君にふれるだけで
「お話があります」
 突然そう言われた俺は傾けかけていたグラスをどうしようかと迷ってしまった。水割りのウイスキーは一息で飲める程度の量しか残っていない。高々その程度のアルコールを惜しんで機嫌を損ねる事も無いか。目の前で真剣な顔をしている奴をそれくらいは思っている。
「ああ、飲んでしまってからでも構いませんよ」
 高槻理緒という名前のそいつは長い髪に指を当てながらそう言った。目が悪い癖に眼鏡を掛けていない所為で、時折目を凝らして、それが不機嫌そうに見える。
「否、良いよ。改まってどうした?」
 俺はグラスを置きながらその目を見る。
「そうですか。有難うございます」
 理緒は一つ大きく息を整え、言う。
「実は、お返しがしたいのです」
 とりあえず考えてみる。確かに昨日はメールの返事を送る前に眠ってしまったが、それはちゃんと起きてから謝ったし、他に何かお返しをされるような事はしていない筈だ。
「俺、何かしたか?」
「いいえ、そうではりません。貴方は常々良くしてくれています。今朝だって折角の週末だというのに朝から丁寧な謝罪のメールを下さいましたし」
「否、当たり前だろう。すまんな、少し疲れてて」
 理緒は何かしらの葛藤を抱えているような表情の変え方をした。
「それです、むしろ貴方は常々お仕事を頑張っていらしてお疲れなのですから私が気を使うべきでした。御免なさい」
 突然謝られてしまった。
「お前のメールは面白いから、別にそれが苦痛になった事はないが」
「そうでしたか、嬉しいです。あ、違います、また私ばかり喜んでしまって」
 頭を抱えて首を振る。見事な黒髪が蛍光灯の光を受けて煌いていた。素直に綺麗だな、と思った。
「と、兎に角ですね、最近私ばかりが良い思いをしていると思うのですよ!」
 意味が、全く分からなかった。理緒と俺は数年前に知り合い、数ヶ月前から恋人同士として付き合っている。不満は無い。理緒と話していると日頃の疲れを忘れられるし、時折飯を作ったり、掃除をしに来てくれている。好いた相手が良妻だったという訳だ。これで不満を言っていたらばちが当たる。
「そんな事ないだろう」
 理緒にとっての俺は、如何だろう。出来るだけ気を使うようにしているが、俺が感じるように理緒も楽しんでくれているのかは分からない。昨日もメール返さなかったしな。
「ありますよ、貴方は私に何でもして下さるのに、私は」
 どうやら認識に差があるようだった。
「今日だって晩飯作って肴も用意してくれただろ。呑まないのに話し相手もしてくれてるし、今日泊まっていったら、明日は洗濯と掃除もしてくれるんだろ?」
「それは、勿論そうですけど」
「なら、それで十分だ」
 手元のグラスが気になったので、中身を飲み干した。理緒は甲斐甲斐しく新しいウイスキーの水割りを作り、グラスの周りの水滴を拭き取って俺の手元に置いてくれた。飲むまでもなく俺の好みの濃さになっているのだろうと分かる。
「こういうのも、中々してくれないものだと思うがな」
 理緒が少し身を引いた。納得はしていないようだ。
「でも、特別じゃないですよね?」
 意味がよく分からなかった。
「貴方が私にしてくれる事は、凄く特別な事です」
 残念ながら何を指しているのか見当もつかなかった。
「私が我侭を言っても、貴方は笑ってそうしてくれるじゃないですか」
 頼まれても、特に理由がなければ断らない。頼られて嫌な気分にはならないからな。そもそも理緒はそれ程多くの我侭を言うタイプではない。
「夜中に寂しくなった時だって、ずっと電話してくれましたし」
 丁度翌日が休みだった夜の事か。それなら会いに行くと言ったのに、理緒は電話だけで良いと言ってくれた。
「泊まった次の日は、朝ご飯まで用意して下さって」
 理緒は朝弱いからな。その後に掃除と洗濯をしてくるのだから貸し借りは無い。
「今だって、真面目に私の話を聞いて下さっています」
 恋人なのだから当たり前だろう。だが、少しずつ何が言いたいのか分かってきた。
「なので、何でも良いので私に言って下さい」
 成程。不満がないのが不満なのか。何とも、贅沢な悩みだ。それならばと考えて、真っ先に思い浮かぶ事があった。俺は迷う事もせずに理緒の目を見る。
「なら、明日眼鏡を買いに行こう」
 理緒は露骨に嫌そうな顔をした。どうもその昔眼鏡が似合わないとからかわれたらしい。コンタクトレンズは、目に物を入れるのが怖いそうだ。
「何でも聞いてくれるんだろ?」
「絶対に笑わないと約束して下さるなら」
 搾り出すような声に、思わず笑ってしまった。理緒は怒っているようだった。
「だから、似合う眼鏡を探しに行くんだよ。無かったら掛けなくて良い」
「また」
 理緒は口をへの字に曲げ、俯いて言う。
「何だか私の為みたいです」
「それで良いんだって。俺はお前が幸せならそれで良いんだ」
 テーブル越しに手を伸ばす。理緒は躊躇わずに、俺の掌に頬を寄せてくれた。
「貴方にも幸せになって欲しいんです」
「馬鹿だな、俺は理緒と付き合い始めてからずっと幸せだよ。理緒のお陰でな」
 理緒は柔らかく目を閉じ、小さく何かを言った。聞き取れなかったけれど、それで良いんだと思えた。今度は少し酒も飲ませてみようかとか、そんな漠然とした未来を想像しながら、俺はまた自然に笑う事ができた。
笹森 賢二
http://www12.plala.or.jp/keiyasasaki/
2012年06月22日(金) 22時07分42秒 公開
■この作品の著作権は笹森 賢二さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
幸せな日の一幕。

この作品の感想をお寄せください。
No.7  笹森 賢二  評価:--点  ■2012-07-01 22:23  ID:TQuxQJnwtBs
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>月子様。

感想有難うございます。
できればその明後日までこの二人で居てくれたならば作者冥利に尽きます。
どうも世間は隣の優しさを踏みつけて利益を得る事が正しいとされているようです。
それでも、せめて籍を入れた二人ならば分かち合えると信じたいのです。
中々そうもいかない事が多いようですが。
幸せはいつも隣にあるべきだと思っています。
No.6  月子  評価:40点  ■2012-06-30 22:29  ID:iY7yzWMcD6.
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初めまして、こんばんは。


なんと可愛らしいお二人なんでしょう!
甘く可愛らしい恋愛物が大好きなので、とてもきゅんとしました。
幸せなのが伝わってきてとても羨ましいぐらいです。
きっと明日、私はふとしたときにこの二人を思い出してにやけるんだと思います。
ほんわりと幸せを思いあう二人に出会えてよかったです。



次も楽しみにしています。
失礼しました。

No.5  笹森 賢二  評価:--点  ■2012-06-29 20:04  ID:TQuxQJnwtBs
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>並様。

感想有難うございます。
男のツンデレは気持ち悪いのでひたすらデレてみました。
もう少々塩を足した方が良いのかな、とか今になって考えています。
ともあれ、幸せな気分になって頂けたならばこの上ない幸いです。
No.4  並  評価:40点  ■2012-06-28 21:54  ID:W3ZBenfEr.s
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はじめて感想を書かせていただきます。
よろしくお願いします。

まず何より、話し方に登場人物の性格がよくあらわれていて、とても素敵でした。
全体の雰囲気もあったかくて、こちらまで優しい気持ちになれるようなお話ですね。
なんだか幸せな気分になれました。
No.3  笹森 賢二  評価:--点  ■2012-06-27 22:27  ID:TQuxQJnwtBs
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>さかさき様。

感想有難うございます。
かなりお馬鹿な二人です。笑ってやって下さい。
真面目な子はとても可愛いと思うのです。
多少冷やかしながら見守っていただければ幸いです。


>葉津京一様。

感想有難うございます。
実際に居たら相当鬱陶しい二人かも知れませんが、物語の中なので見守ってあげて下さい。

否、は染み付いたというか好きな言葉なのでついつい多く使ってしまいます。
しかしこの二人なら、不要かも知れませんね。
ご指摘感謝です。
検討しつつ彼の人格に足してあげようと思います。
No.2  葉津京一  評価:40点  ■2012-06-26 21:04  ID:Rbmmi1V8YJo
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こんにちは。

なんだかほのぼのとしていますね〜。
まさにおしどり夫婦、いや、おしどりカップルというべきかなと思います。

後半の、眼鏡を買いに行きましょうシーンなんて、ふふっと笑みが出てしまうほど幸せさが満ちていて、読んでいるこっちが恥ずかしくなってしまいます。
(もちろんいい意味で)

ちょっと細かいことですが、前半の「否」という言葉が少し蛇足に感じました。
ない方が、すっきり読めるのかなと思います。
No.1  さかさき  評価:30点  ■2012-06-23 13:06  ID:bWjCk.64/Qo
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なんというバカップル。いやいや楽しく読ませていただきました。
理緒の真面目さがまた可愛らしいというかほほえましいお話でした。
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