4回目の孤独



 彼は死のうと思っていた。
 長い長い人生において、彼は道半ばで死にかけていてた。桜は満開に咲いてから散るが、彼はまだ咲いてもいなかったし、ましてや蕾すらもつけていなかった。
 義務教育を経て、高校に入り、国立大学へ一浪して入学。留年もなく、卒業論文についてあれこれと言われることもなく、今日まで生きてきた。
 彼には別だん10代の青春の日々に思い出はなかった。あったとすれば、中学で養い高校で完成させた陰険で卑猥な眼を、四六時中女子生徒たちに向けていた事だろうか。彼に学生時代の思い出を語らせれば、即席麺をつくる時間だけで十分だった。高校を卒業してからの日々は聞いたことがない。その事を喋る彼の口ぶりからすると、決していいとは言えない毎日だったのだろう。国立とは名ばかりだったのは、入学した彼が一番良く理解していたし、それを劣等感として捉えていたのは見て明らかだった。
 思春期から抜け出せていないと感じさせられる新鮮なニキビの傷跡が垢抜けない丸顔をえぐっており、それに加えて毛が濃く、毎日剃るせいで肌が削れ青くなり、ニキビが潰れてその様は餡パンにカビた胡麻をまんべんなくちらしたようだった。そのせいで彼は公然と『アン』と呼ばれていた。もう10年以上前の話になる。
「僕は、つらい」
 バー『アティトラン』は木張りの床に害虫がたくってそうなほど不衛生で、薄暗く、ビールが上手くて、飲むたびにトイレに駆け込む素晴らしい店だった。この店の馴染みの中では僕とアン以外、ビール頼む人間を見たことが無かった。そんな店だったが、アンは酷くこの店を気に入っていた。マスターのハセガワさんは誰にでも優しかったし、店内は顔が見えないほど暗い。それに今時LPを流すバーなんてものは絶滅危惧種以上に貴重だった。スピーカーからはイングランド・ダンの明るい声が洩れ出ていた。青春の筆跡をそっとなぞるような、僕らの偏った音楽しか聴かない人間には心地良いメロディだった。曲名は秋風の恋。アンはこれを聴くたびに青春の日々を3分以内で語ってくれる。
「臭いビールを飲んでいることがか?」
 いつものように彼の真意をわざと無視する。ハセガワさんがグラスを磨く手をとめてこちらを見たが、諦めたようにため息をついて元の作業に戻った。
 僕らは月に一回だけこの店で会うことにしていた。大学を卒業してからは互いの仕事の都合から疎遠になってしまっていて、毎日会っていたのが週に一度。やがて月に一度と段々長くなっている。遠くない未来にはもう会うのはやめね、と女々しく言うアンが頭に浮かんでくるが、それまでに僕らはくたばっているだろうと限りない妄想を打ち切って、ピーナッツの種を床にはじき飛ばした。
「最近、よく夢を見るんだ」
 目の前に置かれたナチョスを親の敵を見るかのように険しく睨みつけているのは、ナチョスにつらい原因を投影しているからだろう。サルサをタップリと塗りたくったナチョを腫れぼったい唇の割れ目に押し込んみ、ビールを煽った。
「ふぅ。いやな、つまらない話なんだが……。夢のなかで、俺はまだ大学生なんだ。ニキビだって今の倍位あってさ。丁度この曲と同じように秋風が吹いていてな。国際事情を受講している途中に妻が入ってくるんだ。馬鹿みたいだろ? ヤツと出会ったのは商社勤めの最中だったのに」
 丁度曲が終わって、LPがプツリとノイズをたててから沈黙がやってきた。椅子を立って、ジュークボックスの前で見飽きた曲目を眺めながら、その場にピーナッツの種を蒔いた。
「それからな」
 流れたのはカーリー・サイモンだった。うつろな愛。聴いているこちらは英語なんて高校以来だから、ミック・ジャガーのコーラスぐらいしか聴きどころがなかったが、100円の価値はある。低音が心臓を叩く。バスドラムが身体を突き破るようにドスドスと響いてくるのはこの店かライブハウスくらいだろう。無駄に音響設備は整っている。
「エミと、ユウコがな。いつの間にか俺の後ろにいるのさ。『やぁ、パパ元気?』ってな。そしていつものように鞄や財布をねだってくるのさ」
 ビールをハセガワさんに頼むアンを止めてから、勘定を支払う。泣き崩れたアンを肩に乗っけてから、店を出た。ひんやりとした風が火照った身体を通り抜ける。後ろからバスドラムが僕達を追い出すように激しく踏まれていた。裏通りを歩く通行人の視線が僕達に注ぐ。それも数秒だけで、音の原因がどこから来たのかの探究心を満たしたらしく、満足そうに視線を逸らした。
「酔いすぎだ」
 アンの酔い方は母を亡くした頃の僕の親父とよく似ていた。誰にあたるわけでもなく、ただ酒を止めるまで飲み、泣き続ける。親父は酒のせいで翌年亡くなったが、あれは大学の頃だったからもう何年経つのか……。酔ったせいなのか、単純な計算ができなくなっていた。母が、親父が亡くなった年が思い出せない。
「もういいんだよ、エミ……ユウコ。辛い思いをしなくたって」
 うつろな目が虚空を優しく見つめながら、途切れ途切れにそう呟く。それを見て、アンも気の毒だったと改めて思った。
「なぁ、――?」
「やめてくれ、名前を呼ぶな」
「あ、ああ、すまない。一つ約束をしないか」
 都合よく、光の消えたバス停が目の前にあった。裏通りを抜け、国道沿いのバス停だった。ベンチにアンを腰掛け、僕もその横に座る。
「煙草いるか?」
 くたびれたコートのポケットから取り出して、アンに勧めた。
「いや、いい」
 そうか、と僕は口にくわえた煙草に火をつける。温かい空気が乾燥した喉を焼き、チクチクと咽頭を刺激する。
「お互いに、下らない人生だ。ええ? ……お前は両親と、妹。俺は、嫁と、最愛の娘二人。失うものが、大きすぎたな」
 はは、と笑い声。車の排気ガスを吸い込んだせいか、アンは酷く咳き込んだ。
「……あと1つで、4つめだ。先に4つめになったほうが、死ぬ。どうだ? 面白いだろう?」
「ああ、そうだな。面白い」
 酒で潰れきったアンを見ながら、悪くない提案だと思った。両親はあっけなく逝き、妹は事故死。立ち直る人間も居るのだろうが、僕には無理だった。昨日まで笑いかけてきた家族が、一番近い場所で逝くのを見ていて、僕は壊れてしまったのだろうか。
「約束だ。4つめになったほうが死ぬんだな。悪くない提案だ」
「うん。悪くないはずだ。少なくとも、俺達にとってはな」
 アンは眠り始めた。
 僕は立ち上がる。都合よくタクシーが夜の街をぬって、僕らの前で止まったからだ。客を降ろし、そのまま走りだそうとするところで僕が呼び止めた。彼を所定の住所で連れていってほしい、とメモに書きなぐった住所を手渡して、アンを乗せる。愛想良く酔いつぶれたアンに接客しているが、アンはもう深い眠りについていた。そのまま走りだした車を見送ったところで、僕はとぼとぼと家まで歩き始める。4つめか……と、若干白くなった吐く息を空に見送り、足を早めた。




 アンが亡くなったという報せを受け取ったのは、翌日の午後の事だった。
 ここに遺書の全文を記す。




『俺は、親友とある約束をした。互いに身内を3人亡くしていて、後1人亡くなったほうが死ぬという約束だ。俺は、自ら運転した車で身内の3人を亡くした。信号無視の輸送トラックが横から突っ込んできて、何故か私だけ生き残った。
  ????(文字が崩れていて読めない)は、俺の妻だった。妻は、こんな屑の固まりのような性格と顔を持つ俺を愛してくれた。それがとても嬉しかった。大学を卒業してから、こんな幸せを掴めるとは思ってもいなかった。こんな俺と結婚を認めてくれた????(文字が崩れていて読めない)にはとても感謝している。今でも。
  そして、俺は改めて詫びなければならない。事故の件も、これから死ぬことも。
  もう、生きていくのに理由がいらなくなっていた。今まで何かしらケチをつけながら生きてきたものだから、それが無くなった途端に死んでもいいと思えた。不思議なもので、死に対してそれほど恐怖感がない。今の酔った勢いなら、楽に死ねるだろう。
  親友が約束をどう受け止めたかは今ではわからない。ただ、俺と同じように死のうと思っている親友がこの約束を死ぬ理由にしてくれれば俺も死んだ甲斐がある。ささやかなプレゼントだと思って受け取って欲しい。最後になるが、今まですまなかった。そして、ありがとう。』
イトカワ
2011年03月20日(日) 13時44分55秒 公開
■この作品の著作権はイトカワさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
中々オチに導くまでの手順だったり、伏線が下手っぴだったりと、文章力の無さがにじみ出ていますが、よろしくお願いします。

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No.3  イトカワ  評価:--点  ■2011-03-25 00:11  ID:YnUHjLuO6z.
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楠山歳幸様

ご感想ありがとうございます。

>主人公の気持ちの描写も欲しいと思いました。たとえば、アンと主人公の似ている所や妹の死など……。

アン以外の描写をこそぎ落としていけばどうなるのであろうか、と思った結果がこの作品になりました。なるべく短く纏めたいという気持ちもあり、あまり話を詰め込めなかったので、主人公の描写は当初の目標と合わさって見事に無くなりました。

>約束を提示したのがアンなのか主人公なのかも分かりづらいと思いました。

 確かにわかり辛い書き方をしてしまいました。気をつけます。

>(遺書を)記す、という文が最期に友人を突き放した印象を受けました。

 最後についてはあまり凝ったオチも思いつかず、それだったらシンプルに行こうと遺書に頼りました。主人公の気持ちの描写は入れたくなかったので、突き放した印象、については狙った効果というよりも、削除法で突き進んだ結果になりました。

 
 ボル様

 ご感想ありがとうございます。

>「僕」と「アンの妻」はどうして名前を伏せているのでしょう?アンの娘達、エミとユウコは名前が出ているのに、ちょっと不思議でした。

 どうしてもアンには娘に対する愛情というものを本人の口から出して欲しかったので、エミとユウコだけ名前は出てきました。が、その他の妻や僕の描写はなるべく削りたかったので、こうなりました。名前を出さない方針の話であれば、娘たちやハセガワさんの名前も出さず、アンだけにしていればよかったかもしれないと反省です。
No.2  楠山歳幸  評価:30点  ■2011-03-20 22:18  ID:sTN9Yl0gdCk
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 初めまして。拝読しました。

 短い中に雰囲気があって、アンの気持ちがにじみ出ている良い作品でした。

 それだけに(僕の読解力不足のためですが)主人公の気持ちの描写も欲しいと思いました。たとえば、アンと主人公の似ている所や妹の死など……。僕だけですが、約束を提示したのがアンなのか主人公なのかも分かりづらいと思いました。
 (遺書を)記す、という文が最期に友人を突き放した印象を受けました。作者様の狙った効果だったらすみません。

 偉そうなことを書いて申し訳ありません。タイトルと合う良い作品だったので希望を並べてしまいました。

 拙い感想、失礼しました。
No.1  ボル  評価:50点  ■2011-03-20 16:23  ID:PRsnbyWUxOo
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イトカワさん初めまして。ボルと申します。
拝読させていただきました。
暗く濃厚な影で覆われた物語ですね。この暗い物語の淡々とした調子が好きです。
文章力の無さ、と仰っていますが、そんな事は無いですよ。十分な文章力をお持ちだと思います。喪失感に打ちひしがれた男達をきちんと表現なさってるじゃないですか。
そして、ひとつ気になった事が。「僕」と「アンの妻」はどうして名前を伏せているのでしょう?アンの娘達、エミとユウコは名前が出ているのに、ちょっと不思議でした。
 私の理解力の不足かもしれません。不快に思われたら申し訳ありません。
  
 4回目の孤独 楽しませていただきました。
 ありがとうございました。
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