味噌煮

 一日が終わり、わたしは家に帰りついた。
 かすかに陽が残るものの、空には下弦の月が頼りなく張りつき、今にも闇につつまれそうな気配だった。
 疲れた足を振り子のように進め、玄関を開けた。

 ‥味噌煮の匂いがした。

 わたしは一気に色めきたった。
 サバの味噌煮だ! 大好きなサバの味噌煮だ!
 そうか! 今日のことを覚えててくれたのか!
 わたしを靴を抜くのももどかしく、廊下へと駆け上がり、小走りにキッチンへと突進した。そして、矢も盾もたまらずキッチンのドアを開ける。

 彼女は俎板に向かい、コンロの上にはゆきひらがあった。
「ただいま」
「おかえり」
 彼女はそう答えつつ、わずかに振り向くと、ほっこりと笑った。
 そう。彼女はほっこりと笑った。それでわたしは、それまでの逸る気持ちが一気にやわらぐのを感じ、同時に、冷静を取り戻した。

 彼女は、そんなわたしの様子を確かめるように頷くと、再び俎板に向かい、トントンと何かを刻み始めた。ゆきひらからは静かに湯気が立ち昇り、かすかな帯となって辺りを満たしていた。
 ‥まず、味噌の焦げる香ばしさ。生姜の、せつなくも甘い香り。かすかに感じる酸っぱさは、昆布だろうか、梅干だろうか‥。それらの香りがないまぜになりつつ、なんともかぐわしい空間を創出していた。

「ただいま」
 もう一度言いながら、そっと彼女の背に手を触れる。
 彼女は、ほんの一瞬ぴくっと手を止め、わたしの方を向き、しっとりとまばたきをしてみせる。しかし、すぐに俎板に向き直りつつ、もう一度、「おかえり」と答えると、トントンと刻みものを再開した。
 彼女が刻んでいたのは白ネギで、それはやや大きめの微塵切りになっていた。
 流し台の上には、親指ほどの大きさに刻まれたネギの青い部分や、おそらくは指で千切り分けられた梅干、小口に刻まれた唐辛子、水に晒された千切り生姜などが、それぞれの容器に収まりつつ、その出番を待っていた。

 状況からして、まだ、サバそのものはゆきひらに投入されていない様子だった。
 わたしは、彼女の背に手を残したまま、もう片方の手の指を、そっとゆきひらに浸し、口へと運んだ。
 ‥味噌と生姜。その奥に潜む昆布の風味。
 ‥あぁ、うっとり。ここにサバと、目の前にある食材が投入され、美しいまでに美味しいサバの味噌煮が完成するのだ。
 そう思った瞬間、彼女の肩がぴくっと動いた。そして、めっ! という眼つきでわたしを見た。しかし、その眼に怖さは無く、むしろ、慈しみのようなものを感じた。
 そして、わたしと彼女は、そのまま軽くキスをした。ほんの少し唇が触れ合う程度の、互いの存在を確認しあう程度の、ほんの軽いキスだったけれど、わたしと彼女のあいだでは、それで十分だった。

「着替えてくる」
 わたしはそう言い、彼女は、「うん」と答えた。
 それでわたしはキッチンを出ると、しかし、やはりどこか落ちつかない気分で、とにかく部屋着に着替え、早々にキッチンへと戻った。

 そして、わたしがキッチンのドアを開けるのが、先だったか、後だったか。唐突に彼女が叫んだ。
「あ〜っ! つばいそだったぁ!」
 ‥へっ? つばいそ? サバじゃなくって、つばいそ?
 わたしは再び色めきたった。
 慌てて彼女の元に駆け寄ると、彼女は、おずおずとした様子で、手に持ったトレーをわたしの前に差出した。

 ‥なるほど。確かにつばいそである。
 未だスーパーのラベルが張られたままのトレーの上、そのラップごし、三枚に下ろされた切り身はいびつな光を放ちつつも、「確かにわたしはつばいそであります」と強く主張している。

 途方にくれる彼女。
 愕然とするわたし。

「‥どうしよう」
「どうって‥」
 お味噌香る状況の中、不毛な会話が交わされる。
 そして、やがて、わたしは言った。
「‥ここまで出来てるんだし、このままサバのつもりでやっちゃえば良いんじゃないの」
 それで彼女は、「やってみる」と答えると、ぺりぺりっとラップを剥がし、切り身を二つに切り分け、やや躊躇したのち飾り包丁を入れてから、つばいそをゆきひらへと投入した。

 ‥そのあとわたしは、風呂に入ったり、ちょっとだけ本を読んだりしていたので、くわしい事情はわからないのだけれど、その日の食卓には、味噌煮が並ばなかった。そして、翌日の食卓にもそれは無かった。

 そして、今日。何気なく冷蔵庫を開けたわたしは、ひとつのタッパーを発見した。
 そのタッパーは、やや恥ずかしそうに、冷蔵庫の隅のほうに配置されていた。
 開けてみると、それは、過日の味噌煮であった。

 わたしは、ドキドキしながら、ちょいと失敬して、それを食べてみた。
 そしてそれは、実に、つばいそを味噌で煮たような味がした。
YEBISU
2011年10月09日(日) 11時50分12秒 公開
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■作者からのメッセージ
「つばいそ」とは、ブリの幼名のことです。地方によっては呼び名が違うと思いますが、わたしの住む地域では、「つばいそ」なのです。
批評など頂けると、嬉しく思います。

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No.6  YEBISU  評価:--点  ■2011-10-16 04:44  ID:AdjJZ9RooXE
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おさん、メッセージありがとうございます。
「‥それだけで」との評、ありがとうございます。
えっと、元々ややこしい背景は設定していません。けれど、そこに背景を感じさせることが出来なかったのは、やはり筆力が足りないという事でしょう。
それと、「レトロ感」との評ですが、一応、現代、を設定して書いたので、それもやはり、力不足と思います。
ご批評、次の作品に活かせればと思いますので、また、よろしくお願いいたします。
No.5  お  評価:30点  ■2011-10-15 22:52  ID:L6TukelU0BA
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どーもさんです。
うーん、なんてことのない風景がなんてことなく繰り広げられなんてことなく終わってしまいました。それはそれでほっこりとよい雰囲気ではありつつ、なにかしら背景が忍ばされていたりが感じられなかったので、それはそれだけで終わってしまった感もまぁあるわけで。


レトロな雰囲気も感じたので戦後すぐとかそんな時代を思ったんですが、そうでもなさそうにも思えて残念でした。

No.4  YEBISU  評価:--点  ■2011-10-15 18:54  ID:AdjJZ9RooXE
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貴音さん、メッセージありがとうございます。
微笑ましい、との評、ありがとうございます。
それと、これは桜井さんから頂いた評とも重複してしまいますが、最後の一文を褒めていただき、とても嬉しく思います。
私としては、最初の一行と最後の一行には、随分と気をつかっているつもりだったので、ほんとうに嬉しく思います。

あと、味噌煮といえば、やっぱサバでしょう(笑)
No.3  貴音  評価:40点  ■2011-10-12 21:33  ID:ehlEiC0vTxA
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読ませて頂きました。
理由を聞かれると実は困りますが、
この作品はとても好きです。
微笑ましいからでしょうか。
味噌煮はサバじゃないとだめなんですね。
そしてサバでこんなに一喜一憂するところ
が心温まる感じでした。
最後の一文がとても良いと思います。
No.2  YEBISU  評価:--点  ■2011-10-11 18:28  ID:AdjJZ9RooXE
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桜井さん、メッセージありがとうございます。
えっと、「今日のこと」についてのご指摘ですが、投稿前、この一文を残すか削除するか結構迷いました。
ぶっちゃけ、この一文については何の設定もありません。
ただ、どうせワケのわからない話しだし、こういう、いかにもな一文があっても良いかなと思い、結局そのままにしてしまいました。
でも、やはり余計な一文だったかと反省しております。

蛇足ながら。わたしの地方では、「つばいそ」「ふくらぎ」「がんど」「ぶり」の順で呼び名が変わります(笑)
No.1  桜井隆弘  評価:30点  ■2011-10-10 00:28  ID:6Eu6ssUNkPc
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若い男女のように見受けられますが、一方でサバの味噌煮で色めき立ったり、主人公の落ち着いた語り口が対照的で、不思議な感覚を覚えました。
「今日のこと」が何なのか、わかりませんでした……いや、記念日にサバミソは渋過ぎだから無いよなーとか(笑)

情景描写に凝りながらも、コミカルなシーンを織り交ぜるあたり、緩急を付けるようで巧みだと思いました。
モールス信号みたいでした。メッシのドリブルみたいでした。

何よりも、最後の一行で笑わせていただきました。
YEBISUさんの生まれ持ったセンスを感じさせていただきました。
タイトルは比較的地味ですが、これを活かす為にあったんだなーと。

余談ですが、母の実家の方ではブリの幼名を「ふくらぎ」と呼んでいます。
大きさといい、銀から黒がかった色合いといい、三枚卸されていれば確かにサバと間違えそうですね(笑)
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