夢をついばむ
 真夏の夜が、君に悪い夢を見せる。     

 いま君が身体を横たえているのは、あの巨大な蟻塚を思わせる高い塔の一室――おそらくは、四階から十三階くらいまでのあいだの、どこかの部屋だ。塔には無数の窓が等間隔に穿たれているが、それらはみな均質的に無個性で、君がいま、この寝苦しい夜を何とかやり過ごそうとしているその正確な位置を、私たちは知らない。けれども、とにかく君はそこにいる。そして眠ろうとしている。心の底から眠りを求めている。私たちはそのことを知っている。

 外気はまだおそろしく蒸し暑い。
 それでも二十三時を廻った頃から、ようやく生温い風が、ほんの微かに、遠くの雑木林から君の住む街へと流れはじめたところだ。そのささやかな風量は私たちにひとときの清涼をもたらすが、いっぽうの君にとっては、それは不充分きわまりないものだ。君たちは誰もがみな、快適な睡眠のための最も適切な設定を求めて空調機の操作に躍起になっている。だがこの夜に、その最適解を見出せる者は誰一人としていない。誰もが狂おしいほどの気怠さをその身に抱えながら、やり場のない溜息混じりの寝返りを幾度となく繰り返している――そんな夜だ。その夜に、いま君は包まれている。

 君には三つの選択肢しか残されていない。 
 そのことを君はとてもよく理解しているが、それでもまだ、君はそのどれひとつとして選ぶことができない。だが、君が迷っているそのあいだにも、夜は、まるで砂粒のようにとめどなく、君の掌から次々とこぼれ落ちてゆく。もちろんそのことも君は本当によくわかっている。だから結局のところ、遠からず、君はどれかひとつを選ばなければならない――たとえ最初から、その全てが間違いであったとしても。
 
 狭苦しいベッドの上で何度も姿勢を変えながら、君はゆっくりと数を数えるように、手持ちの選択肢のひとつひとつを慎重に検討しはじめる。ひとつ――網戸を残して部屋中の窓という窓を開け放ち、この夜に微かに漂うわずかな涼をたよりに、浅い眠りへの小さな手掛かりを慎重に手元へとたぐりよせること。ふたつ――つけたまま眠るには効きすぎる冷房に何度も安眠を妨げられながら、断続的な眠りと覚醒を翌朝まで繰り返すこと。みっつ――眠ることそのものを、きれいさっぱり諦めること。
 
 少なくとも君にとって、最後の選択肢だけは論外だ。
 ベッド脇に置かれた君の鞄――その中に収められたよく使い込まれた手帳には、君が明日こなさなればならない予定の数々が、小さく几帳面な文字でびっしりと書き込まれている。睡眠不足の重たい頭では、きっと君は、そのどれひとつして満足にやり遂げることはできないだろう。そのことは、君自身がいちばんよくわかっているはずだ。だからこそ君はいま、安らかで深い眠りを心から必要としている――本当に、そしてなによりも。

 やがて君は決心する。
 そして、この夜に抱かれたすべての者たちが行うのとまったく同じ仕草で、空調の設定を弄りはじめる――二十八度。午前二時半にオフ。午前五時半にオン。それが君の弾き出した答えだ。君は、君の身体にかろうじて残された今日一日の最後の力を振り絞ってタイマーをセットするが、その命令を確定させる直前にふと、漠然とした不安にとらわれる――果たしてこれが正解なのだろうか? と。
 そこにはもちろん答えなんてものはない。あるのはただ、結果だけ――夜の帳が明けるまで、誰ひとりとしてその答えを知ることはできないのだ。君も、そしてもちろん私たちも。
 
 タイマーの設定を完了したあとの君には、もう指一本動かす力すら残されていない。君は消耗しきった身体をベッドの上に再び投げ出すと、君の指示通りに低い唸りを発しはじめた冷房のモーター音にそっと耳を澄ます。そしてその暗い響きの中に、君はようやく、つかのまの安息へと続くかもしれない、ほんの小さな手掛かりの、そのひとかけらをかろうじて見出し、追いかける。

 いま時計の針は、ちょうど午前零時を指したところだ。夜は短い。君の身体がその疲弊を完全に吐き出すまでに必要な本当の時間に比べれば、君に与えられた夜は、あまりにも短すぎる。

 案の定、君の試みはそう上手くはいかなかったようだ。
 零時から二時半までのあいだ、君は効き過ぎた空調の放つ冷気に身体を震わせて何度も目を醒ますはめになる。そして二時半から五時半までのあいだには、今度はうだるような蒸し暑さに耐えかねて、同じように君は幾度となく目を醒ます。

 断続的な覚醒を挟んだ浅い眠りのひとつひとつは、君にさまざまな夢を見せる。あいにくとその全てはもれなく悪夢だが、来るべき朝を迎えたそのときには、きっと君は最後に見た夢のひとつしか覚えていないことだろう――なぜなら、終わった夢は、ひとつ残らず私たちがついばんでしまうのだから。
 
 もちろん君はそのことを知らない。
 私たちはいつでも君のそばにいるが、君が私たちの存在に関心を払うことはけしてない。私たちが最後に食い残した終わりかけの悪夢――それが君にとっての、この夜のすべてだ。
 
 私たちは、君自身よりもはるかに克明に、君が見る夢のひとつひとつをなぞりとることができる。君たちが夢と呼びならわしているもうひとつの世界――それは私たちにとっては、いま君が苦しげに寝返りをうっている世界とまったく変わることのない、継ぎ目のないひとつながりの、親密で実在的な、現実のひとつに過ぎないからだ。

 君が見た最後の夢のあらましについて話そう。

 夢の中の君は、村一番の大男がかろうじてひと抱えできるほどの大きさの、一個の巨大な、ほんとうに巨大な玉葱だ。君は大男の両腕に抱かれて村の中央にある広場へと運び込まれる。君を抱える大男の後ろには、無邪気に笑う子供たちや、物珍しげに君を眺める男たち、そして夕食支度前の女たちが、果てしなくぞろぞろと列をなしている。誰もがみな、君のおこぼれにあずかることを期待しているのだ。
 広場に着くと、君はまず一番外側の茶色い薄皮を取り除かれ、そして一枚一枚、丁寧に層を剥ぎ取られては、列を作る人々のひとりひとりに順繰りに手渡されてゆく。誰もがみな、その表情に満面の笑みをたたえて君の一部を受け取る。最初のうち、君はとても幸福な気分だ。他人に何かを分け与えることができるという事実に君は、少なからず満足している――少なくとも、最初のうちだけは。

 だが君は、やがて異変に気付く。
 それは君が十三番目くらいの層を剥ぎ取られた頃のことで、そのとき君は、もうすでに最初の半分くらいの大きさになっている。君は本当に大きな玉葱だったから、もう村民の大半は君のかけら――家族四人が二日間、お腹いっぱいシチューを食べられるくらいの量だ――を受け取っていたが、それでもまだ、長蛇の列は幾重にも、まるで大蛇のように円形の広場にとぐろを巻いている。どうやら君の噂は近隣の集落にまで広がったようだったし、一度貰った君のかけらを家へ持ち帰ると、早々にそ知らぬ顔でもう一度列に加わる人々も少なくなかったからだ。そして待ちくたびれた人々は口々に不平を漏らしはじめる。
 ――まだか?
 ――もっと!
 最初は小声で呟かれていた不満は、次第にその声量をいや増していく。やがてそれが罵声混じりの怒号へと転じるまでに、大した時間はかからない。

 君は際限なく毟り取られてゆく。
 ひとつの層が剥かされるたびに、それとまったく同質の層がその下から現れるが、そのたびに君は少しずつ、少しずつその姿を擦り減らせてゆく。人々は思い思いに小刀で君を切り裂き、無遠慮に絶え間なく君を持ち去り続ける。君はみるみる小さくなっていくが、君を剥ぐ人々の群れはけして絶えることがない。
 
 そのとき君はある事実に気付き、そして恐怖する。
 君がその姿を徐々に小さなものにしてゆくと同時に、人々の群れもまた、まるで君の姿に呼応するかのように、ひとまわり、もうひとまわりと徐々に小さくなってゆくのだ。今では君はもう、肉眼では殆どその姿を捉えることができないほどに微小だ。だがそれでも、手に手に小刀を携えた小人たちの列に終わりはない。君は永遠に剥ぎ取られ、奪われ続ける――どれほど小さくなっても、また、どれほど時が流れても、君はその意識を明晰に保ったまま、果てしなく永遠に、無限小へと漸近してゆくのだ。
 
 君はたまらずに叫び声を発するが、その絶叫は、けして君の夢の中の空気を揺らすことはない。そのかわりに君の声は現実の叫びとなって、君が眠る小さな寝室の、現実の空気を激しく揺らす。その言葉にならない叫びと恐怖が君の身体をひとたび大きく痙攣させ、その刹那、君は目醒める。

 これが、この夜に君が見た最後の悪夢に関するすべてだ。

 早鐘のように脈打つ鼓動を沈めようとして、君はゆっくりと息を吸い、そして吐き出す。何度か深呼吸を繰り返したあと、壁に掛けられた丸い時計の、蛍光で塗られた二本の針の位置を確認する。いまは朝の五時四十五分だ。まだその姿を現しきっていない太陽の遠い光が、カーテン越しに君の部屋を一面の薄青に染めあげている。そして秒針の刻む音だけが、君の部屋の中でやけに大きく響き続けている。君はもう眠くないし、眠りたくもない。そして何より――君にはもう時間がない。
 
 あと十分もすれば太陽は、君が住む街並みの向こうから徐々にその姿を現すだろう。それは新しい一日のはじまりの合図だ――君にとっても。そしてもちろん、私たちにとっても。
 
 君はいそいそと支度を整える。シャワーを浴びて、顔を洗う。トーストと牛乳だけのごく簡単な朝食を用意して、ひとりで食べる。服を着替え、靴を履き、玄関の鍵をしっかりとかけて駅へと向かう。君は大勢の人々の流れにひっそりと身を委ね、周囲の誰をも刺激しない独特の作法でしっとりとそこへ交わってゆく。そして西にある大きな街へと続く列車に乗り込むと、昇りゆく太陽に背を向けて、君は長い移動をはじめる。
 混み合った列車の中でようやく吊革に手を掛けることができたとき、君はもう、最後に見た夢については、ぼんやりとした輪郭程度しか記憶に留めていない。いま君が考えているのは、今日こなさなければならない予定と、次の夜を迎えるまでにやり過ごさなければならない長い長い時間のこと――それだけだ。

 ちょうどその頃、私たちは黒々とした羽根を大きく羽ばたかせて、君の住むあの蟻塚のような塔から遠く離れた雑木林のねぐらから、一斉に空高く舞い上がる。そして真新しい朝の光を存分に艶やかな背で受けとめると、君の住む街並み、遠ざかってゆく列車を眼下に確認したそのあとで、太陽のふもと、光り輝く水辺へと、朝いちばんの清らかな水を求めて私たちの群れは旅立つのだ。
蜂蜜
2011年04月14日(木) 21時14分35秒 公開
■この作品の著作権は蜂蜜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
過去作品です。一度読まれた方はすいません^^;


この作品の感想をお寄せください。
No.12  笹百合  評価:0点  ■2012-09-17 02:28  ID:nyv4PhU4HKM
PASS 編集 削除
 おそらく齟齬が存在するので、再訪です。
 まず前提として、一人称や二人称では物語を当事者の口から語る以上、その言葉は血肉から生まれたものでなければならないと私は考えています。生活の中に物語があり、それに伴う言葉だからこそ、語り手が客観に徹しきることはないはずです。そう思って私は文章を読みます。
 蜂蜜さんの言う「意味」がメッセージや指し示す内容のことなら、それを問題にしているのではありません。むしろ、語り手の意図とは別の、無意識に近い感覚や感情の「気配」のことです。先の例でいえば、「クーラー」「エアコン」「冷房」「空調」これらが指し示すモノは同じでも、まとう気配は違います。夢をついばむ者が「クーラー」と呼ぶなら冷やしてくれてありがたい、「冷房」ならやや迷惑、「エアコン」なら適切な温度と湿度に保ってくれて良い、「空調」なら特に何も思わない、という気配がします。これはあくまで私の感覚で測ればの話ですが、何であれそれぞれの呼び方に気配の差を読み取ることはできると思います。全部同じだと感じるなら目盛りが私と違いますね。そうでないとして、こういった気配はどういう言葉を選んでも発生するものです。気配を読む人は読むし、読まない人は読まない。いかに作者が気配を消しても、存在しない気配として読む方は読みます。そして、存在しない気配は一人称や二人称では大概不自然です。そもそも作家や評論家でない限り言葉の気配を消そうと思いません。
 これで伝わるかは甚だ疑問ですが、目盛りそのものが違う場合、言葉を尽くしてどうにかなるものでもないので、終わりにします。
 いやいや感想を書いた訳ではありませんから、そこは気にしないでください。
No.11  蜂蜜  評価:0点  ■2012-09-16 16:33  ID:pCuxcbqH47Y
PASS 編集 削除
笹百合さん

こちらからの手前勝手なリクエストにお応えいただき、誠にありがとうございました。
的外れか、あるいは適切な返答になるかはわかりませんが、ご返信させていただきます。

僕は、大学時代、特に大学院修士課程の2年間を、藤井博巳という、ある老齢の、前衛的な建築家の元で学びました。藤井の残した多くの建築模型、ドローイング、図面、その他については、全て、現在は、パリのポンピドゥーセンターという、いわば、「現代美術の殿堂」に収蔵されているとのことです。

藤井がまだ健在か、あるいは死去したかは、寡聞にして知りません。
ただ、癌である、という噂は耳にしたことがあります。

藤井から、主に建築作品を創作する際の、哲学、信念、思想等を、僕は学びました。

時を経て、僕は建築の道を断念し、現在に至りますが、藤井の元で学んだ、多くの事柄は、現在では僕が小説作品等を書く際の、まさに骨肉と、なっております。

藤井は、建築作品内で、ある形態が、記号的にある種の歴史性や民族性、文化性と言った、「意味」を指し示してしまうことを、極端に嫌い、自己の作品においては、

「建築作品から、余計な意味を、【剥奪】する」

とよく表現しておりました。

同様に、僕自身も、小説作品中に、無用な「意味」が発生してしまうことを、敬遠します。

もし仮に「エアコン」を……

「冷気を発する、壁に取り付けられた、白くて長細い、機械」

などと表現してしまえば、読者の多くは、そこに、何らかの、その表現の「意味」を模索してしまします。それは、作者としては、望まないものです。

よって、本作においては、「余分な意味」を極力【剥奪する】よう心がけました。

その試みの成否は、読者様各々がたの胸のうちにしかありませんが、とにもかくにも、作者としては、そのような「基本姿勢」を、小説を執筆する際に、有しています。

その結果の一例が、本作であり、他の作品であります。

ご感想、ありがとうございました。
No.10  笹百合  評価:30点  ■2012-09-10 17:20  ID:S6SCLCl937.
PASS 編集 削除
 私の感覚からすると、「蟻塚のような塔」以外の表現は可もなく不可もなく、です。理由は一つ。他に、夢を喰う「私たち」の感覚を反映した言葉選びが見当たらないからです。集合住宅を「塔」と呼ぶ「私たち」が、「空調機」「モーター」「列車」という呼び方をするでしょうか。するならするで、人間の呼び方に合わせるか否か、その基準は何なのでしょう。昔から「塔」はいい餌場でその名残なのかとはじめは思いましたが、それなら「列車」は倒れた塔が動いてると認識しそうなものです。ちょうど、植物の茎を何匹もの蟻が運ぶようにして。また、「私たち」にとって「空調機」や「モーター」はどういう存在なのか、それもこの呼び方からはわかりません。特に空調機は人間の眠りにかかわる存在なので、「私たち」に恵みか邪魔のどちらかをもたらすはずです。プレーンな呼び方よりも、なんらかの感情がこもる呼び方の方が自然だと思います。自然、という感覚が伝わるかどうかわかりませんが、なんというか、三人称の言葉選びに感じます。公正だけれど、語り手自身の言葉の感覚や印象が排除されているというか。
 あとは細かい言い回しで、「肉眼」って眼鏡や顕微鏡等との対比が念頭にあるので「私たち」が使うのはちょっと不思議です。
 小説にとって内容に入るかわかりませんが、切り口は面白いと思います。
No.9  桐原草  評価:0点  ■2012-09-09 15:39  ID:woitoBzgESk
PASS 編集 削除
蜂蜜様

私のそっけないほど短いファンレターにこれほどまでの返信をありがとうございました。
返信に返信をお返しするのは無作法だとわかっているのですが(それも蜂蜜様の作品にたいしての感想欄で)、とても嬉しかったので一言だけ言わせてください。
私は挙げられた2作品を不勉強にして読んだことがありません。しかし、影響を与えられた作品があり、それに沿った作品を書こう、そしてそれを超えてやろうとする姿勢に感銘を受けました。私にもそんな作家さんが何人かいます。一人は川上弘美さんです。(私の場合は真似することすらまだまだなレベルですが)
ホーンテッドマンションの例えもよくわかりました。なにがしかの感想を抱いてもらえると嬉しいですよね。私はまだまだ一割にもいきそうにありませんが、蜂蜜さんはじめ、みなさんにいろいろご指導いただき追い付けるものなら、と思っております。
私はわかりやすいけれど奥の深い文章で、簡単な筋の物語を素敵に膨らませた物語を読むのが大好きで、そんな文章を書いてみたいとも思っています。そして今回の感想は「文章表現が面白かったので苦痛なく最後まで読めて、その上面白かった」です。
製作秘話をありがとうございました
楽しい創作活動が送れますように。


No.8  蜂蜜  評価:0点  ■2012-09-06 19:39  ID:X5IOOPj01FA
PASS 編集 削除
>桐原草さん

ご感想、ありがとうございます。

こんなに奥深くに眠った作品……しかも本作は再投稿作品で、実際に書いたのは、僕の記憶が正しければ2004年という、これほど大昔の作品をわざわざ掘り起こしてお読みいただけたこと、そしてご感想をお寄せいただけたこと、ほんとうに、ほんとうに嬉しく思っております。

再投稿した経緯もあり、何となく自分の中ではいつまでたっても本作は、「わりと最近書いた作品」という感覚でおりましたが、ふと振り返れば今はもう2012年ですから、なんと、実に8年も前に書いた作品なのだと思うと、非常に感慨深いとともに、純粋に、僕ももう歳だなあ、その割には進歩ねえなあ……なんてことを考えてしまいます。

身に余る高評価とお言葉、ありがとうございました。

すでに感想欄下記に、一度作者コメントとして「総括」のようなものを書いてはいるのですが、わざわざこんな過去作品を掘り出して下さった桐原さんへ何らかのかたちで感謝の念をかたちにしてお届けしたいという思いと、作品についての作者がネタばらしをするのも、「そろそろさすがにもう、時効だろう」、という思いもあり、普段はほとんどしないのですが、今回は、本作品が生まれた経緯・背景について、今日、長らく貝のように閉じていた口を開く決意をしました。

   ***

前述の通り、本作品は2004年に執筆し、ここTCで発表した作品です。

本作は、イギリス人の友人に頼まれて書いた作品で、最初に全て英語で執筆し、イギリスの、売れているのかいないのかもなんだかよくわからない出版物の中の、誰が読むのか読まないのかもなんだかよくわからないような小さなスペースに、小さな活字で発表されたものを、TCへ投稿するために、自分でわざわざ日本語に翻訳しなおしたものです。ですので、原文は全て英文で、原題は”dreameaters"です(僕自身の小さなこだわりで、僕は英文でものを書くときの表題には冠詞を省き、また、あえて全て小文字で書くことにしています)。

イギリス人から何でそんな依頼が来たのか? と理由は単純で、僕は高校時代の4年半を、家族と別れ、日本を離れ、イギリスの全寮制寄宿学校で過ごしましたので、その頃の友人が出版業界に入り、一年か二年に一度くらい、忘れた頃にひょっこりと「おい、また何か書いてよ!」と、メールやらSkypeやらで頼み込んでくるからです……たぶん、どこかの誰かが原稿に穴を開けたか何かで、その代わりにちょっとしたショートストーリーを急遽突っ込まないとページが埋まらない、とか、そんな感じの、くだらない理由だと思いますが。

いちおう、僕自身が書いたものを僕自身が母国語に翻訳しているので、原文で読んでも翻訳文で読んでも、あまり差は無いと思います。

なお、「一度書いたものにはサッパリ興味がなくなる」、というのが僕の非常に悪い癖で、掲載された出版物もろくに読まずにどっかに捨てちゃったし、原文のデータももう、PCのHDDの中には残っていません。その悪い癖はいまだ直らず、引っ越しとかの際に、過去に自作が掲載された雑誌や小冊子や単行本なんかはまとめて捨てちゃうし、PCを買い替えるときにはめんどくさいのでわざわざ作品なんてバックアップなんて取らないんです。

そのときの頭では、「あらすじは覚えてるから、書こうと思えばまた書けるし、別にいーや」って感じなのですが、今になって思えば、「一度書いたものをもう一度書き直す」というのは非常に労多くして実り少ない作業であり、そして僕もごくごく平凡な人間なので、たいていは過去の作品には「思い出補正」がかかっていて、いざ書き直そうとしても、書いてる最中から、「あれ? こんなはずじゃ……。前のやつはもっと良かったはず……」という無限のジレンマに陥ることに、ようやく最近気付き、今後は、書いたもののデータはきちんと保存しておくよう、今週TCに復帰し、おととい決意しました……アホの極みですね、はい。

   ***

そんなわけで生まれた本作ですが、本作にて試みたかったことは大きくふたつあります。

1 「私たち」という一人称複数と、「君」という二人称を使った作品を一度書いてみたかった。

2 これまでさまざまな文体や文章表現を、作品に合わせて試みてきましたが、この辺でひとつ、自分がほんとうに好きな、いわば、「ザ・蜂蜜 オブ ザ 蜂蜜」のようなものを、ちゃんと整理してやってみようじゃないかと思った。

そんなようなことが、最初に依頼が舞い込んだ際に考えた、ふたつのポイントだったと思います。
   
   ***

さて、ここからはネタバレです。

本作は、主にふたりの作者の、ふたつの作品の影響を色濃く受けていますが、自分の中では、単なる模倣ではなく、一度しっかりと自分の中で消化して、組み上げなおしたものなので、結果として出来上がった作品は、さほど、その2作品の原型を留めてはいないんじゃないか、と自分では思っています。ですが、人によっては、似ている、パクりだ、詐欺だ、金返せ、とか仰る方も、いらっしゃるかもしれません。

2作の中のひとつは、エイミー・ベンダーという作家の短編集『燃えるスカートの少女』です。
エイミーと僕との関係については語り出すときりがないので、それは略。

もう1作は、同年に発表された、村上春樹の単行本『アフターダーク』です。
『アフターダーク』は、村上春樹が、大長編『海辺のカフカ』と、おそらくは現在も未完だと思われる大長編『1Q84』の間に、何だかよくわからないけどひょっこりと出版された単行本です。内容的には、実験的で、(少なくとも春樹にとっては)新しい試みが幾つもなされているなかなかに興味深い作品なのですが、残念なことに、必ずしもその実験や試みが全てが良い結果を生み出したとは言い兼ねる部分も多く、結果、多くの春樹読者からはスルーされてしまい、世間的にも、ほとんど話題にならなかった作品です。春樹の長編小説は数多くありますが、ちゃんと真面目に書いた小説で、ほとんど世間からの評価を受けず、ベストセラーにもならず、話題にもならなかった作品は、この『アフターダーク』と、『国境の南、太陽の西』くらいなんじゃないでしょうか……。

『燃えるスカートの少女』からは、ちょっとミステリアスかつ幻想的な、独特の雰囲気に影響を受けました。また、『アフターダーク』からは、映画的なカメラワークのような視点の移り変わりに影響を受けました。今は手元にどちらの本もないので読み比べができないのですが、とにかくまあ、だいたいそんな感じだったかと思います……とにかくだいぶ昔のことなので、記憶もあやふやですが。

   ***

作品に、特にテーマのようなものは、ありません。

基本的に、よほどの例外(……先日投稿した1000字小説『旅人』のようなもの)でない限り、僕は作品を書くにあたって、一定のテーマや主張のようなものは全く考えません。僕にとっては、「テーマ」なんて、そんな重々しくて説教臭くて理屈っぽいものは不要で、純粋な『読書体験』の邪魔だからです。

もちろん、これはあくまで「僕にとって」という話になりますが、僕にとって楽しい読書とは、例えるならば、ディズニーランドのアトラクションのひとつのようなものです。とりあえず、入り口と出口があって、まあよほど変な人でない限りは、入り口から入り、あるアトラクションを体験し、そして出口から出てきます。もちろん途中で気分が悪くなって出ちゃう人もいれば、何らかの理由で途中で入り口に一回戻って、また再度入り口から入る人もいるでしょうが、その辺は自由です。まあ、とにかく、入り口と出口があって、入り口から入って出口から出てくること。これが、僕にとっての小説の本質です。当たり前ですね。

アトラクションの内容は何でもいいのですが、ここではひとつ例として、ホーンテッドマンション(お化け屋敷)を挙げてみます。もうかれこれ17年くらいディズニーランドに行っていないので、ひょっとしたら今はもう無くなってしまっているかもしれませんので一応説明だけしておくと、乗り物に乗ってお化け屋敷の中を進行し、ホログラムに映し出された幽霊とか、なんかよくわからないけど不気味な感じとかがあって、出口に出る……たしかそんなようなものだったような気がします。あまりよく覚えてません。ごめんなさい。

出口を出たお客様たちは、まあ、よほど無感情な方でない限り、何らかの感想を持ちます。お化けがとても怖かった、とか、逆に、お化けのホログラムが綺麗で良かった、とか、なんかよくわからないけどとりあえず楽しかった、とか、こんな三流演出は時間の無駄だった、とか……そういう感想を持つきっかけとなる『体験』をします。その『体験』をさせるためのアトラクション小屋が、僕にとっての『作品』です。

僕にとって、お客様が感情を震わせたポイントは、何だっていいです。お化けが恐かった、と思われようが、逆に、お化けの映像がきれいだった、と思われようが、それは割と僕にとっては、どっちでもいいことです。ほとんど気にしません。ちょっと難しい言葉で言うならば、『解釈の多様性を歓迎する』ってことですね。

感想は人それぞれですから、誰が何を感じようと、それはお客様の自由です。
ただし、僕も平凡な感情を持つ一人の人間ですから、出口から出てきたお客様に、「つまんなかった。何も感じなかった。時間の無駄だった」と言われれば傷つきますし、どんな感想であれ「面白かった。興味深かった」などと言われれば嬉しいものです。ですので、必ず毎回万人受けするものを作ることは難しいですが、できるだけ好意的な感想を得られるよう、最大限の努力をします。

その際に、だいたい、いつも目標にしているのは、『打率3割』です。
10人読んでくれて、3人が『とてもよかった』と言って下さったら、まあ僕としてはその作品は、とりあえず「成功した」と考えていいかな、と思っています。ここTCに置き換えるならば、10人中3人以上が「40点以上」をつけてくれたら、とりあえずそれでオッケー、というスタンスです。

もっとも、より娯楽的要素の高い作品であれば、打率6割、7割を狙うこともありえるのでしょうけれど、いちおう僕がメインで闘っている主戦場は『純文学』に近く、これは、その特性上、なかなか万人受けするような娯楽性はちょっと考えにくいので、だいたいの目安として、僕はこの『打率3割論』という持論で、自作の出来映えを判断しています。打率3割を切ったら、かなり落ち込み、傷つき、大反省会が脳内で開始されます……まあ、どんな作品についても、書き終えたら反省は、いつもするのですが。

でも、そういう視点から見ると、この作品は、最初にTCへ投稿したときも、この再掲載でも、だいたい打率3割以上を達成している模様なので、まあまあオーケーな作品、ということになります。さすがに、『ザ・蜂蜜・オブ・ザ・蜂蜜』を提供して、打率3割以下だったらかなりマズいですので、この結果には、ちょっと安心しています。

蛇足ですが、ディズニーランドのアトラクションと、小説作品には、大きな違いがひとつあります。それは、乗り物に乗って入り口から出口まで自動的に連れて行ってくれるか、自分の足で入って自分の足で出口から出てくるか、の違いです。歩くのは疲れますから、途中で疲れたり飽きたり退屈したりして、帰っちゃう人もいるのが、小説です。ですので、作者としては、あれやこれやの飽きさせない工夫を何とかこしらえて、とにかく入り口から出口まで、無事にお客様が、自分の足で歩き通してくれるよう、努力します。つまり、「とにかく読了してもらう」、ということです。

本作には特に物語らしい物語もありませんし、巧妙な伏線もなければ、あっと驚くどんでん返しもありません。野球で言うなら直球ストレートです。ここまで言ってしまうとミもフタもないですが、

『夏の夜に寝て、夢を見て、朝起きて、たぶん会社か学校かなんかに行った』

これが、本作のあらすじです。たったこれだけです。
どうです? つまらないでしょう? 僕もつまらないと思います。

そこで、

「チッ、こりゃあどーしょーもねー話だなー。どーすっかなー」

という感じで、色々ごにょごにょと作業して、出来上がったのが、本作です。

「色々ごにょごにょ」の内容は、本作の場合では、主に文章表現ですね。あけすけに言ってしまえば、「ストーリーはつまらないけど、文章表現が面白かったので、苦痛なく、最後まで読めた」と言っていただければ、少なくとも本作においては、作者としては、とてもしあわせです。
   
   ***

さて、色々書きましたが、最後に、8年前に書いたこの作品を、作者自身がどう考えているか、述べたいと思います。

ぶっちゃけいまだに、超気に食わない点が、ふたつあります。

ひとつは修正可能なので、もしこの作品をリライトする機会があったら直しますが、めんどくさいので、たぶんリライトすることはないでしょう。  

もうひとつは、ハッキリ言って修正不可能です。そこを直してしまったら、本作の屋台骨が崩れてしまいます。もう手遅れです。諦めます。次作で同じ轍を踏まないよう、注意して頑張ります。 

修正可能な気に入らない点は、作中の夢の中で登場する、玉葱の部分です。
例えとしてはわかりやすいと思いますが、安直過ぎて面白くないなー、と僕は考えています。この部分は、もし修正する機会があれば、必ず修正します。

修正不可能な点は、そもそもこの作品が、たとえ異色作の、部分的なものであれ、『村上春樹の影響を受けた』という点です。春樹インスパイア系、ってやつですね。これはもう、この作品では直せない。どう頑張っても、無理。なので、今後は、ほんのちょっとでも春樹インスパイア系が入っちゃってる作品は、絶対に書くつもりはありません。

文芸に携わる者であれば、誰にでも、ひとりかふたりくらいは、尊敬する作家、敬愛する作家、大ファンの作家、というような、既存のプロ作家がいると思います。僕にとっては、その中のひとりが、村上春樹です。『海辺のカフカ』以降はさすがに歳をとったなあ……という感じで、あまり好きではありませんが、一応、いまでも小説の新刊が出たらすぐに買いますし、すぐに読みます。他にも同じように好きな作家は何人かいますが、ちょっと僕の中では、村上春樹は、ワンランク上に位置しています。

さて、その村上春樹自身は、かつてインタビューの中で、このようなことを話しています。

「僕が小説を書こうと思ったときは、大江健三郎さんが文壇の大スターだった。だから僕は、絶対にそれとは違う種類の小説を書いてやろう、と思った」

ここだけ読むと、あれあれ? ひょっとして、村上春樹は大江健三郎のことが嫌いなのかな? とも思えますが、そんなことはありません。少なくとも当時の代表作くらいは、きっちり読み、分析し、リスペクトし、その上で、「絶対にそれとは違う種類の小説」を目指したんです。

その証拠が、村上春樹のデビュー後、2作目の小説として発表された、『1973年のピンボール』です。このタイトル、どこかで似たようなタイトルを目にしたことはありませんか? そうです。大江健三郎の代表作、『万延元年のフットボール』のもじりです。いやー、そりゃあもう、当時はめっちゃくちゃ意識してたんだろうなー、相当苦労して影響から抜け出したんだろうなー、という様子が、目に浮かぶようです。

どの時代にも、小説界には大スターというものがいるもので、ちょうど、村上春樹にとっての大江健三郎のような存在が、僕にとっての村上春樹なんです。

ですので、僕も、

『村上春樹とは絶対に違うものを書こう』

と、今は思っています。
反骨精神なくして個性は生まれない、ということですね。

   ***

というわけで、ふと気付けば、すさまじい分量を書いてしまいました。僕が自分の作品や創作のスタンスについて、これほど長く語り、また、これほどあけすけに作品のカラクリを披露したのは、たぶんこれが、最初で最後です。

作品へのご感想と、そして多分作品と同じくらい長い作者レスにお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
No.7  桐原草  評価:50点  ■2012-09-05 12:11  ID:1zZ2b3u5YfY
PASS 編集 削除
読ませていただきました。
とても面白かったです。
マグリットだったかな、閉じられた感じの絵画のようで、色々考えながら読んでいるうちに引き込まれてしまいました。

一晩の間の、「君」が眠る前から朝家を出るまでの短い時間を描写しているものとは思えないほどの、すばらしい描写力でした。
私は書き込みが足りないといつも言われているので、描写とはこのようにするのかと、勉強させていただきました。

お体が優れないとか、もう良くなったのでしょうか。ゆっくり休まれて、これからもすばらしい作品を期待しております。

No.6  蜂蜜  評価:0点  ■2012-07-08 01:05  ID:U.iFxaeXFSQ
PASS 編集 削除
持病が悪化して長らく創作活動全般はおろか、当サイトを開くことさえ苦痛だった蜂蜜です。お久しぶりです。

色々と環境の変化があり、今は心身ともに療養を強いられており、残念ながら復帰のめどは立っていません。

作品についてのご意見、ご感想、ありがとうございます。

僕にとっての作品とは、すでに発表された時点で僕の手を離れ、お読みいただいた方々それぞれの中に残る『読書体験』となってはじめて皆様と僕とのあいだに1:1のバイパスを生成し、そのバイパスそのものが『作品』であると、僕は思っています。

ですので、皆様が本作を通じてお感じになったことは全て正であり、作者として、何も申し添えることはありません。

ありがとうございました。
No.5  zooey  評価:50点  ■2011-04-17 23:47  ID:qEFXZgFwvsc
PASS 編集 削除
初めまして、読ませていただきました。

全体的に抽象的というか、観念的というか、そんな作品で、
こういう表現の仕方があるんだなーと、とても勉強になりました。

冒頭、塔にある画一的な窓の様子、そして、その中の特徴のない一つの窓にいるのが「君」という存在。
これが、この作品で描かれる者が特別な者ではなく、むしろほかのみんなと変わらない読者自身であり、同時に周りの人間であることを強調していて、お上手だなと思いました。

描かれているものも、熱帯夜の寝苦しさ、という誰もが経験したことのあるものであり、
一つ一つの描写に共感というか、自分の経験がリンクするような感じがしました。

そういう、平凡な現実の世界のすぐ傍らに、夢をついばむ非現実の世界があり、
その距離の近さに独特の面白さを感じました。

夢の部分は、読者がそれぞれに感じ取っていい部分なのかなと思いましたが、
私は、人間の欲の怖さや、苦しみが人に伝わらない時のもがきというか、そんなものを感じました。

あと、一文一文が、とても洗練されていて美しく、
特にラストは静かにイメージがわいてくるような、そんな感じでした。

大変面白かったです。ありがとうございました<(_ _)>
No.4  キットキャット  評価:40点  ■2011-04-17 00:08  ID:heA3e64V7ZQ
PASS 編集 削除
前に一度、投稿された作品のようですね。高度な視線で描かれた作品であるということで、ご本人のこだわりが伺えます。

服を着替え、靴を履き、玄関の鍵をしっかりとかけて駅へと向かう。

これを、

服を着替えて靴をはき、しっかりと玄関の鍵をかけ、駅へと向かう。

どちらも言っていることは同じで、ほとんど同じ表現ですが、どちらにしようか考えると、眠られなくなります。

句読点とか、形容句の位置って気になりますね。

No.3  剣屋一刀  評価:40点  ■2011-04-17 16:32  ID:AHDXDYyLKo2
PASS 編集 削除
長らくご無音しております。
蜂蜜さまのご投稿を大変心待ちにしており、感想をA4用紙3枚分くらい費やして書いていたのですが、投稿ボタンではなく、管理者用ボタンを誤って押してしまい批評内容を消去してしまいましたので、改めて短縮versionを簡潔に書きます 涙

南米の作家フリオ・リャマサーレス「黄色い雨」のような質感とイメージの広がり方を感じました。(木村榮一訳ですが、彼の仕事振りは素晴らしいですよね。木村はドストエフスキーと誰かとリャマサーレスの著作に対してのみ、行間から「白い炎のようなものがほとばしっている」と発言しています。それを聞いたリャマサーレスは木村に対して「その表現いいね、ぼくがつかってみてもいいかな?」と極めて紳士的に言葉を返したそうです)

御作は、まさにインナー・ヴィジョンに切り込んでいく方法論を携えた作品で、興味深く読ませていただきました。

明と暗の世界、比率は暗に重心が置かれ、暗の中で流動し、やがてわずかな明が瞼に差し込んでフィナーレであり、始まりですね。
暗の世界は曖昧で輪郭は主としてぼやけながらも明晰な筆によってクリアーに縁取られています。明の世界への結び方は、曖昧な霧が少しずつ晴れていくような爽快感もあり、黒い衣服を脱いで裸身になったような身軽さも感じられます。全体的に構築部分は土台が準備されていますので、イメージを想像から創造へと躍動させるのに申し分ありませんが、暗の世界の中での時刻表現にやや疑問が残ります。

不確かで不安定な夢のような世界内において、

>それでも二十三時を廻った頃から、ようやく生温い風が、ほんの微かに、遠くの雑木林から君の住む街へと流れはじめたところだ。

>いま時計の針は、ちょうど午前零時を指したところだ。夜は短い。

>いまは朝の五時四十五分だ。まだその姿を現しきっていない太陽の遠い光が、カーテン越しに君の部屋を一面の薄青に染めあげている。

抜粋した三箇所において、二十三時、午前零時、朝の五時四十五分という直接的な時刻表現――その時刻を親切かつお手軽な固定的表現で記述するのではなくて、その固定的表現を用いずしてその時刻を感じさせるための芸術的表現を模索すべきではなかったのでしょうか?という考えが私の頭を過ぎっていきました。というのも、長編小説ではパラグラフ内での必要条件を満たす上での制約との兼ね合いなどから、こういった省略は要請されてきますが、短い作品ですと、わかりやすさとの塩梅との天秤を考慮したいところですが、瑕になりかねないと思います――というよりも、蜂蜜さんの直接的時刻表現を用いない記述の技術と、その技術によって表された物語内での言葉の面白さ、関わり方に興味があるからこそ書かせていただきました。

追伸

昨年はTCチャットを通じて蜂蜜様に多数の良書をご紹介いただきまして、大変お世話になりました。
ところで、四月も半ばになりましたが、今年の読書におきまして思いがけない収穫などありましたら、是非、一冊といわず何冊でも教えて下さい!!

それでは、今後ともご指導のほどよろしくお願い致します。

追記

自制心のない文章を綴ってしまいましたが、全ては蜂蜜さんへの尊敬がそうさせているのです。乱筆ご容赦くださいませ。
No.2  楠山歳幸  評価:50点  ■2011-04-14 23:50  ID:sTN9Yl0gdCk
PASS 編集 削除

 拝読しました。

 昨年十月頃、旧TCのチャットにて、「表現が大事」と教えていただいた者です。僕はラノベしか読んだことがなく、当時、TCに訪れた頃は初めて見聞きする小説に正直疑問ばかり感じていましたが、蜂蜜様に教えていただいた言葉で世界が変わりました。ありがとうございます。
 蜂蜜様の作品を読ませていただけたこと、とてもうれしいです。

 君=私たちの抗し難い日常と倦怠感がバグのような異世界の存在に淡々と語られている所がゾっとするほどすごいです。真夏の雑木林の風も肌に訴えるみたいでリアルです。そして唯一残っている夢が際限なく切り刻まれる夢、そしていつもの朝、まるで私たちに狂気が孕んでいるのを暗示しているみたいでした。

 ベテラン様方のようにうまく言えなくて恐縮ですが、読んでいて何か迫るような、静かな迫力を感じました。
 拙い感想、失礼しました。
 
No.1  らいと  評価:30点  ■2011-04-14 21:41  ID:iLigrRL.6KM
PASS 編集 削除
拝読させて頂きました。
夢をついばむと言う事で、寝苦しい夏の夜のひとときの出来事が、うまく出ていたと思います。
ただ、この作品が一体何を意味するのか、ちょっと僕にはわかりませんでした。
私という者の正体も、君という者の正体も、たまねぎの夢の意味も僕には不明です。
拙い感想ですみません。
総レス数 12  合計 290

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除