オフィスをでれば冷たい風が私とあなたの間を通りすぎ、半歩後ろを歩く私のもとにあなたの香りを運んできた。そこには私の知らないすべてがあり、どうやっても私とあなたの未来が重なることはないと断言する。
 知らず鼻の奥がツンとして、マフラーを引き上げた。それでも隠しきれていないような気がして、見られていないと分かっていながらも深くうずめる。空気が篭って多少息苦しいが、それでも私はそのまま前を歩くあなたの後ろ姿を眺めた。
 柔らかそうな黒髪に、藍色のマフラーは落ち着いた雰囲気を醸し出す。形の良いジャケットは太腿までを守り、そこから伸びる脚は細いくせにしっかりとしていて、私とは違うのだとはっきり認識させられた。
 性別などという単純なものではなく、人間として。一人で生きている私は、支え続ける相手を見つけ出したあなたには追いつけない。隣に並ぶことも出来ず、黙ってついていくしかないのだ。
「いつもこんな時間まで残業してんの?」
 砕けた口調に、はっと意識を引き戻される。慌てて辺りを見渡し知り合いがいないか確認しそうになって、思わず苦笑をもらした。オフィスをでたからこんな気軽に声をかけてくれているのだと気付くのにも遅れるなんて、私らしくない。上司と部下という社会的レッテルはいつだって私を脅かす。
「そうですね、最近はいつもこのぐらいです」
 抜けない敬語にあなたが過敏に反応するのが空気を伝った。言い直そうとして、まぁいいかと口を噤む。あなたは少しばかり間をあけたあとに、また白い息を吐き出しながら
「さすがにこの時間はまずいな」
「どうして? まだ十時ですよ」
「まだって・・・・・・。十時はもう立派な夜だよ」
 首だけ振り返ってそう告げるあなたに小首をかしげると、仕方ないなとでも言うように笑われた。そこには確かに生きてきた年月の差を感じられて、今度はどうしようもないぐらい切なくなって口元を淡い桃色のマフラーで再び覆う。
 早く気づけばいい。私がその笑みを浮かべられるたびに子供のように拗ねたくなることを。だだをこねたくなることを。
 そんな私を置いて、あなたは話し続ける。
「まだ若い君をこんな時間まで残業させるのはさすがに。出来れば定時で上がらせてあげたいんだけど」
「いいですよ、家に帰ってもやることないんで」
 あなたがいない私の部屋なんて、ただの冷たい空間でしかない。
 棘のある物言いがさすがにむっときたのか一瞬眉を寄せたが、また引っ込められてしまい、諭すように返された。たったそれだけのことなのに酷く気に入らなくて、自然と言葉が少なくなる。あなたも私の思考をなぞったかのように急に黙り込んだので、私たちの間には心なし重い沈黙が流れ、たまに思い出したように吹く風が私とあなたの体温を着実に奪っていった。
 冷える指先に息をかけながら、半歩の隙間を埋めることなく私たちは駅へと歩いた。 





 酒や煙草の香りを漂わせながら騒ぐ学生たちと疲労を滲み出すサラリーマンしかいない見慣れたホームに、私とあなたは並んで電車を待つ。
 他人からみたら私たちはどんな関係にみえるのだろう。やはり上司と部下なのか。あなたが嵌めている左の薬指に光るそれに気付かなければ、私が望むような関係にみえるのか。
 いくら考えても仕方がないことなのに、願望のように胸でくすぶり続けるそれを私は一体どうしたいのだろう。
 自問自答を繰り返していると、不意にあなたが口を開いた。
「そういえば、今日が誕生日だろう?」
 思わず見上げれば、男の顔で私を捉えて離さないあなたがいる。ばくん、と体中の血管が膨らんで、血の巡りが加速して私の細胞ひとつひとつを生まれ変わらせる。
 ねっとりと絡みつくような視線に息を漏らしかけて、慌てて飲み込んだ。こんなところで、恥らうような声音で呟けば、あなたはふっと吐息だけで笑った。
 身体が疼く。奥深くの部分があなたを求め始めていることに気がついて、女の私が本性を現していく。あなたしか知らない私。あなたがつくりだした、あなたにだけ妖艶に微笑む女の私。
 やがて轟音を響かせて電車が滑り込んできた。風が起こり私とあなたの髪を巻き込んで吹き抜ける。重い音をたててドアが開けばまばらに人が降り、その波が止まったところで乗り込んだ。
 目立つ空席があとから入ってきた若者で埋まる。あなたは座席に近寄らず反対側のドアの前で立ち止まると、私の腕を引いて自分とドアの間に私を挟め、それからゆっくりと左手に右手を重ねて私から見えないようにして証をはずした。再び鳴り響く轟音に甲高い女の子の笑い声が混じり、次いで同じぐらいの音量で男の子の声も重なる。
「ビールもつまみもなにもないよ、うち」
「なら、途中にコンビニでも寄ろうか」
その言葉を合図にどちらからもなく指が絡んだ。そのまま軽く上を向いて目を閉じる。
 待ち望んだ唇の感触は、乾いてかさついているくせにひどく甘かった。


月子
2011年07月10日(日) 20時38分11秒 公開
■この作品の著作権は月子さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
どうもこんばんは。
またこんな内容になってしまいました。うーん困った。
友人に捧げたものから一部抜粋して投稿します。よろしければ感想などお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.7  月子  評価:0点  ■2011-07-18 21:16  ID:lYZKpWZgkSs
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山田さん さん

感想評価どうもありがとうございます。
前半と後半の差は確かに強いと私自身も思います。
>さすがにこの時間〜
このくだり、私は二人の年齢の差をだしたかったんです。
少なくとも私の中ではだいぶ離れている設定でしたので;;
>慌てて辺りを見渡し〜
のところは、主人公である女が上司である男のことをどれだけ意識しているかを書きたかったのですが、
やっぱり私の拙い筆力では上手くいきませんでした。
言い訳じみていて申し訳ないです。

この一文が好きです、と取り上げてもらえるはすごく嬉しいです。
後半はとくに何も意識しなかったのですが、やはり電車で、というのはまずかったですね。
とにかくこの二人の関係に決定的なものを、と考えた結果が口付けに繋がったのですが、今思えば手をつなぐとかでも良かったかなぁ、と。
山田さんが仰るとおり、我慢を選択すれば、とも思います。

とても参考になりました。
ご指摘、どうもありがとうございました。
No.6  山田さん  評価:20点  ■2011-07-18 12:41  ID:GuwX6j.lV5k
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 拝読しました。

 前半と後半の世界がうまく僕の中でリンクしないでいます。
 前半を読む限り、上司に思いを寄せているんだけれど、その思いを届けることが出来ずに「ただの上司と部下の関係」にとどまっている世界に思えました。
 ところが後半になると、「あなたしか知らない私。あなたがつくりだした、あなたにだけ妖艶に微笑む女の私」の文章に代表されるような、ちょっとドロドロとした世界。
 ちなみにこの「あなたしか知らない私。あなたがつくりだした、あなたにだけ妖艶に微笑む女の私」って文章、好きです。
 この二つの世界がどうも僕の中でスムーズに結びつきませんでした。
「慌てて辺りを見渡し知り合いがいないか確認しそうになって」の文章があるので、あるいは、と思いながら前半を読んだのですが、やはり「ドロドロとした世界」を喚起させるには、もう少し強烈な何かが欲しかったように思います。
 思うに「さすがにこの時間はまずいな」のくだりがあるために、そう思えたのかもしれないです。
 このくだり、どうしても上司が部下を子供扱いしているような印象を与えます。
 子供扱いしているのだから、大人の関係は結べないだろう、と読み手である僕が勝手に想像してしまったわけです。
 あるいはこの二つの世界のコントラストを楽しむ作品なのかな、とも思えたのですが、だとすると僕はいま一つ楽しめませんでした。

 ただこういう世界なのだと認識したうえで、再度読み返してみれば「ああ、なるほど」と思える作品だったので、読み手である僕が鈍感なだけかもしれません。
 あるいは男性である僕の感性では掴み取れないものがあるのかもしれないです……と言い訳がましく書いておきます(汗)。

 後半の世界はかなり好きです。
 この二人の態度、行動、心情がきちんと伝わってくるように思います。
 ただ、最後の「待ち望んだ唇の感触は、乾いてかさついているくせにひどく甘かった」はどうかなと思います。
 口づけはもっともっと焦らした後にやらせて欲しかったなと。
 少なくとも電車の中ではやって欲しくなかったなぁ、なんて思ったりしました。
「我慢」という欲望もあるんじゃないかな、なんて偉そうに思ったりしました。

 長々と役にも立たないレスで失礼しました。
No.5  月子  評価:--点  ■2011-07-12 20:19  ID:WXOqqJBbeJ2
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zooeyさん

初めまして、感想評価ありがとうございます。
「独特」や「魅せられる」など文章に対しての言葉ってすごく嬉しいです。
ありがとうございます。
ありきたりなものしか書けないのがまだまだなのですが・・・。

もっと濃い内容のものを書いていけたら、と思います。
こちらこそどうもありがとうございました。
No.4  zooey  評価:40点  ■2011-07-12 01:32  ID:qEFXZgFwvsc
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はじめまして、読ませていただきました。
文章がとてもお上手ですね。
なんか、孤独な空気感が伝わってくるというか。
二人の間にある空間とか隙間が、独特の比喩表現などで伝わってきました。
内容的には、よく見かけるものなのに、文章で魅せてしまうところがすごいなと感じました。

ただ、心に響く部分が薄いというか、そんな印象ではありましたが、抜粋なら仕方がないかもしれませんね。

ありがとうございました。
No.3  月子  評価:--点  ■2011-07-11 20:24  ID:WXOqqJBbeJ2
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脳舞さん

感想、評価どうもありがとうございました。
その二つの部分はたしかに引っかかりますね。
読み返して私自身もあれっと思いました。
指摘して頂いてありがとうございます!
また、文章が綺麗という褒め言葉ありがとうございました。
もったないです嬉しかったです。



afterさん

感想、評価どうもありがとうございます。
褒めていただき幸せです。
全体とのことですが、
もとはこのSSともう一つ別のが合わさった形になってるんです。
そっちは高校生というか学生視点のものでして。
同じテーマでどこまで違うのが書けるのかというお遊び程度のものなんです。
原文そのまま投稿しようか迷ったのですが、とりあえず様子見ということでこっちだけ投稿させてもらいました。
機会があればこのSSを編集して付け加えるか、また別の日に単品で投稿させてもらおうと思います。
全体を読みたいと書いて頂きありがとうございました。
とても嬉しかったです。

No.2  after  評価:40点  ■2011-07-11 07:11  ID:NC9Vki8k22g
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描写の感じとか、雰囲気も、いいなって思いました。
つぎの作品も期待しています^^

あと、一部抜粋とのことですが、、全体って読ませて頂けたりしないでしょうか?
No.1  脳舞  評価:20点  ■2011-07-10 22:21  ID:vbFRuyuhwTI
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 読ませていただきました。大人の雰囲気漂うお話ですね。不誠実な愛の形だからこその毒の味が……でもそれは甘やかで。
 極端におかしなわけではないのですが、ところどころ描写に引っかかりを覚えてしまう箇所がありまして。

>冷たい風が私とあなたの間を通りすぎ、半歩後ろを歩く私のもとにあなたの香りを運んできた。

 間を通り抜けたのか、前から後ろに風が抜けたのか一瞬わからなかったり、

>棘のある物言いがさすがにむっときたのか一瞬眉を寄せたが、また引っ込められてしまい、諭すように返された。

 返されたのはセリフだと思うのですが、それがどこにもないので戸惑ってしまったり……。文章がお綺麗なだけに、気になってしまうのかも知れませんが。 
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