陽のあたる場所で
                  私記

 ……祖母が眠りについてから、もう何年経っただろう。
 草を編んで作られた揺り椅子に腰かけながら、祖母が昔話をしてくれたことが懐かしい。今も客間に置かれた椅子を見るたびに、私は祖母のしわがれた声を思い出す。視界の隅で祖母がまだそこに座っているような気がして、はっとした。
 語る相手がいなくなったので、私は祖母の使っていた書斎でこの私記を書いている。日々の出来事や祖母の話を、思い出せる範囲で書き連ねることにした。
 私の知識のうち、多くのことは祖母から学んだ。気が付けば年老いた祖母と二人、この屋敷で暮らしていた。昔は私にも父と母がいたらしいが、記憶にない。物心がついた頃の私にとっては祖母との暮らしが生活のすべてだったから、両親の存在は後から知らされた補足事項のようなものだった。
 幼い頃の私は、目に映る全てのものに意味を求めた。森に住む獣たちが私たちのような言語を持たないことや、空に浮かぶ月が少しずつ形を変える理由。遠く東の空から暗闇を消し去るように現れる、あの怖ろしい炎の球は何なのか。
 祖母が目覚めなくなった日も、私は些細な疑問の答えを求めて祖母の眠る部屋を訪ねた。入り口の扉を開いて声をかけてみると、返事がなかった。両肩をさすってみたが、やはり何も反応がなかった。
 頬に触れた。手触りは変わらなかった。暖かな体温だけが消えていた。どうやらそれが祖母の言う「死」というもののようだった。
 祖母はかつて私に語った。あらゆる生き物には必ず「死」という期限が定められていること。それがいつなのかは分からない。生ける者はそれを怖れ、多くの場合、死が訪れる前に新しい命を育む。

 ……昔から私たちは森と寄り添うように暮らしてきた。屋敷の周囲には針のように尖る木立が並んでおり、風の強い日にはその葉が揺れて音を立てる。一年を通して変化のない風景に囲まれ、穏やかな日々を過ごした。
 屋敷は広く、触れれば冷たい石で作られている。庭に植えられた木には甘い汁を含んだ果実が付いていて、表面に光沢があるものを選んで食べた。森の中に茂る植物の葉や根を摘み取り、祖母は本に書かれた方法で調理をした。
 早く目が覚めた日に麓の方を眺めると、闇の中にぼんやりと明かりが灯っていることがあった。じっと見つめているうち、遠く霞んでいた光の点は一つ一つ消えて行く。辺りは穏やかな静寂に包まれており、私は何度か山を降りてみたい衝動に駆られた。
 山の麓には、森に住む獣や土の中に潜む動物とも違う、私たちとよく似た姿の者たちが暮らしている。彼らは私たちと比べて遥かに数が多く、大きな集落を作り、私たちよりもずっと上手く火を操る。天上へ灼熱の炎が昇る頃、私たちは眠り、彼らは活動を始める。天の炎は太陽と呼ばれ、彼らの間では神聖なものらしい。
 私が生まれるよりずっと昔、私たちの先祖は彼らと同じように麓で暮らしていたらしい。しかし、姿が似通っているが故に彼らは私たちの習慣を怖れ、呪われた者として迫害した。
 獣たちの体に流れる、温かな液体。あれを飲まなければ、私たちは生きていくことさえ叶わない。それは私たちにとって生まれながらの欲求だった。麓に住んでいる彼らは水を飲んでいれば十分で、私たちのような喉の渇きを感じないらしかった。
 そこに私と似た姿をした者たちの営みがある。祖母には絶対に山から降りてはいけないと言われていたが、私は不思議と彼らに親しみを覚えていた。

 ……その日は獲物を見つけることができず、普段寄り付かない奥の方まで森を進んだ。気が付けば、近くで水の流れる音がしていた。森を抜けた先に、獣が体を休めているのが見えた。私はその首筋に牙を立てて、渇きを潤した。
 殺すわけではない。しばらくは動けなくなるかもしれないが、獣の体は落ち葉が積もる柔らかな場所に運んでやった。無意味な殺生をして彼らが森からいなくなれば、困るのは私自身だった。
 静かな川の音が心地よく、誘われるように私は河原に近付いていた。夜空は一面に星が散りばめられており、水面に映った偽りの月は流れに任せて輪郭を変えた。川の向こうに並ぶ木々が影を落とし、夜風に梢を揺らしていた。
 口に付いた毛や汚れを落とすために屈み込み、私は川の水で何度か口をゆすいだ。
 そのとき不意に、目の前を光の筋が通り過ぎた。指先ほどの小さな虫が、背中から淡い光を放っていた。その軌跡を追うように視線を横に移すと、見慣れない者が立っていた。
 直感的に、それが獣ではないことを悟った。背丈は私の腰ほどあり、頭から肩にかけて髪が伸びていた。それは、祖母の話していた「人間」の子供だと思われた。
 私の姿が珍しいのか、と尋ねてみた。
 子供は少し後ずさりして、おずおずと私の名を尋ねた。私には名前などなかったので、正直にそう答えた。
 子供は自分のことを、「ユウ」と名乗った。
 少なくとも、それが祖母の言うような怖ろしい生き物とは思えなかった。森の獣たちのように鋭い牙や爪を持っているわけでもなく、私と同じ二本の足で立っていた。耳や鼻は丸みを帯びており、手足はひどく細かった。
 しかし、私は気を緩めなかった。人間は怖ろしい生き物だ。祖母からそう聞いていた。私の両親は山を降りたことがきっかけで、彼らに殺されたらしい。
 祖母から何度も聞かされた話だ。小高い丘の上に集まった彼らは、荒縄で縛られた父を炎の中に放り込む。太い木の幹に胸を貫かれた母は、その様子を見下ろす形で磔にされた。母の腕は力なく崩れ落ち、助けを求める父の声だけが虚しく響いていたという。
 人間たちは恍惚に浸りながら燃え盛る炎をじっと見つめていたと、祖母は口元を震わせながら話した。彼らは狂喜の歓声を上げて、拳を振り上げた。後には消え行く火花の音と空高く伸びる煙が夕闇の丘に漂うばかりだった。
 それから祖母は、森に入って獣を探すことをやめたようだ。恐らくそれが祖母の死期を早めたのだろう。
 正直なところ、両親の死や祖母の悲しみに対して、私は実感が湧かなかった。なにしろ私には両親と過ごした記憶がない。ただ、祖母が流す涙を見るたびに、胸の辺りがほんの少し窮屈になった。
 物語の中の怖ろしい悪魔と、目の前に立っているそれがどうにもうまく重ならなかった。ユウの瞳は水分を多く含んでおり、その上にかかる睫毛は長かった。似ているとは聞いていたが、それは確かに幼い頃の私と同じ姿をしていた。
 ユウは少し緊張を解いた様子で、私がどこに住んでいるのかを尋ねた。
 私はこちらに住み処があるのだと伝えて、背後に広がる森の奥を指差した。
 へんなおじさん、とユウは言った。私は自分がおかしなことを言ったかどうかについて検討した。よく分からなかった。
 屋敷の書斎に置いてある辞書にない表現だったので、私は「おじさん」の意味について尋ねた。知らない人はそう呼ぶのだと、ユウは答えた。しかし、私は「人」ではない。
 しばらく会話をした後、ユウは家に帰ると言った。人間の子供にも帰る家があるということが、なんとなく不思議だった。私は、またここに来るか、と尋ねた。
 ユウは頷き、危なげな足取りで川下に走っていった。

                  ***

「また上り坂……。もうやだ」
 歩き始めてどのくらい経つだろう。そろそろお腹も減ってきた。コンビニで買いためたお菓子を取り出して口に放り込むと、ようやく胃袋が文句を言わなくなった。
 ぐうの音も出ないなんて昔の人は言ったけど、あたしはたぶん、どんなときでもお腹は鳴らせると思う。
 トラックの抜け道になっているのか、舗装されていない地面に大きな轍が残っていた。道が山の間をうねるように通り抜けているので、カーブが多い。誰かに後ろから突き落とされたら谷底にまっさかさまだ。
 年端もいかない麗しき乙女が、こんな大きな荷物を背負って夜道を歩いてるのに……。誰か一人くらい助けてくれたっていいじゃない、と愚痴ってみる。
 もちろんさっきから切なげに瞳を潤ませて待っているのだが、ヒッチハイクしようにも通りすがりの車すらやって来ない。
「今日はこの辺で野宿かなぁ」
 独り言とどこでも寝れる鈍感さは、ここ数日で会得した特技の一つである。来年受ける美大の願書にはそれを書くことにしよう。空欄よりはマシだと思う。
 背中のリュックがずしりと重い。お菓子はもちろん、イーゼルにキャンバス、絵の具の入ったチューブ、手に馴染んだ筆と、色の濃度と艶を調整するための画用液が入った瓶。
 少し欲張り過ぎたなぁ、と後悔した。だけど、油絵の画材を売っている所なんて普通はなかなか見つからない。コンビニや美容院のように角を曲がれば出てくるようなものではないのだ。
 歩きながら路肩を見ていると、歩いてきた道よりだんだんと幅が狭くなってきた。網のようなもので右側の斜面が覆われており、落石注意を知らせる黄色い看板が立っている。左には先の見えない深い谷。注意しろって言うけど、どこに逃げりゃいいのよ。
 道路の脇に寝るのはさすがに怖いので、開けた場所に出るまで頑張ることにした。
 ――あたし、今人生で最高に臭いかも……
 汗が首筋を流れる。足は鉄球がくくり付けられているように、重い。
「お風呂入りたぁい」
 夜の闇に声が溶けて消えた。もちろん、誰もバスタオルは投げてくれない。
 山道の中腹にさしかかったのか、ガードレールの続く上り坂は終わった。
 掌のような葉をつけた楓や針のように伸びる杉の樹が、道路の両側に沿ってうねうねと続いている。その脇に川が流れているのが見えた。こういう人里離れた山は鹿やタヌキの狩猟地になると聞くから、銃で撃たれないように気を付けないといけない。
 とりあえず顔を洗おうと河原に近付き、リュックを下ろす。敷き詰められた石が質量を受け止めて、数珠のようにじゃらりと鳴った。
 もはやこれって苦行よね、修行僧よね、などと呟きながら肩ひものかかっていた辺りをさすっていると、森の近くに誰かが立っているのが見えた。
 月の光が差し込む樹の下で、背の高い青年が立っていた。黒いコートを羽織り、血色の悪い首筋は病的なほど白い。夜風にあおられて不穏な音を立てる森を背に、川面をじっと見つめていた。
 彼だけが風景から切り取られたように、くっきりとしていた。私は思わず声をかけた。
「すみません、お尋ねしたいんですが」
 言った後で、しまった、と後悔した。こんな真夜中で山奥の河原に人がいること自体、少し異常だった。一応あたしだって十八の女の子なのだ。襲われたらひとたまりもない。けれど、その恐れと同じ強さで、彼の発散する異様な雰囲気に惹き付けられた。
 彼がゆっくりと顔を上げて、こちらに視線を向ける。
「あの……」
 一切の表情がなかった。生きた人間とは思えないほど青白い顔に、冷ややかさを湛えた深い黒色の瞳。矢にも似た眼光は、私の胸に突き刺さるように鋭い。
「どこから来た」
 言葉と共に、彼の放つ異質な波動が直に空気を伝わって押し寄せてくるような気がした。私は奥歯にぐっと力を込めて、答えた。
「新幹線と電車を乗り継いで、ここまで歩いてきました。あの、この辺りに集落があるんですか? できれば、人が住んでいるところまで案内して頂きたいんですけど」
 一人旅だと知れば、同情してくれるだろうか。相手によっては危険かもしれないけど、そもそも迂闊に声をかけた私が悪い。値踏みするように彼が私を見た。
「それなら、川に沿って山を降りるといい」
 彼は素っ気なく言った。見た目とは裏腹に優しい声をしていた。目を閉じて聞き入ってしまいそうなくらい、美しい声音だ。それに、かなりいい男である。
 甘い焼き菓子の匂いと端正な顔立ちの男には、けっこう弱い。
「歩いてどのくらいですか」
「歩いてみれば分かる」
 足元にあるリュックに目を落とす。正直、今日はもう動ける気がしなかった。
「あたし、もう歩けそうにないです」
 私は顔を俯けて、上目遣いにもじもじと言ってみた。考え得る限り、自分の中で最高の角度だった。声のトーンも三割増しである。
「……この辺りは野犬が出るぞ」
 ――お、釣れた
 宿を確保できたことに安心していると、
「眠る時には気配に気をつけろ」
 青年は私に背を向けた。まぁ、冷静に考えてみれば、こんな山奥で夜中に外を出歩いている人に付いて行ったら、夜のうちに殺されて山に捨てられてもおかしくない。一方で、そんな非日常性を楽しんでいる自分もいた。
 一目見た時から、ぴん、と来るものがあった。どこか浮世離れしたその佇まいは、私の理想とするイメージにぴたりと一致する。
 そのための一人旅なのだ。この機会を逃す手はない。
「泊まるアテがないんです」
「なら早く川下に向かうことだ」
「だから歩けないんだってば」
 彼は黙って歩き出した。音もなく森の中に姿を消す。
 私は覚悟を決めて、リュックを手に取った。改めて感じる重みにため息が出る。こんなことなら、チョコとクッキーじゃなくてマシュマロと麩菓子にしておけば良かった。
「待ってよ、ねえ」
 満月の綺麗な夜だった。私の呼びかけに振り返ることもなく、彼は月光が零れる木々を縫うようにして歩いていた。私は小走りにその背中に追いついた。
「聞こえなかったのか。街は川下だ」
「でも、あなたの家はこっちなんでしょ?」
 赤い紐の付いた枝をかき分けて、彼は右に曲がった。私は意地になって後ろに付く。
「一晩だけでも泊めて欲しいの」
 私を無視して彼は歩を進める。今度は黄色い紐が括りつけてある樹の前で、体の向きを左に変えた。どうやら、その紐が目印らしい。赤が右、黄色が左という意味だろう。
「私は帰るだけだ」
「じゃあ、付いて行ってもいい?」
 彼は答えずに、前を向いて歩き出した。

                  ***

 子供は親を選べないと言うけれど、本当にその通りだ。
 両親はご丁寧に二人とも揃っていたし、小さい頃から物に不自由することはなかった。世間一般的には高い水準の暮らしをしていながら、こんな不満を言うのは反感を買うかもしれないが、実際あたしは生まれる場所を間違えたと思う。
 私の家は、いわゆるお金持ちだった。あまり家に帰ってこない父と、暇さえあれば海外旅行に出掛ける母、生真面目で融通の利かない兄に私を合わせた四人家族。後は使用人と付き人が何人か住み込みで働いていた。
 退屈だと言えば使用人が本を持ってきてくれたし、お腹が空いたと言えば温かい紅茶とクッキーがお皿に並んだ。お菓子を食べすぎて夕飯を残しても、誰にも怒られなかった。
 わがままだったことは否定しないけれど、ドラマや小説に出てくるような、意地の悪いお嬢様だと誤解しないで欲しい。私は、蚊が気の毒で「どこでもベープ」を点けることを躊躇うくらい、優しく清らかな心を持った少女である。
 幼稚園生の頃は、いつも寝る前にお母さんから宮沢賢治やアンデルセンの絵本を読んでもらった。特に好きだったのは「よだかの星」と「みにくいアヒルの子」で、その二冊は今でも大切に保管してある。
 小学校に上がると、私は毎日母親に監視されながら勉強をした。よく分からないうちに東京の有名な女子校に入ることが決められており、努力の甲斐あって中高一貫の付属校に受かることができた。
 学校生活は居心地の良いものではなかった。毎朝、優雅に手を振って「ごきげんよう」と挨拶する同級生や、生徒にくすぐったい尊敬語を使う先生たちに囲まれて過ごした。
 鏡を見るたびに、自分の中身と容れ物のギャップにため息が出た。髪は柔らかく長めにセットして、なんだか動きにくい洋服を着せられていた。本当は思い切って髪を短くしたかったし、短いスカートを穿いて外を歩きたかった。
 ――あたしはここにいていいのかな
 絵本で読んだアヒルの子やよだかと同じように、私はいつも疎外感を感じていた。私はこの人たちとは違う。それなのに、両親はおしとやかで勉強のできる女の子になることを望んでいる。
 思ったことを心の中に留めておくのが苦手だったから、親の年収や職業で友達の序列を決めるような同級生とは馴染めなかったし、ひとり孤立して悩むことも多かった。
 結局、私は自分を取り巻く環境や生きている場所が嫌いなのだ。それでも私は母が好きだったから、我慢しようと思っていた。
 一つの転機は、中等部の頃の授業参観だった。
 参観日の授業は英語で、和文を英訳する問題が出された。普段なら誰かがすぐに答えるけれど、親の前では恥ずかしいのか、みんな黙っていた。
 口元に柔らかく笑みを浮かべた母親たちが教室の後ろに整列していた。その中に、私の母もいた。
 誰も言わないなら……。私は少し緊張しながら手を上げた。
「I have already finished to read the book.です」
 教室が静まり返った。私は母親にいいところを見せられたと思って、誇らしくなった。しかし、周囲から漏れ聞こえてきたのは失笑だった。
 ――Finishに不定詞を使うなんて……
 私は答えを間違えていた。恥ずかしさで顔が火照ったように熱くなった。先生が正しい答えの解説をしている間も、私はずっと俯いていた。だけど、間違えることはきっと悪いことじゃない。自分の意見を言うのは大切なことだ。
 私は恥ずかしいことなんか何もしていないと、自分に言い聞かせた。
 授業参観が終わると父母会が行われ、私たちは家に帰された。部屋で宿題を解きながらお菓子を摘まんでいると、母が帰ってきた。
 板張りの床を踏む音が近付き、部屋の扉が開いた。
「もう少し考えてから発言なさい。今日はあなたのせいで恥をかいたわ」
 母はそれだけ言って、扉を閉めた。
 それまで嫌いだった勉強が、もっと嫌いになった。

 その絵と出会ったのは、女子校の高等部に進学してしばらくした頃のことだった。私は父親の知り合いが主催するという美術展に招かれていた。
 窮屈なドレスに身を包み、二時間もかけて髪をいじられた。車で美術館に着いた時にはほとほと疲れ果てていたので、どの絵画もほとんど目に入らなかった。私の隣でなんだか偉そうなおじさんと父親が話していた。
「これなんて、一枚持って帰りたいな」
「なんなら譲ってあげようか。ただし、少なくともゼロが七つはくだらないよ」
「道理でいい絵だと思ったんだ」
 ――どうせ絵の価値なんて分からないくせに
 隙を見て、私は人気のない一角に移動した。
 ゴッホやルノワールの絵画が飾られている大部屋とは対照的に、室内は少し薄暗かった。こじんまりとした部屋に小さな絵画が一つだけ展示されていた。椅子に座っている男性を横から描いた、白黒の絵だった。
 最初は、鉛筆で描かれたデッサン画だと思った。
 額縁の脇の石膏ボードに、画家の生涯やこの絵が描かれた経緯が書いてあった。何より私が驚いたのは、その絵が油絵だということだった。
 頬の産毛まで分かるような、微妙な質感を油絵で表現できるということに私は感動した。水彩画にはない厚みや濃淡のバリエーションが、絵画全体を立体的に見せていた。
「油絵か……。悪くないかも」
 私はすぐにでも油絵を始めようと決心した。だが、それには高価な道具が必要だった。私のお金の使い道は全て母親に管理されていて、事前通告をしなければ買い物をすることさえ許されていなかった。
 母親に油絵の道具を買って欲しいなどと言えば絶対に反対されると分かっていたので、私は休日に図書館で自習すると言いつつ、こっそりアルバイトを始めた。
 それまでピアノやヴァイオリンといった一通りの習い事は経験していたけれど、自分の意思で何かを始めたいと思ったことは、生まれて初めてだった。
 こつこつとお金を貯めて、一年ほどでそこそこ上等な道具を買い揃えることができた。
 次に必要なのは場所だった。私は住み込みの使用人に頭を下げて、頼み込んだ。
「愛理子さんの住む離れを、アトリエに使わせてくれない?」
「アトリエ……絵を描くんですか?」
「お願い。ポッキー一年分あげるから」
 遠い親戚に当たる使用人の愛理子さんは、私と歳が近く、おっとりとした美人である。たまにピントのずれたことを言うけれど、基本的に話の分かる人だった。
「お嬢様がそうなさりたいなら私は構いませんが、奥様は何とおっしゃって……」
「お母さんなんて関係ないじゃん。あたしが愛理子さんに頼んでるのに」
 愛理子さんは人差し指を口元に当てて考えた。あの時、彼女の頭の中では自分の責任と一年分のポッキーが天秤に掛けられていたはずである。
「分かりました。いいですよ」
「やった」
「ただ、私はポッキーよりプリッツの方が好きです」
 
 徐々に、私は絵描きになる夢を意識し始めた。成績は撃ち落とされた鳥のように急降下していたが、気にならなかった。私はもう、先生に媚を売るクラスメイトにも、その中で行われる駆け引きにもほとほと嫌気がさしていた。そして、大学は美大に進もうと決めた。
 美大の入試科目は多岐に渡っており、事前に描いた課題作品を提出するものが多かった。そのときはもう二年生になっていたので、私は焦った。美大志望の学生は早くから対策に取り組んでいるはずだ。遅れを取り戻さなくてはいけなかった。
 興味を持った美大の入試課題は「自分が最も魅力的だと感じる異性の肖像画」だった。私は正直困惑した。こう言っちゃ悪いけれど、私の周りには魅力的な異性なんていない。残念ながら彼氏もいない。
 父親だとか兄貴(家では不本意ながらお兄様と呼んでいる)を描くことも考えてみた。兄貴はそこそこ見栄えする顔だし、お母さんには黙っていて欲しい、と頼めば妹の頼みを聞いてくれる(都合の)いいやつでもあった。
 でも私が本当に描きたいのは、やっぱりあの美術館で出会った油絵なのだ。木の椅子に腰かけて肘をついた、影のある男性の横顔。ほとんど恋をしているくらい、私はその絵に憧れを抱いていた。
「ねえ、誰か心当たりはない?」
「そうですねえ……」
 絵筆を握る私の横で、愛理子さんは炬燵に入ってプリッツを食べていた。彼女の部屋のクローゼットには緑色のパッケージが段ボールごと積まれており、まさに壮観だった。
「ちょっと旅行にでも出掛けたらどうです? ほら、旅は道連れっていいますし」
「旅行先でナンパするの?」
「お嬢様かわいいから大丈夫ですよー」
「それはまぁ……そうよね」
 彼氏はいないけれど、それとこれとは別なのである。
「でも、行き先はどこにしよう」
「それなら私の実家に連絡しておきますね。長野はのどかでいいところですよー」
 ちょうど私の学校は秋休みが近付いていた。夏休みを少し削って設けられた、有給休暇みたいなものだ。私はさっそく、「スネ子ちゃんと一緒に軽井沢の別荘に行ってきます」という内容の置き手紙をした。
 かくして、家出少女の一人旅が始まるというわけである。まさか、愛理子さんの実家がこんなに田舎だとは知らなかったけれど……。
 とりあえずナンパは成功(?)した。栄えある第一モデル候補は、私のことなど忘れているかのように、淀みなく歩き続ける。

                  ***

「ねえ、ちょっと休まない?」
 しばらく歩いたところで、私は限界を感じた。限界と言うならそもそもさっきから限界なのだ。それでもこの男、まったくペースを緩めようとしない。延々と続く登りの斜面にまったく息を乱していない。人間とは思えないタフさである。
「ねえってば。聞こえてる?」
 森がよりいっそう深くなってきた。月の光は鬱蒼と茂る木々の葉に覆われて届かない。視界が悪く、足元を走る木の根に躓いて転びそうになる。視覚というのは重要だ。暗闇は人をひどく消耗させる。
「……ればいい」
 前を向いたまま、黒い背中が何か呟いた。
「うん?」
「引き返したいならそうすればいい」
「これだけ奥に入っちゃったら帰れるもんも帰れないっての」
 そうだ。いま青年が振り返ってナイフを振りかざしても、私はどこにも逃げられない。冷静になってみると、自分がかなり危ない橋を渡っていることを実感した。かといって、彼を見失えば野犬の美味しい餌になるだけである。
 斜面を登り切ると、目の前に開けた場所が広がった。その奥の方に石造りの建物が鎮座している。
「これが、あなたの家?」
 彼は私の言葉を無視して、庭を横切った。屋敷の周囲は雑草やツタが生い茂り、廃墟のように寂しげだった。のっぺりとした石の壁が、月明かりに白く光っている。
 背後から、鳥の羽ばたきと鋭い鳴き声が聞こえた。彼と離れてしまうと、なんだか急に心細くなった。
「今晩、泊めてくれるんでしょう?」
 彼に追いすがってちょっぴり上品に尋ねてみた。上目遣いは効果がないと分かったから、今度はちょっと大人の表情を演出する。
「……外は寒いだろう」
 ――よし、今度こそ釣れた
 宿を確保できたことに安心していると、
「今、毛布を持ってきてやる」
 彼は私を外に残して中に入った。……人間とは思えない非情さである。
「結構です。勝手に上がらせて頂くので」

 屋敷の中は、外からの印象通りに古びていた。特に装飾のない柱がいくつも廊下に並び、床には黒いカーペットが敷いてあった。隅の方には埃が積もっており、何年も掃除をしていないように見える。
 嫌な音を立てて入り口のドアが閉まると、月の光を失った屋敷の中は真っ暗になった。まるで巨大な闇に呑まれたような心地がして、私はとっさに身構える。
「どうした」
「いや、ちょっと怖くて」
「暗闇が怖いのか」
 目が慣れてくると、おぼろげながら青年の輪郭が見えてきた。彼は廊下の壁に近付き、マッチのようなものを擦って火を付けた。
 ランタンに火が灯り、周囲がほんのりと明るくなる。それでもまだ屋敷の中は薄暗く、不気味な静けさに満たされている。円を描くように広がるエントランスから、廊下が三つ放射状に伸びていた。
 燭台を手に取り、彼は右側の廊下に進んだ。
「客室はこっちにある」
「え? あ、はい」
 石で作られているからだろうか、屋敷の中はなんだかうすら寒い。廊下の壁には石膏でできた像や剣を携えた甲冑が整然と並んでおり、常に監視されているような錯覚を覚える。
 青年の持つ蝋燭の明かりが彼の後ろ姿をオレンジ色に照らしていた。なんだかまるで、地獄への道先案内人のようだと思った。
「ここがお前の眠る部屋だ」
 突然彼に振り向かれて、私は心臓が止まりそうになった。「お前の眠る」という言葉に他意はないと信じたいけれど、私は彼に首を絞められて眠りにつく自分を想像していた。
「ありがとう」
 軋む音を立ててゆっくりと扉が開いた。彼が部屋の中に歩を進める。
 私も慌てて彼を追いかけた――次の瞬間、目の前に何かが降って来た。
「きゃあっ!」
 体が瞬間的に硬直した。目の前に何か、何か嫌なものがぶら下がっている。逃げようとしても、足がすくんで動けない。
 彼がゆっくりとこちらに近付いてきた。
「……驚くことはない。ただの蜘蛛だ」
 扉の脇に設けられたランタンに火が灯り、ようやく部屋全体が明るくなった。客室とは名ばかりの室内には、蜘蛛の巣が縦横無尽に張り巡らされていた。
「あたしにこんなところで寝ろっていうわけ?」
「外よりは安全だろう。この蜘蛛に毒はない」
 お腹に黄色と黒の縞模様。見た目には十分毒々しい。
「信じらんない……」
「不満か?」
「不満も不満、大不満よ。どうしてこんなに汚いわけ」
「何年も使っていなかった」
 部屋の隅に古そうな揺り椅子と、布が被せられた長方形の箱が置いてあった。ずいぶん大きな箱だ。何が入っているのだろう。
 彼の持つ金属製の燭台に、一匹の蛾が留まって羽を休めた。
「……お願いだから別の部屋にして」
「そうか」
 私たちは元来た道を引き返し、エントランスから左側の廊下に進んだ。建物自体は左右対称的な作りをしているらしく、先ほど右側の廊下の奥にあったのと同じ位置に、部屋の扉があった。
「ここは私の書斎だ」
「もう何でもいいわよ。今度はゴキブリとか出てこないでしょうね」
「ごき……? 何だそれは」
 彼は首を傾げた。まさか、この世にゴキブリを知らない人間がいるなんて。私はひどくショックを受けた。てっきり、あれは人類共通の敵だと思っていたのに。
「夜になると出てくる、嫌われ者よ」
 私の答えを聞くと、彼は何か思案するように天井を見上げた。
「……あるいは」
「うん?」
「あるいは、そうなのかもしれない」
 意味が分からなかったが、それを尋ねる前に彼は部屋を出て行ってしまった。

 書斎の中は割と綺麗に掃除されていた。青年は一人でこの屋敷に住んでいるのだろうか。そういえば、先ほどから人の気配が全くない。
 左腕に巻いた時計を見ると、時刻は深夜零時を回っていた。
 天井が高く、入り口から見て右側に巨大な本棚がある。奥に置かれた机の表面は、漆が塗られたように光沢があった。その上に万年筆とわら紙の束が散らばっている。
 ずいぶん古いらしく、わら紙はどれも薄黄色に色褪せていた。めくってみると、丁寧な筆跡でつらつらと文字が書かれていた。
 ――語る相手がいなくなったので、私は祖母の使っていた書斎でこの私記を書いている
 どうやら彼が書いた私記のようだ。内容はなんだか吸血鬼物語のようで不気味だった。彼の執筆する小説なのかもしれない。舞台はこの屋敷のようだし、物語の主人公が祖母を失くしてから一人で暮らしていることなどは、彼の暮らしぶりと重なる。
 先を読もうと思ったけれど、やめた。
 下着を脱いで、リュックから着替えと「うまい棒」を取り出す。
「まさに足が棒のようだわ……」
 今日はもうとにかく疲れていた。書斎の隅に設けられたハンモックに横たわると、私は深い眠りにつき、そのまま夢も見ずに眠った。

                  私記

 ……それから毎日、ユウは一人だけで河原へやってくるようになった。私が待っていることもあったし、ユウの方が先に河原で遊んでいることもあった。
 祖母が亡くなってから私は退屈を持て余していたので、それはよい習慣だった。何より私は、人間と話をするということを楽しんでいた。
 河原には背の高い植物や水辺にしか咲かない花がいくつも咲いていた。足元には細かな石がいくつも並び、丸いものから角張ったものまでいろいろあった。川面を見つめながら私はユウの足音を待った。
 こんばんは。ユウは、河原にやってくるとそう言った。
 私と祖母の間には、挨拶という習慣がなかった。しかし、人間たちがそういった手段でコミュニケーションを交わすことは知っていた。ぎこちなく、「こんばんは」と返すと、なんだか心の深い所が通じ合った気がした。
 ユウに、幼い頃の私が夢中になった遊びを披露した。なるべく平坦な石を選び、川面に向かって浅い角度で投げる。すると石は水面を飛び跳ねて、川の向こう岸まで滑るように進む。単純な遊びだったが、かつての私と同じようにユウは手を叩いて喜んだ。
 たわいのないやり取りの中で育まれた感情は、私にとって新鮮でさわやかな体験だった。そうやってユウと一緒に過ごしていると、心が安らいだ。
 ユウはしばらく私の真似をして石を投げていたが、うまくいかなかった。ユウの投げた石はぽちゃりと音を立てて水の中に沈んだ。すぐにユウは飽きてしまい、川の傍に屈んで何かを始めた。
 ユウは花や植物が好きだった。川の傍に自生している花を摘んで、それらを二つの束に選り分けると、交互に結びつけて輪のように繋いでいた。私はそれを眺めながら、人間が草花を愛でる理由について考えた。私には花の違いがよく分からなかった。
 一つ一つ結ばれていった花は、ちょうど手のひらに乗るくらいの長さでひと周りの輪になった。それを頭の上に載せて、ユウは得意げに私を見た。
 しっかりと編み込まれた花の連なりが、夜風に揺れていた。五枚の花弁は茎の中心から放射状に伸びており、先が細く裂けていた。それはまるで、冬の空から舞い降りた粉雪のようだった。
 権威のある人間は頭の上に冠を戴くという習慣を知っていたので、お前は王族なのか、と尋ねた。ユウは首を傾げたまま、ころころと笑った。
 おじさんの分も作ってあげる。
 そう言って、ユウは上流の方に花を探しに行った。

 ……ユウと出会ってから一つの季節が巡り、外を歩くと肌に冷気を感じるようになった。寒くなると森の獣たちも活動を抑えるので、渇きを満たすための獲物は見つけにくくなる。その日は諦めて、河原に向かった。
 河原に座り込んだユウは、膝を立てて顔を埋めていた。
 人間も私たちと同じ恒温動物であるから、寒さを感じるはずだ。しかし、ユウの服装は寒さを凌ぐために十分な厚みを持っていなかった。
 私は自分が着ている上着を脱いで、肩にかけてやった。
 ありがとう。
 感謝をする時に使う挨拶を口にして、ユウは笑った。それなのに、いつもと違う表情に見えた。よく見ると、ユウの目元から雨水のようなものが溢れていた。流れる水の筋が、頬を濡らして顎先から滴り落ちた。
 気が付くとユウの頬に見慣れない染みが付いていた。私はそれが羽虫だと思ったので、そっと手を伸ばした。
 ユウは激しく首を振り、私の手を拒んだ。滑り落ちる雨水はますます流れを早くした。私はどうしていいか分からずに、戸惑った。
 星のない空を薄い雲が流れ、その奥に隠れされた月は朧に霞んでいた。林立する木々の梢を鳴らして、冷たい風が渡って行った。
 ユウの眉根には悲痛な皺が寄っていた。私が理由を尋ねると、ユウは洟をすすり上げて麓での暮らしについて話した。
 どうやらユウには母親がいないようだった。父親は猟師をしており、山に分け入っては獣を撃つことを生業としていた。
 昼間の父親はよく仕事をして、周りに住む人間から信頼されているようだった。それが夜になると血相を変え、ユウを怒鳴り散らすという。いつも父親が口に咥えている物には火が付いており、その煙はひどい臭いがするらしい。
 頬についた染みは、父親がそれをユウに押し付けて出来た跡だった。
 人間は立ち昇る陽と共に目覚め、それが沈む頃に眠る生き物だと聞いていた。しかし、ユウは違った。多くの時間を私と河原で過ごしていた。私はそれまで、そのことを疑問に思わなかった。
 ユウは逃げていたのだ。ひとたび父親の中に潜む凶暴な獣が目覚めれば、ユウには抗うことができない。父親が眠りにつくまで、ユウは家を抜け出していた。
 そのような所業を、私には理解できなかった。それは自分に両親がいないからなのか、それとも私が人間ではないからなのか、よく分からない。
 私は両親の愛情を知らなかった。しかし、両親の生きた証が私なのだと、私は祖母から教えられていた。私の知る限り、それは言葉を持たない獣たちでも同じだった。
 ユウには父親がいたのだ。それなのになぜ、あの日のユウは肩を震わせていたのだろう。
 少しずつ分かりかけていた人間のことが、私はまた分からなくなった。

                  ***

 目が覚めると、目の前に高い天井があった。ぼんやりとした頭で記憶を手繰り寄せる。しばらく考えて、昨日の晩に河原で出会った青年の屋敷だと思い当たった。
 蝋燭の炎は消えかけており、室内は薄暗い。なんだか時間感覚が曖昧だ。腕時計の針は朝の九時を指していた。私は立ち上がって、大きく伸びをする。
 右手に蝋燭の火を持って廊下に出てみる。もう外は朝のはずなのに、屋敷の中は真っ暗だった。
 そうなのだ。昨晩にも思ったけれど、この屋敷には月明かりが忍び込む隙間すらない。窓がまったく作り込まれていない……。
 こんな地下シェルターみたいな場所で暮らしていたら、そのうち気がおかしくなりそうだと思った。
 石造りの家は温まりにくく冷めにくいという。確かにその通りで、壁からひやりとした冷気が襲ってきた。私は両手で肩を抱きながら、彼の姿を探した。
 昨晩と同じく、物音一つ聞こえない。自分の立てた足音や衣擦れの音に身構えてしまうほどの、完全な無音。試験会場だとか図書館の比じゃない。
 エントランスに着いた。放射状に伸びた三本の廊下のうち右側の奥が客室、歩いてきた左側が書斎に繋がっている。残った正面の太い廊下が彼の寝室に続いているのだろう。
 途中でいくつか扉を開いたが、食事をするための部屋や物置があるだけで、中に青年はいなかった。物置の棚に、森の中で目印になっていた赤と黄色の紐が置いてあった。
 やがて、どこまでも続くように思えた廊下の奥に木製で両開きの扉を見つけた。両手に体重をかけて、ゆっくりと押してみる。
 絵本で見るような異国情緒溢れる内装に、私はちょっと感動した。
 壁にはタペストリーや古い絵画が飾られ、奥に見える暖炉は積まれた煉瓦を漆喰で塗り固めて作られていた。その上に高さの違う蝋台がいくつか並べられている。
 蝋燭の火は消えていたが、暖炉の中で炭になった木材にはちろちろと炎が残っていた。彼は椅子に腰かけて目を閉じている。
「あの、昨晩はありがとう」
 声をかけると、彼は薄く目を開けた。
「……誰だ」
「寝ぼけないでよ。昨日泊めてくれたじゃない」
 彼はしばらく考えたようにして、そうだったな、と呟いた。
「まだ起きないの?」
「私は寝る」
「じゃあ起きてからでいいんだけど――どのくらい寝るつもり?」
「夜になるまで」
 あ、そうなんだ……っておい。
「昨日ずっと起きてたわけ?」
「昨日ではなく、毎日だ」
「いや、それ威張って言えることじゃないと思うんですけど」
 私が呆れて言うと、彼は初めて人間らしい表情を浮かべた。
「お前たちは、そうだったな」
「お前たち、ってどういう……」
 意味深な笑みを口元に残して、彼は瞼を下ろした。
「とにかく、私は夜になるまで眠る。それまでこの部屋には入るな」
 いいか? そう念を押されて、私はしぶしぶ頷いた。

 今日一日、やることがなくなった。それにしても、青年はどれだけ自堕落な生活をしているんだろう。仕事をしていないのだろうか。そもそも、こんな山奥でどうやって生計を立てているのか。いちいち好奇心をくすぐる。
 好奇心と言えば、昨晩客室に案内された時、部屋の中に巨大な箱が置かれていたことを思い出す。あれには何が入っているのだろう。どうせ時間は余るほどあるし、探検がてらそこに行ってみることにした。
 右側の廊下に沿って歩き、いちいち不気味な石膏像と甲冑の間を抜けると、昨晩と同じドアの前に行き着いた。
「また蜘蛛出てきたらやだなぁ……」
 行儀は悪いけれど、のけ反りながら扉を足で押し開ける。
 室内は暗かった。昨晩彼がそうしたように、入口の燭台に火を灯す。湿った部屋の中は黴臭く、空気が淀んでいるような気がした。
 部屋の隅に草編みの揺り椅子が置かれていた。草編みの……。つい最近、聞いたような気がするけれど、思い出せない。気を取り直して、箱の上に掛けられた布を引き剥がす。
「――ひっ」
 私は尻餅をついて後ろに倒れ込んだ。足が震えて立ち上がれなかった。服が汚れるのも構わずに、埃に覆われた床の上を這って後ずさりする。
 箱の中に人間の形をした――死体が入っていた。既に白骨化しているところを見ると、何年も放置されていたようだ。どうしてこんなものが……。
 混乱したまま後退を続けていたら、背中になにか固いものが当たった。びくついて首を後ろに回すと、無表情の青年が背後に立っていた。
「……一つ、言い忘れていた」
 いつの間にそこにいたのだろう。彼は続けた。
「別に私はお前をどうこうしようとは思っていない。ただ、麓に降りてから、私がここに住んでいたことは誰にも言わない方がいい」
 分かるだろう? と彼は言った。私の喉の奥から、滑稽なくらい情けない声が出た。
「あなたは、何なの?」
 昨晩、書斎で読んだ私記を思い出す。バカな想像だと思った。ただ、あの内容が本当のことだとすれば、屋敷に窓がない理由や、青年がこんな山奥で孤独に暮らしていることも納得できる。だとしたらこの箱は……。
「夜になると出てくる、嫌われ者」
 私が昨晩言ったことを復唱して、彼は廊下の奥に消えた。

                  ***

 屋敷の外に出ると眩しい光が視界を覆った。暖かな陽が降り注ぐ、完璧な午後だった。昨日の夜に歩いた時は分からなかったけれど、ここはとても見晴らしがいい。
 庭には何本かリンゴの樹が植えられていた。そこに赤い実が付いている。まだ下の方は緑がかっており、スーパーで買うようなものに比べるとずいぶん不格好だった。
 遠く山の端は背の高い杉や楓の木立が並び、真っ直ぐ空へと伸びる幹から淡い緑の葉を広げていた。もう少し秋が深まれば、楓だけが赤く色付き、美しい山間の風景が望めるのだろう。
 透き通るように輝く葉の緑が目に優しい。息を吸い込むと森の香りがした。
 わーっと大声を出してみる。やまびこは返ってきたのかどうか分からなかった。
 非現実的な可能性の一つとして、青年は吸血鬼かもしれない。なんだか夢の中みたいな話だけれど、それならいつまでもここにいるのは危険だ。
 それは分かっているのに、私はこうも考えていた。
 ――吸血鬼の肖像画を描けるなんて、千載一遇のチャンスじゃない
 そう、あたしってば基本的にポジティブなのだ(これだから温室育ちのお嬢様は……、とは言わせない)。
 彼が人間ではないことに私はむしろ納得している。一目見た時から、彼には超然とした雰囲気を感じていた。他者を一切必要としない、完結した存在。彼の素っ気ない態度は、そもそも彼が現世から切り離された存在だというなら、最もだと思った。
 油絵の中に描かれた男性の、厭世的な横顔を思い出す。それを理想としてイメージする私にとって、人間や社会と距離を置く彼のような客体は魅力的だった。
 あの油絵のような肖像画を、私は描いてみたい。
 ということで、私は逃げ出すことよりも、むしろ長くこの屋敷に滞在する方を選んだ。そうと決まれば麓に降りて生活用品を揃えなくてはいけない。
 昼なら視界は開けているし、遭難することもないだろうと考えて森の中に入った。風に揺れる木漏れ日が頬を照らす。風の通り抜ける心地良い音を聞きながら、木々が作り出す空間を歩いた。
 ところどころの樹に赤や黄色の紐が括りつけられている。確か昨日、青年は黄色い紐の樹にぶつかると左に、赤色は右に曲がっていた。下る場合は逆なので、黄色は右に、赤は左に曲がればいいはずだ。
 やがて川の音が聞こえてくる。昨日の夜は登り坂だったから長く感じたけれど、下ってみると案外すぐだった。
 頭上で午後の太陽が明るく輝いていた。木綿のタートルネックを脱いで、首筋を日光にさらした。気温はぐんぐんと上昇し、背中を汗が流れ落ちた。
 青年の言っていた通りに、川に沿って道を下ると、だんだん前方に集落のようなものが見えてきた。山の間にはたくさんの鉄塔が立ち並び、その間を電線がギターの弦のように繋いでいた。
 下りきった場所は、咲きかけの彼岸花が並ぶ畦道だった。刈り入れ前の稲穂が黄金色の風呂敷を広げ、そよ風に揺れていた。
 日本のどこにでもありそうな、田舎の風景だった。
 茅葺き屋根の家屋や鍬の掛けられた小屋の脇を通り過ぎ、ようやく舗装された道に出た。道は緩やかな下り坂になっており、何軒かの家々へと続いていた。
 正面からトラックが走って来たのを見て、私は右手を挙げた。
「すみません、この辺りの方ですか?」
 大きな声で話しかけると、工事用の黄色いヘルメットを被ったおじさんが、運転席から身を乗り出した。
「お嬢ちゃん、見ない顔だね。どこから来たんだい?」
 ああ……人間の挨拶はやっぱりこうよね。どこから来た、じゃないわよ、ホント。
「東京から。あの、この辺りにコンビニかスーパーあります?」
「山越えればあるけども、この村にはないさな」
 がーん。頭の上に金ダライが落ちてきたような気分だった。
「じゃあこの村の人は、シャンプーとか石鹸とか、生活用品みたいなものはどこで買うんです?」
「車があれば山越えて隣町に行くよ。それかこの道を真っ直ぐ行きゃあ、花の街商店街にいくつか小さい店があるさね。俺はまだ昼休みで暇だから、乗せてってやろうか?」
「いえ、お気遣いなく。このままこの道を真っ直ぐですね? 分かりました、ありがとうございます」
 私は慌てて頭を下げて、おじさんの好意を断った。車には乗れない。たぶん、今の私は人間凶器に近い悪臭を放っているのだ。面と向かって男性に「臭い」などと言われたら、あまりのショックに軽く死ねる。
「お嬢ちゃんみたいに都会から来た若い子は珍しいから、商店街の連中驚くぞうー」
 おじさんはからからと笑い、窓から首を引っ込めた。立ち去るトラックに向かって私は最大限の微笑みを作り、ため息をついた。
「早くお風呂入りたい……」

 丸く弧を描いた透明な雨除けの下で、ところどころシャッターの降りた商店が立ち並ぶ花の街商店街は、まぁそこそこに寂れつつ、そこそこに繁盛していた。
 すれ違う人たちの平均年齢は確実に東京の二倍近くあるけれど、通勤中のサラリーマンなんかよりその老人たちの方が断然生き生きしていた。一体どっちが幸せなのかなぁ、と少し考えさせられる。
「いいからこれも持っていき」
「え、いいんですか?」
 気の良い薬屋のおばさん(田舎のおばさんは都会と違って若い子にも優しい)に石鹸をサービスしてもらい、上機嫌で帰路についた頃はもう日が暮れていた。
 道を歩きながら路肩を眺めていると、野放図に草や花木が生えていて退屈しなかった。途中に小さなバス亭があった。屋根のついた小屋の下に「朝日乳業」と書かれたベンチが置かれていた。
 ベンチに腰かけて、キュロットスカートのしなやかな生地を触りながら田舎町の風景を眺めた。薄手のセーターは秋の夕刻には少し肌寒い。
 真っ赤に染まる夕焼け空に、カラスが連れ立って飛んでいた。辺りはもう薄暗い。
 夜になったら森の中は危険になる。昨晩は青年と一緒だったけれど、今日は一人であの森を抜けなければいけないのだ。
 まぁ、危険な吸血鬼がいる屋敷に戻ろうとしているくせに、森で迷うことを怖がるのもどうかと思うけれど。
 彼岸花の並ぶ土手まで戻ってくると、路肩に昼間出会ったトラックが止まっているのが見えた。ナンバーが同じなので間違いない。
「おや、お嬢ちゃん。シャンプーは買えたかね」
 土手の下からひょっこり顔を覗かせたのは、あの黄色いヘルメットのおじさんだった。
「はい、おかげさまで。お仕事お疲れ様でした」
 手に提げたビニール袋を上げて答えると、おじさんは口元を緩めて親しげに笑った。
「そりゃあ良かったね。こっちもようやく補強工事の目処がついてさ。今までにも何度か崩れてるんだけど、土砂で山道が塞がれちゃうと村の人間はどこにも行けないからねえ」
 昨日歩いた、落石注意の看板があった場所だと思い当たった。斜面が網のようなもので補強されていたことを思い出す。
「それで、これからどこに行くんだい。こっちは山しかないよ」
「川上の方に知り合いの家があるんです」
「地元の人間に嘘を言っちゃいけないなあ。この先はずうっとただの森さね。夜は野犬が出るから危ないよ。ちょっと前にもね、小学生くらいの子供がいなくなって大変だったんだから」
 ――麓に降りてから、私がここに住んでいたことは誰にも言わない方がいい
 迂闊だった。私は内心で臍を噛む。
「そうなんですか」
 適当に話を切り上げたかった。早くしないと日が暮れてしまう。
「そうそう、確かあの時はもう彼岸花が枯れてたから、秋の終わり頃だったかね。子供が一人でいなくなって、親父さんが近所を探してたんだけども、山ん中探すって言ったきり二人とも戻って来なかったなあ。ありゃたぶん野犬の餌になったんだわ」
「へえー、それは怖いですね。それじゃ、私はこれで」
 私はカニのような横歩きでトラックから離れて、おじさんが車に乗り込む様子を伺った。エンジンが掛かって、排気音が空気を震わせる。
「年寄りの言うことは聞いとくもんだよー」
 バックミラーに向かって手を振る。車は私の歩いてきた道を走り去っていった。
「ごめんなさい」
 おじさんを見送って、私は森に向き直った。

                  ***

 部屋の扉を勢い良く開けると、青年は眠たげに視線を寄越して、ほんの少しだけ驚きの表情を見せた。昨日の夜はリードされてばかりだったから、ちょっとだけ彼を出し抜けたことが小気味良かった。
「なぜ戻ってきた?」
 どこか咎めるような口調だった。私は買ってきた物をその場に広げる。
 部屋の隅で燃える暖炉の炎が、煌々と彼の横顔を照らしている。
「いいじゃない、あたしの勝手だし。部屋余ってるでしょ」
「あれは私の書斎だが」
「夜私が寝てる間に使えばいいわよ。別に明るくても文句言わないから」
 彼は首をひねると、椅子に体を沈めて言った。
「今朝、箱の中を見たはずだ。お前は命が惜しくないのか」
 そのことなら、一つ思い当たることがあった。
「そんな風に脅したって無駄よ。あのご遺体、亡くなったお祖母さんのものでしょう? 草を編んで作られた揺り椅子、っていうのが私記に書いてあったから、ピンと来たわ」
 もちろんそれは、あの私記の内容が現実の話なら、という前提だけど。
「それでも、私が人間ではないことくらい分かっただろう」
 彼は笑いもせず、怒りもしない。まるで昆虫を観察するような目で私を見つめていた。そんな顔をされると、さすがにちょっと怖い。
「んー、微妙。怖いような、でも怖いもの見たさの好奇心が勝ってるような。ぶっちゃけあたし、ちょっと飛んでるところあるから、よく分かんないな。そもそもあんな与太話を信じろって方が無理あるわよ。とにかく、これだけは言える。あなたは私にとって理想のモデルなの」
 彼は首を傾げて、よく分からない、といったような素振りを見せた。
「モデル……」
「そう、油絵のモデル。あたしは絵を描くために戻って来たの。嫌とは言わせないわよ。引き篭もりニートのくせに」
 たぶんニートの意味は分かっていないと思うけれど、彼は黙ったまま何か考えていた。もしこれで断られたらすっぱり諦めるつもりでいた。女の子が押しかけて断る男なんて、こっちから願い下げである。
「お前は、少し変わっている」
「ええ、十分変わってるわよ。あなたも私も」
 いつも変わらない彼の表情が、ほんの少し緩んだような気がした。
「そうか」
 どうやらこれは、彼なりのオーケーということらしい。
「じゃあ、もうしばらく泊めてもらうってことで」
「好きにすればいい」
 彼は、書斎を私に貸してくれると言った。ようやく宿の確保ができたことに安心する。
 そこで私は大切なことを思い出し、ダメもとで訊いてみた。
「……お風呂とか、あったりする?」

 ここに戻ってきて本当に良かったと、私は感動した。
 目の前にはもくもくと白い湯気が立ち昇っている。冷え切った肌を溶かすように、私はゆっくりとお湯の中に体を沈めた。
 ――裏山に暖かい水の湧く泉がある
 屋敷の裏手には、切り立った岩壁が迫っている。彼に案内された先は、その脇を登った頂上だった。ごつごつとした岩肌の間にぼこぼこと温泉が湧き出しており、眼下に渓谷が広がっていた。たぶん、昼間に来たら絶景なんだろう。
 無制限泊、無料、温泉付きの宿。一時は蜘蛛屋敷に泊まることになるかとひやひやしたけれど、なかなかどうしていいところじゃない。
 口元だけお湯の中に沈めて、ぶくぶくと泡をたててみる。久しぶりのお風呂が天然温泉だなんて、幸せを噛みしめているだけで笑みが漏れてくる。
 疲れ切った身体に暖かさが染み渡っていく。硫黄泉なのだろうか、少し鼻につんとくるような臭いがする。右手で左の腕を撫でると、浸かっている部分がぬるぬるした。
「あららー。美肌効果とかもあったりして? もう、あたしってばこれ以上綺麗になってどうすんのよ」
 どこかで野鳥が、きぃ、と鳴いた。……一人で言っていると、結構虚しい。
 そういえば、机の上の置き手紙を読んだ母親は今頃どうしているのだろう。友人の家に電話をかけまくって、娘の私が行方不明だと知るなり警察に捜索願を出しただろうか。 それとも、愛理子さんが適当に話を合わせてくれて、私が欠けた家族は何の問題もなく日々を過ごしているのだろうか……。
 ――別にあたしは一人でやっていける
 濡れたタオルを頭の上に載せた。昨日今日と山歩きばかりしていたから、全身に疲れが溜まっているのが分かる。それが湯気と共に消えて行くようだった。
 久しぶりにリラックスしたせいだろうか、なんだかそれまで張りつめていた感情のタガみたいなものが緩んで、中の物がどっと溢れ出してしまった。
「やだ、あたしなんで泣いて……」
 本当は不安でしょうがない。一人で旅をすることなんて初めてだったし、電車や徒歩で知らない場所を歩くたびに、自分の甘さや現実の厳しさを思い知った。お嬢様育ちなんて嫌だと思ってるのは本当だけど、なんだかんだ私は大切に育てられたのだと実感する。
 お母さんの作ったオムライスの味を思い出して、少し泣けた。あれだけは愛理子さんの代わりにお母さんが作っていたのだ。
 逆に言うと、お母さんにはそれしかレパートリーがなかったのかもしれないけれど――私はその個性的な味が大好きだった。
 風船に空気を入れていくみたいに、家に帰りたいと思う気持ちが、心の隅っこの辺りで膨れ上がっていった。
 ぐうー。
 お腹が鳴った。
「……お風呂出たらご飯かな」

                  私記

 ……しんと底冷えする季節になっても、ユウは絶えることなく河原にやってきた。私にとってそのやり取りは大切であったし、ユウにとってもそれは同じようだった。
 祖母が亡くなってから私の元にやってきた孤独は、初めて会った者のようでもないし、まして友人と言うほどのものでもなく、いつも空気のように私の傍にあった。そんな中、ユウと過ごすささやかな時間は、冷えていく心にほっと明かりが灯るようなものだった。
 私たちは共に孤独だった。それでいて、何一つ同じではなかった。
 そのことを考える度、私は突然息もできないほど苦しくなり、心臓をあらゆる方向から押さえつけられているような痛みに襲われた。
 私はなぜ人間に生まれなかったのだろう。なぜ汚らわしく獣の体液を欲するのだろう。もし私が人間であったなら、怖ろしいこと全てからユウのことを守り、その悲しみに心を砕くことができる。
 しかし、私は「人」ではない。
 それから私は、獣を探すことをやめた。
 依然として私の喉は渇きを訴え、獣の柔肌に牙を立てよと疼く。だが、それをしようとするたび、体はひどい吐き気を催した。私は何かを怖れていた。それがユウに抱いている感情に関係しているということは分かっていた。
 私はいったい、どうしてしまったのだろう。

 ……ユウは、あまり笑わなくなった。
 石を川に投げて見せても、ユウは以前のようには喜ばなくなった。川の周辺に咲く花はほとんど枯れてしまったので、花を摘むこともやめた。すぐそこまで、凍えるような冬が近付いていた。
 私は寂しく思い、野鳥の鳴き声を真似たり、森に生えていた不思議な模様の笠がついた植物を見せたりした。
 珍しいものを見たときには、以前と同じようにはしゃいだ声を上げる。しかし、それもすぐに寂しげな顔に戻ってしまった。晩秋の夜は、人間の子供にはあまりに寒すぎた。
 きちんと食事をとっていないのか、ユウはだんだんと痩せ細っていった。父親が十分な食事を与えていないのかもしれないと考えた。
 お腹が空いたと言うので、私は川に入り、何匹か魚を掴み取ってやった。
 ユウと一緒に森の中を歩き、落ちている枝を集めた。落ち葉と藁を下に敷いて、そこに火を付けると、徐々に炎が大きくなった。ユウは嬉しそうな顔をした。それを見て、私もようやく安心することができた。
 燻ぶる炎の上で枝に刺した魚を焼くと、香ばしい匂いが辺りに漂った。私たちはそこで暖を取りながら、焼けた魚を口にした。火は十分に通っており、噛むとうまみのある汁が滲み出た。ユウは、「おいしい」と言った。
 このまましばらく、時が止まればいいと思った。
 空に浮かぶ月は枝の合間にすっぽりと入って、じりじりと空を昇って行く。その円盤が地上に投げかける明かりだけが、私とユウを照らす全てだった。
 やがて炎が消えかけてきた。ユウは新しい枝や落ち葉を拾うため、森に入っていった。あまり遠くまで行ってはいけないと声をかけて、私はその場に座っていた。
 しばらく焚火に枝をくべていると、森の中から耳をつんざくような叫び声が聞こえた。聞き間違えるはずはなかった。ユウのものだった。
 私ははやる気持ちを抑えながら、森に入った。ユウの声はそれきり聞こえなくなった。不安に息が詰まり、早く探さなくてはと焦った。
 川の上流に進んだ場所で、ユウと獣が対峙していた。ユウは片腕を押さえていた。
 腕に傷を負っている。それを見た瞬間、私の頭は沸騰したように熱くなり、気が付くと獣に牙を立てていた。
 私は無我夢中で喉の渇きを潤した。燃えるような怒りと共に、それまで抑え付けていた欲望が暴ぜるのを感じた。
 はっと意識を取り戻すと、顎の下に垂れ下がる肉の塊があった。足元には首の付け根を抉られた獣が転がっていた。
 獣を殺したのは、初めてのことだった。
 こんなことをするつもりはなかった。命を摘み取るようなことは絶対にしないと決めていた。それなのに、私は自分の中で荒れ狂う本能を抑えることができなかった。
 ユウは……怯えていた。
 その場に座り込み、私のことを怖ろしい者を見るような目で見つめていた。
 私は自覚した。私は人から怖れられ、迫害され、忌み嫌われた者たちの末裔。どんなにそれを否定しようとも、それは生まれた時から消えない刻印のようなものだった。
 不意に私の瞼の間から何か熱いものが溢れ出してきた。激しく渦巻いた感情に頭の中が支配されて、私は膝から崩れ落ちた。
 冷たい何かが、私の頬に触れた。
 怖くないよ。
 それはユウの手のひらだった。……怖くないよ。その言葉をユウは何度も繰り返した。私はすっかり役に立たなくなった喉を必死で動かして、「私は怖ろしい」と答えた。
 ユウは、「どうして?」と言って首を傾げた。その時、私はようやく理解した。
 私が怖れているのは、自らの孤独だったのだと。

 ……ユウの片腕には、獣の鋭い歯によって付けられた浅い傷が残っていた。私はそれを自らの痛みのように感じた。それでいて、その傷跡から流れ出すものには目を向けまいとした。
 屋敷に戻れば、傷の手当てをするための道具が揃っていた。私はユウを両腕に抱えて、連れていくことにした。
 暗い森を進むと、ユウの小さな手がぎゅっと私の袖を握り締めた。私がついているから心配ないと言ってやると、安心したようにユウは体の力を抜いた。
 屋敷の部屋に腰を落ち着けると、祖母に教えてもらったやり方で薬を作り、ユウの腕にそれを塗った。傷口が沁みるのかユウは少し顔をしかめたが、その後は歯を食いしばって我慢しているようだった。
 ユウの服は獣に襲われたことで土と落ち葉に汚れていた。私は傷に土が付いているのは良くないことだと知っていたので、ユウに服を脱ぐように言った。ユウはひどく躊躇った。
 傷口に触れないように私が脱ぐのを手伝った。
 服の下から現れたのは、おびただしい数の傷跡だった。
 背中に刃物で付けられたような深い傷が残っており、左肩にはまだ新しい痣もあった。幾つもの憎しみが、まるで呪詛のようにユウの体に刻み付けられていた。その禍々しさに、私は人間という存在の怖ろしさを感じた。
 痣のあった場所に手を当てて撫でてやると、ユウは喘ぐようにくぐもった声を出した。痛いのか、と尋ねると、ユウは首を横に振った。
 暖炉の火に当たりながら、私はユウに色々なことを話した。私に両親がいないことや、私が獣を襲わねばならない理由。そのどれも、ユウは疑うことを知らない無垢な瞳で受け止めていた。
 話すことは尽きなかった。祖母が亡くなってからずっと、私はこうやって誰かに自分の話を聞いてもらうことを望んでいた。筆を紙に走らせてこの私記を書くことも、慰みには足りなかった。
 気が付くと、いつの間にかユウは寝息を立てて眠っていた。穢れのないその体を優しく抱きかかえて、椅子の上に寝かしつけてやった。私はその上に毛布をかけてから、部屋の扉を閉めた。
 ユウが目を覚ましたら麓まで送って行かねばならない。私は夜にしか外を歩けないから、それは明日の晩になるだろう……。

                  ***

 青年は昼に寝て、夜に起きるという生活を続けていた。
 私は小さい頃から早寝早起きを徹底的に仕込まれて育ったので、彼のライフスタイルに合わせるのは結構辛かった。というか、やはり正常な人間としてそれは体に負担をかけることなのだ。
 生活を完全な夜型にするのはさすがに無理だったので、正午に起きて朝の四時くらいに寝ることにした。彼はたいてい夕方頃に目を覚ました。彼の朝食(私にとっては夜食)に付き合ってから、絵を描くための時間を確保した。
 豊かな自然に囲まれた屋敷での食事は、森で採った木の実を煮たり、庭で採れた野菜や果物を食べるといったものだった。シンプルな麻糸のテーブルクロスの上に食器を並べ、彼が用意した料理をおそるおそる口にした。
「……おいしい」
 真っ白な陶器で作られた飾り気のない皿の上に、ハーブ類を詰めて焼いた魚や、新鮮な野菜のサラダが載っている。どれもシンプルな味付けで、家で食べる食事に比べると少し薄味だった。
「そうか」
 無性にお肉が食べたい時もあったけれど、さすがに家畜は飼っていなかった。それでもたまに彼は一人で森に出掛けていき、魚を持ち帰ることがあった。
 たぶん川で魚を取っているのだろう。そしてあるいは、新鮮な血液を求めて獣を襲っているのかもしれない。
 彼が生き血を啜る怖ろしい魔物だということは重々承知していたけれど、ふとした時に彼の見せる温かな心根や気遣いに触れるたび、彼は私には危害を加えてこないだろう、と感じていた。
 無愛想な青年との食事は、とくべつ楽しいようなものではなかった。石の壁に囲まれた部屋で、二人が立てる食器の音だけがよく響く。
 私が住むようになっても、屋敷の中は広く、閑散としていた。祖母を亡くしてから彼がここで何年も一人で暮らしていたことを思うと、その孤独がありありと胸に迫ってきて、切なくなった。
「どうした」
 私が食事の手を止めたことに、彼は気付いたらしい。
「なんでもない」
「食べられないものは無理に食べなくていい」
「うん、ありがと」
 生気のない表情は変わらなかったけれど、彼の言葉や態度の端々から優しさを感じた。それは時折、人間よりも人間らしいものだった。それは、森の中にひっそりと身を隠し、ひたむきに生きてきた彼の純粋さの現れなのかもしれない。

 暖炉の炎が部屋の中をほのかに暖める。それが放つぼんやりと弱々しい明かりの中で、私はイーゼルとキャンバスをセットした。
「その椅子に座ってるだけでいいから」
「じっとしているのは、退屈だ」
「本とか読んでても大丈夫。基本的には写生じゃなくイメージで描くから」
 私は青年にそう言って、リュックの中から溶剤の入った瓶や絵の具を取り出した。彼は本を片手に持ち、椅子に座っていた。
 準備を整えてその姿を視界の中に捉えた瞬間、頭の中でかちりと音が鳴るのを感じた。私が探していた答えはきっとこれだ。そう思った。
 頬杖をついた青年が本に視線を落としている。滑らかな頬から顎先にかけてのラインは鋭く、手の先に細く優雅な指が並んでいた。首筋は怖ろしいほどに白くて、その佇まいは彫刻のように揺るがなかった。
「じゃあ、描くね」
 柄にもなく手が震えてしまい、最初は左手で描いたようにぎこちなくなってしまった。少しずつ緊張を解き、一本一本の線と筆先の感触を確かめながら、彼の姿をキャンバスの中に映し取る。
 永遠に続くような静寂が、部屋の中を優しく包んでいた。ときおり青年が本のページをめくる音だけが響く。鼻をつく溶剤の匂いを感じながら、私は懸命に油絵の中の彼と向き合った。
 暖炉の中から漏れてくる小さな明かりが横顔を照らし、その上に幻想的なシルエットを形作っている。薄く開かれた彼の瞳に映り込む炎は、風に揺れる水面のようにゆらゆらとしていた。
 その奥に宿っているのは、両親を殺した人間たちへの憎しみなのか。それとも底のない永遠の孤独なのか。私には分からない。
 本を読むことに疲れたらしく、彼は天井を見上げた。
「少し、話をしてもいいか」
「どうぞ」
 彼の方から話をしたいと言ったのは、初めてのことだった。
「こうやって人間と過ごすのは、久しぶりだ」
「『ユウ』って子のことでしょ」
 スチール缶の上面をくり抜いて作ったオリジナルの筆差しに筆を置き、別の絵筆を取り上げる。その先に赤色の絵の具をなじませて、私は暖炉の炎を描き始めた。
「あの子は今、どうしてるの?」
「ユウはもうここには来ない」
 それ以上を彼は語らなかった。代わりに、少しだけ口調を穏やかにした。
「……花や植物が好きな子供だった。川辺に咲く花を集めてきては、色の違うもの同士を結び付けて遊んでいた」
「書斎に置いてあったあなたの私記にもそう書いてあったわ。そして、あなたはその子に愛情を感じていた」
 彼は一度、ゆっくりと目を瞑った。目元を手のひらで覆うように包んで、深々と椅子にもたれかかる。
「あれは、愛情――だったのだろうか」
「私はそうだと思う」
 彼の書いた私記からは、ユウのことを大切に思いながらも、「人」であるユウと自分が相容れないことに苦しむ彼の葛藤を感じた。……どんなに望んでも、永遠に触れることのできない世界。それは、自分の居場所を否定する私にも重なるような気がする。
「あの子には生まれた時から母親がいなかったんでしょう? 父親からはひどい折檻を受けていた。だからきっと――両親のいないあなたは、そのことを自分自身の孤独と重ね合わせていたんだと思う」
「私には、よく分からない」
「……そう」
 彼は目を伏せて自分の手のひらを見つめていた。その姿に、私は胸の奥にある柔らかい部分をきゅっとつままれたような気持ちになった。
「今はまだ、分からなくてもいいんじゃないかな」
 いつか、彼の心の扉を開ける鍵が見つかればいい。そのことを、私は切に願った。

                  ***

 青年との食事を終えて、彼の絵を描く。早朝に眠る。昼に目覚める。絵を描く。眠る。日々はひどく単調なものだったけれど、私はその生活に慣れ始めていた。いつの間にか、私はここで過ごすゆったりとした時間を心の底から楽しんでいた。
 不思議な充実感がそこにはあった。相変わらず彼とは最低限の言葉しか交わさなかったけれど、私たちの間には言葉だけでは絶対に伝わらない、一種親密な空気のようなものが流れていた。
 誰かに存在を許されるという安らぎ――周りにいる人たちから常に一本の線を引いて付き合ってきた私には、それが必要だったのかもしれない。
 ある晩のことだった。私はいつものように青年の部屋でキャンバスと向き合っていた。しかし、その日の私はもどかしさのあまり筆を折りたい気分だった。
 絵の細部に荒さが目立ち、そこを修正しようとするとむしろ余計に別の荒さが目立つ。そんな悪循環に悩まされていた。
 うまく行かない日や気分が乗らない日は無理せず諦めた方がいい。でないとそんな自分自身に腹が立って、何か取り返しのつかないミスをする。今までの経験でそういう自分の性格は分かっていた。だから、その日は早めに切り上げて眠ることにした。
 けれど、何が悪いのかを考え始めると頭の中でいくつもの思考がぐるぐると回り続け、やけに目が冴えてしまった。
 私は再び彼の部屋に戻った。彼はいなかった。
「散歩にでも行ったのかな」
 私も外を歩いて、尖った神経を鎮めるといいかもしれない。そう思った。
 外は満天の星が輝く夜だった。澄んだ紺色の空にひしゃくのような形をした北斗七星が並んでいる。おおぐま座もくっきりと綺麗に見えた。
 さざ波のようにひそやかな虫の音が、森の中から響いてくる。私が近付くと音は止み、離れるとまた後ろから聞こえた。暗闇に塗り潰された森から、鼻や耳を通して濃密な夜の気配を感じ取ることができる。
 ツタの絡まる屋敷の外壁に沿って、周りをぐるりと一周することにした。月は引かれた弓のように細くしなっていて、優しい光を地上に投げかけている。見渡してみても、彼の姿はどこにもなかった。
 屋敷の裏手に回って、温泉が湧き出る場所まで岩壁の脇を登った。夜の闇に白い湯気が立ち昇る様子は、まるで蜃気楼のようだった。
 その奥に彼のものらしき人影があった。
「やば、これじゃ覗き……」
 急いで隠れる場所を探す。私は谷側の岩陰に隠れた。
 青年の滑らかな肢体が、湯気の作り出す薄霧の中にぼんやりと浮かんでいた。なんだか変な気分になってくる。湯気のせいだろうか、顔が火照ったように熱い。
 ――あたし、ちょっと変態なのかも
 胸に手を当てると、どくどくと脈打つ鼓動が手のひらを通して伝わってきた。いやいやこんなことしてる場合じゃないでしょ、と自分に言い聞かせつつ、私はそっとその場から逃げ出す……。はずだったが、足元の石に躓いて転んでしまった。
 なんとか声を出すのは我慢したものの、蹴り飛ばした石はコロコロと音を立てて斜面を転がり落ちて行った。崖の下に見えるのは、私が彼と出会った夜に歩いていた、幅の狭い山道だった。
 ――まずっ、バレた?
 振り返ると、彼が腰にタオルを巻いてお湯の中から上がってきた。
「……なぜここにいる」
「いや、そのう、これにはいろいろと深いわけがあって……」
 どんなわけだ、と自分に突っ込みを入れる。女子校育ちで男の人の裸を見る機会なんてなかったから、内心、どきどきしていた。
「夜はあまり外に出ない方がいい。怪我はないか」
 彼は手を伸ばして、地面に座り込んでいた私の手を取る。
「あ、うん。大丈夫」
 ――こういうとこ、優しいんだよね
「もうすぐ陽が昇る頃だ。私は先に屋敷に戻る」
 彼は私の背中に付いた土を払うと、岩の間を下りていった。その向こうで、ゆっくりと白んでくる山の端が、空を覆う紺色のカーテンを破ろうとしていた。
 たぶんこれからも、彼と一緒に朝焼けを見ることはできないだろう。
 闇に消えていく彼の白い背中は、なんだかひどく哀しげに見えた。

 彼が去ってから、私は見晴らしの良いところで朝焼けを待っていた。
 東の空から昇りかけた黄金色の太陽が、寒々とした山里の風景を眩い光で満たしている。山の端から蒼い空に向けて、淡い色彩が溶けていくのを見つめながら、私は深いため息を漏らした。
 ここに来なければ、私は世界にこんな美しい光景があることさえ知らずにいたのだろう。そう思うと、なんだか感傷的な気持ちになった。
 今はちょっとばかし寂しいけど、家を出ることで得たものはたくさんあった。帰ったらそのことを愛理子さんに話そう。いつも勉強ばかりの兄貴と仕事に疲れた父親も誘って、家族で山登りなんていいかもしれない。
 視界の隅で、何かがぴょん、と跳ねる。草むらの中に薄緑色のバッタが留まっていた。私は忍び足で、そうっと近付いてみた。
 穿いていたスカートのプリーツが、はらはらとほどけるように広がった。その拍子に、バッタは植物の茎のように細い足を使って遠くに逃げた。乗っていた葉の間から、朝露がするりと零れ落ちる。
「こんなに気持ちの良い朝なのに」
 凍てついた集落の大気は澄みきって、遥か遠くに見える山々の稜線がこちら側に迫ってくる。寒々しいのにどこか暖かみを感じるその景色に、私は見とれていた。
 さわやかな朝の空気を大きく吸い込んで、私は昇る太陽に背を向けた。
 遠く西の彼方では、不吉な色の雲が頭をもたげていた。

                  ***

 屋敷には窓がないため、外の天気が分からない。少し朝寝坊(夜寝坊?)して夕方頃に目覚めた私は、散歩をしようと思って外に出た。その瞬間、激しい風が吹き付けてきた。
「わっ」
 まるで分厚いカーテンが垂れこめているように、鈍色の雲が空を覆っていた。そこから叩き付けるような雨が降り注ぎ、木々や屋敷の屋根に当たって激しい雨音を立てている。陰鬱な気分にさせられるような、嫌な雨だった。
 夕方の散歩は諦めて、私はしぶしぶ屋敷の中に戻った。
 夜が更けると、青年が部屋から起きてきた。
「外はすごい雨だったよ」
「そうか」
 おもむろに、彼は食事の準備を始めた。実はちょっと前から私も準備を手伝っている。彼の指示通りに野菜や果物を切ったり、お皿を置いたりした。ちょっとこれって新婚さんみたいでいいかもしれない。
 運んでいるうちに気付いたのだが、このところ彼のお皿だけ料理が少なかった。
「もしかして、最近外に出られないから食べ物が足りてなかったりする? なんかあたしだけ多いのは申し訳ないんだけど」
 私の分量はいつもと変わらない。
「いや、蓄えはあるからしばらくは保つだろう。単に食欲がないだけだ」
「そうなの?」
 彼はお皿を持ってスープを飲み干す。ふと、彼が思い出したように言った。
「というより、お前の食欲が私よりあるだけだ」
「ほっといてよ」
 食事が終わってから倉庫に行くと、ある程度の食料は備蓄してあった。
 じゃあ遠慮する必要はないよね、と食い意地の張ったことを考える。秋は何かとお腹がすくのだ。……いや、もちろん体重が気にならなくはない。彼氏はいないけれど、それとこれとは別なのである。
 お皿を持つ彼の手が小刻みに震えていたように見えたのは、きっと気のせいだろう。

 それからしばらくの間、長い秋雨の日が続いた。
 食事の前に何か手伝うことはないかと尋ねると、水が少なくなってきたので井戸に水を汲みに行けと言われた。
「濡れて風邪引いたら恨んでやる」
「行ってやりたいが、あいにく私は雨が苦手だ」
 屋敷の外は空気が湿っていた。地面がぬかるみ、泥が靴底にへばりつく。暗い夜空からしとしとと降り続く雨の音だけが、耳に残る。
 井戸には屋根がついており、そこにいれば濡れずに済んだ。星のない空の下、私は一人せっせと縄を手繰り寄せる。
「なによー」
 木製のバケツに入った水には、泥が混じっていた。水道水ならこんなことはない。私は治水という文明の偉大さを思い知った。
 水が濁っていて飲めそうにないことを伝えると、彼は構わないと言った。
 私が水を汲んでいる間に、温かい料理ができていた。彼の前に置かれた皿は相変わらず侘しいままだった。もともと量を食べる方ではなかったけれど、このところはあまりにもそれが顕著なので、心配だ。
「食べたくないの?」
「なぜそんなことを聞く」
「だって、あなたちっとも美味しそうに食べないから」
 彼と過ごすうちに、彼の顔を見るだけでも感情のブレや体調の善し悪しが分かるような気がしていた。もしかすると、それは彼が私に気を許してくれていることの表れなのかもしれない。
「食べないと元気出ないよ。ただでさえ食が細いんだし」
「気にする必要はない」
「食欲の秋って知らない?」
「それは土に眠る動物の話だろう。私は冬眠をしない」
 私は熊と同じかい。……そうは言うけれど、徐々に彼が衰弱しているのは明らかだった。滑らかだった肌はざらつき、目元には黒い水たまりのような隈ができている。
「それになんだか眠たそう」
「私も寝不足になることはある」
「何かの病気なんじゃ……」
 まだ皿の上に料理を残したまま、彼は立ち上がって食器を片付けた。汚れた食器は毎日洗っていたが、水を節約するため、これからは二日おきにすると決めていた。
「これが病なら――」
 彼は、自嘲気味に笑った。
「死ぬまで治ることはないだろう」

 書斎に戻って、青年の書いた私記を読み返す。
 ――ユウが目を覚ましたら麓まで送って行かねばならない。私は夜にしか外を歩けないから、それは明日の晩になるだろう
 このページ以降、私記の中にユウという名前の子供が登場することはない。ごく普通の屋敷での暮らしがぽつぽつと綴られているだけだった。
 ――ユウはもうここには来ない
 青年は以前、そう言っていた。それはつまり、何を意味するだろう。
 客室に置かれた箱の中にある、何年も放置されて白骨化した遺体。あれは本当に、彼の祖母のものなのだろうか。
 麓で聞いたおじさんの話を思い出す。
 ――この先はずうっとただの森さね。夜は野犬が出るから危ないよ。ちょっと前にもね、小学生くらいの子供がいなくなって大変だったんだから
 小学生くらいの子供。それがもし、「ユウ」だとしたら?
 死ぬまで治ることのない病。それは……。
 ――私はそれを自らの痛みのように感じた。それでいて、その傷跡から流れ出すものには目を向けまいとした。
 ――背中に刃物で付けられたような深い傷が残っており、左肩にはまだ新しい痣もあった。幾つもの憎しみが、まるで呪詛のようにユウの体に刻み付けられていた
 ――祖母は、森に入って獣を探すことをやめたようだ。恐らくそれが祖母の死期を早めたのだろう
 彼とユウの間に、何が起こったのか……。
 気が付くと、私は眠りに落ちていた。蝋燭の火は消えており、室内はひそやかな暗闇に包まれていた。
 外の廊下から、カーペットを踏む足音が聞こえた。
 ゆっくりと扉を開ける音がする。私は目を瞑ったまま、眠っているフリを続けた。
 目を閉じている分、肌に触れる空気の流れや耳に聞こえてくる音がいつもよりはっきり感じられる。微かな息遣いで、彼が私に近付いてくるのが分かった。
 恐怖は感じなかった。私はもう、それを受け入れていた。青年の体調が優れない理由も分かっている。森の中で獣を探すことができなければ、近くにいる私の血を飲めばいい。彼が欲しいと言うのなら、私は構わないと思った。
 首筋に彼の気配を感じる。彼に聞こえているのではないかと心配になるくらい、心臓は激しく脈打っていた。
 それからしばらく、彼が私を見つめているのが分かった。
 けれど、彼が私の首に牙を突き立てることはなかった。足元に落ちていた毛布をそっと私の肩にかけると、それきり何もせずに、彼は部屋の扉を閉めた。
「どうして……」
 彼は私によくしてくれた。私はその優しさに深く感謝している。それなのにどうして、私には何もさせてくれないのだろう。
 瞼から滑り落ちた涙が、彼のかけてくれた毛布を濡らした。

                  ***

 暗がりの中で、蝋燭と暖炉の炎が儚く揺らめいている。
 細い絵筆を構えて、下書きを終えようとしているキャンバスと向き合う。鍵盤にも似たパレットに絵の具を落とし、溶剤でゆっくりと伸ばしていく。
 やがて原色の水たまりが広がり、乾いた絵筆が色彩を付けた。その先端をキャンバスの上にそっと乗せると、世界に新たな点が生まれる。
 私が絵を描いている間、青年は椅子の上で本を読まなくなった。
 絹のようだった彼の肌は艶を失い、体全体がひどくやつれて見えた。充血した眼の下に半月型の黒い隈を作り、顔色はこの世のものとは思えないほど青い。
 何かを話す時だけ、彼の白い喉が何かを飲み下すようにこくりと動いた。
「順調か」
 このままではいけない。私は、彼のためにできることをずっと考えていた。
「うん、もうだいぶ全体の雰囲気はできてる。仕上げをしたら、とりあえずはおしまい。油絵は後から細かい部分を塗り重ねて修正できるから、完成ってわけじゃないけど」
「そうか」
 生気のない彼の声を聞いた瞬間、ずきり、と体の芯が疼いた。これを描き終えたなら、私がここにいる意味はない。絵の完成は、そのまま彼との離別を意味していた。
「ほら、見てみてよ。部屋の薄暗い感じとか、うまく描けてるでしょ」
 イーゼルを回してキャンバスを彼の方に向けると、彼はぼんやりとした面持ちでそれを見つめた。
「絵のことはあまりよく分からない」
「芸術ってのは、分かるとか分からないとか、理屈じゃないのよ」
 そう、理屈じゃないのだ。私が抱えている感情も、きっと数字や言葉で論理付けできるようなものじゃない。触ることができたり、はっきりとそこにあるものじゃなく、ひどく曖昧で形のないもの。
「そういうものか」
「そういうものなの」
 彼は少年のような笑顔で、私に微笑みかけた。
「ただ、私の顔はこんなに青くはない」
 胸が引き裂かれるように痛かった。心の奥が、底のない悲しみに塗りつぶされていく。その痛みの正体に、私は気付いていた。
 屋敷を発つ前に、私は彼に話しておかなければいけない。

「そろそろ行くね」
 彼は椅子に腰かけたまま動かない。私は道具をバッグの中に入れて、帰り支度を始める。
「それなら、明日にでも麓に降りるのだろう」
 もうすぐ夜明けがやってくる。まだ、外は雨が降っているかもしれない。
 雷の音だろうか。地の底から湧き上がるような地鳴りが、辺りに響いていた。
「……あなたも私と一緒に行こう」
 私は覚悟を決めて言った。彼は目を閉じたまま、何かを諦めたような顔をした。
「それは無理だと、知っているだろう。私はお前たちとは違う」
 ――なぜ人間に生まれなかったのだろう。なぜ汚らわしく獣の体液を欲するのだろう
「……見ることができないんじゃない。あなたは、見ることをやめた」
「何を」
「私はもう、分かってるよ」
 書斎から持ってきたわら紙の束を、彼に差し出す。
「初めてこれを読んだ時から、なにか引っかかるものがあったの。それで、何度か読んでいるうちに、私は違和感の正体に気が付いた」
「引っかかる?」
 この中に、ヒントはいくつもあった。
「この私記には、『色』がないの。『木には甘い汁を含んだ果実が付いていて、表面に光沢があるものを選んで食べた』『五枚の花弁は茎の中心から放射状に伸びており、先が細く裂けていた』どれも形や質感を描写するだけ。リンゴが熟してるかなんて色を見ればすぐ分かるし、花について語る時に色を説明しないなんておかしくない?」
 青年は背もたれに寄り掛かって、目を閉じた。
「だからどうした」
「最初は、あなたが夜にしか外に出ないからだと思ってた。夜は昼間より色味がないのは当然だもの。でも、『一年を通して変化のない風景に囲まれ、穏やかな日々を過ごした』というのは変よ。だって森に生えているのは杉と楓の木立じゃない。秋には毎年真っ赤に色づく楓が山肌を覆うはず。その違いくらい、月明かりの下だって分かるわ」
「何が言いたい?」
「河原で花を摘むユウを見て、『私には花の違いがよく分からなかった』と書かれてる。それで、私は考え方を転換したの。この文章の書き手は色を描写しなかったんじゃなく、色が『見えなかったんじゃないか』って」
 いかにもバカバカしいとでも言うように、青年は首を横に振った。隙間風が入ってくるはずもないのに、蝋燭に灯る赤い炎がゆらりと揺れる。
「そもそも人間が色を見ることができるのは、食べ物だとか、危険な物を見分けるために進化の過程で獲得したからでしょう? 実際、夜行性動物の中には色覚がない動物だっている。つまり、夜にしか出歩かないから色を見ないんじゃなくて、吸血鬼たちは夜にしか出歩かないから『色を見る能力が必要なかった』んじゃないかしら」
 喉が渇く。舌の上から水分があらかた蒸発してしまったかのように、口の中はカラカラだった。
「それで」
 ――ただ、私の顔はこんなに青くはない
「でも、あなたは赤と黄色の紐を付けた樹を目印にしている。森を抜けて屋敷に戻る時、迷わないように工夫して」
 私は言わなければいけない。この先を。
「あの私記は、あなたが書いたものじゃない。そうでしょ」
「何を言うかと思えば」
 椅子をこちらに回して、彼は私を真っ直ぐ見据えた。
「私には色が見える。そして私はたまたまこの中で色について書かなかった。それだけでお前の話は根拠を失う」
 時間が制止したような、長い沈黙が続いた。
 まるで嵐の訪れを待っているみたいだった。静寂の先にある糸を手繰り寄せるように、私は耳を凝らす。微かに、衣擦れの音がした。
「今日一晩くらいは泊まっていった方がいい。夜の森は野犬が出る」
 初めて会った日と同じように、彼は言った。
「……ねえ、知ってる? 私記の中の吸血鬼は、野犬のことを『獣』って呼ぶの」
 彼は椅子の向きを変えて、私に背を向けた。女性のように繊細で柔らかな髪が、肩まで伸びている。
「私がお風呂を覗いちゃった時、いや、もちろん覗く気なんてなかったんだけどね……。私見たの。あなたの背中に、大きな傷跡があるのを」
 ――背中に刃物で付けられたような深い傷が残っており、左肩にはまだ新しい痣もあった。幾つもの憎しみが、まるで呪詛のようにユウの体に刻み付けられていた
「あなたが……『ユウ』なんでしょう?」
 その瞬間、怖ろしい地鳴りと共に、私の視界は闇に呑まれた。

                  ***

 川の傍で、僕がおじさんと出会ったのはまだ少し暑さの残る秋のことだった。その人は全身が真っ黒で、まるでコウモリみたいな格好をしていた。アニメの悪役みたいでカッコ良かったけれど、話しかけられた時にはちょっと緊張した。
「私の姿が珍しいのか」
 知らない人に付いて行ってはいけないとお父さんからは言われていたけれど、話をするくらいならいいだろうと思った。それに、そのおじさんはとても優しい瞳をしていた。
「おじさん誰?」
 どこの屋号の人なの? と聞いたつもりだったけれど、おじさんは名前がないと言った。うちの近くでは、住んでいる場所や仕事に関係した、特別な名前で呼び合う習慣があった。坂の上に住んでるからサカウエだとか、代々農家だからコメドコといったものだ。
 おじさんは、子供の僕でも知っているようなことをあんまり知らなかった。でも普通の大人とは違う感じがした。威張ったり、怒ったりしないし、顔はむすっとしているけれどいつも優しかった。川で石を投げる遊びを教えてくれたりもした。
 お父さんも昼間は優しかったけれど、夜になるとお酒を飲んで僕のことをぶった。まだ僕が小さい頃はお母さんがいて、そんなことはなかった。病気でお母さんが死んじゃってから、お父さんはおかしくなった。
 お父さんは銃で動物を撃つ仕事をしていた。硬くて重い金属でできた銀ピカのやつで、酔っぱらったお父さんはそれを僕に向けたりもした。僕は怖くなって、外に逃げ出した。お父さんは笑っていたけれど、目からは涙みたいなものが流れていた。
 お母さんがいなくなってお父さんも辛いんだ。僕はそれを知っていたから、お父さんのことを嫌いになれなかった。でも殴られるのは痛いから、お父さんが眠るまでは家の外に出ることにした。
 おじさんは久しぶりに僕に優しくしてくれた大人だった。お父さんに火の付いた煙草を押しつけられて、僕が痛くて泣いている日も、僕を笑わせようと鳥の声を真似したりしてくれた。
 食べ物は学校の給食しか食べていなかったから、いつもお腹が減っていた。お父さんのものを勝手に盗んだりしたらひどい目に遭うと分かっていたから、家ではお腹がすいても我慢した。
 おじさんが魚をとってくれて、キャンプみたいに焚火をして食べた。
 木の枝を入れると炎はどんどん燃え上がる。調子に乗ってたくさん入れてばかりいたら、葉っぱや枝がなくなってしまった。僕は落ち葉を拾うために森に入った。
 気が付いたときには遅かった。牙の間から涎を垂らした野犬が、僕のすぐ傍でこっちを見ていた。僕は動けなくなって立ちすくんだ。
 犬が飛びかかってきて、僕は腕を咬まれた。僕は大きな声でおじさんを呼んだ。
 おじさんはすぐに駆け付けてくれた。しばらく僕と野犬を見比べて、おじさんは野犬に飛びかかった。僕が怖くなって両手で目を覆っている間に、おじさんは野犬をやっつけたようだった。
 でも、おじさんの口についた肉の破片を見た途端、僕は急におじさんが怖くなった。
 僕が怯えていることに気付いたのか、おじさんはその場に膝をついて、ぽろぽろと涙をこぼした。僕はおじさんが心配になって、頬に手を当てた。
 それから、おじさんは僕を屋敷に連れて行ってくれた。
 大きな屋敷だった。僕が今まで見たこともないようなものがたくさん置いてあったし、おじさんはそれを一つ一つ教えてくれた。屋敷の中は暗くて最初は少し怖かったけれど、おじさんの手を握っていれば怖くなかった。
 暖炉のある暖かい部屋で、おじさんが薬を塗ってくれた。最初は沁みて痛かった。でも男の子だから我慢しなくてはいけないと思った。
 おじさんは童話のような話を始めた。小さい頃にお母さんが呼んでくれた絵本みたいで楽しかった。それを聞いているうちに、僕は眠ってしまった。

 朝、目が覚めると夜だった。というか、屋敷の中は窓がなくて真っ暗だった。僕は声を出しておじさんを呼んだ。
 おじさんと一緒に外に出ると、外は雨が降っていた。遠くの方で雷が落ちたような音がしたので、僕は急いでおへそを隠した。
 お父さんは心配しているだろうか。今日はお仕事で嫌なことがあったりしないだろうか。もしそうなら、一日家に帰らなかったことを怒られるかもしれない。
「河原まで送っていく」
 おじさんはそう言って、僕と右手をつないだ。おじさんは背が高いから、僕は一生懸命手を伸ばさなくてはいけなかった。顔色は悪かったけれど、おじさんの手はあったかくて、つるつるしていた。
 森の中は入り組んでいて、僕一人だったら迷子になりそうだった。おじさんに道をどうやって覚えているのかと尋ねたら、樹の幹に傷をつけているのだと教えてくれた。
 雨音と一緒に、近くで水の流れる音が聞こえてきた頃だった。森の奥の方でがさごそと動く何かがいた。僕はまた野犬だと思って、おじさんの陰に隠れた。
 何が起こったのか分からなかった。大きな音がして、突然おじさんは前かがみに倒れた。遠くの木陰でお父さんが銃を構えていた。……おじさんが撃たれたのだ。僕はそのことに気が付いて、怖ろしくなった。
 おじさんの体をゆすっていると、手に何か温かいものが付いた。おじさんのお腹から、血が流れ出していた。呼吸がだんだんと浅くなっていくのが、胸の動きで分かった。
 濡れた落ち葉の上に、赤い水たまりが染み込んでいった。
「おい、そいつは誰なんだ」
 お父さんは僕に近付くと、硬い銃身で思い切り僕をぶった。僕は吹き飛ばされて、樹の幹に頭をひどくぶつけた。
「う……」
「どうなってる、思わず撃っちまった……。お前を探しにきたら……」
 人を撃ち殺してしまったことに、お父さんは混乱しているようだった。僕の服を掴んで何度も揺すり、頬を強く叩いた。僕は泣いて謝った。
 その時、そこに寝ていたおじさんがゆらりと体を起こして、こっちの方に向き直った。おじさんの胸からたくさんの血が溢れていた。その顔色は、今まで見たことのないくらい真っ白だった。
「ば、化け物……」
 お父さんが銃を構えるより先に、おじさんは僕からお父さんを引き剥がして、そのまま押し倒した。おじさんが首に口を近付けると、お父さんは女の人みたいな悲鳴を上げた。
 お父さんは必死で抵抗して、おじさんのことを何度も殴った。雨に打たれたおじさんの体は、小刻みに震えていた。
 ――このままじゃ、おじさんが死んじゃう
 足元に、お父さんの落とした猟銃が転がっていた。
 お父さんが好きだった。でも僕は、おじさんのことも好きだった。僕にはどっちも大切なのだ。どっちかを選ぶことなんてできない。
 パン、という音が夜の森に響いて、鳥たちが木のてっぺんから飛び立った。

                  ***

 ――なんだか、眩しい
 気が付くと、私は青年の腕に抱きかかえられていた。
 部屋の壁が崩れて、天井には大きな穴が開いていた。ついさっきまで彼と話をしていた屋敷の中だ。確か、大きな地鳴りがして……。
 傍らに大量の土砂が堆積している。幸い、私たちのところまでは届いていなかった。
 雨上がりの落ち葉の湿っぽい匂いが鼻をつく。髪の先に、透明なビーズのように細かい水滴が付いていた。降り続いていた雨が、ようやく止んだようだった。
 間一髪のところで私たちは土砂に巻き込まれるのを免れたらしい。屋敷の裏手にあった岩壁が姿を消している。代わりに、壁や天井に開いた穴を通して早朝の渓谷を見ることができた。
 ――こっちもようやく補強工事の目処がついてさ。今までにも何度か崩れてるんだけど、土砂で山道が塞がれちゃうと村の人間はどこにも行けないからねえ
 黄色いヘルメットを被ったおじさんの話を思い出す。そういえば屋敷の裏手はちょうど山道の上に位置していた。もしかしたら、このところ降り続いた雨で地盤が緩んでいたのかもしれない。
 井戸の水が濁っていたのも、今思うとその兆候だったのだろうか。
 夜のうちに雨ではなくなっていたらしく、空から舞い落ちてくるのは小さな雪だった。冬の澄んだ空気が、鼻先にそっと流れ込んでくる。
 さわやかな風が雪を被った枝を揺すり、森の木々がかさかさと音を奏でていた。それに耳を傾けながら、私は深く息を吸い込んだ。
 見慣れた山間の風景は白一色に統一されており、なんだか、知らない土地に迷い込んでしまったような錯覚を覚える。谷の間を縫うように清らかな渓流が流れ、白雪がその上を滑るように進んでいた。
 私たちは床の上に寝転がりながら、その景色を見つめていた。たくさんの空気を含んだ雪がそこかしこに積もり、陽光を映して輝いている。彼の肩にとまったそれは、しばらく溶けずに残っていた。
「怖かったんだ。僕は父のことを撃った。もしかしたら、みんなが父を殺した僕のことを探しているかもしれない。そう思うと、麓に降りる決心がつかなかった」
 彼は長い昔話を終えて、そう言った。陽のあたる場所で見た彼は、幽霊に怯える子供のような、まだ幼さの残る面差しをしていた。
 ――行ってやりたいが、あいにく私は雨が苦手だ
「雨の日になると、思い出す。食事も喉を通らなくなるんだ。まだ温かかったおじさんと父の体が、少しずつ冷えていって……」
 彼が、開いた手のひらを静かに握りしめる。
「僕はずっと独りだった。たぶん、これからも」
 私は、彼の手を包み込むように自分の手を重ねた。
「私もあなたと同じ。自分には居場所がないって、ずっと思ってた。でも違うね。本当はそうじゃない。私は、この世界のどこかに誰か一人でも寄り掛かれる人がいれば大丈夫。寂しい時には手を伸ばして、心を開く勇気を出せばいいって気付いたから」
 久しぶりに携帯電話の電源を入れた。いつの間にかメールが二十件近く溜まっていた。ボタンを押して、一番上に表示された手紙のマークを選択してみる。
 ――お嬢様、もう秋休みは終わりです。うちの実家にも行ってないみたいですし、心配なので早く帰って来て下さい。奥様が取り乱して、大事な花瓶や屏風がめちゃめちゃです。家は台風が通過した後みたいになってます
 愛理子さんからのメールだった。和室に置かれていた大事な花瓶を割ってしまうくらい、お母さんが私を心配してくれたことに、ちょっとだけ嬉しくなる。
「それでも……。歳月を埋めるには、時が経ち過ぎてしまった」
 途切れ途切れに、彼は呟いた。それはたぶん、彼の失った時間の重さだった。
「ううん。そんなことない」
 そう――まだ遅くはない。どんな悲しみにも、人はいつか慣れていく。永い時間の中にそれはなじみ、やがては消えていくことを私は信じた。
 凍えるような季節は終わり、やがてこの山の上にも春が訪れるだろう。空はどこまでも澄み渡り、突き抜けるような青に染まる。空に昇った太陽が山の上を暖めて、溶け出した山上の雪は清らかな水をこの川に運んでくる。森の野鳥は歌い、河原の草花は芽を出し、寂しかった山肌は今よりずっと賑やかになる。
 見上げた先に彼の顔があった。開いたままの目の端から、涙が次々に溢れてこめかみを伝っていた。私は黙って手を伸ばし、彼の目元を指の腹で拭った。
「もう少しだけ、こうしていていいだろうか」
 彼は掠れたような声を出した。
 陽のあたる場所で彼の腕に包まれながら、私は小さく頷いた。

おしまい
Phys
2011年05月21日(土) 10時00分15秒 公開
■この作品の著作権はPhysさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めて小説を書き始めたのは、昨年の今頃でした。一周年記念ではないですが、ちょっと
節目のつもりで力を入れた作品を書いてみることにしました。
思えば、段落や改行、句読点から…のルールまで、小説のお作法はTCの方に教えて頂き
ました。多くの方が親切で、時にハッとするようなアドバイスを頂けるこのサイトがこれから
もよりよい創作の場であり続けることを願っています。
それにしても社会人一年生でこんなことしてていいのかな…。上司にばれたら怒られるかも…。
(もちろんお仕事もちゃんとやってますよ!)

この作品の感想をお寄せください。
No.6  青空  評価:50点  ■2013-12-21 20:47  ID:wiRqsZaBBm2
PASS 編集 削除
 ヘモグロビンは、血中の色素タンパクで鉄と結びついて存在していて、鉄が不足するとタンパク質は鉄と結合できなくなり、貧血になる。なので、食品中に含まれる、肉とか血液を口に含むと鉄の味が口内に広がり、他動物の血色素を頂いている。ちなみにう〇こは、赤血球が壊されたものが、老廃物と一緒に排泄されている、らしいです。

 で、なかなか面白かったです。最後のどんでん返しにはらはらとしました。
No.5  Phys  評価:0点  ■2011-06-12 20:23  ID:CgrmgIDoPgg
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闇の吟遊詩人さんへ

「闇の吟遊詩人」さんって、お名前がかっこいいですね。RPGゲームの隠れ
キャラクターみたいで素敵です(?)。

ものすごく冗長な作品ながら、お読みいただいて、ありがとうございました。
今までで一番長い話だったので、投稿する前は、もしかしたら誰も読んでくれ
ないんじゃないかと、心配でした。こうやって感想を寄せて頂けるとうれしく
なります。

屋敷に窓がない理由、の点ですが、気づきませんでした。自分の中で当たり前
かなぁと思っていることと、読んで下さる方の感覚をもっと近付けられるよう
気を使わないといけないな、と思いました。また、――の後の句読点、主語の
不統一性など、文章作法のご指摘は本当に勉強になります。――後の句読点
については、私の好きな作家さんが付けていなかったので真似をしたのです。
ちょっとしたポリシーみたいなものなので、もし著しく文法上の違反に当たら
ないなら続けていきたいなぁと思います。

おしまい、は桜井さんのおっしゃるように、話の内容に関らず私が付けている
フレーズです。椅子からずっこけたとのことで、申し訳ありません。お怪我は
ありませんでしたか……? 物語の雰囲気を損なっているとしたら、ちょっと
考えものですね。「了」は、なんか私にはカッコよすぎるなぁ…と思ったりも
します。

なんにしても、色々とご指摘ありがとうございました。もっと読みやすくて、
闇の吟遊詩人さんを椅子からずっこけさせない話を書けたらと思います。


桜井さんへ

いつもお読み頂きありがとうございます。桜井さん、以前にどなたかに対する
感想で「僕は長い話を読むのが苦手」とおっしゃっていたので、(忙しくて
時間がないという意味だと思います)結構無理をさせてしまったんじゃないか
と心配だったりします。

そういえば、私たちはTC上では同期なんですね。意外とこのサイトって出入り
が激しい印象を受けるので、あの頃に出現した中でもちょこちょこ書き続けて
いる人は少ないのかもしれません。これからも切磋琢磨して自分たちの個性を
磨いていきましょう。負けません。

>非日常的な世界観を、読み手に対して映像を思い起こさせるような、視覚的な描写
と、もったいないお言葉を頂きましたが、これについては、ファンタジー板の
HALさんという方がハッと息を飲むような美しい描写をなさるので、そこから
かなり影響を受けました。カッコ悪くて愚直で、美しさとは程遠いのですが、
自分なりにImpressiveな表現をしようと思って、かなり(相当)無理しました。
ですので、「ああ、この人無理しちゃってるなあ、可哀そうに」と温かい目で
見て頂けたなら幸いです。

これからも、もっとお互い高めあって人を納得させられる作品が書けるように
なりたいですね。私も社会人という同じ土俵に上がりました。
また、よろしくお願いします。
No.4  桜井隆弘  評価:40点  ■2011-06-07 21:38  ID:2pzfQCL4HRI
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・・・せーの(誰とだよ)、一周年記念おめでとうございます!
Physさんとは同期みたいなものなので、共に一年間書き続けてきたことを嬉しく思います。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

「命が宿ってない」と言われた方に対して、以前僕は「作品は時に変化球もある」というような反論をしたことがありました。
その是非はともかく、常に直球で挑むPhysさんの作品は、文字通りストレートにPhysさんの想いが伝わり感銘を受けます。

さて今作ですが、山(森)という人間社会とは離れた非日常的な世界観を、読み手に対して映像を思い起こさせるような、視覚的な描写が見事だなーと感じました。
また、ともすればわかりづらくなってしまう視点の変化が巧みで、シーンの切り替わりは映画を見ているような感覚に陥り、楽しめました。
(個人的に、お嬢様のセリフから入っていく感じとか好きです。)
そして、「おじさん」は人でなければ何なんだ、サルか、クマか!? という、様々な憶測を呼ぶトリック(?)が効果的で、思惑通りに引き込まれました。
作品を読み終えて切なさは残るものの、Physさんのお人柄の良さなのでしょう、やわらかいようなやさしい感じに包まれました。

綺麗事云々は書き手が気にすることではないと思います、受け取り方次第ですし、そこにあざとさを感じるのならそれは曲がった見方をしているからでしょう。
作品を美しく描けるのは立派な長所ですよ、少なくとも僕は綺麗に感じました(笑)

・・・それにしてもPhysさん、なんだか謙遜が過ぎますねー。
先に言っておきますが、僕の感想は全て受け止めてくださいね(笑)

P.S. 「おしまい」はPhysさんのデビュー時からのお決まりなので、僕は変えないで欲しいです。
No.3  闇の吟遊詩人  評価:40点  ■2011-06-03 05:58  ID:/OPFohzmWlY
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面白かったです。「青年の正体」がわかった時は「上手いなあ」と感心しました。「吸血鬼と虐待された少年との交流」、「吸血鬼のようになった青年と脳天気だけど勇気と鋭い観察眼を持つお嬢様との交流」が見事にクロスしました。それに「祖母の悲しみ」と「妻を失ったことが原因で子供を虐待し始めた父親の悲しさ」が重なり、切ない物語の全てが明らかになります。が、最後に「救済」もある。

「ただ、私はポッキーよりプリッツの方が好きです」や「うまい棒」のような「お菓子の使い方」も笑えました。

後は気になったことを書いておきます。

1.屋敷に窓がない理由

→「吸血鬼の家には日光を避けるために窓がない」を知らない読者がいるかもしれないので、それを簡単に伝えた方がいいかもしれません。

2. ――あたし、今人生で最高に臭いかも……

→普通は「――」を使う場合でも、文末に「。」をつけます。

3.私→「あたしはたぶん、どんなときでもお腹は鳴らせると思う」と同じ章で「矢にも似た眼光は、私の胸に突き刺さるように鋭い」という風に「お嬢様」が「あたし」から突然、「私」に名乗りが変わっているので、どちらかに統一した方がいいと思います。

4.おしまい

→「物語の余韻」を損なう「蛇足」。せめて「了」にしてください。「陽のあたる場所で彼の腕に包まれながら、私は小さく頷いた」に感動した後で、「おしまい」を見て倚子からズッコケました(苦笑)。
No.2  Phys  評価:--点  ■2011-06-12 20:28  ID:CgrmgIDoPgg
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羽田さんへ

あぁ過分なお言葉…というかいくらなんでも褒めすぎです。きっと羽田さんは
優しい方なので、ちょっと甘めに評価してくれているのでしょう。でも、私は
単純なやつなので、素直に嬉しいです。稚作を読んで頂きまして、ありがとう
ございました。

巧緻な作品ですか。恐れ多いです。私はどちらかというと伏線張りまくりで、
なんだかよく分からない感じのお話を書いてしまう書き手です。今回は初めて
「プロット」なるものを用意してから書いたのですが、いつもは怖ろしく訳の
分からない結末になったりして、「なにかねこれは」という怒りの感想を頂く
こともしばしばです。

少し前にTCのある方から「あなたの書きたい物語はなんですか?この物語には
命が宿っていません」という感想を頂きました。それからはトリック偏重型の
書き方を改めるようになりました。

>主人公の話し方は現代の乱れた感じ
これ、たぶん私の話し方が乱れているせいです。穴があったら入りたい……。

>異性の裸体に免疫がない。
ううん…こんな子、普通はあんまりいないですよね。私はよく人に「Physさん
って変わってますよね」と言われるのですが、そのせいなのか、それがキャラ
クターに投影されて、リアリティを損なっている節もあります。

ちなみに、そうやって言われた時には「私も普通の人に生まれたかったです」
と答えることにしています。

違和感⇒理解
推理小説とかはあんまり読まないんですけど、もともと理屈っぽいやつなので
恋愛ベースだったり、宮部みゆきさんの書くような日常ベースのミステリーを
好んで読みます。その影響で、私の書く小説はだいたいミステリ風味になって
います。

細かく読み込んで下さったのが伝わる、的確な感想がとても嬉しかったです。
次回は遠慮なさらずに、もっと批判的なことも書いて下さって構いませんので、
よろしくお願い致します。私も、羽田さんの作品が楽しみです。どんどん
Inspireされたいです。
(実は、この作品に温泉のシーンがあるのは、私がそのとき羽田さんの作品を
読んでいたからです ⇒ Inspireというよりは、パクリそのもの……)
No.1  羽田  評価:40点  ■2011-05-21 13:12  ID:pRHcQ9uo1pY
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拝読させていただきました。
Phys様の作品を読ませていただくのは初めてです。
大変巧緻な作品で、伏線の回収もお上手だと思います。
そして何よりも、この作品全体にある切なさに惹きつけられました。
その切なさを描く筆の運びも、嫌味な感じがなく、程良い細かさで心地良かったです。

表現は情景を印象的に描いてらっしゃるのに、主人公の話し方は現代の乱れた感じがある。
それなのに、育ちの良さは隠しきれないでいる半端な乱れ。
異性の裸体に免疫のない純情さ。
まっすぐな気持ちを持って、人間の挨拶ひとつに感じ入る心のつくり。
ひとつひとつに雰囲気を感じました。

何かになろうとして結局何にもなれなかった悲しさも、
ミステリアスな男性から感じ取ります。

私記の異変に気づいたとき、私もはっとしました。
この、はっ、という感覚を、文章で表現なさっていて素晴らしいと思います。
違和感→理解 の瞬間を読者に与える秀逸な作品ですね。

結びの部分も、作品の切なさを損なうことなくまとめられていて好きです。
素敵な作品ありがとうございました。
Phys様の作品楽しみにしております。
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