雨の音
1.静かに腐敗する

 電車に揺られること二時間余り。
 ようやく車窓から見える景色が変化する。疎らにしか見えなかった民家が密度を増し、大型店舗も見られるようになってゆく。生きている街の呼吸が感じられるかのよう。
 やっと山形市に入った。
 山形県は雪国として認められているが、夏の暑さの厳しさでも知られている。
 七月半ば。今日の予報によると真夏日と変わらない猛暑。そんな予報通り、まだ午前中だと言うのに鋭い日差しが車窓から差し込む。冷房によって涼しさが保たれているが、外は茹だるような暑さだ。
電車内に女性車掌の声が柔らかく響く。彼女のアナウンスによって終点が近いことが分かると、乗客たちは少しざわつき始める。その中には高校生と思しき集団も多く見られる。自前の移動手段を持たない者たちにとって、電車は欠かすことのできない手段。
 森宮直登(もりみやなおと)もそんな一人。身長一七○センチのほっそりした体つきの少年で、顔立ちは中性的なまでに整っている。喉の渇きを覚えたのか、直登はバッグから水滴の付いたペットボトルを二本取り出し、うち一本を対面の席に座る少女に手渡す。
 頬杖を突いて風景を眺めていた少女は、無言で受け取ると、両手を添えてペットボトルを傾ける。
 特異な容姿の少女だった。滑るような銀色の髪。太陽光を浴びたことのないような白色の肌。そして世界をまだ知らないような赤色の瞳。と言って外国人というわけではない。先天性色素欠乏症。別名アルビノと言う症例だ。
 少女はペットボトルの蓋を締めて一言漏らす。
「ぬるい」
 少女の音域はソプラノに属す。ビブラートが少なく、透明感がある声は柔らかくしなやか。可憐と言う他にない。
 直登は困ったように苦笑した。
 その目に優しげな光を湛えながら。
「仕方ないだろ。暑いんだから当然だよ」
 直登もペットボトルのお茶を一口すする。まろやかなお茶の甘さが直登の口の中で広がった。確かにぬるくなっていたが、直登はそれほど気にならなかった。
 少女――森宮雨音(もりみやあまね)は、いつも可愛げのない口調で直登に対する。そんな雨音に対して直登は幼い頃から変わらない優しさで接し続けるのだった。もし直登と雨音に血の繋がりが全くなかったとしたら、ここまで直登は優しくできなかったかもしれない。
 そう、二人は兄妹なのだ。二人は母を見舞いに行くために木佐木町(きさきちょう)から電車を乗り換えて山形市にある病院へ向かうところだった。
 電車が山形駅に着くと、ドアが開いて生温い風が吹き付けてきた。それだけで直登の体に汗が浮かぶ。流れるままに他の乗客たちに混じって二人も改札口を抜ける。雨音は黒のハンドバッグと白の日傘を手に、黙って兄についてゆく。
 コンクリートの床の上で多くの乗客が行き交う。
 周囲の視線が雨音に集まる。雨音がアルビノだからではない。シニヨンにまとめた長い銀髪。華奢な体の線が浮かび上がった白のブラウス。黒のフレアスカートからしなやかに伸びる足。その足には細さを強調するように黒のタイツ。そんな可愛らしい外見は、身長一五五センチという小柄な体と相まって、人目を引くほど儚げで美しい印象を持つ。男は焦がれ、女は憧れるのも仕方がないと言えるだろう。ただ雨音本人はそのことにたいして関心はなさそうだった。いつも面白くなさそうに仏頂面で日々を過ごす。
 バスに乗り換え、二人は病院へ向かった。そこでいつものように打ちのめされると分かっていながら。



 直登と雨音の母は心を病んで精神病院に入院している。雨音を出産した直後に入院させられたのだから、もう十数年になる。おそらく一生、病院から出ることはない。それは自分の子供たちを認識できない点から見ても明らかだ。
 直登を出産し、自宅に戻った母親はその直後、姿を消した。数ヶ月経った頃、国道を半裸の状態でぼんやりと一人で歩いているところを発見された。なにが彼女の身に起こったのか、一目瞭然だった。しかも彼女は妊娠していた。それが雨音だった。
 直登の父・誠二郎は雨音が自分の子どもでないことを理解した上で引き取ったと言う。その心情がどのようなものであったのか、本人にしか分からない。しかし誠二郎と雨音の間にはいつも冷ややかな空気が漂い、いまだに二人が打ち解けて会話すると言うことがない。
 雨音にとって頼ることのできる肉親は、異父兄である直登だけだった。それが分かっているだけに、直登は雨音の冷たい態度にも怒ることはない。
 見舞いはいつも不毛で、いくら水をまいても種が芽吹くことはなかった。母子の会話に心が通うことはない。一方的に母親がまくしたて、子供たちが曖昧に相槌を打つ。果たして、それを会話と言えるのかどうか。
 見舞いを終えた兄妹はバス停でバスを待つ。そんな時、雨音は日傘で顔を隠すように深く差す。一体どのような表情をしているのか、直登にはうかがい知れない。ただ時折、日傘が細かく震えていることに、直登は気付いていた。
 直登には雨音の手を握ってやることしかできなかった。雨音のひんやりした手の冷たさは、春雪のように儚く直登の心に溶けてゆくのだった。



 駅に戻った直登は雨音に付き添って駅ビルの五階にある本屋に寄った。そこで雨音は目当ての新刊を見つける。雨音お気に入りの小説のシリーズ最新刊だ。『我が身の剣と愛しき魔法』と言う。直登は何度も雨音に薦められているが、食指が何故か動かないこともあって、まだ読んでいない。
「それ、面白いのか?」
「面白いよ」
 と雨音は愛しげに本の表紙を指でなぞる。
「兄さんは女心が分からないから読んでみた方がいい」
「なんだよ、それ」
 直登は雨音の心の内が読めない時が多々ある。そんな時、直登には歯がゆい思いが残る。雨音の理解者は自分しかいないと言う自負が揺らぐ。
 それから兄妹は三階にある喫茶店で時間をつぶす。店内は手狭だが、柔らかい色調の内装と、温かな照明のおかげで居心地は悪くない。午後二時という中途半端な時間帯のせいか、店内には疎らにしか客がいない。
 近くの席で女の子たちがささやき合う。
「ねえ。あの子、モデルかな」
「綺麗だよね。アルビノって言うんだっけ?」
「一緒にいる男の子も可愛いよね。付き合ってるのかな」
「でもさ、服がちょっとね」
 直登は半袖の白いシャツにカーキ色のカーゴパンツと言うラフなスタイルだった。雨音と釣り合いが取れないのではないか、と直登は思わないこともない。しかし直登には母を見舞いに行く時に着飾る気にはなれなかった。母親には自分のいつもの格好を見てもらって少しでも分かって欲しい、と直登は思う。
 一方の雨音がなにを考えているのか直登には分からない。雨音は今、本屋で買ってきたファッション雑誌を眺めながら、いつもの仏頂面でコーヒーフロートに口を付けている。
 こつこつ、とタイル張りの床に足音が立った。
「こんにちは」
 と籠ったような声が兄妹に耳に入った。
 黒いパンツスーツに身を包んだ女性が立っていた。歳の頃は二○代半ば。おそらく兄妹より一○歳近く上だろう。肩甲骨のあたりで切り揃えられた長い髪は黒漆のように艶やかで、整った顔立ちと相まって、人形的な印象を醸し出している。銀朱のネクタイがやけに目立つ。女性からチョコレートの香りが漂ってくる。
 女性は美しい。
 しかし、その美しさは人を安心させる類ではない。太陽に隠れて闇を養分に咲く花があるとすれば、きっと女性のように暗く美しいに違いない。
 直登は戸惑った様子で挨拶を返す。
「こ、こんにちは……」
「座っていい?」
 と、女性は答えも待たずに直登の隣に座り、対面の雨音に暗い微笑を向ける。対する雨音は無言。ファッション雑誌から目を上げただけでも雨音としては立派な方だった。
「初めまして、森宮雨音さん。お母さんの様子はどうだった?」
 空気が凍り付く。
 くすくす、と女性は可笑しそうに笑う。直登と雨音の様子を楽しんでいるのがあからさまに分かる。
「貴方は誰ですか?」
 と直登は女性の正体を探る。
 雨音は冷たい目で女性を眺めている。しかし女性はそれで怯むということはないらしい。
「ごめんなさい、まだ名乗っていなかったわね」
 そう謝る女性の口調には全く悪びれた印象はなかった。
「私は相羽岬(あいばみさき)。郷土史の研究をしているの。最近は木佐木町のことを調べていてね」
「……」
 直登と雨音が住む木佐木町の郷土史に若い女性の気を引くようなものがあるのか。直登には疑問だった。相羽岬と名乗った女性は余りにも怪しい。大体、郷土史家と言うのは職業として成り立つのか?
 女性店員が岬に注文を聞きに来た。
 しかし岬は、
「すぐに失礼するから構わないでいいわ」
 と水だけを受け取って女性店員を追い返す。
 上半身を乗り出すように岬は対面に座る雨音に迫る。
「木佐木町の木佐木とは鬼咲という言葉が隠されていると言われている。昔から鬼の隠れ里として噂されていたの。そんな木佐木町には一つの言い伝えがある。鬼が白子の娘を産ませた時が里の終わりだとね。でも、その娘が鬼の子供を産めば、その子共が里を救ってくれるとも」
 岬は熱を吐き出すようにささやき、強い視線を込めて岬は雨音を見る。その雨音は青ざめた顔でいる。
 岬には不気味な迫力があった。暗がりに隠された忌まわしい記憶をみずから進んで掘り返すような印象があった。
 この女性の目的は一体なんなのか。直登は薄ら寒い感覚を覚える。
 岬は胸ポケットから煙草を取り出し、鮮やかな手つきでジッポによって火を点ける。ふぅーっ、と長い溜め息のように紫煙を吐き出す。チョコレートの香りが舞った。
「この店は禁煙ですよ」
 と直登は傍若無人な態度に戸惑いながら岬を注意する。
 雨音は明らかに嫌そうな顔をしていた。他の客たちも同様だ。
 すぐに店員がやってきて岬をたしなめる。
「お客様、当店は禁煙となっております」
「ああ、そう」
岬はコップにまだほとんど残っている煙草を投げ入れて席を立った。
「私はしばらく木佐木町について調べるわ。また会うこともあるでしょうね。その時はよろしくね」
 岬は店内に黒い印象だけ残して去って行った。
 空気が静かに腐敗してゆくような感覚が直登を襲う。
「一体なんなんだ、あの人は」
 という呟きに直登は苛立ちを込める。もやもやした感情を直登は持て余す。一方の雨音はいつものように端然とコーヒーフロートに口を付ける。ふと直登は気付く。ソーサーにカップを置く雨音の手が震えているのを。
 かたかた、とカップが音を立てる。
 直登は雨音の細い手に自分の手を置いた。
「心配するな。僕が傍にいる。おまえのことは僕が守るから」
「……」
 雨音はなにか言いたそうに直登を見やる。
「なに?」
「クサ過ぎ。兄さんにはそういうセリフは似合わない」
「悪かったな」
 と直登はついつい苦笑した。
 良かった、いつもの雨音に戻った。可愛くない妹であるが、雨音は直登にとって大切な家族だった。守ってあげなければいけない。
 そんな思いを直登は再確認した。



 夕暮れ時、直登と雨音は鎮守の森を貫く参道を歩いていた。木佐木町の始まりから息衝く原生林には、甘く清涼な空気が漂っている。爽やかな風が木々の間を吹き抜け、その風に合わせて木漏れ日が瞬くように揺らめいていた。樹上から聞こえてくる小鳥のさえずりが耳に心地良い。
やがて二人は参道から外れ家の方に回った。屋根瓦を敷いた二階建ての日本家屋が鎮守の森の中で静かに佇んでいる。
相羽岬という女性が現れてからずっと直登は積極的に雨音に言葉を掛けていた。
「なあ、列車の中で本を読んでいたけど、あとで読ませてくれないか? 面白いんだろ。なんだか気になってきてさ」
 直登が言っているのは『我が身の剣と愛しき魔法』のことだ。帰りの列車の中で雨音はずっとそれを読んでいた。時に頬を綻ばせる様子が直登には楽しかったが、どんな内容なのか気になってはいた。いつも無表情の雨音を綻ばせる内容とはどんなものなのか、直登は自然と気になった。
 読書と言うものは、ある意味で本に触れるのではなく人に触れることだ。人を伝って本の感動は語られてゆく。
 雨音は淡々とした声音で答える。
「いいよ。一般受けはしないとは思うけど」
「そうなのか?」
「そう」
雨音は言葉少なく直登に相槌を打ったり時には無視したりする。雨音に無視されることはしばしばあるので、直登はそれで怒ったりはしない。むしろ、そんな雨音を可愛いとさえ思う。自分でもシスコンだなあ、と思わないでもない。
家に戻ると、父の誠二郎は不在であることが察せられた。おそらく社殿にいるのだろう。二人の家は古くから続く神社であり、父親の誠二郎は神職を長く勤めていた。町の人々からの信頼も厚く、様々なことを相談されていると言う。
玄関で靴を脱ぎ散らかした雨音の靴を、直登は下駄箱に入れてやる。
雨音は二階にある自室に戻ると、着替えもせず、テーブルの上のマックブックを開いてネットを泳ぐ。雨音はマックユーザーだ。マックユーザーは全体からすれば少数派かもしれないが、使い慣れてみればマックの方がいいというのが雨音の感想だ。
雨音は集中できず、すぐにごろりと畳の上に横になる。ぼんやりと天井を眺めるうちに山形市での出来事を思い出す。
(相羽岬……なんなの……?)
 あの女性の禍々しい印象が頭から離れなかった。一体、何者なのか。これからなにか忌まわしいことが起こるような、そんな予感が雨音の頭に過る。あの女性が知りたくもない事実を暴き出してしまうような、そんな薄ら寒さを覚えてしまう。
 次第に雨音は眠くなっていった。
 雨音は意識の手綱を離す。



 直登が居間でお茶を飲みながらくつろいでいる時、
「こんにちはー」
 という明るい声が玄関から聞こえた。
 直登が玄関に向かう。
「ナオちゃん、今日も暑かったねー」
 訪ねてきたのは近所のお姉さんである一之瀬静稀(いちのせしずき)だった。直登や雨音の二歳年上の一八歳。同じ高校に通う三年生だ。長い黒髪を一つ結びにして胸元に垂らす。その胸は服の上からでも分かるほどボリュームがある。男なら一瞬目が行ってしまってもおかしくはない。しかし幼い頃から一緒にいるせいか直登は静稀を女性として意識できなくなっていた。
 静稀は女手のない森宮家のために毎日夕食を作りに訪れる。今日も買い物籠に食材を詰めていた。
「シズ姉、お帰り。今日はなに?」
 と直登は笑顔で静稀を招く。直登と静稀は板張りの廊下を過ぎて台所に向かう。きしきし、と床板が軋む。
 静稀はこの家に住んでいないのだから、「お帰り」と返すのはおかしいかもしれない。しかし直登の感覚ではやはり「お帰り」がしっくりくるのだった。
「ふふ。なんだと思う? みんなが好きなものだよ。ヒントは雨音ちゃんも食べられる甘口」
「カレー、かな?」
「すごい、よく分かったね。なんで分かったの?」
「だって甘口って言うから」
「そっか。ヒントを出し過ぎちゃったか」
 二人は笑い合い、夕食の準備を始める。静稀の手伝いを毎日することで直登の料理の腕前も上達しているが、まだまだ静稀には敵わない。それに直登は静稀の料理が大好きだった。特にカレーには隠し味にオイスターソースを使うなど、直登の想像力を超えている。
「シズ姉、ごめんね」
「なにが?」
「あいつも手伝えばいいんだけど」
 雨音も積極的に家事を手伝ってくれれば、と直登は思う。雨音は家事について無関心だ。誰かがやってくれると思っている節がある。それではいけない。いつか雨音も自立する時期が来るだろう。その時、そのようでは雨音が困るはずだ。
 しかし静稀は柔らかな声で直登を慰める。
「大丈夫だよ。雨音ちゃんもきっとナオちゃんの気持ちは伝わってると思うよ」
「そうかな」
「そうだよ。雨音ちゃんだってナオちゃんが心配してるようなことは分かってると思う。ただ今は素直になれないんだね」
「素直に?」
 直登には静稀の真意がつかめなかった。
 素直に、とはどういう意味だろう?
「ナオちゃんには分からなくてもいいよ。私と雨音ちゃんの問題だから」
「なにそれ。教えてよ」
「ナオちゃんが大人になったら教えてあげる」
「えー」
 和やかな会話。包丁の音。お湯が沸騰する音。生きた音が台所に立つ。やがて夕食ができ上がる頃、甚平姿の誠二郎が戻ってきた。黒縁の眼鏡をかけた温和な中年男性に見える。
 誠二郎が静稀に微笑みかける。
「静稀さん、今日もご苦労様」
「おじさんもお勤め、ご苦労様です」
「今日はカレーなんだね。いい匂いだよ」
 食欲を誘うスパイスの香りが台所に漂っていた。
「静稀さん、うちの子にならないか? 静稀さんみたいにいい子なら大歓迎だよ」
「やだ、おじさん。冗談はやめてくださいよー」
「はは、それとも静稀さんはいずれ直登のお嫁さんとしてうちに来るのかな?」
「父さん!」
 と直登は過剰に反応する。
「変な冗談やめてくれよ!」
「そうですよ、おじさん。私、そんなつもりじゃ……」
 静稀も動揺しているらしかった。
 直登と静稀の視線が絡む。
「!」
 だが、すぐに直登は正視できずに視線を外す。
 誠二郎は朗らかに笑う。
「はは、初々しいね、二人とも」
七時頃、テーブルにはカレーライス、サツマイモのヨーグルトサラダ、オレンジなどが並んでいた。しかし席に雨音の姿はない。
「僕が呼んでくるよ」
 と直登は雨音の部屋に向かった。



 雨音は暴力の結果として生まれた。大人も友達も、みんながそのことを知っている中、雨音だけが長い間その事実を知らなかった。しかし誠二郎にその事実を知らされた時、雨音はさほど驚かないのだった。
(だから私はみんなから除け者にされていたんだ……)
 そう思った。納得してしまったと言っていい。深い絶望が雨音の心に刻まれた。一層塞ぎ込むようになった雨音に、兄の直登は変わらず優しく接してくれた。
 どうして兄は優しくしてくれるのか、と悲しくなったのを雨音は覚えている。それ以上に切なくなって、何度も一人で泣いた。どうしてそんな気持ちになるのか幼い雨音には分からなかった。けれど、大人になろうとしている今の雨音なら分かる。
 この気持ちは――。
「鬼が白子の娘を産ませた時が里の終わりだとね。でも、その娘が鬼の子供を産めば、その子共が里を救ってくれるとも」
 不意に岬という女性の言葉が蘇る。
 けれど雨音は思う。
(結婚なんてしない……ずっと兄さんと一緒にいたい。だって私は……)
 雨音の中で思いが溢れてくる。



直登はふすま越しに声をかける。
「雨音、ご飯できたぞー」
 しかし沈黙しか返ってこない。
「おまえの好きなカレーだぞー」
 いないのかな、と直登は雨音の部屋に入った。和室であるにもかかわらずベッドが置かれているのは雨音のわがままによるもの。父親の誠二郎はなにかと雨音のわがままを聞いてやっていた。だが、物や金を与えても雨音の心は開かない。
女の子の甘い匂いが直登の鼻をくすぐった。雨音は着替えもせず、マックブックを開いたまま、畳の上に寝転がって眠っていた。眠り姫のように静かに眠る雨音の姿に、直登はしばし言葉もなく見詰めていた。
不意に閉ざされた雨音の目から涙が零れた。その涙はとても透明度が高くて、静かに波打ちながら直登の心に広がっていった。
「雨音?」
 と直登は膝を突き、雨音の肩を揺すって起こす。
 つうっ、と雨音の白い手が直登の頬に伸びる。
「兄さん……」
 起きたばかりの雨音の瞳は、夜の湖面に映る月のように揺れていた。
 その瞳から直登は逃れることができない。
「兄さんは、私を一人にしないよね? ずっと一緒にいてくれるよね?」
 しばし呆然としていた直登は、
「当り前だよ。兄妹なんだから」
と、ようやく声が出た。直登は雨音の細い手を両手で握ってやる。
「苦しいこととか、悩んでることがあったら、なんでも僕に言ってくれ。おまえが心配なんだ。僕にできることならなんでもしてやる」
 横になったままの雨音に、膝立ちになった直登が寄り添う。
「じゃあ……」と雨音が涙声で訴える。「私と逃げてくれる?」
「逃げるって……」
 直登はしばし二の句が継げなかった。
「逃げるってどこへだよ?」
「どこでもいい。兄さんさえいればいい」
 今度こそ直登は言葉を失った。そんな兄を、上半身を起こした雨音が抱き締める。雨音の体は驚くほど華奢でありながら女性的な柔らかさも備えていた。オレンジにも似た甘い芳香が舞う。直登の両手が雨音の細い肩に置かれる。
「馬鹿なことを言うな」
 と雨音を引きはがす。
 見れば、雨音は今にも壊れてしまいそうな顔をしていた。
 兄妹は言葉もなく見詰め合う。直登は、磁力を帯びたような雨音に引き寄せられる。
 その時、
「ナオちゃーん、遅いよー」
 という静稀の言葉が一回の階段下から届いた。
 直登は、はっと我に返って立ち上がった。
「もうご飯だぞ。着替えたら降りて来い。待ってるから」
 それだけ告げて直登は一回に降りて行った。雨音が一人、部屋に残される。
 直登はいつも雨音を気に掛ける。それが雨音にはなによりも嬉しい。
 けれど――。
「兄妹、か……」
 けれど、欲しかったのは違う言葉。



 からから、と自転車の車輪が鳴る。
 静稀は自転車を押しながら、すっかり暗くなった農道を歩く。農道の脇に広がる水田でカエルが大合唱する。
そんな声を聞きながら直登と静稀は家までの短い道のりを歩くのが日課になっていた。直登は静稀を家まで送るのが常。こんな田舎町で事件が起こるとも思えないが、もしもということもある。それに静稀は夏らしく軽装だった。キャミソールに丈の短いデニム。男の欲情を煽ったとしてもおかしくはない。直登としては大切な家族である静稀を一人で帰らせるわけにはいかなかった。
静稀は自転車を押しながらぽつりと零す。
「雨音ちゃんはやっぱり私に心を開いてくれないね……」
 そんな静稀の言葉に直登は戸惑った。
 慌てて言い繕う。
「そんなことないよ。雨音だってシズ姉を頼りにしてるよ。あいつ、不器用だから素直じゃないけど、きっとシズ姉のこと大切に思ってる」
「ううん。雨音ちゃんは私のことは他人としてしか認識してないと思う」
 静稀の寂しげな横顔が直登には堪らなかった。いつしか水田を過ぎてカエルの合唱は遠ざかっている。
「どんなに頑張っても血の繋がりは超えられないんだね。ナオちゃん、雨音ちゃんなこと大事にしてあげてね」
 言われるまでもない。直登は力強く宣言する。
「約束するよ。雨音は僕が守る。絶対にあいつを一人ぼっちにはしない」
「良かった……」
 ほっと静稀は息をついた。
 ややあって静稀はからかうように言う。
「でもナオちゃんってシスコンだよね」
「なっ!」
 直登は言葉を失った。
 自分がシスコンだって?
 直登には反論したい気持ちで一杯だった。自分はあくまで妹を大切に思っているだけで断じてシスコンというわけではない。一六歳にもなってシスコンだなんて人として終わってるじゃないか。
「そんなことないって! シズ姉、からかわないでよ!」
「ふふ。図星だった?」
「違うって!」
 抗弁する直登を静稀は微笑ましい顔で眺めていた。



 木佐木町は人口一万人弱。高齢化と過疎化の波に飲まれた田舎町だ。かろうじて私鉄が通っていると言う程度で特筆すべき点もないように見える。しかし木佐木町は古くから鬼の隠れ里として近隣の集落に恐れられていたと言う逸話は見逃せない。鬼とは、柳田邦夫が言うところの日本列島の先住民のことだろうか。あるいは、本当に怪物そのものなのか。いずれにせよ、木佐木町がどこか一般的な集落とは違っている点は間違いないだろう。私にはその確信がある。
 木佐木町ではここ十数年間、若い女性が失踪するという事件が相次いでいる。女性たちは今まで一人も発見されていない。いや、一例だけある。佐代里神社を任されている森宮家に嫁いだ森宮佐波という女性だけが唯一発見された。女性――森宮佐波の事件を同一視していいかどうかはまだ結論を出していいことではないかもしれない。しかし私には森宮佐波が真相を知っているように思えてならない。
 しかし、その森宮佐波は心を病んで長く入院している。私も会いに行ってみたが、確かに意思疎通できるような状態ではなかった。私の推論は証明されることは難しいかもしれない。それでも森宮佐波には失踪中に妊娠した娘がいる。その娘――森宮雨音は珍しいことにアルビノだ。
 奇しくも木佐木町には「白子の娘が鬼の子供を産んだら里が救われる」という言い伝えがある。木佐木町の人々は森宮雨音を特別視しているようだ。特に年配の住人にはその傾向が著しように思われる。
 だとすれば、森宮雨音が誰の子を産むかによって木佐木町の行く末は決まるのではないか。言い伝えが真実であるかどうかは問題ではない。問題なのは人々が言い伝えを真実のものとして実現させようと努力している点にある。少なくとも木佐木町に来たばかりの私にも住人の森宮雨音への期待の大きさが肌で感じられる。今年一六歳になると言う森宮雨音の重圧はいかばかりだろう。
 私は森宮雨音がどのように歪んでゆくか楽しみでならない。

 そこまでタイピングしたところで相羽岬は手を止めた。眼鏡を外して目のあたりを指で揉む。やや視力の悪い岬は車の運転やPC作業などの細かい作業の時には眼鏡を着用することにしている。
 岬は背伸びしながら旅館の畳に寝っ転がった。
 森宮兄妹のことが思い出される。随分と仲が良さそうだった。社会倫理的に逸脱してくれないだろうかと岬は含み笑いを浮かべながら妄想を巡らせた。畳の上で身をよじらせる。

2.日々の糧

 早朝。まだ朝露が乾いていない時刻。
 森宮家の庭には小さな家庭菜園がある。直登の手によって新鮮な野菜が朝の食卓に並ぶ。もぎ取る前に写真に撮ってSNSに掲載するのが直登の習慣だ。今日の直登の収穫はミニトマト。三人分のミニトマトを盆に乗せて食堂へ向かう。
 そのタイミングで直登の携帯電話が鳴った。SNSへのコメント通知だ。
 つい先ほど掲載したばかりの写真にコメントがある。
『美味しそう』
 アールという人物からだった。アールは直登の日記や写真に小まめにコメントを付けてくれる。どんな人物なのかは分からない。雰囲気から察するに女性らしいが、それも直登には判然としない。ただ直登はなんとなく親近感を持っている。
 直登はアールにコメントを返して、夕食の残りであるカレーを温める。炊き立ての白米の甘い匂いが台所に漂い始めた頃、朝食の準備が整った。父親の誠二郎はテーブルで新聞を読むだけ。少しくらいなにかすればいいのに、と直登は思わないでもない。
 時計を見れば、七時になろうとしていた。
「そろそろ雨音を呼んでくるよ」
 と直登が二階に上がろうとすると、当の雨音が制服姿で降りてきた。胸元にリボンを飾った白のブラウスに黒のプリーツスカート。スカートからしなやかに伸びる足には黒のタイツを穿いている。髪型はいつものようにシニヨンだ。雨音は家では銀髪をそのままにしているが、外では必ず丁寧に結い上げているのが常だった。
「雨音、おはよう」
 直登は笑顔で挨拶を送る。
 誠二郎は雨音を見ないまま挨拶する。
 雨音は、
「兄さん、おはよう」
 と直登にだけ挨拶を返した。家族のやり取りとしてはあまりにも寒々しい。なんとかしようと直登が思っていても、雨音と誠二郎の距離はなかなか縮まらない。
 雨音はカレーの匂いに眉をひそめる。
「朝からカレー?」
「美味しいよ。カレーは次の日が美味しいっていうだろ」
「そう、だけど……」
「ほら、席について。ご飯にしよう」
 いただきます、と家族三人は声を揃えて食べ始める。それもどこか噛み合わない。昨日静稀が作ったカレーは今朝も美味しかったが、会話は弾まなかった。直登は毎日のように父や妹に水を向ける。その水が種を芽吹かせる日が来るのか。
 食事を終えると誠二郎はすぐに社殿に向かった。佐代里神社の神職は少ない。神主である誠二郎の負担は大きいと言える。
 直登は三人分の皿洗いをしながら雨音に声をかける。
「すぐ終わるから待ってて」
 そんな直登を尻目に雨音は携帯電話を弄っている。
 後片付けを終えて、直登は雨音を連れて玄関に向かう。森宮家の玄関は広く作られてある。町の人々が大勢で来訪するためだ。そんな玄関で、雨音は直登に手を添えながら靴を履く。直登はじっと立って雨音を支える。
 準備を終えて二人は高校へ向かう。
二人は木佐木町に一校しかない高校に徒歩で通っている。登下校はいつも一緒だ。友人たちの視線がある中で妹と一緒に歩くことに直登は抵抗を感じないわけではない。しかし、性格に難があることもあって校内で孤立している雨音ことを想うと、妹を放ってはおけないという義務感が先に立つ。周囲からシスコンとからかわれるのにも直登は慣れてしまった。
直登たちはいつも近道のために土の匂いが香る農道を歩く。青々とした水田の広がる田園風景は直登の気持ちを穏やかにさせてくれる。
今朝も日差しが強いので雨音は日傘を差している。レースであしらわれた白い日傘は雨音のお気に入り。しかし高校生が日傘を差すものだから雨音の姿は遠目にも目立つ。案の定、声を掛けられた。
「ナオちゃん、雨音ちゃん、おはよー」
 静稀だ。木漏れ日のように微笑を直登と雨音に向ける。三年生の静稀は明るい人柄で周囲からの人望も厚く、今この時も同級生や下級生から声を掛けられている。そんな静稀は明るい声で返事を返す。
 直登だけ振り返って挨拶を返す。
「シズ姉、おはよう。今日もシズ姉は元気だね」
「なーんか含みを感じるなあ」
「含みなんてないって」
「ほんとー?」
 まるで姉と弟の会話のよう。だとすれば雨音は二人の妹と言うことになるのかもしれない。しかし雨音はいつものように会話に混ざってこない。心なしか日傘の深さが増したようだ。表情がうかがえない。直登には不思議でならないが、雨音は静稀にさえ心を許さないのだ。
「もうすぐ夏休みだねー。雨音ちゃん、神楽舞の練習は進んでる?」
 と静稀は積極的に雨音に声をかける。そんな気遣いが直登に嬉しい。いつか静稀の気持ちが雨音に通じる日を願わずにいられない。
 珍しく反応があった。
「ちゃんと練習してる」
 雨音はここ数年、佐代里祭という木佐木町の夏祭りの際、神楽舞を奉納している。父親の誠二郎に頼まれた時は嫌そうな顔をしていたが、直登が練習に付き合うと言うと積極的に励むようになった。美しいアルビノの少女が舞う神楽舞は佐代里祭の大きなイベントと言っていい。県外から雨音を見に来る者もいると直登は聞いている。
何事にも無気力な雨音が唯一積極性を見せることに直登は戸惑いつつも嬉しさを禁じ得ない。
(少しずつでいいから雨音が積極性を見せるようになってくれれば……)
直登はそう思うのだった。
学校の玄関で静稀と別れた兄妹は下足箱に向かう。
「……」
 雨音は自分の棚で固まっている。
 直登は不思議に思って声をかける。
「雨音? どうした?」
「手紙が入ってる……」
 雨音の下足箱には一通の手紙が入っていた。
 まさかラブレター?
 自分宛でもないと言うのに直登は動揺した。
 しかし雨音は無言で手紙を開封せずに破ろうとした。
「おい! 雨音、待てって!」
 と慌てて直登は雨音の手を抑えた。
「おまえ宛の手紙だろ! 読まずに捨てるなんて相手に失礼じゃないか! もしかしたらラブレターかもしれないんだぞ!」
「興味ない」
「いや、読むだけ読んでみろよ」
「兄さんは私が誰かと付き合っても平気なの?」
 そう言われると直登は困った。
 誰とも分からない人物と雨音が付き合うなんて考えたくない。しかし、せっかく雨音に好意を向けてくれる人を無下にはできない。
「おまえがいいなら僕はそれでいいよ」
「……そう」
 雨音はいつもよりずっと不機嫌そうな表情を見せて自分の教室に向かった。



 ざわめきから取り残されるように雨音は一人、教室の自分の席で携帯電話を弄っていた。
 入学当初は物珍しさから雨音に声をかけていたクラスメイトたちも今では完全に無視を決め込んでいる。時折、クラスメイトたちの口から雨音を揶揄するような発言が飛び交う。雨音は毎日、耳を塞ぎたくなる衝動と戦っている。
(せめて兄さんと同じクラスだったら……)
 兄と違うクラスだと知った時、雨音は少なからずショックを受けた。雨音には将来の夢などはない。勉学に懸ける情熱もない。ただ単に直登が高校に行くからついてきているだけだ。そんな気持ちに直登は気付いていないらしい。それでも妹に優しく接するのが直登という少年だ。それが雨音には悔しい。どうして自分の気持ちに気付いてくれないのだろう。
 集団の中で孤独を感じながら雨音は時を過ごす。
空気の重たさを感じるほど長い時間が過ぎて昼休みになった。直登が今日の戦利品を手に雨音のクラスに入ってきた。
「ご飯にしよう。今日はカツサンドだぞ」
 兄の微笑が雨音には眩しい。雨音は表情を動かさずに立ち上がると、さっさと歩き出した。中庭の木立の陰で昼食を取るのが二人の習慣だった。直登は夏草の上に直に座り、雨音はハンカチを敷いて腰掛ける。ちくちくと肌を刺激する夏草の感触が心地良い。
 中庭は恋人同士が好む場所として認知されている。それでも雨音はこの中庭を指定した。周囲の恋人たちの好奇の視線を無視して雨音は直登に触れ合うほど近くに座る。そんな雨音の心情に直登は気付いているのか。
「いただきます」
 と直登はカツサンドを頬張る。カツサンドは購買部で人気の商品だ。授業が少しでも長引けば売り切れている。
 雨音も一口、口を付ける。カツの旨みとソースのしょっぱさが絶妙な配分だった。直登がカツサンドを買ってくるのは久しぶり。
 直登が得意げに尋ねてくる。
「美味しいか?」
「……まあまあ」
「可愛くない奴だなあ」
 そう言いながら直登は笑っていた。決して怒っていないことは雨音にも分かる。
「なあ雨音。あの手紙、やっぱりラブレターだったのか?」
「そうみたい」
 と雨音はポケットから手紙を取り出して直登に渡す。
『雨音さん。入学してからずっと貴方のことを見詰めていました。貴方の視線、貴方の呼吸、貴方の鼓動を痛いほど感じます。僕は貴方に恋しています。どうか放課後、旧校舎に来てずきください。このことは絶対に内密にしてください』
 最後に差出人の名前が記されてあった。
「内密にしてってあるけど、僕に見せて良かったのか?」
「兄さんは特別」
 と雨音は当然のように答える。そう言われると直登は悪い気はしない。
「それでどうするんだ?」
「兄さんが断って来て」
「自分で行けばいいじゃないか」
「めんどい」
「めんどい、っておまえな……」
 直登は苦い顔になった。
なんでこいつは自分になにもかも頼り切りなんだろう。
雨音はつまらなそうにカツサンドを小さな口で食べている。
しょうがない、と直登は決断した。
「僕が行ってやる。断るってことでいいな?」
「うん」
話し終えたところで雨音は直登に肩を寄せる。
「そんなことより兄さん」
「ん?」
「今日は午後から美術の授業だよね」
 直登と雨音のクラスは合同で芸術という科目を履修させている。雨音は「兄さんと一緒に授業を受けてみたい」と美術の授業を選択するよう直登に迫った。直登は困った顔をしながらも受け入れた。それ以来、雨音にとって美術の授業という大切な時間ができたのだった。
「今日はなにをするんだろうな」
 雨音の心を知らずに直登は呑気な声を出す。
 くすっ、と雨音は珍しく笑った。
「なんでもいい。兄さんと一緒なら」
 周囲の生徒たちは肩を寄せ合う兄妹を訝しげに見詰めていた。



 二クラス合同の美術の授業は、二人一組で互いの似顔絵を描くという内容だった。課題が発表されると柔らかな午後の日差しの中、一斉に生徒たちが立ち上がり、狭い美術室は賑わい始める。雨音は微笑を湛えながら直登のもとに歩み寄る。
「兄さん、私を描いてくれるんだよね?」
絵具の匂いが微かに漂う美術室で直登と雨音が向き合う。
まずは直登から。
綺麗に生え揃ったまつげ。卵のような輪郭を描く顔の曲線。そして含むように笑う唇。改めて雨音を見ると、彼女が美しく成長したことを直登は実感する。直登は何故か気恥ずかしささえ覚えて。
「兄さん、早くー」
 雨音は甘えた声で催促する。直登は絵の上手い方ではなかったが、熱を込めて雨音を描く。クロッキーで手が汚れるのも気にならなかった。いつしか直登の耳には周囲の雑音も遠ざかってゆく。やがてでき上がったのは、正面を見ながら幸せそうに微笑んでいる雨音だった。
 直登の背後に回り込んだ雨音が不思議そうに尋ねる。
「私、こんな顔してた?」
「僕にはこう見えたんだ」
「ふーん」
 今度は雨音が描く番になった。エプロンを着けた雨音は真剣な表情で直登を凝視する。直登はなんだかくすぐった気持ちになって身動ぎする。
「兄さん! 動いちゃ駄目!」
 その度に雨音の叱声が飛ぶ。
 仕方なく直登は硬直するようにじっとした。雨音は満足のいく線を描けないのか唸りながらクロッキーを走らせる。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。雨音の描いたのは優しげな微笑を浮かべる直登だった。
「こんな顔してたか?」
「してたよ」
 雨音は小さな喜びを見出したように笑った。



 放課後になり、直登は雨音を玄関で待たせることにした。
「兄さん、さっさと済ませてきて」
裏手に立つ旧校舎に向かった。セミの鳴き声が周囲の山々から聞こえてくる。雑木林を抜けた直登の目に木造の旧校舎が見えてくる。戦前に建てられたと言う古い木造建築で、直登が入学するずっと以前に新校舎への移転が決まり、今は静かに取り壊しを待っている。
 直登は玄関から薄暗い旧校舎に入った。直登の歩みに合わせて埃が舞う。ふと直登は埃の上に足跡が残っていることに気付いた。一人ではない。
(一体どういうことだ?)
 教室で直登の疑問は解けた。
 派手な柄シャツにダメージジーンズという格好をした三人の少年が直登を待ち受けていた。あるいは、ここに呼び寄せたはずの雨音を。
 少年たちには見覚えがあった。少し前に問題を起こして退学した生徒たちだった。
「あれ? 雨音ちゃんは?」
「話が違うじゃねえか」
「たっぷり遊んでやろうと思ったのによ」
 そんな少年たちの会話から彼らが雨音になにをしようとしていたのか直登は理解した。
「おまえら……!」
 直登は少年たちを睨み付ける。
 それを少年たちは挑戦的と受け取ったようだ。
「なに、その目?」
「やる気?」
「いいぜ、あんたで遊んでやるよ」
 じゃきん、と少年たちは伸縮式の警棒を取り出した。身の危険を感じて逃げ出そうとした直登は、腐っていた床板に足を取られて転んでしまう。夕日の差し込む廊下に埃が派手に舞い上がった。
 直登を取り囲んだ少年たちは警棒で打ち据える。
「あ、ぐ!」
 背中に激痛が走る。
 直登の視界が揺らぐ。まるで目から火花が出るかのような衝撃だった。少年たちは容赦なく打撃を浴びせ続ける。三人いることもあって打撃には切れ目がない。やがて直登の意識は霞んで行った。



 何度目かのメールを兄に送った雨音はスカートのポケットに携帯電話を乱暴にしまった。
 兄が帰ってくるのが遅い。先ほどから何度もメールしているのに返事が来ないのはどういうことだろう。自分からのメールには一分以内に返事を返すように言っているのに。
苛立った雨音は旧校舎に向かうことにする。
すっかり暗くなった雑木林は人気のないこともあって不気味に映る。茂みから今にもなにかが飛び出してくるような不安を覚えて、雨音は風で茂みが擦れる度にびくっと肩を震わせる。兄に対しては強く出る雨音だったが、一人になると精神的な幼さがはっきりと意識の水面下から浮かび上がる。
やがて雨音はそっと足音を忍ばせるように旧校舎に入った。建て付けの悪くなった建物が風に吹かれて音を立てる。雨音の歩みに合わせて、ぎしぎしと床板が鳴る。その音はもしかすると奥まで届いているかもしれない。
旧校舎は静かに微睡むように薄闇を湛える。
 教室の奥は一層暗かった。そこに雨音は人影を見出した。
「誰……?」
 雨音の発する声が震えている。
 その人物は教室に倒れていた。ぴくりとも動かない。
 雨音は兄の直登だと気付いた。
「兄さん! 兄さん!」
 駆け寄って揺さぶる。
 しかし直登は全く反応しない。意識を失った直登は誰にやられたのか重傷を負っていた。顔には酷い痣がある。雨音は震える手で携帯電話を取り出す。しかし上手くタッチできない。ようやく119をコールする頃には雨音はすっかりパニックに陥っていた。
「早く来て! 兄さんが! お願い!」
 オペレータの言葉にも雨音は耳を貸さない。貴重な時間が失われてゆく。
 ようやく救急隊員が来る頃には雨音は直登にすがり付いて泣きじゃくっていた。雨音は兄から離れようとせず、一緒に救急車に乗り込む。そのまま病院に搬送された。
 治療を受ける直登を、雨音は誰もいない待合室で一人祈るような気持ちで待つ。時間がひどく鈍く感じられた。無限のように感じられる時間の中で雨音は兄を想う。
 不器用だけど、いつも兄は自分を大事にしてくれた。そんな兄を自分はこんなにも想っている。ずっと傍にいればいつか自分の気持ちに気付いてくれるはず。そんな淡い期待を胸に日々を過ごしていた。それが終わろうとしているのだろうか。こんにも唐突な形で。
 ふと雨音は長椅子の隣に女性が座っていることに気付いた。相羽岬という女性だ。岬はラヴクラフト全集と言う文庫本に目を落としている。いつものように黒いスーツ姿で、病院では一層不吉に映った。
「なに……?」
 という雨音の声に岬は顔を上げる。顔にかかった長い黒髪をかき上げた。
「やっと気付いてくれたのね。さっきから声をかけていたのよ」
「え?」
 それほど雨音は自分の考えに埋没していたと言うことだろうか。相羽岬は声をかけたと言うが、雨音は全く気付かなかった。
「お兄さんのこと、心配なのね」
「……」
「あんな優しそうなお兄さんがいたら男として意識していたりして?」
 相羽岬はあくまで不躾だった。彼女の言葉には遠慮と言うものがない。一体どういう人間なんだろうと雨音は思う。郷土史家だと名乗っていたが、それで生活が成り立つとは思えない。親が金持ちなのだろうか。
「なんの用?」
 雨音の声には棘が含まれていた。
 ふふ、と岬は微笑む。
「そんなに警戒しないで。話し辛くなるじゃない。ま、それでも話すけどね。最近、私は佐代里祭のことを調べていたの。佐代里神社の初代の巫女は里で暴れる鬼を慰めたと言われている。この意味は分かるわよね。もう高校生なんだから」
「なにが言いたいの?」
「雨音さんももう大人だし、今年の佐代里祭で失踪するのは貴方かもね。なんと言っても貴方は佐代里神社の巫女なわけだし」
 雨音は父の誠二郎が神主として働く佐代里神社の巫女として勤めている。数年前から神楽舞を奉納している身でもある。だからと言って岬に言いがかりを付けられる筋合いはなかった。岬は一体なにがいいたいのだろう。苛立ちと共に雨音はそう思う。
「貴方はなにが言いたいの?」
「ふふ」
 と岬は雨音の憤慨する様子を楽しんでいるらしかった。
 本当に嫌な人、と雨音はそんな思いを強くした。
「お兄さんのこと大事にするのね。あと少ししか一緒にいられないかもしれなんだから」
 そんな言葉を残して岬は去って行った。
 それからしばらく待っていると、看護師から声がかかった。
 直登の治療が終わったと。



 病室で直登が目覚めるとベッドの傍らにある椅子に雨音の姿があった。雨音は椅子に座ったままうとうとしていた。愛しくなった直登は、痛みを堪えて上半身を起こし、雨音の頭を撫でる。それで雨音は覚醒した。
「雨音……僕、どうしたんだ……?」
「兄さん!」
 と雨音は直登に縋り付いた。雨音は涙声で訴える。
「兄さんが倒れてて。私、死んじゃうかと思った。でも良かった。このまま目が覚めなかったら私……!」
 そんな雨音の言葉を聞きながら直登は思い返した。自分は不良たちに好きなように痛めつけられて意識を失っていたのだ。不良たちが手加減したのかは分からない。それでも今はちゃんと意識を取り戻している。
 直登は、嗚咽を漏らしながら体を震わせる雨音を強く抱き締める。
「雨音……ごめんな、心配かけて」
「ごめんなさい。私の代わりに酷い目に遭わせて。ちゃんと私が行けば良かったんだよね」
 もし雨音が直接出向いていたらどんな目に遭ったか想像に難くない。雨音が学校に味方がいないことは直登も知っていた。しかし味方がいないだけでなく、悪意を持った敵がいるとまでは思っていなかった。とても雨音が安心して過ごせるような環境ではない。雨音のためになにができるのか、直登は分からなかった。
 しかし今は。
「おまえを行かせなくて良かったと思ってるよ。僕はおまえの兄貴なんだぞ。妹を守るのは義務だ」
 偶然とは言え妹の危険な状況を回避できたことが喜ばしかった。
 そうやって直登と雨音が抱き合っていると、父の誠二郎が病室に入ってきた。
「おまえたち、なにをしているんだ?」
 抱擁する兄妹を誠二郎は険を含んだ声で咎める。
 直登は雨音から離れようとするが、雨音は直登を離さない。
 誠二郎は言い聞かせるように言った。
「いくら仲がいいって言っても二人とも年頃なんだ。そういうのは良くない。雨音、分かってるか?」
「分からない」
 雨音は誠二郎を見ないまま答える。
「どうして年頃だとくっついちゃいけないの?」
「大変なことになったらどうするんだ?」
「……」
 雨音は悔しそうに下唇を噛む。
「この話は家に帰ってからしよう。雨音、直登は大丈夫だ。さあ帰ろう」
 誠二郎はまだ一度も直登の体を気遣う言葉を発していない。まるで雨音のことしか頭にないかのように。
 雨音は頭を激しく振って父の言葉を拒む。
「嫌! 帰らない! 兄さんの傍にいる!」
「雨音……おまえももう子供じゃないんだ。いい加減、直登から卒業しろ。大体、明日も学校があるだろう?」
 と誠二郎は困り果てたような声を出す。
「兄さんが退院するまで学校なんて行かない。兄さんのいない学校なんて行く意味ない」
 という雨音の心情は直登には痛いほど分かった。
 雨音はこんなにも自分を頼りにしている。そんな妹に対して自分は良い兄として振舞っているだろうか。
 誠二郎が雨音を言い含める。
「子供じゃないんだから、もう直登から自立する時期が来たんだ。お父さんはおまえのことが心配だから言っているんだ」
「嫌。大人になったら兄さんと離れなくちゃいけないならずっと子供のままでいい」
「そんなわがままがいつまでも通ると思っているのか?」
 と不毛な言い合いをする父と妹の姿に堪り兼ねて直登は仲裁する。
「父さん、今夜くらい大目に見てよ。雨音は自分のせいで僕が殴られたと思って心配してるんだよ」
「分かった。直登、おまえのことは信頼しているからな」
 その言葉では、まるで息子を信じていないかのよう。
 誠二郎が去ったあと、雨音は毛布を借りてきて寝椅子の上に横になる。
 消灯時間になり、病室は薄闇に包まれる。しかし直登はケガの痛みのせいでなかなか寝付けなかった。体の向きをどう変えても痛いというのは嫌なものだった。
 隣で眠っていたはずの雨音が声をかけてきた。
「兄さん……眠れないの?」
「うん。まあね」
「ごめんね……私のせいで……」
 雨音は何度となく謝罪の言葉を繰り返す。
「僕は気にしてないから、おまえももう気にするなよ」
「うん……兄さんはやっぱり優しいね。私、兄さんの妹で良かった」
「なんだよ、急に?」
「だって兄妹じゃなかったらこんなに優しくしてくれる人なんて、きっと出会えないと思う。兄妹って素敵だね」
 ねえ、と雨音は熱を吐き出すようにささやいた。
「もし私が妹じゃなかったら、こんなに優しくしてくれた?」
「そうだなあ」
 随分と話が飛躍したな、と直登は内心で苦笑した。しかし雨音の仮定の話に付き合ってあげることにする。
(もし僕たちが兄妹じゃなかったら……)
 今まで考えたこともない状況だった。もし自分たちに全く血の繋がりがなかったとしたら、自分は雨音にどう接していただろうか。こんなにも大切にできただろうか。
雨音は素直ではないけれど、時折見せる気遣いが可愛らしい。いつもツンケンしてはいても本当は自分を頼りにしてくれているのが直登には痛いほど分かる。例え妹でないとしても、こんな可愛い子がいたら放っておかなかっただろう。気持ちを通じ合わせていつかは恋人同士になっていたかもしれない。
そこまで考えて、直登は自分がとんでもない未来を仮定したことに気付いた。
直登は体の向きを変えて雨音に背を向ける。
「兄さん……?」
「なんでもない。もう寝るよ」
 自分はどうかしている。
 いくら血が繋がっていなかったらどうする、と尋ねられたとは言え、妹と恋人同士になる姿を思い浮かべてしまうなんて。もしかしたらケガのせいで熱でもあるのかもしれない。
 直登はそう思うことで自分の中に芽生え始めた感情から目を逸らす。



 次の日のこと。
 相羽岬は森宮家を一人で訪ねた。



 次の日、雨音と連れ立って直登が家に帰ると、玄関に女性物の靴があった。チョコレートの匂いが漂っている。
 直登は嫌な予感がした。
 その直後、応接間から相羽岬が現れた。
「貴方は……」
 直登は硬直した。直登の隣に立つ雨音も体を強張らせる。
 岬は黒い微笑を浮かべる。
「また会えたわね。ケガの具合はどう?」
 直登も雨音も言葉が出ない。
「貴方たちのお父さんにって、町の人たちによく相談されているんですってね。なにを相談されているのか気になってね」
 と岬はそんなことを言い出した。
 直登は呆れた。
「そんなこと口外できるわけないじゃないですか。大体、貴方が知ってどうしようって言うんです?」
「木佐木町はね、自殺率や精神疾患の発病率がすごく高いの。特に中年男性がね」
 この人は突然なにを言い出すのかと直登は訝しんだ。
 岬は滔々と語り出す。
「この街の住人には強いストレスの原因があるんじゃないかって私は推測してる。町の人たちから相談を受けている貴方たちのお父さんならなにかヒントになる話が聞けるんじゃないかって思っていたんだけど。でも残念。断られちゃった」
「当り前でしょう。そんな興味本位の質問に答えるわけないじゃないですか」
 と直登は声を荒げた。
 ふふ、と岬は直登の反応を楽しむように笑う。
「その様子だと貴方たちはなにもお父さんから聞かされていないのね。残念だわ、どんな忌まわしい話が聞けるかって楽しみにしてたのに」
 なんて悪趣味な人だ、と直登は憤慨した。
「もしかしたら……町の人たちは集団で秘密を抱えているのかもね。例えば鬼をかくまっている、とかね。だとしたら毎年のように若い女性が失踪している事件にも納得がゆく。彼女たちは鬼を慰める供物と言うわけ。木佐木神社の初代の巫女のようにね。でも、そろそろ当代の巫女である雨音さんの番かしら」
 びくっ、と雨音が体を震わせる。
「ふざけないでください!」
 気付けば直登は叫んでいた。
 くつくつ、と岬は楽しそうに喉を震わせる。
 そう言って岬はチョコレートの香りを残して去って行った。
 雨音は不安を訴えるように直登のシャツをつかんでいた。
「雨音。心配するな。僕がお前を守ってやるから」
「本当? 迷惑じゃない?」
「迷惑なわけあるか。僕はおまえの兄貴だぞ。妹は守るのは義務じゃないか」
「……」
 雨音は直登の腕に頬を寄せた。無言で体を寄せてくる妹を直登はそっと抱き締めてあげた。しばし兄妹は互いの体温を分け合っていた。雨音のことをもっと知りたい、と直登は強く思った。

3.夏祭り

「なあ雨音」
 と夕食後、直登は居間から出て行こうとする雨音を呼び止めた。
「なに?」
「おまえが好きだって言うあの本、我が身の……なんだっけな……」
「我が身の剣と愛しき魔法」
「そう、それ。読ませてくれないか」
「いいけど。急にどうしたの?」
「いや、なんとなく」
 まさか雨音のことをもっと知りたいからと言えるはずもない。直登は口ごもった。
「ふーん」
 と言いながら雨音は第一巻を貸してくれた。直登は自室で読むことにする。
 その物語は兄妹の愛の物語だった。妹に想いを寄せられる兄が次第に自分の気持ちに気付いてゆくという内容。そして兄妹は終盤で一線を越えてしまう。
(これって近親……)
 雨音はどんな気持ちでこれを読んでいたのだろう、と思うと直登の胸が騒ぐ。まさか雨音は。いや、そんなはずはない、と直登は思い直す。これはあくまでフィクションだ。雨音はフィクションとして楽しんでいるのだろう。そうに違いない。
――例え兄妹と言えども、違う魂を持った二人の男女に過ぎない。
 作中にあるそんな言葉が直登には恐ろしかった。
 直登が懊悩としている時、ばーんと音を立ててドアが開いた。
 雨音だった。丈の短い白のキャミソールドレスという部屋着で雨音がずかずか直登のもとに歩み寄ってくる。
「雨音? ノックくらいしろよ」
 直登は戸惑いながら雑誌から目を移す。
 雨音は思い詰めた様子で打ち明けた。
「下着が一枚ない」
「は?」
「兄さんが盗ったの?」
「盗るか!」
 思わず直登は叫んでいた。妹の下着を盗むなんて人として終わっていると言っていい。
 直登は椅子から立ち上がって雨音に尋ねる。
「よく探したか? どこかに紛れ込んでいるっていう可能性も」
「最近、よく下着がなくなるの。気のせいなんかじゃない」
 そう雨音は答えるのだった。
 しかし直登には身に覚えがない。この家で雨音の下着を盗る人間なんていないだろう、と直登は思う。
 そんなことを直登が考えていると、雨音は思わぬことを言い出す。
「じゃあ、この部屋を調べるから」
「ちょっと待て。なんでそうなる?」
「兄さんの潔白を証明するため」
「そこは信じろよ!」
 しかし雨音は聞く耳を持たない。手当たり次第に部屋を荒らす。直登はベッドに腰かけて雨音の気が済むのを待った。
「なにも見つからない……」
「これで僕が無実だって分かっただろ?」
「まだベッドの下を調べていない」
「!」
 どくん、と直登の心拍が跳ね上がった。
 雨音は、やっぱりと笑う。
「兄さん、なにか隠してる?」
 と雨音は直登の足の間からベッドの下を捜索する。やがて雨音がベッドの下から数冊の雑誌を見つけ出した。
「これはなに?」
 雨音の冷ややかな目が直登には堪える。
 直登の背中に汗が浮かぶ。
「……えっちな本です」
「ふーん」
 ぱらぱら、と雨音は雑誌をめくる。
「おっぱいがおっきい子ばっかり……兄さんはそういうのが好きなの?」
 妹に性的なコレクションを検分される気持ちがどんなものか。直登は居たたまれない気持ちになっていた。まるで拷問のようだった。しかも雨音はまだ直登の足の間にいる。これほど近いとオレンジにも似た雨音の匂いを直登は強く意識してしまう。時折、上目遣いに直登を見上げる様はまるで――。
 直登は平静を装って声を出す。
「もういいだろ。疑いは晴れたじゃないか」
「蔑みは増したけどね」
「勘弁してくれ……」
「兄さんは静稀みたいにおっぱいのおっきい子が好き?」
 雨音はそこに強く拘っているらしかった。ちなみに雨音の胸はほとんど起伏がない。
 直登は上擦った声を出した。
「男なら当然だろ」
「……」
 雨音は雑誌を持ったまま不機嫌そうに立ち上がる。そのまま雑誌を全て持って部屋を出ようとする。
「おい! 返してくれよ!」
「これは没収する」
 雨音は冷たく言い放つ。
 雨音の言い渡した決定事項に直登は声を上げて抗議する。
「そんな横暴な!」
 直登の嘆きに聞く耳を持たず雨音は雑誌を持ち去ってしまった。



 直登はケガが治って登校するようになると、雨音を陥れようとした犯人を早速捜すことにした。直登に暴行を加えた少年たちの行方は分かっていない。警察によれば少年たちは学校を辞めてからずっと住所不定だったらしい。この田舎町に見切りをつけ、都会にでも出て行ったのかもしれない。もしそうだとすると直登の手はもう届かない。
 直登は少年たちを親しかった人物に話を聞いてみることにした。
 そのうちの一人、少年と恋人だったこともあると言う少女がこんなことを直登に語った。
「貴方の妹、嫌われてるわよ。いつかこんなこともあるかなって思ってた」
 階段の踊り場で壁を背にしながら少女は薄笑いを浮かべる。
 まるで遠い国の出来事のように語る口調が直登には許せなかった。
「男子から声を掛けられても無視してるし、感じ悪いのよね。元カレもあの子のこと狙ってたみたい。だから別れたんだけどね。ま、あの子にはいい薬になったんじゃない。これをきっかけで反省した方がいい」
「雨音は被害者だ」
 直登は目も眩むような怒りに声を震わせる。
「でも加害者でもある」
「なんだって?」
「あの子の態度が女子の気持ちをどれだけ傷つけてきたか分かる? 見た目がいいからっていい気になり過ぎ。あんな子は罰を受けて当然だと思う。それに気持ち悪いくらいブラコンだし。もう学校なんか来ないで頭のおかしくなった母親と一緒に病院で暮らしたらいい」
 直登は殴りたくなる衝動を懸命に堪える。
 雨音を連れてこなくて正解だった、と思う。こんなひどい言葉、雨音には聞かせられない。
「母さんのことは言うな」
 直登はそう言うだけで精一杯だった。それ以上言葉を連ねたらなにを言い出すか自分自身分からない。
「怒った? 貴方、相当なシスコンみたいだしね。正直、貴方も気持ち悪いのよね。見た目はいいのに損してるわよ。このままずっと妹の世話ばかりするつもり? そんなの馬鹿馬鹿しいって思わない?」
「余計なお世話だよ」
 それだけ言って直登は足早に階段を上る。
 それから何人かに当たってみたが、雨音に同情する意見は聞かれなかった。直登は憤りを強めて行った。自分しか雨音の味方がいない事実を改めて突き付けられた気分だった。
 昼休み、雨音はそんな直登に尋ねた。
「兄さん、犯人捜ししてるんだってね」
「なんで知ってるんだ?」
「派手に動き過ぎ。私のところにも兄さんの話が聞こえてきた。兄さんが犯人捜ししてるの、良く思われてないみたい」
「そっか……」
「もういいよ」
 と雨音は直登に肩を寄せた。ほんのりと温もりが伝わってくる。
「私、兄さんにまで孤立して欲しくない」
「分かった。止めるよ」
「でも……またなにかあったら守ってね」
「ああ、もちろん」
 直登は力強く答えた。雨音の気遣いが嬉しかった。



 夏休みになった。
 そんな昼下がり。
社殿に漂う白檀の甘く爽やかな匂いが直登の心を落ち着かせてくれる。開け放たれた社殿の中を爽やかな風が吹き抜けてゆく。外は茹だるような暑さだが、社殿の中は存外に涼しい。風が全体に行き渡るように作られているためだろう。
 ヒノキ造りの社殿に笛の音が響いていた。直登の手によるものだ。直登の腕前はそれほどではない。父の誠二郎にはまだ人前で演じることを禁じられている。そのため直登の笛は専ら雨音のためにだけある。
 その笛の音が止まった。
「雨音、どうしたんだ? 気が抜けてるぞ?」
 きしっ、と床板を鳴らして雨音の動きが止まった。雨音はTシャツにスパッツという普段とは違う格好だ。スレンダーな体型が一層見て取れ、白い素足が直登の目にも眩しい。白い肌の上に浮かぶ玉のような汗が煌めく姿が健康的でいて、しかも艶めかしい。
 直登は不審に思い尋ねる。
「雨音? どうしたんだ?」
「……」
「疲れたのか?」
「……そうじゃない」
 雨音はうつむいたまま小さな声で答える。
 直登は途方に暮れた。
 それでも直登は、ひんやりとした床板を歩いて雨音のもとに寄る。下ろした雨音の髪を撫でる。
「なにか悩んでることがあるなら言ってくれなきゃ分からないよ。僕にはなんでも言って欲しい。それでおまえを責めたりなんかしないから」
「……兄さん」
 と雨音が口を開きかけた瞬間、声がかかった。
「ナオちゃーん、雨音ちゃーん」
 静稀の声だ。
 直登が見れば、庭先に静稀が買い物袋を提げて立っている。
「練習してるねー。これ、差し入れ。休憩にしよ?」
 静稀が買い物袋から取り出したのは三人分のアイスだった。駄菓子屋で撃っているような棒アイスだ。
「シズ姉、ありがとう。雨音、休憩にしよう」
 雨音は黙ってうなずく。
 直登、雨音、静稀の三人は縁側に座って棒アイスを頬張る。外はやはり暑い。棒アイスがどんどん溶けてゆく。三人は滴り落ちそうになるアイスを零さないように舌や唇で工夫しながら棒アイスを食べる。
 食べ終えた頃を見計らうように静稀が微笑む。
「ナオちゃんたちはほんとに仲がいいね。兄妹二人の時間が持てるなんて素敵だよね」
「そんなことないって」
 直登は照れ隠しに苦い声を出す。
 一方の雨音は無言。
「雨音ちゃん、ナオちゃんみたいな優しいお兄さんがいて良かったねー」
「……」
 雨音はやはり無言で立ち上がり、社殿から出て行こうとする。
「おい、待てって」
 という直登の制止の声を無視して雨音は行ってしまった。
 残された直登と静稀はしばらく声もなかった。気まずい時間が流れる。やがて静稀が寂しげに笑った。
「雨音ちゃんは……やっぱり私には心を開いてくれないね」
「そんなことないよ。雨音だって、ああ見えてシズ姉を頼りにしてるって」
「ううん。雨音ちゃんが頼りにしてるのはナオちゃん一人だけだよ。私には分かる」
 と、静稀は直登の思いもよらぬことを言った。
 直登は面食らう。
「そんなことないって。あいつ、僕のこと兄貴として敬ってないし。いつもツンケンしてるし」
「違うよ。それは甘えてるんだよ。羨ましいな。雨音ちゃん、私には全然、甘えてくれないから……」
 と、またも静稀は直登の予想外の言葉を吐くのだった。
(あいつが僕に甘えてる……?)
 思いもかけない言葉だった。
 直登は静稀にどう言葉を返していいか分からない。
(あいつ、なにか言おうとしてたんだっけ。もしかしてそれを邪魔されたからシズ姉に怒ってたのかな?)



 またあの女が来た。静稀――あいつは、家族にでもなった気で私たちの間に入ってくる。
 邪魔。
 兄さんは気を許しているようだけど、あいつは絶対なにか隠してる。そうじゃなくちゃ、私たちにあんなに優しくするはずない。それなのに兄さんはあいつに甘い。
 私は、いつかあの女に兄さんを盗られるんじゃないかって怖い。なのに兄さんはどうして私の気持ちを分かってくれないの?

 そこまで雨音がブログを書いたところで直登が部屋にやってきた。
「具合でも悪いのか?」
 のそのそと立ち上がって雨音はドアまで歩み寄る。
 兄妹はドア越しに向かい合う。
「別に。普通」
「じゃあ、なんで練習を止めたんよ。シズ姉も心配してたぞ」
「関係ない」
 あの女には関係ない。
 そんな雨音の気持ちに直登は気付かない。
 雨音は兄の言葉に耳を塞いでベッドに横になった。
(どうして兄さんは私の気持ちに気付いてくれないんだろう……?)
 そんな思いを抱えながら。



 相羽岬という女性はこう雨音に言った。
「白子の娘が鬼の子を産めば里は救われる」
 しかし雨音は一生結婚しないと心に決めていた。
 何故なら雨音には、すでに心に決めた人がいるのだから。
「今年、失踪するのは雨音さんかもね」
 相羽岬はそうとも言った。
 佐代里祭ではここ十数年の間、若い女性が失踪すると言う事件が続いていた。今年は誰が失踪するのかと町の人々は噂し合っていた。それが雨音でないと誰が言い切れるだろうか。雨音の母も失踪した末に雨音を産んだ。暴力の結果、雨音の母は心に深い傷を負った。望まれずに生まれた自分は一体なにを支えに生きて行けばいいのか。
雨音はずっと、そう思っていた。
 そんな時に傍にいてくれたのは直登だった。兄だけは自分を裏切らない、という思いを雨音は深めていった。だから、どんなわがままも雨音は安心して言える。直登にだけ言えるのだった。そんな雨音の気持ちに直登は気付いていない。
 ずっと傍にいたらいつか自分の気持ちに気付いてくれのではないか。そんな淡い期待を抱いて雨音は生きている。
(兄さん……私……)



 寝苦しいほど暑い夜だった。
 直登は寝苦しさに耐えかねて何度も寝返りを打つ。そんな時だった。
 きい、とドアが開いた。
 雨音が静かに枕元に歩み寄る。丈の短い白のネグリジェから伸びる足が夜目にも眩しい。
 直登は戸惑いながら上半身を起こして尋ねる。
「雨音? どうしたんだ?」
「眠れないの……」
「怖い夢でも見たのか?」
「うん……」
 こくん、と雨音はうなずいた。
 おずおずと言った感じで雨音は切り出す。
「兄さん……一緒に寝ていい?」
 子供じゃないんだから、という言葉を直登は飲み込んだ。夜の湖面に浮かぶ月のように揺らぐ雨音の瞳を見ていたら、とてもそんなことは直登には言えない。雨音が自分に甘えている。そんな風に静稀に言われたことも影響を与えているかもしれない。今はただ、雨音が愛おしかった。
「いいよ。おいで」
 雨音は嬉しそうに寝床に入ってくる。ぴたり、と直登にくっ付く。髪に残った柑橘類のシャンプーの甘い匂いが直登の鼻をくすぐる。雨音の心臓の音が直登に伝わって来て、直登は何故か胸が騒ぐ。
「おい、あんまりくっ付くなって。暑いんだから」
「兄さんのケチ。これくらいいいでしょ」
「しょうがないな」
 雨音は直登の腕を枕代わりにする。雨音の長い髪が直登の肌をちくちくと刺激する。
こうして一緒に寝るのはいつ以来だろう。
「ねえ、兄さん。子供の頃はよく一緒に寝たよね」
「ん? そうだな、昔はよくこうして一緒に寝たっけ」
「いつまでもあの頃のままでいたかったな……」
 そうしたらこんなに苦しい気持ちにはならなかったのに。
 そんな雨音の呟きは直登の耳には入らなかった。
 ねえ、と雨音はそっと息を吐く。
「小説、もう読んだ?」
「ああ、あれ? 我が身の……なんだっけ?」
「我が身の剣と愛しき魔法。もう、タイトルくらい覚えてよ」
「ごめん」
 と直登は素直に謝る。
「もう読んだよ」
「じゃあ感想、聞かせて」
「えー?」
 まさか妹から兄妹が愛し合う内容の小説の感想を求められるとは。
 なんの罰ゲーム?
 直登は戸惑いながらも律儀に感想を述べる。
「主人公の妹がすごく可愛かった。あんな可愛い妹がいたら主人公が大事にするのも納得できるよ。主人公を慕う妹の気持ちがすごく伝わって来て、読んでいて切なくなった。兄妹が結ばれるなんて現実ではありえないことだけど、フィクションとしては納得できる話だったよ」
 直登は天井を仰ぎながら訥々と自分の思いを語ってゆく。
 そんな直登の様子を雨音は真剣な目でうかがっている。
「どうして兄妹は愛し合ったらいけないのかな?」
「どうしてって……」
 直登はそんな分かり切ったことを何故尋ねてくるのか、雨音の真意を測り兼ねた。
「兄妹は結婚できないだろう? 生まれてくる子供に障害が出る確率が高くなるって言うし。だから愛し合うのはいけないことだと思う」
「でも人を好きになる気持ちは止められないよ。もしあの小説の主人公が妹からの告白を拒絶したらどうなると思う? きっと妹は悲しくて立ち直れないよ。そんな残酷なことをしてもいいの?」
「あの小説の主人公は世間と戦う覚悟を決めたわけだけど、そんな覚悟をするほど妹を愛せる気持ちって言うのは……なんだか怖いよ」
「じゃあ……もし兄さんが同じ立場になったらどうする?」
「どうするって……」
 直登は突然の問いに困惑した。
 雨音がどんな顔をして質問したのだろうか。気になって雨音に顔を向ける。
 どきっとした。
 雨音は瞳を潤ませながら直登を見詰めていた。どうしてそんな切なそうな顔をするのか直登には理解できない。
「気持ちは嬉しいけど……やっぱり拒絶すると思う。妹を幸せにするなんて無理だよ。いつか妹だって後悔する日が来ると思う。残酷なように思えても妹のためを思ったら受け入れちゃいけないんだ」
 自分の判断は間違っていないと直登は思う。それなのに自分の正しさが雨音を傷つけているようで直登は辛かった。
「そう……兄さんは冷たい人だね」
 雨音はそう言って目を閉じた。どうやら眠ることにしたらしい。
 直登は天井に向き直って自分も目を閉じる。
――雨音の質問の意図は。
 何故か直登は胸が騒いでなかなか寝付けなかった。
 兄妹はその夜から一緒に寝るようになった。雨音は毎夜、直登の部屋を訪ねる。直登は雨音を拒めなかった。
(今だけ……そのうち雨音は僕から卒業するんだから……)
 直登は心中でそう繰り返していた。



 佐代里祭の日が来た。人口一○○○○人に満たない田舎町も今日だけは人で溢れ返る。そんな人混みの中、警官があちこちに立っている姿が異様だった。ここ十数年の間、佐代里祭で若い女性が失踪している事件を、警察も重く見ていた。それでも人が集まるのは自分が事件の当事者になることはないと言う意識の表れか。
 夏の日差しは一層強く、殺人的とさえ言える鋭さを伴って降り注ぐ。祭りの見物客たちは時折飲み物を口にしながら山車などの行列を見物する。普段は寂しい木佐木町の大通りにも屋台が並ぶ。
 華やかな祭囃子が佐代里神社の社殿まで届いていた。雨音は直登に見守られて最後の練習を終えたところだった。
 白い肌に玉のような汗を浮かべながら雨音が呟く。
「兄さん……見ていてね」
「ああ。見ているよ」
 そのあと、直登は父から言いつけられた用事を片付けることに忙殺された。あっと言う間に昼近くになる。ようやく時間ができた直登は雨音を外に誘い出した。
「兄さん、なに?」
「いいから」
 と直登は出店が並ぶ商店街に雨音を連れ出す。
「わぁ! 人が一杯!」
 雨音が嬉しそうにはしゃぐ。
祭りの日はずっと神社にいた雨音には初めての光景らしかった。直登は雨音の手を引っ張って屋台を回る。雨音は直登の手に引かれるまま出店を巡っていた。普段なら可愛げのない言葉を発する雨音だったが、今は素直に感情を表す。まるで子供の頃に戻ったかのような気持ちで直登は雨音を連れ回す。
金魚すくいでは紙の破れやすさに文句を言う。たこ焼きは一個だけ食べてあとは直登に押し付ける。射的では的が接着しているのではないかと疑う。それでも雨音は楽しそうだった。連れ出して良かったと直登は思う。
 そんな時だった。
「あれ、姫様じゃん?」
 という声が観光客からかかった。三人組の男性客だった。ちなみに姫様とはネット上での雨音のあだ名だった。そんな風に呼ばれていることを当の雨音は快く思っていない。しかし、その観光客は不躾だった。
「こんなところで姫様と一緒になれるなんて光栄だなあ。なあ、一緒に屋台を歩いて回ろうよ」
「……」
 雨音は直登の陰に隠れてなにも言おうとしない。
 代わりに直登が言ってやった。
「妹は人見知りなんです。そういうのは勘弁してください」
「なんだよ、兄貴かよ。兄貴は引っ込んでろよ」
 三人組は収まらないらしかった。ただならない雰囲気で直登と雨音に迫ってくる。周囲の観光客は遠巻きに見るばかり。
そんな時、助けが現れた。
 びゅっ、びゅっ、と水鉄砲を三人組の股間に浴びせる。
 静稀だった。
「それ以上、絡むようだったら容赦しないよ?」
 と静稀は水鉄砲を三人組に向ける。
周囲の観光客から失笑が漏れる。三人組はさすがに怯んだようだった。
「覚えてろよ!」
 そんな捨て台詞を残して退散する。
 静稀は、
「ふはー」
 という声を出して、へにゃへにゃとへたり込む。
「シズ姉、どうしたの?」
 と直登は静稀に駆け寄る。
 えへへ、と静稀は照れ臭そうに笑う。
「緊張が解けたら一気に力が抜けちゃった……」
 そう言って笑う静稀を直登は立たせてやった。
「ナオちゃんと雨音ちゃんのピンチだと思ったら頑張らなきゃって思って……」
 そんな静稀の心づかいが直登には嬉しかった。
「ナオちゃん、雨音ちゃんをちゃんと守ってあげなくちゃ駄目だよ」
「うん、分かってるよ」
 直登は雨音と共に家に戻った。
日が落ちて参拝客が境内に集まり始める。直登は社殿から抜け出して熱気に包まれた境内に向かう。
 そこで相羽岬に声を掛けられた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
 明らかに警戒している直登の声音に岬は微笑む。
 岬はいつもの黒い微笑を見せる。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃない。私は貴方たちの敵じゃないのよ」
「でも……味方ってわけじゃないですよね」
「そうね。それは否定しない」
 岬はいつもの黒いスーツを身にまとっていた。
直登はそのことが気になり、尋ねてみた。
「いつもその格好なんですね」
「ああ、これ? この格好ならいつお葬式があっても大丈夫でしょう?」
 およそ考えられる中で最悪の答えが返ってきた。直登は相手にするのも馬鹿馬鹿しくなって周囲に目を転じる。
 境内は暗かった。参拝客の携帯電話のわずかな明かりだけが境内を点々と照らす。これから神楽舞を奉納する拝殿も薄闇に包まれている。
「佐代里神社の初代の巫女が鬼のために舞ったと言う神楽は現代まで伝えられている」
 岬の言葉が静かに続く。
「まさか言い伝えに聞く白子の娘が舞い手になるなんてね。どういう因果かしら?」
 しゃんしゃん、という鈴の音が拝殿から聞こえてきた。不意に拝殿に明かりが点く。薄絹のベールの向こうに巫女の装いをした少女――雨音がいた。雨音は拝殿の中央で佇んでいる。参拝客が息をのむ気配が直登にも伝わってきた。あるいは、直登自身も息をのんでいたかもしれない。毎年のように見守っていると言うのに。
 やがて音曲の始まりと共にベールがするすると外される。白装束をまとった雨音の姿が眩しい。雨音は右に回ったかと思えば左に回り、円を描くように神楽を舞い始める。雨音の歩みに合わせて手に持った鈴が軽やかに鳴る。指先から爪先まで計算されたかのように動きが洗練されている。
 参拝客たちは言葉もない。今年の神楽舞はいつになく気迫が籠っていた。あの雨音をここまで衝き動かすものは一体なんなのか。直登には見当もつかなかった。ただ目が離せなかった。
 不意に雨音が直登に目を向ける。二人の目が合う。あるいは、それは直登の思い違いに過ぎなかったかもしれない。それでも直登は確かに今、気持ちが通じ合ったような感覚を覚えていた。狂おしいほどの絆を実感した。
 いつも無気力で気怠そうに日々を過ごしている雨音。そんな雨音のためになにかできることはないかと模索する毎日だった。そんな直登の努力が今、ようやく実を結んだのかもしれない。少なくとも直登はそう確信していた。
(雨音……綺麗だよ……)
 やがて神楽舞が終わった。雨音は月に手を伸ばすような姿勢で静止する。
 神が降りたような感覚を参拝客が抱いた瞬間だった。



 雨音は明るい月を見上げる。
 どーん、と腹に響くような花火の音が遠くから聞こえてくる。佐代里祭の最後は花火で締め括られるのが常だった。神社の手伝いを終えていた直登は雨音を連れて家の屋根に上がった。
「足元に気を付けろよ」
 直登は雨音の手を取ってあげながら声をかける。
 星が球状に飛散する割物。蜂が巣から飛び出るようにランダムに星が飛んでゆくポカ物。土星などの形に星が飛散する型物。そして、それらを複数利用した仕掛花火。特にスターマインは狂い咲くような華がある。
 兄妹は屋根の上に座って花火に見入った。
 森宮家の屋根は花火を見るのに絶好のポイントなのだ。そのことは家族しか知らない。兄妹は絶好のロケーションを独占する密かな楽しみを二人で分け合う。
 直登は時に感嘆の声を上げる。そんな兄を雨音は静かに見詰めるのだった。空ではなく兄だけを見ていた。それは雨音が幼い頃から変わらない。雨音にとって頼れる肉親は兄だけだった。それがいつの間にか恋慕の情に変わっていたことを自覚したのはいつの頃だっただろう。狂おしい衝動が雨音の中で日々大きくなっている。
 幼い頃から直登はずっと雨音に優しく接していた。壊れやすい宝物のように扱ってきた。
 妹だから?
 何度そう尋ねようと思ったか雨音は覚えていない。けれど直登の答えが怖くて聞けなかった。
おそらくチャンスは一度だけ。
やがて花火が終わった。二人の時間が終わってしまう。
ねえ、と雨音は立ち上がろうと片膝を立てた直登に声をかける。
「兄さん。あの時、目が合ったよね」
 あの時とは神楽舞での出来事。見物客に混じっていた直登を雨音が見た時、確かに目が合ったと感じた。二人の絆を痛いくらい実感した。
「うん……まあ、な……」
 直登は照れ臭そうに言葉を濁す。
 雨音は屋根の上で体ごと直登に向かう。
「あの時……私、兄さんの視線を痛いくらい感じてた。すごく嬉しかった……。ねえ、どうして私が神楽を舞うのか分かる?」
「いや……なんで?」
 直登は正面を向いたまま尋ねる。
 私を見て欲しい、と雨音は強く思った。
「兄さんが私を見てくれるからだよ。兄さんには私だけを見ていて欲しい。ねえ、こっち向いて。私を見て」
 直登は戸惑った様子で雨音に顔を向けた。
 直登の唇に雨音はそっとキスした。
「兄さん……好き……」
 言ってしまった。
 言葉にすると想いは余計に形になって雨音の目から零れそうになる。
 直登は雨音の細い両肩に手を置き、引きはがした。
「冗談はやめろよ」
「冗談なんかじゃない。私は本気。本気で兄さんのことが好きなの」
「……」
 直登は辛そうに目を伏せる。
 自分のせいで兄を悲しませたと思うと雨音は切なくなってしまう。それでも、もう止まらない。
「子供の頃からずっと好きだった。兄さんのことだけ見てた。兄さんにも私だけを見ていて欲しいの」
「そんなの、駄目だよ……」
「どうして? 私のこと嫌い?」
「嫌いなわけないだろ。そうじゃなくて、僕たちは兄妹なんだ。結ばれたらいけない間柄なんだ」
 雨音は悔しくて下唇を噛む。
「おまえの気持ちは嬉しいよ。でも僕はその気持ちに応えるわけにはいかないんだよ。おまえには幸せになって欲しい」
「私の幸せは兄さんと一緒にいることなの!」
 気が付けば雨音は叫んでいた。
「どうして分かってくれないの? こんなに……っ……こんなに好きなのに……」
 雨音の目から涙が溢れてくる。
 雨音にとって世間体などどうでもいいことだった。常識的な答えを求めてはいなかった。
 直登は優しく言葉を掛ける。
「もう部屋に戻ろう。風邪を引くよ」
「……」
 直登と雨音は部屋に戻る。
「雨音、おやすみ」
「今夜も……一緒に寝ていい……?」
「駄目だよ。もうおまえとは一緒に寝ない」
 ばたん、とドアが雨音を拒絶した。
 雨音は胸が締め付けられるような感覚を覚え、部屋で一人泣いた。

4.二人の夜

 妹にキスをされた。好きだと言われた。
 しかし直登は妹の気持ちに応えるわけにはいかなかった。そんなことをすれば雨音を不幸にしてしまう。
 それを望んでいるのが当の雨音だったとしても気持ちに応えるわけにはいかない。
 あの夜以来、直登と雨音は別々に眠るようになった。
 危険なのは夜だけではなかった。雨音は直登と二人きりになると切なそうな目で見る。そんな目を見ると直登の胸は騒いだ。
 やっぱり駄目だ、と直登は決意した。
 夕食後、父の誠二郎の書斎を訪ねた。
「父さん。一人暮らしがしたいんだけど」
 そんな直登の唐突な申し出に誠二郎は二つ返事で了承した。すぐに手配すると言う。直登は拍子抜けした。進学のためでもあるまいに一人暮らしがしたいなどという申し出がこんなにもあっさり受け入れられるなんて。
 しかし雨音がその話に感づいた。荷造りしているだけで分かったとしても無理のある話ではない。
 雨音は昼間、荷造りしている直登に言い募った。
「家を出て行くの?」
「ああ」
「私のせい?」
 雨音は今にも泣き出しそうな顔になった。世界で一人残されたように孤独に怯える雨音がいた。
 直登は抱きしめたい衝動に襲われた。それになんとか耐えて答える。
「そうじゃない。これはおまえのためなんだ」
 取り返しのつかない事態になる前に雨音から離れる。それが直登の取り得る最善の選択肢だった。その気持ちが雨音には分からないのだろうか。あるいは、分かっていてなお自分に想いを寄せるのか。
「嘘つき……」
「え?」
「ずっと傍にいてくれるって約束してくれたのに……。どうして? 私が悪かったの? 兄さんにあんなことしたから? ねえ、答えて」
「僕たちは兄妹なんだぞ。このままじゃ取り返しのつかないことになる」
「兄さんは私のことが嫌いになったの?」
 嫌いなはずがない。
 それでも直登には人として守るべきものがある。
 雨音はなおも言い募る。
「どうして? ずっと二人だけで生きて行こうよ。諦めるから……兄さんのこと好きな気持ち、ずっと抑えるから……だから私から離れて行かないで」
 涙声で訴える雨音を見ていると直登の決意が揺らぐ。
 しかし今は兄としての義務感の方が勝った。
「おまえには幸せになって欲しいんだ」
「うっ……う、うっ……」
 雨音はとうとう泣き出してしまった。今までなら躊躇なく抱き締めていただろう。しかし今は雨音に触れることさえ、直登には恐ろしかった。



 夏休みを終えて、直登は一人暮らしを始めていた。直登は、築二○年以上の古いアパートの二階に借りた小さな部屋で、まだ不得手な家事に悪戦苦闘している。
 直登は学校でも雨音を避けている。登下校はもちろん、昼休みも一緒ではない。周囲のクラスメイト達は、ようやくシスコン卒業かとからかっていたが、直登は気にしない。引っ越し以来、雨音とはまともに会話した覚えが直登にはなかった。
 ただ、時折見かける雨音はいつも一人ぼっちだった。自分がいなくなれば積極的に友達を作る気になるだろう、という直登の希望的観測は甘いと言わざるを得ない。魚から水を奪えば歩くようになるだろうか。
 ある日の昼下がり、こんな女子生徒たちの会話を聞いた。
「白いの、まだ一人で中庭にいるー。あそこは恋人同士の場所なのに」
「脳内彼氏と一緒なんじゃない?」
「かもねー」
 雨音は誰かを待つように中庭で一人昼食を取っていた。誰を待っているか言うまでもない。直登は窓辺から雨音の寂しそうな姿を見る度に駆け寄って抱き締めたい思いに駆られた。しかし、それは許されないことだと自制する。雨音の気持ちに応えるわけにはいかない。今どれほど残酷であったとしても、長い時間が経てば直登の判断が正しいと雨音にも分かる日が来るだろう。
 そう信じたい。
 学校帰りにスーパーによって帰宅した直登が夕食の準備をしていると、静稀が訪ねてきた。
「ナオちゃん、これ差し入れ」
 静稀はレバニラ炒めを持ってきてくれた。
「一人暮らしは大変だからね。ナオちゃんに病気なられると困るし」
「シズ姉、ありがとう。ちょっと相談したいことがあるんだけど、いいかな?」
 直登は夕食の準備を止めて静稀を居間に招いた。と言ってもワンルームなので居間がすなわち寝室になる。布団をたたんでおいて良かったと直登は思った。
 キャミソールに丈の短いデニムという軽装の静稀が床に座る。
 静稀の一つ結びにした長い黒髪が揺れた。
「相談したいことって雨音ちゃんのこと?」
「うん」
 と直登は雨音との出来事を全て語った。
「実は……雨音にキスされたんだ。好きだって言われた。あいつ、僕のことを兄としてじゃなく男として好きらしいんだ。でも……」
「もちろん断ったんだよね?」
「当り前だよ」
 そう答える直登の声は上擦っていた。直登自身、自分がどうして動揺しているのか分からない。
「このままじゃ大変なことになるって怖くなって、家を出たんだ。学校でもあいつを避けてる。でも……あいつ、友達いないし、学校でも一人ぼっちになってて。見てて辛いんだ。シズ姉、僕はどうしたらいいのかな?」
 話しているうちに直登は涙が出てきた。どうして自分が泣いているのか直登には分からない。それでも涙が止まらなかった。大切なものを失ってしまったと言う喪失感が胸を切り裂いていた。
 静かに直登の話を聞いていた静稀はやがて答えた。
「ナオちゃんは立派だと思う。雨音ちゃんも大人になったらナオちゃんに感謝すると思うよ」
「そうかな……」
 直登は涙声で呟く。
 そんな直登の頭を静稀が何度も撫でる。しなやかな細い指が直登を慰めてくれる。
「そうだよ。ナオちゃんはお兄さんとして正しいことをしてる。自信を持って。私がそれとなく雨音ちゃんをフォローするから」
「……うん」
 直登はそう答えたが、静稀に心を開いていない雨音がどこまで静稀のフォローに応えるだろうかと不安を覚える。
 やがて静稀は帰って行った。直登は一人で夕食を取る。一人暮らしを始めて分かったことだが、雨音がいない食卓はなんとも言えない寂しさを伴っていた。今すぐ家に帰りたいと何度思ったことか。
 今もそう思っている直登がいた。
 食事を終えて眠ろうとするが、なかなか寝付けない。どうやら外では雨が降っているらしく、屋根を叩く雨音が直登の耳に届く。予報で今夜あたり大雨になると言っていたことを直登は思い出す。
 どうしようもない気持ちを吐き出すため、直登はSNSに縋った。いつも日記などにコメントをくれるアールという人物にメッセージを送る。
『妹に告白されました。キスもされました。正直に言えば、僕は嬉しいと思ってしまいました。妹の気持ちに応えてあげたいと思ってしまいました。でも、それはいけないことです。そんなことになったら、みんなからどう思われるかと思うと怖いです。妹をそんな境遇に置きたくありません。でも妹は僕がいなくなったら一人ぼっちなんです。今すぐ妹のもとに駆けつけて抱き締めてあげたいと思います。そう思う度にそんなことはいけないことだと反省して……。僕は、どうすればいいでしょうか?』
 五分も経たずに返事が返ってきた。
『例え兄妹と言えども、違う魂を持った二人の男女に過ぎない』
 その言葉は雨音が好きな『我が身の剣と愛しき魔法』という作品の一文だった。アールという人物も同じくファンだったのか。
 アールの答えは、ずしんと重く直登の胸に響いた。
「違う魂を持った二人の男女……」
 今すぐ雨音に会いたい、と直登は強く思った。しかし会ってしまったら恐ろしいことになりそうで直登は決断できなかった。直登は気持ちを持て余しながら、今日は早目に就寝することにした。
 雨足は一層強まってゆく。屋根を激しく叩く雨音を聞きながら直登は眠りに落ちて行った。



 その日の深夜。
 タバコ臭いと思った瞬間、雨音は目を覚ましていた。父の誠二郎がベッドに横たわる雨音に圧し掛かっていた。
「お父さん……!」
 誠二郎は雨音がかけていたタオルケットを剥ぐ。なにをされようとしているのか雨音は理解した。誠二郎を押し返そうともがく。
「お父さん! やめて! やめて!」
 誠二郎は雨音を組み伏せる。
 狂気によるものか、誠二郎の顔は醜く歪んでいた。
「寂しいんだろ? お父さんが慰めてやるよ!」
「嫌ぁ!」
 全身の力を込めて誠二郎を蹴り飛ばす。そのまま雨音は部屋から飛び出て階段を転がり落ちるように駆け降りる。
 裸足のまま玄関から雨の降りしきる外に飛び出した。
「兄さん……!」
 行先は兄の直登の住むアパートしか思いつかなかった。雨音は礫のように降る雨の中、白いネグリジェのまま裸足で駆けた。アスファルトの固い感触が強い抵抗を伴って足に伝わってくる。
 寝間着姿と言う異様な格好で夜道を走る雨音の姿を見ても車道を走る車は止まらない。水飛沫が雨音の白いネグリジェを汚す。
 父が追いかけてくるのではないかという不安が拭いきれず、雨音は何度も後ろを振り返る。闇夜と強雨のせいで視界が利かない。その闇の中から父が現れないと言い切れるだろうか。そんな不安が雨音の足を急かす。
「あっ!」
 アスファルトの上に転んでしまった。雨に濡れた道路に雨音の銀髪が散らばる。
「痛っ!」
 膝を擦り剥いた。血が出ているかもしれない。それでも雨音は立ち上がって走った。すでに雨音の体は雨でびしょ濡れだった。体が冷えてくるのにもかまわず雨音は走り続ける。
 直登のアパートがひどく遠くに感じられる。車で一○分ほどの距離が無限円の彼方を目指すかのよう。雨音は何度も兄を呼びながら走り続ける。足の爪が割れて鋭く痛む。それでも雨音は足を止めなかった。
無限に続くような逃避行の果てに雨音は直登の住むアパートにたどり着いた。
 ドアを力一杯叩く。
「兄さん! 開けて! 開けて!」
 廊下を何度も確認しながら雨音は兄を呼び続けた。



 直登は雨音の声で一気に覚醒した。タオルケットを跳ね除けて玄関に急ぐ。
「雨音? どうしたんだ!」
 ドアを開けると雨音が雨の匂いと共に飛び込んできた。直登に力一杯しがみつく。雨音の体は雨で冷え切っていた。ただならない雨音の様子に直登はしばし我を失う。
「兄さん、助けて! 助けて!」
 雨音を落ち着かせるため強く抱き締める。兄妹はしばし玄関で抱き合っていた。
 やがて雨音がぽつりぽつりと先ほどあった出来事を話し始める。
「父さんが……!」
 許せない、と直登は玄関から飛び出ようとする。そんな直登を雨音がしがみ付いて止めた。
「一人にしないで!」
 そう言われると直登にはどうしようもなかった。
「雨音、とりあえずシャワーを浴びておいで。風邪を引くよ。着替えは僕のを用意しておくから」
「兄さん……」
「ん?」
「ずっと入り口で見張っていてくれる?」
 雨音の不安の大きさは直登には想像もつかなかった。家族だと思っていた人物に犯されそうになったのだ。その恐怖は男性である直登の想像が及ぶところではない。
 シャワーの水音を聞きながら直登はそんなことを思っていた。
 やがて雨音が風呂場から出てくる。直登の背後で衣擦れの音が立つ。それだけで直登の心は騒ぐ。恐ろしい事件が起きたばかりだと言うのにそんな感情を妹に抱くのはいけないことだと自制しても、胸の高鳴りは止まらなかった。
 雨音に対する思いを直登は初めて自覚した。
(僕は……雨音のことが……)
 雨音が背後でささやいた。
「兄さん、こっち向いていいよ……」
 雨音は直登の用意したTシャツとハーフパンツを着ていた。雨音にはもっと似合う服もあるだろうが、そんな物は一人暮らしを始めた直登が持っているはずもない。
 雨音は足が痛むのか不自然な歩みを見せる。
「雨音! 足から血が出てるじゃないか!」
 直登は救急箱を取り出して雨音の足を手当てすることにした。雨音は無言で兄の手に身を委ねている。
(こんな細い足で走ってきたんだ……)
 そう思うと直登の胸は痛む。
 兄妹は一緒の布団で眠ることにした。
「なあ雨音。あんなことがあったあとなんだから僕が怖くないか? その、僕だって男なわけだし」
 雨音は信頼を寄せるような強い眼差しを直登に向ける。
「兄さんとなら平気。兄さんは絶対にそんなことしないから」
「うん。まあ、そうなんだけどさ」
 直登は強く雨音を抱き締める。
「一人にしてごめん。僕がおまえから離れたりしなかったら、こんなことにはならなかったのに」
「兄さん……私、これからどこに行けばいいの……?」
 あの家に戻れるわけがない。
 だとすれば――。
「雨音。ここで二人で暮らそう」
 雨音の腕が直登に伸びてシャツを力一杯つかんだ。
「ほんとに? 迷惑じゃない?」
「迷惑なもんか。僕はおまえの兄貴だぞ。妹を放っておけるか」
 学校を辞めて働こう、と直登は決意した。自分はまだ一六歳。まともな仕事はないかもしれない。それでも雨音を自分の力で守ってあげたかった。もう父親の世話にはならない。
「もう一人にしない?」
 消え入りそうな声で雨音がささやく。
 妹にここまで言わせてしまうなんて。
 直登は自分の意気地のなさに歯噛みした。
「約束する。もう一人にしない。ずっと一緒にいてあげるから」
「うん……約束だよ」
 これからのことを思うと直登は不安になる。それでも雨音の体温が愛しかった。この温もりをずっと守ってあげたい。
 例え兄妹と言えども、違う魂を持った二人の男女に過ぎない。
 直登にはもう、雨の音しか聞こえない。



 それから雨音は直登の部屋で暮らすようになった。直登は時折、雨音の荷物を取りに実家に戻る。父の誠二郎とは会ってもほとんど言葉を交わすことはない。もう父親じゃない、とさえ思う。
 あの夜以来、兄妹は一組の布団で一緒に寝るようになった。雨音は切なそうな目で直登を見詰める。熱っぽい雨音の眼差しは彼女がなにを求めているのか雄弁に語っていた。それでも直登は一歩踏み出せないでいた。自分の内側から暴れ出そうになる熱を持て余しながら。
 何度目の夜だっただろう。
「ね、兄さん」
 と雨音は、背を向けて眠る直登にぴったりと体を寄せた。雨音は決して豊満ではないが、確かに女性らしい柔らかさがあった。これほど近いとオレンジにも似た甘い芳香を強く意識してしまう。どきり、と直登の心拍が跳ね上がる。
「私、ずっと寂しかったんだよ。兄さんがいなくなってからずっと切なかった。兄さんを嫌いになろうとした。でも、できなかった。私のこと、大切に想ってるから離れて行ったんだって分かってたから。でも私は、それでも一緒にいたかった」
「僕もおまえのことばっかり想ってた」
 直登は背を向けたまま答える。
 ねえ、と雨音は熱を吐き出すようにささやく。吐息が直登の首筋にかかる。ぞくぞく、と正体不明の感覚が直登の体の内側を走り抜けてゆく。
「こっち向いて。私を見て」
「……」
 直登には雨音の方を向けない事情があった。鎮まれ、と念じるほどに直登は反応してしまう。
 そんな直登の体を雨音の手が回り、ゆっくりと下に向かってゆく。その部分に達した時、びくっと直登の体がのけぞるように反応する。
「兄さんの、大きくなってる……」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。私、嬉しい。やっと私も女の子なんだって気付いてくれたんだね」
「雨音……」
 直登は狂おしい衝動に耐えかねて雨音の方に向き直る。
 どきっとした。
 雨音はとても優しい目で直登を見ていた。
「兄さん、どきどきしてる?」
「うん……してる」
「私も……すごくどきどきしてる。ほら」
 と雨音は直登の手を取って自分の胸に押し当てる。温かくて柔らかな感触が直登の手に伝わってくる。直登は心臓が壊れるのではないかと思うほどの動機を自覚した。思わず手に力を込める。
「兄さ、ん……っ……」
 雨音は艶っぽい声を出す。
「雨音……好きだ……雨音……」
 直登は何度も雨音の名を呼ぶ。
 雨音は嬉しそうな涙声を出す。
「私も……っ……好きだよ。ずっと兄さんのこと大好きだった……素直になれなくてごめんなさい。でも……兄さんしかわがままを言える人がいなかったから……」
「分かってたよ」
 直登は雨音に覆い被さる。
「雨音、いい?」
「うん……私も欲しい。兄さんが欲しい……」
 雨音の目に涙が光る。
 薄闇の中、頼りになるのは互いの熱だけで。

5.鬼が咲く

 朝げの匂いが直登の鼻をくすぐる。
直登が住む古いアパートの一室。
布団に寝ていた直登が目覚めると、隣に寝ていたはずの雨音がいない。雨音の甘い匂いだけが残っている。
 台所から料理をする音が聞こえてくる。
 戸を開けると、台所では制服の上にエプロンを着けた雨音が朝食の支度をしているところだった。最近、雨音は毎朝のように直登より早く起きて朝食と弁当を作ってくれる。
 くるり、と雨音のエプロンが舞う。
「兄さん、おはよう」
 雨音が花が開くような笑顔を見せる。
 こんな風に笑うようになった雨音の変化が直登には嬉しい。思わず、じっと雨音の顔を見詰める。
「兄さん、なに?」
 戸惑いを含んだ微笑を雨音は浮かべる。
 慌てて直登は言い繕った。
「な、なんでもないよ。今日の朝ご飯はなに?」
「とろろ、焼き魚、ホウレンソウのお浸し、味噌汁、それにご飯だよ」
 どれも難しい料理ではないが、直登にとってそんなことはどうでもいい。家事全てに対して無関心だった雨音が手料理を振舞ってくれるだけで嬉しい。
 直登が顔を洗って着替えた頃には朝食はでき上がっていた。
「いただきます」
 と直登は手を合わせて箸を付ける。
 雨音は嬉しそうに微笑む。
「はい。いただきます。たくさん食べてね」
 直登はいつも雨音の料理を絶賛する。最初の頃はお世辞だったが、今では本気で美味しいと思っている。短期間でよく上達したと思う。料理を教えて欲しいと言い出した時はどうなるかと思っていたが、今に自分以上の腕になるだろう。
 直登は食べ終えて再び手を合わせる。
「ごちそうさま。今日も美味しかったよ」
「ふふ」
 そう微笑む雨音は幸せそうだった。
 二人は朝の支度を終えて部屋を出た。直登は雨音特製の弁当を入れたバッグを、雨音は学校指定のいつものカバンを下げて、途中まで一緒に歩く。時間にすれば短いに違いないが、手を繋いで歩く道は二人にとって至福のものだった。別れはいつも寂しい気持ちにさせられる。
 同じ道を通学路にする生徒たちに奇異な視線を浴びせられても兄妹は怯まない。
 見上げれば、原色に染まった秋空が兄妹を優しく見守っている。
 やがて今日の別れがやってきた。
「兄さん……」
 雨音は日傘を持ち上げる。
 そんな雨音に直登は唇に軽くキスをする。
「頑張って勉強しておいで。僕も仕事を頑張るから」
 直登は学校を辞め、土木工事の仕事を始めた。思った以上にきつい仕事だが、雨音のためだと踏ん張っている。そのうち体が慣れるだろうと思う。例えどれほどきつい仕事であろうと、もう父の世話になるわけにはいかない。
 直登はそう決意していた。



 目に見えて明るくなった雨音は学校での立ち位置も変わり始めていた。元々、目の覚めるような美しい少女なのだ。性格に難がなければ人気者として扱われるのは不自然なことではない。もはやなんの憂いもなくなった雨音にとって、学校で人に好かれるように振舞うことはさして難しくない。
 クラスメイトたちと談笑していると、静稀が雨音の教室にやってきた。
 ドアのところで雨音を呼ぶ。
「雨音ちゃん、ちょっといい?」
 雨音はクラスメイトたちに一言断ってから静稀に連れられて屋上に上がった。屋上のフェンス越しに立った静稀は登校してくる生徒たちに目をやる。雨音に背を向けたまま語り出す。
「なんの話か、分かるよね?」
「さあ? なんの話?」
 と雨音は冷ややかに答える。
「ナオちゃんのこと。学校を辞めて働いているんだってね。おじさんから聞いた。二人だけでやっていけると思う?」
「貴方には関係ない。貴方は私たちにとって他人なんだよ」
 雨音は冷たい声で静稀を拒絶する。
 静稀は悔しそうに顔を歪めた。
「悔しい?」と雨音は薄笑いを浮かべる。「兄さんのこと狙ってたんだもんね。でも、もう私たちの邪魔はできないよ」
「雨音ちゃん……貴方たちやっぱり……」
「ふふ。妹で恋人の私に、近くのお姉さんでしかない貴方が勝てるわけないでしょ」
 自信満々にそう答えた瞬間、雨音は頬に強い衝撃を受けた。
「!」
 雨音は頬を手で押さえる。
 雨音は静稀から平手打ちを受けていた。雨音は口の中を切ってしまう。血の味が滲んだ。
「兄妹でそんな関係になっちゃうなんて人としておかしいよ。ナオちゃんはそんな関係になるのだけは嫌だって雨音ちゃんから離れたの。その気持ちが分からなかったの?」
「兄さんが求めてくれたんだよ」
 雨音は勝ち誇るように笑った。
 瞬間、静稀が息をのむ。
「!」
「私と一緒に寝るようになってから兄さんは私に興奮してた。兄さんは貴方じゃなく私じゃないとどきどきできないの。分かる? 貴方は女として私に負けたんだよ」
「でも……血の繋がった兄妹なのよ。そんなの許されるわけがない」
「誰も許してくれなくていい」
 と雨音は世界に向けて宣言した。
 日差しの下、雨音の銀髪が滑るように輝く。
「私たちは二人だけで生きてゆく。もう貴方には邪魔させない」
「……」
 静稀は背を向けた。
「ナオちゃんのこと、不幸にしたら許さない」
 そう一言投げて静稀は去って行った。
 静稀が最後にどんな顔をしているのか雨音には分からなかった。



 夕方、直登は雨音の服を取りに実家に寄っていた。雨音の荷物は少しずつ運んではいるが、全て運び終わるまでは時間がかかりそうだった。
 父の誠二郎は不在らしい。不在で良かったと直登は思う。顔を突き合わせていたら殴り合いになっていたかもしれない。直登は絶対に誠二郎を許す気はなかった。例え土下座されたとしても謝罪を受け入れることはないだろう。もっとも、誠二郎は一言も謝罪の言葉を口にしようとはしないでいた。
 ふと直登は家の中にチョコレートの香りが漂っていることに気付いた。
(この香り……相羽岬の?)
 相羽岬の好んでいた煙草の匂いを感じ取って直登は違和感を強める。相羽岬は佐代里祭の夜から姿を現していない。その相羽岬の煙草を何故、誠二郎が吸っているのだろうか。考えれば考えるほど疑惑が深まってゆく。
 直登は父の書斎に入った。今までは出入りを禁じられていることもあって立ち入ることはなかった。そこで日記を見つけた。革張りの日記帳は人肌のようなぬめりがあって、直登の心をさらにざわつかせる。
『森宮家の男子は血族の女子と交わることによって鬼に変化する』
 そんな一文が直登の心を騒がせた。
 鬼ってどういうことだ?
 そう直登は思った。比喩的表現だろうか。だとしたらどういう意味だろう。気が急いて直登はページをめくる。
 何故なら直登は妹である雨音と――。
『兄は今年の女が気に入ったらしい。引っ切り無しに犯している。この分では早晩、女は壊れてしまうだろう』
 今年の女? 相羽岬のことか?
『あれが自分の兄だと思うと悲しい思いがある。しかし森宮家の家長として兄を見捨てるわけにもいかない。だから妻を差し出したのだ』
 じゃあ雨音の父親は? でも伯父さんは昔に死んだはずじゃ?
『今年の女に場所を感づかれたと言うことは、そろそろ場所を変える時期が来たのかもしれない。防空壕は実に適した場所だったのだが』
 防空壕?
 直登は以前、聞いたことがある。木佐木町の山奥には戦前に作られた防空壕があると。そこになにか隠された秘密があるのか。一体そこになにがあると言うのか。直登は喘ぐようにページをめくる。
『雨音は私が必ず犯す』
 そこで庭先で車のエンジン音が聞こえた。直登は慌てて日記帳を元に戻して雨音の着替えを持って家から出るのだった。
 幸いにして誠二郎と顔を合わせることはなかった。顔を合わせていたら動揺を悟られていたかもしれない。それほどに直登は動揺していた。



 直登は重い事実を突き付けられて衝撃を受けていた。これが真実ではないと思いたい。しかし父が妄想を日記に書くだろうか。あんなに詳細に。
「兄さん、どうしたの?」
 直登が気付けば、夕食を作り終えた雨音が心配そうに自分を見ていた。今夜の夕食はカレー。雨音の好きな甘口だ。
 直登は作り笑いを浮かべる。
「なんでもないよ。食べよう」
 しかし雨音は納得しなかった。
 じっと直登を見詰める。
「嘘。兄さんはなにか隠してる」
「う……」
 関係を持つようになって雨音は一層直登について勘付くようになっていた。そんな雨音の変化に戸惑いつつも受け入れている直登がいる。直登は雨音に全て打ち明けた。雨音は平然と言い放つ。
「じゃあ、そこを調べてみたらいい」
「調べてみたらって、おまえ……」
 直登は最後まで言えなかった。雨音が体を寄せて求めてきたからだ。雨音に求められると直登は弱い。あんな事実が判明したというのに応えてしまう。直登自身、雨音を求めているからだ。体を寄せる雨音からは仄かに甘い汗の匂いが漂ってくる。それもまた、直登の情欲を誘う。直登は拒めなかった。
 明け方、携帯電話のアラームが直登を起こす。雨音は隣でまだ寝入っていた。雨音を起こさないようにそっと体を起こし、ぼんやりと思いを巡らせる。まだ実家に住んでいた頃は毎朝SNSに写真を投稿するのが日課だった。気付けば、SNSは放置している。
そうだ、アールさんに連絡しよう、と思い立った直登はメッセージを送る。
『アールさん。久しぶりにメッセージを送ります。結論から言えば、僕と妹は結ばれました。常識的に言えば許されないことです。でも僕は、それでも妹を幸せにしてみせます。励ましの言葉、胸に沁みました。その言葉を胸に妹と一緒に生きてゆきます』
送信。
すると、その瞬間に充電中の雨音の携帯電話がメッセージの受信を告げる着信音を鳴らす。あまりにもタイミングがいい。不審に思った直登はためらいながら雨音の携帯電話を見る。やはり直登のメッセージを受信していた。
アールというのは雨音だったのか。
(僕はずっと前から雨音に柔らかく包まれていたのかもしれない)
 そんな感覚を直登は抱いた。
「ん……兄さん……?」
「雨音、おはよう」
 と直登は寝ぼけ眼の雨音の頬にキスをする。
 結果だけを見えれば、雨音は直登を騙していたのかもしれない。それでも直登には怒ることができなかった。今はただ、雨音が愛おしい。



日曜日、直登と雨音は山中にいた。人の手が入らなくなって久しい山は荒れ果て、道も消えかけていた。虫が多いと不平を漏らす雨音をなだめながら直登は探索する。汗をタオルで何度も拭く。一方の雨音は全く汗をかいていないらしかった。
昼過ぎになって直登は小休止を雨音に提案した。リュックサックから二人分のペットボトルとおにぎりを取り出す。
小さな口でおにぎりに食べる雨音に直登は声をかけた。
「なあ……もし、父さんの日記が本当のことだったらどうする?」
 雨音はなにも言わなかった。じっと直登に目を注いでいる。
「もし本当だったら僕は怪物になってしまうのかな? 岬さんが言っていた町の秘密ってこのことだったのかな?」
「兄さんは怖くなったの?」
「いや……」
「怖がらなくていいよ。私たちは特別なの。兄妹で恋人だなんて特別でしょう?」
 雨音の強さがどこから生まれるのか直登には分からなかった。弱々しかったはずの妹に励まされている直登がいた。
 兄妹は再び探索を始める。
やがて、それらしき洞窟を見つけた時には日が暮れかけていた。
「ここかな……?」
 洞窟からは湿り気を帯びた冷たい風が漂ってくる。
 雨音は不安げに直登のシャツをつかむ。
「行こう」
 二人は懐中電灯を照らして洞窟に入る。
 懐中電灯の明かりが暗闇を暴く。
岩盤をくり抜いたと思しき壁と床は、あちこちにキノコが生え、小さな虫が這う。泥で覆われた箇所も多い。ここはやはり自然の洞窟を利用した防空壕だろうか。直登たちには分からない。ただ前に進むしかなかった。
進むにつれて唸るような声が大きくなってゆく。どこからか風が吹いているのだろうか。しかし、じっとりと湿った空気は変わらない。
そして懐中電灯が暴いたのは広い空間だった。鉄格子がはめられ、中に誰かいる。地下牢のような印象を直登は受けた。
「誰だ?」
と直登は懐中電灯の明かりを向ける。そこにいたのは、身の丈は三メートル弱。肌の色はくすんだ黄色で、一面にイボ状の突起があり、髪の毛は乱れ放題で油染みている。薄闇にも白い女を一心に犯している。女は死んでいるようだ。
「っ!」
その女が相羽岬だと思った時、直登と雨音は声にならない声を発していた。
その時、
「グォオオ!」
 とその怪物は人語とは思えない声で叫んだ。まさに鬼だ。
 直登は直感する。父の書斎で読んだ日記に書かれてあることは真実だったのだ。
 直登は雨音を連れて逃げ出す。しかし入口のところで見知った顔の人物が現れた。
「ナオちゃん、こんなところでなにしてるの?」
 一之瀬静稀だった。
 静稀は夏らしい軽装で、しかし大きなバッグを抱えて直登たちの方に歩み寄ってくる。
「僕たちは……」
 なにか言おうとして直登は、静稀があまりにも不自然なタイミングで現れたことに気付いた。
「シズ姉、なんでここにいるの?」
 ふふ、と静稀は不気味に笑う。静稀の様子は明らかにいつもと違っていた。直登と雨音は思わず後退る。
「ここは聖域なんだよ。誰も入っちゃいけないの。ここに入った人は仲間になるか――」
 静稀はバッグから鉈を取り出した。
 ぎらり、と薄闇の中で鉈が鈍く光る。
「――死ななきゃいけない!」
 そう言うなり静稀は直登に襲いかかってきた。静稀の動きには躊躇いと言うものを感じさせなかった。まるで人を殺すことに慣れているかのよう。
「ぐっ!」
 鉈が唸りを上げて直登の額を浅く斬った。血が片目を塞ぐ。視界を半ば封じられた直登は一か八か静稀に体当たりした。揉み合うように直登と静稀は泥だらけの床に転がる。頭を打った拍子に静稀の手から鉈が離れた。
「兄さん、鉈を取って!」
 雨音の声に促されるまま直登は鉈を取り上げ、振り上げる。
 暗闇の中、直登は静稀と目が合った。
「シズ姉……」
 優しくて頼りになる静稀。母親のいない家庭で温かく包んでくれた。そんな思い出がまざまざと直登の脳裏に蘇った。鉈を持つ直登の手が力を失う。
 直登には静稀は殺せない。
 その時、静稀が体を起こして反転させ、直登の上に圧し掛かる。
「シズ姉! 止めてよ!」
「もうお芝居は終わり! ナオちゃんと雨音ちゃんを監視するために家に手伝いに行っていたけど、それももう終わりだね! 残念だよ! 私、それなりに楽しかったよ!」
 静稀はけたたましく笑いながら直登の首を絞める。
 息ができない。
 静稀の細腕が信じられないほど強い力で直登の首を締め上げてゆく。
 しかし直登に覆い被さる静稀の頭を雨音が懐中電灯で殴りつける。
「離せ! 兄さんを離せ!」
 雨音は何度も静稀を殴りつける。がつんがつん、と静稀の頭部が強打される度に血が飛び散ってゆく。やがて静稀はぐったりして倒れ伏した。
 直登は静稀の様子を見る。かろうじて息があった。良かった、と直登は安堵する。殺してない。
「雨音、逃げよう!」
 と直登は雨音の手を引っ張って防空壕から出た。
 ぎらつく太陽が二人を照らす。
 入り口には父の誠二郎と町の住人たちが十人余り待ち受けていた。全員、猟銃を携えている。
 誠二郎が顔をにやけさせながら言い渡す。
「雨音をこちらに渡せ」
「嫌だ!」
 と直登は無言で雨音を引っ張って逃げ出した。険しい獣道を駆け上がる。父に雨音を渡したらどんな目に遭うか分かり切っている。例え自分が殺されたとしても、それだけは認めるわけにはいかない。
 至近を銃弾が掠める。それでも直登と雨音は走った。時折、足をもつれさせる雨音を連れて逃げるのは困難だった。すぐに追い詰められる。
 崖の上で直登たちは立ちすくんだ。眼下には轟々と流れる川。
「直登。いい子だから雨音をこちらに渡すんだ」
 と誠二郎が猫撫で声で言ってきた。
 雨音はぎゅっと直登の手を握った。
 この温もりを失うくらいならいっそ――。
 直登は眼下の川を見詰める。川の流れ速く、ひどく濁っている。おそらく落ちれば助からないだろう。
 雨音が察したように直登を見る。直登は無言でうなずいた。二人に言葉は要らなかった。見詰め合うだけで思いが通じ合う。
 兄妹は川に身を投げた。
 衝撃が二人の体を強かに打つ。激流が二人を飲み込んだ。
朦朧とする意識の中で雨音は、三メートル近い巨体となって自分を抱えて川から立ち上がる鬼の姿を幻視した。



 静稀は警察病院に収容されていた。
 季節は秋。
 まだベッドの上から起き上がることのできない静稀にとって、窓から見える空だけが季節の移り変わりを教えてくれる。
 透明度の高い秋空が静稀の心に沁みる。こんなにも穏やかな気持ちで空を見詰めるなんて、いつ以来だろう。幼い頃から静稀の心にはぽっかりと穴が開いていた。それを森宮誠二郎が埋めてくれるような気がしていた。
 しかし誠二郎が逮捕されてからは夢から覚めたように清々しい気分になっていた。結局、自分の胸の穴は自分で埋めるしかなかったのだ。ようやくそのことに気付いただけで良かった。これから自分の罪を長い時間をかけて償う必要があるけれど。
 こんこん、とノックの音がした。
 また刑事たちが静稀を訪ねてきた。
 佐代里祭の夜、相羽岬を含む女性たちを誘い出して誘拐の片棒を担いだ静稀には長い尋問が待っていた。おそらく警察病院を退院したら本格的な尋問が始まるだろう。
 刑事たちの質問に一通り答えたあと、静稀はずっと気になっていたことを尋ねた。
「ナオちゃんたちは見つかったんですか?」
「川を捜索してるが、遺留品はまだ」
 と刑事たちは視線を落とした。
「川の流れが速いからどこまで流されているのか分からない」
「そうですか……」
 静稀は窓に目を転じた。
 どこまでも晴れた秋晴れの空が広がっている。不意に二羽の鳥が過った。二羽の鳥は軽やかに羽根を広げて空の彼方へと消えて行った。まるで閉鎖的な町の因習から逃れた直登と雨音のように。
 確信に近い予感が静稀の胸に過る。
 この空の下のどこかで二人はきっと生きていると。
クジラ
2013年11月08日(金) 02時16分04秒 公開
■この作品の著作権はクジラさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
字数は45000字ほど。あと15000字増やしたいのですが、その点も含めて感想をいただけると嬉しいです。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  クジラ  評価:--点  ■2013-11-27 20:41  ID:52PnvSC7.hs
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>時雨ノ宮 蜉蝣丸さん

今、この作品を改稿しているところです。
鬼の伝説を補強しつつ、町の人々の狂気を描こうと思っています。
また、
静稀にはもっとグイグイ直登に迫る感じにして、
雨音と静稀の対決を前半から鮮明にして見ました。
主人公の直登を巡る三角関係ですね。

改稿が終わったらまたアップしようと思っているので、
その時はよろしくお願いします。

感想ありがとうございました。
No.1  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:40点  ■2013-11-24 19:38  ID:Y3IOYdZ.Rz2
PASS 編集 削除
こんにちは。読ませていただきました。

鬼やら祭りやら神楽やら、好きなワードが並んでおりました。女性陣の言動に終始ヒヤリとしつつ、あーやっぱくっついちゃったか……と……。兄妹の恋愛モノが嫌いなわけではないのですが、酷いフラれ方や引き裂かれ方などの悲劇的な展開を一人先走って期待しておりました……。特に静希さんにもっとグイグイきて欲しかったです、個人的に。
あと、鬼の伝説の辺りですが、どうも俺的には消化不良です。鬼子の云々周辺は特に……いっそ最初っからお兄さん含め妹さん以外の村人全員が伝説の真相を知ってて、それもあってお兄さんは妹さんを遠ざけた……みたいな感じの方が、恋愛と伝説がよく絡んだんじゃないかと思います。
ファンタジックな設定をもっと生かしていけば、さらによくなると思います。

身勝手かつ長ったらしい文ですみません。好きな設定だったので、つい力んでしまいました。
ありがとうございました。
総レス数 2  合計 40

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