物語が終わるなら ( No.2 ) |
- 日時: 2011/01/01 00:08
- 名前: 片桐 ID:/bc5l2Ok
世間が大晦日だという日、わたしは部屋で本を読んでいた。 母が雪が振っていたと言っていたから、外はおそらく雪。しかしわたしの関心は天候にもなく、また手にした本の中にもない。 長い長い物語は終盤に近い。全十巻の最終巻を半分ほど読んだところだ。 気に入っていた話だった。本屋でタイトルに惹かれて購入し、一巻を読み終えたときには、もう本屋に駆け出していた。 没頭するように読んだ。決して文学少女とはいえないわたしだが、時折無性に本を読みたくなる。 そんな気分になったときは、誰かが薦める本でなく、自分の直感だけを信じて、本棚を睨む。 長く文字を追っていた顔を上げて、カーテンを開くと外は真っ暗になっていた。時計を見れば十時半。 終盤に近い物語の頁をめくるたび、わたしの胸の中には戸惑いに近い感覚が広がっていった。 不自然な展開だったわけではない。 むしろこれまで積み上げられてきた伏線が収束していき、本の盛り上がりは最高潮に至っているといえる。それでもわたしは頁をめくることにためらいを持っていた。 お祭りが終わる時に感じる寂しさに近いものが胸のうちに去来しているということも確かだ。 しかしわたしは、この話を読み終えず、むしろ一生読まないでおきたいと感じている。 終わることが寂しいのではない。終わることが気に喰わないのだ。 ある人物が生まれてから死ぬまでを描いたのなら、物語が終わることも納得できる。けれど、世に数ある物語のほとんどがそういう終わり方を選んではいない。ある人物の特定の期間を描いて、物語は終わっていくのだ。悲劇的結末、感動のフィナーレ、余韻を残す幕の引き方、わたしなりに色々な物語を味わってきた。 そんな度思うことは、結局物語とはなんなのだろうという疑問だった。 人の一生が物語なら、終わりは死にしかない。悲劇もあれば感動する場面もあるが、そこは終わりではなく、むしろ長い流れの通過点でしかないはずだ。 それでも物語は終わる。本は頁を減らしていく。後は読者の想像にまかせるなどとも言うが、わたしにそんなことはできない。 わたしはただ彼彼女の人生が切り取られたものを読んだとしか思えないのだ。こんなことを思うわたしは擦れた読者なのだろうか。それとも、物語というものを誤解しているだけなのだろうか。 終わることによって物語が作り物であると思い知らされる。それがどうにも納得できなくて、妙にむなしい。 わたしが目の前の本の頁を上手くめくれないでた時、除夜の鐘が遠くから響いた。 今日は確かに大晦日なのらしい。一年が終わるこの日。それでもわたしは締めくくりとして何を思うでもない。わたしの日々は変わることなく続いており、これからも続いていく。 それとも人は終わらない毎日だからこそ、何かを終わらせようとあの手この手と策をこうじるのだろうか。 両親に初詣に出かけようと誘われ、しぶしぶうなづいた。 空からは雪。確かに雪。 何かを終わらせた人々が、神社の境内に集まり新年のお参りをしていた。 ごったがえす境内の中に、多くの中のひとりでしかないわたしがいる。 すべての人に家族があり、友人恋人があり、社会とのつながりがあり、そんな中で繰り広げられる人生がある。 そう思うとわたしは圧倒される気分になって、ただおたおたとその場にたたずむ。 それぞれの人の人生が物語なら、わたしはそのうちのどれだけのものと関われるのだろう。 数年、数ヶ月、数週間、数日、数時間、数分、数秒。 彼彼女の人生という物語があったとして、わたしはやはりそのうちのわずかな期間しか知れないではないか。 そう思うと妙におかしく、妙に納得がいって、家に帰ったのなら、せめてきりのいいところまでは描いてくれるあの本を読み終えようなどと思った。
ーーーーーーーー 情景が、情景がー!、描けなかった。いまいちまとまってませんね。でもま、楽しむことはできました。
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