温かな食卓



  〜 Breakfast 〜

 それは久しぶりの休日で、わたしは随分と長いあいだ布団の中でまどろんでいた。
 まだ暗いうちに妻がベッドを抜けていったことには気づいていたけれど、妻はわたしを起こさぬように、そっと、静かにベッドを抜けていった。

 ‥台所から、妻が朝食を用意する音が伝わってくる。
 鍋がコンロに当たる音。冷蔵庫を開け閉めする音。トントンと何かを刻む音。カチャカチャと何かをかき混ぜる音。ジャーっと油の爆ぜる音。蛇口から流れる水がシンクに当たる音‥‥。
 ‥やがて音がやみ、かわりに、いろんな香りが流れてきた。‥香ばしく焼けた醤油の匂いと、その陰に混ざる、ふっくらと、柔らかな卵の香り。あきらかな個性をもって漂う、アジの干物。‥味噌汁の香りに浮き沈みするのは、‥あぁ、これは茗荷の匂いか。
 ‥そうか、もうそんな季節なのか‥‥。
 わたしはそんな事を思いつつ、ただ静かにまどろんでいた。

 妻が、太郎を起こす声が聞こえた。太郎は、この春に小学校にあがったばかりで、生意気にも、一人で眠ると言い出したのはつい最近のことだった。わたしも妻も心配したのだけれど、今のところ、一度だけおねしょをして泣きべそをかいた以外、本当に一人で眠っていた。

 ‥妻が、太郎を急かしながら朝食を食べさせている。
「ほら、早くしないと美香ちゃん迎えにきちゃうわよ」
 美香ちゃんは三軒隣の太郎の同級生で、産まれたときからの幼なじみ。ちょっと気の強いところもあるけれど、それも愛らしく、とても可愛い子だった。太郎も美香ちゃんも、わたしや妻には隠しているけれど、どうやら結婚の約束をしているらしかった。

「た〜ろ〜ちゃ〜ん、がっこいこ〜」
「ほらぁ、美香ちゃんきちゃったじゃないの! あぁ、だめ。ちゃんと良く噛んで食べなさい! 美香ちゃんごめんねぇ! すぐに行くからぁ」

 わたしは布団の中で、そんなやり取りを微笑ましく聞いていた。
「かあちゃん、いってきま〜す!」
 太郎が廊下を駆ける音。
「ほらっ! ランドセル持たないでどうするのっ!」
 妻が太郎を追う音。

 ‥やがて、玄関の閉じる音。そして静寂‥。

 それらの音を聞きながら、わたしはすっかり目覚めてしまい、しかし、なんとは無しに起きだすきっかけをつかめず、ただ、だらだらと瞼を閉じながら布団に包まっていた。
 少しだけ台所から音が響き、それから妻が部屋に戻ってきた。妻はベッドの端に座り、布団を胸の辺りまで肌蹴ると、「そろそろ起きなさい」と、指先でわたしの眉間を静かにさすった。それでも瞼を開けずにいると、「起きてるんでしょ、わかっているのよ」と、今度は掌でわたしの頬をさすりはじめた。
 それでわたしはようやく瞼を開けると、「おはよう」と言いながら妻の手を取り、そのまま抱き寄せた。
「きゃっ‥」
 妻は小さく叫びながら、けれど、抗うでもなく、すっぽりとわたしの胸に収まった。しばらく妻を抱きしめ、それからキスをした。やがて、キスを残したまま微かに唇が離れると、妻は、声にならない声で、おはよう、と唇を振るわせた。
 ‥妻の頬は、微かに上気してみえた。それでわたしは、つい、その先に及びたい気分になり、妻の服にそっと手を入れ、素肌に触れた。けれど妻は、「おいたは、いけませんことよ」と、悪戯っぽく笑うと、さらりと立ち上がり、そのまま窓のカーテンを開け、ついでに、窓も全て開けきった。朝の光とともに、ひんやりとした外気が流れ込む。そしてそれは、瞼に優しく、頬に心地よかった。

 わたしは、ちゃぶ台の前で胡坐をかき、読みもしない新聞を広げていた。ちゃぶ台の上には、伏せられた御飯茶碗と味噌汁碗があり、その手前には、箸起きを枕に、わたし用の箸が静かに横たわっていた。小鉢には、昨夜の残りの里芋の煮っ転がしがあり、ちゃぶ台の中央に据えられた向うづけには、白菜を中心に、数種類の漬物が、彩りよく盛られていた。

 それらの上に新聞を広げ、わたしはその紙面を眺めていた。隣には妻が座り、やはり、読むとはなしに、わたしの脇から新聞を覗き込んでいた。‥コンロの上では、チリチリと小さな音をたてながら、アジの干物が焼きあがりつつあった。

 ‥ちゃぶ台。以前の食卓はテーブルと椅子だったのだけれど、太郎の成長とともに、ちゃぶ台に替えた。
 ‥太郎には、ちゃんと正座の出来る子になってほしいから。そう言って、妻がいきなりちゃぶ台を抱えてきた時は驚いたけれど、慣れてみると、案外と心地よかった。
 まず、まん丸のちゃぶ台は、そこに向かう席を確定しなかった。座布団の置き場所しだいで、好きな場所に座れた。そして何より意外だったのは、視線の低いことだった。当たり前のことではあるけれど、椅子に座るより、床に座るほうが視線が低い。そして、低い視線がこれ程に落ち着くものだとは思ってもみなかった。

「今朝は卵、どうしますか?」
 妻が立ち上がりつつ言った。‥あたりには、干物の香りを縫うようにして、味噌汁の匂いが優しく漂っていた。
「‥そうだな、味噌汁に落してくれるかな」

 ‥我が家の朝食では、一人に一個、必ず卵がついて来る。そして、その調理法はその日の気分で選べることになっていた。

「味噌汁に落してくれるかな」
 わたしの一言に、何故だか妻はクスッと笑うと、席を立って準備をはじめた。

 妻はまず、干物を八寸に載せ、その後ゆきひらに水を張り、コンロにかける。沸騰してから火を弱め、今度は隣のコンロで味噌汁を温める。沸騰させないように慎重に火加減を確かめながら温め、やがて、とろ火に落す。お玉を取り、一通りゆきひらにくぐらせる。それからようやく卵をとり、片手で、とんっ、とお玉に割りいれると、お玉の底をゆきひらに浸して湯煎にかける‥。

 ‥そろそろかな。わたしは思いつつ、目の端で妻の動きを追っていた。

「あなた、ちょっと手伝ってもらってもいいかしら‥」
 妻の言葉に、「あぁ」と応じながら、わたしはわざとゆっくりと新聞を畳み、ゆるゆると立ち上がり、妻の隣に立つ。
「ちょっと手が離せなくて、味噌汁をよそってくれるかしら」
 わたしはちゃぶ台に戻って碗をとり、味噌汁をよそい、妻の傍らに置く。
 お玉のなか、卵の白身は艶を帯びて色づき、黄身はあくまでもこんもりとしてその中心に在った。
 妻は、お玉と碗の位置を何度か確かめ、それからようやくお玉を湯煎から引き上げ、慎重に碗の上に運ぶ。お玉の底が味噌汁に触れるか触れないか、ぎりぎりの距離で、そっと、慎重に、卵を味噌汁に浮かべる。碗の中、卵はほんの一瞬ふわりと広がり、次の瞬間、すっと縮まり、そして、碗の中央で気持ち良さそうにぷかりと浮かんでみせた。

 わたしは味噌汁を持ってちゃぶ台に戻り、席につく。妻は、わたしからほんの少し間をおいて座布団をひくと、自分用のゆで卵の殻をむき始めた。

 わたしは卵の黄身を箸先で微かに突いてから、黄身を崩さぬように、慎重に、少しだけ味噌汁に口をつけ、それから御飯を一箸口に運び、アジの干物に箸を入れる。箸先から、ふわっと、微かに湯気が立ち昇り、その湯気が、辺りの空気を一気に満たす。そしてその空気は、実に穏やかで、実に満ち足りて、実に我が家の朝であった。

 そして、妻がゆで卵を口に運ぶのを横目で見ながら、わたしは言った。

「久しぶりに、美術館にでも行こうか」
 わたしの言葉に、妻は嬉しそうに笑い返した。


  〜 Launch 〜


 平日、午前の美術館は人も疎らで、空気は、しんと澄み渡り、とても気持ちの良い空間だった。一通り一階の常設展を観て周り、それから階段で、二階の企画展に向かった。

 幅の広い階段は中二階で折れ曲がり、そこが広々とした喫茶スペースになっている事は判っていた。わたしも妻も、そのまま企画展に進むつもりで階段を昇ったのだけれど、その中二階で、意図せず、二人同時に足を停めた。

 ‥壁は一面のガラス張りで、その向こうに欅の大木が植わっている。そして、欅をすり抜けた陽光が、辺り一面を光と影でもって覆いつくし、微かに揺れ動きながら綾をなし、楚々とし、実に清々しい空間を創出していた。
 欅の枝には、芽吹いて間もない若葉が密集し、しかしその若葉は一枚一枚の形がはっきりとわかる程に小さく、一様に、透けるような浅緑で、それが微かな風に吹かれ、実に心地良さそうに揺れていた。ほんの数日もすれば葉は成長し、いよいよ密集し、ちょっと鬱陶しいとすら感じるようになるのだろうけれど、今はまだ、その浅い色ををそのまま床に投げ下ろし、光色の匂いで辺りを覆い尽くしていた。

 ‥今、この瞬間にこの空間を利用しないなどという選択肢は存在しなかった。どんな絵画であっても、この空間に優ることはないだろうと思った。わたしと妻は、共に先立ってその空間に足を踏み入れ、窓からほんの少し手前の席に腰を下ろした。

 ウェイトレスが訪れ、「いらっしゃいませ」ではなく、「こんにちは」と言いながら、メニューと、氷の浮かんだグラスを置く。ウェイトレスの指先から、微かに、トーストの焼ける香ばしい匂いが立ち昇る。そしてその匂いは、この空間に実によく馴染み、光の匂いと合わさって、わたしと妻のテーブルを包む‥。

 それで、朝食からまだあまり時間がたっていなかったけれど、そのまま軽い昼食を摂ることにした。メニューには、パスタやドリアといったものも並んでいたのだけれど、わたしたちには、トースト以外の選択肢などあり得なかった。
 わたしはごくオーソドックスなバタートーストを選び、妻は、ブルーベリージャムの載ったジャムトーストを選んだ。それと、温野菜のサラダと紅茶をそれぞれ二人分オーダーした。
 それらが届くと、テーブルは一挙に賑やかになり、まるで、小さなパーティーのようだった。

 ‥トーストは見事な焼き上がりで、バター越しに透ける狐色の肌と、触れればパチパチと爆ぜそうな、見事な耳を持っていた。妻のトーストに載ったブルーベリーも見事で、ジャムというよりも、砂糖で少し煮込んだだけといった風情のそれは、トーストの上、一部では大きく崩れ、一部では崩れつつも原形を保ちつつトーストの上を広く覆っていた。
 ‥温野菜から立ち昇る柔らかな香り。浅緑のレタスをメインに、アスパラの穏やかな緑、ピーマンの鮮烈な緑。蕪の透けるような白。人参は艶を帯びて輝き、プチトマトの赤が彩りを添える。皿の周りには、ぐるっと一周、生のパセリが隙間無く、みっちりと取り囲んでいて、全体の印象を引き締めている。
 紅茶は、二人分が一つのティーポットで供され、カップは空の状態で運ばれてきた。カップは見事に磨かれ、触れると、微かに温かかった‥。

 トーストを耳の方から一口齧ると、バリッと、微かに焦げついた、好ましい香りが口中に漂う。そこへ、生のパセリを追加する。なんとも爽やかな苦味が口中を覆う。妻もジャムトーストの耳を齧ると、そのままパセリを口に運び、幸せそうに笑いながらわたしを見詰めた。

 それから、わたしが温野菜にフォークを運ぶのを見ながら、妻はポットの紅茶を二つのカップに注ぎ分け、一つをわたしの前に置き、そして、自分のカップに、トーストに載ったブルーベリーを溶かしこんだ。添えられたスプーンで軽く一匙、大きくかき混ぜ、ゆったりと口に運ぶ‥。

 ‥‥実に旨そうであった‥‥‥
 ‥‥旨そうではあったが、わたしは、何も言わずに温野菜を口に運ぶ。

 ‥この時、妻が、何をどう判断したのか。それはわたしには判らない。ただ妻は、やはり幸せそうに笑いながら、トーストの上からブルーベリーを一匙すくうと、わたしのカップに浸し、大きくかき混ぜ、トーストの上の空いた部分には温野菜を載せて口へと運んだ‥。


  〜 Coffee break 〜


 美術館を出ると、思った以上に時間が経ってた。二時ちょっと前。まだ昼間と言えば確かにそうなのだが、太郎が帰ってくる前には家に戻っていたかったし、途中、夕飯の買物をすませる予定でもあったので、やはり、慌てた。

 近所の、いつものスーパーにたどり着いたのが二時半。わたしも妻も慌てた気分で、二人して買い物籠を一つづつ手に持って店内に入った。
 青果売場から鮮魚を経て、精肉売場にさしかかり、そこで妻は唐突に歩みを止めた。妻の買い物籠には生姜と白ネギが入っているだけで、わたしの籠には何も入っていなかった。そんな状況のなか、妻は足を止め、売場の一点を見つめていた。
 妻が見つめていたのは、精肉の冷蔵ケースからはみ出す形で設置された一画で、そこには、出来合いの鍋スープが数種類並んでいた。ゴワゴワした感じのレトルトパッケージには、いちいち、いかにも美味しそうな写真が印刷されている‥。
 ‥妻は、そういった出来合いの食品には、まず、手を出さない。けれど、今、妻がじっとそれを見つめているという事は、つまり、今夜の食卓が鍋になるという公算が、とてつもなく高まったという事だった‥。

「久しぶりに、鍋にしようか‥」
 妻が、ポツりと言った。
 うわっ!来たっっ!
 わたしは一気にうろたえつつ、次の一言を模索する。しかし、適当な言葉が見つからない。 そんなわたしを訝しげに見遣りながら、妻が一言。
「何よ、お鍋いやなの? わたしの鍋は最高だって、いつも褒めてくれるじゃない」
 わたしは、うろたえつつも、なんとか言葉を探す。
「‥お、お鍋最高〜っ! 家族団欒ランランラン‥、なんちゃってっ!」
 わたしは、頭の上に掌をかざしながら、そう言った。
 ‥わたしは、妻の、明らかな軽蔑の眼差しに耐えることに、なんとか成功した‥。

 ‥鍋。‥妻の造る鍋。それは確かに旨い。最高と言って、過言ではない。
 妻の鍋は、土鍋ではなく、平底の、普通の鍋で造られる。平底の鍋を使う理由は単純で、鍋底に大根を敷き詰めるからだ。皮付きのまま厚さ2、3センチに切った大根を数段にわたって積み重ね、そこへ出汁を張り、それが全てのベースとなる。時によっては、大根の厚みが鍋の深さの半分近くになることもある。醤油味、味噌味、キムチ味‥、いかな味付けであっても、全て、それがベースになる。
 そこへ様々な具材を煮込んで楽しむこととなるのだけれど、大根は、あくまでも鍋底の一部というか、出汁の一部というか‥。別に、途中で食べたってかまわないのだけれど、妻はもちろん、わたしも太郎も、ほとんど手をださない。それは、その本当の美味しさを良く知っているからだ。
 普通、鍋の締めには、残った出汁に御飯やうどんなどを投入する家が多いようだが、我が家の場合は違う。
 我が家の場合。まず、どんぶりに白い御飯をよそう。ここで件の大根が登場する。全ての食材の旨みを吸収しつつ、鍋底でじっと耐え続けてきた大根。角は崩れ、皮には幾筋ものひび割れが生じ、時によっては、箸で持ち上げることすら困難なほどに柔らかく煮込まれた大根。その大根を御飯に載せ、出汁をかけ回し、大きく崩しながら掻きこむと‥。これはもう、極上の大根丼というか、このためにこそ鍋を造ったのだというか、とにかく最高で、筆舌尽くしがたい美味しさで、もう、たかが大根、されど大根、嗚呼大根‥、としか言いようの無い御馳走なのである。

 しかし、そんな鍋にも、一つ、たった一つ問題があって、それは、本人には全くその自覚が無いらしいのだが、妻は、実に剛健な、鍋奉行なのであった‥。

 ‥買い物にやや手間取ったこともあり、家の近くまで帰りつく頃には、三時半を過ぎていた。さすがに太郎はもう戻っているだろうとは思いつつ、しかしぎりぎり間に合うかもと、妻もわたしも、小走りに近い状況だった。
 最後の角をまがると、太郎の姿が見えた。ぎりぎりセーフ。太郎は美香ちゃんちの前で、ランドセルを背負ったまま美香ちゃんと遊んでいた。美香ちゃんもランドセルを背負ったままで、ジャンケンでもしているのか、二人して手を出したり引っ込めたりしながら実に楽しそうだった。よほど夢中なのだろう、太郎も美香ちゃんも、わたしたちの存在には全く気付いていない様子だった。
 少し近づき、呼びかけた。
「おうっ! 太郎っ!」
「あっ、とうちゃんだ! かあちゃんもいる! とうちゃんおかえりっ、かあちゃんただいまっ!」
 いま一つ、おかえり、と、ただいま、の区別がついていないようだが、とにかく元気一杯なのが頼もしい。
 さらに近づきつつ、今度は妻が、「太郎、美香ちゃん、お帰り」と言った。
 すると美香ちゃんは、子供ながらにも、やや居住いを正し、「おじちゃんおばちゃん、おかえりなさい」と、ぺこっとお辞儀をしてみせた。その間美香ちゃんは、太郎が横からちょっかいを出すのを片手で制しし続けていた。
 それを見ながら、さらに妻が言う。
「太郎、今夜はお鍋だからね!」
 太郎の表情が、みるみると強張る。‥太郎にしたって、妻の鍋がとても美味しいことだって、妻が鍋将軍であることだって、先刻ご承知なのである。
 そして、そんな太郎を不審げに見ながら、妻が言う。
「なによその顔は。太郎お鍋好きでしょ?」
 その言葉に、太郎はハッとしたように我に返ると、こう言った。
「お、おなべさいこ〜! か、かぞくだんらんランランラン‥、なんちゃってっ」
 言いつつ太郎は、掌を頭にかざしてみせる。
 ‥太郎は、妻の複雑そうな視線と、美香ちゃんの、明らかな軽蔑の眼差しに耐えることに、どうにか成功したようだった‥。

 ‥そしてわたしは思った。子供の約束とはいえ、もし、本当に太郎が美香ちゃんと結婚する事になれば、太郎はきっと幸せになれるだろう。そして、きっと太郎は美香ちゃんの尻に敷かれるだろうと‥。


  〜 Dinner 〜


 ちゃぶ台の上にカセットコンロがあり、鍋が据えてある。今のところ、鍋には大根と出汁しか入っておらず、まだ、火はついていない。妻は流しに向かい、食材の下準備をしている。切ったり洗ったり、下茹でしたりと、忙しそうである。
 わたしは床に直接胡坐をかき、ちゃぶ台の上に読みもしない夕刊を広げている。太郎は特に何をするでもなく、少し離れた場所で、重ねた座布団の上でピョンピョン飛び跳ねたり、座布団に潜りこんだりしていた。

 やがて、妻は小さなボウルを持ってちゃぶ台に寄り、鍋に幾つかの食材を投入する。
 まず、大量の白菜。椎茸と白ネギ、人参と牛蒡、蒟蒻、海老、蛤。何れも、出汁になったり、冷たい状態から茹で始める必要のある食材だった。それから妻は、ちょいちょいと指先を動かしてわたしの夕刊を畳ませると、コンロに火をつけ、一旦強火にし、慎重に中火に落とすと、太郎に言った。
「太郎、そろそろ座布団を配って、それから、箸と茶碗の準備もお願いね」
 その言葉に太郎は、ピョンっと、跳ねるように立ち上がると、座布団を抱えてちゃぶ台に走り寄った。
 まず、妻の座布団。これはほぼ定位置。流しに一番近い場所。次にわたしの座布団。これもほぼ定位置で、妻の真正面。そして最後に自分の座布団。
 ‥太郎は、自分の座布団を抱えたまま、暫し逡巡。‥普段なれば、太郎は妻の隣に座布団をひくことが多い。父としてはやや寂しくもあるけれど、現実問題として、それが太郎の実利にかなっているのだろう。
 しかし今日は違った。太郎は躊躇いがちに、わたしの座布団に密接するようにして座布団をひくと、しかし、やはり想うところがあるのか、少し間を開け、けれども、極めてわたしの座布団に近い場所に自分の座布団を配置した‥。
 それから太郎は、箸や茶碗、生卵の入ったボウルなどを持ってちゃぶ台と妻の間を行ったり着たりしつつ、時折、わたしの視線を確かめるようにしつつ‥。そして、やがて、全ての準備が整った。

 鍋の中、基本の食材たちはクツクツと程よい感じで、白菜はしっとりとした透明色を呈し、椎茸は艶を帯び、海老は赤く染まり、蛤は今にも口をあけそうな風情だった。辺りには柔らかな湯気が立ち昇り、その湯気がゆったりとわたしたちを満たしていた。鍋の傍らには二つの平皿があり、一つには白菜とエノキ茸、結びしらたき、カワハギ、鱈、鱈の肝などが盛られ、もう一つにはやはり白菜と、白ネギ、焼豆腐、そして牛肉が盛られていた。

 ようよう妻が席に着き、柔らかな口調で言った。
「では、いただきましょう」
 それでわたしたち三人は、ちゃぶ台に向かってきちんと手をあわせ、「いただきます」と頭を下げ、ついに鍋が始まった。

 わたしはまず、卵を小鉢に割り入れて解きほぐす。妻と太郎も同じようにしている。それから取り皿に白菜と蛤を取り、溶き卵に浸し、口へと運んだ。とても美味しかった。それから、やはり白菜と牛蒡を取り、卵に浸してから食べる。これも美味しかった。
 妻は鍋の中に、少量の白菜とカワハギ、結びしらたきを追加する。それを見ながらわたしは牛肉を取り、鍋に投入‥、しようとした。が、妻の一言がわたしの箸を遮った。
「あぁ、なんでいきなり肉を入れるのよ!」
「‥なんでって、俺、肉が食べたいんだけど」
「だめだめ。まずは魚介系から。そうしないと味が濁っちゃうでしょ」
 言いながら妻は、ネギと鱈のキモを追加する。
 太郎はわたしたちのやり取りに、ちらっと視線を向け、しかし後は無頓着な様子で、今は、ひたすら海老の殻と格闘している。
 ‥キモだって、随分と味を濁すような気がするけどなぁ。
 そう思いつつ、更に言ってみた。
「‥、俺、肉が食べたいなぁ」
 しかし妻は、ぴしゃりと一言。
「がまんしなさい」

 ‥わたしとしては、やはり思う処があった。あったけれど、がまんした。全ては大根丼のためと思って、がまんした。

 鍋は進み、やがて、二つ目の卵を解きほぐす頃、唐突に妻が言った。
「そろそろ肉を入れても良いでしょう」
 その言い方に、いまいち釈然としないものを感じつつ、しかしわたしは、無言のままに肉を取り、鍋へと投入する。太郎も肉が食べたいのだろう、わたしの箸先に注意を払っている様子だった。

 衆人監視のまま、わたしは肉を投入する。そして、投入した直後、妻が叫んだ。
「ああっ! 何でそこに肉を入れるのよっ!」

 ‥‥。何でって‥。‥‥‥。プチッ。

「だっておまえ、肉入れていいって言ったじゃないかよっ!」
 ‥わたしとしては、やはり耐え切れなかったのだ。仕方のないことだったのだ。そして、そんな仕方のない一言に、太郎が反応した。

「うわぁ! とうちゃんが怒った! とぉぉぅちゃぁぁぁん‥」

 この、太郎の不用意な絶叫が、それまでの、危うい均衡を突き破った。
 太郎絶叫の直後、今度は妻が叫んだ。
「言ったわよ! 肉入れていいって言ったわよ! でも、肉は蒟蒻の対面って、いつもあれほど言ってるじゃないのよ!」

「うわぁ! かあちゃんも怒った! かぁぁちゃぁぁぁん‥」

 太郎、再びの絶叫。‥これで、全てのタガが消し飛んだ。
「だっておまえ、見てみろよっ! 蒟蒻、俺のまん前にあんじゃねぇかよ! なんで自分の食べる肉を自分から一番遠いとこに入れなきゃなんねぇんだよ!」
「何よ! わたしが悪いっていうの? あなたってばいっつもそう! 都合の悪いことは何だってわたしのせいにして!」
「なんですとぉ! 俺がいつおまえのせいにしたよっ! 俺が言ってんのは、ただ、何で自分の肉を鍋の向こう側に入れなきゃなんねぇんだってことだろうっ!」
「だからそう言ってるじゃないのよ! 酷いわぁぁ、わたしってば、この家で一番不幸な女なんだわぁぁ」

 妻はそう言って、泣き崩れてみせる。そこへ太郎が、やはり不用意なまま、合いの手をいれる。
「うわぁ! かあちゃんが泣いた! とうちゃんがかあちゃんを泣かせたっ!」
 妻は、しめた、とばかりに、太郎を座布団ごと自分の側に引き寄せつつ、さらに「ひどいわぁぁ」、と絶叫。

「なっ、ななな、何ですとぉ? だいたいが、一番不幸も何も、この家に女はおまえ一人しかいないじゃねぇか! つまりおまえは、この家で一番幸せな女でもあるわけだろうよっ!」
「何よ何よっ! ああ言えばこう言う! 少しは自分で考えて喋りなさいよっ!」
「なっ、なななな、何ですとぉ! ‥あっ! 太郎! そのお肉はとうちゃんのお肉だぞっ!」

 いつの間にか、自分の取り皿と卵を妻の側へと引き寄せた太郎が、肉を卵に浸し、口へと運ぼうとしていた。そして妻はしたり顔。

「た、たたた太郎! お前はいったい、どっちの味方なんだ?」
「太郎はかあちゃんの味方よねっ? そうに決まってるわよねっ?」
 太郎は、ほんの一瞬わたしに目配せをしつつ、しかし躊躇うことなく肉を口へと運ぶ。
「ああっ、なんだそれは! 太郎はとうちゃんの味方だよな? そうに決まってるよな?」
 しかし太郎はわたしの哀願をよそに、さらに鍋から肉を取り上げ、卵に浸して口へと運ぶ。
「ああっ、太郎、駄目だ、そのお肉は駄目だぞ! なんたって蒟蒻まみれだ、きっと固いに違いない!」
「た、太郎はこれでいいのよ! 少しぐらい固めの方が顎だって丈夫になるし、良く噛んで食べる練習にもなるじゃないのよ!」
「なっ、ななななな、ななな何んですとぉ‥‥‥っ!」
「なっ、何よ何よ何よ何よ‥‥っ!」
「‥‥‥‥‥っ!」
「‥‥‥‥っ!」
「‥‥‥っ!」
「‥‥っ!」

 嗚呼、ああ、あぁ‥。

 ‥子はかすがい。
 ‥仲良きことは、美しきかな。

 ‥蝸牛枝にはい、神、天にしろしめす。なべて世はこともなし。
YEBISU
2012年09月03日(月) 00時49分01秒 公開
■この作品の著作権はYEBISUさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
えっと、これは去年の秋にBreakfastを書き、今年の春にLaunchを書き、初夏の頃にCoffeebreakを書きはじめ、今になってようやくDinnerを書き上げたという構成になっております。
我ながら、今ひとつ季節感の乏しい仕上がりとは想うのですが、感想などありましたら宜しくお願いいたします。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  蒼井水素  評価:30点  ■2012-09-10 00:10  ID:nh8W4z5u2BU
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拝読しました。

こういった投稿サイトで食を書いた作品は珍しいですね。

これを書いた人は、細かいところをよく見ているなあ、と思いました。

恐らく、YEBISU様が描きたいと思っていることから外れていると思うのですが、この登場人物である「私」は、自分で料理を作らない、貪欲になってうまい店を探すことはない、という人みたいなので、すこし不思議な感じがしました。

そんなことをしなくても、おいしい料理が食べられる立場だとしたら、うらやましいですね。
No.3  YEBISU  評価:--点  ■2012-09-07 18:32  ID:hugVebm6UOc
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お、さん、どうもご無沙汰しております。
えっと、ラストの部分は、はっきりとオチです。まずオチを思いつき、朝昼晩の三章だてにしようと決めて書き始めたのが去年の秋。だらだら書いてるうちに予定外のCoffeebreakが差し挟まれ、確かにこれじゃ、何を書きたかったんだか我ながら訳ワカラんという感じですね。
それと、最後にもうひとフォローとのご指摘。確かにそうだと思います。近いうちに手直ししてUPしようかと思うので、その時はまた、ご批評頂けると嬉しくおもいます。

堀田 実さん。ご批評ありがとうございます。
そのご指摘は、確かに正しい。前半部分は始めっからそのつもりで書きましたから。
ただ、最後まで読んでもらえなかったというのは、やはり筆力の無さという事と想うので、えっと、もっとがんばります。
No.2  お  評価:30点  ■2012-09-04 14:42  ID:.kbB.DhU4/c
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どもども。お久しぶり……でいいのかな。
ほのぼのとした微笑ましい風景でした。
しかしまぁ、このラストのオチからさかのぼって、果たしてこの文章量が必要だったのかなぁとは思うかなぁ。
いや、これはオチではなくこれも風景の流れなのか、うーん、だとしたら最後にもうひとフォローあっても良いのかなぁ。
とか、いまひとつ、すっきり腑に落ちない感じではありました。
No.1  堀田 実  評価:20点  ■2012-09-03 21:50  ID:wmb8.4kr4q6
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Launchまで読みました。
自然に美味しそうな料理が浮かんでくる描写は凄いなぁと思いました。
ただ読んでいてもどかしくて全部読めませんでした(汗)
多分描こうとしたのは「当たり前の幸せ」のようなものだと思いますが、それが甘すぎるぐらい甘すぎて、もうメロドラマを超えてコメディになっちゃってるような家族像に思えました。
総レス数 4  合計 80

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