渡っていく
 ここんとこ疲れてるみたいだね、と僕は言った。地下鉄のホームには、キョウト感を漂わせる古風な到着メロディ、僕たちが行きたい方向から来た電車が巻き起こす突風がこちらにまで及んでくる。あなたは前髪を押さえながら僕の方に顔を向け、うんともまぁねとも言わず、かといって否定するわけでもなく黙ったまんまでいる。最近のあなたは疲れている。久しぶりに一緒に過ごしたからよくわかる。ちょっと前までとは違い、なにか壮大なものを背負っているように見えるんだけど、僕にはどうすればいいのかわからず、とりあえず注意だけは絶やさないようにしている。僕はガムを噛み始めた。あなたが音楽を聴いているので、それに対抗するつもりで大げさに噛み散らかした。僕たちが待っていた電車が来る。こちら側の到着メロディはなぜかキョウトっぽくもなんともなく、少しだけ惨めな気持ちで乗り込み、空いている優先席の傍にふたりで立った。

 トンネルが続いている。なんとなく手持ち無沙汰なので時計を見ると、鏡面仕上げになっているダークブルーの文字盤に映り込んだ車外の明かりが、外の景色とおんなじように流れていってきれいだった。時間、気になるの? と声を掛けられて顔を上げると、化粧っけのない顔の、素っ気ない瞳が僕を見ている。あなたのその目のほうがよっぽどきれいだ、とは別に思わなくて、え、なに? と訊きかえす。だから時間、タイム、と顎で時計を示されたけれど、時刻なんて見ていなかったので僕はもういちど時計に目を落とした。ふたつの針が17時5分をお伝えしてくれている。5時過ぎだけど、時間やばいの? と訊きかえすと、あなたは一瞬呆れたような顔をした後、吹き出すように小さく笑って、やばくない、と返した。なにが可笑しいのかはわからなかったけど、その一連の仕草は、まぁどちらかというときれいだった。
 電車がゆっくりと速度を落としている。僕もそれに合わせて次第にゆっくりと、穏やかにガムを噛んでいく。あなたは特に表情も言葉も出さず、聴いている音楽に合わせて、捕まっている手すりを指で軽く叩いている。車両には沢山の人が乗っていて、空席は少ししかない。それでも立っているのは僕たちだけだった。サラリーマンは何もせずただ座席にもたれかかっていて、学生は本を読むか、圏外なのにケータイをいじるかしている。おばさんはせいぜいしみったれたおしゃべりをしていて、おじいさんは僕と同じように、しかしにこやかにそれらを眺めている。だいたいこんなカンジだった。
 電車はさらにゆっくりゆっくり走り、走るというかもはや止まっているような気もする。それはおそらくみんなが感じているはずなのに、疑問とか不安とか苛立ちとかを顔に出すことなく、平然と乗客を続けていた。トンネルを照らす明かりはもはや後ろに流れていくこともなく目の前にあり続けていて、そうして僕たちふたりを眺めているようだった。
「海見たいな、どうせ夏なんだし」
 あなたが僕の目を見てひとりごとのように言う。そのあまりの脈絡のなさに思わず冗談ではないかと疑ってしまったが、そうだね、とさりげなく視線をかわして僕も返す。あなたが本当に海を見たいと思っているかどうかはともかく、海が見たいだなんて真顔で言うことの痛々しさを思い知らされた気分だった。そして、この電車が止まっているうちに、トンネルの向こうが地下鉄のホームから海の底に切り替わっていたら、あなたはどんな顔をするのだろうか、なんてことを考えてみる。すると車内はゆっくり流れ、その時間を稼いでくれる。
 静かな海の底、電車は圧し潰されることもなく浮かび上がることもなく、のっそりと走り続ける。生き物の気配はしても姿は見えず、それでもたまには知らない発光体を見つけたりするのだろうか。サラリーマンはそれに気づくことなくうとうとしていたり、学生は写メを撮ってブログのネタにしたりするのだろうか。おばさんは車掌を捕まえて問い詰めたり、おじいさんはお迎えがきたと勘違いしていたりするのだろうか。そしてあなたはたぶん、この暗くて切なくて息さえ出来ない、人間にとっては何もかもが報われない局面においても、拒絶したりあしらったりすることなく、というよりはそもそもしようと思いつかず、ただありったけの感性をそこに浸し、無謀にもなにかをすくい取ろうとするのだろう。仔牛の肉でも喰らうかのような、ためらいのない下心とモーション。海の底にすら馴染んでいき、すべてが暗く塗りつぶされていくあなたの顔とか身体とかを僕は思い浮かべた。でもまぁ、あなたが見たいと言ったのはこんなえげつない海の底ではなく、健全だったり不健全だったりで、やたらひりひりするあの海のきらきらなんだろうけど。僕はあなたの目を見て言う。次会うときには行こうか、海、と言う。
 電車は相変わらず動かない。そして誰も騒がない。やがてアナウンスが始まり、車掌が独特の調子で何かしら釈明してお詫び申し上げて終わりにした。僕は全部をちゃんとは聞き取れなかったけれど、乗客たちはおしなべて大人しかった。断片的に聞き取れた部分から察するに、とりあえず大災害というわけでもなさそうだし、じきに動き出すとのことだったので別にいいかと思っているのだろう。まぁこの時間にこの方面の電車に乗っている人間が特に忙しいとも思えないし、僕たちにも余裕はあった。時間なら、あともう少しだけある。
 ねぇ、このまま動かなくて、新幹線に乗れなかったら今日も泊めてくれるよね? とあなたが尋ねてきた。
「泊めてくれるよね?」
 なんてセリフにありがちな浮ついた匂いはあまりなく、いつものように事務的に訊いてくれたので、僕としても非常に答えやすかった。ん、いいけど、時間あるし間に合うでしょ、と答え、うん、まぁ一応ね、とあなたが返して会話はひとまず終わった。でも僕としてはなにかが完結していない気がして、あなたの表情にそれを探そうとしている。髪型でも変えたのか、なんだか前よりも痩せて引き締まったカンジがするあなたの面構え、あるいは僕自身の視線とか愛着とかのとてつもなく微妙な変化。やっぱりトウキョウに行ったらこうやってすり減っていくものなのだろうか、なんてドラマの視聴者みたいな気分になって、今の自分が居る場所がひどく甘ったれた、生産性のないところに思えてくる。
 でも、と僕は思考を推し進める。でも、僕がもし来春から運良くトウキョウで社会人を始められたとしても、僕たちはこのままではもたないかもしれないという気がなんとなくしている。先輩であるあなたが先に卒業して出ていったのはどうしようもなかったけれど、ああいう仕事を選ぶべきではなかったと僕は思っている。腰掛けでいいからOLにでもなって、そんな風に自分をすり減らさなくていい生活を選べばいいのに、あなたは今のあなたになった。でもそれは立派なことで、ある意味ではしあわせなことだとわかっているし、昔はそういうところもあなたらしくて好ましいと素直に思えていた。こんな風に、あなたを心の底から支えられなくなったのはいつからだろう? けれどあなたは後悔しているようには見えなくて、それもまた少しだけ、僕を苛立たせている。電車が動き出す。目の前にあったトンネルの明かりが徐々に遠ざかり、お待たせいたしました、と車掌が言った。

 地下鉄を降りて、新幹線の改札の前に着いたとき、壁にかかっていたデジタル時計を見るとちょうど6時だった。ここでいいよ、とあなたが言う。いつの間にかイヤフォンを外していることに僕は気づく。僕の方はすっかりミントの切れた、固いだけのガムをなおも噛んでいる。別に大した意味なんてない、愛しい人がまた帰っていく、ただそれだけのことだ。それにこれから僕は長い夏休みなんだし、どうせあなたに会いに行かされる羽目になる。自分自身にそう言い聞かせて平静を装うのに精一杯で、こういう別れ際のときに普段はどうふるまっていたかを思い出すことは出来なかった。じゃあ、またね、とあなたが言うのに頷き返して、あなたの背中が見えなくなるまで見送る。ホームに上っていくエスカレーターの少し前であなたが振り返って手を振るのに軽く手を上げて応えて、その手をおろした瞬間、不覚にも寂しいとか思ってしまった。あなたの背中も見えなくなった。立ち尽くしたままでひとつ、意味のない欠伸をしてから、僕も帰っていく。
 使わなかったのか、それとも使えなかったのかはよくわからないけど、僕の中にはいくつかの言葉が残っていて、それらは必ずしも同じ方向を向いてはいなかった。そして僕にはもうそれらに触れることが出来ないような気がしていた。やがて思い出したように近くのゴミ箱にガムを吐き捨てると、惰性から解放された気がして心地よく、ほんの少し気が済んでしまった。地下鉄の駅へと歩いていきながら、こういう心境にふさわしい行為をしようと思い立ち、まだ十分に明るい空を見る。あなたは新幹線で帰ったのだけれど、その代わりのように都合良く、鳥がちゃんと飛んでいた。
 あなたは渡っていく。あんな鳥よりもっともっと上の方を。息を切らして喘いでいたり、打ちひしがれて流されたり、まぁ嬉しいこととかも含めていろいろあるのだろうけれど、今の僕にはそのひとつひとつにいちいち寄り添ってやることは出来ない。こうしてたまに空を仰いでは、かすかに捉えられるあの小さな点があなたであると、それは少しずつでも望んだ方向へ進んでいるのだと信じることしか出来ない。そして、そんな自分の不甲斐なさをしょうがないと割り切っていけるように生きていくしかない。地下鉄のホームに着く、僕は電車を待つ。

 まずは目を閉じた。それからゆっくりとその身を浸し、海の底を走る電車を今度は外から眺めている。乗客たちは暗闇に漂う僕の存在には気づかず、あなたの姿は車内にも、その外の海の底にも、どこにも見当たらない。僕はゆっくりと沈みはじめ、車内から漏れる光は少しずつ上の方に遠ざかり、少しずつ小さくなっていく。身体の周りをいくつかの泡がすり抜けて昇っていくのが感じられるが、目には見えない。呼吸も出来ず、僕の存在はなにひとつとして報われるものではなかった。やっぱり、そうか、と思いながら、意識も遠のいていく。消えゆく最後の切れ端が、あなたの名前を呼ぶ。苦し紛れの声は放たれると同時に泡になり、遥か彼方へ昇っていった。はじめてカタチを成したそれを見送って、僕はどこまでも沈んでいく。

 キョウトっぽい到着メロディに、いともたやすく引き戻される。そして電車に乗り込み、空いている優先席の傍に立った。いつからだろう? あなたはすでに、あるいはもっと前から、いない。
みずの
2011年08月17日(水) 22時01分40秒 公開
■この作品の著作権はみずのさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
読んでいただいてありがとうございます。
感想とか意見とか文句などがありましたら忌憚なく言ってくださるとありがたいです。
よろしくおねがいします。

一応誤字訂正したつもりです。

そして改行を増やしてみました。

この作品の感想をお寄せください。
No.5  みずの  評価:0点  ■2011-08-21 23:21  ID:JntREJ4DlHE
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山田さま

感想ありがとうございます。
「文章一番、物語は二の次」みたいな読み方、とおっしゃいましたが、基本的には僕自身がそういう風に書いている節があるものですから、山田さんがそういう風に読み進めるのは仕方のないことでありまして、ご自身を責める必要はまったくもってございません。
また、物語の方もしっかりと読んでくださっているのだな、ということは感想を見てわかっているつもりですので、そもそもその点についてお気に病むこともないかと存じます。

>心情を抑え込んだ状態をなんとか保ちながら進んでいる、みたいな感じでしょうか。
>読み方としては(僕だけかも知れませんが)その抑制が効いた進め方が逆に心にグリグリと突き刺さってきたように思います。

↑このように感じていただけると非常に嬉しく、ありがたいです。あとはどうにかして物語性のような部分を磨いていきたいと思っています。

以上です。ありがとうございました。
No.4  山田さん  評価:40点  ■2011-08-20 00:48  ID:rn5fSzOB8II
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 拝読しました。

 みずのさんの作品を読むのはこれで三作目です。
 前二作同様に、嫉妬心がフツフツと湧いてくるような文章に惹かれます。

 と、ここで自問自答してみました。
 僕は「文章」を読んでいるのだろうか、「物語」を読んでいるのだろうか。
 そんな問いに対して、深く考え込んでしまいました。

 読んでいて色々な感情が湧いてきました。
 似たような設定に置かれたことがあるので、部分部分で共有できると思える感情も沸いてきました。
 ってことは「物語」をきちんと読んでいるんだよな、とあえて自分に問いだたしてしまいます。
 そう問いだたしてみないと、「文章一番、物語は二の次」みたいな読み方をしているようで……ちょっと自己嫌悪したりしています。

 と、ここまでを読み返すと、本当にどうしようもないレスですね、すいません。

 以下は一度レスを投稿した後に再度読み返して追加したものです。

 作品は、不思議なくらいに淡々と進んでいるように思います。
 クール、というのともちょっと違う。
 心情を抑え込んだ状態をなんとか保ちながら進んでいる、みたいな感じでしょうか。
 読み方としては(僕だけかも知れませんが)その抑制が効いた進め方が逆に心にグリグリと突き刺さってきたように思います。
 面白かった、という表現とはちょっと違う感覚なのですが、読んでいて不思議な心地よさを感じました。

 なんか支離滅裂なレスですいません。
 次作も読ませてください。

No.3  みずの  評価:0点  ■2011-08-19 14:11  ID:tUYcy0OjL5E
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百舌鳥さま

ふふ、感想ありがとうございます。
ラストは結構最初の段階で思いついたんですけど、この形に落ち着くまでにはものすごく時間がかかったので誉めていただけると嬉しいものです。
主人公はまぁ厳密に言うと悼んではいないのでしょうが、悼んでるカンジまで出ているとしたら成功したのかな、という思いがあります。

描写については、あえてぼかした部分もありますし、あえて拾った点もあります。
その点が読者のみなさんの腑に落ちるかどうか心配だったのですが、まぁ全然ダメ、というわけではなさそうなので、とりあえずよしとします。でもまぁ課題点のひとつだとは思いますが。

今回は小説みたいなのを書こうと決めていたので、かなり苦労しましたし、自分の書きたいように書くのが難しかったですが、バランスと言いますか、折り合いがうまくつけられたかなと思っております。
ただ、どうせ書くならもっとかっちりと小説に拘ってもよかったような気はしないでもありませんが、それはもっと上手くなることが出来たらその時に頑張ってみたいと思います。

以上です。ありがとうございました。



藤村さま

感想ありがとうございます。
たとえば詩とかこないだ書いた変なのとかでこういう感想をいただくと、うまくいったな、という気になるのですが、今回はそこまでそういうのを狙っていなかったので、正直少し驚きましたが、いい驚きでした。
とは言ったものの、小説みたいなのを書くと決めていながらどこかにそういうのを重視する気持ちが、よくも悪くも僕の中にはあったということです。
しかもそのことをあまり自覚していなかったので、そういう意味では非常に参考になりました。

以上です。ありがとうございました。
No.2  藤村  評価:40点  ■2011-08-18 04:04  ID:a.wIe4au8.Y
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 拝読しました。
 読みながら、また読み終わってから、この気持ちはなんだろうかと考えてみたのですが、どうもうまくいえません。以前、京都のベース弾きさんがあるCDに「ヘッドホンをしながら街を歩いているとNYにいるような気分になりました」というようなコメントを書いていたことがあるのですが、おそらくいまそういう気持ちです。NYにいるのでも、また京都にいるのでもないのですが、そういうどこかしらの空間を感じているような気持ちになりました。
 読めてよかったです。とてもよいとおもいました。
No.1  百舌鳥  評価:40点  ■2011-08-18 03:44  ID:5UfSx5/XnyY
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参上仕りました。どっせーい。

ラストが非常に良かったです。乾いていて呆然としていて哀しんでいて悼んでる。ぞくぞくしました。ブラボー。
配点としては最後の一行に30点あげたいくらいの気持ちです。うまいっっ。
 
ただ、状況の描写に費やした部分が冗長に思えなくもなかったです。
展開していけば必要なことがわかる。けれど、展開するまで、読み手を惹きつけていることは可能なのかなぁ?と思うのです。
改行の少ないことがそんな疑問を抱かせるのかもしれません。ゆったりとした空気を丁寧に描写されているのに、なんだか畳み掛けられているような慌ただしさも感じるのです。
或いは、それは漢字を漢字として使っていることにもあるかもしれない。仮名にひらくことで変わるものもあるかもしれませんが、まあこれは戯言の部類とお聞き流しください。

総じて、とても良かったです。心地よく哀しむことができました。

総レス数 5  合計 120

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