掌編小説二作
【すりこぎ】

 季節は冬、所はどこか。牡丹雪がしんしんと降り、足跡に僅かばかりの高低差。寒々しいつららが家々に連なり、細かな雲間に覗く太陽を受け、淡く光っている。それらが、寂れた農村の光景を、幾分賑わせていた。
 特に酷いは佐久の家、もはやつららで出来た家。一人家の中、布団にくるまり土地柄の悪さを嘆く他ない。
「しかしそれでも、仕事はやらねばならん。つらいね、つらい。つららがつらい……」
 えいやとかけ声、布団を脱ぎ捨て、ぶるると三度震える。着込みに着込み、ずるりと寝床を抜けだし、仕事場へ向かう。
「おれの仕事はねぇ、すりこぎで木の実を擂ることなのさ。週に一度、矢作がくるからねぇ、やっこさんにそいつを渡して、金と交換ってわけなのさ……寒いねぇ、寒いと独り言が多くなる……せめて仕事場ぐらいは火を付けたいねぇ、マッチはどこだったかね……あった……暖かいねぇ」ぱきんと音がした。「……あ、あぁ、あちゃ、あぁ、参ったねぇ」
 見ると火元近くのすりこぎ鉢が割れている。老朽化したそれが、温度差に耐えられなかったのだ。
「やっちまったなぁ」
 火に手をかざし、暢気な口調で佐久は言うが、すりこぎ自体も無くしたことを思い出す。
「昨日野犬のやつが出たんでなぁ、それで投げつけちまったんだなぁ。そのまま崖下にぽとんさ。これじゃ仕事にならないねぇ……参ったねぇ」
 顔をしかめてもどうにもならず、一所懸命代わりになるものを考えてみるが、思いつかず。仕方がないので財布を取り出し、ありったけ数えてみる。
「買ってくるしかないねぇ、そう言えば、町にやっすい店があるらしいと、五助が言ってたねぇ。いってみるかね。それがいいね。矢作が来るのは明後日だしねぇ……下りるのは二年ぶりだねぇ……」
 さらに着込んで気負い、浅積もりの雪を踏みしめ、家を出る。どのぐらい安い店なのか、という空想をひたすらに働かせながら、佐久は足跡を印していった。
 町は雪がない。牡丹雪はふるだけで、佐久のように地に跡を残さない。
「また発達してるねぇ、都会だねぇ、なにせ雪が積もってない」
 そうなると、途端に熱い気がしてきた。十二枚も羽織っている。今は何の往来もないが、他人にこの、だるま姿を見られてはたまらんと、佐久は一気に十枚脱いだ。
「都会はハイカラだからねぇ、年は取ったが、おれも羞恥心はあるからねぇ……」
 五助が言った、断片的な特徴を頼りに、頭頂だけに冷たさが去来する町を、佐久は歩いた。
「あれじゃないかね、百円しよっぷ。百円か。入場に百円とるのかね」
 勝手に開く扉は、以前に五助が教えてくれた。ここで驚いては田舎者だと、佐久はそのまま無表情、ややもすれば、それに気を割き過ぎる余り、買い物を忘れそうな具合。
 そうだ買い物、すりこぎを買うのだ。さっさと済ませた方が、よりハイカラだと佐久は思い、順繰り店内を練り歩く。台所用品という場所に、お品はあった。
「すりこぎがあったねぇ。なんだか安っぽいが、百円だね。凄いね。鉢もある。買おう、買おう」
 抱えてそのまま払おうと思うが、すりこぎが百円なのだ。他の物も百円なのだから、何かいろいろ買っていこう。与作はすりこぎを抱えたまま、また順繰り残りを歩き始める。

「というわけでねぇ、こんなに買ってきてねぇ。お前も食っていきなよ」
「百円だろう、百円」擂った実を取りに来た折、佐久の世間話に矢作が侮蔑くれて一蹴した。
「うまいよ、この飴なんかね、お前、お前のより旨いよ」
 ころころと口の中でころがしながら佐久が言うと、「馬鹿言うんじゃねぇ」と叩かれた。
「お前な、俺がこの飴を……ほら、持ってきてやったぞ、食えよ……何十年作ってると思ってんだ。それにね、こいつぁ、一流企業と取引してるのさ。一個七円、一週間で俺は五百作るから、三千五円。高級品なんだよ。そんなものと違うんだよ」
「この飴は十五個入りで百円だから、大体六円だね。一円高級だねぇ」ころころと言う。
「そうだろう、そうだろう。大体な、素材がな、」
 矢作がこの話を始めると、最後には自分の飴を食って「旨い!」というのがことの常だ。佐久は、矢作の手元にある飴と、自分の百円飴をすりかえてみた。
「つまりな、そういう、大量につくったもんとは違うのよ、職人の技!」
 矢作が飴を手に取り、見もせず封を開け、口に放り込んだ。
「ほらな、旨い! 今回のは特に旨いなぁ!」
「あは、は、は!」佐久が笑った。矢作はその笑いを受け違い、「俺の飴は県一よ」と得意顔。

 矢作が帰った。一昨日とは違い、天気は平静。浅積もりの雪も消え、土肌がそのまま覗いている。
 佐久は百円ショップのその日から、夜の習慣となったラジオのスイッチを入れた。
「ラジオも百円なんだよ、信じられないね。しかも、前聴いたものより音がいいね、ハイカラだね」
 意外にニュースが面白い。世俗から引き離された場所から、町に下りた様子を知ることができる。これには、なんとも言えない面白さがあった。今日は、大手菓子メーカーの、偽装事件が報じられている。
『オレンジを使用する菓子製品を、オレンジではなく何故かバターから製造したこのメーカーは、消費者からの再三に渡る「どう考えてもこれはバターの味がする」というクレームにも、「最高級のオレンジは得てしてバターの味がするものであり」と言った回答を……』
 佐久も、二度三度、木の実取りが面倒で、適当な台所の野菜を擂ったことがある。それを思い出して、今後はやらぬよう心に決めた。
「百円で、あんなハイカラな味がするんだからね。おれらの飴じゃすぐ野菜だってバレるね」
 最後の一個の封を切り、口に投げ込んだ。
「ハイカラだねぇ」


【うそ】


「それ、またおとうさん?」
「はい」
 ぼくは、前川さんがいれたお茶をすすっている。前川さんのお茶は、ゆるめなんだけど、とても暖かい感じがする。冷えた日に飲むと一段とうまい。
「賢治くんも、我慢ばかりしちゃ駄目。ほんとに嫌になったら、あたしのところに来なさいね」
「はい、そうします」
 それだけで、前川さんは別の話題に変えた。どうでもいいからじゃなくて、この話を続けると、ぼくに良くないと思ってのことだ。前川さんは本当に優しいと思う。
 ぼくは前川さんの天気の話を聞きながら、四十七個目の痣のことを考えていた。今日はいつもより、色が薄い気がする。
 こうして毎回、前川さんのお宅に伺って、ぼくは不思議に思う。前川さんはぼくを疑わないんだろうか。ぼくが嘘を言っていると思わないんだろうか。この痣も、ぼくの狂言だと思ってないだろうか。ぼくだったらそう思う。なので、訊いてみた。すると前川さんは、静かに微笑んで、
「賢治くんは嘘をつかないわよ。あたし知ってるわ」
 と言った。
 ぼくは、今はお茶をすすっていないのに、妙に胸が暖かくなった。

 学校へ行くと、皆がうんざりした目でぼくを見る。ぼくは、誰かに訪ねられたなら同じ事を話す。お父さんにまた殴られた。ふーん、また、と隆くんがニヤニヤしながら言った。
「先生、また賢治くんが殴られたんだって」
「やめなさい」
 武田先生はそう言うけれど、内心ぼくに飽き飽きしている感じだ。最初の頃は、あんなに親身になってくれていたのに、二十二回目の痣からこんな風になってしまった。
 宏美ちゃんも、あんなに心配して、泣いてくれたのに、もう泣いてくれないみたいだ。でも、それでいいと思う。だって、何で泣いていたのか分からなかったから。
 皆がこんな感じだから、ぼくは言うことすること、全部が疑われているみたいだ。でもぼくだってそう思う。一週間に二度、大きく痣を作ってきて、ぼくだったら変に思う。だから、ぼくは何も言わない。
 その日の放課後、宏美ちゃんが喜一くんの机に、手紙を入れているのを見た。
「なにしてるの」
 とぼくは訪ねた。宏美ちゃんは、しまった、という顔をして、ぼくに詰め寄った。
「ぜったい、誰にも言わないでね」
「訊かれたら言うよ」
 宏美ちゃんは怒った。きーきー、と騒ぎ出した。
「なんでよ、あんたには関係ないじゃない」
「でも、訊かれたら言うよ」
「なんで」
「嘘はよくない」
 そこで宏美ちゃんは、顔が真っ赤になった。心の底から怒っている感じだ。
「あんたは、いつも嘘ばっかりつく癖に!」
 ぼくは、はてな、という顔をした。
「先生が言ってる、自分で痣も作ってるって! あんたのお父さんかわいそうよ! あんたのせいで噂されて、あんたなんかいない方がよかったに決まってる」
 ぼくは、それを言われて色々記憶を掘り起こしてみた。顔をしかめる他なかった。宏美ちゃんは、涙目で、ぼくの胸をどん、と叩いて教室から出て行った。
 喜一くんの机から、手紙が落ちていた。ぼくはそれを入れ直して、喜一くんに訊かれたなら、やっぱり言おう。と思った。嘘はほんとうに良くないと、強く思ったからだ。
 それで、なんだか、前川さんの顔が見たくなった。

 前川さんは、いつものように、静かにぼくの話を聞いてくれた。
 ぼくが話し終わると、ぼくの頭をなでた。
「大変だったわね」
 前川さんは、当たり前のことみたいに、昨日の夜ご飯でも思い出すみたいに言うから、ぼくも自然と言葉が出てくる。
「そうでもなかったです」
「でも、賢治くんも少し悪いよ」
「どうして」
 それはね、と前川さんは少し難しい顔をして、
「言いたいことを、言わないからよ。自分が思っていることを、そのまま、本音で言わないから」
「でも、本音なんてないです」
「言い方を変えると」
 目を少し細めて、
「涙を流さないからよ。一度、おもいっきり、泣くといいわ、賢治くんは」
 言われてぼくは、殴られるときは痛いから、いつも泣いていると言い返した。前川さんは、やっぱり静かに微笑んで、ぼくの胸を優しくさわった。
「目からじゃなくて、ここから流すの」
「そこは血しか流れてないと思います」
 ぼくは何だかくすぐったくて、少し不機嫌に言ってしまった。
「胸の辺りが、締め付けられたりとか、変な風になることってない? そのとき賢治くんは、きっと泣いているかもしれないのよ」
 電球を眺めながら、記憶を辿ってみたけれど、特に思いつかなかった。前川さんを見ると、ぼくと同じく電球を見ている。そういえば、と前川さんを見て一つ思い出した。
「前川さんといるときは、胸がぽかぽかします」とぼくは電球に向かって言った。
 でも前川さんは、電球じゃなくぼくを見て、なぜか泣いてしまった。ぼくはまた人を泣かしたと思った。前川さんは、ごめんね、ごめんね、と言いながら、目をぬぐっている。前川さんを泣かせてしまった、と考えると、はっ、と気が付いた。
「ぼく、いま、たぶん泣いてる。胸がいたい」
「悲しいの?」
 前川さんが訊いた。
「わかりません。でも、前川さんが泣いているから、ぼくも泣いてるんだと思う」
 それで前川さんは、もっと泣いてしまって、ぼくはどんどん胸が苦しくなった。何度も謝ったけれど、泣き止んでくれない。とても困ったし、心臓がどくどく言っている。
 それからしばらく、前川さんは泣いていた。最後にくすんと鼻をすすって、
「ごめんね、賢治くんは悪くないのよ」とぼくにジュースをくれた。それからもう泣かなかった。よかった、と思った。
 また天気の話をしてくれるかと思ったんだけども、前川さんは、真剣な顔でぼくに言った。
「賢治くんは、嘘をつくことを覚えた方がいいわ」
「嘘はきらいです」
「わかってる」ぼくの頭をなでた。
「でもね、嘘が自分を助けることもあるの。一度でいいから、賢治くんは嘘をついた方がいいよ。素直すぎるの、賢治くん」
 ぼくは、複雑な気持ちになった。前川さんはぼくの顔を覗き込んで、
「でも、それが賢治くんの、いいところ」
 そう笑った。
 胸がぽかぽかして、前川さんは、いい人だな、と思った。

 家に帰ると、お父さんがいた。いた、と言っても、毎日いるんだと思う。
 ぼくは今日のノートを見せにいった。隠していても、どうせ見られるんだから、ぼくは自分から見せようと、ふと思ったのだ。
 お父さんは、少しびっくりしたようで、それで機嫌がよくなった。ぼくがノートに、余計なことを書いていなかったからだとも思う。この間は、算数のノートに漢字を書いたと殴られた。でも、あれは問題文だ。
 お父さんの機嫌がいいから、ぼくは前川さんに言われたとおり、言いたいことを言ってみることにした。今日、宏美ちゃんから言われたことを訊こうと思った。
「お父さんは、ぼくが自分で痣を作ってると先生に言ったの?」
 でもぼくは、これを言ってすぐに、しまった、と思った。お父さんの顔つきが変わって、ぼくを睨んでいる。でも、前川さんの言うことだから、多分なんとかなると考えた。
「なんでそんなことを聞くんだ。え?」
 ぼくは一瞬、ここで嘘をつこうと思った。これも前川さんに言われたことだ。けれど、一度でいいから、と言われていたので、貴重な一回をここで使うのは勿体ないと思った。だから、正直に前川さんのことを話した。
「誰だそれは」
 またぼくは、素直に話した。ぼくが家を閉め出されたときに、前川さんが偶然見つけてくれて、ぼくにお茶をくれたことから、話した。全部聞き終わると、お父さんはぼくを蹴った。今までで一番痛かった。お腹が破裂したみたいに熱い。泣きそうになったけど、こらえた。
「楽しそうじゃないか、お前の親は誰だよ」
 それで、今度は僕の顔をぶった。見たことのない顔だった。茹でたタコみたいに真っ赤だ。
「そいつはお前の親か、俺だろうが親は」
 今日はなんでこんなに怒ってるんだ、と思った。分からなかった。痣が一気に十個増えてしまう、勘弁だ、と思った。
 ぼくはいよいよ泣いてしまって、こうなると余計に酷くなると分かっていたけど堪らなかった。血が出ている。歯が床に転がっているのは初めてだった。
 ぼくが自分の歯が黄色いと思っていたときに、お父さんが訊いた。
「その前川ってのはどこにいるんだ」
 ぼくは、びくっ、となった。なんだか答えてはいけないような気がした。
「どいつだそれは」 
 けれど、答えないとまた歯が飛ぶと思った。今日のは本当に痛くて、これ以上は耐えられないと思った。だからぼくは、前川さんの家が、八百屋さんの角にある郵便ポストの真向かい、だと言った。
 お父さんはそれで、飛び出していった。とても嫌な予感がした。
 お父さんは何をするんだろうか、と思った。思いながら、床に落ちた歯を拾った。はまらないかな、と試したけれど、駄目だった。
 そこでぼくは、気付いた。もしかして、前川さんも殴られるんじゃないだろうか。急に心臓がどくんとなった。今日は胸が痛くなったり苦しくなったり忙しい。死んでしまうんじゃないかな、と考えた。でもそんなことはどうでもよかった。お父さんが、前川さんを殴るかもしれない。ぼくは、それはいけないと思った。前川さんがまた泣くのは、絶対に駄目だと思った。
 ぼくは家を出ようとした。けれど、お父さんが帰ってきたときにぼくがいなかったら、また殴られる。お腹が痛い。歩くのも辛い。
 きっと大丈夫だろう、前川さんは留守かもしれない。そう考え直して、歯をもう一度つけようとしたけれど、その最中も心臓がとまらなかった。前川さんもそうだけど、これ以上心臓が早くなると、ぼく自身がたまらない。
 それでぼくは、歯を洗面台にほっぽって、家を飛び出していた。できるだけ走ったつもりだけど、ぼくはクラスでも足が遅い方だし、体力もない。おまけに今はお腹が痛い。時間が経つにつれて、どんどん痛い。
 でも、ぼくは、前川さんの顔を思い出して、走らなきゃ、と思った。

 前川さんの家の、電気はついていた。赤茶けた郵便ポストは、街灯の下でのんびり口を開けていた。ぼくはなんだか、うらめしかった。
 お腹を押さえながら、前川さんの家のベルを鳴らした。
 ぴんぽーん、と言ったっきり、音がなかった。顔が冷たくなるのがわかった。ぼくは前川さんの顔を、何度目になるか分からないけれどまた思い出して、もう一度ベルを押した。
 心臓の音が凄かった。頼むから、前川さん、出てください。と、何度も唱えた。ぼくはクラスの島田くんが言う、神様っていうのを知らないけれど、いるのならいま来てくれ、と思った。神様って言うのは、願いを叶えるんだって島田くんは言っていたから。
 すると、少し音がして、こちらに向かってきた。そういえば口から血が出たままだったのを思い出して、服でごしごしと拭いた。服についてしまった。ぼくはそれを隠そうと工夫して、ちょうどお腹の辺りまで服を巻いたら、お腹は出るんだけど血が隠れるとわかったときに、扉が開いた。
 前川さんだった。
 ぼくは、胸に、いろんな暖かいものが、たとえばホッカイロとか、手袋とか、それこそ前川さんがいれたお茶とかが、流れ込んだように思った。ほっとしてしまって、膝が折れそうになったけど、耐えた。
「賢治くんじゃない、どうしたの……」
 前川さんはそこまで言って、手で口を覆った。はてな、と思ったけれど、わかった。僕は目やら頬やらが、腫れているんだ。気付かなかった。そこでやっと痛み出して、思わず声を出しそうになった。
「賢治くん、まさかそれ」
 そこまで前川さんが言って、どうしよう、と思った。すごく頭が回った。前川さんはどこも腫れてない。痣もない。
「さっきね、お父さんが来たのよ、それで」
 つまりお父さんは、来たけど、何もしなかった。一回目はそうだと思う。でも、次もお父さんは、前川さんに何もしないだろうか。前川さんは、怒りに震えた表情をしている。駄目だ、と思った。
「賢治は嘘をつく病気だからって、でも賢治くん、それって」
 もし次、また前川さんが来たら、お父さんは前川さんを殴るかもしれない。もし前川さんが、ぼくのことをお父さんに訊いたりしたら、お父さんは前川さんを、きっと殴る。それどころか、殺すかもしれない。でも、前川さんが何もなかったと思って、何もしなかったら、きっとお父さんは何もしない。今日で全部解決したと思うはずだ。ぼくはもう前川さんといないほうが、前川さんは殴られない。前川さんが殴られるのは、ぼくがいるからだ。ぼくと関わりがなかったら、前川さんは殴られない。でも前川さんはいい人だから、ぼくと関わろうとするに違いない。よし、だったら、と思った。
「ばばあ!」
 ぼくは叫んだ。前川さんが、びっくりした。
「お前の家、くさいよ! お茶も、まずい! はきそう! ぬるくて飲めない! ばばあ! としま!」
 ぼくは、我ながら凄い声だった。人生で一番大声だ。近所の人が、扉を開けてこちらを見ている。
「ジュースあるからきてたのに、でも最近くれないよね! だからもういいや! きらいになったよ!」
 きらい、と言ったところで、前川さんが顔を崩した。もうちょっとだ、と思った。
「おとうさんが言ってた! 前川さんはやさしいね、って! でも違うよね、ぼくを騙すんだよね! ばばあだし、ジュースくれるしかできないんだ! でも騙されてたのはばばあの方だ!」
 前川さんは、どんどん泣きそうになっていた。ぼくは何も感じない。
「ジュースくれるから、来てたのに、もうくれないよね! だからもう、いいや! 飽きたもん! ばばあに飽きたんだ! だから」
 思いっきり、息を吸い込んで、
「死んじゃえ!」
 と叫んだ。そこで、近所の人が、ぼくのほうに走ってきた。ぼくは「ばーか!」と叫びながら走った。やっぱりまだ、ものすごくお腹が痛くて、盲腸っていうのになったのかもしれない、と思った。
 後ろをちらと見ると、前川さんが手で顔を押さえていた。泣いているのかは分からない。でもぼくの方は、泣いていた。目の前が、かすんでしょうがなかった。目をぱちぱちさせる度に、光がボケた。ぼくは、ああ、泣くってこういうことなんだ、と思った。今日はなんで、こんなに疲れることばっかりなんだろう、と思った。
 ぼくはなんで泣いてるんだろう、と思った。けれど、よく分からなかった。ぼくにはよく分からないことだらけで、今日は本当に疲れる。
 けど、今日一つ分かったことは、やっぱり嘘なんてろくなもんじゃないってことで、ぼくは嘘をついて、あんまり気持ちよくなくて、だから、前川さんは間違っていて、でも、前川さんが守れたのなら、嘘をついてよかったのかな、と思った。
 だって、たぶんぼくは、前川さんがすごく好きなんだと思う。それは嘘じゃないから、嘘をついてよかったんだなって、そう思った。
 ぼくは、前川さんがお父さんに殴られず、いつもみたいに、静かに過ごすことを想像して、泣きながら、わはは、と笑った。それで、胸が温かくなった。
http://turedure4410.blog32.fc2.com/
2012年06月06日(水) 02時56分20秒 公開
■この作品の著作権は雨さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめまして。よろしくお願いします。

「すりこぎ」は数年前に書いた物で、「うそ」は最近書いたものです。
地の文にあれやこれや考えるのが面倒でも、子供の文体だったら多少無理が利くな、と実感しました。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  雨  評価:--点  ■2012-06-26 01:27  ID:hbNYurWwl9s
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時乃さん>
こんばんわ、どうも。
遅くなりすみません。

>ありがたがる
うーん、どうでしょう、特にフラストレーションは感じないですね。
そう言うことに対しては、なんというか無関心です。どうでもいい、という感じです。
ただそれを恣意的に利用する人種には腹が立ちます。
つまり、ありがたがらせる為にある種権威的なものをわざとらしく引用するような。
そういうのは嫌いですね。

>うそ
私も、そういうオチにしようかなと思ったのですが、少しはまともな話を書けんもんかと自分に思ったのと、最後の一文がやりたかったので、こうなりました。
確かに「ウソ800」ですね、懐かしい。

私自信もすりこぎの方が好きです。
ご批評、ありがとうございました。
No.1  時乃  評価:30点  ■2012-06-19 01:49  ID:8KP5KT9DATc
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読ませていただきました。

>すりこぎ
とりあえず「ありがたがっときゃいい」っていうものありますよね。私はそれなりに都会育ちなので分かりませんが、田舎の人たちって都会の物を不必要にありがたがったりしませんか? 都会の人間も、田舎にある自然遺産や文化遺産をありがたがったり。田舎のおじいちゃんおばあちゃんの料理が「素朴」だとありがたがったり。小説家がカフカをありがたがったり。社会人が松下幸之助をありがたがったり。私も「一読してよく分からなかった作品」とか「反時代・反道徳的作品」とかをありがたがったりしています。非対称的な関係です。雨さんはそれにフラストレーションを感じますか?

>うそ
ドラえもんの「ウソ800」悲劇バージョンみたいでした。
父を陥れるために自傷する男の子の話かなと最初は思ったのですが、割と素直に落としてきましたね。落ちるべきところに落ちたというか。すりこぎに比べると凡庸さを感じました。

私の好みでいうなれば、すりこぎの方が好きです。



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