潮騒 ( No.1 ) |
- 日時: 2014/04/19 22:50
- 名前: 昼野 ID:YmMRowDE
海の音、聞こえないですね 窓の外に広がる、あまり綺麗とは言い難い、灰色に濁った海を眺めてTが言った。Tは躁鬱病だった。一年ほど前に包丁で手首を切ろうとした所を、所長が止めた。それ以外にも何度も自殺未遂の経験があるらしい。暴風に荒れる日本海に飛び込んだなど。 ホテルの浴衣に着替えて、袖や裾からすーすー冷たい空気が入るのを不快に思いながら、そうですね、と僕は窓の外を見ながら答えた。 Yは窓辺にある籐椅子に座って無言で煙草をふかしている。Yは無口な男だが、話しかけてみると意外にも温かい言葉を返してくる、というような人だった。 僕たちは精神病者で、伊豆に旅行に来ている。僕たちは精神病者が通う作業所の人間だった。今回の旅行は、何かと活発に仕事をするTが幹事をしていた。Tは何度も自殺未遂をしたという事だが、普段はそんな素振りを見せず、明るくてパワフルな人間だった。 七階に展望台があるみたいですよ。行ってみません? Tが部屋の壁に貼ってある案内図を見ながら言った。 行きましょう。 暇をもてあましていた僕はそう言って、読んでいる本を閉じた。 Yは無言で煙草を灰皿におしつけ、籐椅子から立ち上がった。 部屋を出て廊下を歩き、エレベーターに乗る。七階で降りて、すぐ前にあるスチールの扉を開けた。瞬間、海が轟いている音が広がった。外はすでに闇夜に閉ざされている。海は真っ黒くて、まるで僕の心の悪い感情のようにうねり、轟きの音をゴウゴウ響かせている。 海の音、聞こえますね。 僕はそう呟くと、Tはうんと頷いた。
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