アヒルの子は白鳥にならない
 「やめてよ〜」
 女の子は泣きながら河原の土手を走っていく。三つ編みに可愛いリボンをつけた髪も、フリルをあしらったピンク色の上着とスカートも、水で濡れていた。
 「待てよ〜、ブ〜ス」
 数十メートル後方から、大きな声を張り上げて男の子が追いかけてくる。わんぱくな子供らしい、額に大きな傷があった。その手には水鉄砲を持っている。少し遅れて、数人の男の子が同じように水鉄砲を持って走ってくる。
追いかけられる女の子は、小石につまずいて転んでしまう。小さな膝から赤い血が流れて、真っ白な靴下へ赤く滲む。
 「え〜ん、痛いよ〜」
 額に傷のある男の子は、罰が悪そうに言い訳した。
 「お前が勝手に転んだんだろ、俺たちは知らないからな!」
 男の子達は逃げるように方向を翻して、河原の方へ走って行った。

 「まぁ、加奈ちゃん。ずぶ濡れじゃないの。どうしたの?」
 「お母さ〜ん」
 玄関に立つ母親を見て安心した加奈子は、靴も脱がずに玄関を上がると母親にぎゅっとしがみついた。
 「あらあら、加奈ちゃんにだけ、局地的な雨でも降ったのかしら。お顔もこんなに濡れてるわ」
 母親はにっこりと微笑むと、白く細い指でゆっくりと加奈子の涙を拭う。加奈子はそんな母親の笑顔と優しい手を想うと、また母親に抱きついた。
 母親は加奈子を抱き上げると、加奈子を風呂に入れてくれた。風呂に入っている最中も、風呂から上がってタオルで拭いてくれた時も、加奈子は母親の顔を見れない代わりに、母親の手ばかりを見ていた。
 傷一つない手。手入れされた形の良い爪は輝いていて、細い指を更に強調させていた。色白だが僅かに赤みを帯びている様子に、暖かささを感じる手だった。
 加奈子は母親の美しい手が好きだった。
 そして、その手で大好きな絵本を読んで聞かせてくれることが、何より好きだった。
 「お母さん、絵本読んで」
 加奈子は一冊の絵本を母親に渡す。何度も読んでいるため、ページの端っこがびりびりに破れてよれよれになった絵本。所々にセロハンテープを貼って補強している。
 「加奈ちゃんはこの絵本が好きね」
 「うん。だって……」
 「?」
 「ううん。ねぇ、早く読んで」
 娘にせがまれて、母親は絵本の表紙をめくった。
 
 みにくいアヒルの子――。
 昔々、あるところに、お堀に囲まれた古いお屋敷がありました。そのお堀で、一羽のアヒルのお母さんが巣を作って卵を温めていました。
 しばらくすると、卵が一つずつ割れて、中から黄色のかわいいひな達が顔を出します。ですが、巣の中で一番大きな卵から出てきたのは、たいそう体の大きなみにくいひなでした。
 みにくいアヒルの子はどこへ行ってもいじめられます。みにくいアヒルの子はいたたまれなくなって、皆の前から逃げ出しました。
ある日、みにくいアヒルの子はこれまで見たこともないような美しいものを目にしました。それは、白鳥の群れでした。
 「あんな鳥になれたら、どんなにか幸せだろう」
 みにくいアヒルの子は白鳥が飛び立つのを羨ましく見ていました。
 やがて、冬が来て、沼に氷が張り始めました。アヒルの子は独りでじっとうずくまって、厳しい寒さを耐え忍びました。
 そのうちに、だんだん暖かくなって、ヒバリが美しい声で歌い始めます。ついに、春が来たのです。
 アヒルの子は嬉しくなって、翼を羽ばたかせてみました。
 なんと、体が浮くではありませんか。
 「ああ、ぼくは飛べるようになったんだ!」
 アヒルは夢中で羽ばたくと、やがてお堀に舞い降りました。
 お堀には美しい白鳥達がいました。そのうちの1羽が、アヒルの子に言いました。
 「初めまして、新人さん。きみが一番きれいだね」
 「えっ? きれい? 私が?」
 ビックリしたアヒルの子は、水の上を見ます。そこに映っていたのは、憧れの白鳥になった自分の姿でした。
 こうして、みにくいアヒルの子は美しい白鳥になって、仲間と一緒に北の国に飛び立っていったのでした。

 「私も大きくなったら、きれいな白鳥になれるかなぁ」
 絵本を閉じる母親の手に寄り添って、加奈子は母親に尋ねる。
 「そうね、加奈ちゃんも大きくなったら、綺麗な白鳥さんになるわね。そして、素敵な王子様に出会うのよ」
 「王子さま?」
 「そうよ。白鳥はね、いつか素敵な王子様に出会って、恋をして、お姫様に変わるのよ」
 「そうなんだぁ。お話には続きがあるんだね」
 加奈子は目を輝かせた。
 「あれっ? 違ったかしら……?」
 母親は考えようとするが、加奈子が不思議そうな顔でこちらを見るので、すぐに、加奈子の頭を自分の膝の上に乗せて、その髪を撫でてあげた。加奈子は母親の膝の中でゆっくりと目を閉じた。
 「いずれにしても、加奈ちゃんは、当分の間、私の可愛いアヒルの子よ」
 母親の手が加奈子の頬を撫でる。暖かくて心地がよい手――。
 (お母さんの手、あったかい……? いや、冷たっ!)

 急に頬に冷たいものが当たって、びっくりした加奈子は目を開ける。
 加奈子の目の前には、前髪から僅かに傷が見える青年の顔。青年の顔があまりに近いので、さらに驚いた加奈子は、青年の額に思いっきり頭をぶつけてしまった。
 「痛っ!」
 しばらくの間、二人は痛みに耐えてその場にうずくまった。
 「爽太、何やってんのよ!」
 痛みの引きかけたころに、加奈子は青年へ怒りを込めて言い放った。
 青年は今だに額を両手で押さえて、地面とにらめっこをするようにしゃがみ込んでいる。
 「それはこっちのセリフだ。これ以上、額の傷が大きくなったらどうすんだ! 大体、寝言でお母さんって、お前……」
 言いかけて、爽太ははっとして口をつぐんだ。
 加奈子は爽太の肩を叩くように手をかけて立ち上がった。
 「あんたに水鉄砲でいじめられてた頃を思い出したのよ。懐かしいでしょ」
 加奈子は爽太に向かってにんまりと笑いかけたので、爽太は安心したように笑みを浮かべた。そんな爽太の笑顔を見ると、加奈子は思わずしかめっ面になってしまうので、爽太から顔を逸らした。
 立ち上がった爽太は、加奈子よりはるかに背が高く、部活で鍛えたバランスの良い骨格をはだけた制服の隙間から覗かせていた。名前よろしく、爽やかな笑顔の似合う甘いマスクに、額の傷が野性味をプラスして、クラスや学年を問わず、女子生徒からモテる男子生徒の一人だった。
 それが、同じ人間なのに自分にはないからずるいような気がして、加奈子は爽太の事が嫌いだった。それにも関わらず、事あるごとに爽太が絡んでくるので、ますます爽太が苦手になっていた。
 今時分も、加奈子が屋上で過ごす貴重な昼寝の時間を邪魔する爽太が気に入らない。人気者なら人気者らしく食堂ではしゃいでいればいい。独り身が過ごす屋上なんかに来るんじゃないと言ってやりたいが、負け犬の遠吠えの気がして、加奈子は出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。
 加奈子の気持ちを察することのできない爽太は、加奈子に構わずに話しを進める。
 「加奈子、お前、今日バイトないだろ? たまにはクラスの皆でカラオケにでも行かないか? 俺の美声をお前に聞かせてやるよ。クラスの奴らには、お前も行くってもう伝えたから安心しろよ」
 加奈子の都合も聞かずに、当然、断るはずがないと断言して話す爽太の言葉を受けて、加奈子は頭の中でぷちっと何かが切れる音を聞いた。すぐに、加奈子は大声で爽太に噛み付いた。
 「誰が行くって言ったのよ! 私が行ったところで、盛り下がって台無しになるだけなんだから、行かないわよ」
 実際そうなのだ。前に一度、同じように爽太に誘われて、クラスの皆と遊園地に行ったのだが、何を話してよいか分らないし、爽太のように明るい性格でもないから、気まずい雰囲気で散々な一日を過ごした。そんな気持ちを味わったことのない爽太に到底分かってもらおうと思わないが、せめて余計なお節介は自重して欲しい。
 爽太は深いため息を吐いて、顔を曇らせた。
 「お前さぁ、そういう考えやめた方がいいそ。だからイタい奴だって皆に言われるんだよ。俺も幼なじみとして恥ずかしいよ」
 (なんて感じの悪いヤツ!)
 「余計なお世話よっ! 爽太のそういう考え無しに、言いたいこと何でもポンポン言っちゃうとこ、前から大っ嫌いなのよ! もう、私に構わないで」
 加奈子は逃げるように屋上を後にした。その日の午後は、もう爽太が加奈子に絡む事はなかった。けれど、加奈子の気持ちはいつまでも落ち着かなかった。だから、加奈子はアルバイト先の先輩に頼み込んで、今日のシフトを変更してもらった。加奈子は働く事で、その日の嫌な出来事をきれいさっぱり忘れてしまおうと決めた。

 例えば、私があともう少し可愛ければ、誰かと対等に向き合って、もっと素直に前向きに接することができただろう。神様は不公平だ。
 加奈子は、ウォークインの冷蔵庫で商品の飲物を補充しながら、ガラス越しに映る自分の姿を見てがっかりする。赤ら顔で貧相な体つきの上に、伸ばしたきりのくせの強い黒髪を後ろで一つに束ねているのが、さらに野暮ったさを強調している。それが、彼女の対人関係におけるコンプレックスとなって、相手の好意に素直に反応できない所以でもあった。
 加奈子は昼間の爽太とのやり取りを忘れようとするが、やはり考えてしまう自分がいて、ますます落ち込んだ。本当は、爽太が感じ悪い人間なんかじゃない。他でもない自分が感じの悪い、酷く陰湿で嫌なヤツなのだ。
分かっているから、どうにもできない自分自身への怒りや失望や焦燥感やもっと色々な感情が、もつれきってほどけない糸のように加奈子の心を縛って、加奈子は感情を持て余してしまう。その結果、いつも感情を抑えきれずに「無鉄砲」を爆発させて、後から泣く事になるのだ。
(私はいつになったら、みにくいアヒルから白鳥に変われるのだろう……)
 そう加奈子が考えていると、不意に、冷蔵棚のコーラだけがブラックホールに吸い込まれるように、次から次へと減っていく様を目撃する。加奈子は慌ててコーラを棚に詰めた。けれど、補充したそばからまたコーラが売れていってしまうので、補充が追いつかない。終わりには、コーラのボトルではなく、加奈子の手が棚に飾られた。
 すると、コーラを買い占めていた人物のものらしき手がするりと伸びてきて、加奈子の右手を握ってきた。まるで、淑女をエスコートする紳士のような柔らかい手つきだった。びっくりした加奈子は、大きく後ろにのけ反って、どすんと大きな音を立てて尻もちをついた。
 加奈子を驚かせた張本人は加奈子を心配するでもなく、驚かせた事を謝るのでもなく、ただその場に立ち尽くしている風だった。おそらく男性であろうチャコールグレーのスーツのズボンが、飲料水が並ぶ棚の隙間から僅かに垣間見えた。
 「もったいないな……」
 加奈子は確かにその声を聞いた。低くてよく通る落ち着いた声だけれど、若々しく色気のある響きだった。まるで、アニメの美青年がそこに立っている錯覚さえしてしまいそうなその声に、加奈子はすぐ様立ち上がって、美声の主の姿を見たいと思った。
 加奈子は立ち上がると棚の隙間から必死にその姿を探すが、声の主は既に立ち去ってしまって、そこには誰も立っていなかった。
 加奈子の手は冷たいはずなのに、触れられた右手がやけに暖かく感じた。その手を力強く握ると、加奈子はまた元の作業に戻った。

 プラチナのように輝く白髪が、彼の地毛であった。瞳は南海のコバルトブルーを連想させる澄んだ青色で、透き通るように白い肌を更に強調させていた。白い肌に馴染むチャコールグレーのスーツに身を包んだ青年の容貌は、さながら、おとぎ話の王子様のようであった。
 もちろん、彼は絵本から抜け出て来た王子などではなく。現実を生きる一人の人間だ。先天性白皮症、俗に「アルビノ」と呼ばれる遺伝子疾患により、彼は一般人からおよそかけ離れている不思議な魅力の容姿を持っていた。
 遺伝子疾患と言っても、メラニン色素の不足により紫外線に弱いので、日中の外出時に帽子とサングラスと日焼け止めが欠かせないだけで、他は普通の人と同じように生活を送っていた。ただ、その特異な外見から、周囲の羨望や侮蔑から派生する軋轢を生じやすいので、彼は自分と同じ歳の子が高校生として青春を送っている中、自立する道を選んで、声優・仲谷彰二として、テレビアニメを中心に正統派二枚目キャラを演じて、それなりの人気を得ていた。
 声優を生業としようと思ったのは、外見がプラスにもマイナスにもならない職業を求めた結果であり、本名で声優デビューしたのは、他人との接点がほとんどない幽霊のような自分でも、名前を通して、誰かに認識され、欲をかけば憧れの対象となり得ることを証明したいという、彼なりのプライドの表れであった。
 もっとも、事務所の社長に言わせれば、その恵まれたルックスを活かしてモデル業やそれこそ俳優として視覚的にも充分成功できる素質を持っているものを、一介の声優に留まるのは非常に惜しい事だと、日頃から愚痴をこぼしていた。けれど、彼は頑として首を縦に振らなかったので、どうにもならなかった。
 幽霊のような自分と表現したが、決して本当の幽霊ではないから、お腹も空くし、欲しい物もある。したがって、外出するのは当然の事だが、人目を避けるため、洋服や雑貨なら平日の閉店間際を狙って、食べ物なら夜のコンビニを狙って調達した。しかも、極力、一度買った店には行かないようにして、なおかつ、一度に大量に買うことで、店に出向く回数を減らそうと心掛けていた。そうすると、好物のコーラなどは、他の買い物客を押しのけて、その店の商品を買い切ってしまう事になるし、店員の商品を補充する労力も考えないので、どのみち、二度と同じ店に行けるはずはなかった。
 今日も、スポンサーとの会食の帰り道に無性に小腹が空いたのを我慢できなかった彰二は、わざわざ家の反対方向を選んで車を走らせてもらって、住宅街の外れのコンビニまで買い物に来たのだった。
 持ちきれないほどのレジ袋を無理矢理両手に下げて、彰二は黒塗りの大型バンに乗り込んだ。
 「相変わらず、大量に買いましたね」
 運転席から男性が呆れたように声をかける。
 「……」
 「おや、仲谷さん。どうかされましたか?」
 運転席の男性は眼鏡の縁を少し持ち上げながら、バックミラー越しに上目遣いで彰二を覗く。彰二はレジ袋を離した両手を穴が開くくらいの強い眼差しで見つめていた。
 「……凄く手の綺麗な子を見つけた」
 「はぁ……そうですか」
 彰二の唐突な物言いに、男性は状況を理解できないため、ついつい気のない返事をしてしまう。彰二は少し苛立つように話し続ける。
 「だからっ、そいつを手タレにどうかって話をしてるんだよ」
 「あぁ、そういうことですか……。けど、うちの事務所は、手のモデル、というかパーツモデルは在籍してませんから、社長も何て言うか分かりませんよ」
 「知ってるよ、だから辰野さんに聞いてるんだよ。辰野さんならどうする?」
 声から真剣さが伝わってきて、辰野は面喰ってしまった。
 「他人に興味を示すなんて、あなたらしくありませんね」
 「? どういう意味だよ」
 おそらく本人は気付いていないようだが、彰二は無意識に人を遠ざける癖があった。それが鉄仮面のような無機質な表情も相まって、人から悪い方に誤解を受ける事も多かった。辰野は自分に出来る限りで彰二のフォローをしながら、彼の将来を按じていたのだ。そんなところに、辰野は初めて見たかもしれない彰二の他人への興味の一端を目の当たりにして、彼の嬉しい変化に自然と笑みがこぼれた。
 「いえ、特には何も。そうですね、私なら、とりあえず、今日は帰ってぐっすり寝ますかね」
 「はぁ?」
 「だって、そのスジに素人の私達が見ても、善し悪しなんて分かりゃしませんから。今日のところは出直しましょ」
 「そりゃ、そうだけど……」
 彰二はこの男特有の非常な冷静さを嫌いではなかったが、このような時はもどかしいものだと心の中で舌打ちした。

 「加奈子、レジが混んできたからヘルプ入って」
 爽太がレジ前の棚でチョコレート菓子を補充する加奈子を呼ぶ。
 「はい」
 加奈子は素直に爽太の指示に従った。
 加奈子と爽太は、共に家の近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしている。今日は一週間ぶりに加奈子と爽太は同じシフト時間でアルバイトに入った。それは爽太が部活動で忙しかったのと、加奈子が子供の看病で休んでいる主婦の代わりに早い時間帯で勤務していたからで、一緒に働くのを避けていたわけではなかった。
 爽太とはすぐに仲直りをした。というより、加奈子から一方的に喧嘩別れした翌日、爽太はけろっとした様子でいつもの笑顔で挨拶してきたものだから、加奈子も忘れたかのようにいつもの無愛想な顔で挨拶した。それからはいつも通りの二人の間柄だった。相変わらず爽太のおせっかいに気を揉むし、爽太にすれば、頑固な加奈子に手を焼いている気持ちなのだろう。ただ、加奈子は爽太にごめんと言えなかった代わりに、努めて前より爽太に優しくしようとした。爽太は何も言わないので、その気持ちが伝わっているかは確かめようがなかったが。
 加奈子がレジ業務をしてしばらくすると、妙な二人組が店に入ってきた。一人は190センチ以上はあるだろう大柄の男性だ。黒のスーツに合わせた黒の中折れ帽と季節外れな黒の皮手袋を身に着けたこの男性は、顔の右目から左頬にかけて、ばっくりと割れた大きな傷があった。まるで、ライオンと戦った戦士の勲章のような傷で、これに比べてしまうと、爽太の額の傷など猫に引っ掻かれたようなものに見える。
 もう一人は、この男性の連れというには不似合いな女性のような細身の体で女性より肌が白い青年であった。帽子からはみ出した髪は地毛であろうか、白髪より光沢があって銀髪と表現するのが相応しい髪色だ。帽子を目深にかぶって青いサングラスをしているので表情は見えないが、鼻筋や口元の上品さから相当な美人だと予想される。胸元が少し開いたシャツにジーンズというラフな格好ながらモデルのような着こなしで、加奈子は思わず見惚れてしまうが、加奈子の熱視線を制するかのように、大柄の男性の方が加奈子に向かってにっこりと微笑んだので、加奈子は慌てて視線を下に逸らした。
 彼らは真っ直ぐに飲料水のある棚に向かって商品を手にすると、爽太の立つ側のレジも開いていたところ、加奈子が立つ側のレジへとやって来た。
 白く細い指が伸びて商品を机に置く。ペットボトルのコーラを見て、加奈子は直感で先日の客がこの青年なのだと思ったが定かではない。千円札を渡す手は加奈子に触れることは無かったが、加奈子が釣銭を渡す時に手がそっと触れれば、あの時の情熱的な手の感触を確かめられるかもしれないと思った。
 加奈子は少し震えるような手つきでゆっくりと小銭をレジから拾い上げると彼に差し出した。加奈子の心臓は周りに音が聞こえてしまうのではないかと言うくらい、早く大きく波打っていた。
 すると、加奈子の期待を大きく裏切って、横の大男ががっしりとした両手を前に出した。男は小銭を持つ加奈子の手の平を広げると、加奈子の手の角度を変えながら、獲物を吟味するような鋭い眼つきで観察し始めた。男は加奈子の手の感触とともに何かを確認しているような風であったが、この状況を理解できない加奈子は、ライオンに睨まれた子羊のように、頭が真っ白になって、その場に立ち尽くした。
 横目でその異常な様子を目撃していた爽太は、止めに入ろうと男へ声をかける。
 「ちょっと、あんた……」
 爽太が言い切るより前に、男は嬉々として叫んだ。
 「合格っ!」
 「はいっ!」
 何が何だか分らないのに、男の勢いに押されて加奈子もつい元気良く返事をしてしまう。透かさずしまったという気持ちが加奈子の表情に現れていたのか、加奈子を見る青年の口元が緩んだ。

 コンビニエンスストアの二階は、オーナーの住居になっていて、その一画に従業員用の休憩スペースがあった。六畳ほどの畳部屋には小さなブラウン管のテレビと中央に小さなちゃぶ台が一つ置いてあるだけなので、普段は広々とした部屋に感じるのだが、大男を含めて四人で座るとなると、狭苦しいというか息苦しくさえ感じてしまう。せめて三人であれば少しはマシだろうと思うが、保護者然として座る爽太を追い払うことは難しかった。
 大男は小さなちゃぶ台にそっと名刺を置くと、端的に分かりやすく、加奈子に向かって、あるいは時折爽太にも目配せをしながら、事情を説明してくれた。
 「私は、青山でタレント事務所を経営する諏訪大将と言います。タレント事務所と言ってもパーツモデル、つまり、手や足などの特出した体の一部分だけを撮影するモデルの事です。今回は、ここにいる声優の仲谷彰二君から推薦があって赴いたのですが、お嬢さんの手を見て、モデルの素質があると確信しました。どうです? モデルという職業に挑戦してみませんか?」
 全くの予想しない話に、加奈子と爽太はお互いに目をぱちくりさせながら見つめ合って、この話が現実のものだと確認し合った。
 「確かに、私の母はとても手が綺麗な人で、母に憧れた私は、幼い時から手だけは丁寧にケアしてきました。けど、私なんかがモデルになれるなんて、ありえません」
 「そうですよ、こいつはモデルなんて世界には無縁の、ごく普通の地味な暮らしを楽しみたい人間ですよ。誘うなら、もっと今どきのガツガツしたヤツの方がいいですよ」
 言い方に多分な毒が含まれてはいるが、今回ばかりは爽太の加勢が頼もしいと思えた。自分にはモデルなどという華やかな世界は到底、似合うはずもない。
そう思う加奈子の心中を察するように、諏訪は加奈子を説得する。
 「モデルと言うと華やかな世界を想像するでしょうけど、パーツモデルは、決して表に顔の出ない地味な仕事です。そのくせ、体のパーツの美しさを維持するために、普通のモデルより数倍の、根気強い努力が必要なのです。そんな苦労をしてもパーツモデルを続けるのは、ごく限られた人間しかできない、持って生まれた美しさを誇れる仕事だと自信を持っているからです。もし、あなたにもその美しさがあるのだとしたら、何も始めないのは非常にもったいないことだと思いませんか」
 美しさ――。
 その言葉は加奈子の憧れであると同時に、自分には一生縁のないものかもしれないと思っていた。だから、加奈子の中にも美しさが芽吹いているという社長の言葉に、加奈子の胸はどうしようもなく震えた。
加奈子は勇気を持って声を出した。
 「その……わたっ……わたしだって、みにくいアヒルの子から美しい白鳥になることができますか?」
 「はい?」
 思わず諏訪は聞き返すが、間髪を入れずに彰二が言い返す。
 「アヒルの子はアヒルの子だろ。白鳥になんかならない」
 生物学的にそれは正論である。そんな事はもちろん加奈子だって知っている。加奈子が言いたかったのはそんな事ではない。加奈子は青年を睨むと、青年もまた、サングラスの奥から、加奈子へはっきりとした強い視線を投げつけた。
 「アヒルはアヒルなりに魅力的で、決して白鳥に負けているとかそんなんじゃないだろ。そもそも白鳥が綺麗だって言う奴もいれば、長い首が気持ち悪いって言う奴もいるさ。アヒルもおんなじで、アヒル口が可愛いってもて囃す奴もいるんだから、アヒルだってしっかりと需要があるんじゃないか」
 その彼の真剣な語り口に、言葉の真意をほとんど理解できていない加奈子であったが、聞き返せずに黙り込んでしまう。
 加奈子より読解力のある爽太はおおよそ理解できたらしく、落ち着いた様子で加奈子に代わって対応した。
 「二人のお話は分かりました。しばらく考えさせて下さい」
 
 こうして、加奈子の元に一枚の名刺が残された。
 加奈子はその名刺を家に持ち帰ると、十年ぶりに開いた「みにくいアヒルの子」の絵本にそっと挟み込んだ。
rab1
2012年12月25日(火) 02時06分18秒 公開
■この作品の著作権はrab1さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 少女が成長する話の前段のお話です。
 読みにくいかもしれませんが、読んで感想を頂けるとありがたいです。
(誤字脱字等の指摘でも大歓迎です)
 よろしくお願いします。

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No.1  帯刀穿  評価:20点  ■2012-12-31 11:54  ID:DJYECbbelKA
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ごく普通の作品ながら、それをきちんとまとめていたことがよかった。
幼少期から青年期の移り変わりの妙は、お見事。
本人と、周囲とのギャップ。自意識過剰になりがちな年齢の描写が上手い。
下手に顔の造作や仕草で勝負するのではなく、ストーリーと人間関係、心と自意識で表しているのは良いところだろう。
ただ、顔の造作や仕草はダメというわけでもないので、加筆することにより、完成度を高めることも可能。
切磋琢磨するためのサイトという面でいえば、目標の一つとしても、間違いではないように思える。
目標にかかげるかどうか。あとはrab1 さんの選択次第だ。
気になるというほどではないが、時間設定がはっきりしないので、脳内で物語の再生が、ぼやけていた。
総レス数 1  合計 20

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