夜空と桜
 男は街中を闊歩していた。
 特に用事があるわけでもない。男はいつもそうだった。ただ何も考えずに街中を練り歩く。人にぶつかれば殴り、腹が減ると店のものを適当に盗んで食べた。最も欲しいものは金よりも酒だった。金で酒を交換してもらうなんて、そんな面倒くさいことをしてはいられない。金など無くても、始めから酒があればいいのだ。
 アルコールが体内に溜まっていないと、男はいつも以上に落ち着きが無かった。酒を飲んでいないと、また色々と思い出してしまう。いじめ、初恋、不合格通知、友人、裏切り、結婚、子供たち、リストラ、別居、親権裁判、離婚、病院、薬……。やはり、酒が無くてはやっていけない。自らの弱さなど知りたくないのだ。男は過去を捨てた。いや、正確には捨てた「つもり」でいた。本当は、過去は捨てられないものだということを知っている。全てが現在の自分を形成しているのだ。だから、まぁ、とにかく酒が欲しい。

 路地裏へ入っていくと、小さな酒屋の裏口が開いていた。中を覗いてみると誰もいない。ドアの横にはビールケースが高く積まれており、男はそれを見ただけで、手の震えが止まるのを感じた。やっと見つけた。しかし、随分と量が多いな。花見の季節だからだろうか。親の脛をかじっている大学生や、世渡り上手なサラリーマンなんかが、夜通しこのビールを飲み続けるのだ。阿呆らしい。あれのどこが花見なんだ。花がなくても、奴らは騒げるはずだ。守るべきものや、大切な何かを持っているからこそ、羽目を外したくなるというものである。失うものが何一つない人間は、強くも何ともない。お祭り騒ぎをしてみたところで、心から楽しめやしない。何もないのだから。奴らは他にも、たくさんのものを持っている。このビールだけが全てではない。だが、いま自分がこのビールを飲めなかったら?そうしたら、もう生きてはいけないだろう。何故なら目の前のこのビールこそ、自分の全てなのだから。あんな馬鹿連中が飲んだって、このビールに「酒」以上の価値は見出せまい。だが、自分が飲めば、ビールは「宇宙」にもなれるし「神」にもなれる。そちらのほうが、どんなに素晴らしいだろう。そうだ、自分が飲むべきだ。
 男は辺りを見渡し、誰もいないことを確かめると、一番上のビールケースを下へ降ろそうと試みた。だが、ろくに食べていない体には相当な重量で、男はケースを降ろすことが出来なかった。元の位置へとずらし、溜め息混じりに息を吐く。
 せめて一本だけでも。そう思い、男は自分の中に残っている全ての力を使い果たす勢いで、再度挑戦をしてみた。支えとなる足の筋肉は休むことなく震えていた。力を分散させなければ。足への負担は極力減らさなければならない。いざという時に逃げることができないと大変だ。腹筋や背筋の力も使いながら、除々にケースをずらしていく。次第に腕の中に包まれていくビールケースの中には、カチャカチャと音をたてながら十二本のビール瓶が整然と並んでいた。それらは男の瞳の中に映されると、更に輝きを増した。それはまるで、太古の記憶を抱いたまま、何万年、何億年という年月を過ごしてきた琥珀のようであり、男は権威ある考古学者が世紀の大発見をしたかのような気分になった。これだ。これが自分の探していたものだ。中に満たされている至福の味を思うと、男の顔は緩むことを厭わなかった。
 ケースを床へ降ろしていく。体を折るように上半身を屈ませると、腰を痛める可能性が高くなるので、膝のバネを利用して体全体を荷物と共に地面へ近づけていく。学生の頃にバイトをしていた梱包倉庫で、先輩に教えてもらった方法である。若いときに習ったことは歳を重ねても覚えているものだなと、人間の記憶能力に感心すると同時に、このような盗みの場面で役に立ったことに、何とも言えない複雑な気持ちを抱いた。
 降ろし終えると、男はまず伸びをした。やり方を覚えていても、もう体は以前の柔軟さを失っていた。歳はとりたくないものだ。体だけではなく、精神までも廃れていってしまう。だが、そんな感傷に浸るのは後でいい。やっとこれで酒が手に入るのだから。飴色のビール瓶を一本手に取り、目線の高さまで持ち上げると、小さな窓から射し込む三月の西日が、瓶に向かって突き進んできた。男はしばらくの間見惚れていたが、やがてその瓶を羽織っていたコートの中に隠し、足早にその場を後にした。

 酒が手に入った嬉しさで、男の足取りは非常に軽いものになっていた。今すぐに飲みたいが、どうせなら静かなところでゆっくり飲もう。人間も高層ビルもない、どこか静かな場所。公園なら木々も多いしベンチもある。あまり大きな所は駄目だ。この時期は花見客で埋め尽くされている。警察も巡回しているし、盗人にとっては安全ではない。男は繁華街を外れて、静寂を求めさ迷った。
 住宅街へ足を踏み入れると、男と春の風の足音だけが空気を揺らしていた。近頃の家は皆、一様に閉鎖的で嫌になる。日の暮れてしまった今時分には、ほとんどの家が雨戸を閉めてしまっていて、トイレの窓や出窓のような小さな窓から漏れてくる僅かな光のみが、人間の気配を漂わせている。まるで、外界との繋がりを徹底的に遮断しようとしているかのようだ。中はきっと、家庭の温もりで満たされているだろう。いや、そうとも限らないか。もしかするとこの外の世界よりも冷えているのかもしれない。家も人も、それを隠すことに必死になっている。ふと、男は以前に自分が持っていた家庭のことを思い出した。


リストラの宣告を受けてしばらくは、妻にも子供達にも悟られぬように普段どおりに生活をした。早朝のジョギングを済ませて帰宅をし、忙しなく働く妻に娘を起こしてくるように言われて二階へと上がる。娘は中学生になったころから父親が部屋に無断で入ることを禁止した。始めは淋しくも思ったが、二、三年もその状況が続けば慣れてしまうものである。ドアを開け、ベッドの上の固まりに向かってその場から時刻を伝える。もぞもぞと動いたことを確認してからドアを閉める。反応が全くないのに戻ってくると、娘にも妻にも後々怒られることになってしまうのだ(「なんでちゃんと起こしてくれなかったの!?もう絶対遅刻。パパのせいだからね」「動いたり返事がなかったりしたらもう一度声を掛けるとか、それくらい自分で判断してよ。こっちは朝御飯作らなきゃいけないから忙しいのに」)。リビングに戻り、既に起きていた息子と共に朝食を取る。会話はない。受験を控えている彼は、家の中で見掛ける度に単語帳やら参考書を開いていた。わからないところを私に尋ねてくることが無くなったのはいつからだろう。「パパ」ではなく「親父」と呼ぶようになったのはいつからだろう。
出勤の真似事をしたあとは、最寄駅から三駅目のパチンコ店で一日の大半を過ごした。新たな仕事を見つけなければならないとの焦りはもちろんあったのだが、気付くと足が勝手にパチンコ店へと動いているのだ。増えて減って、減って減ってまた増えての繰り返し。軍資金は大量になることも底を尽きることもなかった。
そうやって一週間ほど過ごしていたある日、たまには昼間の公園で昼食をとろうと思い立ち、コンビニで握飯とお茶を購入した。駅前から離れた住宅街の中にある小さな公園へ入ると、ベンチに制服姿の女の子が座っているのが見えた。父親が自分の子供を見間違えることなどあるはずがない。娘だった。顔を上げて目が合うと、お互いに呆然としたまま、しばらく思考が停止した。秋の風が、私達の間を枯葉と共に吹きぬけていった。


 この住宅街の中に、自分が築き、壊してしまったあのような家庭が幾つあるだろう。何に怒り、何に哀しんで生きているのだろう。……余計なことを思い出してしまった。これも、アルコールが切れかかっているせいだ。早くこのビールを飲まなければ。
 しばらく歩いていると、男が望んでいたような公園が忽然と姿を現した。それ程広いというわけではなく、しかし、狭すぎるわけでもない適度な広さ。遊具のある場所と原っぱとの境界線には一本の桜が植えられており、素直にその身を風へと任せていた。辺りは静寂に包まれており、男は満足気にベンチに腰を下ろした。
 常に持ち歩いている錆だらけの栓抜きで、ビールの栓を抜く。ポンッという音と共に、中から泡が吹き上がってくる。歩いているうちに振られてしまったのだろう。慌てて口を当て、そのままビールを流し込む。喉を冷たい感触が伝っていくと、後から舌の上に広がっていく独特の苦味。ビールは味わうというものではない。喉越しの爽快感を楽しむものだ。「ビールは苦くて好きじゃない」と女子供がよく言うのは、味覚で楽しもうとしているからである。味なんて、ほのかに香る苦味程度で充分だ。男に言わせれば、カクテルやチューハイなどは酒ではない。アルコールが混入したジュースというだけの代物である。まだ少し冬を引きずっている風と、食道を通り胃に到達したビールによって、男は軽く身震いをした。そしてまた一口、丁寧にビールを流し込む。アルコールの成分が、爪の先までまんべんなく巡っていく様を想像し、溜め息混じりに息を吐く。盗みを働いたときとは違う、安堵の溜め息である。
 それにしてもこの公園は静かだ。風が揺らす葉の擦れる音くらいしか、耳に入ってくるものはなかった。ずっと駅の周辺で寝泊りをしていたものだから、人工的な音以外のものに囲まれるのは久しぶりのことで、何だか酷く懐かしい気持ちになった。目を閉じて風の音に耳をすませる。大気中の粒子の流れが、目の前に浮かんでくる。右から左へ、互いにぶつかり合い、押し合いながら動いていく。やがてその一粒一粒が、前方からくる別の流れによって、方向を変えさせられる。男に向かって迫ってくる。耳の中に進入すると、鼓膜に到達したそれの震えを、脳は娘の声だと認識した。


「パパ?」
娘は訝しげに私を見据えながら、ベンチから立ち上がった。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる彼女は、制服を着ているのに随分と大人びて見えた。いつも私が先に家を出るので、化粧をして学校に行っているだなんて知らなかったのだ。家族ではない他の誰かを見ているようで、体が少し強張る。
「会社は?早上がりとか?…それより、あたしは何なんだって話だよね。えっと、あの……」
俯いたまま、それ以上を口に出さなくなった娘をしばらくの間眺めた後、とりあえず座ろうと言って私はベンチへ歩いて行った。どちらが決めたわけでもないのに、それぞれ両端に座る。無言の時間が長く続いたように思えたが、娘が再び喋り出したときに腕時計を覗いてみると、私がパチンコ店を出てから二十分ほどしかたっていなかった。
「たまにね、あの、本当にたまになんだけど、こうやって授業さぼって…たの。別にね!その、…友達がいないだとか、いじめられてるとか、そういうんじゃないの。ただ、……なんとなく」
「学校って、この近くだったのか」
「えっ?…あ、うん。」
正直、娘が何故この時間に公園にいるのかなどはどうでもよかった。私は私自身の言い訳をどうするかで頭の中は満たされていた。だからこのときの質問も、上の空で耳に入ってくる娘の弁解を聞き流しながら、ふと頭の片隅に湧いて出た疑問を口に出してみただけのことであった。この後娘が独り言のように呟いた言葉を理解するなど、その時の私には到底出来ないことだったのだ。今なら、「そんなことくらい、知ってると思ってた……」と言っていたのだと思い出せる。きっと娘が妻について行ったのは、経済面やその他生活に関わることを考慮してというよりも、このときの私の対応が原因だったのではないだろうか。まぁ、今となっては何もわからない。
「それで、…パパは?会社からここって、結構距離あるよね?仕事終わったとしても、随分と前に切り上げてないと、ここ来れなくない?」
自分のことを私が問いただしてこないことがわかったのか、娘は先程よりも落ち着いた声で質問をしてきた。
「そうだな。仕事は随分前に切り上げたからなぁ。」
私はもう覚悟を決めていた。再就職を決めて、給料明細を見て不審に思った妻が私に説明を求めてきたら、リストラをされ新しい職場で働いていることを告げようと思っていた。だが、世の中はそんなに甘いものではない。わかっていたはずなのに、何故逃げていたのだろう。娘に見つかったのは、良いきっかけなのかもしれない。
「随分前って、……いつ?」
「一週間くらい前かなぁ。」
私の返答を聞き、娘の時間は再び止まってしまった様子であったが、私の時間は一週間前のリストラ勧告からやっと動き出した。先程の無言の状態と同じく、この期間も長く続いたように思えたが、ほんの一週間の出来事だと気付き、生まれて初めて相対性理論を身近に感じることが出来た。人間の感覚というのはつくづく当てにならない。


 我に返った男は、思い出したことを消し去るように頭を横に激しく振った。駄目だ、どうして思い出してしまうのだろう。過去はもう捨てたのだ。拾わなければならない記憶なんてどこにも残ってはいない。もう全てが他人事だ、関係ないのだ。男は勢いよく瓶を振り上げ、ゴクゴクと音を立てながらビールを一気に流し込んでいった。こんなに過去を振り返ってしまうのは、アルコールが足りないせいだ。或いはまだ、全身に行き渡っていないのかもしれない。体を動かせば、血の巡りが良くなるはずだ。男は体を動かそうと立ち上がったが、おぼつかない足の動きをコントロール出来ずにその場に倒れこんだ。男の形に沿って、砂埃が巻き上がる。強い衝撃が体中を走りぬけ、しばらくの間、男は低く唸りながら固く目を閉じていた。
 一回、大きな風が男の体を撫でたあと、ゆっくりと目を開いてみると、この公園で唯一色彩を持つ桜の木が、闇夜の中で妖艶に浮かび上がっていた。昼間に見ることが出来る可憐な薄桃色ではない、自らが発光しているかのような妖しげな淡い藤色。周囲の暗闇がその色をより一層強調していて、何やら神聖さすら感じさせるほどであった。男はしばらくそれを呆然と眺めていたが、やがて、その桜の木の下に一人の女がいるのを認めた。上に咲き誇る桜と同じ淡い藤色の着物を着て、男のほうをじっと見据えていた。誰もいないと思っていたのだが、いつからあそこにいたのだろう。風が桜の花びらを静かに散らすと、女の着物の裾や纏めている漆黒の髪の毛もゆっくりと波を立てていた。まるでそのまま地面に倒れてしまいそうな危うさがあり、男は無意識のうちに手を差し出しながら女のほうへと足を動かしていた。
 真正面まできてみると、暗がりの中でも女の顔をはっきりと眺めることができた。随分と整った顔立ちをしている。西洋風の綺麗さとはまた違い、どちらかというと日本美女といった具合であった。藤色に見えた着物も、桜と同じで夜の闇がそうさせたのか、近くで見ると淡い桃色をしていた。腰に巻きつけられた暗めの色合いの帯には(こちらの色は定かではなかった)、美しい朱雀の刺繍が施されていた。女は微笑を湛えたまま、男から目を離さない。そのまま男は、その目の奥を見詰めていた。攻めるわけでも咎めるわけでもない、無感情なその目線に、男は見覚えがあった。次第に全ての神経がその目の中へと吸い込まれていく。バラバラになったそれらが再び一つに結合されて、目の前の女が放つ目線の到達点へと意識が流動していく。風は再び秋に回帰した。


妻は普段からよく愚痴を言う人間であった。若いころなどは私もそれに対して怒りを露わにしたことがあったが、子供が出来てからは我慢するようになった。両親の喧嘩をする姿など、子供には見せてはいけないものである。散々見せられてきた私自身の過去を思い、自分の子供達にはそのような記憶を残してしまわないようにしたかったのだ。当然、妻の私を見る目は、年を追うごとに非難を浴びせる格好が多くなっていった。
しかし、このような目で見られるのは初めてであった。およそ感情というものが伝わってこないような、冷たさすら感じられない無の目線。実像として目の前に妻がいるのをこの目で確かめられているというのに、相手の存在を不確かに思わせる矛盾を秘めたその目線に、私は激しく惑ってしまい、思わず俯いた。
沈黙を破ったのは妻ではなく私であった。
「再就職が決まってから言うつもりだったんだ。そんなに時間が掛かるとも思っていなくて」
妻は何も答えず、ただ私を見詰めていた。私に対して不平不満をぶつけるときのように、攻め立てるような態度を取ってくれるだろう、だからいつもと変わらず我慢をしていれば嵐は過ぎ去るはずだ。そう考えていただけに、予想外の態度を取られた私は、それ以上言葉を続けることが出来なかった。
次に沈黙を破ったのは私ではなく妻であった。
「今、あたしが何を考えてるかわかる?」
私は答えることが出来なかった。そもそも、ここ数年、彼女の思考というものを理解できたことがない。いや、理解しようとしてこなかったというほうが正しいだろう。面倒なことには関わらないようにとの気持ちを優先してきた結果、いつのまにか私は家族から離れようとばかりしていた。昔は、相手のことを少しでもわかってやれるようにと必死になっていたというのに。既に私達の間での夫婦の関係というのは、子供達の為だけに維持されていた無機質な契約でしかなかった。
「相手のことを考えるのは、疲れること」
自分の中で考えを巡らせているときに、突然妻が口を開いた為、私は一瞬体をびくつかせた。
「だから段々とそれをしなくなる。そうやっていくうちに、距離が広がっていく。接触を図ることに恐怖心を抱くようになる」
妻の言うことがことごとく私の意見と合致するので、私は少し驚いた。と同時に、多少の希望を見出した。お互いに考えていることが同じならば、改善法も考えやすいのではないだろうか。ここまでになってしまった夫婦関係のプロセスを互いに理解しているのだから、話は早い。強制的に退職をされたという非常にデリケートな話題の中で、今後の関係を良好に、より強固なものにしてくれるやもしれぬこの展開に、私は少しばかりの興奮を覚えた。
「そ、それ、俺も感じてたことなんだ。そうだよな、俺はお前からも子供達からも逃げていたんだと思う。だからこうやって、面と向かって話し合うことにもリストラの報告をすることにも躊躇いがあったんだ。普段のコミュニケーションがしっかりしてないから、こうやっていざとなったときに上手くいかないんだよな。ははっ。でもこれからは」
「当たり前じゃない。」
妻はあの無感情な目を下へ向けながら、私の言葉を遮った。まぶたに影が差し込んだ。
「あ、当たり前?何が?」
「[俺も感じてた]っていうのが。だって私は、今あなたが考えてただろうなってことを口にしてみただけだもの」
全身から嫌な汗が噴出す。私の脳は、妻の言っていることを理解できていなかったが、体は正直な反応を示した。
「私がいま言ったこと、全部あなたの考えと合ってたでしょ?普段のコミュニケーションが取れてなくても、私はあなたの考えは大体わかってるつもり。……あなたもそうだと思ってたけど。やっぱりあたしの勘違いだったみたいね。」
少しでも光を見出したと思った私が愚かであった。始めから、そこには闇の答えしか用意されていなかったのだ。口の中は乾ききっているのに、私はゴクリと喉を鳴らした。空気の粒子が流れ込む。
「あたしはこうやって、あなたの考えを自分なりに想像して答えることが出来る。でもあなたはそれがもう出来ない。当たってるか間違ってるかを気にしすぎて、相手の気持ちを考えてみようとする意欲を失っちゃったのよ。それって、もう興味や関心すら抱かなくなっちゃったってことでしょ?」
妻の先程の目。あの思考の読めない目は私を探っていた目だったのだろう。自分の思考が知らないうちに摘まれていたことを思い、私は恐ろしさを感じた。同時に、その目に影が出来たあの瞬間、彼女が感じたものが失望であることにやっと気付いた。自分の感じ取った私の思考が嘘であると、少し期待を抱いていたのだろう。私が不用意に妻の発言を自分の考えと同じだと言わなければ、彼女の失望は防げたかもしれない。
「……憲二も今年受験だし。まぁ、あの子はきっと国立に受かってくれるだろうから何とかなるかもしれないけど。綾子だってあと二年したら受験だもの。」
息子が国立の大学を志望していることすら知らなかったので、私は妻の言葉を聞いても何も返事をすることが出来なかった。時計の秒針が、沈黙の時間を細かく説明してくる。
「憲二の受験費用は私の貯金で何とかなる。当分の生活も私の給料で何とかなると思う。ただ……」
私は妻の言いたいことを、このとき初めて察することができた。握っていた拳から力が抜けていくのを感じ、自分が今まで酷く緊張していたのだということに気付いた。
「これはいいきっかけなのかもしれないって思うの、あたしにとって。…多分、あなたにとっても。もうあなたがあたしの近くにいないことは気がついてたし、このままでいても何もプラスにはならない」
妻に気付かれないように、そっと深呼吸をする。
「いま憲二に変な心配をかけさせたくはない。あたしから綾子にもそれは言っておく」
体の震えが止まらない。
「だから、憲二の受験が終わったら、……夫婦をやめましょう」


「やめたいのかしら?」
 女の声で、男は春へと戻った。
「過去を思い出すの、やめたいのかしら?」
 この女も考えを見抜いていたのかと思うと、男は腹立たしさが込み上げてきた。大体、この女がそんな目をしなければ、妻のことを思い出すことはなかったのだ。男は踵を返し、元いたベンチのほうへと歩こうとした。すると、女が腕を掴み、強引に男の唇を奪った。突然のことに、男は成されるがままであった。
「捨てたいんじゃなくて?昔の記憶。私が忘れさせてあげると言ったら、あなたはどういう反応を示すでしょうね。……ね?」
 呆然とその場に立ち尽くす男の股間を、女はゆっくりと撫で上げながら言った。事態の把握が侭ならない男は、しかし、自身のそれをしっかりと勃たせた。女の肌なんて、もう何年触っていないだろう。気付いたときには意識の覚醒を止められない状態となっていた。
 多少乱暴に着物を脱がしながら、女をその場に寝かせる。着物の上からではわかりづらかった豊満な乳房を掌に収めながら、その上にぽつんと居座る突起に舌を絡ませる。唾液の音が耳を刺激すると、男の興奮は更に増していく。左は指で、右は舌で攻めていく。女の吐息交じりの喘ぎ声が、風と共に空気を震わせる。衣擦れの音がそれに呼応するかのように、女の足のほうから男を悦楽へと誘う。乳房の柔らかさを一通り感じたあと、着物を全て脱がし、女の股間を弄る。既に溢れ出ている愛液の感触が、男の挿入欲に拍車を掛けていく。足を開かせ、舌を這わせる。子供の水遊びのような音が辺りに響き渡ると、もう男は前戯を切り上げて挿れてしまいたい思いで満たされていく。ふいに、女が上半身を起こして男の顔を無理矢理自分のほうへと向けさせる。
「まだ駄目。もっとお互いに焦らしあわなくては」
 その後、男は女の体を飽きるほど味わいつくした。次第に全てを忘れていき、いま目の前にある女の艶めかしい肢体にのみ、心を向けることが出来ていた。既に、公園であることなど頭にはなかった。
「あとはもう、あなたのご自由になさって」
 数えられないほど何度も交わした深い接吻のあと、女は男にそう告げた。男は無言で女の足を持ち上げ、ゆっくりと自身を挿れていく。柔らかさに包まれていく感触が、男の脳を最大級の刺激で以って襲い掛かる。ビールケースを降ろしたときには悲鳴をあげていた腰も、このときばかりは以前と変わらぬ動きを見せた。アドレナリンの分泌量が、限界点を超えていく。飽和状態になって脳から溢れ出てくるその中に、記憶の欠片が顔を覗かせる。


世の中的には不倫というのだろうが、私にも美香にも恋愛感情はまるでなかった。若者がいうセフレというものに当てはまるのだろうか。妻とセックスレスになってから、よく行くバーで知り合った彼女との性行為を楽しむようになっていった。
「ね〜え、タカちゃん今日は何だか激しい気がするよ〜?いいことでもあった?」
バックから挿れられながら、美香は甘えた声で言った。
「いいや、その逆だよ。うっ……、ゴメン、もう」
「うん、いいよ」
行為自体よりも、私は終わった後に寝ながら美香と話をするのが好きであった。妻よりも年齢は若いのに、彼女のほうが余程大人の思考を持ち合わせているように思えて、何でも話してしまいたくなるのだ。彼女だけは私の前からいなくならないだろうと、無意味な自信すらあった。
「ねぇねぇ、何があったの?逆ってことは、相当嫌なことなんだ」
美香はいつでも好奇心丸出しで質問をしてくる。それなのに、相手に不快感を与えないのがこの娘の良いところだ。
「実は妻とその、話し合いみたいなことをしてね」
「え!?マジで!?ついにあたしとの関係がばれちゃったわけだ!やだ〜修羅場じゃ〜ん!!」
当人であるはずなのに、美香は嬉しそうにはしゃぎながら東京事変の修羅場を口ずさみ始めた。サスペンスや昼のドラマが好きな彼女に、誰がその場の役者になるかは余り問題ではないらしい。むしろ自分自身がなることを心待ちにしている様子だ。
「いや、そうじゃないんだよ」
私の言葉に美香が軽く舌打ちをする。
「なぁんだ、つまんないの。で?なんで話し合いなんかしたの?」
切り替えが早いのも彼女の良いところだ。万華鏡のようにコロコロと変わる表情は、見ていて飽きない。
「実は、この前リストラされちゃって。ははっ、妻に言ったら離婚してくれって言われちゃったよ、参った参った」
美香はきっと楽しみながらこの話を聞いてくれると思っていた。これからあたしたちどうなっていくんだろうね、などと言って、子供のように目を輝かせてくれると、私はそう思っていたのだ。本気でそのような淡い期待を抱いていた自分を情けなく思う。
「じゃあ、……タカちゃん、仕事なくなっちゃったの?」
深刻そうな彼女の顔を始めて見たので、私は酷く惑った。美香の全てを知り尽くしていたような気になっていたことに、何の疑問も持たなかったのは何故だったのだろう。
「あ、あぁ。いや、でも、再就職先はいま探してるんだ。だからすぐに新しい仕事に就けるさ」
「ふ〜ん。…そっか」
その日以降、彼女との連絡は途絶えた。元々、体だけの関係と割り切っていたのだし、収入のなくなった男と関係を保つことが彼女のプラスになることはまずない。しかし、私にとっては明らかなマイナスであった。唯一と言っていいほど彼女にしか胸の内を曝け出せなかった私は、このさき誰に吐き出していけば良いのかがわからずに途方に暮れた。翌日、息子には悪いと思いながら妻に別居を提案し、その日中に私は家を出た。


 性交時の女の思考は半分ほど別のことを考えているとよく言われるが、男もまた、全ての神経を快楽へと向けているわけではない。腰を忙しなく動かしているその最中でも、別の思考に脳を支配されることがよくある。一体、世の中の男女のどれくらいが、純粋な気持ちの下で行為に励んでいるのだろうか。もし、その誰もが別の何かに気を取られながらお互いを愛撫しているのならば、実に奇妙なその行為を、我々は何の疑問も抱かずに「愛」になぞらえて語っているのだろうか。
「滑稽だ」
 男の口は、にやりという不気味な笑みと共に嘲笑するかのような言葉を零した。すでに汗は玉のように噴出し、背の皮膚と衣服との隙間を流れ落ち、吐息と合流してお互いを溶け合わせる。春の風がそこに語りかけると、大気の中へと優しく蒸発していく。
 ふいに、女の吐息が聞こえなくなっていることに気付いた。耳に届くのは自らの獣のような漏れ声と、風が揺らす桜の擦れる音だけとなっていた。男は突然、独りぼっちで世界に放り出されたような気分になり、素早く辺りを見回した。静寂の公園には人影は見えず、相変わらず聞こえてくるのは風の戯れだけであった。女は?女はここにいる?
 男は下を見た。女は確かにここにいた。こちらを見て微笑んでいる。あぁ、良かった。私は見捨てられたわけではない。会社も妻も美香も、この社会という想像を遥かに超えた巨大な思惑が絶えず蠢いているシステム全体からも、何もかもから見捨てられた自分。何でもないような、賢しらな虚勢を張るのはもう疲れてしまった。本当はどんなに淋しく、悲しい気持ちに支配されてきたか。それを口にして、意識してしまえば、もう元には戻れないくらい、いや人間としての自分を保つことは出来ないのではないかと思えるくらい、それらの感情が恐ろしくて仕方がなかった。暗闇の向こうからやってくる若者の話し声から身を隠しているときのあの情けなさと屈辱。空腹なのにも関わらず、それ以上に酒を欲してしまう自制の効かなさを恨んだりもした。汚れていく衣服を気にしなくなったのはいつだろう。身体の汚れを気にしなくなるよりも先だったのだろうか。充分な睡眠なんてものがこの世の中にあるのかどうか、最早忘れてしまった。いや、それは以前の生活でも同じだったのかもしれない。気が休まることなんてなかった。毎日何かしらに不満と怒りを感じ、それらを消滅させてくれるように思えたものは全て幻想の産物であると気づいたときには全てが遅かった。そう、全てが遅かったのだ。いつからなのかなんて、考えたってわからない。「あのときのあれ」などという明確な原因などは無く、そもそも初めから私の中には正常な生活を歩める力は備わっていなかったのだ。つまりそうすると、私のこの人生は私にとっての正常なのかもしれない。それなら納得出来なくもない。「運命」ってやつなんじゃないのか?誰も抗うことが出来ないという、どうしようもないほどの力を持った。

 女はまだ微笑んでいた。その微笑には、男の全てを包み込む強力なパワーがあった。もう独りじゃない。ずっと怖くて、負けそうで。すぐにでも折れてしまうのではないかと思っていたのに、この女は全てを受け入れてくれている。男はその微笑につられて、へへっと息を漏らし、不器用に口角を上げて見せた。目は涙で溢れかえりそうだった。
 男のそれに呼応するかのように、女は微笑みを少しずつ崩し、きれいに並んだ白い歯をこちらに向けた。始めこそ美しいと感じたその白さに、男は次第に不気味さを覚えた。嘲笑でもなく、喜びを表現しているようでもないその無機質な笑みが、瞬き一つせずにこちらを向いている。口角を引きつらせたまま、男は思わず目を逸らした。女の乳房と、そのすぐ下には自らの陰毛が目に入る。……何故だ?女の腹が見当たらない。自分は確かに膣に挿入していたはずなのに。良く見てみると、自分の足が女の腋のすぐ下から出ている。すかさず後ろを振り向くと、だらんと芝の上に投げ出された女の下半身がそこに横たわっていた。
「ねぇ」
 女の声に、男はびくついた。徐々に息が上がっていく。驚きで止まっていた汗が、再び大量に噴出してくる。まさか、いや、でも……。ゆっくりと振り向くと、女は先程の笑顔のままで宙を眺めていた。男は全身の震えを抑えることが出来ずにいた。
「受け入れて、あげましょう。……ね」
 女の手が男のほうへと伸びてくる。振り払おうにも、もはやそのような力は残っていなかった。首の後ろへと回されたその手は、ゆっくりと、しかし確かな力強さで男を引き寄せた。震える男の唇に、柔らかな感触と春の空気のような爽やかで涼やかな冷たさが覆いかぶさった。身体はぬるま湯のように生温かい女の中に沈んでいく。わかっているのに、何も抵抗が出来ない。取り込まれていく先には、一体何が待っているのだろう。受け入れてもらえたのだろうか。だとしたら、それは自分の望んだ最高の結末なんじゃないか?そう思うと、このまま沈んでいくのも悪くないように思えてくる。「運命」として。
 唇を離したとき、男の身体はすでに女の中に全て溶け込んでおり、女の首から自らの頭が生えているような状態となっていた。その頭も、少しずつ女の中へと沈んでいく。ゆっくりと女の顔を眺めながら、男は酷く穏やかな気持ちでいた。これまで生きてきた中で、味わったことがない程の安堵感。もう、何も考えられない。考えなくていい。


 女は力強く、男の頭を自らの中へと押し込んだ。




 春の夜、桜は白く輝き出す。
 昼間のうちに溜め込んだ、生きものから得たその力。
 惜しむことなく気に放つ。
 粗朶を落としたその土地に、救われぬ命の在らんことを。
H.T.Facteaur
2011年08月30日(火) 12時55分35秒 公開
■この作品の著作権はH.T.Facteaurさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ジャンルがわからず、こちらに投稿させていただきました。桜のイメージ。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  H.T.Facteaur  評価:--点  ■2011-09-05 02:26  ID:tqthLNVEL6k
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山田さん様

はじめまして。読んで下さりありがとうございます!

男性目線というのはすごく当たっていると思います。
自分の中で昔から桜は「狂わされそう」っていうイメージが強くて。子供のときは桜吹雪が吹いてると泣き叫んでいました笑
魅力的な女性(性的な意味合いだけではなく)を見ると「桜みたいな人だな」と思うので、やっぱりこれは男の感覚なんだろうなと。

書いた本人も作品をよく理解していないので笑
感想ありがとうございました!
No.3  H.T.Facteaur  評価:--点  ■2011-09-05 02:20  ID:tqthLNVEL6k
PASS 編集 削除
陣家様

はじめまして。そしてコメントありがとうございます!
ずっと0だったから、このまま誰もコメントくれなかったらどうしようと思っていました笑

深く考察していただけて、とても嬉しいです。胎児に戻るという発想は面白いですね!自分では桜が栄養補給したってゆう、サラリーマンがタウリン摂取するようなイメージだったので笑 陣家さんの感想に目から鱗でした

やはり最後は唐突すぎましたよね。。
もう少し取り込まれる前の段階から非日常を徐々に描いていけたら良かったのですが。力尽きてしまい強引に終わらせてしまったことを反省しています

的確なアドバイス、ありがとうございました!
No.2  山田さん  評価:30点  ■2011-09-04 17:29  ID:3RErvQF9ZU.
PASS 編集 削除
 拝読しました。

 桜=死、といった感じでしょうか。
 結局、最後まで彼を見捨てなかったのは「死」だったのかな、なんて考えると切ないです。
 彼自身、死を見つめて「こちらを見て微笑んでいる。あぁ、良かった。私は見捨てられたわけではない」と言ってしまっている。
 そして「運命」だと自分に言い含めて、死に受け入れられていく。

 桜=死=女 ってイメージはやはりこの作品の視点が男性だからでしょうかね。
 もし女性が同じような境遇に陥ったら、いったいどんなイメージになるんだろう。
 あるいは、こんなイメージを抱くのは男性特有のことなのだろうか。
 なんか男性特有って感じがしてきました。

 ってな感じで上記のようなことを思いめぐらしたりしました。
 きちんと作品を理解しているかどうかは、まったく自信ないです(汗)。

 失礼しました。
No.1  陣家  評価:30点  ■2011-09-04 03:23  ID:1fwNzkM.QkM
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拝読させていただきました。

理想は追い求めればきりがなく、満足してしまえばあざなえる縄のごとくあっという間に失ってしまう。
いつどこで何を間違ってしまったのか、考えてしまうのが最大の不幸なのですかね。
覆水を盆に返すことができないのなら、もうなにも考える必要のない胎児にまで遡ってしまいたい。
温かい羊水に包まれて心穏やかに夢を見ていたいつかのように…… 
動物の森のリセットさんに怒られそうです。

安定感のある文章で安心して作者様の心の迷路に迷い込む事ができました。
ただ、主人公のリアルな心の動きと、現実的な人生の変遷が語られた後に唐突に訪れる超常現象的なラストは現実的になにが起きたのかを求めてしまう読者にはちょっと興冷めに思う人もいるかも知れませんね。

読ませて頂きありがとうございました。
総レス数 4  合計 60

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