滝の中で
追憶の最終列車となるのだろうか。これでは言葉が強すぎるだろうか、いや、誰に気兼ねすることもない。九州一円、沖縄も含めた自殺名所は、貪欲な不幸の口元をゆっくりと広げて来訪者の帰り際の勇気に乏しい背中を再度嘗め回す……我々は来るべき人間を弁別している……九州の快男児には、御愛想程度の見向きもされぬが、怪男児には、古代の禁書を発見した不穏だが抑えがたい熱情を思い出させる。海底火山よりも暗い位置に存する黒い熱情は、黒い熱情を輪郭の火影として逆巻き、最先端は涙を誘っている。紅小花の番傘が眼に詰まるようなものだ。良識のある地元民から権謀術数以上に忌み嫌われるが、観光客の羨望を集め、貧しい土地の経済的価値を増幅させるという見逃せない観光効果を天下紊乱の時代から備えている。私の記憶では、熊本の田原坂、阿蘇の赤橋……

明治生まれの亡祖父から譲り受けた古地図の裏面に墨書きされた覚書、記述された文句は、Kの失笑を買った。所々、見苦しい虫食いの穴が空いていて、透かして見ると自宅の天窓から流れる光よりも段違いに輝く光が緑の草叢を染め上げている。佐賀県有数の名所、見返りの滝を広範囲の角度から分析するKは、計算高い水質調査人になったような心構えでいた。俺の身体の命脈が、やはり、思い出している、それは、文章の声が、クリスタルパックで密封したはずなのに飛び出そうと努める、唯一的な可能性……もう一度繰り返さなきゃいけない……ピエール・ガスカールは水の言葉を水の言葉で書ける人だ……と俺の生誕以前に安部公房は評していた。俺も、水の方へと存在の軸を移行させることは可能だろうか。Kは、高校の図書館で以前開いた植物学の文献で眺めていた水の中に咲く睡蓮へと変えた。前景の細い女滝それから後景の太い男滝の奥深くに控える自然現象を見極めようとしていた。だが見極めを実行する前に重奏化された鶯の鳴き声が耳に入った。春花秋水の頭文字、春は、プラハの春のように忘れ去られ、花の文字を夏に変えた季節だというのに鶯とは、一体どういった冗談なのだろうか。女滝と男滝は、男女関係を滝に応用したものであるが、Kの注目する七色の絵の具を塗った紙舟を逆さにしたような虹に眼を奪われてはいなかった。公共放送の自然紀行や皮相的な紀行文を真に受け、それらの実践結果を蓄積していく旅の万歩計を腰に括りつける人間になるのだけは、願い下げだ。
首元にかけていた麦藁帽子を被り直し、古地図を破り捨てた、青春を地面に殴りつけるようにして。分解された紙片は、雄を食い殺している最中の雌のカマキリの餌にしてやったが、滝から流れてきた微風によって舞い上がった僅かな紙吹雪は、黒揚羽の触角にぴたりと張り付いて、そのまま奇岩の裏側へ連れ去られていった。Kは、先日死んだ恋人から誕生日プレゼントとして手渡された唐紅色のネックレスを憂愁な瞳で見つめていた。

 貧しさは、そばにあるさ、教養に乏しい祖母の問わず語りが、その答え
 亡祖父のいぬまに、密会相手と獣性について飲み交わす、洗濯はコインランドリーよりもやりゃしない、苔むした石垣のような風呂場が、愛欲の決済舞台……
 ふたりの一升瓶のつまみは幅広い……息子の出世欲のなさ、土地貸しの収益悪化、農協からの貸付金催促、十字路の轢き逃げ被害者の演技性、雨樋の補修案、ガレージの増改築、高級化粧品の転売法、仏壇の買い替え……

 全て、Kが外出しているときの密会の断章……だが、祖母の『ええ年寄り日記』を盗み読めば、これら言葉の断片が、清涼な滝の前でまざまざと再描することが可能だった。
 夏の風も凍る気分になったKは、豊かな水流の表面に体を預けて、蓮の花を愛でた。濡れたチェコ軍の死体袋から取り出した白色の紙舟が、寄り添うようにして唐紅色のネックレスにぶつかっていた。
黒いヒト
2011年07月15日(金) 22時12分55秒 公開
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No.1  陣家  評価:10点  ■2011-07-26 04:48  ID:ep33ZifLlnE
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拝読させていただきました。
陣家と申します。

古地図を片手に佐賀の見返りの滝に向かった私とK、結局古地図の裏に書かれていたのは何だったんでしょうか。
滝に着いてからの散文詩のような大時代的ビジョンは、言葉巧みに同行を求めたKに対して何の成果もなかったことへの言い訳だったんでしょうか。

行を分けた作文が詩にはならないのとは逆に、暗喩を連続して並べたら何になるんでしょう。やっぱり散文詩?
寡聞にして勉強不足なだけなんでしょうが、読み解くヒントをいただければ幸いです。
総レス数 1  合計 10

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