「サックス」「ソックス」「セックス」です。かたかなにまけないにほんじんのいじをみせつけてください。とりあえず日付が変わるまでで。
「好きだ」 突然の告白……というわけではない。ここ数分の間にこの言葉を何度も聞いている主人公の近藤義武君。高校一年生にして、何かを悟ったかのようなあきらめムード。 ちなみに、愛の告白をしているのは、二年生の木崎恵理さん。学級委員をつとめる三つ網の眼鏡美人で、学校でもそれなりに有名人です。 そんな彼女に告白をされている義武君。ですが、なぜか全然うれしそうにありません。 まぁ、義武君には幼馴染の紺野りんごちゃんという恋人がいるわけですし、義武君の性格からして、現在の彼女を捨てて他の女に乗り換える、とか、ましてや二股をかけて交際する……なんてことできるわけありませんからね。 でも、こんな美人に告白されているのだから、少しはうれしそうにしてほしいです。「……あの、木崎先輩?」 やはり困った……いや、よくみたら義武君のこめかみがやや痙攣しています。これは困っているのではなく、やや怒っています。どういうことでしょうか?「好きなんだ、隣の席の滝口のことが」 あぁ、なるほどなるほど。つまり、これは、『ラブレターをもらったと思ったら、「○○君に渡してください」と言われるお約束』ですね。天丼ネタです。「なんでそれを俺に言うんですかっ!」 義武君は恋の経験が豊富なほうではありません。むしろ、幼馴染のりんごちゃんに好意を持たれていたのに最近まで気付かないほどの朴念仁ですし、りんごちゃんと付き合う前は「彼女いない歴=年齢」というありがちな少年だったのですから。 他にも、リアル心霊研究部などという部の部長をしていますが、恋と関係があるとは思えません。「わ……私は恋などしたことがないのだが、恋というのは病の一種であり、現在の医学では治しようがないという」 恵理さんの言うことは正しいようですが、何か微妙に違います。「だから、除霊のようなもので治してもらえないだろうか?」「…………は?」「昔から、病は病魔によって引き起こされるものだといわれている。病がウイルス性の病気でない以上、ここは心霊的な見地から治してもらえないか?」「………………木崎先輩」 義武君は心底つかれた声でつづけた。「とりあえず話を聞かせてください」 かわいそうなことに、不条理な相談には慣れてしまった義武君。恵理さんの話を聞くことにしました。 ちなみに、いつもは怒り口調の義武くんですが、今日は先輩相手なので軽い敬語を使っています。違和感ありますが、ご了承おねがいします。 恵理さんの好きになった滝口君とは、軽音楽部の滝口誠君のことらしいです。ただ、まじめというよりはかなり遊び人という感じで、出会う可愛い子全員に声をかけているという話で、かなりの有名人です。もっとも、そんな調子なのでまともな彼女はいないそうです。「そりゃまた、正反対の性格の人を好きになりましたね」 真面目な委員長と遊び人の軽音楽部員。「あ……あぁ」「きっかけは?」「…………かかか……かわいいと言われた」「…………それだけですか?」 今時、小学生でもそんな言葉でなびきませんよ。「私は、昔から……自分でいうのもなんだが、真面目に学級委員として学校生活を送ってきた。そのせいか、頭の固いイメージがついてしまったらしく……初めてなんだ、そういう風にほめられたの」「確かに、かわいいなんて言ったら怒りそうなイメージがありますからねぇ」 そのイメージは彼女と出会って三分で崩壊したけれども。「なら、恋から冷めるんじゃなくて、いっそ付き合っちゃえばどうですか?」「だめだ! 校則で不純異性交遊は禁止されている」「なら、純粋に交際をしたらいいでしょうが!」「男は狼だ。滝口もきっと、私とつきあえば……ソックス……サックス……シゲキックス……」 さすがは委員長。口がさけてもセックスなんて言葉言えないですね。「あぁ、もう、とにかくそういうものを要求して……」「どうしました?」「してくるわけない。いや、そもそも私のようなつまらない女と付き合おうなんてするわけがない」「……はぁ……そっちですか」 恵理さんは恋から冷めたかったのではない。恋に傷つくことが怖かっただけなのだ。「わかしました。恋の病から抜け出す方法を教えますよ」「ほ……本当か?」「簡単です。相手に告白すればいいんですよ」「こ……こここここここここ」 鶏のまね。お約束です。「告白なんてはしたない真似できるか!」 はしたないって……想像段階でいきなりセックスの要求までされている恵理さんの台詞ではないですね。「滝口先輩のことが好きなんですよね」「……あぁ、好きだ」「なら、気持ちを伝えましょう。一応、俺も陰から見守りますし、成功したら祝いますから」 ちなみに、この告白はふられるだろうと、義武君は思っていました。滝口君は遊び人ですから、どう考えても委員長キャラの恵理さんと付き合うとは思いません。また、滝口君は聞くところによると紳士的な一面を持っているらしいので、きっと彼女が傷つかないように断ってくれるはずです。「もう一度聞きます。好きなんですか?」「……あぁ、好きだ」 その時、扉が開きました。扉をあけた人物と義武君の目が合います。「好きだ!」「先輩、待って下さい!」「おそらく私が生きてきた人生の中で一番好きだ! きっとこ……恋をしている」「…………(だっ)」 彼女の告白を聞き、走り去る謎の人物。その人物とは……「りんごっ!」 そう、義武君の彼女、紺野りんごちゃんでした。 義武君が必死に呼び止め、廊下に出たが彼女の姿は見当たらず。 これは確実に誤解されています。りんごちゃん、きっと義武君が恵理さんに告白されたと思ったに違いありません。「どうかしたのか?」「いえ……とりあえず、告白しちゃってください」 まぁ、大丈夫だろう。あとで誤解をといておくか、なんて義武君は思っていました。「そ……それで、ここここ……告白とはどうしたらいいんだ?」「たいしたことはありません。好きです! と言ったらいいんですよ」 その「好きです」をりんごちゃんに言うために義武君は一度死にそうな目にあっているというのはまた別の話です。「それができたら苦労はない」「なら、ラブレターを書くとかは?」「私の字はかわいくないんだ」 証拠にと恵理さんは自分の名前を、メモ帳に書きます。 とても綺麗な字でした。 まるで、パソコンで打ちだしたみたいに。「こんな字じゃ、さすがに恥ずかしいだろ」「……なら、最後の手段として、滝口先輩から告白されましょう」 そういい、義武君は携帯電話を取り出します。 それから、義武君と、義武君の知り合いによる恵理プロデュースが始まりました。 そして、次の日。「これが……私なのか?」 そこには生まれ変わった恵理さんがいました。 まっすぐにセンターでわかれて三つ網だった髪が、今では左右でロールされており、眼鏡もコンタクトレンズになって、化粧も薄くしています。それに、スカートのたけが三センチ短くなっています。「よし、完璧な絶対領域。こいつはそそるわ」 危ない台詞を言う義武君の知り合い――黒居桃さん(♀)により、恵理さんはお堅い委員長から、どこにでもいそうだけれども、その“どこでも”というのがテレビや雑誌の中だけじゃないのかなぁ? という可愛い女子高生に生まれ変わりました。 はっきりいって、恵理さんの面影がないです。「じゃあ、行きましょうか」「ま……まて、さすがにこのスカートのたけは短いだろ」「それがいいんだよ! 完璧だよ! 大丈夫、ぎりぎり見えない! そこがいいよそそられるよ!」 桃さん、かなりあぶないです。 「あの滝口とかいう男は中庭にいたよ」「よし、行きますか」「あ……あぁ」 大丈夫です、ここまでくれば、かならず滝口君は声をかけるでしょうね。恵理さんだと気付かずに。恵理さんだと気付いた時の反応も楽しみです。 そして、中庭に、滝口君がいました。りんごちゃんと一緒に。「な……なんでりんごが」「た……滝口くんが他の女の子と」 それぞれ開いた口がふさがりません。 ☆ 一時間前。 今朝、義武君は恵理さんをプロデュースするため朝早く登校し、りんごちゃんは仕方なく一人で登校しました。 その間、いろんなことを考えていました。どうして義武君は一人で登校したのだろうか? そんなことを考えて学校に行くと、そこには見知らぬ美人と義武君がなにやら話していました。桃さんもいましたが、親父性格なので目に入っていないみたいです。 それでどうしようかと落ち込んでいたら、「大丈夫? 泣いてるのかい?」 さわやか青年の皮をかぶった滝口君に声をかけられました。 そして事情をついつい話してしまったりんごちゃん。よっぽど困っていたんでしょうね。「なるほど、それはその男が悪い」 一通り事情を聞いた滝口くんはそう言いました。「きっと、その男は浮気魔だ。最低の男だ」「そ……そんな……よっしーは」 よっしーとは、義武君のニックネームです。よしたけだからよっしー。凄く単純ですね。「浮気に違いないよ。だって、二日連続君に内緒で美人にあってたんだろ。なら最低の男に違いない。史上最悪な浮気魔だ」「そ……そんなことはないよ。よっしーは私のことを好きだって言ってくれたし、よっしーは浮気なんてする人じゃないから! だって、よっしーは、私が世界一好きになったよっしーだから」 それを聞いた滝口君は、満足そうに頷きます。「わかってるんじゃん。なら、本人に事情を聴くことを優先しなよ」 その時、「りんごっ!」 義武君が走ってきました。「来いっ!」 義武君はりんごちゃんの手を握ると、走り去って行きました。「ちょっと、近藤くん! 陰から見てるって言ったじゃ……あ」 つられて出てきたのは恵理さんです。「君が近藤義武君と一緒にいたっていう……って、あれ? もしかして委員長?」「あ……ああ」 生まれ変わった恵理さんをすぐに見抜くとは、さすがは遊び人です。「に……似合わないなら似合わないと言え」「あぁ、似合わないな」「どよーん」 恵理さんが落ち込みます。口でどよーんと言うくらいに落ち込みます。まぁ、好きだった男のために一生懸命おめかしして、それを似合わないといわれたらショックでしょう。「だって、委員長らしくないだろ?」「そうか、似合わないか」「委員長はそういう派手な服とか嫌いだろう。今時めずらしく、だれも守っていない真面目に校則を守ろうとしていて、だけれどもちょっぴりおしゃれをしたいから校則ぎりぎりの三つ網を時間をかけて結っているのが俺の好きな委員長だしな」「な……」「それに残念だ。それだけおしゃれをしているってことは、恋とかしたんだろ? 俺、委員長のこと少し狙ってたんだけれども」「…………」 その瞬間、恵理さんはとうとう倒れてしまいました。「ま、予定通りだな」 その二人の光景を眺めているのは、義武君とりんごちゃんの二人です。誤解もとけてちょっぴり仲良し。「あれでいいの?」「気絶したら、滝口先輩は絶対に介抱するからな。あとは、そのお礼にと、あれこれサービスして仲良くしたらいいんだよ」「そっか」 倒れた恵理さんをベンチに運ぶ滝口くん。 とても恋人同士には見えませんが、どことなく恵理さんの顔が幸せそうに見えました。「ねぇ、よっしー。ごめんね」「……なんのことだ?」「よっしーのこと疑って」「……信じてくれてありがとうな」 義武君、きっちり二人の会話を聞いていたみたいですね。りんごちゃんは、自分が言った恥ずかしいセリフを思い出し、本当のりんごのように顔を真っ赤にさせていました。 めでたし、めでたし
時計の針が夜の11時半を告げる。傍らに置いたサックスのケースをちらりと見やり、私は溜息をついた。「・・・ばか」今日は、上手く行かない日だった。特に何が大きく変わったとか、大事件があったと言うわけではないけれど、小さな、本当に小さな所で一々転んでしまう日だった。カチカチと時を刻む音に乗せて、体に溜まった毒を吐き出すように言葉を放る。「・・・明美のばーか」今日の朝会での吹奏楽部の発表、黒いソックスで来てもいいって言ったくせに。音楽室に集合したら、私以外は全員白いソックスだった。連絡ミスを謝ってはくれたものの、常識で考えれば白でしょ、とも言わんばかりだった明美の態度が頭から離れない。先生に怒られて、腹が立ってそのまま。いつも一緒に帰っていた明美とは目も合わさずに一人で持ち帰ってしまった、黒いお気に入りのサックスケース。もう一度ちらりと見やり、そして目を閉じる。「・・・晴香のばーか」昼休みの話で、私ばっかり馬鹿にして。小顔で色白で華奢な晴香は、当然男子からとてもおモテになる。一時期はうんと年上の、社会人のお兄さんと付き合っていたという噂もあるくらいだ。キスはしたの、セックスしたの―――なんて、その手の話題に敏感な女の子達が質問攻めにしてたっけ。まだ男の子と付き合ったことも無い私のことを「純粋乙女」なんていって鼻で笑った。私と同じまだ中学二年生の癖に、「私は大人の恋愛ってものを知ってるのよ」とでも言いたげな表情が、今も目に焼きついている。大嫌い。「・・・雅のばーか」好きだった。ほんとに好きだった。いつも寝る前は雅のこと思い出してたし、授業中だってずっと見てた。貴方が「髪が長い女の子は可愛い」って言うから、ずっとロングヘアでいたのにさ。晴香が、好きだ―――なんて。雅だけは他の男子と違うと思ってたんだけどなぁ。見る目ないなぁ。そりゃ、晴香は私よりも断然可愛いけどさ。腹の中なんて真っ黒なんだよ?魔性の女、なんて噂もあるくらいだしさ。そんなのに騙されて、ばかじゃないの。「・・・ばーか」みんな、ばーか。ばーか。ばか。ばかばかばかばか。「・・・大嫌い」雅も。晴香も。明美も。「大嫌い!」でも、本当は。「嫌いっ・・・!」本当に、嫌いなのは。時計の針が、午前0時を告げる。私は立ち上がって、ベッドに向かった。部屋の電灯を消すと、窓からかすかに月明かりが零れる。大きく深呼吸をして、ベッドに倒れこむ。さよなら、昨日の私。「・・・今日は良いこと、あるといいな」+++いまいち何が言いたいのか分からない・・・。10分ほど遅刻しました。
恵子とふたりで夕飯を食べ、風呂にも入り、ソファに凭れながらテレビをつけると、友人から借りっぱなしになっている文庫本をひらき、ぼうっと眺めながら考える。カレイの煮つけはうまかった。魚を口にするのがそもそもひさしぶりだったし、ぶりぶりとした身に、濃いめの、甘すぎない煮汁が滲みていた。白身の魚はぜんたいに好物だが、きょうのはほんとうにうまかった。 テレビが載ったラックの脇におかれた時計が十時間近を指し示し、テレビからは気の抜けたサックスがメインのニュース番組のテーマが流れ出す。「ちょっと」 と恵子が声をかけ「テレビみるか、本読むかどっちかにしなさいよ」「ああ、ごめん」「ほんとにもう。なに考えてたらそうなるのさ」「いや、カレイの煮つけ、うまかったなあって」 いぶかしげな顔つきをみせると、恵子は人を小ばかにしたようなため息をついて「はいはい。おじょうず」 といった。「いやあ……お世辞じゃなくて……」「料理もろくにできないのにねえ」「ははは。おはずかしい」 いいながら、ソファの右隣に腰を下ろす。「さしすせそ、って、あるでしょう?」「なにが? あかさたな?」「……料理の」「ああ、あるね」 またひとつ、あわれむような、さげすむような声と眼で、恵子はいう。「いってみてよ。さ、し、す、せ、そ」「さ、は、砂糖」「それから」「し、は……し……塩」「そうね」「す、は、酢。お酢。それから、せ……」「せ、は?」「なんだっけ。せ、せ。わかんないな……。そ、は……」 いいよどんで、恵子の顔をみた。じいっとこちらをみて、口の端がうっすらと笑っている。「そ、は?」と特別ゆっくり、恵子はいった。「……わかんないなあ。おしえてよ」「ソックスを脱ぎっぱなしにしない」 ごめん、という間もなく、恵子はこちらの顔面に、洗濯機に入れそびれていた靴下をおしつけてくる。汗と、ほこりと、とにかくなにかきつい体臭やらなにやらが、すばやく鼻の奥に吸い込まれてしまい、頭がくらくらする。 かたちばかりはもがいてみるが、恵子はいやにがっちりこちらを押さえ込んできて、うまくにげられない。腹のまんなかの、おもたい部分がぐるぐると鳴って、横隔膜かなにかが跳ねあがるのがわかった。口のなかにはひどく唾液が溜まる。「せ、は? わかった? ねえ」 靴下をおしつけたまま、すこし弾みかけた呼吸で、恵子がいう。 わかんない、といおうとすると、ひらいた唇に臭いがとびこんできて、あわてて首をふる。「わからない?」 たしかめるように、恵子はなんどかくりかえした。わからない、というたび、右足の指先を、恵子はぐりぐりと踏みつけた。「ほんとうにわかんないんだ。ばかね」 押しつけられていた靴下が取り除けられて、おおきく息を吸って、顔をごしごしと袖でこすった。 その様子をみながら恵子は「せ、は……?」とまたきく。こころなしか、眼がおおきくみひらかれている気がする。「せ、は……」 うん。とため息のように恵子がいう。 うん。という恵子の、左耳のあたりに、特別にほそい髪の毛が一本、ふわふわと浮いている。 右手をそこへ持っていき、それを指にまきつけて「せっくす、かな」 力まかせに、ひっぱった。
サックス、ソックス、セックス。の、リズムにのって一歩、二歩、三歩。わたしは路地を飛び跳ねるようにして歩く。サックス、ソックス、セックス。ぶつぶつと呟きながら、右足を出し、左足を出し、また右足を出した。ひどく薄暗い通りだった。空にまで届くような高い高い塀ばかり続いて、他にはなにもなかった。どうしてこのような場所を歩いているのか、それは分からなかった。 足音がやけに響く。暗がりが霧のようにたちこめている。あの塀の向こうにはなにがあるのだろう。考えてもわからなかった。獣が低く唸るような、工場の稼働音のような、ある決まった周波数の音が轟き続けて飽和していた。 サックス、ソックス、セックス。わたしは歩く。歩き続ける。右足を出す。左足を出す。そのたびに、視界の底になにかがちらつくのだった。下を見た。それは脚だった。太ももの付け根までが剥き出しになって、それは脚だった。それまでそうとは気付かなかったが、わたしは全裸だったのだ。ただ紺色の靴下と真っ赤なナイキのスニーカーだけを身につけていた。他はなにひとつつけていなかった。歩くと脚の筋肉の機微がよく見て取れた。陰影のコンストラストの移り変わりが美しいと思えた。裸の脚がこんなに露骨に性的だとは、いままでずっと知らなかった。持ち主であるわたし自身を誘惑するほど、その脚は魅力的であった。 ずっと裸でいられたらいいのに。そう思った。恥ずかしくなんてない。どうせ、みんな脚しか見ないさ。この薄い乳房も、濃い陰毛も、地味な顔立ちも、なにもかもが意識の隅に追いやられて、わたしの実在は脚だけとなることだろう。美しいものは醜いものを駆逐する。そうして二本の脚は人々に監視され、より美しくあるよう気を張り詰めて演技している。上半身であるわたしはそれを眺めながら、ずっとへらへら笑っていればいい。乳房も、陰毛も、顔立ちも、みんなにへらと表情崩して、呆けたような輪郭線で宙を漂っていればいい。それでいいのだ。それでいいのだ……。 サックス、ソックス、セックス。取り憑かれたように、わたしはひたすら呟いている。同じリズムで足音が響く。 ふいに行き止まって、袋小路にでた。向かって正面にただひとつ、小さな扉があった。いや、別にちいさくはなかったのだ。しかし塀の途方もない巨大さと比べて、それはあまりにもちっぽけに見えた。 わたしはドアノブを握った。右に左にぐるぐると回してみる。鍵はかかっていないようだった。数瞬だけ逡巡して、思い切って開けてみた。扉の向こうは一枚の鏡だった。よく磨き上げられた、綺麗な鏡だった。そこにはマネキンが映っていた。無表情でこちらを見ていた。薄い乳房、濃い陰毛、地味な顔立ちがのっぺりとして不気味だった。 マネキンは本来脚のある部分がもぎとられていた。そこから生身の脚が生えていた。とても形のいい脚だった。 にへら。と笑おうとして、うまくいかなかった。なんだか頬の辺りが硬直してしまったようだった。もう一度頬の筋肉に力を込める。しかし、やはり笑えないのだった。泣きそうになりながら、わたしは、何度も何度もくりかえし笑おうとした。そんなわたしの様子を、鏡に映るマネキンが虚ろな瞳で見ていた。