太陽をつくる
 嘘がサボテンに巻きついて、ワタシはサラエボから飢餓の子供を連れ出し日本へ向かった。マジルと呼ばれたその子供は典型的な失語症に加え、ダウン症という難病を抱えていた。日本海と認識できたのは、もうすでに富山県の陸が見えた後であった。小雨がぱらついて、ワタシの寝不足の目に染み入った。それは久しく流していない涙のように生暖かく頬を伝わる。

 ポプラの木を見て、マジルはもう本当に母国を去ってしまったんだと理解した。この森林の空気は日本独自の匂いを放っていた。ワタシはしばらくのあいだ祖国を離れて、はじめてそのことに気がついた。津村さんが我々に用意してくれたログハウスには何でも揃っていた。バターやトマトの缶詰や冷凍のお肉なんかだ。マジルもワタシもそれで充分であった。我々二人に必要なのは物質なんかではなかったのだ。

 三日経って、ワタシ達は川で釣りをし始めた。マジルに渓流の水を掬って飲ませると、嬉しそうに体を震わせ喜んだ。ここでは太陽の光さえ優しく感じられた。我々はこの自然に守れられていたのだ。魚がようやく釣れると、我々は歓喜して抱き合った。神様のことなどここでは一切考えずに済みそうだった。

 これまでマジルは神様を信じ続けてきた。

 彼の母親はロシア兵のジープに轢かれて死んだ。ブレーキ痕など見当たらず、そこには不自然に折れ曲がった母親の遺体が残った。目撃者のほとんどは、ほんの一瞬だけ足を止めて、すぐに歩きだした。マジルはことが自然に片付くまでその場でぼーっと立ち尽くしていた。彼の手にはイチジクがギュッと握られていた。

 船のことはほとんど憶えていない、と彼は言った。どれだけ長いこと眠らずにいたのだろう、マジルは船室のベッドに横になると丸三日間眠り続けた。食事の時だけ起きて食べ、途中で力尽きたようにフォークを床に落として、またすぐに寝息を立てはじめた。ワタシは彼の残した、茹でたインゲンをつまんで口に入れ、眠りやすい姿勢に戻してやってから、誰もいない談話室で本を読んだ。たった一人だけのクロークとワタシは親しくなった。彼も最初からワタシが気になっていたらしい。ガンゲロッケという名である、その男は老齢で、人間の心底に潜むバイオリズムを読み解くのが得意であった。彼は部屋で眠るマジルを見て黙り込み、しばらくして、呟くようにワタシに言った。
「この子は魚を釣ることで何か、運命的な閃きを呼び込むんじゃないでしょうか」
「彼の何かが見えるんですか?」ワタシは言った。
「いや、何も見えやしません。ワタシの気持ちがそう思いたかったのです」
 そう言うと咄嗟に、ガンゲロッケは懐中時計を取り出し時刻を確認した。
「お仕事に戻られますか?」
「いえいえ、すみません。クセなんです」ガンゲロッケは皺くちゃの笑顔になった。

 夕方になると、沈む陽を眺めながら魚を焼いた。マジルは膝を抱え込む恰好で雑草の上に座っている。もっと体を投げ出せばいいじゃないか、とワタシが言うと、彼は恥ずかしそうに笑い、このままが安心する、と言った。
「ねぇ」マジルが珍しくはっきりとワタシに呼びかける。瞳は潤いを滲ませていた。
「どうした?」
「ボクタチは太陽をつくってるんだね」
 そう言って、マジルは焚き火を見つめる。
さくら上水
2011年06月20日(月) 23時59分52秒 公開
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No.1  陣家  評価:10点  ■2011-06-29 03:03  ID:ep33ZifLlnE
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拝読しました
陣家と申します
一読して希望にあふれる前向きな作品だとは思うのですが、コメントの難しい作品であるのも間違いないです。
なぜか? おそらくはこの部分、
---マジルと呼ばれたその子供は典型的な失語症に加え、ダウン症という難病を抱えていた。---
この設定の、失語症という後天的な疾患と、ダウン症という染色体異常による先天的な障害を同時に与えてしまったことだと思います。
実在する具体的な疾患や、障害を登場人物に設定した場合、デリケートな描写が必須なものとなり、生半可な知識やイメージだけで描写することは避けなければいけないと思われます。
なので、なおさらその部分についてコメントをすること自体、大抵の人が二の足を踏むことは当然のことでしょう。
つまり、おかしいとは思いつつも、万一実在のモデルや事実が存在する可能性も完全には否定できないからです。
あと、次の
---津村さんが我々に用意してくれたログハウスには何でも揃っていた。バターやトマトの缶詰や冷凍のお肉なんかだ。マジルもワタシもそれで充分であった。我々二人に必要なのは物質なんかではなかったのだ。---
なんでも揃っていたと言うわりには、それで充分であった、という話も妙な感じに思えてしまいます。
とうわけで設定の取っつきにくさがどうしても障壁に感じられてもったいないという気がしてしましました。
言いたい放題な感じですいません。
でわでわ。
総レス数 1  合計 10

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