月曜日の夜に
 照度が絞られたダウンライトがバーカウンターの碧い大理石を照らしているせいで、天板はつややかになっている。達也が十二席あるカウンターの丸椅子に座ってから一時間が過ぎていた。その間、このバーを訪れた客は達也ひとりであった。月曜日の店は、いつもこんな感じだ。
 午後十時を過ぎたころ、出入口の木製扉が開いた。コツ、コツ、コツという、床の鳴る音が気にかかり、達也は反射的に出入口のほうへ目を向けた。 
 向かってくる女と視線が合った。くっきりとした二重瞼の長い髪の女は黒いパンプスを履いていて、カウンターに歩み寄ってくる。女は軽く会釈すると、口許をほころばせ、達也の席からひとつ空けて座った。
 キャメルカラーの髪は胸元まで伸びて、花柄のパンツにニットシャツのカジュアルな服装だった。以前会ったときの印象もそうだが、目鼻立ちのいい女だと、達也はあらためて思った。
 一ヶ月ほど前、達也は女と席が隣り合わせになった。しかしその日は団体客が入っていて、席は満杯だった。周囲のざわめきがひどく、女と満足に話す機会を失っていた。三年前に別れた陽子を思い出すほど声が似ていて、それがとても印象に残っていた。この店に陽子を連れてきたことを思い出したほどだ。
 マスターに頼んでおいたネグローニがカウンターに置かれた。
 赤みがかった褐色の色合いが気に入って、達也は好んでネグローニを飲むことが多い。ネグローニは、カンパリ、ベルモット、ドライ・ジンを合わせたカクテルで、ほんのりとした甘味があるのに苦味が尾を引くような味わいがある。
「きれいな色。何というカクテルですか?」
 さり気ない口調で、女は訊ねてきた。
「あぁ、これ。ネグローニですよ」
「私も頼んでみようかな」
 女はそう言って、同じものを注文した。
「以前、お会いしましたね」
 達也が尋ねると、女は白い歯をみせて微笑んだ。
「そうでしたね。たしか、前も月曜日だったような気がするわ。今日はとても静かですね」
「いや、普段の月曜日はいつもこんな感じですよ」
 女と話をしていると、不思議に陽子を思い出す。髪型も顔も似ているように思えないのに、言葉を交わすと陽子と話をしているような錯覚に陥ってしまう。なぜなのか、達也にはわからなかった。
「実は私、婚約したんです」
 女はそう言って、軽い吐息をつくと、ゆっくりとした動作で赤味のあるグラスを口に含んだ。
 女は十月に結婚式を挙げることが決まっている。婚約はしたけれど、式が近づくにつれて不安な気持ちが募っていくという。別れてしまった恋人のことを意識して仕方がないと。別れた理由を訊ねてみると、知らない女と歩いている姿を目撃して、激しく嫉妬してしまい問題を起こしたという。女はその夜、携帯電話で問いただし、意味もなく彼を罵った。恋人は知らない女といた理由を説明しようとしたが興奮のあまり耳に入らず、ただ、プライドを深く傷つけられたことが我慢できなくて、暴言を吐いた。たぶん、恋人を傷つけるような言葉を使ったと思う。
 その後、恋人から携帯電話に何度も着信履歴が入ったが、女は無視し続けた。そして時が過ぎてしまった。
「その頃、私、どうかしていたと思う……」
 女はそう言って、押し黙った。
 その話を聞いて、陽子とのやり取りにそっくりなことに驚いた。達也は、女の横顔をまじまじとみつめた。
「二度ほど、電話したことがありました。勇気を出して彼に会おうと思って。でも、携帯電話の番号が変っていて繋がらなかったの……」
 女は涙声で話し、赤色のグラスをみつめた。
 結婚の日が具体的に近づくにつれ、どうして、恋人の言い分を冷静に聞いてあげることが出来なかったのか、どうしてもっと早く、別れた恋人と逢おうとしなかったのか。とりとめもなく、そんなことを考えてしまって、今になって後悔している。と、女はつぶやくように言った。
 女の身の上話を聞いていて、薄れていた記憶が蘇ってくる。そうだ、あの日は確か、携帯電話から聞こえる陽子のヒステリックな口調に反応して、応戦するようにして暴言を吐いたのだ。忘れていた記憶が、鮮明なほど脳裏に浮かんでくる。
「元気そうで良かった」
 女は言った。
 達也は驚いて、女をみつめた。
 女は潤んだ瞳をみせて、じっと達也を見入った。一重瞼で目が細く愛嬌のある団子鼻ではなく、鼻筋の通った顔たち、二重瞼のくっきりとしたまなざしを向ける女の顔が目の前にあった。
 達也の脳裏に、三年前の陽子の面影が強く浮かびあがった。
「陽子……」
「元気でね……。もう、逢わないから」
 陽子は潤んだ声をあげると、背中をみせて立ち上がった。
 達也は陽子の後ろ姿を目で追いながら、勇気を奮い立たせて、一歩、踏みだそうと腰をあげた。
幸田
2014年03月13日(木) 18時21分47秒 公開
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