吐瀉物
 油のようにぬめった思考にどっぷりと浸かり夜の道を散歩していると、気違い浮浪者が僕とのすれ違いざまに嘔吐し、その吐瀉物の飛沫が僕の足に少しだけ付着した事も知らずに、気違いは通り過ぎた。
 街頭に照らされぬらぬらと光る吐瀉物と、気違い浮浪者の丸まった背中を交互に見ながら僕は屈みこみ、密集する脛毛に付着した嘔吐物の断片を手で掃った。手に何かを感じた。脛毛から手に移動したものは未消化の固形物だと知った僕は、おもむろに手を鼻に近づけてその匂いが鼻を強く刺すような臭さであったから、笑った。
 臭いものほどよく嗅ぐ僕は、一回、二回、と手を鼻に近づけては遠ざけるという動作を繰り返し、三回目で笑いと同時に、おぇっと嘔吐いた。目尻に涙が浮かんでき、それは笑いの涙なのか嘔吐きの涙なのか、僕にはよく分からぬ事であったが、嘔吐いた勢いで鼻の頭に未消化の固形物が付着した事を知ると先程までの痴呆のような心持ちとは一変して、冷静になった。
 恐ろしい物でも見るように薄く目を閉じて、鼻の頭にべっとりと付いた固形物を人差し指ですくうようにして取ると、僕の横に聳える電柱にそれをなすりつけた。そうして次は皮膚を削るように、電柱に何度も何度も掌を擦りつけた。
 そして、そっと、慎重に、化学薬品を嗅ぐ小学生みたいに、手を鼻に近づけた。むんとする重い土の香りと吐瀉物の臭いがした。咄嗟に顔を仰け反り僕は更に冷静になり、急に現実を見たような虚脱感に襲われたのだった。
 土と吐瀉物の臭いを纏った手をだらんと下げ、道に立ち尽くしたままの僕。
 不安定な心持ち。そんな時、ふと影絵を見るようにうっすらと色々思い出される。さっきの浮浪者の事。母の事、父の事。それに僕がニートである事。僕は何をやっているんだろうか。一体何がしたいのだろうか。僕は分からずにいる。母に申し訳なく、父に申し訳なく。なにも僕には分からない。
 ただ、夜の闇と、掌に残存した吐瀉物の臭いだけがそこにある。僕は空っぽだろうと思う。秋風は僕が存在していないように吹く。気違い浮浪者は僕がいないように嘔吐する。
 思考は嘔吐物を発足点とし、立ち尽くす僕の膝の当たりで浮遊し、混濁としてき、いつの間にかに解決せずに荒れた胃に蓄積されていく。
 いつまでたっても悲しいままの僕は結局のところ、時の進むままにただ狼狽え、蓄積された悲しみが悪臭を纏って匂うだけだ。
 秋風が去る、時が去る。ただ悲しみの嘔吐物の香りだけがあるのだから、僕はやってられないよ。
com
2012年09月26日(水) 00時59分11秒 公開
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