花弁
 襖を開けると、小さな背中が文机に向かっていた。
「あ、日美ひみ
 滑らかな黒蜜色の髪に、ぱっちり開いた黒い目。生まれつきの病弱さ故に、窓からの陽を浴びて尚、白くか細い体。
 そんな中、わたくしの名を呼ぶ唇ばかりが赤く、大人びている。
「お嬢様。寝ていなくてはいけませんよ」
「だって退屈なんだもの」
 鈴の転がるような声で、部屋の主はうそぶいた。
 彼女は、わたくしが住み込みで働かせていただいている家の、長女である。年は五つ。
「お昼前にお医者様から言われましたでしょう」
「退屈なのよぅ、日美」
 文机に肘をついて――普段からいけませんと口を酸っぱくしているが一向に直らないお嬢様の癖――先ほどまで熱心にいじっていたものを、細い指で掲げて見せてくる。
 赤い市松模様の、折り鶴だった。
「この前、父様から千代紙をいただいたの。布団の上ででも、退屈しないように、って」
 お嬢様は、小鳥が囀るように、こくりこくり頷きながら喋った。奥様――つまりお嬢様の母上も、ほとんど同じような素振りで喋る人だった。
 さも楽しげに。
 ……やはり親子、ということだろうか。
「お嬢様は、折り紙がお好きで?」
「ええ、好きよ。お手玉も、あやとりも好きだけれど」
 日美も何か折って頂戴。言われて、わたくしは少し困ってしまった。
「……申し訳ありませんが、お嬢様……」
 幼少より、工作の類がてんで駄目な質だった。特に折り紙のような、平面でないものは、上手くできた試しがない。三つ離れた実の兄は、反対にそういうものが得意で、わたくしにもよく紙飛行機なんかを見せてくれたりしたが、何度教わってもわたくしの作品は兄のように綺麗な形にはならなかった。
「日美、折り紙嫌いなの」
「嫌いではありませんが、上手くできないのです……」
「じゃあ、わたしと一緒に折りましょう」言うなり、お嬢様は机の抽斗ひきだしから黄色い格子柄の千代紙を一枚、わたくしに手渡した。
「ですがお嬢様」
「ね、お願い。これが上手くできたら、大人しく布団に入るから」
 そう言われては、断れない。せっかく旦那様が、お嬢様にお贈りになった綺麗な紙を、くしゃくしゃにしてしまう(かもしれない)ことに、罪悪感を抱かなかったわけではないが、普段頑ななお嬢様がこれで妥協してくださるならと、応じることにした。
「ありがとう、日美」
 最初はね、と幼い声が説明を始める。
 わたくしは終始黙って、その指導のとおりに紙を折ったり起こしたりしていた。
 しばらくして、できあがった鶴は、少なくともわたくしの記憶にある紙工作では一番出来のよいものだった。
 お嬢様が目をきらきらさせて、わたくしの手元を覗き込む。
「あら、素敵じゃない。日美」
「お嬢様のおかげです」
 不器用さを呪っていた昔の自分に見せてやりたい。
 嬉しさと、ほんの少しの恥ずかしさを感じながら、わたくしはそう返した。
「さぁ、お布団に入ってくださいな。お嬢様」
「はぁい。つまんなぁい」
 クスクス笑うお嬢様は、生前の奥様にそっくりだった。
 お嬢様の布団を整え、折り鶴を抽斗に仕舞う。一つ挨拶をして、わたくしが部屋を出て行こうとした時、「日美、」と小さな声がした。
「はい。なんでしょう」
「ねぇ、日美。……気のせいだったら、ごめんね」
 傍らのわたくしを見つめて、お嬢様が言った。
 打って変わった、静かな声だった。
「わたし、もう駄目な気がするの」
 ――一瞬、景色が揺らいだ。
 駄目。何が、駄目?
「お嬢様。それ、は」
「わたしね、もうすぐお迎えが来るんじゃないかって、思っているの」
 お迎え。
 いつの頃も用いられてきた、『それ』を指す、言葉。
「あの空が、曇ってしまったら。あの雨が、やんでしまったら。あの花が皆、散ってしまったら」
 歌を口ずさむように、さくらんぼ色の唇が声を紡ぐ。
「息が苦しくなって、咳が出て。お医者様が来て、難しい顔をなさって」
 日常の些細なことがすべて、吉凶の占いであるかのように。
「お医者様が、お帰りになったあとに、」
 ――父様。
 ――なんだい。
 ――わたし、そんなに悪いのですか。

「……父様が、『大丈夫だ』って頭を撫でてくださるたびに、なぜだか心が痛くてたまらないのよ」

 ひどく怯えたお嬢様の言葉に、わたくしは過去の悲しみを思い出した。
 ――ねぇ、日美。
 ――なんでございましょうか。
 ――あたしがいなくなったら、あの人とこの子を、よろしくね。

「わたし、きっとまた、父様を不幸にしてしまうわ。
 ……母様と同じように」

 違います、と。
 考える前に、わたくしは喋っていた。
「確かに旦那様は、奥様を亡くされて、とても悲しまれておりました。昼も夜も無いような日々を、過ごしておられたりもしました。ですがそれは、決して、奥様と一緒だった日々を、憎んだり悔やんだりしていたからではありません。むしろ、奥様といたことが幸福であったからこそ、悲しみを感じることができたのです」
 奥様に声をかけられて、この家で働き出してから。
 一日たりとも、奥様と旦那様が、互いの不幸を願うことなど、ありはしなかった。
「お嬢様。勘違いしてはいけません」
 まるでそれは、
 暖かい春の日向にできる、影法師のような。

「大事なのは、どれだけの幸福を、ともに過ごせたか、です」

「――そうね」
 ふ、と。
 お嬢様が笑った。
「母様の分も、父様を幸せにしてあげなくては、ね」
 布団の隙間から、白い手が伸ばされる。指先がチョイチョイと動いて、わたくしに握るよう促した。
「日美」
「はい」
「その時まで、わたしを手伝ってくれる?」
 手を握る。今にも折れそうでいて、優しい柔らかさは、いつかの奥様のと同じだった。

「ええ、勿論です」

 風に揺れる花びらより、小さく。
 本当に小さく、お嬢様が睫毛を震わせた。
時雨ノ宮 蜉蝣丸
2016年04月25日(月) 22時34分49秒 公開
■この作品の著作権は時雨ノ宮 蜉蝣丸さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
時代背景は大正〜昭和初期。雰囲気を楽しんでいただければと思います。

前作の続編ではありますが、話としては一話完結しておりますので大丈夫かなぁと……。
もし駄目なようなら早急に対処します!

読んでくださった皆様に深く感謝致します。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2016-08-03 01:44  ID:3mSXxTMsmaU
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久佐之 貼留 様

コメント感謝致します。その節はどうもです。
会話やら展開やらへの指摘は、他の方からもいくつかいただいています。まったくその通りと思います。
原因として、俺が女性のみの画面を書くのが苦手なことと、書きながら突っ走ってしまったことがあります。後者、推敲しようとしたのですが、そうすると全部書き換えることになって、書きたいことが書けなくなってしまったのでやめました。
裏設定がいろいろ絡んでいるので、ちゃんと消化できなかったのもあるでしょうね……。

折り紙、フリーハンドじゃ俺も鶴くらいしか折れないです。見本とかがあればある程度……でも立体よりか、絵を描く方が好きですね。
いつも少し、詩的な雰囲気を重視して、言葉が頭に残るように意識してるので、褒めていただけてとても嬉しいです。
久佐之さんのような、怜悧な雰囲気は(書くに関しては)苦手です……。

ありがとうございました。
No.3  久佐之 貼留  評価:50点  ■2016-07-31 20:26  ID:slaAr7/x2nc
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大正ロマンを味わえました。
じつはぼくも折り紙が苦手です、というより、図形そのものが苦手です。その割りにキュビズムの作家が好きだったりします。
お嬢様が「わたしもう駄目…」と語りかける部分がありますが、女中に果たしてそれを本心で言うだろうか、それも幼い子供が…というあたりに少し疑問も感じます。
たとえば、父親と医者の会話を聞いてしまって、その意味を女中につたない言葉で問うていくさなかで、女中が感極まってしまう。。。といった展開ならうなずけるのですが、それか、女中(および読者)がぴんと来てしまうキーワードか動作が、お嬢様から発せられる。。。という形とか。
妄言多謝でございます。

美しく、余韻の残る文体、とてもよかったです。
No.2  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2016-05-07 13:09  ID:TKVWu.f99h6
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天祐 様

コメント感謝致します。初めまして。
雰囲気を楽しんでいただけてよかったです。前作を読んでから読むと、もう少し奥が出たのかなと思いました。
単品でも読めるよう、精進します。
今後もこのシリーズは書いていくつもりなので、その時はよろしくお願いします。

ありがとうございました。
No.1  天祐  評価:20点  ■2016-05-05 23:01  ID:ArCJcwqQYRQ
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拝読しました。

雰囲気を楽しむ文体ですね。
読んでいて心地好くはありますが、中身の薄さに肩透かしを食らった感が否めません。

やはりもっと長い尺でストーリーを作り込んでこそ活かされる語り口ではないかと思います。

全体的に伸び代を感じさせるお話でした。
次回作を楽しみにしております。
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