ある探偵の独白 〜黒いステージと紅い花〜
ある探偵の独白  〜 黒いステージに紅い花 〜


 ソファの上で猫が鳴いている。時計を見ると午後五時。どうやら俺は、事務所のデスクでうたた寝をしていたらしい。少しけだるさを感じながら椅子から立ち上がり、奥の冷蔵庫へ向かう。

「おい、ジャスティス」

 キャットフードの缶を探しながら猫の名前を呼ぶ。その白い猫は一声鳴くとすぐに俺の足下に擦り寄ってきた。バーマン種とやらのオス猫。もう二年になるだろうか。探偵である俺が首を突っ込んだある事件の関係者だ。こいつがどう思っているか知らないが、義理があってここに居候させてやっている。缶詰をあけてジャスティスにあてがってから、俺は事務所のシャッターを下ろそうと入り口へ向かった。
 夏の盛り。昼間の暑さをようやくやり過ごした都会の空は、どことなく力の抜けた水色をしている。わずかに傾きかけた太陽が、ビルの隙間から申し訳なさそうに無機質な都会の景色をほんのり赤く染め始めていた。
 仕事はそれほど忙しくはない。浮気調査を三件抱えていたが、どれもおきまりのパターン。あと一週間もすればそれぞれ決定的な証拠を押さえて、依頼主に提示できるだろう。そこから先のことはある程度想像できるが、俺の知ったことじゃない。つまり、これから先も平々凡々と日常が過ぎていく、ということだ。
 
「麻木さん」

 シャッターを下ろすために使う鈎のついた棒を手にしたところで、声を掛けられた。顔を上げると見知った顔があった。

「なんだ、もう仕事はあがりなのか」

 俺は声を掛けてきた男にそう答えて、彼を事務所の中へと招き入れた。
 男の名前は門倉宗司。近くの警察署の刑事だ。歳はまだ二十代半ば。今年三十六になる俺から見れば、まだまだひよっこだ。ジャスティスの事件の時に機知になって以来、非番になると時折酒を持って事務所を訪れるようになっていた。

「そちらも、もう仕事は終わりですよね」

 どこか呆けた笑顔で門倉が言う。大して長いつきあいではないが、刑事にしてはいささか単純すぎるこの男の性格は分かりやすい。つまりこの顔は何か企んでいる、ということだ。

「ちょっと夕涼みにいきませんか」
 
 にやけながらそう言う門倉の話を詳しく聞くと、最近知り合いになった老人がなかなか話し上手で、面白い怪談話を聞かせてくれるのだという。ちょうど良い酒が手に入ったからそれを手みやげにして話を聞かせてもらおうということらしい。

「男二人で怪談話を聞きに行くのか。なんとも華のない話だな」

 俺がそう言うと門倉はひどく下卑た笑いを浮かべた。

「ちゃんと華も用意してますよ。怪談話の醍醐味は、怖がってもたれかかってくる女性の肩を抱き留めるところにありますからね」

 ずいぶんと手前勝手な楽しみ方だと可笑しく思ったが怪談で夕涼み、それも旨い酒があるとなるとそれも一興だなと考えた俺は門倉の誘いに乗ることにした。
 支度もそこそこに事務所を出てタクシーを捕まえる。十分ほど都内を走ったあと、門倉の案内で着いた先は意外な場所だった。 

「ここなのか」

 怪談とはおよそ似つかわしくない前衛的なモニュメントが建つロータリーを眺めながら俺は声を漏らした。そこは小さな音楽ホールだった。ホールの名前なのだろう。聞いたこともない造語らしきカタカナ単語が彫りこまれた彫刻が見える。
 俺の問いには答えず、門倉は忙しなく辺りを見回している。何を探しているかは聞くまでもない。お目当ての姿が見えないとなると門倉はすぐに携帯を取り出した。わずかに二回、ボタンを操作して通話の姿勢になったところを見ると、よほど頻繁に電話をかけている相手なのだろう。口を半開きにして呼び出し音を聞いている門倉の姿はなんとも滑稽だった。

「あ、アカネちゃん? こっちは着いたけど、いまどこかなぁ」
 
 いつにも増して間の抜けた門倉の声に俺は思わず吹き出しそうになるのを堪えて、ホールの外観に視線を移した。
 煉瓦調のくすんだ外壁が格調高く目に飛び込んでくる。クラシック好きだった両親の影響で、幼い頃からコンサートホールにはよく来ていたが、最近は時折酒の肴にCDで聞くだけになっている。威圧感の漂う重厚な造形に、妙にノスタルジックな気分になるのは幼い頃の記憶のせいだろう。その心地良いくすぐったさを堪能していた俺の心中を無惨にかき乱したのはもちろん、あいつの声だった。

「ええっ、せっかく好みだって言うからマッチョの元自衛官も連れてきたのにぃ」

 おい、誰のことだ。確かに自衛隊にはいたが除隊してもう何年も経つし、そもそもそれほどマッチョじゃない。なるほど、俺は体よくダシに使われたわけだ。それでもなんとなく憎めないところがあるのも門倉の人柄だった。それが刑事という職業に利するかどうかはなんとも言えないが、探偵なんていう擦れた職業をやっているとその素直さが時に心地良く感じられる。
 憮然としながら電話を切った門倉に、誰を誘ったのかを聞いてさすがの俺もとうとう笑いを堪えきれなくなった。金曜の夜にキャバ嬢を誘う奴がいるか。今頃はどこぞの社長さんと同伴出勤の真っ最中だろう。俺がそれを言うと門倉はますます口を尖らせた。

「もう、こうなったらやけ酒です。でも麻木さん、怪談話は本当に怖いですからね」

 俺はお前のその単純さの方が怖いよ、とは口に出さずにホールへと入った。

 

 ホールのエントランスで出迎えてくれたのは老齢の男性だった。七十歳前後だろうか。白髪をきっちりセットし、背筋もきちんと伸びており、すらっとした長身。百八十センチある俺とほとんど変わらない高さで目線が合う。

「どうも。このホールの顧問をしております、折口です」

 外見からイメージされるトーンよりやや高めの声で挨拶しながら、老人は慣れた仕草で名刺を差し出す。こちらも幾分慌てながら財布から名刺を取り出し、皺を伸ばしながら相手に渡した。

「麻木通夫探偵事務所の麻木俊介さん。へえ、探偵さんなんですか。でも事務所のお名前と違うんですね」

「父親が立ち上げた事務所なので。父は、もうずいぶん前に他界しましたが、その後を私が継いだので。名前を変えるのが面倒でそのままなんですよ」
 
 老人は、俺の話に「なるほど」と頷きながら微笑む。彫りの深い顔に笑い皺が波打つ。見るものを安心させる気持ちの良い笑みだった。

「本物の探偵さんに会うなんて長いこと生きてきて初めてですよ。私が知っている探偵といえばみんなお話の中の人ばかりで」

 俺が渡した名刺を名刺入れに丁寧にしまいながら言う。はやりのクールビズというやつだろう。ボタンダウンの半袖の真っ白いワイシャツにベージュのチノパン。身につけているものどれもが派手すぎず清潔感が漂い、老人の柔らかい人柄を心地良く演出してる。わずかに目を引いたのはワイシャツの袖に刺繍された花と足下の靴。見慣れないどこか毒々しくも見える花の刺繍と、ずいぶんとくたびれたスニーカーを履いていた。

「ああ、これですか。時計草という花の刺繍です。私のお気に入りでトレードマークなんです。いってみれば家紋みたいなものでしょうか」

 オーダーメイドのシャツは通常、肩にイニシャルを入れる場合が多い。そのかわりに折口は花の刺繍をいれているのだそうだ。確かに目を引くし、イニシャルを入れるよりも粋であるかも知れなかった。
 ついでに靴について聞くと、折口は片足をひょいと上げながら照れくさそうに笑った。気が付くと人のアラばかりを探してしまうのは、職業病とはいえ俺の悪い癖だ。失礼なことをしてしまったかと思い、あわてて言いつくろう。

「お気を悪くしないでください。職業柄、変なところにばかり目が行ってしまって」

 そう釈明した俺に老人は丁寧に解説してくれた。もともと技術職上がりのため今でも照明や音響の仕込みを自ら行うのだそうだ。高い場所やはしごを登ることもあるため革靴では仕事にならない。

「今もホールでちょっとした作業をしたばかりで、こんな格好なんですよ」

 照れたように笑う。じゃあ、作業服でいればいいだろうとも思われるが、顧問という立場上、急な来客に対応することもあり、さすがに作業着ではいられないと言うことらしい。

「いやしかし、さすが探偵さんですね。実に眼光がするどい」

 ひととおり説明してくれた後で折口が言う。それに反応したのは門倉だった。

「折口さん。麻木さんはね、ホームズにだって負けない名探偵なんですよ。迷宮入りになりそうだった難事件をちゃちゃっと解決しちゃったんですから。あ、もちろん私も協力しましたけどね」

 たしかに門倉の「警察です」という魔法の言葉には助けられたが、容疑者に殴られて失神したのはどこの誰だったかな。まあ、都合の悪いことをすっきり忘れられるというのも特技だろう。
 門倉の話にひとしきり感心した折口は、ふと気づいたように言った。

「あれ、門倉さん。今日は女性のお連れの方も見えるはずでしたよね。まだ、いらしてないようですが」

 門倉の顔が急に紅潮する。彼は手に提げた紙袋を翳しながら半ば自棄になって言った。

「や、やだなあ、折口さん。今日の連れはほら、これですよ、これ」

 門倉が指さす細長い紙袋には大きく「筑波美人」の文字。

「なるほど、美女ではなく、美酒ですか」

 すべてを察したような表情で折口が微笑んだ。なかなか洒落もきく人物らしい。だが、酒を飲むと言っても通常、ホール内は飲食禁止。ましてや飲酒などもってのほかだ。その心配を察したのか、折口が「ここではなんだから」と特等席に案内してくれると言って歩き出した。
 いわれるままに着いていった先はメインホールの中だった。目の前に真っ黒いステージがある。黒いステージとは珍しかったが、照明映えがするこのステージがホールの個性であり、自慢なのだそうだ。客席は五百席。芸術ホールとしては小規模だろうか。ホール特有の落ち着いた雰囲気が醸造されているが、建てられてから三十年を数えるということで、壁の小さなひび割れや、ところどころほつれた椅子のカバーなどが目に付いた。

「まさか、客席で飲むんですか」

 門倉が言う。その顔を見て折口が笑った。

「さすがにそれはできませんね。あそこですよ、あそこ」

 そういって折口が指を指したのはステージとは反対側の壁のかなり上の方。横に長くガラス窓が配されている場所だった。

「あそこはなんですか」

 そう聞いた門倉の口は呆けたように半開きになっている。

「あれが先日お話しした調光室ですよ」

「先日」というのは恐らく門倉が怪談を聞いた日なのだろう。調光室と聞いて俺は鼻がむずむずするのを感じた。調光室とはステージの照明や音響の調整をする部屋だ。小さい頃にとあるホールで父の友人に中を見せてもらったことがある。その時感じた投光器が発する熱で埃が焼けるきな臭い匂いが鼻腔に蘇ったのだ。

「え、あれがそうなんですか。じゃあ、あそこで自殺していたのですね」

 穏やかならぬ話を門倉が言う。その隣で折口が話題に不釣り合いな明るい声で笑った。

「あんまり先走って話さないでください。せっかく麻木さんを怖がらせようと張り切っているのに」

 折口は「楽しみは取っておきましょう」と意味深な笑みを湛えながらステージの端を通り抜け、薄暗い通用口に俺たちを案内した。
 しばらく歩くと通用口はやがて人が擦れ違えるかどうかという狭い階段になった。コンクリートの打ちっ放しの壁が冷たく迫る。見るからに古い型の蛍光灯の光が階段を申し訳なさそうにか細く照らしているが、それは登る先にある闇を際立たせる役にしかたっていないようだった。
 靴音がやけに甲高く響く狭い階段を幾度も折り返しながらかなり登る。冷房が効いているようには思えなかったがいつの間にか汗が引き、そのせいで背中がうそ寒く感じられた。

「もうそろそろですよ」

 折口がそう言って階段を折り返していく。同じように後を付いていこうと階段を折り返したところで俺と門倉は足を止めた。いや、止めざるを得なかった。

「あの、折口……さん」

 俺の前にいる門倉が、か細い声を出す。そこは真っ暗闇だった。階段はそこで終わっているようだったが、折り返しがあるせいで足下を照らしていた蛍光灯の光も届かない。門倉は手で前を探りながら、ゆっくりとすり足で進んでいく。俺はその場で立ち止まったまま、気配をうかがった。すると前を行く門倉の右上に小さく明かりが灯った。

「うわあ!」

 門倉のまるで下手な芸人のリアクションのような声がこだました。すぐに老人の笑い声が響く。近づいてみると門倉の視線の先、闇の中に折口の首が浮いている。なんのことはない。壁に備え付けてある梯子に登った折口が、懐中電灯で自分の顔を照らしているのだ。年の割に茶目っ気のある老人だ。
 
「びっくりしたあ。なんでそんなところに梯子があるんですか?」

 門倉が酒の入った紙袋を抱きつくように抱えながらあえぐように言う。

「この上にはピンスポ室があるんですよ」

 門倉がさらに驚いたように声を上げる。

「ピンサロですか!!」

 馬鹿。
 折口は、半ばあきれたような表情を浮かべたが、丁寧に説明してくれた。ピンスポとはピンスポットライトの略で、所謂スポットライトのことだ。舞台で主役やソロ奏者を追い掛けるもっともアクティブな照明機材だそうだ。

「出力がかなり高くて、その熱で部屋そのものが高温になってしまうんです。それで特別に部屋を設けて設置するんですよ。まあ、照明効果上、出来るだけ高い位置に配置しなければいけないというのも大きな理由ですけどね」

 照らされているほうも相当熱いのだという。涼しい顔で演奏しているように見えるオーケストラも、楽屋に戻ると汗だくになっていることも珍しくないそうだ。華やかなステージの裏には、思いもよらない苦労があるのだなと素直に感じ入った。

「さあ、今日はこちらの部屋が舞台ですよ」

 腰ベルトに付いたキーホルダーから鍵を取り出しながら折口が言った。調光室の扉はひどく分厚かった。音漏れや光漏れがないように設計されているのだろう。

「この部屋の出入り口はこの扉ともう一カ所。部屋の奥に、上に登る梯子があります」

 部屋の明かりを点けた折口が指さす先に、確かにさっき暗闇の中で見たのと同じような備え付けの梯子があった。

「あそこからも先ほど言った『ピンサロ』ではなく、ピンスポ室に行くことができます。今入ってきた扉と、梯子の先の天井への抜け穴のような扉。そのどちらも内側から鍵無しで施錠できるようになっています」

 折口は実際につまみを回して扉の鍵を閉めてみせた。

「鍵は私が持っていますので、この部屋は今外から開けることはできません。つまり、誰にも邪魔されずにゆっくりとお酒を楽しむことができるってことですね」

 そこまで言って老人はにこっと笑った。そしてどこからともなく、紙コップと幾種類かのつまみを小さな盆にのせて取り出す。照明を操作する卓に備えてあった事務用の椅子を三つ並べて、サイドボードに紙コップとつまみを並べた。それを見て「待ってました」とばかりに門倉が紙袋から酒の箱を出し、中から四合瓶を取り出した。

「でも、大丈夫なんですか。仕事中に酒なんか飲んで」

 支度に勤しむ二人を見ながら心配する俺に折口は笑った。

「今日はなにもイベントが無いですし、明日も週末にしては珍しくホールを使う予約もないのでステージの仕込みも必要ありません。これでも私は一応役員待遇ですからね。べろんべろんになることが無ければ、ばれたってどうってことないですよ」

 横で会話を聞いていた門倉が紙コップに酒を注いで手渡しながら、急かすように言った。

「麻木さん、余計な心配はいらないってことですよ。さあ、まずは乾杯、乾杯」
  
 あまり心配しすぎるのも無粋だろうと思い、門倉の言うとおりに受け取った紙コップを掲げた。酒は門倉がデパ地下で買ってきたという茨城の銘酒「筑波美人」。口当たりの良い甘口の日本酒だった。怪談話には不釣り合いかも知れないなと思いつつも、すぐにおかわりをもらう。

「じゃ、お酒も入りましたし、そろそろ始めますか」

 折口はそう言っておもむろに立ち上がると照明の操作卓にある小さな手元明かりを点けて、部屋の蛍光灯を消した。

「おお、やっぱり雰囲気でますねえ」

 手元明かりのオレンジ色の光が頼りなさげに浮かんでいるのを見て、門倉が声を上げた。部屋は各々の顔がうっすらと分かるかどうかというほどに薄暗く、目の前にある窓の向こうには誰もいない真っ黒なステージが非常灯の緑色の灯りに照らされてぼうっと佇んでいる。確かに非日常的な光景であり、怪談話を聞くには良い雰囲気だろう。

「門倉さんには以前お話したのですが、今日はあの恐ろしい事件が起きたまさにその場所でお話するということでまた違った怖さを味わってもらえると思いますよ」

 それまでの快活な話しぶりとは打って変わって、わずか声を潜めるようにゆっくりと折口が言う。確かに話し上手だ。俺は背中がすうっと冷たくなるのを感じた。

「あれは今からちょうど十五年前の話です。私は定年を迎える歳でした」

 折口は建設当初からホールの技術者として運営に携わり、その当時はこのホールの館長を務めるまでになっていたそうだ。その頃のホールの目玉は規模は小さいながらも本格的な、ホール専属のオーケストラを抱えていたこと。地元出身の音楽家を集めたすばらしいオーケストラだったそうだ。

「その年はホールが十五周年を迎える年で、メモリアルコンサートの準備に追われていました」

 折口も館長としてPRやゲストの招聘に大忙しだったという。

「準備は順調でした。ただひとつの不安材料を除けばね」

 折口の顔が神妙に曇る。そのなかなかの役者ぶりに怪談話らしくなってきたぞ、そう思った俺がふと横を見ると門倉がにやにや笑っている。折角盛り上がった気分が萎えてしまいそうになり、手にしたコップの中身を煽って空にして、門倉に渡す。にやにやしたままそれを受け取った門倉が「まだまだこれからですよお」と不気味に笑った。気を取り直して折口の語りに集中する。

「その不安というのはメモリアルコンサートのメインの曲目でした」

 予定されていたのはハイドン作曲の交響曲第四十九番。それがいわくつきの曲らしかった。

「実はそのホール専属オーケストラの前身である有志の演奏集団があったのですが、それがその交響曲第四十九番を演奏した直後に解散に追い込まれたのです」

 演奏直後の楽屋で団員が首を吊って自殺したのだという。それが当時の指揮者による過度のセクハラが原因だったのではないかと噂になり、その演奏団体は活動を続けられなくなったのだそうだ。

「その団体の熱烈なファンだった私は、解散が決まってからすぐに、ホールの建設に併せて団員達に集まってもらいました。それでも縁起の悪いこの曲はその四十九という数字にかけて交響曲『死苦』と呼んでこのホールでは禁忌にしてきたのです」 

 それをメインにしようといったのはメンバーになったばかりの若い女性のハープ奏者だったそうだ。当然ながら団員は少なからず反対した。それに対して女性はこう言ったそうだ。

「いい大人がばかばかしいと思いませんか。十五周年をきっかけにタブーに挑戦してみましょうよ」

 その勢いに押され、反対していた団員も次第に女性の意見に同調していったという。

「そして、あの日です」

 それはメモリアルコンサートの前日。通称ゲネプロと呼ばれる通しの最終リハーサルの時に異変が起きた。

「昼の休憩があけて、ちょうど四十九番のリハーサル演奏が始まった時でした。どこからか何とも言えないうなり声のような音が聞こえ始めたんです」

 そこはプロの演奏者達だ。すぐに演奏を中断し、原因を探ったという。それでも音の原因は分からない。試しにもう一度演奏してみるとやはり同じところで怪音が響く。リハーサルは完全に中断してしまった。

「かわいそうだったのがハープ奏者です。誰かが責めたと言うことはなかったのですが、自分でもすくなからず負い目を感じていたのでしょう。元気が無く居心地が悪そうでした。私は彼女の気を紛らわせてあげようとステージの袖でチューニングでもしていたらどうかと勧めて距離を取らせました。彼女はおとなしくそれに従いました」

 一方、スタッフは原因を必死に調べるが分からない。そうこうするうちにリハーサル終了の予定時刻になってしまった。折口は館長としてどう対処するか悩んだ。

「スタッフには総出で原因を探させましたが、私はほとほと悩んでしまい、自室にこもってしまいました。なにせ、大々的にPRしてきた大きな事業ですからね。走り回っているスタッフからはひっきりなしに館長室に電話がかかってきましたがそれを取ることすらできませんでした」

 その騒ぎの真っ最中、また異様な音がホールに響いた。それは舞台袖にあったハープの弦が弾け切れた音だった。音を聞きつけたスタッフや団員が舞台袖に駆けつけると沢山ある弦の内、およそ半分が切られたハープだけが置いてあり、あの女性奏者の姿が見えなかったという。

「私も含めてスタッフは皆、装置の操作盤があるほうの舞台袖にいましたから、彼女の傍には誰もいなかったんです。十五年前のことがあります。私は不吉な予感に駆られて楽屋に行きました。そして、そこには」

 何もなかった、そうだ。
 ここまで聞いて俺はまた門倉を見た。俺は知っているぞとばかりに得意げに頷いている。話の腰を折るのは本位ではなかったが、俺自身多少酒が回ってきたようで、悪いとは思いつつ、つい声に出してしまった。

「ここなんでしょ。その彼女が見つかったのは」

 折口が照れたように笑った。

「ええ、そうなんですよ。ホントは一番怖がらせるところだったのになあ。まさか、門倉さんが早々にばらしてしまうなんて想定外でしたよ」

 門倉の表情が変わった。どうやらようやく自分のしたことに気づいたらしかった。ある意味恐怖を感じているのだろう。何とも言えないぎこちない笑いを浮かべている。

「でも、とっておきはここからですよ」

 折口の顔が不気味な笑みに歪んだ。右手で門倉の足下をゆっくりと指すとぞっとするような低い声でささやくように言った。

「彼女はちょうど門倉さんの足下あたりに倒れていたんです。胸をナイフで深々と突き刺してね」

 門倉が声も出せずに両足を上げて後ろに仰け反る。その勢いでまるで漫画のようにそのまま後ろに倒れ込んだ。それを見た折口がさらにおどろおどろしい声色でたたみかける。
 
「そうそう。いま門倉さんの頭があるあたりにちょうど顔がありましたね」

 門倉はその折口の言葉に驚いて飛び起きる。なぜかつま先立ちでひょこひょこと歩き、そろっと椅子を引き寄せてようやく座る。

「こ、これで話は終わりでしたよね」

 門倉はどもりながらそう言うと紙コップになみなみと酒を注いで言った。

「先日お話ししたのはここまででしたが、じつはもう少しあるんです。その女性のダイイングメッセージがまた、恐ろしいものでしてねえ。なんて書いてあったと思います」

 老人の迫真の台詞に思わず背筋がぞくっとする。

「セクハラによって追い込まれた最初の自殺者の怨念は余程強かったのでしょうねえ。こう書いてあったんですよ」

 そう言って折口は操作卓の上にあったメモ用紙にボールペンで何かを書き込んでいく。書き上げたメモ用紙を受け取った門倉が思わず吹き出した。メモを指さしながら大笑いしている。そのメモにはカタカナ三文字でこう書いてあった。

「エロイ」

 俺も条件反射的に笑ってしまった。呪われた曲を演奏しようとして死んだ女性のダイイングメッセージが「エロイ」とはなんとも滑稽な怪談話ではないか。なるほど、良くできた作り話だ。そう感心した俺は素直に折口の語りを褒めた。

「いやあ、楽しませてもらいました。なかなか真に迫った作り話で、最後のメッセージまではどきどきしながら聞いていましたよ」

「麻木さんの言うとおり。僕だって、てっきりホントの話だろうと思って聞いてましたよ」

 笑いながらそう言った俺達を折口がにこりともせずに見ている。おや、と思って見つめ返すと折口はぼそりと言った。

「なぜ、あんなメッセージを残したのか、私にもわからないんです」

 折口の目が遠くを見ている。そのおぞましい情景を思い出しているのだろうというのは容易に想像できた。
 
「彼女が自殺するはずなんてない。呪い殺されたんです。ダイイングメッセージはそうとしか読み取れない」

 老人は静かに呟いた。彼が握る紙コップのなかで酒が細かく揺れている。

「嘘だと思いますか。私だってそう思いたい。ですから今日はお二人に立ち会ってもらいたいんです」

 そう言って折口はすっと立ち上がり、傍らのCDデッキを操作した。電源を入れ、一枚のCDをセットする。ちらっとケースを見ると「ハイドン」の文字がはっきりと読み取れた。その後には交響曲第四十九番「受難」とある。頭よりも体が先に反応し、思わず息をのむ。

「この曲をこのホールで聞くのはあの日以来、十五年ぶりです。とても怖くてそんなことはできませんでしたが、今日こそは試してみようと思っていたのです。そうでなければこの恐怖から一生逃れられないような気がしてならないのです」

 そう言って折口はひとつ大きく息をつき「意を決して」といった様子で再生ボタンを押した。その場にいる三人の意識がそれぞれの聴覚に集中していくのが肌で分かった。数瞬の間をおいて調光室の天井にあるスピーカーからその曲は聞こえてきた。
 緩やかに流れる三拍子のメロディー。死や苦しみを連想させる響きではもちろんない。弦楽の柔らかな調べが室内を滔々と泳いでいく。対照的なのは部屋を包む言いようのない緊張感。息苦しいほどに重い雰囲気が俺たちを圧している。
 どれくらいの時間、そうしていたのだろう。その音は、聞こえなかった。杞憂。
 三人の視線が交錯する。門倉、折口ふたりの瞳には安堵の色がありありと浮かんでいた。きっと俺の瞳も同じ色をしているだろう。俺は両手が無意識に拳を握っていることに気づき苦笑した。結局、呪いの音など聞こえないではないか。

「なんだか拍子抜けしてしまいましたよ。お話のクライマックスには、とてもどきどきする楽しい仕掛けでしたけどね」

 門倉が溜息まじりに言った。折口もつられるように笑みを浮かべた。

「いやあ、こうして聞いてしまえば十五年も怯えていたのが馬鹿馬鹿しくなってきますな」

 そういって立ち上がり、目の前の窓に手をかける。

「これは防音の窓でしてね。折角ですから窓を開けてホールの響きを直接楽しみましょう」

 がらりと窓が開いた。たちまちホール内の響きが部屋の中に押し寄せる。ホールの音響効果の洗礼を存分に受けたそれは、調光室のスピーカーから聞こえた音とは全く別物のような重厚な響きだった。が、同時に俺たち三人は言葉を失った。
 まるで腹の底をえぐるような不気味な響き。緩やかな美しい弦の調べの間で、なにかおぞましいものがのたうち回るような異音だった。隣で老人が後ずさり、力無く椅子に腰を落とす。俺は何かに取り付かれたようにその音に聞き入ってしまった。
 我にかえった門倉が反射的にCDデッキに取り付き、停止ボタンを夢中で押す。そして、静寂。

「い、今のは」

 どもりながら門倉が言う。尋ねるまでもないはずなのだが、確かめずにはいられなかったのだろう。門倉の視線の先で、折口が信じられないといった様子で首を横に振っている。やがて老人は力無く立ち上がり言った。

「どうやら、呪いはまだ続いているようです。誰かが死んでしまう前に、ここを出ましょう」

 折口が言うままに俺たちはホールを出た。酔いもすっかり冷めてしまっている。夕涼みどころか、思い出しただけで体の芯が震えるような心持ちだった。折口への礼も早々に、門倉と二人でタクシーを捕まえる。座席からふと見たルームミラー越しに見送る老人の顔が引きつった笑みに歪んでいるのが見えた。顔色がひどく青白く見えたのは街灯のせいだけではなかっただろう。それは何とも言えない表情だった。

「怖かったですねえ。まさか本当にあんな音が聞こえるなんて。呪いって本当にあるんでしょうか」

 右隣で青ざめた門倉が言う。
 呪いなどあるわけがない。重要なことは老人の話が事実か否かということだ。恐怖心がなかったかと言えば嘘になるが、それ以上に現象と事実に対する探求心が急速に心の中を占拠していくのを俺は感じていた。

「門倉。ちょっと調べてもらえないか」

 そういってタクシーの運転手に行き先の変更を告げる。目的地は警察署。十五年前、実際にあのホールで自殺者がいたかどうかを確認するように伝える。自然死じゃないんだから検死の記録があるはずだ。

 門倉が目を丸くする。そんなこと簡単にできるわけないと首を振っていた。

「何も悪いことをするわけじゃない。それにお前、このままだと夜中にひとりで便所に行けなくなるんじゃないか」

 そういう俺に門倉はムキになって反論した。

「子供じゃあるまいし、そんなわけないじゃないですか」

 俺は表情を消し、折口の口調を真似て、ことさら芝居がかった声で言った。

「俺たちはあの呪いの音を聞いたんだぞ。謎を解かないと誰かが死ぬかも知れない。いいのか」

 門倉ののど仏が大きく上下した。そして、大きく目を見開いたまま小刻みに身震いした。

「わ、わかりましたよ。し、仕方ないなあ。これだから探偵さんは困ります。ハハッ」

 体面を繕いながら乾いた笑いを発する門倉を横目に、俺は頭をフル回転させていた。
 老人の話が全て現実にあったことだと仮定してみる。ハイドンの交響曲にまつわる最初の自殺者。そして、その交響曲を再演しようとした際の超常現象ともいえる怪音。弦を断ち、自ら命を絶ったというハープ奏者。そして、今夜あのホールに再び響いたハイドンと怪音。どうも出来過ぎている。ホラーの演出としてみてもあまりにも出来が良すぎる。
 だが、あの音はあらかじめ録音されていたものではないのは確かだ。CDは外装を見たかぎり市販のきちんとしたもので誰かがコピーして焼いたものではないようだった。それに調光室のスピーカーからはあの音は聞こえなかった。それだけでも十分に不自然な事象だ。
 それにまつわるエピソードがまた出来過ぎている。弦を切り、皆の注目をそこに集めておいて調光室へと向かったハープ奏者。内側から鍵をかけ、密室にしてから自分の胸を突く。そして「エロイ」のダイイングメッセージ。
 今の時点で納得できる答えは「作り物」。あの音がなんらかのトリックで、すべてが作り話であればすぐに納得できる。しかし、もしそうでなかったら。実際に人がそこでそのように死んでいたとしたら。
つきましたよ、という無愛想な運転手の声にはっとする。

「じゃあ、頼んだぞ」

 そう言って門倉だけをタクシーから降ろした。

「ええっ、麻木さんは来ないんですか」

 俺が一緒について行けるわけ無い。調べものが終わったら電話をくれと伝え、さらに抗議の声を上げようとしている門倉を無視して、運転手にドアを閉めるように促した。そのまま運転手に事務所の住所を伝える。ふてくされる門倉の顔が想像できたが、ミラーで確認することはしなかった。
 
 事務所に戻った俺をジャスティスが出迎えた。いつもは無愛想なくせに、俺がこうして外から帰ってくると必ず顔を見せに出てくる。
 猫に水を与えて自分は冷蔵庫から缶ビールを取り出す。プルタブを開けながらパソコンを立ち上げた。試しに「エロイ」と入力して検索をかける。二秒後、俺は苦笑した。引っかかるのはもちろんアダルトサイトばかり。何十万という検索結果に溜息をつきながらビールを喉に流し込む。

「こりゃ、だめだな」

 ひとりこぼす。別の切り口を見つけなければならないな、そう思案し始めたときに携帯が鳴った。門倉だった。

「あ、あ、あ」

 電話の向こうから喘ぎ声が聞こえる。目の前のパソコン画面の卑猥な文字の羅列と、その喘ぎ声が脳内でリンクして軽く吐き気がしてきた。

「おい、どうだったんだ」

 そう尋ねた俺に門倉がようやく言葉を発した。

「あ、ありました」

 つまり、自殺者がいたということだ。俺は背筋がすうと冷たくなるのを感じて思わず後ろを振り返った。

「確かに十五年前の八月二十六日にあのホールで女性が死んでいます」

 死因は胸を深く刺したことによる出血性ショック死。老人の話の通りだった。

「そ、それにダイイングメッセージも本当でした。たしかにカタカナで『エロイ』と。ただ、どうやら『エロイ エロイ』と二回書かれていたようです。二回目は掌で隠されていたので、擦れて判別するのが難しくなっていますが。写真も確認しました」

 死んだのはハープ奏者、木城希実。当時二十三歳。結局、周囲の証言と現場の状況から密室での自殺と断定されたそうだ。

「調書によると当時調光室の鍵を持った職員は技術スタッフとマスターキーを持っていた館長の折口さんの二人で、その二人とも弦が切れた直後、ステージの袖に一緒にいたのが確認されています。そして、調光室は館長が鍵を開けるまでは完全に施錠されていました。ピンサロ室への入り口も同様です」

 門倉は、興奮して自分が激しく言い間違えていることにも気づかないようだった。突っ込む気も失せた俺は、状況を整理しようと深呼吸しながら部屋をなんとなく見渡した。ふと、カレンダーに目がとまる。

「おい、八月二十六日って言ったな」

 電話の向こうで門倉が「はい」と応える。

「十五年前の八月二十六日つまり、十五年前の明日ってことだな」

「ええ、そう言えばそうですね。それって何か関係があるんですか」

 門倉がとぼけた声で言う。

「いいか、今日は八月二十五日だ。もし殺人事件だったとしたらどうなると思う」

「何なんですか。じらさないでくださいよお」

 本当に刑事なのかと疑いたくなる。俺はいらだちを隠さずに声のボリュームを乱暴に上げた。

「時効だよ。じ、こ、う」

 電話の向こうで門倉が「あっ」と声を上げる。こいつは刑事をやめた方が良い、俺は半分本気でそう思った。

「で、でも自殺じゃないんですか」

 当然の疑問を門倉が言う。

「出来過ぎてると思わないか。すべてが作り物っぽいんだよ」

 交響曲第四十九番。謎の異音。弦が切れたハープ。密室で死んでいた奏者。そして「エロイ」のダイイングメッセージ。綺麗に収まりすぎている。俺には誰かが全てを創り上げたように思えてならなかった。そして、それが出来た人物は限られる。
 絶対条件はその日、あの場にいた人物。そうでなければ被害者を調光室に移動させることはできないし、胸を刺すこともできない。
 そして、他殺と仮定した場合、最大の難点はどうやって密室にしたか、ということだ。ハープの弦が切れた時、スタッフはすべてホール内で所在が確認されている。鍵を持っていたというスタッフも折口も一緒にいた。

「ガイ者が弦を切った直後に調光室へ行ったのは間違いないんじゃないですか。他にだれも近くにいなかったんですから」

 門倉がもっともらしく言う。たしかにそう思える。しかし、本当の疑問はそこではない。なぜ、弦を切らなければならなかったのかということだ。
 もともと被害者の回りには誰もいなかった。つまり、誰かの注意をそらす必要はなく、わざわざ騒ぎを起こす必要もない。自殺するならばその場ですればいいことだ。なぜ密室にしなければならなかったのか。

「あるんだ」

 思考が脳内に収まりきれず、声になった。なにがあるんですか、と門倉が聞く。

「あるんだよ。そこに誰もいなくても弦を切る方法が必ずあるんだ。あれはアリバイをつくるためのトリックだ。ただ自殺するだけなら弦を切る必要も、密室をつくる必要もないじゃないか」

 そう言いながら俺はパソコンのキーボードをタイプした。「弦が切れる」で検索をかけてみるとかなりの数の項目がヒットした。どうやらハープの弦が切れるのは珍しいことではないらしいが、複数本が一気に切れることはまず無いようだった。原因としては湿度による場合がほとんどらしいが、どの場合も切れる弦は限定されているようだった。俺はハープについての証言がなかったかを門倉に尋ねた。電話の向こうで紙をめくる音が聞こえる。しばらくして門倉が答えた。

「これといった証言はあまり。あ、ここに表面が濡れている箇所があったという記述があります。写真はありませんが、楽器の下部に水滴がついていた、と書いてありますね」

 いくら湿気に弱いと言っても、水をかけたから一気に弦が切れてしまうということは想像しにくい。
 そう簡単に答えは見つからないか、と溜息をついて机においてあった缶ビールに手をのばした。手に取ろうとした瞬間、いつの間にか汗をかいていた缶の表面で手を滑らせて危うく取り落としそうになった。舌打ちしながらハンカチを取り出し、水滴を拭き取る。そこで手が止まった。

「濡らしたんじゃない。冷やしたんだ」

 それに思い当たると同時に昼間の折口の話がリンクした。

(出力がかなり高くて、その熱で部屋そのものが高温になってしまうんです。照らされている方もかなり熱いんです。)

 あらかじめハープを熱しておいて、あとで急激に冷やす。湿気でさえ切れてしまうようなデリケートなものだ。ドライアイスでもほうりこんでしまえば当然急激に収縮し、弦は切れるだろう。それも多少のタイムラグをおいてだ。
 あらかじめ被害者を一人にしておいて誰にも知られないように調光室におびき出す。そこで殺害し、照明器具でハープを暖める。頃合いを見て照明を消し、ハープの近くにドライアイスを置いたあと、何食わぬ顔で皆の前に姿を見せる。あとは弦が切れた音に驚いて見せて皆と一緒にハープに駆け寄ればいい。
 理論上は可能。そして、それが出来た人物は一人しかいない。

「ハープ奏者を一人にして、なおかつ調光室の鍵を持っていた人物。つまり、館長だった折口氏ということですね」

 さすがにここまで話せば勘の悪い門倉でも理解できるらしい。

「ですが、まだ謎がありますよ。あのホールで聞いた不気味な音と『エロイ』のダイイングメッセージはどう考えますか」

 少しは自分の頭も働かせてもらいたいものだ。だが、門倉の言う疑問点がそのまま自分がクリアしなければならない謎であることには間違いない。一旦回転速度を落とした脳内のスロットルを再び吹かす。頭の中で門倉の話を整理していく最中、ふと思い当たった。

「『エロイ』じゃなく『エロイ エロイ』だったんだな」

「ええ、二回繰り返されていました。ひとつは掌の下に隠れていたようですね」

 門倉の答えを聞き流しながら、キーボードを叩く。検索結果には、やはり膨大な数の卑猥なサイトが並んでいたが、その中に目をひくカタカナの羅列があった。

「エロイ エロイ ラマ サバクタニ」

 キリストが十字架の上で発したという言葉だった。意訳すれば「主よ、主よ、なんぞ我を見捨てたもうか」となる。キリストの受難を象徴する言葉だ。

「受難と言えば、麻木さん。あの呪われた交響曲の題名『受難』でしたよね。やっぱり、これは呪いなんじゃないですか」

 それもまた出来過ぎた話だ。わざわざ死に際に謎かけのようなことをするだろうか。本当に被害者が書いたのなら犯人の名前をそのまま書けばいい。それができない理由があったとすれば、その場にまだ犯人がいたということだ。
 犯人の目の前で名前を書けばすぐに消されてしまうのは自明のことだ。犯人に悟られることなく、犯人を示すメッセージを残さなければならない。それが「エロイ エロイ」だったとしたら、その言葉と折口との接点を見つけなければならない。
 何か手がかりはないかとしばらく画面を眺めていたが、出てくる単語はほとんどが有料アダルトサイトの宣伝ばかり。たまにキリスト教に関連するものがあったが、書かれていることは似たり寄ったりのものばかりだった。
 いい加減あきらめようかと思ったその時、場違いな単語が目に飛び込んできた。すぐにそれをクリックする。そこには昼間目にしたあるものの写真があった。

「ビンゴ」

 思わず口に出た。

「門倉。折口氏と連絡とれるか」

 しばらくほうっておかれた門倉がぶっきらぼうに答える。

「はい、携帯の番号は聞いてますよ」

 時計を見ると午後十一時を回ったところだった。

「今から会えないか聞いてみてくれ。怪談話の謎を解明したと言ってな」

「こんな遅くにですか」

 そうごねる門倉に、ぐずぐずしていると時効を迎えてしまうかもしれないと威しをかける。

「でも麻木さんの今の話はすべて仮定の話じゃないですか。証拠がなかったら逮捕はできませんよ」

 この半人前刑事も、後ろ向きなことに関してはよく頭が回るようだ。もちろん自分の考えが机上のものでしかないことも重々承知している。しかし、それが可能性として存在する以上、確認しなければならないし、その時間はごく限られている。あと一日遅れれば全てが手遅れになるかもしれないのだ。

「俺はとにかくあのホールに向かう。そこで落ち合おう。いいな」

 それだけ言って答えを待たずに電話を切る。ふとソファを見るとジャスティスが大きくあくびをしていた。

「いい気なもんだ」

 そうこぼした俺に猫は「ご苦労なことです」と言わんばかりに一声「ニャア」と鳴いた。

「うるさいよ」

 そう呟いて事務所を出た。






 タクシーを降りるとあのモニュメントの前に折口と門倉が立っているのが見えた。

「どうも夜分にすいません」
 
 早足で近づきながら俺は言った。

「あまりにも折口さんの話が真に迫っていて、気になって眠れなくて色々考えてみたのですが、どうしてもすぐに確かめたくなってしまって無理を承知で来てもらったんです」

 老人は小さく溜息をついた。

「どうやら探偵さんを甘く見ていたようですね。こんなどうでも良いような怪談話にこれほど熱心になられるとは」

「どうでもよくなんてないですよ。あの音を聞いてしまった以上、呪い殺されたくないですからね。私は臆病者なんです」

 俺の言葉に折口は笑った。その笑顔は昼間見た爽やかなものと違い、どこか影があるように見えたのは気のせいだっただろうか。

「まあ、私も興味が無いかと言われると、無いとも言えないので。まるで映画かドラマのようで少しわくわくしますしね。実はついさっきまで私はホールで雑用をしていたので、鍵はまだ開いています。警備会社が見回りに来るのは日付が変わる頃でしょうし、私が一緒なら問題ないでしょう。では、中に入りましょう」

 そう言って折口は先に歩き出す。俺は門倉と目配せして後についていった。



「さあ、お話を聞かせてもらいましょうか」

 調光室。つい何時間か前にいたときと全く同じ配置で俺たちは座っていた。違うのは老人のどこか緊張した面持ちと酒が無いということくらいだろう。俺は自分の考えたトリックを話した。

「スポットライトでハープを暖めておいて、あとで急激に冷やすんです。少したって弦は勝手に切れる。これならば犯人はアリバイをつくることができると思うんです」

 折口は小さく頷いた。

「なるほど。確かに理論上は可能かもしれませんね」

 老人は顔色を変えることなく飄々と言う。

「ですが、あくまで可能性の話でしょう。それだけで殺人事件だとは言い切れないのではないですか」

 当然予測された反応だ。俺はことさら大きく頷いて見せた。

「そうなんです。そこで重要なのがダイイングメッセージです」

 折口は首をひねりながら言った。

「エロイ、ですか」

「エロイ、エロイです」

 すかさず訂正する。折口がわずかに眉間に皺を寄せた。

「ああ、そういえばそうでした。『エロイ エロイ』でしたね」

 
「先ほどあなたはおっしゃった。可能性の問題だと。そう、可能性の問題です」

 少々芝居がかりすぎだろうか。そう自嘲しながらも俺は声のトーンを上げた。

「このトリックを使うためにはいくつかの条件があります。まず、ハープ奏者が一人でいること。そして、自らが調光室の鍵を持っていること。そして、その可能性を満たしていたのは折口さん、あなただけです」

 数瞬の間をおいて老人は声を上げて笑い出した。それを見た門倉が不安そうな視線を俺に送る。ひとしきり笑ったあと老人はその笑いを堪えるようにしながら口を開いた。

「これは恐れ入りました。まるで二時間ドラマの犯人役をやらされているような気分です。たしかに私は彼女を一人にしました。彼女のことを気遣ってね。鍵も持っていました。だからといってそれだけで殺人犯だと言われても、いささか推理が雑なのではないでしょうかね。探偵さん」

 おかしくて仕方がないと言った様子で話す。俺は愛想笑いをつくりながら声のトーンを和らげた。

「ええ、それだけならば粗が目立ちますよね。そこで、『エロイ エロイ』のメッセージです。エロイ エロイ ラマ サバクタニ。ご存知ですか」

「主よ、主よ、なんぞ我をみすてたもうか、ですね。まさに受難をあらわす言葉です。なるほど。ダイイングメッセージはこれだったんですね。まさに呪いの言葉ではないですか」

 折口が言う。その表情から笑みは消えていた。

「いえ。私が考えるに、この言葉が指しているのは別のものです。この言葉はキリストが十字架の上で述べたと言われています。折口さん、十字架の上に咲く花って知ってますか?」

 折口の表情に明らかに動揺の色が浮かんだ。それに気づいた門倉が折口にわずかににじり寄る。

「いや、私はそれほどキリスト教に造詣が深くないのでね」

 努めて冷静に答えようとする老人の声はかすれていた。俺は老人のシャツの袖口に目をやった。

「そうですか。あなたなら必ず知っていると思ったのですが。私も受け売りなんですが、聖フランチェスコが夢に見た十字架の上に咲く花。その花とは英語でキリスト受難の花を意味するパッションフラワー。和名は時計草です。十字架の上で唱えられた言葉から十字架の上に見える花を連想させる。これはあなたに気づかれないように被害者が残せた唯一のメッセージだったのでは無いでしょうか」

 門倉が驚いた顔で折口の袖口に目をやる。老人は一言も発しないまま、俺の顔を見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「なるほど。ずいぶんとこじつけましたね。探偵さん、あなたはどうしても私を殺人犯にしたいようだ。それならば、動機はなんですか。私はなぜ彼女を殺さなければならなかったのでしょうか」

 老人の顔がひどく下卑た笑みで歪んだ。俺は答えずにCDデッキに手を伸ばした。中にCDが入っていることを確認してプレイボタンを押す。すぐにあの曲がかかった。調光室の窓は開いている。が、しばらく聴いてもあの不気味なうなり声のような音はしなかった。

「これであの音が呪いでもなんでもなく、あなたの仕業だと言うことがはっきりしましたね。ついさっきまであなたがしていた作業とは、あの音のもとを取り去ることだったのでしょう」

 最初に話をしたときに違和感を感じていた。週末にホールの予定が無いにもかかわらず、折口は作業をするためにスニーカーを履いていると言った。つまりなんらかの細工をしていたということだ。その時点で折口はそれが自分の仕業であると語っていたのだ。

「そしてもうひとつ。ダイイングメッセージのエロイエロイですが、繰り返された二回目は掌の下に隠れていたそうです。あなたはさっき私が『エロイ エロイです』と訂正したとき『そういえばそうでした』とおっしゃいましたね。なぜ、二回書かれていたことを知っていたのでしょうか。あれが書かれたとき、あなたはその場にいたのではないですか」

 折口は無言で笑みを湛えている。

「すべての事実はあなたを指しています。しかし、被害者とあなたを繋ぐ動機が見えない。そこで私はある結論に達しました」

 老人の顔に笑い皺が益々深く刻まれた。

「動機無き殺人、です。あなたはただ殺すために殺したのでは無いですか」

 ついに老人は声を上げて笑い始めた。目を見開いたまま大口を開けて笑っている。その声がホール内に反響し幾重にも折り重なり、不気味な不協和音を醸造する。やがて嬉々とした声で言った。

「種明かしをしよう。ついてきなさい」

 折口は思いも寄らない俊敏さですっと椅子から立ち上がり調光室を飛び出した。俺も門倉も慌てて後を追い掛ける。狭い通路を走り抜け、暗い階段を駆け下りる。その間中、折口の笑い声がこだましていた。
 辿り着いた先はあの真っ黒なステージだった。折口はその中央に置いてあった可動式の大きなリフトに登った。折口が立つリフトのカーゴ部分は、手摺りもなくフラットになっている。

「これはね、ステージの天井の照明を調節するためのリフトでね」

 そう言いながら折口は手元でボタンを操作した。気味の悪い擦過音と共に老人が乗った台が徐々にせり上がっていく。

「だれも気づかなかったよ。彼らはプロのオーケストラ達だったのにね」

 ステージの真上の反響板に手が届く頃、リフトは停止した。折口は反響板の隙間に両手を突っ込み何かをまさぐっている。

「音叉箱ってやつだ。一定の周波数に共鳴する。プロの音楽家ならそれぐらい知っていて当然だろうにねえ。今では全くと言っていいほど見なくなったからね。誰も知らなかったんだ。その音叉箱にあらかじめ布を被せておいて、昼休みに、つまりハイドンのリハーサルの直前に舞台の上から布を引っ張りあげたんだよ」

 そう言って引き戻された両手には布の被せられた箱が抱えられていた。老人はその布きれを取り去った。すぐにスピーカーから流れていた交響曲に共鳴し、あの不気味な音が老人の手元から広がっていく。

「遠い昔に私は、やむを得ず人を殺した。成り行きだった。私に振り向いてくれなかった女を弾みで殺してしまったんだ。そうしたら誰にもばれなかったんだよ。時効までの十五年間、誰も気づかなかった」

 箱をいとおしそうに撫で回しながら折口が言う。

「その十五年の間、この曲を聴くたびにどうしてか『また殺したい』って想いがどんどん膨らんでいったんだよ。それでもどうにか我慢していたのにね。あの女が悪いんだ。この曲を演奏したいなんて言うから」

 美しい調べと不気味な音、それに折口の甲高い声が絡み合ってホールに響く。俺も門倉もただじっと遙か上にいる折口を見るしかなかった。

「私は殺した。十五年ぶりにね。頭を使い、芸術的に殺したんだ。また、だれも気づかなかった。そしてそれからまた我慢することになった。そうしたら、また我慢しきれなくなってね。だって、誰も気づいてくれないから。だから、話したんだ。そこの坊やに怪談話にしてね」

「坊や」と呼ばれた門倉が息を呑んだのが気配で分かった。交響曲「受難」はクライマックスを迎えていた。それに反比例するかのように老人の声が急に小さくなる。

「気づいて欲しかった。罪深き私に。誰かに気づいて欲しかったんだよ」

 おもむろに「ガタン」と音がした。リフトが動いたのだ。当然下におりてくるものと思っていた俺と門倉は一瞬事態が理解できず立ちすくんだ。リフトは登り始めたのだ。

「あれから十五年たって、私は今日また人を殺す。私自身をね」

 頭上から降る老人の声を浴びながら俺と門倉はリフトに駆け寄った。必死に操作盤を探した。

「麻木さん、あれだ」

 門倉が緊急停止と書かれた赤いボタンを見つけた。俺は手を伸ばしてそのボタンを叩いた。が、リフトは止まらない。老人の笑い声がこだました。

「それをいくら押しても止まらないよ。私がこちらでボタンを押している限りはね」

 見上げると折口はいつの間にか手にしていたガムテープで操作のための大きな有線リモコンを手にぐるぐると貼り付けていく。老人は頭上に反響板が迫り、もう立っていられずに両膝立ちになっている。

「探偵さん。気づいてくれてありがとう。そうでなければ今夜死ぬのは私では無かったかもしれないからね。ねえ、坊や。今日は連れの方が来られなくて幸いだったねえ」

 門倉がぞっとした顔を見せる。俺ははっと気が付き、リフトの電源コードを目で辿った。コードをコンセントから抜けば止まるはずだった。しかし、コンセントの位置は客席の一番奥だった。それは絶望的な距離だった。それでも俺と門倉はステージから飛び降り、客席の階段を駆け上った。そして、客席の中段まで来たときに背中で破滅的な音がした。 
 鈍い衝突音とそれに続くぎりぎりと反響板が軋む音。おそらく音叉箱がつぶれたのだろう。あの不気味な低音がすうっと消えた。背後での一連の音が何を意味するかはすぐに分かった。それでも俺は階段を駆け上り、呼吸することも忘れて高電圧用の太いコンセントを力一杯引き抜いた。
 ちょうど交響曲「受難」も演奏を終えた。訪れた静寂。ホールは再び静まりかえったが、そこには言いようのない負の感情が充満していた。

「門倉。救急車だ」

 俺はそう小さく言うのが精一杯だった。


 
 数日後。俺は門倉と事務所で酒を飲んでいた。二人ともジャック・ダニエルをロックで。もちろん華は、無い。おとこやもめが二人で酒を飲む。他人に言うにははばかられる話だが、これはこれで幸せなことではないかと思う。
 あの日、門倉の通報でレスキューが到着し救出活動が展開されたが、結局折口は即死。俺は当然事情聴取を受けることになったが、門倉が一緒だったこともありすぐに解放された。
 折口を押しつぶしたリフトをさげると反響板にはおぞましい跡が残されていた。およそ人型をした鮮血のスタンプ。その周囲に血しぶきが点々と飛び散っている。俺にはそれがどことなくあの時計草の花弁のように見えた。
 十五年前の事件については、門倉が首尾良くポケットに忍ばせたレコーダーで会話を記録していたために折口を被疑者死亡のまま検挙することになった。その時すでに日付が変わっており、時効の当日に検挙ということで門倉はまた表彰されるそうだ。

「でも、本当に動機は何だったんでしょうね」

 門倉が聞く。俺はグラスに残っていたウイスキーを飲み干して、わざとらしく氷を鳴らしてみた。どこか寂し気に響く音に思わずため息が漏れる。

「あの老人は最後に言ってた」
 
 俺はほぼ無意識にそう口にした。と、同時にグラスの向こうにあの天井の染みが見えたような気がした。まあ、実際に見えたのは門倉の呆けた顔だったが。

「えーと。なんて言ってましたっけ?」

 訂正しよう。門倉は呆けた顔なのではなく、そもそも呆けた男らしい。俺はさらにため息を重ねた。

「あの老人はこう言ったんだ。気づいて欲しかった、とね」

 あのハープ奏者、木城希実に因縁の曲をやりたいと言われてから老人は再度、罪の意識に苛まれたのはないか。もしかしたら、木城に自分が犯した罪を明かしていたのかもしれない。罪の意識と罪から逃れたいという意識のはざまで老人は悩んでいたのではないか。結果としてさらに罪を重ねることになるのだが、それはさらに彼が背負う十字架を重くしただけだった、とは言えないだろうか。そして、その重さに耐えかねて、あの晩、俺たちを試すように怪談話をした。すべてを見透かしてもらうことを期待して。
 そこまで考えて俺はほぼ確信した。あのダイイングメッセージを書いたのは、おそらくあの老人だ、と。

「人を殺したい、なんて動機は信じたくないがな。結局、あの曲が流れた日に人が死んだ。案外、本当に呪いだったりしてな」

 俺はそう言って氷だけになったグラスを門倉に差し出した。すかさず門倉がボトルに手を伸ばす。俺の杯を満たしながら首を傾げた。

「でもあの日、別の人間を殺すかもしれなかったというのはどうでしょうか」

 門倉の問いに考えた。あのホールは折口翁のいわばテリトリーだった。真っ暗な階段で姿を消してみせたパフォーマンスからも分かるとおり、あの空間では折口の思うように誘導されてしまうことは容易に想像できる。事故に見せかけて誰かを殺すことは十分に可能だったと思わざるを得ない。今考えると自分があまりにも無防備だったことに気づき、うそ寒くなる。それをそのまま門倉に答えると酔っているはずの門倉の顔が急に青くなった。
 
「よかった。アカネちゃんが来なくて」

 いつもなら笑うところだがもちろんそんな気分にはならなかった。何より俺自身そう思っていたからだ。自分の杯をあけた門倉が気を取り直したようにまた聞いてきた。

「もし折口が死ななかったら彼を有罪にできたでしょうか」

 それは俺にも疑問だった。結果的に折口が自供したから確信をもてたものの、ダイイングメッセージからの時計草の連想はあの時点では、折口が言ったようにただのこじつけでしかなかった。
 なぜ、あんなメッセージを残したのか、私にもわからないんですと犯人である折口は言った。あの時は聞き流してしまったが今なら分かる。あの謎かけが過ぎるメッセージこそ、折口の贖罪の気持ちの発露であったのだ。

「どのみち状況証拠だけでも有罪に出来ただろう。二つ目の『エロイ』の存在も知っていたし、レコーダーの自供もあるしな」

 内心の葛藤を隠しながらそう答えると、門倉が今度は顔を上気させてポケットをまさぐった。

「そうそう、これのおかげですよ、これの」

 門倉はほろ酔い気分で小さなデジタルレコーダーを誇らしげに見せる。こいつにしてはよく頭が回ったものだと素直に感心する。

「でも、さすがにこの最後の衝突音は不気味ですね。背中が寒くなります」

 そういって再生ボタンを押す。すぐにあの反響板が軋む音が聞こえてきた。縁起でもない。俺はそう思いスイッチを切ろうと伸ばした手を途中で止めた。手を伸ばした姿勢のまま、じっと耳を澄ます。

「どうしました?」

 門倉の声を無視してレコーダーを手に取り、わずかに巻き戻す。ボリュームを最大にしてもう一度再生してみる。
 美しく響く交響曲に唸るような音叉箱の共鳴音、そしてリフトが反響板にぶつかる衝突音と門倉のポケットでレコーダーのマイクが激しく擦れる雑音。それらの音に混じって何かが聞こえる。それははっきりしないが、か細い女性の声のようだった。



「エ ロ イ  エ ロ イ  ラ マ サ バ ク タ ニ」



 俺はあわててレコーダーの停止ボタンを押した。門倉が目の前で引きつった笑いを浮かべている。

「や、やだなあ、麻木さん。今度はどんなトリックなんですか、これ」

「し、知らん」

 そう言いながら俺は反射的に傍らにあったウイスキーボトルを一口ラッパ飲みした。つられて門倉も俺が置いたボトルを掴んで口に運ぼうとしたが、勢いよく掲げすぎて中身を顔にぶちまけた。
 
「呪いなど、あるわけない」

 あわてふためく門倉を横目にそう呟いてはみたが、膝がわずかに震えている。あのダイイングメッセージが頭をよぎった。誰か俺にこのトリックを教えてくれ。そう思った俺の背中でジャスティスが「ニャア」と声をあげた。



ー  了  ー
 
天祐
2023年06月02日(金) 21時25分33秒 公開
■この作品の著作権は天祐さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
そろそろ怪談話の季節でしょうか。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  片桐  評価:40点  ■2023-12-16 00:19  ID:ibhwuwOHv4w
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読ませていただきました(すっごく遅くなって申し訳ない)。
素直に良いミステリでした。
この後どうなるんだろうとハラハラしながら読んで、納得いくところに落ち着いてくれたという印象。〆方もにくい感じですね。なるほど怪談か。
伏線のはり方、情報の散らし方も巧みだなと思いました。とってもよく考えられている。思えば、『ピンサロ』ってのも、エロイにつなげるためにあえて用意したのかな。
天祐さんの文章を久しぶりに読めたのも良かったです。
なんか色々蘇ってくる。

今さらながら、執筆お疲れさまでした。
楽しい読書でした。
No.1  アラキ  評価:40点  ■2023-06-23 09:07  ID:pu1HY/1I14U
PASS 編集 削除
拝読しました。シリーズ2作目ですね。
前作とはまた違った雰囲気で楽しませていただきました。
謎解き主体のミステリというよりは、人怖系のホラーという印象でした。

自白する勇気は無いけど、気付いてほしい、暴かれたいという矛盾した思いがやるせないですね。
とはいえ、肩の荷を下ろした途端に償いもせず自殺に逃げたのだから、最後は館長の独り勝ちだなあと。なんか悔しい。

結局、団員が首を吊った事件はこの件とは関係がなかったんですよね。年代的に考えて。
でもその事件を通じて、例の曲と死のイメージが結びついてしまっていた。
だから演奏することが決まって罪の意識が呼び起こされた。
……ということでしょうか。

それにしても門倉君、安定のダメっぷりですね。
このままずっとブレずにいてほしい。笑
総レス数 2  合計 80

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