんで、ぐるぐるまわるアルバート・フィッシュは、回りながらちらりとわたしたちのほうを見て、たしかに笑った。 世界の輪郭が融けていく。ゆっくりゆっくりほどけていく。
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あの子の声がする。よく知っているメロディー。へたくそな歌。 「――ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。キミの真っ赤なハートのなかで、くらくらくらくら笑っていてさぁ。……っと、起きた? オハヨ」 「おはよう。……その歌、歌わないでっていったよね?」 「なんで。いい歌じゃん」 「恥ずかしいんだよ」 立ち上がりながら、目を擦る。背中が痛い。足が冷えていた。 ちょっとのつもりで、すっかり眠り込んでたみたいだった。屋上から見える町並みは、夕焼けに赤く染まっている。ちょっと離れたところでは、歓楽街のネオンが目立ち始めている。 「いいじゃんいいじゃん。だんだんその恥ずかしさが快感に」 「ならないならない」 「照れるな照れるな」 「照れてない照れてない」 必死に手を振ったら、あの子は軽やかな声をたてて笑い飛ばした。それから同じ歌を、こんどは歌詞をつけずにハミングする。その目の端が、ちょっと照れくさそうに緩んでいる。 「好きなんだ。この歌」 いいながらあの子は伸びをする。くるりと背を向けて、 「ちょっと私に似てる気がして」 と小声で付け足した。 「似てない似てない」 思わず即座に否定する。だってさ、それはさ。 「もう。茶々をいれないで、最後まで聴きなさい。……だからね、別にあんたが作った歌だからとか、そんなんじゃなくて、純粋に歌いたいから歌ってるんだよ」 わたしは憮然としてそっぽを向く。だけど背中に、あの子の、思いがけず熱っぽい声が降ってくる。 「すごいことだと思わない? このでっかい球体の表面には、六十億人以上の有象無象がいて、その中のたった二人なんだよ。そのふたりがこうやって隣り合わせに立ってて、シンパシーをもっててさ。とんでもない確率だよね。奇跡だよね。いまなら宝くじだって当てちゃいそう」 顔を上げたら、あの子は背中を向けていた。その耳が、夕焼けの光に照らされて、ちょっと赤くなっていて。風でさあっと流れる肩までの髪が、屋上のタイルに間延びした影を揺らす。空を見上げれば一番星。金星って、いまくらいに見えるんだっけ。 「ねえ」 「なに?」 「そのセリフ、すっごくクサいよ」 「……、ごめんなさい」 赤から青のグラデーション。一秒ごとに暗くなっていく空のした、わたしが笑って、あの子も笑った。強い風が吹く。グラウンドからは、野球部のかけ声。足下からは吹奏楽部の練習、軽快なメロディーが、つっかかって途切れる。 「ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁー」 「歌わないでってば!」
自転車を漕ぐ。夕焼けのなごりが、かすかに空の端のほうにしがみ付いている。空にはたくさんの星。風が少し冷たい。 あの子はいまごろ、彼氏の原付のケツに座っているはずだ。あのしなやかな腕を、彼氏の腹筋に巻きつけて、ぬくぬくと暖かいなあ、なんて思ってるはずだ。 ブレーキから手を放す。下り坂なのに、めいっぱいペダルを漕ぐ。ぐんぐん上がっていくスピード、線になって溶けていく世界。ペダルが空回りする。このまま溶けてしまいたい。風になって流れてしまえばいい。だけどわたしの確固たる境界線が、それを許さない。許してくれない。 シンパシー。共鳴。ふたつの音叉。同じことで同じように笑って、同じ歌を好きになって、同じ場所で息をする、ふたりの人間。 下り坂が終わる。少しずつブレーキを握る。スピードが緩んで、ほどけて、世界が輪郭を取り戻す。 自転車の上から見上げる、少しだけ欠けた月。東の空の低いところに、ぽっかりと所在なさげに浮いている。夢で見上げたようには、丸くはなくて。 口笛を吹く。最初はかすれた音になった。だんだん調子を取り戻す。自作のメロディー。作った翌日に友達に聞かせて、夜中にベッドで死ぬほど後悔した曲。 音の連なりが頭を満たすので、わたしは何も考えないですんだ。からっぽの頭のまま、アップテンポのメロディーに乗って、力強くペダルを踏む。そのスピードがチェーンをつたわって、自転車は進む。風をきって進む。
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ストリート・ムーン・マニアック、なんて、そんなの馬鹿みたい。ひとり、くすりと笑う。 眠れなくて、そっと家を抜け出した。真夜中のさびれた商店街。ひとけのない通り。はがれて風にさらわれるチラシ。たまに聞こえるテレビの音。 空を見上げると、欠けた月。肌をちりちりと焼くような、冷たい光。満月のまんまるからはほど遠い、いびつなかたちをしている。でもそのいびつさが、現実なんだなあ、なんて、うなずいて。なんとなく切なくなって。 月明かりの下、そんなわたしを見ているわたしがいた。首を回すと、振り返ったわたしが見えて、わたしを見ているあの子が見えた。 そのとき、わたし、あの子だった。 そのとき、あの子、わたしだった。 そのとき、ふたり、ひとりだった。 そのとき、ひとり、ふたりだった。 「あっ……」 驚きに思わず漏らした声は、どっちのものだろう。歩み寄りはじめた最初の一歩は、どっちが踏み出したんだろう。わからない。わたしたちはひとりで、融けあった一個の細胞で、全身をめぐる赤血球さえ共有していて。わたしはB型で、あの子はO型で、でもそんなの関係なくて、この身体はふたつの心臓で動くひとつの血液循環系で、あの子はわたしの鎖骨をやさしくひっかいて、そこからにじむ血しょうの、黄昏みたいに鮮やかな赤色! 「好きだよ」 そう口に出すのに、勇気なんていらなかった。 「わたしも」 そう答えるのに恐怖なんてなかった。 頬と頬を寄せ合う。額と額を付き合わせる。手のひら同士を重ねあう。そうして、唇と唇を、ゆっくりと近づけていって、ああ、やっぱり、むなしいな。 歌が聞こえてきていた。小さくかすかな声。それはわたしとあの子だけしかしらない歌。へたくそで、メロディーも不安定で、歌詞もなんだか意味不明で、ただひとつはっきりわかるのは、それがラブソングだということ。ネオンの海を泳ぐ魚が、ガラス越しのマネキンに恋をする、ちょっと馬鹿みたいなラブソングだっていうこと。 空を見上げると、欠けた月のイメージに重なって、アルバート・フィッシュが浮いている。あの子の顔をして笑っている。 「ねえ、あんたってさ……」 訊きかけて、詰まる。どうしてそこにいるの? 優しいの、それとも残酷なの? ちょっとおかしいの? それともおかしいのはわたし? いろんな言葉が浮かんでは消えて、消えては浮かんできて、泡のようにはじけて。 「いったい、何者なの?」 驚異の魚はにやりと笑った。銀のうろこを月光にきらめかせて、ひとつおおきく身をよじると、泡のように消える。まるではじめから、なんにもなかったみたいに。 まぶたのうらに残った笑顔の残像に、わたしは笑い返して、小さく別れの言葉を口にする。 「じゃあね」 うん、じゃあね。どこか遠くから、返事が聞こえた、気がした。
---------------------------------------- 倒れることがわかっていて挑んだじぶんの勇気を誉めてあげたい(真顔) どうかお気を悪くされませんように。お目汚し失礼いたしました……!
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