邂逅 ( No.2 ) |
- 日時: 2012/01/23 01:28
- 名前: ラトリー ID:qVDermDQ
その日、なんとなく海へ行った。 きっかけは本当にくだらないことだった。だから思い出したりする必要なんかなくて、単に家から近いところにあったから、みたいなシンプルな理由で海に行ったことにしておきたかった。 そのほうが、自分が社会の決まりごとに縛られていないってことを実感できるような気がしたのだ。 台風十二号が去ったばかりの空は、どこまでも青く澄みわたっていて明るい。学校の制服のままで、自転車を置いて浜辺に駆け下りていく。靴を脱ぎ、さらさらの砂浜に腰を下ろして、ちゃぷちゃぷと波で足を洗う。純粋に、気持ちがいい。 季節が秋になってからの海はまだ温かかったけど、お風呂に入る時とはまた違う感じ。まるで生きてるみたいに流れては去っていくしょっぱい水の肌触りがただ心地よい。優しいそよ風に身を任せながら、水平線のはるか彼方を眺める。 そしてふと、家を出る前にテレビで見たニュースのことが頭をよぎった。
あの海の向こうには、毎日の暮らしにも不自由している人たちがいて。 ほんのわずかなお金を得るために必死で働いて、家族にご飯を用意して、そうやってどんどん寿命を縮めていく。 お金を手に入れることが人生で一番の幸せと思っているかどうかはさておき、豊かな一部の人が貧しい大部分の人を押さえつけて平気な顔でいる。 そうやってみんな、どこかバランスが悪いものだから争いが生まれて。 小さな争いは大きな戦いを生み、やがて二つが一緒になって怒りと悲しみと憎しみと、終わらない暗い未来をもたらす。 今もこうして、こんなにも穏やかな初秋の海のずっと先、見えない世界の片隅で。 果てることのない苦しみはずっと続いているのだ。
「こんにちは」 突然声が聞こえて振り返ると、そこには女の人が一人いた。 流れるような黒髪、純白のブラウスに、膝下まで覆う紺色のスカート。跳ねるように海辺を歩く。 「こんな所で、何をしてるのかな?」 「……こんにちは」 突然見知らぬ人に話しかけられたのでどう返事していいか分からず、とりあえずあいさつを返す。 「ちなみに、私はここにいることが大好きだから今日もやってきました」 「はぁ」 「あなたはここでそうしているの、好き?」 質問を投げかけられた時、それが答えられるものなら返事してもいいだろうと考えてみる。 「好きですよ。たまに来ますし」 「私もね。ここの海は、私にとって特別なところだし」 そう言って女の人はすぐ隣に座り込んで、膝を抱えて座った。波が足を洗っている……と思ったら裸足だった。靴はどこかに置いてきたのだろう。 何を話していいか分からず黙っていると、女の人が先に口を開いた。 「あなたは海を見て、何を考えていた? 良かったら教えてほしいな」 女の人は微笑んで、ずっとこちらを見つめている。人懐っこい笑顔に気を許して、思っていることを声にする。 「この海のずっと向こうにある、いろんな国のこととか」 「成る程ね。具体的には?」 「貧しい人が豊かな人に利用されて苦しんでいたり、必死に頑張っても笑ったり喜んだりできなくて、争いに巻き込まれていく人がたくさんいるんだなあって思っていました」 ほとんど考えていたままのことを言ってしまう。この人を疑う心が今の自分には少しもないのだろう。 「そっか。確かに、海を見たら水平線の先にあるのか、ついつい考えたくなっちゃうよね。海は広いな大きいなあって、私も時々本気で感じちゃうし」 「それ、歌の一節ですよね」 「うん、そう。でもこれって、すごく当たり前だけどすごく大切なことだと思う。海は広くて大きいから、私たちは見ることのできない向こう側を知りたくなって、それでいろんな想像をすると思うのね。想像するのは楽しいでしょ、現実にありもしないことをたくさん自分のものにできるから」 突然冗舌になったみたいに、彼女はたくさんよく分からないことを話しだした。 「あのさ。ひょっとして、海の向こうに悪いことだけを見ていたりしなかった? さっきあなたが話してくれた、貧富の差からくる対立とか、戦争に関わりそうな内容みたいに」 「たくさん考えましたけど、ほとんどそういうのだと思います」 どうしてこの人は質問ばかりするのだろうと考えながら、微笑む彼女に返答する。 「そっか。あなたの心、ちょっぴり暗い感じなんだ」 「そうかもしれませんね。放っといてください」 「待って。あなたにイヤがられるのを承知で言うけど……」 「承知しているなら言わないでください」 せっかく海を見て気を紛らわせていたのに、しょっちゅう横槍を入れてくる人がいたらたまったものじゃない。そろそろ言葉に少し不快感を混ぜてみる。 「私もそんな風に思ったことがあったんだ。学校サボって、海の向こうにある国のこととか考えて、ああ自分はこんなに楽をした生活で毎日だらだらしてるのに、ずっと苦しみ続けている人たちがたくさんいるんだろうなあって、ぼんやり考えてる時間が確かにあったの。でもね、それってあんまりにも世界に対して生意気だって、そう思わない? 自分の溜まりに溜まった不満とか、不機嫌な気持ちを風に乗せて海に流したつもりになって紛らわせているだけ、そう気づかない?」 あいかわらず彼女は笑顔のままで、さわやかな潮風に髪を揺らしぴちゃぴちゃと足で海水をはたく。 「で、ある時気づいたの。自分にはこんなことをする以外にもっと大切なことがある! て。そこから先は順風満帆……とまでは行かなかったけれど、以前よりはかなりいい感じに毎日を楽しむことができたかな。もちろん、砂浜で考えていたことは決して忘れずにね。どんなに気持ちを分かったつもりになっても、考えているだけじゃ何の解決にもならないよ。いろんな不平等とか、どうにもならない格差、しがらみ、対立、その他諸々を心に抱えて、それを自分が生きることに反映させていく。もちろん、自分のできる範囲でね。そうすれば少なくとも自分は何か目に見えることをやっている、頑張っているんだって、自信がもててくると思うんだけどな。もちろん自信ばっかりで空回りしちゃうのは良くないけど」 「つまり、ここでじっとしていないでちゃんと学校に行けって、そう言いたいんですか?」 彼女の長い話が一息ついたところで、初めて自分から彼女に質問をした。ずっとフリーズ状態だったからか、ろくなことが言えない。 「うん。まあそういうこと。悩みはいろいろあるかもしれないけど、大切なのは笑顔と、どんなものにも絶対負けてやるもんかって気持ちだよ。悪い方向に捉えちゃダメ。循環ってね、ほら悪循環とかデフレスパイラルとか、下向きでマイナスなイメージが強いけど、自分の毎日をうまく回すのはそんなに難しくはないよ。いいことを次のいいことにつなげる。あるいは、みんないいことにしてしまう。どうしても悪いことにしかならない時は諦めて、次のいいことを探す。どうよこれ、最強でしょ?」 同意を求めるようにその人は微笑んでみせた。日差しがぽかぽかと暖かい。 不快感を混ぜて話していこうとしていたのに、いつしか彼女の言葉を引き込まれてしまっている。まるで暗闇しかなかった心の迷宮に、一つの小さな、けれど力強いランプが灯ったような感じ。 「分かりました。その……ありがとうございます」 「お役に立てたかしら。ひょっとして余計なお世話だったかな?」 「とんでもないですよ。正直、目からウロコが落ちたっていうのか、こう……」 うまく言い表せなくてすごくもどかしい。彼女はそんな、身ぶり手ぶりで何とか伝えようとする姿を笑って見つめながら、腰の砂をはたいて立ち上がった。 「それじゃ、ね。見方が明るくなれば、この海を見て考えることも明るくなるはずよ。たくさんの人の幸せが、見えたり、望めるといいね」 そうして砂浜を歩いていく。土手に続く階段まで来たところでくるりと背中を返し、彼女は口に手を当てて叫んだ。 「今日はあなたに会えて良かったわー! 私もとっても嬉しかったー!」 海に背を向け、遠くに見える彼女の顔をしっかりと見つめる。 遠くて、はっきりとは分からないけど。 乗ろうとしている自転車の形は、私が使っているものと全く同じだ。 「あ、ありがとうございましたー!」 とっさにそんなことしか言えなかったけれど、それで良かったような気もする。 自分と彼女の間に、初めから余計な言葉はいっさい必要なかったのだ。彼女はただ話しかけて、それを自分が聞いただけのこと。何の変哲もない、ごくありふれた偶然であってほしかった。 「行っちゃった……」 ほんの片時、彼女と交わした言葉は、決して忘れられないものとなるに違いない。 ただ一つ気になるのは、あの海が好きな女の人が、前に誰かとそんな会話をしたのかどうかということ。 気になって仕方がないというほどではないにしろ、ちょっと興味はあったりする。 知ってみたくなる。
だって、似ていたから。 彼女があまりにも未来の“わたし”に思えてならなかったから――
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