床屋の惨劇

「けっこう、さっぱり」
 ‥思えば、この一言が全ての元凶だった。

 それは、朝から良く晴れた日だった。
 わたしは薄着のままテラスで伸びをしつつ、この休日をどう過ごそうかと、ワクワクとした気分でいた。
 樹木は未だ朝露を帯び、風はひんやりと爽やかで、どこからともなく金木犀の甘い香りが流れてくる。空は、本当に空色で、雲は遥かな天空にあって、ゆるゆると流れていく。

 普段なら、図書館やなにかで地味に過ごすことの多いわたしだが、これだけの晴れ空にそれはないだろうと思った。
 久しぶりに釣りにでも出掛けてみようか。それとも、カメラを持って、どこか遠出でもしてみようか‥。
 そんな風に思いながら、テラスで、もう一つ伸びをした。
 ‥葉先から、朝露が一粒、虹色に輝きながら落ちていく。
 瞬間、わたしは心が、ぽっと、明るくなるのを感じた。
 そうだ。カメラを持って、電車に乗って、あてのない旅に出よう。わたしはそう決めた。

 わたしにとって、カメラは唯一の趣味らしいもので、機材は常に臨戦態勢。その朝も、カメラバッグ一つですぐにも出掛けられる状態になっていた。
 それでもわたしは、バッグの中を一応確認し、それをテーブルの上に置いてから、顔を洗おうと、部屋を出た。

 洗面台に立ち、顔を洗う。きん、と冷たい水が、耳の裏側をじんじんと刺激する。わたしはそれを心地よく感じつつ、タオルで顔を拭う。
 それから、きっ、と鏡を睨みつけた。
 ‥わたしの眉はけっこう太い。そして、濃い。子供の頃は、毛虫のようだ、などと揶揄されたものだが、今では気に入っている。
 この眉のおかげで、全体の印象が引き締まって見えると思うし、何より、太い眉は強い意思の顕れ、などとも言うではないか。
 わたしは、慈しむように薬指で眉を撫でながら、くいっと顎を引き、そのまま、額を鏡に近づけてみた。

 ‥あぁ、やっぱりけっこうきてるなぁ。
 前髪の生え際。まだ、気にするレベルでは無いと思うのだが、我が身のこととなると、やはり、気にせざるをえない。それに、頭頂部も気になる‥‥。

 わたしは、ぴっと背を伸ばし、顔を鏡から遠ざける。
 気にしない、気にしない。
 自分に言い聞かせながら、しかし、頭髪全体としては随分とぼさぼさだなと感じた。

 ‥そういえば、しばらく床屋へ行ってないな。
 ‥ったく、薄いくせに、伸びるのだけは早いんだから。
 あぁ! 気にしない、気にしない!

  〜 〜 〜 〜 〜

 わたしは、カメラバツグを肩に、駅へと向かった。といっても、最初の目的地は駅ではなく、駅前の床屋だった。

 ‥その床屋とはもう、二十年来の付き合いになる。初めの頃はおやじと奥さんの二人でやっていたのだが、数年前から息子も店へ出るようになっていた。
 おやじは、腕は確かと思うのだが、どうもセンスが今ひとつというか、妙な部分で個性を出したがる処があった。それで、いつの頃からか、わたしはおやじに対しては、「いつもの感じで」としか注文しなくなっていた。実際、二十年もの付き合いとなればそれで十分だったし、それでおやじが妙な個性を発揮することも無かった。
 対して、奥さんには繊細な感性と、それを表現する技術があったし、息子の方も、若さゆえの大胆さがあった。息子にやってもらうと、散髪中、おいおい‥、と思うこともあるのだが、仕上がってみれば、‥へぇ、けっこう良いな。などと思ったりもする。
 ‥わたしとしては、常に、奥さんか息子のほうにやってもらいたい希望を持っていたのだけれど、店はそういうシステムにはなっておらず、まぁ、誰に当たるかはドアを開けてのお楽しみ、というところだった。

 そんな事を思いつ、出発はどの路線にしようかなぁ、などとも思いつ、幾度となくカメラバッグを肩にかけ直しながら歩き続け、床屋に到着する頃には、随分と気温が上がり、ちょっと汗ばむほどになっていた。

「いらっしゃい」「いらっしゃい」「いらっしゃい」
 ドアを開けると、おやじ、奥さん、息子の順で、輪唱のように迎えてくれた。まだ時間が早いせいか、先客はいないようだった。店内は程よく空調され、わたしは、ほんの一瞬、汗がすっと引くのを感じ、しかし、次の瞬間には、やっぱり暑いな、と感じた。

 わたしはカメラバッグを肩から下ろしながら、「ふぅっ」と息を吐く。
「お疲れですか?」
 おやじが言った。
「そんなわけでもないけど‥。しっかし暑いよね」
「まぁ、もうしばらくは暑くなったり涼しくなったりでしょうね‥」
 おやじは適当に答えつつ、わたしを手招きする。‥どうやら、今日はおやじに当たったようだった。

「ふぅっ」
 わたしはもう一度、小さく息を吐きながら、床屋の椅子に、どさっと身体を収めた。
 おやじは、即座に背後へとまわりつつ、わたしにマントを被せる。
「眉、相変わらず立派ですけど、ちょっとぼさぼさした感じになってますね。後で、長いとこだけ梳いときましょうか?」
 鏡越しに、おやじが言った。
「うん。お願いします」
 わたしは答えた。眉の手入れは、自分でも時々やるのだけれど、やはり、プロにやってもらうと、随分と仕上がりが違うのだ。

「で、今日はどうします?」
 おやじが言った。
 汗こそひいたものの、やはり、微かに残る暑気。しかしこれは、爽やかな暑気という感じで、決して不快ではなかった。その暑気を感じながら、わたしは答えた。
「けっこう、さっぱりめで」

 ‥暗転。
 ‥どよ〜ん。

 わたしは、不用意な一言をただちに後悔した。
 鏡の中。おやじの表情が一変した。‥喜色満面だった。

「そうですねぇ。思い切って半分以下まで、バサッといっちゃいましょうかぁ」
 おやじの言葉に、わたしは、「ダメ!」と即答した。
「そうですねぇ。意外と、三分の一ぐらいまでいっちゃったほうがさっぱりするかなぁ」
 ひ、人の話を聞いとんのかっ!
 そう思いつつ、言った。
「だ、だいたいがそんなチョンチョンにして、その‥、う、薄いのがばれたらどうすんのさっ」
「大丈夫!ばれやしませんって。お客さんの髪のことは、お客さんよりわたしの方がよくわかってるんですから」
 おやじは、相変わらず喜色満面のまま、そう答えた。
「とにかく駄目! 前髪は眉にかからない程度で、全体はそれに沿った程度で、あと、刈上げも絶対に駄目!」
 わたしは捲くし立てた。
「そんなぁ、ここまで準備したのに‥」
 て、ててて、てんめぇ! 準備って、マント被せただけじゃねぇか!
「とにかく駄目っ!」
 わたしが駄目押しすると、おやじはようやく、「わかりました」と答えつつ、しかし、しつこく、「さっぱりするのになぁ‥」などと言いつつ作業を開始した。

 ‥それからの数十分は、戦いだった。

「上のほう、もうちょっと短くしてもいい?」
「駄目!」
「襟足、もうちょっとさっぱりしてもいい?」
「駄目!」
「耳、すっきり出しちゃってもいい?」
「う〜、刈上げ無しなら許可」

 ‥やがて、戦いのときは終わった。わたしは勝利した。わたしの髪は、わたしの希望通りにさっぱりした。

「じゃ、髪を洗いますんで向こうへ移ってくださぁい」
 おやじが言った。‥機嫌が悪そうだった。
「じゃ、髭を剃りますんで向こうに戻ってくださぁい」
 おやじが言った。‥機嫌が悪そうだった。

「じゃ、椅子を倒しまぁす」
 おやじが言った。電動リクライニングが、静かに倒れる。
 ‥トン、トトン、トトン。
 床屋の椅子は、あんま椅子。軽やかな振動が、わたしの身体を刺激する。

 ‥こぉれぇこぉれぇ、こぉれぇがぁいぃいぃんだぁよぉなぁ‥。

 心地よい振動に身をゆだねつつ、今日の一日を想う。
 ‥そうだな、まずは山方向の電車に乗ってみよう。
 ‥そうか、あの路線だ。
 ‥一度も終点まで行ったことがない‥‥。
 ‥‥‥‥。
 ‥やがて、わたしは、心地よいまどろみに落ちていく‥‥。

「じゃ、椅子を起こしまぁす」
 唐突におやじが言った。
 あぁ、もうすこしまどろんでいたかったのに‥。しかし、電動リクライニングは、いやおう無く、わたしの身体をゆすり起こした。

 ‥目の前に鏡。
 ‥鏡の中に、自分の姿。
 ‥ぼんやり‥‥。
 ‥ん? なんか違和感が‥‥。
 ‥そして、やがて、わたしはその異変に気付いた。

「あ。‥あ〜っっ!! 眉がないっ!」
「あ、いや、眉はあるけど太さが半分ぐらいになってるぅっ!」
 わたしは思わず振り返って、鏡越しではなく、じかにおやじを睨みつけた。
 するとおやじは、何事もなく言った。
「眉、ご希望通りにさっぱりしときました」
 おやじは喜色満面だった。
「おやじっ! てんめぇ〜っ!」
 わたしは叫んだが、全ては後の祭りだった。

「お、俺の眉、返せぇ〜〜っっ!」
YEBISU
2011年10月21日(金) 00時03分51秒 公開
■この作品の著作権はYEBISUさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
我ながら、いったい何を書いておるのかね、とは思うのですが、まぁ、せっかく書いたんだから投稿することにしました。
最後まで読んでくださった方、ごめんなさい。
あと、ごめんなさいついでに、批評など頂けると嬉しく思います。

この作品の感想をお寄せください。
No.6  YEBISU  評価:--点  ■2011-10-25 19:26  ID:AdjJZ9RooXE
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zooeyさん、メーセッージありがとうございます。
前半と後半のちぐはぐさについては、我ながら反省しております。えっと、実際に遭遇した事態に、無理やり枝葉をくっつけた挙句がこのしまつです。
「穴があったら入りたい。穴がなければ自分で掘りたい」とは、まさにこのことと、恥いっております。
また、機会があれぱ、よろしくお願いいたします。
No.5  YEBISU  評価:--点  ■2011-10-25 18:52  ID:AdjJZ9RooXE
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クレナイ博士さん、メッセージありがとうございます。
えっと、「こういう女の子を‥‥」との評は、なんだか意味不明なれど、「‥情景が浮かんで‥」との評、とてもうれしく、励まされました。
ありがとうございます。



No.4  zooey  評価:30点  ■2011-10-25 00:28  ID:1SHiiT1PETY
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はじめまして、読ませていただきました。

過去の二作品も読ませていただいています。
とても、センスのある方だなと感じていました。
なんというか、生活の中にある些細な事柄に、しっかりと体温が感じられ、こう、実体感がある描き方をされていて、素晴らしいなと思います。

今回の作品は、前半、洗面台で鏡に映った自分の姿を見つめている描写などには、そういったセンスを感じたし、そこにユーモアも加わって、やはりいいなあと思ったのですが、
後半、アニメのような描写と展開に、正直かなり落胆させられました。
同じくユーモラスに描くのであっても、前半の生活感の中にある可笑しさを抑えつつ出していくのと、
後半のテンション先行にも感じられるユーモラスさが、ちぐはぐな感じで、
せっかくの冒頭の面白みがなくなってしまった気がします。

他にはないセンスをお持ちの方だと思うので、前半の雰囲気のままで、ほかの作品も書いてくれたら、とても面白いものになるだろうなと思いました。
No.3  クレナイ博士  評価:20点  ■2011-10-24 18:37  ID:mWPJnUMHTjo
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日記みたいで、平和ないい具合でした。
こういう女の子を恋人にすると、いい具合でしょうね。
床屋のおじさんも長閑で、、ぐっど
気持ちがぽわーんと温まる、この季節と合わさっていい情景が浮かんできました。
No.2  YEBISU  評価:--点  ■2011-10-24 18:18  ID:AdjJZ9RooXE
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働かざるものさん、メッセージありがとうございます。
丁寧な批評、参考になります。
‥実はこれ、半ば実話なのですが、ご指摘を踏まえて読み返してみると、たしかにこれでは読者に対して失礼だなと、自分でも思いました。
次作への参考にさせていただきます。
ありがとうございました。
No.1  働かざるもの  評価:20点  ■2011-10-23 20:06  ID:g0oXpK80KzY
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どうもです。読ませていただきました。
なんといいますか、物語の芯の部分がどこなのかがつかめなかったです。
でだしを読んだ感じでは、カメラで写真をとりながらの物語、しっとりした感じになるのかなと、おもったのですが、中後半は一転コミカル。
どっちらも、よく書けているとおもいますのであとは統一感があればなと。
読み手にたいしてどういう物語なのか提示するのは序盤の役目だとおもいますので……。
キャラクター、情景描写、個々にみるとよかったとおもいます。
なんか上から目線の言葉で申し訳ないです。
機会があれば、また読ませてください。
それでは、ここらへんで。
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