イカロスの翼をもって
0、
 7年ぶりに足を伸ばしたのは、前触れだったのか。
 早朝の青い灰色の空から注ぐ柔らかな陽が、新緑を透けて照らし出す中を、留美は記憶と照らし合わせるようにして歩いていった。
 傾いだ木が逆さに映る水辺の風景は、西洋美術館が以前に展示を行った、ロマン主義のフランスの画家の絵に似ていて、しっとりと蒸気を含む空気のせいで、石段がくすぶった雲のように見えた。
 留美は、階段を登りながら、ここで行われた現実感のない出来事を思い返していた。それは悪夢であると同時に、興奮させる良いものでもあった。スカートの襞の内側に侵入してきたさまざまなものを想起している、そのとき、留美は、兄が数日後に帰ってくるとは、思ってもみなかった。
 財産分与の書類をまとめるために、兄の同席が必要だと、養父たちが話しているのは聞いていたけれど、ただ、気が焦っているのだと思えていた。母が元気なのだから、相続には何十年もかかると思っていたので、兄が帰ってくるようには考えていなかったのだ。
 留美は、階段を半分登り、かつての思い出の特に濃い場所にまでたどり着き、そこでペットボトルの蓋をあけて飲んだ。炭酸ガスを含んだ水は少し酸っぱく感じられ、口の中でパチパチと空気がはぜる。そのたびに、緑を溶かした霧の味が舌の中へ浸入し、留美のささくれだった心を落ち着かせてきた。

1、

 赤いフォードのカブリオレ、その流線型の車体が国道を走り、渋滞を抜け、いくつかの峠を越えていく。
 楓は、たなびく髪を押さえつけようとしてバレッタで格闘をしていたのだけれど、どうしても滑り落ちてしまうので諦めて、運転席の輝彦のバンダナを奪ってその布を自分の額にぐるりと巻いた。手にからまっていた髪の毛が薄い布に包まれて、視界は開けた。けれど、初夏の陽が目にちかちかとして、その葉を通した斑の陽射しが、楓の夫になったばかりの輝彦の顔に斑点をつけていた。
 輝彦は頑固なタチであるけれど、楓がワガママをいうのは楽しむところがある。新車も、楓が無理をいって頼んだもので、二人は給料を切り詰めて五年以上もの支払いを続けなければならなくなった。嫌でも事務所を開いて、成功させなきゃならなくなったと輝彦はつぶやいていた。
 輝彦は解かれた髪を撫でて、不服といった具合に眉をひそめていたけれど、本心から怒っているのではないことが、どこか陽気な仕草に表れていた。
 早朝から機嫌が良くて、目的地に近づくにつれて目に見えて晴れやかな表情へと変わり、ハンドルに置いた手でリズムを取るまでになっていた。珍しい、彼らしくない仕草だった。
 楓は、一度も訪れたことのなかった輝彦の故郷に、初めて向っている。ここまで故郷を喜ぶだなんて楓には驚きだった。それというのも輝彦の地元へ行ってみたいと騒いだのは楓の方で、けれど輝彦は、質問をはぐらかしてきたのだ。
 学生時代の先輩に、結婚は家と家との関係だよという話を聞いていたものだから、輝彦は交際について真剣ではないんおかもしれないと不安になったからだ。けれど、子供時代の話を聞くと、輝彦は、楓はどうだった? という逆に質問を投げ返してきたのだ。
 楓が輝彦と知り合ったのは、二年前のこと。
 大学を卒業してからずっと、私鉄の沿線から歩いて15分かかる古びた税理士事務所で事務員として勤めているのだが、採用されてから一年が経ったある日、社長の後輩である輝彦を紹介されたのだ。
 輝彦は始めて会ったとき、楓に対して異性としての興味を持っていないように思えた。ほかの異性がいるか探ろうとする質問などないし、どの程度親しくなりたいのかという算段もなされているようには思えなかった。そうして、ただ、先輩である戸田の仕事のこととその動向について興味があるといった具合に思えた。
 その頃、輝彦は、試験を受け終えたばかりで、税理士となるために必要なたくさんの資格を若くして有していたが、まだ、事務所を開くだけの資金や仕事にする際の大まかな流れといったものも掴んでいなかった。だから、別の税理士の事務所で楓と同じような雑務を行い、楓よりはより難しい書類の作成を行っていたという。
 その日、楓は、彼がどのような仕事についていて、将来設計を持っているのか知らなかった。けれど、どこか理屈にならない部分で彼に興味を持つようになった。理知的な容姿もさることながら、その仕草や声質、話すときのテンポや表情の変化の仕方に、強い興味を覚えたのだ。込み入った話をすると、そのややこしく絡まった毛糸玉のような状況を整頓させようとする、その瞬間に目が輝くのが印象的だった。それは理知的な彼のあり方を食い破る、どこか野性的な光だった。
 楓は、ことあるごとに彼と接点を持とうと試みた。それは、税理士の戸田が、内心、彼女と彼を結び付けようと考えていたということもあって、楓が好ましく思ったことを伝えると、いくらでもお膳立てしてもらえたのだ。
 会うたびに楓は、さまざまなことを輝彦に話していった。輝彦はとても聞き上手で、楓はここまでたくさん自分のことを人に語ったことはなかった。彼も次第に自分のことを話すようになった。けれど、それは、どこか作られているように感じるものでもあった。蛇口をひねって水が流れるのを任せるように語っているのでは決してなかった。その隔たりは、かさぶたのようで、ひっかきたくなり、それがかえって楓の心を強く揺さぶったのだ。彼女は、将来の夢に「結婚」などと書いたことのない、両親の結婚も遅い自分が、なぜ出会って間もない輝彦と結婚したいと思い、伝えたのか、疑問に思うときがあり、それは、ただ、闇雲にひっかくうちに、徐々にそのような形へと変わっていったように感じられた。
 そうして、輝彦は責任感の強いタイプであったのだ。夜に逢い、お酒を飲んで体を抱き締めたり、キスをしたりして、それらのことで楓の感情が揺れたのであれば、決して、ないがしろにしてはならないと考えるタチなのだ。
 楓は、自分は加わらないものの、遊び歩くことを好む友人たちを持っていて、彼女たちの話を聞くことが多かったので、重みのあるものを持ちたがるような輝彦に、さらに強い魅力を感じたのだった。

 ゆらゆらと身体が動く。「着いたよ」という声がする。目を開けると駐車場に停まっていた。楓は起き上がって深呼吸をする。
 輝彦の家は、広々とした庭があった。小さな木がいくつも植えられていて、どれも、うねるような幹をしていた。
 楓に質問された輝彦が、それらの木について名前をあげていった。これはビワ、梅という風に。松の木、池、石楼。古い農業用水についていた小さな水車。池に鯉はなく、何も生き物も見えない。湧き水だからよく冷えているというその池に手を浸すと、氷を握ったかのように冷たくて、あまちに透明で日陰にあるものだから、真っ黒な底がみえているのに、底なしであるようにも見えてくる。季節遅れの蛙が時折鳴いて、どこかに飛び降りている。
 しばらく庭を歩いていると、一人の女性が顔を出した。背が低く、輝彦の大きな身体つきに、似ても似つかない中年の女性だ。
 楓は、名乗って挨拶をするとその女性は、手伝いをしている田中だと名乗った。週に何度か掃除をしに来ているという。
 楓は、お手伝いをする人のいる家になど、初めて来たと思うのだった。
「今日は何日お泊りになるんで?」
 輝彦が、結婚の休暇を5日間もらったので、前後の週末を合わせて7日間の休みをもらっていると話をする。
 田中さんは、何ヶ月でも泊まればいいのにと言って、輝彦と楓を客間へ案内した。
 客間は、日に焼けた畳の匂いがした。二部屋に分かれるつくりになっていて、片側の部屋の床の間に、トロフィーや賞状が並べてあった。田舎の家らしい光景だった。
 楓は、自分の祖父母の家のように、提灯や、こけしやテナントが飾ってあったりしないかしら、と探し回った。
 客間の隣室は、輝彦の祖父や曽祖父にあたる人になるのだろうか、先祖の写真が白黒の絵画のような色合いの写真から、セピア色からカラーまで飾ってあった。その始まりには、慶応の年号が書かれている。
「いい部屋ね。こういう古い家、私、割合に好きよ。うちの祖父の家は台東区にあるんだけれど、実際、こんな感じなの。大きな仏壇があって、ガランとしていて。物置の中に、小売店をしていた頃の家の看板やそろばん、和紙を束ねた帳簿なんかが埃をかぶって置いてあるの。ご先祖の写真が並べてあったりする、そういうのもいいわね。生きている理由がある気になるじゃない? この人たちから生まれて、そのあと別の人たちに受け継がれるんだっていう……」
「受け継がれて続いているものの先にしか自分がないだなんて、恐ろしいことだよ」
 輝彦がどこか皮肉めいた笑顔を浮かべる。彼らしくなく、少し奇妙なことをいうと楓は思う。
 輝彦は、荷物を片付けたあとで、少し家を見て廻ると話した。
「君はここでゆっくりしていればいい」
 輝彦は、慌しく部屋を飛び出して、しばらくふすまの向こうで歩き回っていた。



 夜が更けて、風が強まり、障子をがたがたと鳴る。家全体が生き物のように音を立てて軋んで、しなっている。
 輝彦が、起き上がる。隣りに眠こんだ楓は夢の世界に浸っている。その胸元が青白く照らし出されているのを眺めて、それがかつての記憶の中にある裸と異なっているのを感じる。ふたつの女性の体が、二重の透かし絵となってみえてきて、すると、輝彦は、ここへ帰ってきたということが実感がともなわなくなる。現実のことには思えなくなる。奇妙な違和感。
 輝彦の中に眠る過去と、楓がもたらすものとが、現実と空想くらいに隔たっている。別のフェイズに分かれているものを無理に合わせているような。
 輝彦は、隣室へ移動し、そこにある桐の箪笥の引き出しを開けていった。そこに並べられた、着られることもないひいおばあさんが残した様々な着物を見るに、現実感のなさが、ますます強く感じられる。何らかのゲームソフトのなかに、日本の田舎町を訪れて、そこにある摩訶不思議な出来事を体験するというゆるい内容のRPGがあったはずだ。
 楓がいるというだけで、ここが古臭くてやっかいな場所というよりも、まるで、そういうテーマパークのひとつであるかのような、安っぽい設定に見えてくるのだった。
 輝彦は、自分はそのゲームの設定の中で、宝の地図を探すために箪笥に向かってAボタンと押している。次いで、大きな机に向かい、またAボタンを押すように引き出しを開けて、木がギシとなるのを聞いている。ゲームとは異なり、時折、削り忘れたままになって湿気によって痛んだ箪笥のささくれが、指にささる。
 指を唾液で濡らしてハンカチで拭いてから、箪笥の中にあるものをひとつひとつ外へ出して、それをまた元へ戻していく。白黒写真の裏や、壁掛け時計の中、たくさんの薄茶色の箱に入った本が並べられた本棚。輝彦は、携帯電話を持てなかった頃の習慣をなぞるようにして探し続け、やっと一枚の白い紙を見つけ出す。そうして、そこにある文章を読んで外に向い歩き出す。
 その頃、楓は、徐々に覚醒した。とりとめのない夢を見ていたのを覚えていて、その夢の中で輝彦のことを考えていたように思う。けれど、その夢でみた本人は、隣りの布団の上にはいない。輝彦はどこへ行ったのだろう。楓は、ゆっくりと上体を起こす。
 障子を通る淡い光が、畳みの上へ降り注いでいる。
 障子をほんの少しあけると、その隙間から、月の青白い光に照らされた庭の様子を眺めることができる。月の光は、案外に明るいもので美しい。
 ふと、階段を降りていく足音がするのに気付いた。その、決してうるさくはないけれど、ひとつひとつの音がはっきりと聞こえてくる様子が、女性の足音ではないことが分かる。輝彦の足音だろう。散歩でもするつもりかしら。到着してすぐに仮眠をとったものだから、目が冴えているのかもしれない。
 しばらくして、障子の間から、輝彦が庭を横切っていくのがみえた。楓は、声をかけようと思ったが、彼の歩き方が、散歩というには気ぜわしいものであったからやめた。彼は一直線に、目的の場所に向って移動している。その様子は、庭を横切るのらねこのそれによく似ていた。30歳になったばかりという年齢に似合わない、身体を動かすのが好きな思春期の子供のように、鋭敏だ。
 楓は、パジャマを脱いでハーフパンツとカットソーを着た。そうして、ほどいた髪を束ねながら、階段をおりる。輝彦の歩き去っていった方向を思い浮かべながら。
 玄関に来て、靴を履く。庭の土を踏みしめると、植物や土の半分くさった甘ったるい、むっとする匂いが立ち込める。
 楓は、とにかく彼が去っていった方向にむかって歩いた。次第に、ブロック塀の囲いが見えてくる。その塀に沿って進むと、その先に白い月が浮かんでいて、驚くほど大きいのが分かった。月は意外と明るいもので、懐中電灯が必要ないようだ。
 塀の向こうには、夜には真っ黒にみえる木々が並ぶ場所がある。近寄ると果物に似た甘い匂いがする。桜の木だ。桜は、咲いている頃よりも、葉が生えるころになると匂いが強くなる。まるで葉が芽吹くときに、樹液という血を零しているかのように。そこに混じる腐葉土の動物性の臭いと、青葉の匂いの混じった空気を感じていると、風の音に混じって、誰かの話し声が聞こえてくるのが分かった。
 塀の向こう側から声は聞こえくる。若い女性の声だ。
 楓は、見知らぬ土地の人に会って、輝彦の妻だと挨拶をするいうのは、若干、面倒なことにも思え、何より、真夜中に顔をあわせるのも心地よくないものだから、引き返そうかと考えた。けれど、話をする声のうち、ひとつの声が聞き慣れた輝彦のものであることに気付いて、楓は途惑い、その場に立ち竦む。
 心臓が速く打つ。不安を覚える。
 壁に眼を凝らすと、楓の視線より少し上に飾りの穴が開いている。そうして、勝手口もあって、その木でできた簡素な扉が、ばたばたと風に動かされている。
 楓は、扉の方には近づかずに、壁へ身を寄せた。
「これが、お父さんの偉業をたたえた記念碑」
 女性の声ははりがあって若く、けれど、同時に、低く落ち着いた調子でもあった。若い女性が、自分を大人びてみせるために低い声を使っているという雰囲気がした。その声は風の向きによって、途切れたり、また流れたりする。
「君がいることは、少しも知らされていなかったんだ。困ったな」
「何が困るっていうのよ。私たちの思い出の場所じゃないの」
 楓は、塀のブロックの飾り穴に見を寄せて、彼らの様子をうかがう。その見知らぬ女性は、輝彦に身体をぴったりと重ね合わせて、その背の上に指が這っていた。彼の白いシャツの色より、濃い色をしたその女性の手は、細くしなやかだった。楓は苛立ちを抑えながら、どのような女性なのか想像を働かせる。その手の様子は、野外のスポーツをしている人の手のようだ。身体つきはほっそりとしていて、輝彦の身体に、完全に隠れている。
「ずっと会いたかったのよ、輝兄に。戻ってきてくるものと思ってたわ。いつも、話しをしたいと考えていたの。兄さんの考えることを知らなくちゃ私としても困るからね」
「俺の考えていることって?」
「除幕式の細々とした相談。色んな人を呼ぼうとしたけれど、父の方の知り合いは多くが断ってしまったわ」
「しかたのないことじゃないか」
「でも、哀しいじゃないの」
 女性は泣き始める。そう、多分、泣いている。それは、深い息の仕方や痙攣に似た身振りによって、遠くまで伝わるものだ。けれど、彼女は声をあげてはいず、時折、顔をあげて目がぎらっと輝くようにしていた。その、瞳の強さに見覚えがあった。それは、輝彦の目に似ていた。
 女性が一瞬、楓の方を確かめるように見た。
 楓は咳払いをしてから、勝手口へ向かい、彼らに近づいていった。忍び足になどしないように、かといって、大きな音を立てて驚かせたくもないと、気まずさを腹の底に抱えるようにして歩いていった。
 近づくと、輝彦は驚いたようにぱっと飛びのいた。楓は、緊張する顔の頬のあたりを、解すようにちょっと撫でた。女性は眉をひそめたまま、その表情に変化はなかった。
 楓は微笑んだ。輝彦が抱きしめていた女性の顔立ちが、とても彼に似ていたからだ。
「初めまして。輝彦の妻の楓です」
「兄がお世話になっています、妹の留美です。初めまして。ここまで来るのは遠くて大変でしょう。何にもないところですけれど、これから一週間、楽しんでいってください。アニキ、私、もう帰るから。お姉さんも、風が強いから気をつけて。ここは近くに崖もあるから、昼間でも、一人では歩かない方がいいですよ。アニキにちゃんと送ってもらってくださいね。それでは」
 留美は、妖精のように身軽に、楓の横を通り抜けて家へと戻っていった。彼女は確かに輝彦に似たところがあって、むしろ輝彦にあって楓を惹きつけている要素が、そのまま自然な形で伸びていったという雰囲気があった。
 留美のあとを追うように輝彦の家に戻りながら、楓は気持ちが落ち込んでいくのを感じた。留美の活発そうな様子がうらやましく思えたのだ。そんな楓の様子に気付いたのかどうか分からないが輝彦は楓をいたわる様に歩き、キッチンでコーヒーを淹れて、楓に差し出した。
 しばらくして、留美がそのキッチンに入ってきた。彼女は金の縁取りがある赤いグラスに、無造作にブランデーを注いで飲んだ。
「これは、スペインで祖母が買ってきたものなんですよ」
 留美は、赤いグラスを指差して語り始めた。その中央には薔薇の文様が描かれていて、小さなころからこのグラスが気に入っていたのだという。
 彼女の祖父がスペインで購入した物であり、留美は、一度、その工房を見に行ったことがあるという。それは彼女が大学を卒業して小さな美術書の出版社の営業の仕事を手伝っていたころのことで、そのバイトを通じて溜めたお金を使って、スペインの各地を見て回る計画を立てたのだという。
「スペインの町は、その地方によってまるで違うのよ。町並みも違えば、そこにある文化も、人の背丈や、体つきまでも違う。どれも小さくまとまっていて、きれいな町の形を描いて旧市街があって、そこから少し逸脱するように新市街が作られているの。きちんとしているといっても、京都や北海道の札幌の町のように、碁盤上を描いているのとは違うんだけれどね。放射状になっていて、どこを歩いていても中心にある広場や教会にたどり着くの。そうして、丘や小さな山や、とにかく坂道を歩いていけば、お城にたどりつく。とても町らしい町なのよ」
 そこまで話して、彼女はブランデーを口に運ぶ。その瞬間に、楓は、目の前の輝彦によく似た女性から、どこか黒砂糖に似た匂いを感じる。
「私は、旅行のガイドブックに載せる文章を書く仕事をしているのよ。デザイナーの渡すテンプレートに沿って、写真を貼り付けたり、拡大したり、画像が粗かった場合、連絡を取って別の画像を送ってもらったりしてね。ガイドブックの仕事が数ヶ月に一度、それ以外はネットの旅行サイトの掲載の代行、鉄道会社の旅行のチラシを作ったりしていてね。毎日、数字とにらみ合わなくちゃいけなくて、いつも肩こりよ。私、もともと視力が遠視気味だから、近くを見続けていると頭痛がしてくるの。良い点は、短期間集中すれば、あとは自由な時間がいくらでもあること。ガイドブックの仕事は、締め切りまでに仕上げればよいから、進め方や何かはこちらの自由に任されているの。出勤の時間も、退勤も何もない。携帯に連絡があるまで、打ち合わせの呼び出しがかかるまでは、家で仕事をしていてもいい。田舎に帰るときは、さすがにその旨を伝えて、あわただしい仕事を別の人に頼んでしまうけれどね」
「素敵な仕事ですね。旅行の写真をみたり、文章を読んだり、もちろん書いたりしながら時間を過ごすというのは、充実されているように思います」
「そう思えるかもしれないけれど、人が憧れる分だけお給料にはつながらないわ。兄さん、ちょっとこれを目を通しておいてもらえない?」
「何だそれは?」
「いいから、一応、読んで。兄貴」
 プリントの束が留美から輝彦に差し出される。輝彦はその文章をじっと眺めてから、
「どうしたんだい、これは」
「それ、家の中にある不用品を片付けたのよ。旅行に行くには、ちょっとばかり足りなかったから」
「毎月、弁護士からもらっているはずだろう」
「それだけじゃ、とても足りないの。私が紙面を作って得ることのできるお金なんて本当に少しなのよ。旅行するには足りないわ。それに、アニキは知らないだろうけど、ここの維持費ってとってもかかるんだから。誰かが、一日中、掃除をして過ごすことに決め込むか、手伝いの人を雇わなくちゃ、割が合わないの。そうしないと庭が、すぐに林に変わってしまうわ」
「相談してくれてもよかっただろう」
「兄さんにどうやって連絡を取ればよかったのよ。兄さん、連絡先を変えたの? 忘れていたのか故意なのか知らないけれど、連絡先がつかなくしたんでしょう。ところで、兄さん、もうひとつ報告があるんだけれど、私、記事を書く仕事の中で編集をしている知り合いを得てね。その人たちにここでの生活のことを話してみたら、小説にしてみてはどうかと言われたのよ」
「ここでの生活? 嘘だろう」
「いいえ、嘘じゃないわ。後で兄さんに見せるから読んでみてよ。評判、いいのよ。古典的でオーソドックスだけれど面白いって。それじゃあ、私、そろそろ眠るから。楓さん、昼には一緒に街を回らない? この街について教えるわ」
 そこまで話しをして留美はガラスを流しで洗い、真っ白い布巾をつかって何度もこするようにしてふき取り、戸棚へ戻した。戸棚に入った赤いグラスが、戸棚の影の中で、何か鈍く光る縁取りを持つ、ざくろの色に変わった。

3、

 翌日の昼を食べたあとで、楓は、輝彦と留美に、町を案内してもらうことになった。
 始めに、ひっそりとして人気のない資料館を見てまわった。早く歩けば2、3分で歩き終わるくらいの広さだったが、時間をかけて、そこにある文章を順番に読んでいく。
 この地域は、万葉の古い歌にも名前が記載されているけれど、一旦、歴史、記録から姿を消している。再び、名前が残るようになったのは、室町時代の前後に廻船の船が停泊する港が開かれたからで、蔵が作られ集落が整っていったという。資料室には、廻船の船の模型や、紋の入った一枚の帆がショーケースから引き出されて飾られていた。その時代が町のピークであり、のちは、徐々に小さくなっていったようだ。明治になってから、港が利用されることが減り、単なる小さな漁村のひとつへと代わってしまった。戦争のときも、誰も狙わないような小さな村になり、爆撃は何かの間違いでひとつ落ちて、小屋がいくつか焼けた。港は、壊れなかった。けれど、戦後の好景気の機会を得ることもできず、工場への出稼ぎと移住が起こって、ゆっくりと縮小を続けて現在に至るという。
 資料館を見終えたあと、その傍にある小さな文具店に立ち寄った。ノートやトンボのマークのついた鉛筆のほかに、縄跳びや駄菓子が置いてあり、官製はがきや煙草も売っている、どこの田舎にもある古いコンビニのようなお店だ。
 そこで、3人でアイスを買って食べた。留美は、緑色の食紅がついた輝彦に舌を出すように笑い、自分はそうならないようにバニラアイスにしたのだと笑いながら話していた。楓は自分の舌がピンクになっているか輝彦に訊ねてみて、はっきりした答えが返らないので留美に聞き、きれいな色に染まっているという言葉を聞いて笑った。小学生の頃だったら、それらのことが本気で気になったと思い、何か、その外側をなぞっているような心地がした。
 一旦、家に戻り、自動車に乗って町の周辺を車で散策する。健康ランドがあり、ゴルフ施設があった。兄妹は、車で入れる娯楽施設について順番に名前をあげて、それらについて、補助金を得たものは長持ちし、それ以外は経営者の気まぐれで去っていくという繰り返しについて、いくつも例をあげて話していた。こじんまりした町は、物事の性質がはっきりとしてくるのだなと楓は考えていた。楓の住む町では、新しい物の名前をあげていくだけでいつまでも時間が経つので、それらがどうしてその場所にあるのかなど、興味が湧かないものだから。
 
 夕暮れに、小高い丘となっている場所にある神社に登った。そこは、油を張って縄をそこにつけこんだ小さなお皿を売っていて、これに火をつけて、棚に飾るのだという。
 見張っていなければならないのだから、おみくじなどよりも儲けが悪そうだ、なんて輝彦が地元の方言を使いながら話しをして、その場にいた神主さんが、神様が見守っているので火事になることはありませんよと答えていた。
 楓は1セット購入してみることにした。涼やかな風が吹く中で、神主に借りたチャッカマンで縄に火を点けて、棚に飾った。兄妹も、じっとその光を見入っていて、子供時代の話しなのか、ここに来たときのことを話し始めていた。
 彼らはそのあと、方言の強い言葉で、この地域のことを話し始めた。別の地域から資産家の男がやってきて、湖辺の一帯の地域を買い取ったという話。町の税金が増えて、お祭りもにぎやかなものに戻ったという話。そうして、それは一種のまやかしのようなもので、その資産家が亡くなれば、また、ひっそりとした町に戻るだろうと、そんなことを話しながら輝彦と留美は笑っていた。どこか突き放したように冷笑していた。
 神社を後にして、輝明だけが用事があると言って帰っていく。
 楓は、留美とふたりで、町の景色を眺めながら神社の境内から町を下っていった。神社には正面の階段のほかに、おみこしや山車を担ぐ、夏の祭りの中で使う階段があるといい、途中で途切れてしまっている古い階段が残っていて、近道になっているというので、二人はそちらの階段を見に行った。そこには、角が取れた石が、まるで自然の造形のように不規則に並び、苔生していた。もろい石で作られているのよ、と留美が話しながら、手を思いっきり上へ伸ばして、深呼吸していた。
「この道は、とても滑りやすいのよ。気をつけて歩いてね」
 そう話しながらも、留美は、ほっそりとして美しい足で、跳躍を繰り返すようにして素早く歩いていった。
「一度、ここで足を挫いたことがあるのよ。アニキが私のことを探し出してくれるまで、私、ずっとこの緑の中で待っていたわ」
「よく、外で遊んでいたんですか」
「室内で遊ぶようなものが、家になかったからね。私の家では、テレビゲームも、マンガも禁止されていたのよ。テレビも基本的に見てはいけなかった。そういうのを破ると、叩かれたりしたしね。アニキの方は、友だちに借りて帰ることがあったみたいだけれど。基本的に、家の中では、本を読んだり、物を作ったりして過ごすしかなくてね、うんざりするくらい同じ本を、内容を覚えるくらい読み返して過ごしていたわ。アニキは勉強をたくさんしていたわ」
 楓は、輝彦の注意深くはあるのに、どこか内向的な様子を思い返しながら、うなずいた。そうして、滑る石を避けて、その脇の土の方へ降りた。履いていたサンダルが土の中で入り込んでいく。その土は、湿度が高く思え、何か、中で苔のようなものが腐敗していっている気配がしていた。
「輝彦さんが、そういう生活を送っていたとは知りませんでした。ただ、それって、とても、ちゃんとした教育を受けてきたんですね」
「ただ、それって? ちゃんとした教育?」
 留美は眉をしかめた。その鋭敏に角度をつけた眉の下で、強い目がふっと笑い出した。
「変わった言葉使いをする人ね。関東の人はそういうしゃべり方なのかしら。とにかく、私たち二人でいるうちは、それでよかったわ。けれど、いつまでも二人きりで生きていくわけにはいかないでしょう。問題は、いつか外へ出なくてはいけなくなるってことなのよね」
「このままではいけないと思うきっかけはありますか?」
「きっかけなんて、特にないけれど」
「あの、ひとつ聞きたいことがあるんですが」
「ええ、どうぞ」
「輝彦さんと池袋という都心の一角を歩いていたときのことなんですが、そこで、彼のおじさんという人に会いまして。そのとき、おじさんは彼に酷いことを言って。それが、何ていえばいいのか、印象に残っているんです」
「どんなことを言ったの?」
「それは、はっきりと覚えていないんですよ。そのときの、その人のしゃべり方の緊迫感が強く印象に残っているのですが、結局、どのようなことを話したのかまでは覚えていないんです。けれど、そのときから、彼は私にすべてを見せていないというか。本当に彼が抱えているもの、つらかった過去などを内緒にしているように思えて、本当の彼とでもいえばいいのか、そういった人を知らない気がしてくるんです」
「困ったな。兄貴に直接聞けばいいんじゃないの?」
「たまに聞いてみるんですが、はぐらかされてしまって」
「でも、聞いてどうするのかしら。それで何か将来がよい方向に変わると思うの? 人は、過去に生きているわけじゃないし、過去の『話』なんて聞いたところで、その瞬間にあったものを想像することは難しいものだから。再現はできないのよ、その当人たちにしか。だから、話しても決して過去を共有できないと思うの。だから、兄貴が話し手いないんなら、私も、話すことはできないわ。そう、例えばになるけれど、私たち、ごっこ遊びをして楽しんできたけれど、もうそれに夢中になることはできないし。子供時代のことなんて知る必要ないんじゃないの?」
 楓は、留美の言葉にうなずきながら、その輝彦を知る人が話した「あんたが、あの子を殺した」という言葉の真偽を尋ねることは出来そうにないと感じていた。それこそ、知らなくていいことは、知らないままにしておいた方がいいのかもしれない。けれど、定期的に知りたくなる。何かあるのなら共有したいと思い、何もないのなら安堵したい。
 ただ、この留美という人は、話さないと決めたら話さないでいそうにも思えた。
 楓は、しばらく、黙り込んでいたようだった。ふと気づくと留美が振り返っていた。
「よかったら、今日の夕食が終わったあとに、バーへ行かない? アニキの初恋相手がやっているから」
 楓は、行きたい、と答えた。

3、

 その頃、輝彦は車に乗って、母のいる田内の家に向かっていた。
 田内の家は輝彦たちの家よりも大きく、手入れが行き届いている。その庭をぬって鳴り響くピアノの響きには完璧な美しさがあった。ややヒステリックな和声が膨らむようにクレッシェンドをして広がり、上り詰めていく。その完全さを持った調整に、輝彦は悲しさを覚える。
 この音楽は、強さを保ったままで人の心をノックしようとしている。完璧な和声でフォルテッシモで演奏させると、容赦のないものに聞こえる。この音楽を作り出すために、弾いているときを除けば何もない人間が作られていく。彼らは、一生を音楽の供物として捧げてしまうのだ。そうして生み出された音楽の力強い和声に輝彦はぞっとする。輝彦は、クラシック音楽というものを、哀しく感じた。田内と再婚した輝彦の母は、国内で演奏をするピアニストだった。
 輝彦は、音楽について聞いていられないと鳥肌がたつのを感じながら、ドアを開けた。そこは、数々の調度品が置かれながらも、シックで落ち着いた部屋であった。
 輝彦の母は、輝彦が姿を表してしばらくして演奏を止めた。そうして、何度か再び弾きだそうとして、けれど弾く気力をなくしたのか、すぐまた、手が止まる。そうして、強い苛立ちをその表情の上に浮かべて楽譜を衝動的に払いのけたあとで、鍵盤を叩きつけていく。拳を握り締めて、ピアノの不協和音をならしていく。何度も、何度も。胸元が、徐々に汗ばんでいく。飴色をしたネックレスが、彼女の痙攣に似た腕の動きによって、ポップコーンのようにはねる。今、その胸に至る皮膚は皺がよっている。きめの細かさはない。
 鍵盤の激しい音に、輝彦は、自分を追い出そうとしているんだ、と気づいてくる。
「母さん」
「あんたたちは悪鬼だよ。あんたの母親なんていないよ」
 輝彦はふっと笑えてくる。癖なのだ。緊張すればするほど、不条理や理不尽を感じる都度、笑えてくる。
「俺たちは、母さんの子だろう」
「あんたの笑い方、どんなに残酷なことだろう。あんたたちは、私のことなんて知らない」
「母さん、静かにしなよ。顎の線も、頬骨も、母さんに瓜二つだ。僕は、ただ、伝えに来ただけなんだ。明日は、父さんの彫像の除幕式があるから、母さんもどうかと思って」
「父さん?」
 彼女の目がぎらりと光く。その紅を塗った口の広がり方に、かつての面影をみえる。秀でた額と、少しばかり節がありながら高さのある鼻、大きく横に広がった口元と、高い頬骨、小さな顎のバランスの中に。一般的な美人の基準からは逸脱した、意志の強さが垣間見える、かつての彼女の表情が。
 今は、ゆるやかな肉に覆われて、魅力的であった口元も緩んで、しわだらけになっている。単に、老いた女性として見ているのであれば、それほど醜悪には感じないのに、なぜ、かつての面影を見出したときに、こんなに不安になるのだろう。
 ピアノの音が鳴ると特に、かつてのたくさんの人を魅了して、特に幼い自分を夢中にさせていたワガママな女性が、その影をまといながら別の姿をしているのは、何かを手にして壊したような心地よさと恐ろしさとを同時に感じさせる。
「あんたの父さんは、とんでもない悪党だったよ。卑怯者だった。ごまかすことしか、自分のことしか考えない、だから、追い出されてしまったんだよ。それなのに、何を今ごろ、あんな男の彫像を作ろうっていうんだい」
 彼女は立ち上がっていらいらと動き回った。狂的に輝く猫に似た目が留美に重なる。目の前の女性は豊満な体をしているのに大して、留美は、小枝のようにほっそりとしていいる。けれど、留美も、内側に眠る身体のバネや、体つきに見合わない、ふくらんだ胸元も、意外と肉のついた腰や腿のラインなど母の持つものを秘めていたので、明らかにその血は同じであった。そうして、目の前の女性は、自分の顔と、ほお骨や顎が似ているのだった。
「あんた、もう、ここから出ていきなさい」
 彼女は、人に指示をするときの癖である、どこか睥睨した調子で、輝彦に出て行くように声を張り上げていた。知彦は、子供だった頃、母は絶対だったと思い出す。
「早く、出て行きなさい。あんた、父さんにとてもよく似ているね」
 似ているね、の一言をいう瞬間に、その声が急に柔らかくなった。そうして、一種の発作がおさまったかのように、急にふっと微笑んできた。
 輝彦は身震いした。そんな輝彦の変化に気づかないのか、彼の母は優しい調子で昔話を始めるのだった。真意が分からない。輝彦には何が何だか分からない話であった。戸惑いながら、うなずき続けていると、徐々に母の表情が悲しげに曇っていくのだった。
 一人の男としての父に話すように話ているのだと思い、あれだけ罵りながら父を愛していたときの記憶があるということに、輝彦は、半ば呆れ、半ば感心し、大いに戸惑い恐れながらしばらくじっと彼女の様子を見守った。
 そうして輝彦は、辛抱強く、母に、いくつかの手続きが必要であることを話し、田内にそれらの書類を見てもらうことを話した。母は悲しげな表情を一瞬浮かべ、そのあとでまた、同じように脅迫するのとなだめすかすのとを続けていた。
「愛してるよ、母さん」
 輝彦は、話し続ける母を置いて、そのまま部屋から出ていった。母は追いかけて部屋から出てくることはなかった。玄関の扉をくぐると、またピアノの音が聞こえてくるのだった。それは、父と母が大切にしていた曲だった。
 輝彦は急に疲れを覚えて、心の中で母に、未だにあなたのことを考えると寂しくなるし、あの頃のあなたに会いたくてしかたないけどね、とつぶやき、庭を突っ切っていった。
 この母の再婚相手の住む家は、かつて自分たちの祖父母が住んでいたのだ。その頃、祖父が竹とロープとで作ったブランコがまだぶら下がっていた。自分と留美が順に、ときに二人で一緒に乗って遊んだブランコは、今乗ると重みで綱か木の枝が折れてしまうだろう。それが、まだあるだなんて驚きだった。日が暮れて、あたりがひっそりと冷たくなっていく中を、それはゆらゆらと風に揺すられていた。

4、

 輝彦は秋本の宅へ向かった。秋本は、ここに住み始めて数年の男で、既に町の名士になった人物であり、湖岸線と平行した道の、景色のよい場所に居を構えていた。
 チャイムを押すと玄関先まで秋本氏は出迎えてくれた。壮年の男で、枯れ枝のような手をして握手をしてきた。そうして、輝彦ににっと笑いかけて、噂はかねがね聞いていますと言った。輝彦はどのような噂かと思ったけれど尋ねる気も起きなかった。人々が描いた幻想へ自らを同化させた方が正しくも思えて、同時に、受け入れた瞬間に心が壊死するようにも感じられたのだった。
 大きなデスクのある室内に通される。そこに、町長も来ていたが、彼はしばらく立ち上がることもなく時計を眺めてから、無言で輝彦の顔を見ていた。
「兄さん、主役が遅れてきちゃ駄目じゃないの」
 町長の向かいに座っている留美がいう。
 輝彦が慌てて遅れてきたことをわびると、町長は先ほどまでの無言を改め、にこやかに微笑んで輝彦に握手を求めた。政治に関わろうとする人たちに多く見られるタイプの温かくなごやかな、人当たりのよさと馴れ馴れしさもある仕草だった。演技のうまい人というのは薄皮一枚ではなく、奥深くの何かまで、その瞬間、変化させて成りきってしまう。そして、不要になるとすっと健忘症か何かのように、それまでの態度のことを忘れてしまう。そんな、心地よいのだけれど同時に中身が不在であるようにも感じられる様子であった。
 室内には、義父の田内もいた。輝彦は、再度、町長と秋本氏、義父に遅れてきたことを謝りながら、ろくでもないことが始まろうとしていると感じていた。
 隣室から一人の神経質そうな男がやってきて、輝彦に名刺を手渡してきた。秋本の親戚にあたる弁護士だということだった。その男は、
「それでは、手続きを開始したいのですが」という。
 輝彦が着席をするとテーブルに資料が並べられる。専門用語だらけの資料が読み上げられていく。
 提案されている契約は、違法と呼べるほどのものはなかったが、常識として考えられる売却の値段から随分と叩かれていた。留美が大した交渉もせずに、契約書にサインをしていったことが伝わってくる内容だった。忍耐の力もない彼女が、ビジネスに慣れた人たちから、半ば騙される形になるのも確かに当然のことと言えた。
 輝彦は、サインをする手をとめて、いくつかの質問をして権利の内容を確認していく。主に、売却を検討されているのは輝彦の家の周辺の土地で、管理せずに荒れさせてしまった低地についてであり、サインに応じるのを引き伸ばすと、公的な土地として寄付をするよう促されるという。交渉の余地などほとんどなかった。数ヶ月前から続くやり取りの中ですっかり決まっていたおり、単に彼らは、輝彦のサインを待っているだけなのだ。輝彦は、いくつか思い出のある土地の名に戸惑いを覚えたけれど、サインに応じるしか選択肢が思いつかない。
 きゅっという音のなる奇妙にひっかかる書き心地のペンを動かし続け、朱肉を押していった。
 それらの手続きを終えたあとで、出されたコーヒーで一息ついていると、部屋の外で怒鳴りあっている声が聞こえてきた。輝彦は、急いでそれを見に行った。
 エントランスには留美と義父がいる。
「ああ、輝彦か。お前、俺の家に入ったというのは本当なのか!」
「ええ、母の様子を見に行ったのですが」
「どうして相談もなしに勝手なことをするんだ。俺の家だぞ、お前たちのじゃない。誰が許可したんだ。何を考えているんだ! 勝手に入っていいと思うのか!」
 輝彦は、田内の様子が数年前と同じであることに戸惑った。
 このようにどなるということは、裏に何かあるのだろう。しかし、草臥れきった肌や白髪をみているとそれらを探る気も起こらなくなり、数年の間に人はここまで老け込むものなのかと思っていた。それとも、あの無言の期間、少しも顔を見ないでいるうちに、老いてきていたのだろうか。
「今は、あなたが暮らしている家でしたね。勝手に上がりまして、すみません。ただ、あの家は、僕の祖父母の家でもあるんですよ。子供の頃、よく出入りをしていた懐かしい場所になるんです」
「許可を取ってから入れ! あんたは、わしが妻を退院させたことに文句があるんだろう。どうだ? あんたは、ただ、わしがお金を浮かせるためにしていることだと思っているのか? 医者がそう勘ぐっているに違いないんだ。まだ退院させるなというやつらがおってな。お前の妹がいつまでも食いついてくる。だが、あんな狭い病室に暮らしていてよくなるとはどうしても思えんのだ。だから、家で様子を見ているのに、それなのに、お前たちは、わしがお金を浮かせるためだと言い始めるんだ」
 輝彦は、しばらく田内の様子を眺めて、この人はひどく疲れていると感じた。そうして、それらの疲れが単に病気の母と相対することで起こっているのか、隠された罪悪感がそうさせるのか知りたく思う。
 今なら、殴り殺すこともたやすいと感じ、それをうまく利用して相手を威嚇するには、精神的なものが澱んでしまっているのを感じた。怒りを呼び覚ましたら、殴り殺すまで暴力的になるかもしれない。それらを起こさないように、ピアノの厳しい音か何かのように聞き流す。そうするうちに、かつて憎んだ壮年の男とこの老人とが、同じ人物であるとも思えず、単なる、こうるさいヒヒのように見えてくる。彼がここの財産を盗もうとしていようが、何の意図もなかろうが、母をたぶらかしたのだろうが、本当に愛していたのだろうが、叫ぶヒヒのような醜さだけが全てを表しているように感じられた。
 本来の造作が整っていなくても、美しいものは美しい。けれど、若い頃は美男であろうと、このように老いてしまえば、幸せがないようにも思えた。社会的な地位のある顔にも、信頼のおける顔にも見えず、そうして、生真面目な性質である自分も、いつかこの男のように、つまらない容姿へと変わるのだろうかといったことを考えていた。
「それにしても、よく帰ってこれたものだな。お前たちがしたことを、わしはいつまでも覚えているからな。お前たちは恥知らずで、畜生で、人殺しだ」
 輝彦は、反射的に壁を叩いた。そうして、遠巻きにみていた秋本に謝った。秋本は、肩をすくめて、気にしなくていいという仕草をしてから、奥へと戻っていった。
 田内は何か言葉を続けていたが、輝彦は久しぶりにみた義父に今まで見えていなかった要素、その苛立ちの根底に恐れや怯えがあるのを感じ取ることができ、それが彼の奇妙な興奮を作り出しているのを知った。しかし、何によって彼が恐れを持っているのかまでは分からないせいで、単なる印象としか言いようがなかった。
 狂人を見る目で、つい笑い出してしまうのをこらえていると、輝彦の肘のあたりが掴まれる。細く冷たい手、留美であった。
「勝手にしなさいよ。お義父さん」
 その声は、普段よりも低く、ヴァイオリンのいちばん低い音程のG線を弦で引いているかのようだった。いくら興奮しても、凛とした響きがなくならない、その懐かしい声。
「お前、生意気なことを言うな。わしは、言うぞ。わしは、お前たちの過去を知っているんだからな」
「いいのよ。言いなさいよ」
 輝彦は頬が緩んでくるのを感じた。高校生だった頃の感覚が戻ってきた。そのころ、一人前の男が慌てふためき困る様子がただ面白かった。留美の、若い女性であるのに落ち着いた調子も、また、魅力的に感じられた。
「私たちは困らないわ。言いなさい」
 留美はどこか愉快そうな調子で呟いた。そして、昔のように、輝彦が何か言うのを促しているのを感じた。彼女が腕にこめる力によって、そう感じられるのだ。
「お義父さん、あなたの苛立ちは何が起こしているのでしょうか。あなたの屋敷の中に、隠しておきたいものがあるとでもいうのですか」
「何を妄想しておるんだ。この気の狂った兄妹」
「あなたの方が、気が狂っているように見えると思いますよ。本当に、俺が殺していると思うのなら、警察を呼ぶべきでしょう。それとも、俺たちが人を殺せる人間であるとすれば、批判などして平気ですか」
 輝彦は、突き飛ばすだけで気絶させられますし、力を込めてしばらく殴れば殺せる気がします、お義父さん、という言葉を思いついて、呑み込んでおいた。あの頃だったら、間違いなく口に出していただろうに。
 あの頃は義父と互角だっただろう。身長は自分の方が高かったが、あの頃の輝彦の体つきは、伸びたばかりの背丈を支えるのに足る筋力がなかったのだ。そんなことを、ぼんやりと思い出していた。
「言ってやるぞ。お前たちが、また、とんでもないことを始めたらな」
 義父の田内は、そのようなことを呟きながらドアを開けて、秋本さんへの挨拶もそこそこに玄関から去っていった。
 輝彦は、ふと思い立って留美の手を握り締めた。留美の手は渇いていて、熱がなく、逆にその顔は、輝彦の心配を驚いていた。ふたつの目が、彼の目の中を捉えていて、しばらくしてそれが、落ち着いた様子であるのを確認していた。
 しばらくして、楓が室内からロビーへ顔を出して、不安そうに義父や留美、自分の様子を眺めていた。輝彦は、楓を落ち着かせようと呼吸を意識的にしてから、少しだけ微笑んだ。

7、
 帰宅は、留美の車ではなく、自分たちの、輝彦と共同の車に乗った。運転について、私がしたいといい、ギアを入れて発信した。景色が様々に変わっていくなかで、楓は輝彦と新居に買うとよいものを思い返してみたり、一緒に見たテレビ番組のことを思い出して話をしていたが、輝彦が黙りこくる量が多く、楓がいくら面白いと感じている話をしたりしても虚ろな話の聞き方なので、すっかり心地が悪くなっていた。
 楓はすねてやりたいような気持ちになりつつ、彼が黙るのも仕方ないように思えた。
「本当、ひどいよね、お義父さん」
 などと叫んでみると、輝彦は片側の頬を歪ませるようにして、いびつに笑った。そうして、にやにやとした、少し怖いような顔をしたまま、外の景色を眺めて、時折、運転下手だな、ということを話すのだった。
 何だか、いつもの様子と異なっていた。いや、こちらの方がきっと彼らしいのだと、楓は感じた。普段の彼は、何か薄い膜に覆われているようで、それを引っ掻き破りたくなるのだけれど、今は、勝手にその膜を脱いで実際の彼を見せているのだ。その勝手に見えてくるものが、待ちに待ったものであったとしても、あまり心地の良いものとはいえなかった。とにかく、尊大に見えて、普段の静かで控えめな様子とは真逆で。楓は車を止める度に、普段は猫をかぶっているの、と訊ねたくなる。ずっと一緒に暮らしている私にも、ずっと猫をかぶっているの、と。
 そんなことを考えながら、ため息をつきながら、楓はカーブの多い道を、輝彦の指示にそって運転した。
 部屋に戻ると、留美さんが用意しておいてくれたというお寿司が並んでいて、日本酒が置かれていた。留美と食事をするというのは、楓に、ここが余所の家であるというのを強く感じさせて疲れさせるのだけれど、とにかく食事をして話をする。
 しゃべるのは好きでありながら、多分、自分は話すのが不得手だと感じている楓より、留美は素っ頓狂に思える話題に飛ぶものの、割合に面白い話をするのだった。
 楓は、それらの話を楽しみ、笑ったり、驚いたりをしていたが、ふっと理屈の分からない寂しさを感じるのだった。輝彦は普段も無口だけれど、もっと優しい雰囲気のする無口だったはずだ。けれど、今の彼はただただ尖った印象があった。
 なぜ、こんなに悲しい気持ちになるのだろう。考えてみても、答えが分からない。
 普段であれば輝彦に、悲しい気分! などと話をして肩を軽くゆすったりして、そうすると輝彦が年上の男性という役割を持って、自分を安心させようとするのに。そのようなことを望むのは間違っている、空気に棘があるのだから。そうして、その刺が自分に向かうという恐怖はないものの、いつ、どのように消えるのかも分からないのだ。
 留美は、つらく感じるのをやめて、二人の様子を見守ることにだけ集中することにした。
 留美さんは、明日どこへ行くつもりなのかと、楓、輝彦、どちらに大しても同様に訊ねていた。
 輝彦が決めてないといい、楓は、せっかく近くに湖があるので、そこへ行ってみたいとねだった。留美がいいわね、といい、輝彦はどこか渋っていた。

 その日の晩、留美は自分の神経の高まりに悩んでいた。家と売り手のつかない山の一部を残してほとんどの土地を売り出してしまったのだから。どんどん減っていき、増えていく気配はなかった。生活の豊かさは、もう戻すことが出来そうにもなく、あるのは、古い記憶だけであったし、未来に向けて考えてみると、何も思い浮かばなくなった。何か、分厚い黒い膜が広がっているだけに思え、行くべき場所というものが見つかりそうにもなかった。
 仕方がないので、デスクに向かい、仕事をすることにした。何かをしているという安心感があった。けれど、同時に冒涜している感じもあった。
 仕事の内容に戸惑うのは、本来なら、住んだことや旅行したことがある土地を記事として書くべきなのに、資料から抜き出したものを少しばかり文章を変えて移し変えているからだ。多少、色をつけるために、特技である、ラテン系の言語をつかって資料を探すこともあったけれど、これが正しい仕事なのかという漠然とした問いが湧くのだ。かといって、仕事を嫌っていることもなければ、悪いことをしているという感覚もない。意味があることしかしたくないというのもない。意味のあることなんて、どこにもない。
 頭がぼんやりする。考えろと何かがノックしている。
 輝彦がこの一週間を終えると去っていく。また、数年も、会わなくなるかもしれない。自分とは関係のない人間になると思うと、ただ、憎く思えた。楓さんという女性と関係を持っていることも、何かが激しく苛立たせるのだった。彼女の白い肌に触れている兄貴。平均よりも少し低いその女性の容姿や性格を気に入っているということを考え、留美は楓と自分との差異をひとつひとつ考えて、その差異の分だけ自分が劣る人間へと変化させられていくような苛立ちを覚えた。自分の長所のひとつひとつが、兄の考えの中で欠点に変えられて、それが伝達されていくようにも、嫌われるものになっているように思えてきた。奇妙だった。ただただ兄が憎い。そして、その理不尽な憎しみも嫌われる要素になっていくようで、どこにも救いがなく感じられて感情が苛立った。
 留美は、寝付くことが出来そうにはないので起き上がって、フード付きのパーカーを羽織り、外へ出かけた。暗い空には、そこへ夏の星座が輝いていた。
 留美は、車のキーを回して、再び、あの場所へ出かけていった。
 懐中電灯をぶら下げてガサガサと風が吹く度に音を立てる山道を歩いていく。山はただ薄暗く、足下もはっきりと見えない中、様々な匂いがする。草の青臭い匂い、土の匂い、木の肌の匂い、何らかの肉類が腐っていく臭い。歩く度に、ふくらはぎに草の葉を感じ、スニーカーに跳ぶ虫が乗ったような気配がしては、戻っていく。
 それほど厳しい場所ではない。昼間に見れば人間の作った道だと感じる場所なのだけれど、闇の中で分かるのは、ここにはここの住人のルールがあり、住人ではないものを排除しようとする動きだ。蛭がいなければいいけれど。電灯をつけると、道にいる小さな虫がぱっと飛び退くのが、胸の高さを跳ぶ虫がいるのが分かる。空気が淀んで感じられる。
 しばらく行くと、開けた場所についた。小さな池で、湖の水が入り込んで出来ている。近くにわき水もあって、それらが混ざり合って、冷たくなっている。ここを食品のクーラー代わりに使っていたことがあるという。留美は少し手を伸ばして、黒く艶めく水に手を差し出した。遠くから見ているときには、水面には、木々がぼんやりとした黒い枠として写り、その合間に星が砂粒のように散らばってみえていた。しかし、近づいて手に触れると、そこに星の姿はみえなかった。あるのは、水の感触と、心地悪い藻の感触だけだった。
 留美は、ごつごつとした石のある端にしゃがみ込んだ。そうしてから、持ってきたパソコンを開いて、眠る気になるまで仕事をすることに決めた。けれど、浮かんでくる様々な感覚が、制作する手を止めていた。そうして、かつて起こったことを想像していた。
 人が、この場所の私にとっての意味を知っている人がいたら、ここを歩いている私は、理解されないのだろうか。誰もいないのに自然と笑えてくる。心が真剣な方へ傾けば傾くほど、同時にそれらが馬鹿らしくなってふざけたくなる。
 留美の胸の深いところから呼吸が生まれて、それはさまざまな感情を生み出していった。指にからまるシャツのボタンや、ローズマリーに似た気持ちを落ち着かせる匂い。心配そうに、けれど身体に興奮を宿してこちらを見つめる双眸を思い起こしていた。黒い睫に縁取られた、深い目を。ここで、犯されたのだ、私は。
 計画を立てて行った犯罪は重い。比べて、衝動的な犯罪は軽い、起こしたことは同じであったとしても。それは、どうしてなのだろう。もしも、手の込んだ犯罪をまるで催眠状態のような無意識のうちに行った人がいたとしたら、その人には罪がないんだろうか。
 犯罪って何だろう。そうして、罪として裁かれることと、罪もないのに罰したくなることの差異はどのようにして生まれるのだろう。
 人は、理由もなく人を殺してはならない。けれど人生のうちに、殺害のイメージを一度も描かなかった人なんているものか。無垢のうちに亡くなっていく赤ん坊であっても、あの暴力的な泣き声に、攻撃を秘めているんじゃないか。不運を嘆くのではなく、不運を与えるものを壊そうともがいていて、自分の手足が20センチだけ手前を前後しているだなんて知らずに、相手を攻撃して変化させているのだ。それって殺戮のようなものじゃないかしら。そんな日常的な殺害のイメージと、殺害の計画を練ることと、現実に人を殺してしまうことの、これらの違いはどこにあるのか、分からない。どこまでが世間に受け入れられ、どこからがそっぽを向かれるのか、若しくは自分自身を攻めることになるのか、分からない。
 不快と快楽の差も分からない。
 自分の手に重なる大きな手、押さえつけられた手首の痛み、スカートの襞の中に侵入してきたさまざまなもの、滑稽で決して美しくないものも含めて思い返して、ため息をつく。それらのイメージが下半身をだるくして、先を敏感にする。むずがゆさから、首のラインをなぞると、それらのうずきがさらに大きくなる。とろとろとしたというより、血が内部で固まり、そこから壊死が始まっていくようで、かきだしたい。触れてみたら、きっと、それは大した粘度もなく油のような場合もあるので、消えてしまうのだけれど。
 一種の羞恥と試みから、留美は衝動を耐えた。あの頃の兄のように、ため息をつきながら。
 この場所は思い出が幾重にも重なりすぎている。兄が、迷った子供の頃の私を捜し出してくれたときもあれば、危険に晒されたときもある。あの男の死の原因もあれば、えん罪が生まれた場所でもある。人は目に見える悪事よりも、秘められた妄執を暴きたがり、罰しようとするのだろうか。それなら、欲望を抱いているよりも、手に入れてしまった方がいいんじゃないか。
 欲しいと想像してしまうものを手にするには、どうすればいいのだろう。計画を立てるのは苦手だった。
 留美はふいに、とにかく、男性が欲しいように思えた。思えた。悩みを聞いてもらい、土地がどんどんなくなることも、信用の置けない人に囲まれていることも、仕事のこれからについても、とにかく、悩んでいることを聞いてほしかった。そうして、兄のことも。すべてを話したらどうなるのだろうか?
 留美は、携帯電話をいじった。しばらくして、夜中であるのに戸田という男性が電話に出てくれた。彼は、留美の悩みを聞くのが趣味だと言ってくれる、ありがたい男性だ。留美は、しばらく家のことを話をして、また眠れなくなったということを伝えるなどしてから電話を切った。そうして、自動車に戻った。本当の問題は、自分一人で悩むしかないんだろうなと考えながら。

 早朝。留美は玄関に、泥だらけになった靴を脱ぎ散らかした。そうして、自分の部屋に戻る前に水を飲もうと思い、キッチンへ移動すると、兄と楓さんがその場にいて話をしていた。
「ああ、留美さん、おはよう。よかったら、サンドイッチを作ったんで、食べてください」
 留美は、お礼を言って、楓の作ったというサンドイッチをサイドテーブルから運んだ。少しもお腹は減っていなかったのに加えて、そのつくりはひどく雑に思えた。パンを適当に切って焼くこともせず、中にいれる具材は単品で売ることはできなかった。
 留美は、喉が渇いているので、コーヒーを淹れて飲むと言った。コーヒーはすでに入っていたが、それもひどく不味い淹れ方に思えた。コーヒーは、豆の周囲につく油分を含めると甘くなる。そういったことは知らないんだろうなと思う。楓さんという人は、単に、コーヒー豆という名前で売られているものを砕いて、お湯を注げば、それでコーヒーだと思う人に違いない。けれど、留美はコーヒーを飲み込んだ。カフェインなら入っているに違いないのだから、物を投げつけたくなるような苛立ちは、なだめられるだろうと考えながら。
 そうして、ソファーに座る二人を眺めて、なぜこの二人が結びついたのか考えるのだった。
 兄は基本的に神経質なタイプであり、楓という女性は、えんはあるものの、大ざっぱな人であるように思えた。それが、兄の持つ拘りなどを理解し得るのだろうか。
 そして、楓という朗らかな女性は、兄のどの点を気に入ったのだろうと考える。
 兄は、多分に、容姿が優れているとは言えなかったし、性格もきついところがあって、冗談はいうことはいうが単なる手厳しい批判といった形でもあった。分かりやすい良さがあるようには思えなかった。
 もし、戸田と兄とを並べたのなら、好みの違いはあったとしても、整っている方といえば戸田の方になるのだろう。戸田は、兄と違って、自分の容姿に満足しているところがあって、その自信から、確かによく見えるのだった。話が上手なのも戸田であった。
 ただ、戸田は芸術家を志望しているので、結婚などの先の出来事は考えていないタイプだった。留美は、まだ、結婚なんて考える気にもならなかったから関係を続けるのが苦にはならなかったけれど、庇護されたいと思う女性がいた場合、落ち着いた雰囲気ならある兄の方を選ぶのだろうか。楓さんは、どういった理由で兄を選んだのだろう。職業も似たものであるので、将来ということを考えると、確かに正しいのかもしれない。
 楓さんは、そういった外側にあるものを除いたときにも、彼を選ぶのだろうか。
 留美は、輝彦からその職業や将来の設計や何かをひとつひとつ奪いさってしまいたい気がしていた。それでも選ぶのは、私だけなんだろう。いや、何となく理解はしていた。輝彦はやはり、輝彦らしさというものを他の人にも理解させて、好かれているのだろう。
 留美は、コーヒーのそこに残った部分を、楓に気づかれないように気をつけて流しへ捨てた。
 彼らは、真面目な顔で資料を読み続けていた。輝彦が、籐の椅子に座り、楓がその横に身を横たえていた。このように、家族にあたる人間のいる前で、自ら密着していく人物というのをみるのは初めてだった。嫌な汗が身体からにじみ出てくるように思えたが、このままその場から立ち去ってしまえば、この苛立ちが自分の室内にまで持ち込まれてしまうことになるので、何か変化があればといった試しに、兄に声をかけてみた。
「仕事の資料を読んでいるの?」
「いや、昨日の資料だよ。留美は、ずいぶん、計算が苦手だな」
「バカなあにき。計算なんてできたところで、ああいった人たちは、こちらの神経がおかしくなるまで同じ数字を読み上げてくるんだよ」
「同じ回数だけ首を横に振るべきだ」
「横に振っている間に、新たな作戦を考えてくるの。全部奪い取る方法を考え出される前に妥協したの。そういうやつらなんだから」
 兄貴もちょうどよいタイミングで資金が手に入ったでしょう。頭金にでもするの、などと言いたくなって言葉を切った。留美は、自分が不当に扱われているように感じた。彼のすぐに脇に女性がいるのだから。ああいう、髪の長い女性がタイプなのだろうか。ほっそりとした手足、人形のような容姿、すらりとした足。ひとつひとつ壊してしまいたくなる。
 輝彦は、ためいきをついて、なるほど、と呟いてから、それなら自分に声をかけるべきだったという。
「兄さんと。どう連絡を取れば良かったの?」
「方法はいくらでもある」
「ないよ、私には。兄さんならいろいろ思いつくんだろうけれどね。私は、電話がつながらない時点で、会う方法はないんだと思うよ」
「つながらないか? 番号を教えておこうか?」
「いいよ、兄貴。このまま、つながらないままでいこうよ」
 留美は、話を切って、自室に向かって歩き始めた。

 留美は、高校の頃、兄に初めて彼女ができたときのことを思い出していた。あとで聞いたことには初めてではなかったらしいけれど、兄が女性と一緒にいるのを見かけたのは、そのときが初めてだった。
 その女性の名前は忘れてしまったけれど、兄はその後輩の女の子と登下校を一緒にして、冗談を話したりしていた。同じことをしたら、不機嫌になるくせにと留美は思った。言葉に出さなければ怒ってなどいないことになると思っていたのだろうか。
 しばらく仮眠を取ってかリビングに戻ると、楓が一人で兄貴のアルバムを見ているところだった。
「こんにちは。兄貴は、どうしたの?」
「少し、終わらせなくちゃいけないことがあるみたいで。手続きの関係のことなんですけれど」
「折角、休みを取られて。新婚の旅行だというのに、国内だなんて。私には、信じられないわ。どこか行きたいところ、なかったの?」
「いえ、その分、私、ねだって、自動車にしてもらったんです。旅行は思い出に残るけれど、普段から使えるものが残っているのもいいと思いまして」
「なるほど。それであの外車なのね」
「ええ」
「兄貴は買わなそうだものな、ああいう車は。楓さんは、今、忙しい?」
「いいえ、私の方は、あんまり私の方には仕事がなくて」
「だから、アルバムを見ていたのね」
「ええ」
「兄貴は、どれくらいで仕事終わるのかな?」
「聞いてきましょうか?」
「ううん、兄貴に用があるってわけじゃないの。良かったら、今日も、一緒に外出しない? せっかくこの地域に来たのだから、湖は見たいでしょう? 遊覧船があるのよ。夏休みや冬休みの時期にだけ運行しているんだけれど、今年は、ちょうどこれから始まる連休にも合わせて出航しているから乗ってみない?」
「湖の向こう側までいくんですか?」
「ううん、島に行く。この湖の真ん中には無人の島があってね。そこへ行くのよ。昨日も神社だったけれど、そこにも神社があって、猿ばかりいるよ。神社にお賽銭を投げてしまったり、茶屋でぼんやり冷やし飴なんかを飲んだり、猿が観光客にいたずらしているのを眺めたりして、湖もとても綺麗で、魚の説明をしてくれる人もいるし、島の湖岸線には磯ではない砂浜もあるから、そこで足を水に浸したりできるの」
「いいですね。愉しそう」
 留美はしばらく、楓がアルバムを見ながら訊ねることに答えていた。
「どうして、この写真は切り取られているのかしら?」
 留美は笑ってアルバムを閉じた。そうして、後で教えてあげる、というふうに、彼女の肩をたたいた。

 島は、留美にとって、記憶に残っているとおりの場所だった。
 湖はのどかで美しく、神社と茶店があって、住民がいないかわりに猿が多かった。猿たちは、遠巻きに人の食べるものを狙っていた。
 二人は茶店の赤い毛氈の上に腰をおろしていた。冷やし飴とニッキを頼み、どちらもあまりおいしいものではないと言い合って、時間が過ぎていった。
 楓は、様々なことを話し始めた。主に美容に関することが多くて、女性というものを自分には理解できないものとして考える兄貴には、確かに似合っている気もしてきたし、同時に強い苛立たしさも感じるのだった。
 それから、兄がこれから会計事務所を開業しようと考え、それに向けて資金を集めていることも知った。帰ってきた目的は、そこにあるのだろう。
「楓さんは、何だか、女性らしい女性ですよね。兄貴が好きになった訳も分かりますよ」
 最も苦手とするタイプだった。女性であるということを武器にするのを悪いこととは考えず、堅実で、勉強などはほどほどに良い成績を取り、目立とうとはせず、家事をきちんとする。年長者である留美を気遣う。ああ、嫌だ。私はこんなに器用には生きられない。
 帰りの遊覧船がやってくる。
 留美は、対岸に彼女はいるだろうかと考えていた。会ったら、きっと、気が落ち込むだろう。けれど、それが生み出す効果について考える。漠然として。
 留美は、自分はあまり人の感情というものが分からないと思う。人と人が会うことで、どのような効果が生まれるのか、想像がつかない。分からない。けれど、何か変化が起こせるかもしれない。
 岸が近づいてくるに従って留美は笑えてくる。やはり、彼女は働いていた。
 留美は、お土産を買おうと話して、楓とともに売店へ入っていった。そこに彼女はいた。
 売店の隣に留美は、そこで食事を取ろうと楓に言った。楓は、ニッキ飴と共に甘いものを重ねて団子を食べたあとだったので、また食べるのかと驚いていたけれど、留美は、今日、自分は冷やし飴とニッキを飲んだきりだと話して、強引にお店に寄ったのだった。そうして、自分はうどんを注文してから、アルバムの切り取られた箇所について話しを始めるのだった。
「あの切り取られた部分に映っているのは男性の写真なのよ。私のたちが親しくしていた男の子が写っていたの。彼は、私が子供の頃に熱を出して学校で倒れたときに、私をタクシーに乗せて家に連れてきてくれたのよ。とても活発な男の子で、私たち兄弟のところへ何度も通ってきてくれたわ。子供の頃から度々、私たちは遊んできたの。素敵な男の子だったわ。彼は兄と異なって活発でね。彼といるのがいつも楽しかったわ。それなのに、彼は亡くなってしまったの」
「どうして亡くなったの?」
「天罰。私にひどいことをしたから」
「今すぐ出ていきなさい」
 押し殺した声で近くにいるお店で働いている女性の声がした。四十にはなっていないけれど、近い年齢の老いた女性だ。彼女は血の気のない青白い顔をして、すぐ傍でお盆を手に立っている。
 留美は、かかったと思いながら、
「この人は、私の姉になった人。輝彦の奥さん」
「ああ、あの男の。結婚するのは止めなさい。あの男と結婚するのは止めなさいよ」
「それは、どうして? 亜弓さん、なぜ?」
「あんたが結婚したって人は、いくつも非常識なことをしているんだよ。あの様子だから分からないだろうけれど、とても罪深いことを」
 女性は、留美の方に向き直った。
「ねえ、あんたたちがあの子を殺したんだよ。薫は、とてもいい子だった。だから、私はやっぱりどうしても信じられないんだ。あの子がしたことは、あんたが仕組んだんじゃないか? 評判通りだとすれば、あんたは、随分、おかしな女じゃないか。やっぱり、何かしたんじゃないか? 私は薫からみんな聞いたから知っているんだよ。それを、あんたのためを思って黙って過ごしているのに、どうして私を苛立たせるようなことをするの?」
「あなたを苛立たせるようなことってどんなことになりますか? 私、何か話しました?」
「話したじゃないか、まるで薫を避難するようなことを。あんたたちは、自分たちの仕出かしたことを薫に押し付けたんだろう。本当は、あんたの兄さんがしたんだろうよ。そうに違いない。あんな人の良さそうな顔をして」
 留美は、伝票を持って立ち上がった。薫の親類である女性は、一瞬、楓に向かって何か話しかけようとしてから、すぐにやめた。留美は、笑いがこみ上げて来て、しかたなかった。

8、

 行きも帰りも、留美の運転する車に乗っていた。彼女の運転は、ずいぶんと荒っぽいものだった。楓の心臓は、パニックの発作を起こしたかのように飛び跳ねた。何度となく、自分が運転を代わると言おうかと思ったけれど、初めて乗る車種の車で、カーブのきつい慣れない道を行くことは難しく思えた。
「笑っちゃうでしょ。何だか愉快で仕方ない気分になるの、ああいうことを言われると」
「そうなんですか? でも、私、少しもおかしく感じないですよ。悲しいことに思えますよ」
「悲しい? 全然、悲しくなんてないじゃない。私は、笑えて面白くなるのよ。あの女性(ひと)は、アルバムの写真の中で私たちの両親が切り取った男の子の親戚なのよ。薫という名前の男の子のね。彼は、旅行先で事故を起こして死んだのよ。そのことについて、私たち兄弟が何か起こしたせいであるかのような言い方をするんだけれど、おかしな話よね。私は思うのよ。私は思うのよ。運命は変えられないんだってね。意志で変えることなんてできないと思ってる。だから、私は何の責任も感じないの」
「ええ、責任はないに違いありませんよ。何か、心残りなことがあれば、よかったら話してください」
「なぜ、聞きたいの? とにかく、そうなのよ、事故を起こしたのは旅行に出かけている間だけで、私は一切接触が無いの。それなのに、何かできると思っているのかしら。いいかげんにしてほしいわ」
 留美さんが、また手を離して、今度はペットボトルの水をゆっくりと顔を傾けて飲んでいた。周りの景色の変化していくスピードに似合わない、ストップモーションを重ねたような身体の動きをしている。
「心配しないでね。あなたの夫も、アニキも何もしていないから。それなのに、あの人がアニキのことまで責めることを言い始めるなんておかしなことよね。いくら兄が薫くんのことをいやがっていたとしたって」
 留美が無言になったので、楓は、運転席にいる留美を向いた。その表情は、憂鬱にみえた。目がうるみ、時折、ため息をつく。
「兄貴が、心配性だったのを、あの人、知っていて。覚えているのかしら。中学の頃、兄貴、私が付き合ったりしているのが心配で、薫のことを家から追い出していたわ」
 ふふふと留美が低い声で笑い出す。
「思い出したわ。アニキの心配性は、思い返すと心地よいのよね」
「心配性? 輝彦さんは、どんな行動をしたんですか?」
「うん? 何が?」
 留美は、カーステレオの音楽を選曲をしていた。尋ねた。その手を止めて、楓に大して首を傾げていた。そうして、しばらくじっと顔を見られて戸惑っていると、留美が、
「薫は、精神的に弱いところがあったのよ。付き合いを止めてからも私に言い寄ってくることがあって。高校三年の春に、私を襲ったの。外で無理やりにね。その場に兄貴がいた。私たちは薫を訴えることになって、一方、薫は精神的疾患があると診断されて服役は免れたけれど、その判定が、返って薫の将来を閉ざしたのかもしれないわ。薫は受験に失敗したあと、何をするという将来への設計というのもできなくなって、地元の友人たちとも縁が切れてしまって、そのまま二年を過ごしたあとで、ふらっとどこかへ行って、死ぬまで帰ってこなかったというわけ。
「私も、二年間、何もせずに過ごしていたのよ。けれど、勉強だけはしていて、語学系の大学に進むことは出来たの。そうして今があるわけ。薫は、私が上京した後に度に出て、そうして自動車の事故を起こしたの」
「あの女性が私たちを責めるのは、精神鑑定をした医師というのが、私たちの母ののちの再婚相手になるからよ。何か、不正があるように感じてるんじゃないかしら」

 自宅へ帰り着いた楓は、疲れでぼんやりとしながら、売店で購入した、ういろうの詰め合わせを輝彦に渡した。
 輝彦は、そのういろうについて、あまりおいしくないと話していた。
 楓は、今さっき、あなたの秘密を聞いたのよ、と話していいものか悩んだ。
 輝彦は、ひどくむっつりとしていた。普段の優しげな様子が見えなくなっていて、だから、楓は彼に、過去にいろいろ抱えていたのね、などと話して、体を揺さぶって抱きしめてあげたくなった。しかし、興味本意で話しを聞いたことを喜ぶことはないだろうと思い、言い出すタイミングが見つからなかった。
 楓は、ういろうを切って出した。お茶を入れて差し出してから、しばらく湖の中心にある島の話をした。お弁当を盗むサルの話や、留美と一緒にいーっと歯を出して追っ払ったという話しをすると、彼は楽しそうに話しを聞いてくれた。そうして、ういろうに手を伸ばしながら、
「どこで、買ったの?」と聞いてきた。
 楓は少し戸惑ったあと、湖の端の茶店であることと、薫さんの親戚の人に会ったことを話した。
 輝彦は、酷く驚いた顔をしていた。しばらくじっと楓の顔を眺めていた。楓は、輝彦を半ば無理に抱きしめた。それから、留美さんに聞いた話しを伝えた。そうして、薫という男の子が、留美さんのことを襲った、その場に輝彦がいたというのを聞いたと言い、襲ったというのはどういうふうなことだったの、と訊ねる。
「聞きたいの?」
「うん」
 輝彦はしばらく考え込んでいたが、堪忍したというふうに、
「手足を押さえつけて、留美を抱きしめていた。そうして、服を脱がそうとしていた」
「その場にいたの?」
「後から。ちょうど、通りかかったんだ。だから予感というのがあってね、駆けつけたんだ」
 楓は、輝彦の頭を撫でて、抱きしめた。

9、直す必要あり 1、楓の会話の内容が全体の中で浮くと思われる。2、性的な方向に行く展開が急すぎる。ワンステップさせる言葉や状況、時間の経過のうちのどれかを挟む必要がある。

 楓が、田内と仲直りするべきだ、家に呼ぶべきだと言い始めたことには、閉口した。
 そう簡単な問題じゃないと何度言っても、楓は自分の考えていることを止めようとはせずに、翌日、田内に連絡するという。
「仲直り。小学校の教材みたいだ」
「仲良くできない他人とは、仲良くしなくてもいいのよ。人なんて少しも信用ができないものだし、いつだって騙そうとするし、もし、とても気があってとても大切であったとしても、知人も友達も変化していくもの。けれど、家族だけはその繋がりが消えることはないじゃない。いくら気が合わなくても、いくら信用できなくても、自分自身を変えられないのと同じように取り返しがつかないから、少しずつ改善していきましょうよ」
 輝彦は、楓の、家族は大切にするという考えに、大切であっても無言を通すことしか出来ないときがあるのだと言いたかった。しかし、彼女にどのように伝えたらいいのか、分からなかった。
 彼女は、続けて輝彦に、彼の母について訊ねた。輝彦の母は、二流のピアニストだった。国内の演奏旅行をすることはあったが、ドレスを新調した分だけ赤字になるようなピアニストだった。輝彦らしくなく、なぜかその日は、自分の母親について、少し自分たちの家族に同情させようとでもしたかのように、饒舌にしゃべっていた。それは、輝彦には、とても自分らしくなく思えた。
 ピアニストになるということが、そのなろうとするう人の全てを請求している。少女時代、思春期、成人してからも、常にピアノの練習をして過ごすことになるということを。きっと自分の母親は、友達と雑談することも、夕やけを眺めることも、淡い恋の話をすることもしなかっただろうと話した。
「驚いてしまうわね。あまり、そういう話は聞いてこなかったから」
「そう、こういう話しをすると驚かれる。そうして、お母さんがピアニストなんて羨ましいねと言われたりするんだ」
「どうして、あなたが話しをしてくれなかったのか分かったわ。でも、程度の差は違うけれど、あなただけ特別なんじゃないと思うの。どのような人もある程度、似たようなところならあるわ。私の家でも、比べたら小さなことだけれど、それでも、両親に取り付かれたようなところがあったわ。頑張っていたわけ。受験勉強をして、名前のある大学に入って、それを卒業してから、一生懸命働いてきたの。ある程度、青春時代を犠牲にして。そのせいで、受験の頃を思い出すのが嫌みたいで、ときどき、私に、勉強ばかりしないでって言うの。何かのヒステリーみたいにね。あるときは、友達ともっと遊びなさいというし。でも、また別のときは、外出なんてするなって怒鳴るのよ。おかしいでしょう。それぞれ別の事情があったに違いないんだろうけれど、何だか、精神的なウロのようなところで言葉を発しているようにも思えるのよ。かつて迷っていたことが手つかずに残っていて、それがそのまま、外にふっと現れてくるようにして。
「私はその迷いを受け入れるようにして生きたわ。受験の勉強なんてせず、そのかわり、母がしたかったようなこと、放課後に残って友人と話をするだとか、寄り道をして食事をするだとか、観劇をするために一日学校をずる休みするだとかをして生きてきたわ。でも、それらが何かの身になったという気はしないの。必死に生きてきたらどうだっただろうって思うだけ」
 そこまで話してから、楓は、養父についての疑問に、話が戻ってきた。輝彦は疲れたふりをして横になり、しばらく楓が眠りにつくまで待った。楓は、昼に様々な場所を回ったせいか、興奮していた割に、思ったよりも早く眠りについた。

 輝彦は、留美が薫の親戚と会ったことと、楓が養父を食事に呼ぶと言いだしたことという二つのことが、不吉に思えた。けれど、その何が悪しきこというはっきりしたことは浮かびはせず、ただ、漠然と不快だった。
 起き上がり、廊下を通り過ぎて、風呂場へ向かう。シャワーを浴びようとしたが、留美が先に入っていた。
 輝彦は、その場を離れ、また契約書の確認を行おうと思ったけれど、そのことがひどく面倒に思えて、楓のいる部屋には戻らなかった。そうして、古い時代をなぞるようにして、家の中をうろうろと歩き回った。何年も続けて行っていた仕草が残っていて、殆ど考えることもなく動作を行わせてくる。まるで衝動的な動きであった、輝彦は、自分が留美のようになっていると感じていた。
 手紙のやり取りは、留美がレイプをされた、あの日から始まった。
 留美は、あの日からしゃべらなくなり、家に閉じこもるようになった。その中で、輝彦に対してメモを残すようになったのだ。
 輝彦は、その残されたメモを見つけ、彼女が指定する場所へ出かけていったり、返事を書いておいた。携帯電話も没収され、酷い憂鬱に苛まれていた留美にとって、自分は唯一の他者で、連絡は、手紙しか手段がなかった。
 メモは、家の中に隠してされる。大概、何時にどこにいるという内容であり、輝彦は留美の残したメモを頼りに、彼女に会う。
 留美は、自分がいなければ生きていけないように思えた。彼女に関する責任がすべて自分にあるように感じていた。だから、彼女がきちんと働いているという話にほっとしていた。けれど、家の物を売っていた。ということは、いずれ破綻するに違いなかった。また、彼女が薫のおばにあったということも気に障る出来事だった。彼女が何か不吉なことに、また、自分から頭を突っ込んでいくに違いなく思えた。

 物音がした。見ると洗面所で動いている人影があり、がちゃがちゃという音を立てていた。輝彦は、少し離れたところから、その音の主を見守った。髪の短い、小さな頭が鏡の前で動いていた。留美だった。
 輝彦がメモを探していたように、留美もメモを探していたのかもしれない。
 輝彦は、ゆっくりと彼女に近づいていった。そのしなやかな手に、茶色い小さな小瓶が握られているのが分かった。
「おう、兄貴。こんばんは」
 輝彦は、とっさに留美の手を取った。茶色の小瓶の中には、白い錠剤が入っていた。
「お前、何してるんだ?」
「何って。兄貴こそ、何を怒っているの?」
「これはどうしたん?」
「どうしたって、薬を取り出したところよ。睡眠薬。アニキも飲む? ああ、そっか。平気よ。正しい用法要領を頭に叩き込んでいるから」
「何で、そんなにたくさんあるんだ」
「変に気を揉まないでよ。私、自分が大切だから、吐いたり、胃を洗浄されたり、永遠に起き上がれなくなるようなことしたくないから。この数日の間、私、眠りにつくことができないのよ。だから、気を楽にするために飲んでいるだけ」
「今は、落ち込んだりしなくなったんじゃないか?」
「実はね、昔だって、私、そんなに落ち込んだりしていないのよ。結構、いろんなことが、どうでもいい人間だから。これは、医者の子から買っているの。診療所まで行って処方してもらうよりは気軽だし、まとめて買った方が安いからね。普段から飲んでいるというわけじゃないけれど、気が高ぶっているときにはちょうどいいのよ」
「留美、今日は。薫の叔母に会ったそうだね」
「そうよ。楓さんから聞いたの?」
「ああ、楓は何でも話すタイプだからね。留美、あの人が、あの売店で働いていることは知ってるはずだろう。どうして、わざわざそんなところに行ったんだ?」
「行って何が悪いの。被害者は、私。加害者が被害者の家に行くのは問題があっても、被害者が加害者の家族のところへ行ってはいけないだなんてことはないでしょう? 勝手な逆恨みのことなんて、私、知らないわ。それで行動を制限されるなんて本末が逆よ。それより、その瓶を返してよ」
 輝彦は、取られまいと瓶を高くあげた。留美が手を伸ばして、飛びかかる。彼女が胸になだれ込む。そのとき、頬がぬれているように感じた。泣いているのかもしれない。輝彦は手を伸ばした。けれど、そこは乾いていた。留美は驚いてびくっと離れていった。そうして、洗面台に乗り上げて鏡にまで身を倒していた。
 輝彦は、自分が何か暴力的なことをするだろうと思われたように感じて胸がどくんっとなるのを聞く。暴力など、一度しかしていない、だから警戒しないで欲しい。一度は殴ったというのが、どこか遣り切れなくて、けれど同時に彼女の身体がすぐ傍にあるということに奇妙な戸惑いを感じる。急に、精神的なものが変化していく。
「留美」
 輝彦が呟くと、留美はしばらく何か考え込むようにしてから首を傾げて、輝彦の頭を抱え込んで、薬に手を伸ばした。そのとき、同時に腰の方に彼女の細い足が絡まるのを感じて、輝彦はめまいを感じた。留美は、薄い白い寝巻きを着ていた。そのことを意識した。薄い布の広がる内側にある脚が絡まっている。その絡まる脚は、はっきりと誘ってはいない。単に、洗面台の上でバランスをとっているようにも、輝彦を欲情させようとしているようにも、どちらにも思える。
「忘れよう、アニキ」
 シャンプーの香りなのか、ボディケアの用品の匂いなのか、何らかの果物の甘ったるい香りがして、輝彦は思わず目を閉じた。彼女の細い足の絡まる傍で、昂ぶっていていた。
 輝彦はじっとしながら、まるでその場で別の自分が動いているかのように、薄い白い表皮を剥いで、柔らかな太ももを撫でている、その指の先にあたる滑らかな皮膚を、感じたように思えた。指で、彼女の皮膚をさすり、なぞるように唇をあてていく。足の間をもっと開いて、その中央にある柔らかな内部へ侵入していく。彼女は少し抵抗を示して、けれど、次第に輝彦にまとわりついてくるだろう。襞が包みこんでいくだろう。そのときの、彼女の表情や溜息。彼女の懇願、無我夢中で背に触れる指の残す小さな爪の痛み。輝彦は、それらをまるでその場で行われているかのように想像しながら、ゆっくりと留美を床の上へ降ろした。そうして、しばらく放心したように、留美の様子を眺めていた。以前のように、また、抱きついてくるのを待っていた。
 けれど、留美は、じっと輝彦の顔を、胸元から腰から眺めて、微笑んでいた。そうして、ただ、呆然としている輝彦に、留美は、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべて「待ってる」と囁いた。それらの言葉の意味を、輝彦は瞬時に理解正しく理解した。

 その晩、輝彦は寝室で悩んでいた。新婚の旅行なのに、ベッドを共にしないというのもおかしい。それが、また、固くなり、楓が気付いてしまっているのに。
 尤もらしい嘘をついて、ひとりで寝て、慰めたとしたら、輝彦は、留美の部屋のドアまで行ってそこを破るかもしれない衝動と共にいなくてはならない。その衝動を抑えたとしても、ただ家のたてる物音を彼女のものだと一晩中、考え続けるだろう。とても耐えられそうになかった。
 輝彦は、楓と身体を合わせた。出来るかぎり留美のことを思わないようにしてみるけれど、それは難しかった。違和感と心地よさとが混じった中で、想像だけが善悪の区別もなく進んでいく。留美が今のようにこの町の人たちから疎まれている間であれば、一度だけでも関わることができるのかもしれない。また普段どおりの生活に戻ったとしても、留美の言葉には信憑性がない。
「泣いてるの?」楓が訊ねる。
「泣いてないよ、どうして?」
 輝彦は、楓に優しく言って、小さな子をあやすように頭を撫でた。そうして、ふっと留美が子供だった頃のことを思い出す。それは、とても大切なものを入れたタイムカプセルとしてのおもちゃ箱を、強引に鍵ではなくペンチのようなもので、こじ開けてしまったようだった。
 ふっと、本当は自分の奥底に眠って決して未来に向けて癒すことのできない孤独に思い当たる。それは漠然としたものであるので永遠に言葉にもできないが、留美がただ傍にいればそれだけで分かりあえる古い記憶であり、思い出したくもないことであったけれど、苦痛と感情の高まりが輪転機に似た腰の回転を、速くする。楓であれば、この回転の先にあるのは、瞬間の心地よさと、低いところへ圧しつかれるようなだるさであり、結局のところリールが外れたままでの動いていないことを知るのだ。

9、

 兄。ひねくれたことを言う癖に、本質的に、人の良い兄。心から自分を心配する兄。
 留美が自殺未遂をした後で、バイトも大学の授業も一時的に休んで、ただ呆然と部屋の前をうろうろしていた兄。あのときの、兄の様子を思い出して喜んでいる自分がいる。けれど、酷い話だ。頭の中が混乱する。
 口癖のように、留美のためなら何でもすると話していた兄。留美が学校の図工や調理実習で覚えてきたものをプレゼントすると、留美を喜ばせるようなものを買って返してくれたり、泣いたり怒ったりしても、悩みを聞いてアドバイスをして、頭を撫でてくれた兄。何か留美がワガママな病に取り付かれて消沈しきると、嘘の病だと話す母と対照的に喜んでいつまでも付き添ったり、何時間でも傍にいたがる兄。
 けれど、兄は平穏無事な人生を送ろうとして、自分のことを忘れて、やさしそうな楓さんを見つけてきてしまった。彼が結婚するということを知ったとき、留美は眩暈がし、あまりに感情が高ぶるので式にいけなかったほどだ。自分は、戻ってきてしまうのだ。いくらこの土地を忘れて別の場所で過ごしていても、そこで仲の良い男性を見つけても、結局のところ、少しでも兄を意識すると体中が変化してしまうのだ。
 薬を飲んで寝た翌日は、快調とはいえず、やたら喉が渇いている。台所へ行くとそこに楓がいた。彼女も水を飲んでいた。
 留美は、この年下の女性に面と向かうと、苛立ちが削がれてしまうのを感じていた。彼女のことをほとんど知らないせいか、うらやましがらせる要素に出会っていないからだ。特徴のない容姿をしているし、何より、いくらしゃべらせて一緒に行動してみても、平凡なことしか言わなかった。
 留美が挨拶をすると、楓もそれを返した。楓は、マグカップで水を飲んでいた。
「今日は、また、財産分与の資料を読むのかしら。それとも、どこかへ出かけるの?」
「今日も、多分、出かけないで家にいると思います」
「そんなに仕事が多くあるのね。せっかくの新婚の休暇なのに、夫の実家で過ごすだなんて、楓さんもついていないわね」「いえ、のんびり過ごすのも素敵ですし。今日は輝彦さんは疲れているので出かけられないでしょう。まだ眠っています」
 そこまで話してから、楓は何か考え込んでいた。留美は、彼女に何か話すべきだと思った。アニキの本当の欲望を。その上で、兄を選ぶのかを。けれど、もちろん、そのような言葉は口から出てこなかった。留美自身が話せば、それは単なる妄想にしかなりようがなかった。必要なのは、第三者の口から言わせることだ。
「外へは、出るつもりなの? 昨日のことは、驚いたでしょう。あの人、この近所のスーパーによく来るのよ。だから、私、そこに買い物に行けないの。もし、何も予定がないのなら、代わりに買ってきてもらえないかしら」
 楓は、うなずいた。
 これで、どのようなことが起こるのか、留美は予測がつかなかった。何も起こらない気もしていたが、とにかく、何か変化があればいいと感じた。とにかく、何か起こればよいと考えてコップに水を注いでから、留美は、ふと、自分は何をしているのだろうという疑問が湧いた。アニキが描いたものが壊れたとき、自分が描いていたものは、どこへ行くのだろうと考えた。混同しても仕方のないことであるのに。
 留美は、部屋に戻ってパソコンに向かい、文章を書きながら、脳裏で底なし沼をイメージしていた。決して逃れることができないまま、ドロの中に埋もれ、かいた汗まで吸い取る。顔を出している上の方だけが乾いて砂になって零れ落ち、木の葉もぱりぱりになって目に入る。陽は狂ったように照り、喉はどんどん渇いていく。その一方で、埋もれた半身は濡れて、皮膚はふやけていき、いずれ壊死するだろう。常に、脚で、もがきを続ける。ロープが投げ込まれたら助かるのかもしれない。けれど、前方を走る人を強く掴んで溺れないようにしているので、その人が岸にたどり着くことは、できない。
 この悪循環を断ち切るには、沼が欲する人身御供を投げ込むしかないんじゃないだろうか。沼の底までいって穴を穿ってしまえば、そこから水は抜けるか、新鮮な湧き水によってドロが洗い流されるかして、去ることができるのではないか。
 留美は、パソコンの横にあるポストイットを手に取り、それを元に戻し、部屋の中を探し回ってシンプルな便箋を手に取った。そこにサインペンを滑らせ、書き損じたものはライターを使って燃やし、良いと思うものを封筒に入れた。そして、飛行機の模型の中に仕舞い込んだ。
 そうして、部屋を抜け出す準備をする。ノート型パソコンの充電器を確かめ、バッテリーの予備をバッグの中に詰める。必要な資料を吟味し、箱に詰め、それを車へ移動させる。最悪、車で書き進められるように。
 水をいくつか入れておく。ビスケットと野菜ジュースを詰めて、何日、外出する気なのだろうと考える。
 準備をしていると、窓から兄が不安そうに顔を出しているのに気づいた。留美は、彼に曖昧な表情で笑いかけた。兄も、不思議そうにこちらを見ながら、なぜか笑い返した。とても不自然で歪で、けれど留美は、その笑い方が好ましく思えた。
 とにかく、留美は車に乗って、発進する。
 彼女は、自分が犯された場所まで、走っていく。加速度をつけて。

10、
 楓が、輝彦の近親相姦を知って、彼を捨てる。

11、

「兄さん」と留美は呼んだ。「来てくれたのね。待っていたわ、私」
「なぜ、こんな場所へ呼んだんだ?」
「懐かしいでしょ? 初めて私たちがかかわった場所になるのだもの」
「かかわったなんていうな。誤解されるだろう」
「私たちしかいないのに?」
 輝彦は、何も答えずに留美の横に腰をおろしていた。
 彼は草臥れた顔をしていた。眼の下に隈を作っている。その草臥れた表情を好ましく想いながら、留美は、輝彦の肩に軽く頭を寄せた。それから、少し彼から身体を離して、この幻影が現実にあるものだというのを確認していった。ひとつひとつを注意深く見ていった。黒い上着も、腕の筋張った様子も、ジーンズのラインも、みんな兄のものだった。
 留美は、その腕やジーンズに触れたかった。そして、今、それが出来なかったら、永遠にイメージはイメージの中にしかないのだと感じた。慎重に、彼をその気にさせなくちゃならない。彼からブレーキを外して、高ぶらせなくちゃならない。焦ってはいけない、それと同時に、慎重すぎるもいけない。
 留美は、テルニイ、と呼びかけて座っている彼の大きな身体に、精いっぱい覆いかぶさるようにして、唇にキスをした。何度か重ねてから、その顔をみると、緊張して怒ったような表情をしていた。それが戸惑う表情に変わる前に、またキスをして、背中に手を回した。すると、輝彦の方からキスがあり、強く抱きしめられた。それで、留美の腰の曲線を感じようとしているのが伝わった。彼の指が、ひかえめにスカートの襞に触れたが、すぐにそれはウエストに戻る。そして、その力は強くなる。
 留美は、しばらく、じっとしていた。じっとすることしかできなかったからだ。留美は、輝彦が、いたずらに刺激されないよう、自分を抑えつけているのだと考えた。その身動きの取れない息苦しい中で、彼の体温がひどく熱いので眩暈がするのを感じて、苦しさと同時に、離れたくないとも感じていた。彼の心臓の音が聞こえていた。
 輝彦の力が弱まったとき、留美は身をよじって、その腕から抜け出して、彼の顔を見た。輝彦は、ただじっと自分の視線の先にある木々と、空とを眺めていた。いや、きっと何も見ていなかった。何か考え事をしている人の常で、眼球が静かに不自然な動きをした。
 留美がキスをする。少しも抵抗することもなく、ただ、留美の少しだけ舐めるようにする舌を受け入れている。時折、苦しそうにして、留美の顔をよけようとして、また、受け入れる。
 留美は思い切って輝彦の紺色をしたジーンズを上から撫でた。そうして、そのままジーンズのジッパーをおろしていった。
「出せば楽になるよ。私に撫でさせて」
 輝彦は不思議なものを見る眼で留美を見ていた。そうして、留美の手を止めた。兄さんは、ずるい。
「アニキは、ずるいんだ。いつも、加害者にならないように、気を配っている。けれど、欲望は持っているんだわ」
 留美は、そう言いながら、彼の上着のボタンをひとつ開いて、彼の肩口に頭を寄せて、そのまま、噛んだ。
「何するんだ」
「何もしない人は、こうやって身近な人の手を染めさせて、さらに断罪までしてくるのよ。そうして、欲望のない人に比べて、とても重く罪にしてくるの。回避している分だけね。けれど、手を汚した人は、その汚れた分を自分自身で引き受けるんだわ。石はぶつけられるし、血も流れるの。ねえ、アニキのせいなんだよ」
「俺のせい?」
 留美はうなずいて、輝彦のシャツのボタンをいくつか外していった。そうして、彼の皮膚に歯を立てた
「そう。兄さんは色んなことを邪魔したんだよ。私が手に入らないものだから、私が手に入れられるものを奪っていったの。私のことを憎みながら。私がワガママだとか、見栄を持っているから他の男の子に言い寄っているだとか、とにかく悪くとって。少しでも他の男の子に笑ったり、気を使って話をしたり、冗談を言ったら、それをみんな、媚を売っているというふうに誤解してた。そんなはずないのに」
 輝彦は留美の手を止めた。そうして、留美の身体を引き寄せて「触るな」と耳元で囁いて、留美の背中のジッパーをおろした。留美は、輝彦の方からそのようなことをされたのは、あの日以来だと思った。あの日、犯された日、ひどく興奮していて、それを取り除いて欲しいと兄に懇願した日。
「嘘をいうのは、止めにするんだ、留美。確かに媚びていたよ。自覚はないのかもしれないが」
 留美は、しばらく考えてから、そのとおりだとうなずく。
「兄さん、嫉妬するとこちらに戻ってくるんだもの」
「それじゃあ、留美も俺と同じだね」
 留美は笑う。
「楓さんは、わりによい人みたいだね。前に付き合っていた人よりはずっといいね」
「前に付き合っていた人?」
「兄さんが高校のころ、つきあっていた、私の学校の友人。あの娘、私のことをとても悪く話したでしょ? アニキが一時期、仲良くなったあと、私の悪口を四六時中、言いふらしていた女性。何で、そんな女の言った言葉を信じたの? アニキ」

「あの子は、単に、私とアニキの中をうらやましがっていただけで、アニキがただ自分に対してもいいお兄さんであることを望んでいただけで、私よりもむしろ、ただ愛されることだけを望んで、愛してなんていなかったんだよ。私のように、ずっとアニキのことばかり考えていることなんてなかったんだよ。声が聞きたくて辛くなることも、
アニキだって、別にその女性のことを好きじゃなかった。単に、うらやましがっていただけの女の話、なぜアニキは耳を傾けたの? なぜ、私の行動をいちいち悪くとっていったの?
私のことが好きでしかたないのに、私を傷つけたの?

「それくらいなら、無邪気にいくつかの悪を犯して、その報いが災いとして降りかけられているくらいの方が、ずっと潔いと思わない?」

「アニキだけ、手を汚さないなんてずるい」
 輝彦はジッパーを上げて実を整えてから立ち上がり、留美も腰を浮かせた。二人は、黙ったまま歩いた。
 輝彦の歩き方は速く、ヒールのある靴を履いた留美は、遅れ、時折、立ち止まってもらった。そうして、ある一箇所で立ち止まった。二人とも、目を凝らしてあちこちを眺めていた。
 どこが、あの日、私たちが腰を下ろして慰めあった場所で、どこが薫をおかしくさせた場所だったのだろう。


 留美は、少しこの町を見て歩きたいと言った。
「もう、見てまわったんじゃないのか?」
「まだ、全然」
「どこに行きたいんだ?」
「湖に行きたい。これから、夕焼けよね」
 留美は輝彦と共に神社の石段を降り、湖岸へと向かった。
 大きな湖水浴場の他に、四方を山に囲まれているせいで立ち寄る人の少ない、ひっそりとしたとても小さな砂浜があって、そこへ行くことにしたのだ。
 湖へ続く道は、彼らが暮らしていた頃よりも手入れが行き届かなくなり、少し歩きにくかったが、途中に彼らが置いておいたベンチがあり、ところどころの木の幹に昔彫った落書きが残っていた。
 留美は、懐かしさに浸りながら、深呼吸をして、いう。
「輝彦、今でもアニキのこと大好きよ。アニキのことばかり考えているのよ」
 輝彦は途惑っていた。
ゆふなさき
2012年09月18日(火) 20時31分36秒 公開
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■作者からのメッセージ
まだ仕上がっていないものになります。
途中で文章が荒くなってきてしまったので、間を置いています。
仕上げてからにしなければと思っているのですが、書き終えられずにいます。
何か凝った作りなどを目指していないので、足りない部分をご指摘ください。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  ゆふなさき  評価:50点  ■2012-09-23 21:13  ID:jE4RG11eTPI
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おさん

感想をありがとうございます。

妹の心情描写がよくて、その他の心情描写が弱いとのこと。なるほどなと思いました。
ただ、

>こういうのは、直接話しながらとかでないと、なかなか難しいのじゃないかなとも、思えますよねぇ。
の主語が分からず。助言をするのは、話しながらじゃないと難しいということなんでしょうか。そういうのってありますよね。ちょっとしたニュアンスの違いで意味が逆転してしまうことすらあるので、文章よりは声で絶えず伝わっているか確認したりしないと、誤解だらけで喧嘩になったり、奇妙な嫌悪などいろんなバカらしいことが怒ったり。

ミニイベント告知、見に行ってきます。では、感想ありがとうございました。
No.1  お  評価:20点  ■2012-09-22 12:20  ID:L6TukelU0BA
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どもどもーっす。
読みました。
うーん、未完すか。
これはどうなんだろうなぁ、良いのかなぁ。
それはさておき、
すごいなぁ、良かったす。
とくに、妹ちゃんの複雑な心情が、細かく描かれていて。
その分、お嫁ちゃんが薄いかなぁ。
きっと、まだ書かれていない部分で何かあるのでしょうね。一番肝心な部分が書けていない。これはちと、辛いとこですね。
さて、どうしましょう。僕は畑違いも良いところなので、助言めいたことは何も言えません。お嫁ちゃんと兄貴くんの人となりもまだ明かされていないみたいだし。こういうのは、直接話しながらとかでないと、なかなか難しいのじゃないかなとも、思えますよねぇ。
ともかく、話しの流れは楽しんで読ませてもらいました。ちょっとドキドキしながらね。完成を楽しみにしてます。
点数は、僕基準で、未完成と判断したものは20とさせてもらってます。内容への評価ではないのでご了承を。

さて。
いよいよ、ミニイベ板に厨二小説イベントの告知が立ちました。チェックよろしくです!
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