アナザーライフ












 飲み会を終えた哲平は、左右にうねりながら歩いていた。駅に着くと、哲平を待っていたのは終電ではなく、真っ暗な景色だった。何分前、いや何時間前に終電は去ったのだろう――そんなことすら、もう頭が働いてくれない。幸い、明日は休みだし、妻が実家から戻るのも明日だ。駅の階段に腰を下ろした哲平は、思わず眠りに落ちた――。

 ふと目を覚ました哲平は妙に酔いが醒めていて、何だか飲み足りない気分に陥った。始発まで、まだ時間がある。寝静まった商店街の脇道へ出て、良さそうなお店を探すことにした。
 どこをどう歩いてきたのだろう――暗闇の中にぼんやりと浮かぶお店の明かりが見えた。普段は一人でファミレスに入るのも躊躇う哲平だが、何故だかすんなりとお店に入っていけた。

「いらっしゃいませ」
 ヒゲも無ければ年配でも無い――比較的若いマスターが声を掛けた。どうやらバーのようだ。黒を基調としたカウンターテーブルやイスは、シックで小洒落ている。だが、哲平以外に客は居なかった――郊外にポツンと在る小さなバーだ、何となく理由がわかる気がした。
「ジントニック」
 哲平はメニューも見ずに注文した。もっともメニューを見たところで、わかるのはジントニックとカシスオレンジくらいだろう。
 マスターがシャカシャカとリズミカルな音を立てて、カクテルをシェイクし始めた。哲平はそれを見ながら、自分のこれまでの人生を思い起こしていた。そして、一人の女性を思い出した――真央。
 哲平は真央を愛していた。人生で最も愛した女性かもしれない――妻よりも。哲平は真央に愛情と共に、憧憬の眼差しをも覚えていた。真央と付き合った日々は誇らしく、自信に満ちていた。だが、そんな日々にもやがて終わりが訪れた。数ヶ月経っても傷付いたままだった哲平の心を癒したのは、妻との出会いだった――。
「ジントニック、お待たせしました」
 透き通った液体の中に、無数の細かい泡が浮遊している。哲平の中で、幾つもの思惑が浮かんでは消えていた。
 もし、真央とうまく行っていたら、結婚していたら、今頃どんな人生を歩んでいたのだろう――誰もが一度は考える、別の人生、、、、だ。少なくとも、妻に対してもっと素直になれたのだろう。ありきたりな日々にも、楽しさと喜びを覚えていたのだろう。もしかしたら、最高の人生を歩んでいたのかもしれない。
 ジントニックを一口飲んだ哲平は、その薬臭いような匂いと、無意識に舌を避けさせる苦味に顔をしかめた。
「お口に合いませんでしたでしょうか、申し訳ございません」
 マスターは、すぐに哲平の表情に気が付いた。もっとも客は哲平しか居ない、それで気付けないようならとっくに店は潰れているだろう。
「代わりと言ってはなんですが、こちらのカクテルはいかがでしょうか?」
 あたかも用意されていたのかのように、マスターは別のカクテルを差し出した。淡いピンク色のそれを見て、哲平は真央の姿を重ねていた。
「アナザーライフというカクテルです」
 フルーティーな香りが微かに鼻を突き、哲平は芳醇な甘味を想像した。口直しには良いかもしれない。
「何を混ぜたカクテルなんですか?」
 桃とウォッカか、何かか――哲平は推測しながら聞いた。
「夢と現実を混ぜたカクテルです」
 マスターの言葉に、や面白さを感じなかった哲平は、反応を示さなかった――そんなことを言っているから客が入らないのだ。グラスを口にすると、すっきりとしていて、口当たりが良く美味しい。思わず二口、三口とグラスを傾け、あっという間に空にしてしまった。すると、哲平はうとうとしてきて、テーブルに倒れ込んだ――。


「――あなた、ごめんなさい」
 真央は、遂に不倫を認めた。哲平の中で、妻が汚れてしまったような悲しさと、自分がないがしろにされたような怒りが同居していた。
 哲平は、無邪気で純粋で、白い百合のような真央を愛していた。だからこそ、一点の陰りは大きく目立ち、許し難いものになってしまった。
 哲平は、これまで過ごした真央との楽しい思い出が、全てこの瞬間の引き立て役だったような気がしてならなかった――より積み重ねたものほど、倒れた時の衝撃が大きいように。
「離婚しよう。真央との人生は歩めない――」


 ハッと夢から覚めた哲平は、ひどく現実味を覚えて憔悴していた。そこには年齢も変わらない等身大の自分がいて、まるで夢と現実を入り混ぜたような時間だった。夢で良かった――そう思った瞬間、哲平は自分の居る場所がバーでないことに気が付いた。
 ――駅の階段だ。
 全て夢だったのか? 朝になって動き出した社会の中に、まどろむ哲平は一人置き去りにされていた。

 不意に哲平は、強烈な吐き気に襲われた。こらえ切れず、その場で戻してしまった。
 ピンク色の液体がこぼれて、口に残っているのは後味の悪さだけだ。

 哲平は気付いた――心の中に居るのは、もう真央ではない。
 ふと思い立って、哲平は妻にメールを送った。
「昼メシは俺が作るよ」
 わけなく返信が来た。
「何かいいことでもあったの?」
 いつからだろう、妻が何とも素っ気無くなったのは――それでも、微笑ましい気分が哲平を包んでいた。


桜井隆弘
2011年07月05日(火) 01時27分10秒 公開
■この作品の著作権は桜井隆弘さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お読みいただきまして、ありがとうございます!

もし違う人生だったら。もっと良い人生を歩めたのではないか。
――色々考えますけど、“最高の人生”について僕はこう考えたいです。

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No.5  らいと  評価:40点  ■2011-08-11 03:36  ID:J44h6PeHayw
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拝読させて頂きました。
読んで思ったのは、場面転換が綺麗に決まっているなあという事でした。
酔い→終電(現実)→バー(架空)→駅(現実)
と綺麗にまとまっていると思いました。
内容については、他の方もおっしゃっていられるように、もう少し個々のエピソードに肉付けがあったらもっと楽しくなるんじゃないかと思いました。
面白かったです。
No.4  桜井隆弘  評価:0点  ■2011-07-22 22:37  ID:/A1B8CA1/bM
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お返事が遅くなりましてすいません。

御三方ともご指摘されることが共通していて、身に染みました(苦笑)
良い作品というのは、時間と情熱をより掛けて作り上げるものですね。
アイディアにあぐらをかいて、独り善がりな短編に仕上げてしまったことは僕の怠慢だったなーと痛感します。


>Physさん
シリアスシリーズの中でも、ほんわかシリーズです(笑)
お酒を飲めないとは勿体無い!
某赤塚不二夫先生を少しは見習ってください。

『誇らしい』のは、相手に対する感覚なので。
何でしょうね、自分のことは大抵恥ずかしいもんですね……。

怪しい世界を描いたので「ファンタジー板」に投稿しようかと思いましたし、
過去作『Mのアーティスト』も「ミステリ(SF)板」に投稿しようかと思ったんですが、
誰かさんが「桜井さんが現代板に帰ってきて嬉しい」とか言ってからこちらに住み着いてます(笑)

P.S. 本当は飾ったカッコイイ小説も書きたいのです。ですが、残念ながらその技量が無いのです。


>ゆうすけさん
やっぱり、誰でも考えるテーマですよね。
今の道でいいんだ……正直、これは自分に言い聞かせている部分もあります。
でも人生は一度きり、心に迷いを持ったまま生きるのは不幸なことだなーと思います。
過去を悔やむのではなく、未来に希望を持つことがあるべき姿なのだと信じたいです。

元気なベビちゃんは、お生まれになりましたでしょうか。

>山田さん
もっともなご指摘が客観的に掴めて、勉強になりました。
多分、僕自身が小説というものをまだ知らないのだと思います。
良い書き手というのは、同時に良い読み手でもあるんだなー……山田さんの書き込みを見て、そう思いました。
率直なご意見ありがとうございました。
No.3  山田さん  評価:20点  ■2011-07-18 14:14  ID:GuwX6j.lV5k
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 拝読しました。

 ちょっとあっさりしすぎているかな、というのが読み終えた後の第一印象でした。
 アナザーライフという名のカクテルを飲み終えた後に展開される真央とのやりとり、ここが作品の大きな見せ場の一つだと思うのですが、五行くらいで終わらせてしまっていますよね。
 ここはもっと書き込む必要があったように思います。
 それと哲平と実世界の妻との関係の描写ももう少しあれば、夢と現実の対比がもっとくっきりとしたのでは、と思います。
 実世界での妻との生活がはたしてどうであるのか、これがわからないと、夢を語られてもその夢が実世界と比べてどうだ、という感情が湧きにくいです。
 アイディアは面白いですし、最後の妻とのメールのやり取りは爽やかでとても後味がよかったです。
 なので、もう少し肉付けがあれば、もっともっと良い作品に仕上がったのではと思います。
No.2  ゆうすけ  評価:30点  ■2011-07-10 14:31  ID:.mJdzjZMq7k
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拝読させていただきました。

 面白い題材ですね。未練……あの時別の道を歩めたらどうなっていただろう? いろいろと考えさせられました。今の道でいいんだ、作者さんならではの一つの答えが心地いいです。桜井さんの想いが込められていますね。
 全体的に綺麗にまとまっているとは思いますが、やや淡々としているようにも感じました。これは私の好みなのですが、もっと熱く語ってくれたほうがより感情移入できそうにも思います。
 では創作活動がんばってくださいね。
No.1  Phys  評価:40点  ■2011-07-06 20:51  ID:RvOyUb/JnZI
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拝読しました。

桜井さんのシリアスシリーズ(?)、楽しみにしていました。
冒頭から大人の色気を感じる、お洒落なお話でした。私も行きつけのバーで、
いつものやつ、と頼める素敵な大人になりたいです。たぶん、出てくるのは
オレンジジュースとかですけど……。(私はお酒を飲むとすぐ赤くなります)

寝静まった街を歩く主人公が不思議なバーに辿り着く、という雰囲気作りが
とても自然で、流れるような筆運びでした。しいて言えば、マスターには、
おひげが欲しかったです。(笑)

>真央と付き合った日々は誇らしく、自信に満ちていた。
過ぎた恋を『誇らしい』と捉える主人公がかっこいいです。私なんて、過去の
自分がダメダメ過ぎて、思い出すと顔が火照ってタコみたいになります。

>「夢と現実を混ぜたカクテルです」
この台詞を見て、私はなぜか某不二子A不二雄先生の『笑うせえるすまん』を
思い出しました。(笑)小さい頃、怖いのに見てたなぁ。と懐かしくなります。
あ、なんか脱線しました。こういう、現実を踏み外して怪しい世界に引き込まれる
ような展開は、好きです。

夢を見ているシーンはもっと語っても良かったような気もしますし、この分量で
まとめてくるのはさすがですし……どっちとも言い難いです。こういうピリッとした、
締まりある短編を自分も書けるようになりたいです。

結末も綺麗で、桜井さんの飾らないお人柄や、幸福観を感じ取ることができた
気がします。過去に戻れたら……と思うことは私もよくありますが、やっぱり
現在と誠実に向き合うのが正しい人の在り方ですね。勉強になりました。

また、読ませて下さい。
総レス数 5  合計 130

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