深緑、囁く頃に
 
 山路の急な勾配に気がつかなかった。ひどく寂然としたトーンの木々やら、イエローが腐って臙脂になった空だとかが、180℃俄か反転したものだから心臓が跳ね上がり、それっきり時間が止まった。

 波が揺れては離れの鈍痛が襲い掛かる。見るからに擦過傷以上の傷が刻み込まれているのにもかかわらず、出血は思いの外、微量に留まっている。痛みは感覚を無理やりにでも研ぎ澄ます。そうであるのに、深い霧が迫る如く、睡魔が神経を侵食して止まない。精神の渇望に耐えかねて、瞼を落とした。意識には底がなく、何処までも沈んでいきそうだ。

 一滴の冷たさ。それは次第に激しさを増し、ついには篠突く雨となった。全身を突き刺す水の矢が仄暗い意識を彷徨わせる。裂傷が浄化されていく、それに伴い神経は鋭利に尖っていく。不意に傷が恐ろしくなり、首を廻し、痛む右腕を眺める。それは爛れた柘榴の様に、醜い肉の花を咲かせていた。いつの間にか、黒々とした大粒の蟻が数匹中に潜り込んでおり、途轍もない嘔吐感に襲われた。恐怖から目を逸らすと、何処から来たのか、大男が佇み自分を凝視していた。ひどく眩暈のする中で、男の顔を睨みつけると、それは自分であった。空洞には次々と蟻たちが集まる、混沌とし、次第にそれは一つの帝国となった。男は笑い出す、白く真っ青な顔を崩して。その男は自分の半身であった、あまりに残酷な半身。むしろ、その男こそのみが自分だと云ってもいい。自分は形骸だ。本来形相でしかない自分、本質はまさしく彼のほうだった。
 
 無風の中を雨が降りしきる。動的なのは雨だけだ。何もかもが無時間的で、色がなかった。男はすでに消えていた。自分は動けるだろうか、左腕に有りっ丈の力を込めたがまるで無駄だった。どうやら自分の死に場所は此処のようだ。強ち不本意ではない、そもそもこの山を訪れた目的は死ぬためであったのだ。下腹部に僅か力を込めて、右足でバランスを保った。そのまま体を横向きにすると、視界が血で滲んでいく。額も割れていたのだ。安堵感が体中に染み渡る。ついに、これで自分も死ねるのだ。もうすぐすれば、楽になれるのだ。柄にもなく、感涙する。

 この世界では雨は恵みであり、脅威でもある。そういった受け取りかたという、相対的な価値観を混和させて雨は世界に齎される。いわば、落ちてくる雨は総合した価値観の大粒な一滴であるのだ。それならば、どうして一人きりだと感じるのか。それは絶対的な自分が此処に存在するからだった。自分はあくまで、自分の域を出ることはできない。他人の見ている世界を永遠に見ることのできないように、自分の見ている世界は、所詮自分の見ている世界でしかないのだ。砂漠に恵みの雨を求める人々でも、大なり小なり雨の受け取り方は違うはずだ。

 相変わらずの鈍痛は睡魔を伴って、波打つ。寒さが故に痙攣を起こしていた全身は、ついにその揺れを止めた。脈打つ心臓、血潮の巡るのが分かる、全身が熱を放っていた。意識は次第に朦朧とし、フェードアウトしていく。何かにきつく締め付けられている様な、強い束縛から徐々に解放される。これで自分も死ぬのだと悟った。


 仄暗い意識、誰かに担がれている。微かに、水に似た母乳と蜂蜜を混ぜ合わせた匂いが嗅覚を漂う。長い黒髪が顔面に纏わりついていた。不規則な振動は在りし日に聴いた子守唄のようだ。あれだけ激しかった雨も霧雨になっていた、そして蒼然たる深緑に包まれていく。<了>
名無
2012年12月10日(月) 16時01分17秒 公開
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■作者からのメッセージ
 短編です。

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No.2  名無  評価:--点  ■2012-12-11 13:17  ID:L7Ej4Yn/HiQ
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サニー様、感想ありがとうございます。

いただいた助言を活用していきたいと思います。
本当にありがとうございました。

No.1  サニー  評価:30点  ■2012-12-10 18:51  ID:8e1Jm3WWRKk
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何が起きて、それをどう感じているかといった描写は、とても面白いです。
あとはそれがどんな場所、状況であるかといった背景描写が入るとさらに独特の世界観に磨きがかかると思います。

それにしても驚くべきは、名無さんの世界の整合性です。
私がこういったように書こうと思うと「だが、しかし、であったが」などの逆説的な表現を多用してまうんですよね。
総レス数 2  合計 30

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