桜の影
 目の前を舞った薄紅色の欠片を目で追った。
 けれどもそれはあまりに儚く風に舞い、ひらりひらりと遠ざかる。手を伸ばしても、それをきっと捕まえることはできない。
 頭上を見上げれば白く薄い雲が碧空を覆い、そして桜の花が舞い踊る。
 ひらりひらりと舞い散る花。記憶へ深く刻み込むように、繰り返し繰り返しその光景は続き、そして先に目を逸らしたのはいつでも私だった。
 髪をなでる微かな風に、それでさえ翻弄される花びらは、おおよそ、彼女に似ていたのだ。柔らかに微笑み、私の前から去ろうとした彼女に似ていたのだ。
 だから私は舞い散る桜に手を差し伸べた。決して逃がしはしないと思ったから、決して手を離してはいけないと思ったから。けれど彼女は時間を止めて、そうなってようやく私は安堵した。
 足元に降り積もる桜の花弁に、満開の桜並木のもとに一つ吐息を落とす。それは、満足とほんの少しの寂しさ。入り混じった複雑な思いは、すでに私自身でもわからなくなっていた。
 いや、理解することなどしなかった。そんなことは無駄だった。
 背後に感じた和らかな感触は彼女のものか、はたまたもう一人の「彼女」のか。それを確かめる覚悟など、どこかに置き去りにして必死に振り払ってここまで来てしまった。
 そう、目を逸らすのは決まって私だったのだ。いつも私だったのだ。
 指に触れた花弁は淡く微か。
 けれどそれはいつの間にか桎梏に変わって、重く私の両手に絡みつく。
 耳元で名を呼ぶ声がした。それにこたえようとしたけれど、結局それはできなかった。
 わからなくなっていたのだ、遠の昔に私にはわからなくなっていたのだ。
 薄紅色に包まれるこの世界で、結局私は声を出せず、けれどこれ以上ないほどに満足だった。
 満開の桜の許、私の声は「彼女」には届かない。

  桜が咲きほころぶ季節に、その公園を訪れたのは私にとって何一つ不思議なことではなかった。雲一つない青空の日であろうと、曇天立ち込める日であろうと、はたまた冷たい雨の降りしきる日であろうと、すべてがすべて必然で、そして彼女もその必然の中の一つにすぎなかった。
 舞い散る桜、その先に「彼女」を見た。
 薄く微笑むその顔は、けれど何の表情も宿していなかった。
 それは私とて同じことだっただろう。
 なにをしているのかと問ったのは、私が先だったか、それとも彼女の方が先に口火を切ったのかは定かではない。けれども答えた言葉だけは鮮明に覚えていた。

 見張っている。

 この満開の桜の許で、大切なものが奪われないか、暴かれないかをただ見張り、そして確認している。
  答えは同じだった。どちらが先に答えたかは覚えていない、もしかしたら同時に答えたのかもしれない。
「わたしが彼女にとって唯一の存在でなければならないのに」
 澄んだ声だった。それは染み入るように響く。
「いつまでも、ずっと」
 その日は確か、雪が舞っていた。薄紅色の桜に真白き雪が映えていた。
 伸ばした指先に触れたのは彼女の髪ではなく、柔らかでいてそして冷たい桜の花びらだった。儚く解けるような、浮ついたひとひら。
「いつまでも、ずっと?」
 くすりと笑ったのは、彼女だったか私だったか。ただ記憶に残るのは、繰り返し繰り返し舞ふる桜と雪。
 桜と雪。
 季節のそろわないその符号に、だからこそそれは幻想的に私の記憶を占めていた。
 彼女の黒髪が風になびく。桜と雪をまとって彼女はそこに立ち、ただその瞳に私を映していた。
「そう、いつまでも。だって」
 続く言葉は私には届かなかった。突然音量が絞られたように一瞬にして音は消え去り、薄紅色の花びらの向こう側で動いた唇の動きすら私にはわからなかった。切り取られたような情景、絵画のような彼女の姿は決して手の届かない世界にあり、そしてそれはひっそりとした秘密だった。これは永遠にこの地に葬り去らなければならない秘密であり、そしてそれは皮肉にも永遠に安寧などもたらさない。だからこうして私たちはこの地を見張り、けっして秘密が暴かれぬよう目を光らせなければならない。
 けれどそれは不快なことではない。
 それは一種の恍惚と満足感。至高の感情はおそらく彼女も同様に抱いているものなのだろう。
 くすりと笑ったのは私なのか、彼女なのか。それとも同時のことだったか。
 差し出された手は雪よりも白く、血の気の失ったその色は寒さのせいなのかもともとのことなのか。それを握り返した私の手もまた色を失っていた。
 
 約束しましょう。

 桜色の唇が確かにそう言葉を紡いだ。

「――――」

 ひとひらの桜が繋がれた手の甲にはらりと舞い落ちた。重さも温度もなにもない、そこにあったのはかすかな色だけ。そう、色だけだった。
 
 繰り返される情景に、繰り返される記憶。足下に踏みしめた花びらの感触はあまりにも遠く、感じることなどなかった。けれども今確かに私の足下では無残な姿でひしゃげるそれがあるのだ。
 実際、そのようなことは多いものだ。自らは気づこうが気づかまいか、確かに今この瞬間に踏みしだかれるものはいるのだ。それは理不尽や不条理とかそういった類のものでは一切ない、それこそが決まりであり、絶対なのだ。超えることのできない、超然的なもの。それを侵すことはできるはずもない。
 桜は満開の時期を過ぎた。はらりはらりと舞い散る情景が物語るのは儚さ。満開の時期には雨が降ろうが花散らしの雨にはならないと誰かが言っていた言葉がよみがえる。桜の雨、その先に彼女の姿を探した。柔らかに吹く風に舞い散る桜。その先に目を凝らした。
「遅い」
 公園といってもここには遊具の類はない。木々の多く茂る休憩に最適な穏やかな時間の流れる緑地だった。言い換えればこの場所は殺風景で、春を逃せば見るものはなにもない訪れる人の少ない場所にちがいない。花見の喧騒が過ぎ去ればこの場所の時間は次の春まで止まるのだ。
 だからこそ私たちの会う場所はこの場所でなければならなかったのだ。そうでなければならなかった。
 夜の祭りの後を残す桜の許に転がる空き缶を一つ拾い上げた。まだ中身の残っていたそれは、ぽたりと地に落ちしみを作った。転がる空き缶、対をなくした割り箸。それらの上には桜の木の作り出す影が落ち、無残な祭りの後の姿を覆い隠す。
「そう遅くもないよ」
 手近なゴミ箱へとカンを捨て、彼女の待つベンチの隣に腰かける。彼女の手の内にある小説のページが風に揺れていた。ただ私はそれをぼんやりと眺めていた。
「何を見ているの」
 ぱたんと軽い音を立てて閉じられた小説、華奢な指が軽く表紙を撫でた。
「いや、何も」
 会話は続かない、もとより互いに続ける努力さえしていない。相手なく投げられる言葉ほどむなしいものはなかった。
 会う回数を数えることは、もとよりしていなかったし、そしてこれからもそうすることなどないのだろう。変わらない風景に目を細め思案するが、結局彼女との距離は一つも変わってはいないのだ。けれど、たがいにこの距離を縮めようとは微塵にも思っていないのだから、この距離感がもっとも適しているのかもしれない。
 なぜこうして会っているのか。
 答えは簡単だった。
 私たちは互いに見張っているだけなのだ。自らの秘密を、だれにも明かすことのできない秘密を視界の隅に入れ、決してこの世に露見しないように見張り続けているだけなのだ。
 自分の両の掌のうちで転がすそんな重大な秘密。私たちは隣通しに座っていながら、決して交わることのない平行線上をたどり、そうして涙を流すこともできない。
 薄紅色の花びらは碧空に舞う。彼女の黒い髪も後を追うように風に遊び、けれど天に上ることの叶わない運命に従って、彼女の輪郭をぼかした。
「あなたの思い出は、このまま一生あなただけのものになるのかしら」
 互いに視線を合わせたことはない。彼女の唇の動きは微かだったが、放たれた言葉は思いのほかに力強かった。
「このままずっと?」
 もちろんだ、とそれだけ返した。
 そうならなければならない、私はこの想いを一生自分だけのものにして、そうして彼岸へと渡るつもりだった。
 そうでなければならないのだ、そうでなければ私は終わるのだ。
 春には賑わいを見せるこの公園のこの桜の木の根元で、永遠にさらされることのない私の想いは、このままひっそりと朽果てなければならない。
 それは、彼女も同じことなのではないのか。
 視線をめぐらせても彼女のすべてを捕らえることはできない。そんなことは分かっていた。彼女の姿を視界に入れると不意に込みあがる不信感さえ、いまではなじみのものになっていた。
「あなただって同じだろうに。あなたの秘密も、このままずっと」
 不意に強い風が駆け抜けた。
 ふわりと影が動いた。
「私との約束はおぼえているわね」
 初めて交わった視線は、おおよそ友好的なものではなかった。秘密を探るものには容赦のない、冷酷な支配者の瞳。黒髪は風にもてあそばれ、やつれたように彼女の表情を演出する。けれど、それはあまりになじみのあるものだった。けれどどうしてそう思うのか、私は深く突き詰めようとする思考を無理やり断ち切った。
「私は知らなければならないの」
 青白くやつれた表情に、なぜか爛々と光る双眸。その目は実質、私を映していたわけではないのだろう。挑発するようなその視線に、けれども視線を逸らすことはできなかった。
 「彼女」に似ていたのだ。
 幻のように反芻する、「彼女」の面影がそこにはあった。だから私は目の前の彼女から視線を外すことなどできるわけもなく、ただじっと彼女の底の見えない黒の瞳を見つめていた。
「また、次の機会に」
 彼女はくるりと踵を返すと、そうして掻き消えるように去っていった。

 そしてそのまま私はぼんやりと空を仰いだ。桜の木の隙間から見える狭い空は今にも落ちてきそうなほどに近く見えた。白い雲が刻々と姿を変える、すずめの影が通り過ぎる。箱庭のような小さな空に、なぜか魅せられしばらくそうしていた。
 ふとした時に思い出す。
 引きはがすように視線をおろし、自らの両手を見つめた。
 ゆっくりと開いていた掌を握り、そしてまた開く。命令通りに滑らかに動く指、それはあの日から変わらなかった。けれどこの両手の中でゆっくりと冷たくなったソレの感覚は、今では何かの拍子に思い出すくらいのことでしかなくなっていた。無理やり食い込んでいく生々しい感覚と、痛いほどに熱くそして次第に静かになっていった冷たさ。その両方はいつも私の傍にあっていつでも私を脅かしていたにもかかわらず、いつの間にかそれは記憶の海の彼方へと旅立っていた。それが妙に虚しかった。忘れたいことではなかったのに、それが唯一の絆であったはずだった。
 爪が食い込むほどに強く拳を作り、そして私は一つ息を吐き出し立ち上がった。硬いベンチに長いこと座っていたためか、妙な感覚が追いかけてくる。
「また来るよ、美緒」
 桜の根元に視線を投げて、慈しむように木の幹を撫で。ひっそりとそう言葉をかけてももう彼女は一言も答えなくなって久しい。たまには一言でも返してくれればいいのだけれど。そう思うと同時に以前から嫉妬深かった彼女の、はにかんだ笑みを思い出す。
 あの日だってそうだったのだ。
 君が全てを壊そうとしたからいけないのだ。
 あんな暑い季節に、あんなに激昂しては血管が切れて倒れてしまうのではないかと私は真剣に心配したのだ。真剣に心配したのだ。君が私から離れていくと、声高に言い放つものだから。
 私を信用できないなどというから。
「君がいけなかったんだ」
 そう易々と自らの非を認める性格でないことは私の方がきっと君自身よりも知っている。だから私は気長に待ち続けようと思っているのだ。君が素直に泣いて謝って、もう二度とそのようなことは口にしないと、そう言うまで、気長に待っている。
 だってそうだろう。私は君のことを世界中の誰よりも一番に理解しているのだ。君のことを誰よりも知っているのだ。
 誰よりも知っていなければならないのだ。
 振り切るように背を向けて、そして一歩踏み出した。足元の砂がさくりと軽い音を立てた。

 もはやその公園に通うことは日課になっていた。そして必然的に彼女に会うのも日課の一部になっていた。けれどその日、いつもの場所には彼女はいなかった。桜のヴェールの向こう側、そこに確かに「彼女」がいた。
 長い黒髪、それを煩げにかき上げ耳にかける。それは紛れもなく「彼女」、美緒だった。私が見間違えるはずはない。私は美緒のすべてを知っていて、そして誰よりも彼女を理解していた。美緒が好きなもの嫌いなもの、何時に起きて何時に朝食を食べて、そしてどんなテレビ番組を見るのか。双子の妹の早紀と姿が似ていて母親に間違えられたことも知っていたし、占いのラッキーカラーに左右されて服装を決めることだって、必ず靴を左足から履くことだって、電車の車両も会社に着く時間も、金曜日に必ず買うコンビニのパンのことも喫茶店でのお気に入りのメニューも、デートの時に使っていた香水のローテーションも何もかも、私が彼女のことで知らないことなど何もないのだ。
 それにもかかわらず、あの日言ったのだ。
 わかってない。
 そう一言吐き捨てるように。侮蔑を込めた瞳でそう一言だけを投げつけてきた。
 わかっていないはずなどないのだ。
 あの彼女と口論になる日の前日に私がデートしたのは美緒だった。私が美緒以外の人間とそのようなことをする道理などないのに、それにもかかわらず彼女は激昂した。白い肌に血管を浮き上がらせ、鋭く私を睨み付けて。いったいあの女は誰なのかと。
 けれど何を彼女に言われようとあの時共にいたのは美緒に他ならない、目の前で語気を荒げる彼女に他ならないのだ。しかしいくら説明しようとも納得してはくれなかった。私が言葉を重ねれば重ねるほどに彼女の機嫌は悪くなり、そして最後に言ったのだ。

 あなたは何もわかってない。

 そう言って背を向けて、混乱する私を置き去りにしようとした。
 いったい何を言っているのか。私が美緒を理解していないはずがないのに。
 世界で一番彼女のことを知っているのは私のはずなのに。
 驚きに見開かれた瞳。
 床に散らばる髪。
 私の手に食い込む手入れの行き届いた爪。
 それらを無視して両手に力を込めた。もがく彼女を無視して、混乱する頭を抱えたまま。
 だってあの時彼女は以前一緒に見た映画について楽しげに語っていたじゃないか。それは美緒でなければできないことだし、それ以前に私が彼女を見間違うはずがない。いつも美緒が好んで買うクッキーをくれたし、喫茶店で私が好きなようにトッピングしたコーヒーを買ってきた。いつものように笑って、いつものように話して、いつものようにふるまっていたのは美緒ではないか。
 なのにどうして違うというのか。
 どうして私が彼女を理解していないなどとなるのか。
 やがて抵抗はなくなっていた。硝子玉のように何も映さない虚ろな瞳。けれど何の感慨のわかなかった。一方、これで美緒のすべてが完成したと思った。これ以上私のわからないことは起こらない、それはつまりやはり私が世界で一番彼女のことを知っていることに違いはない。
 いつか謝ってきたら許してあげよう。きっと私をからかっただけなのだ。
 なぜなら私が彼女のことを理解していないはずはないのだから。

 あぁ出てきてはいけない。どうしてここにいるのだろう。美緒は桜の木の下で永遠に時を止めていなければならないのに。私の知らないことが増えないよう、ずっとずっとずっと時を止めていなければいけないのに。
 そうでなければまた、同じように殺さなければいけないのに。
「美緒」
 彼女は顔を上げた。ただ私を見据えていた。
「最後に一緒に行ったのはどこだっけ」
 それが美緒と口論になったきっかけ。彼女は行ったことがないと言い張った。
「この公園よ」
 目の前の彼女は言った。静かな声で。桜の花びらの舞う中で凛と佇んで。
「この公園でクレープを食べた。それで映画の話をした」
 やはりそうだった。彼女はからかっていただけだったのだ。あの時の女は美緒。それ以外に考えられない。
「そうだ。じゃあやっぱりあの日は私をからかっていただけなんだな」
 細く息を吐き出した。
 やはり私は間違ってなどいなかった。それで正しかったのだ。一度深く目を閉じて、安堵する。目を閉じれば桜の舞い落ちる音さえ聞こえそうなほど、あたりが静寂に満たされていることを思い知る。両の掌に彼女の最後の体温がよみがえる。
 そしてゆっくり瞳を開いた。
 けれど。
 桜の舞い落ちる中、美緒の姿はどこにもなかった。
 どこにもいなかった。
 いるのは髪の短い、見知らぬ女。
「映画、面白かったよね。最後に主人公がヒロインを助けようと車を盗んで敵に突撃して」
 見知らぬ女はくすりと笑った。
「なのに相棒だと思っていた相方が裏切って、ヒロインをさらって逃げちゃって」
 ゆっくりと後ずさった。けれど彼女は一歩踏み出し、そうして距離は変わらない。
「続編、一緒に見に行こうって約束したよね」
「誰だ」
 こんな女は知らなかった。知るはずがなかった。
 私の世界の中心は美緒だけで、そのほかの女のことなど興味もなかった。それなのになぜ、眼前の女はこうも私の記憶と同じことを話すのか。
 こんな女など知る由もないのに。
 すると彼女は笑った。勝ち誇ったように、美緒と同じ声音で。

「わかってない」

 それが合図だというように、その言葉一つが私の耳に入った途端あたりは一瞬にして静寂に包まれた。音が消えた。さわさわと揺れる木々の音も、時折聞こえた鳥の声も、何もかもが遠い世界の出来事のように遠ざかって、ただ眼前で微笑む彼女の姿だけが鮮やかだった。彼女の髪を風が撫でる。美緒とは違う、短くそろえられた黒髪は、ほんの少し風に揺れ、そして元のように彼女の輪郭を形どった。彼女の口が動く。けれども音は聞こえない。それは音が発されていないからなのか、それとも聞くことを拒絶しているからなのかは私には判別はつかなかった。ただ私は足を後ろに退いて、彼女の幻影を振り払おうと必死になっていた。
 美緒は眠り続けなければならないのに、このままずっと私に見守られながらこの場所に居続けなければならないのに。
 下がった先に小さな石がある感触がした、それに足をとられもつれた気がした。思わずしりもちをついた途端、再び世界に音が満ちた。
 美緒はいつも言っていた。そう目の前の女は確かに言った。
「あなたを一番理解しているのはわたし、わたしを一番理解しているのはあなただって」
 立ち上がることはしなかった。ただ彼女を見つめた。
「美緒がどんな風に笑うのか、どんな時に泣くのか、何が好きなのかを知っているのはわたし。小さい頃に犬に噛まれてから苦手になったことも、猫を追いかけて迷子になったことも知っているし、いつ誰を好きになったのかだって知っている。美緒はわたしと似ていたけれど、だけど何をしてもわたしが美緒に敵わないことも知っていた。だから最後には必ず手を抜いてわたしを傷つけないようにしていることも、わたしが欲しているものなら何でも譲ってくれていることも知っていた。なのに」
 一陣の強い風に桜が舞った。
「唯一美緒は、あなたを譲ってはくれなかった」
 女は私の瞳を覗き込むように屈みながら視線を合わせる。
「何でも私が知っているはずだった。なんでも私が一番に知っていなければならなかった。なのにあなたが現れてからわたしたちの時間はすれ違って、美緒の隣にはわたしよりもあなたが立つことが多くなっていった」
 見つめ返した彼女の瞳は、底などないかのように一向に真意が見えなかった。
「いったいどこに行っていたのか、何を話したのか。どんな表情であなたに接していたのか、なにを考えていたのか。なにもわからなくなるのは時間の問題だった。だから、わたしはあの日、美緒になった」
「美緒に、なった?」
 そうよと彼女は笑った。
「美緒の携帯を使って映画にあなたを誘った。公園でクレープを食べたいとあなたにメールした」
 冷たい汗が背を伝った。
「わたしは美緒のことなら何でも知っている。話すときあまり目を合わせないことだって、困ったときに目が泳いで嘘がつけないことだって、必ず風が吹けば髪を左耳にかけなおすことだって。靴を左足から履くことも、つまらないときには右足を揺らすことも、クレープを食べるときは必ず口元にクリームをつけることだって知ってたわ」
 だって。そう言って彼女は言った。感情は抜け落ちていた。
「だって、わたしたちは双子なんだもの」
 あなたの隣に立つときに、いったい美緒が何を思うのか、それさえもわかっていないといけなかった。彼女の言葉はとめどなく続いた。
「だけどわたしは失望した」
 彼女の唇はわなわなとふるえた。
「美緒は、わたしと一緒にいたあなたに、わたしのことを尋ねた。あの女はだれだと、確かにそう言っていた」
 それは私の部屋での口論の時、美緒が発した一言だった。けれどどうしてこの女がそれを知っているのだ。あの時部屋には私と美緒しかいなかったはずなのに。
「わたしは美緒のことを何でも知っていたし、知ろうと誰よりも願って努力していた。なのに美緒はわたしを一番に考えてはいなかった。だってそうでしょ、そうでなければあの時だってわかったはずよ」
 彼女の表情がゆがんだ。どこか彼岸を思わせる、儚い表情は一瞬にして消え、眼前の女は激情を隠すことを辞めていた。気迫に押されるように、私は彼女を見上げたまま後ずさった。けれどもいくらそうしようとも、不思議と彼女との距離が離れることはなかった。
「お前は、早紀なのか」
 絞り出すように口に出したのは、美緒の話に出てきた双子の妹の名。
 自分に似た妹だと、美緒は笑いながらよく話していた。幼い頃から美緒の後を追いかけてくる双子の妹、どんな好みも自然と同じだったといっていた。
 けれど、それは本当に自然なことだったのか。
 美緒の知らない間に、早紀が似せていただけなのではないのか。
 眼前の女はふわりと笑った。桜が舞い散る中、彼女の笑みは同じくらい儚く、そして美緒に似ていた。
「だとしたら?」
「いったい何がしたいんだ」
 私の声はもう震えてはいなかった。相手の正体が分かれば幾分かは混乱は収まるもので、実感のない幽霊のようなものと対峙しているわけではないとわかれば、深く息をすることもできた。早紀は私の頬に手を添えた。私はそれを振り払った。
「わたしは美緒の世界で一番の理解者だったの」
 振り払われた手を不思議そうに見ながら、早紀はぽつりと言った。
「美緒のことで知らないことはないわ」
 違う、それだけを言葉に乗せ私は早紀を見返した。
「美緒のすべてを知っていたのは、私の方だ」
 早紀は一瞬不快な表情をあらわにしたが、しかし構うことなく再び私の頬に手を添える。そして耳元でひっそりと囁いた。
「美緒を殺したのはあなた。どうして殺したの」
 その言葉に肝を冷やすことにはならなかった。私の秘密が早紀に知れていることなど容易に察しのつくことだった。だから私はそのままの状態で言葉を継いだ。
「美緒が、私を否定したから」
「当然よ、美緒の一番の理解者はわたしだもの」
 あなたに最初から勝ち目なんてないのよ。
 そう言って彼女は低く笑った。
「わたしだけよ、わたしは美緒のすべてを知っている、わたしだけが美緒の理解者。あなたなんて、美緒のなにを知っているのよ。ほんの少しの時間しか美緒と一緒にいなかったくせに、わたしと美緒が入れ替わっても気付かなかったくせに」
 つらつらと並べられる言葉は次第に私の理性を奪っていく。
「そうよ、あなたはわたしと美緒の見分けもつかなかった。そんなあなたが美緒の何を知っているっていうのよ、笑わせないで」
 頬に触れている早紀の指先は氷のように冷たく、耳元で吐き出される言葉は剣のように鋭く。私は目を閉じ深く息を吸った。けれど、肺に満ちた空気さえ美緒の纏うそれに似ていて、まるで目の前に彼女がいるように錯覚する。だが眼前にいるのは美緒ではない、美緒は桜の木の下で時間を止め続け、残された妹は時間の流れに逆らっていつまでも美緒の残像を抱き続ける。
 記憶を沈めれば沈めるほどに、私には境界が判別つかなくなっていた。
 私の前で笑った美緒は、本当に美緒だったのか。
 美緒だと思っていたのは早紀だったのか、それとも早紀だと思っているのが本当は美緒なのか。
 美緒と早紀はなにが違う、いやなにもかも違うはずだ、違うに違いない。
 錯綜する記憶は手をすり抜け、終いにはすべてが水泡に帰した。

 目を開いた先には「彼女」がいた。

 漆黒の双眸は愛しげに私を慈しみ、添えられた掌は温かだった。薄紅色の花が地面を滑るように流れていき、木々の隙間から薄日が差し込んでいた。

 「彼女」は笑っていた。

 いつもと同じ笑顔で、困ったように、勝ち誇ったように。白い首には私が送ったネックレスが光っていた。

 わたしは「彼女」のすべてを理解していなければならない。

 風の音に混ざる囁き声。私はわかっていた。すべきことなどわかっていた。
 指先に触れた体温は、いまだ優しく温かだった。「彼女」の瞳は尚も私を捕らえていた。指が食い込む感覚は、あの日と似ていたが、けれどやはりどこか違っていた。
 それは美緒と早紀の違いなのか。それとも早紀と美緒の違いなのか。
 黒い髪が地面に散らばって、そしてその上に静かに桜が散り積もっていった。


都築佐織
2012年05月14日(月) 16時27分33秒 公開
■この作品の著作権は都築佐織さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ジャンルに迷ったので、こちらに投稿しました。
感想等いただけると嬉しいです。
また、辛口での感想・批評も大歓迎ですので、よろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.8  都築佐織  評価:--点  ■2012-06-23 00:17  ID:NKqqyul5B/g
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>鈴村智一郎さん

返信が大変遅くなりましてすみません。
お読みいただきありがとうございました!

一本芯の通った不思議な話にしてみようと思って書いた作品だけに、そのように感じていただけてうれしいです。
読んでいくうちに明らかになるという面と、それゆえの話に入り込むことへのむずかしさに奮闘していただけに、感想がいただけてよかったです。

大変おほめに預かり恐縮するばかりです。
今回はありがとうございました!!
No.7  鈴村智一郎  評価:50点  ■2012-06-09 13:19  ID:r/5q0G/D.uk
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初めまして*

冒頭の桜の舞う描写がイメージ喚起力に飛んでいて素敵です。
ヒロインの女性と大切なもう一人の女性との静謐なダイアローグのスタイルを取りながら、作品の背景に作中の言葉でいう「超自然的なもの」、あるいは「運命性」のようなものを感じました。最初に人物の造形をしてしまわずに、あえて読むうちに少しずつ場所がどこであるのかがゆっくり判っていく流麗で、豊かな作品だと思います。
都市の片隅にある公園を、これ程詩的に美しく書けるのは貴女の才能だと私は思います。これからも心から応援しております*
No.6  都築佐織  評価:--点  ■2012-05-27 23:55  ID:NKqqyul5B/g
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>ひじりあやさん

ご指摘ありがとうございます。
回りくどい文章になってしまったと自覚していましたが、改めて「そして」の回数の多さを指摘され目からうろこでした。そんなに使っていたんですね……丁寧なご指摘ありがとうございました。

雰囲気を殺さず、自然に読者に伝わるような書き方を研究していきたいと思います。推敲等で言葉の重複等にも気を配りたいです

今回は丁寧にありがとうございました
No.5  ひじりあや  評価:30点  ■2012-05-27 02:16  ID:ma1wuI1TGe2
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はじめまして。

雰囲気のある文章を書こうという意識は伝わってきました。その意欲は良いと思うのですが、それが形になっていたかと言えば、残念ながらなっていないです。文章がスマートではないのですね。
意識しているのか、無意識なのかは正直分からないのですが、同じ言葉が繰り返し使われすぎています。例えば「そして」という言葉が22回も使われているのですが、ここまで「そして」が多用された作品はちょっと記憶にないです。削って意味が伝わるのであれば、削ってもいいのです。もちろん、強調したいという意図で同じ言葉を繰り返すこともありますけれども。

雰囲気を作ろうとしている中、同じ語句の繰り返し、不要ではないかと思える言葉が多く感じられ、作品に集中できませんでした。
もったいないのでもう少し細かい部分にも気をつけて書いた方が良いかと思いました。
No.4  都築佐織  評価:--点  ■2012-05-17 23:42  ID:NKqqyul5B/g
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> 蒼井水素さん
感想ありがとうございます!

不思議さと不気味さのさじ加減が上手くいっていないことが、やはり最初の混乱を招いていますよね……

二回読んで、序盤を理解していただけたのは、とてもうれしかったです。ありがとうございます。

全体的に綺麗に整えていくことに注意を払っていたので、美しいホラーのよう、と言っていただけてほっとしました。

今回は感想をありがとうございました。
No.3  蒼井水素  評価:30点  ■2012-05-17 02:54  ID:IyI1JaiIytM
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都築佐織様

こんばんは。拝読しました。

若いですね、感性が。ちょっとうらやましいです。

最初のあたり、読んでいてかなり混乱したのですが、最後まで読み終え、もう一度最初から読むと、「ああ、なるほど」と思いました。

そして、この手の話をあまり読まないので、自信はないのですが、殺す動機が、弱いというか、いまいちわかりませんでした。あ。でも、動機をはっきり書きすぎると、この「感じ」が無くなるのかな? 得体の知れない感じがでているので、これでいいのかもしれませんね。

サイコサスペンスのような、少女向け漫画に出て来る美しいホラーのような、お話だと思いました。

楽しいひと時をありがとうございました。
No.2  都築佐織  評価:--点  ■2012-05-17 00:39  ID:NKqqyul5B/g
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>白星奏夜さん

感想ありがとうございます!

おっしゃる通り、序盤は登場人物をぼかすため敢えてあのような表現にしていましたが、確かに行き過ぎてしまったと思いました。
伝わるようにぼかすのは難しいですね……

描写等には注意をはらっていたので、そう言っていただけてうれしかったです

いずれもう一度推敲してチャレンジしようと考えているので、参考にさせていただきます!

今回はありがとうございました。
No.1  白星奏夜  評価:20点  ■2012-05-16 16:15  ID:TUFvtdFx.cE
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こんにちは、白星と申します。拝読させて頂きました。

はじめに、点数なのですが個人的な好みの問題なのであまり気にしないで下さい。私には真似できないほど、語彙が豊かで、情景も丁寧に描写されているなぁと思いました。
狙いでしたら申し訳ないのですが、序盤がさっぱりと状況が掴めず、情景をどう思い描いて良いのかもうまく掴めませんでした。会話が始まり、最後の美緒や早紀が出てくると、とても緊張感のある展開になったとは思うのですが。

敢えて二人の存在をぼかしている、と解釈したのですが、せめて美緒や早紀の名前くらいは最初に欲しかったかなぁ、なんて出しゃばった考えを抱いてしまいました。

双子の入れ替わり、と聞くと何故か、ひぐらしのなく頃に、を思い出してしまいます。完璧に趣味ですので、聞き流して下さい。

拙い感想ですが、いろいろ書いてしまいました。失礼致しました。
総レス数 8  合計 130

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