フユいサムだね
 冬だった、寒かった、糞寒かった。
 寒いなかで糞は、氷のように凝固し、いかなる万力をもってしても砕くことが出来ない、そんな冬の寒さだった。
 僕は六畳一間のボロアパートの、板張りの部屋――もちろん床暖房などではない――で、暖房もつけずにうつぶせになり、熊のように冬眠したいと願いながら、うずくまっていた。腹痛に襲われる、原因不明の腹痛。僕は寒気と腹痛の両方に怯え、そして怒(いか)っていた。
 板張りの冷たい床の上で、死にかけた芋虫、それも極彩色の芋虫のように、うずくまる。そして朦朧とした意識が自然と奇怪なことへいく。それは冬の間、蠅はどうしているのだろうという事だった。夏の季節には、大戦中の戦闘機のように飛び交っていた蠅、腐乱して赤黒くなった豚肉に、コロニーのように黒々しく密集して蠢いていた蠅。僕はそれにライターのオイルをかけて火を放ち、コロニーを焼き滅ぼすというカタストロフに喜びを感じた。もしこれが、と僕は思った。もしこれが蠅ではなく、霊魂をもつ人間の集団だとしたら、僕のペニス――古代魚のような大きさと輝きを持つペニス――が勃起し、そして射精――1Lほどの射精――をしていたかもしれない(僕の睾丸は四つあった)、そう思ったことを、冬のいまになって不思議と思い起こす。
 下痢を、漏らした。限界まで我慢していたせいで、漏らすと同時に射精に似たエクスタシーを感じた。蠅がいたら、と僕は思った。蠅がいたら、いまが冬ではなく夏であったら、蠅は僕の肛門周辺に黒々しく群がっていただろう。
 僕はズボンの内部に盛大に漏らした下痢をそのままに立ち上がり、台所へ行き、ヤカンに火をかけた。
 外では暗鬱な雲がたれ込めていて部屋の中はうす暗い。その中で、ヤカンにかけた青白い炎だけが、生彩を持っているように見えた。僕はその炎をじっと眺め、やがて飽きた頃に火を消した。
 ヤカンの中の湯を茶碗に注ぐ。口に含むとまだ生温く、気持ちが悪く思った。湯は、僕の内臓を癒した。気のせいか腹痛が徐々に遠くなっていく気がした。
 しかし、寒気は相変わらず酷く、意識が朦朧としていた。それでも暖房はつけなかった。この部屋の暖房は壊れているからだ。僕は意識が遠のくにつれて、不思議なナルシシズムに襲われ、滑稽にもフランダースの犬における、ラストの少年と同一化しつつあった。とはいっても僕が見たいのはルーベンスの絵ではなかった。僕が見たいのは、青い空を背景とした雄大な積乱雲と、腐肉に群がる蠅だった。そして全身を覆うような熱気、つまり夏だった。
 このまま死ぬのかな、と僕は朦朧とした意識の中で思った。僕はいままで何をしてきただろう、そういった問いが僕を襲った。人に誇れるようなことは何もしなかった。神にもなれず、さりとて悪魔ともなれず、中庸の人生だった。そして中庸を生きることに安易なセンチメンタリズムを感じたりする、道化た人生だった。そう思うと、むしろ死にたいと思った。
 不意に僕の肛門に蠅が集まってきた。彼らは僕の下痢に群がった。冬なのに蠅が。朦朧とした意識が生み出した幻覚だろうか。
 やがて蠅の群れは僕の眼前に、黒々しい輪を作った。その向こうには夏が広がっていた。暑い夏。ねこみみスイッチ*風に言えば、ナツいアツだろうか。黒々しい蠅が、天使のように見えた。
 僕は夏への扉へ入ろうと身を起こした。夏の扉の向こうには、青い空と雄大な積乱雲が広がっており、蝉の鳴き声が聞こえた。
 しかし、僕は入ろうと歩を踏み出した瞬間、ここへ入ることはそのまま死を意味することを悟った。僕は夏の扉から後ろへ下がった。反射的に。
 僕は蠅に向かって、もう少し生きてみるよと呟いた。
昼野
http://hirunoyouhei.blog.fc2.com/
2011年07月23日(土) 16時46分31秒 公開
■この作品の著作権は昼野さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
読んでいただいた方、ありがとうございます。
三語で書いたものを改稿したものです。
感想などあればよろしくお願いします。
*www.youtube.com/watch?v=mBuijfKXd4U

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No.4  zooey  評価:50点  ■2011-08-05 03:29  ID:qEFXZgFwvsc
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大分前に読んでいたのですが、仕事が忙しかったために感想書けずにいました。
今更ながらお書きします。

なんだか心を動かされるものがありました。
チャットでも書きましたが、世間に対する諦めの感情がねっとりと伝わってきて、良いなと思いました。
ゆうすけさんも書かれてますが、短い文章の中で、そういうものを感じさせるのは、さすがだなぁと思います。
言ってしまえば汚らしい表現が多いですが、それが主人公の病的な一面をよく表しているし、
直接書かれていなくても、どこかでそれと対比して美しく飾られた世間を意識させられました(意図されたものと同じかどうか自信がありませんが)。
主人公は形だけ美しく飾られた社会に絶望していたのかな、
だからそれとは対照的な蠅のイメージに惹きつけられているのかな、そんなふうに思いました。

>僕が見たいのは、青い空を背景とした雄大な積乱雲と、腐肉に群がる蠅だった。そして全身を覆うような熱気、つまり夏だった。

この部分では、蠅のイメージがとても美しく湧き上がってきました。
ラストの

>僕は蠅に向かって、もう少し生きてみるよと呟いた。

という部分もすごく好きです。
世間にある種の諦めを抱いていても、それを捨てきれない何かを感じて、心を動かされました。
No.3  ドリーム  評価:10点  ■2011-08-01 23:19  ID:s1osB456sNI
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読ませて戴きました。
うーん、あまりこの手の小説は読んだ事がないので。
ちょっとグロテスクでもあり、表現の仕方は色々とあると思いますが理解し難い。
ただ主人公は絶望的になっているようですが、何故そうなったか
その辺が描かれていれば理解出来たのですが、私には分かりませんでした。
次回作に期待します。

No.2  山田さん  評価:30点  ■2011-07-23 21:40  ID:GuwX6j.lV5k
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 拝読しました。
 三語の方でも拝読しております。
 昼野さんの作品を拝読するのも久しぶりです。

「中庸を生きることに安易なセンチメンタリズムを感じたりする」ような生き方をしている僕にとっては少しきつい作品でした。
 鬱を発病してから、何年も定職に就けず、それでもなんとなく変わりなぁくノホホンと生きている自分を思わず顧みてしまいます。
 そういえば三語の方にはこの一文はなかったですね。
「もう少し生きてみるよと呟いた」がなければきっと嫌いな作品だったかもしれません。

 難を言わせてもらえれば、「ここへ入ることはそのまま死を意味することを悟った」というのがちょっと唐突すぎるかなぁと感じました。
 そう悟る前にもうワンステップくらいあると、もっとしっくりきたように思います。
No.1  ゆうすけ  評価:40点  ■2011-07-23 16:57  ID:1SHiiT1PETY
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 拝読させていただきました。

 夏に冬を書く、さすがの反骨精神です。
 壮絶な惨めさの中に滲み出る可笑しさ、目の前に蠅の輪が見えてきて、そこに足を踏み入れたくなりそうです。
 短い文章ですが、そこから想起させられる事の多さ。忙しい日常から、ふと逃げ出したくなるけど、やっぱりやめます逃げ出しません、みたいな日々に重なって、なんだか妙に心にしみてきます。
総レス数 4  合計 130

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