三毛猫
 ぼくが本格的に殴られたのは、小学三年生のときだ。左の耳をげんこで思いっきりぶん殴られて、畳の向こう側に吹っ飛んでいった。泣くこともできなかった。皮膚の表面がじんじんして、脳みそはひっくり返ったみたいにがんがんと響いた。もぉーんという、少し低いうなりが左耳の奥で鳴り始め、それが収まる頃には、左耳から音が聴こえなくなった。

 殴ってきたのは、その頃母親と一緒になっていた男だ。週に四日から五日、ぼくらの住んでいる団地にやってきて、酒を飲み、酔っ払うとたいてい横になって寝てしまうのだけど、ときたまぼくに暴力を振るった。もしぼくに兄弟があったら、どうなっていただろう?あいつに刃向かえないにしても、入れ違いに逃げ回って、少しは殴られるのをかわせたかもしれない。それを思うとくやしかった。

 あいつは、いつも母親がその場にいないときに殴るのだ。トイレに立ったときとか、台所で洗い物をしているとき。ちょっとビールを買いに行って来るわ、という言葉が恐怖の始まりになる。二間のせまい団地だから、ぼくには自分の部屋なんてない。ぼくは一生懸命テレビに熱中するふりをする。あいつが酒臭い熱い息を大きく吐き出す。起き上がってきませんように、テーブル代わりにしているコタツの台の下で、手をぎゅっと握って祈る。どうかこのまま、起き上がってきませんように。

 五年生のときに最初の家出みたいなことをした。おかねを持っていないので、「みたいなこと」しかできなかったけど。学校から帰ると、ランドセルを置いて、北を目指してずっと歩いていった。大きな墓地が広がっていて、そのなかに大昔の人間が葬られたあとだと言う石棺があった。その頃は誰でもそこに入り込むことができた。冷たい、灰色の岩の上に座っていると、これからぼくの身の上に起こりそうなことを、ゆっくり考えることができたんだ。こんどは何か食べるものを持って来よう、クラッカーとか、チョコレート。遠くでカラスの鳴く声が聞こえてくる。ときたま、風が吹いて、枯れかけている周りの木立を通り抜ける。

 秋や冬は、いい季節だ。部屋に石油ストーブがあって、あいつが暴れるのを母親が止めてくれるから。コタツに入ってあったまっていると、あいつも面倒くさいのか、何もしないことがほとんどで、ぼくは母親とテレビを見て、同じところで一緒に笑うこともできた。

 最悪なのは夏だ。ぼくはいつもプールの時間を休んだ。おなかが痛いんです、水に入るとすぐ下痢してしまうんです、先生にそう言った。本当は、お灸のあとを見られたくないからだった。あいつが、「お灸をすえる」と言ってぼくの背中にタバコの火を押し付ける。母親はぼくにタオルをくわえさせ、ぼくの両手をしっかり握ってぼくの顔をじっと見ている。どうしてお灸をすえられるのか、ぼくにはわからなかった。母親が「ごめんなさいは?」と、まるで幼児に向かって諭すように言う。ぼくはいつも黙っている。じっと壁のしみを見る。口の中はからからだ。そして、熱いものが背中の皮にゆっくり近づいてくるのがわかる。小さな、じゅっという音がして、一気に熱が背中からやってくる。頭の皮膚全部から脂汗がどっと出て、そのあと急にさむけに支配される。その瞬間がきたら、ぼくは目をつぶらずにはいられない。涙がこぼれ、脳の中心がきんきん鳴る。ぼくはずっとうなる。我慢なんてできない。終わると、ぼくはそのままぐったりしてしまう。隣の部屋で、あいつと母親が戯れあうのが聞こえてくる。テレビのコマーシャルが、なんにも知らないように、無邪気な音楽を垂れ流す。

 この子は泳ぐのがいやだ、と先生は思い込んだらしかった。女の先生で、黒縁のめがねをかけていた。中腰でぼくのほうを覗き込んで、ずっとプールを休むわけにはいかない、と言った。水着は持ってきてるでしょ。体操服を脱がそうとしたから、身をよじったら、腰の後ろの辺りが少し見えてしまった。とたんに先生の手がひっこみ、呆けたような顔になって、そのまましばらく時間が止まってしまった。まあ、いいわ。からだの調子は、わからないものだから。こうしてぼくは、午後の保健室でひとりになれた。

 夏の週末は、ずっとせみの声と過ごすしかなかった。日が暮れるまで公園でブランコに乗るぐらいしかやることがなかった。男の子のほとんどは、ぱりっとしたユニフォームを着て朝から少年野球だし、女の子は自転車や一輪車で走り回っていた。ぼくはブランコに乗った。団地の部屋はふたつとも占領されていて、おなかがすいて戻るとものすごい剣幕で怒鳴りつけられた。お昼代をください、それだけは譲れないぼくの権利だと思った。投げるように渡される硬貨の数枚をつかんだまま、ぼくは団地の階段を逃げるように降りていき、そういう日の夜はたいていお灸をやられた。
 
 その小さな公園の横には池があって、ちょろちょろとしか流れない小川が、遊歩道の下をくぐって池に注いでいる。小さな橋のようなもので、その下はコンクリで固めた中に、大き目の石をところどころ人工的に置いて、少し水がたまるようになっている。みいたはそこで見つけた三毛猫だ。しっぽがなく、お団子みたいにお尻のところで盛り上がってて、ときたまぴょこぴょこ動くのがかわいらしかった。まだ子猫で、小さな細い声で鳴くので、ぼくは橋の下へ降り、薄暗い中で鳴いている子猫を見たんだ。

 ぼくが近づくと、みいたはみい、と鳴きながら後ろへ逃げようとする。安心しなよ、何もしやしないよ。子猫にあわせて小さくささやいてみたら、よろよろした足取りで近づいてきた。小さな、けれども固い頭をなでてやると、すべすべしていて、耳の先が手のひらにあたるのが心地よかった。みいたと言う名前は、小池君がつけた。ぼくが見つけたあと、同じ団地の小池君に知らせにいったんだ。小池君は小さなお皿と牛乳を持ってきてくれた。そのあいだ、みいたは橋の下でじっとしていたから、ぼくらはうれしくて、二人でしゃがみこんで、牛乳の皿を舐めている子猫をじっと見ながら名前を考えて、しばらくここで飼おう、と決まった。

 次の日、岡本さんもやってきた。小池君がクラスで話したらしい。岡本さんって、髪型を男みたいに短くしていて、何かと世話を焼きたがる女の子だ。次の時間の教科書とかを、ぼくのランドセルからさっさと取り出して準備させたりする。ぼくがじっと見ていると、くりっとしたいたずらっぽい目でぼくのほうを振り返って、にやっと笑う子だ。みいたって、鳴き声で名前付けたの、と言って、彼女は子猫をゆっくり抱きかかえる。いやだあ、目やにがあるう、彼女はポケットからティッシュを出して、先をこよりにして目やにをふき取り始めた。みいたは抗議の声を出し、いやがっていたけど、岡本さんは根気よく目やにをふき取っていた。はじめて、ぼくには仲間ができた気がした。みいたを見つけたおかげで。

 夏休みが終わった。ようやく終わった。みいたは相変わらず橋の下に姿を見せた。小池君が猫缶を買って来て、岡本さんはノミ取りの首輪をつけた。ピンクのやつだった。ぼくもお昼代をちょっとためて、猫缶を買ったりした。みいたはねこじゃらしが好きだった。岡本さんがねこじゃらしを目の前に差し出して小気味よく振ると、前足でパンチを出したり、両の手で拝み取るようにして、前へつんのめって、きまり悪そうな顔になる。そんなみいたを見て、三人で笑った。橋の下に反響する笑い声が面白かった。楽しそうな岡本さんの横顔が好きになった。
 
 ホームルームで、公園で猫にえさをやっている人がいます、と先生がみんなに言った。公園でえさを与えてはいけません、市の条例で決まっているのだから。小池君がぼくのほうを少しだけ見た。ぼくはじっと黒板を見つめた。放課後、岡本さんが、誰かに見つかったみたいだ、と言ってきた。学級通信のプリントにも書いてあるから、もう猫缶買えないな、と小池君は言った。ぼくはずっと黙っていた。みいたを見殺しにできるわけがなかった。

 九月の朝、時計は五時をまださしていなかった。昨夜男は姿を見せなかったから、今日やるしかなかった。そっと布団を抜け出して、少しだけ窓を開けてみると、冷たい空気と、すずめのさえずりが入ってきた。置いてある場所はわかっている。母親の枕元だ。茶色の革の財布だ。隣の部屋に這っていって、音がしないように、ゆっくりゆっくり、ふすまを開けていく。心臓が踊り狂う。派手なスパンコールの、すりきれかけたバッグの口が見えた。引き摺らないように注意しながら引き寄せて、財布を取り出し、中のお札だけを抜き取ると元に戻した。母親はスリップ1枚で、背中を丸めて寝息を立てていた。 

 リュックサックに予備の下着と、ジーパンを一本、タオルをつめた。懐中電灯がほしかったが、隣の部屋なのであきらめた。トレーナーを着て、階段を降りた。昨日目をつけておいたダンボールの空き箱を、二つ下の階の玄関先からくすねて、小脇に抱え、公園の橋の下まで歩いた。みいたの名を呼ぶと、十分ほどしたら鳴きながら寄ってきた。タオルを空き箱に広げて、みいたをそこに入れると、きょとんとした顔でひざを折り曲げて収まってくれた。

 通りに出ると、駅前のほうへ向かって歩いた。箱を揺らさないように、注意しなければならなかった。ときたまトラックが後ろからやってきて、通り抜けざまにほこりを巻き上げていく。そんなとき、みいたはこれまでとは違う、弱々しい声で鳴いては、こちらをじっと見つめるのだった。大丈夫だよ、新しいうちへ行こう、なるべく静かで、海の近くがいいよな、そしたら魚が食べられるかもしれないよ、ぼくも魚釣りをやってみるからな、道具だって立派なものが買えるんだ、おかねがあるんだから、好きなところへ行けるんだ。

 向かい側からタクシーがやってきた。まだ車道はすいていたから、ぼくが片手を振り回して合図すると、少し先で止まってくれた。後ろのドアが開いて、乗り込もうとするとシート越しにぼくのほうをじろっと見て、
「いくつ、あんた。」と聞いてきた。
「十五才。」
「よく言う、勘弁してよ、それになに、その箱。捨て猫か。」
「ちがいます、ぼくが飼ってた。病気なんです。」
「こんな時間に?学校は?どこ。」
「ぼく、急いでるんです、お願いします。」
「じゃあ交番まで行くか。本当のこと言いな。」
 ドアが開いたままだったので、ぼくは急いで車から降りると、みいたの箱を抱え込むようにして、走って、公園の入り口まで戻った。タクシーは追ってこず、そのまま行ってしまい、ぼくは作戦をなんにも立ててないことを思い知った。みいたはごそごそ動き回り、箱から出たがっていた。

 公園のベンチに座り、抱えていた箱を横に置くと、ぼくはリュックからノートと鉛筆を取り出した。岡本さんへ。ぼくはりょこうへ行きます。みいたをおねがいします、小池君も団地だから飼えません。えさ代に二千円おいていきます。
 さようなら、と書こうとして、泣きそうになった。岡本さんとは、ちゃんと話をしたことがなかった。いつもそばに他の誰かがいて、ぼくは岡本さんにほんとのことがずっと言えなかった。消えてほしくない、と思った。岡本さんも、ぼくも、みいたも。

 一時間ちかくかかって、ようやく岡本さんのうちの前に着いた。道路から階段があって、玄関までのあいだには、黄色やピンクの花が植えてあった。玄関前はレンガが敷き詰めてあって、ほこりもごみも落ちていず、岡本さんと同じように清潔な顔をしていた。みいたは箱から抜け出せないで、少しくたびれたようで、鳴き声も出さなかった。玄関の左脇に、そっとみいたの入った箱を置き、おかねをタオルの下に入れ、ノートの手紙のページを丁寧にちぎって、二つに折って入れると、ぼくは岡本さんの家から立ち去った。階段を降りて、道路に出たら少しずつ早足になって、それから駅につくまで、ずっとみいたと岡本さんのことを考えた。

 ぼくは今電車に揺られているところだ、海が見えるところまで行くつもりだ。もう冷たいかもしれないけど、誰もいない海岸を探し当てたら、服を脱いで泳いでみようと思う。きっと海の水は冷たいだろう。波は高くなってて、ぼくの頭を沈めようとするだろう、息をつけないように、鼻や口の中に塩辛い海水を送りこんで来るだろう。なにかが一緒に流れ出すだろうか。ぼくの中にたまっていた、ぼくにもよくわからないなにかが。ためしてみよう。ためしてやろう。ぼくは浮かぶだろう、最後には浮かび上がるだろう。そのとき太陽が、ぼくのからだときもちに、いっぺんに差し込んであたためてくれるだろう。

 電車の窓から、朝日がまぶしくぼくのほほを照らしてきた。目を細めながら、ぼくは、波がテトラポットに打ちつけられるさまを見ていた。
 
久佐之 貼留
2016年07月27日(水) 02時45分15秒 公開
■この作品の著作権は久佐之 貼留さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
まともに結末までかけた二作目です。
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No.3  こむ  評価:40点  ■2016-09-03 19:26  ID:n5pPeg9O82.
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拝読しました。
少年の孤独とか戸惑いとかそういうものがよく表現されていると思いました。結構な力作だと思いました、作品全体をとおして気を抜いているところがあまりないというか。
おもしろかったです。ありがとうございました。
No.2  久佐之 貼留  評価:--点  ■2016-07-31 20:12  ID:slaAr7/x2nc
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時雨ノ宮 蜉蝣丸さま
なんとももったいないお言葉の数々、感激です。そして、ぼくが作品にこめた思いも読み取ってくださって、とてもうれしく思います。
実は、これに約六千字を書き足した第二稿を本日書き上げたのですが、まだ一週間たっていないので、お見せできません。
そこには、明記していないラスト(これ自体はほぼ変わりません)へのもう少し突っ込んだ内容も書いているつもりです。それと、せっかく三毛猫という題名にしたので、もう少し猫ちゃんを出しました。
またよろしければ、読んでやってください。
現実の虐待は、もっと凄惨なものだと思います。もし、体験された方がこれを読めば、「こんな甘っちょろいもんじゃねぇよ」お怒りになるかもしれません。そういう意味では、まだまだ冷徹さに徹し切れていない部分もあります。
ただ、出来るだけ平易な言葉だけを使って、中学生でも読めるものを、と自分に課しているので、その辺突っ込みきれないジレンマも感じています。
修行が足りませんね。。。

お褒めのお言葉の数々、本当に励みになります。重ねて御礼いたします。
No.1  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:40点  ■2016-07-30 04:12  ID:eFOY3cHRZZU
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こんばんは。

読み終えて、なんだか涙が出そうになりました。
冒頭から薄幸の匂いが漂って、読み進めていくにつれて『嫌な予感』が確定的になる。内臓をキリキリと締めつける緊張感、ああ駄目だよ、そんなんじゃ悪いことしか起きない。
色とりどりのジュースが注がれたグラスは、実はすべて苦い毒であるのに、彼は飲むのをやめない。
読者である自分には、危険を伝える術がない。結果が推測できるのに、傍観しかできないことの無力さが痛いくらい。

冷徹に、感情を押し潰すように淡々と続く語り口が、却って悲壮感を煽り立てていますね。場面が変わるごとに、氷片を飲まされるような悪寒が走ります。
ラスト、彼は海へ向かいますが、『どうなってしまうことを望んでいるのか』は明記されていません。安直に自殺か、と思う一方で、『死にたいとは言ってない』事実がちらつく。底知れぬ不安感と希望的観測、相反する感情が、読者を空想に縛りつけます。
『最後には浮かび上がるだろう。〜あたためてくれるだろう』。この文の意味は、死による浄化か。生への活力か。わかりませんね。言わぬが花。

まとまらないことを長々書いちゃってすみません。凄くよかったと思います。
ありがとうございました。
総レス数 3  合計 80

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