ある探偵の独白 
 職業に貴賤無しと言うが、さてどうだろう。
 職業、探偵。これが聞こえが良い生業かどうかを俺は考えないようにしている。社会のアウトローであることは自他ともに認めるところではある。法的に権利が保障されているとはいえ、人の秘密を覗き、それをメシの種にするのだから職業としては外道だろう。ただ、これほど世間的なイメージと実態がかけ離れた職業も珍しいのではないだろうか。小説や映画で活躍する名探偵。ホームズしかり、金田一しかり。なんと魅力に溢れ、知的で崇高な仕事であることか。一方、現実。探偵のイメージは事務所でくたびれた服を着て煙草を吹かして暇を弄びながら依頼主をひたすら待つ、といったところだろうか。
 実を言えば、仕事はそこそこある。主な内容は他聞に違わず素行調査、つまり浮気の有無の調査がほとんど。まあ、あれほど簡単なものはない。ここ日本においては探偵というのは意外と社会認知度が低く、ほとんどの人間はそれを自分とはまるで接点がない人種だと思いこんでいる。そこにすでに大きな隙がある。素人がいくら隠蔽工作をしたところで、根本的に大きな隙を内在しているかぎり、俺たちの目をごまかすことはできない。浅はかな誤魔化しの跡から証拠は見つかるものだ。
 空想のイメージと現実に対するイメージ。どちらも本当の現実からかけ離れているということだ。だから、俺はこの職業を誇りにも思わないが、特段卑下することもない。
 今年三十五になる俺が、探偵を始めたのはもう十年も前の話だ。親父の跡を継いだと言えば多少、聞こえが良いかも知れないが、やんちゃだった俺をやっかい払いのように自衛隊に預けていた親父が死んだときに、母親から無理矢理事務所を押しつけられたような格好だ。そして、その母もすでにいない。それが幸か不幸かを判断するにはまだ俺は生き足りないだろう。
 東京の隅っこにある雑多な商店街、その裏道に隠れるようにある事務所。外には「麻木通夫探偵事務所」の看板がある。それは今は亡き親父の名前だ。俺の名前は俊介だが、どうも自分の名前を看板にするほどの自己顕示欲に恵まれなかったようだ。個人経営の有限会社ではあるが、法人名を変更するのも面倒で結局そのままにしてある。
 仕事は、というと十二月の声を聞いてから、ぱたっと依頼が途切れていた。師走くらい探偵なんぞの世話にはならず、平穏に過ごしたいということなのだろうか。幸い十月から十件もの浮気調査を成功させたおかげで無事に平成十九年とやらを迎えられそうだ。どれくらいのもうけがあるかは想像に任せたいところだが、浮気調査の報酬は一件につき四十万ほど。経費込みだからケースによって実入りは変わるが、世間一般のイメージよりも儲けているのではないだろうか。やばい事件に首を突っ込まなければなかなかお気楽な商売だ。まあ、やむを得ずそういった事件にぶつかることも無きにしもあらずだが、多少のリスクマネージメントは覚悟してしかるべきだろう。それにたまにそういった刺激があるのはいいことだ。今日は暇だし、そんな事件のひとつを振り返ってみようか。



 天網恢々疎にして漏らさず。誰が言ったか、お天道様は全てをお見通しなのだそうだ。まあ、それを本気で信じていられるのはよっぽど幸せな星のもとに生を受けた人間だろう。そんな人間はそれを誇りにして良い。ただ、俺はそのような人を見たことがないが。
 あれは去年の秋のことだった。この事務所を一人の老婆が尋ねてきた。

「ごめんください」
 七〇代半ば、といったところだろうか。老婆は、少し薄くなっている白髪を綺麗にまとめ、地味な紺色のツーピースを着ていた。曲がった腰を精一杯ただしながらその老婆が挨拶をする。
「あんたが探偵さんですかね?」
 俺はデスクから立ち上がると、老婆にソファを勧めながら答えた。
「ええ、そうです。わたしが麻木です」
老婆はソファに座ることはなかった。手にした黒い小さなバッグからメモを取り出して俺に差し出す。俺は綺麗に折りたたまれたそれを受け取って、開いた。そこにはひどく頼りない筆跡で依頼内容が書かれていた。口ではうまく説明できないかもしれないから書いてきた、のだそうだ。
「猫の飼い主ですか」
 俺の確認に老婆が頷く。依頼内容は、老婆の家に住み着いた猫の飼い主を捜して欲しいということだった。なんでも数ヶ月前にひょっこり現れて老婆の家に居座っているらしいのだが、首には首輪があり、どこかで飼われていたものに違いないとのこと。老婆がまさに老婆心から飼い主を捜したのだが、なにぶん歳のせいで満足に探すことができない。されど、このままにしておいては飼い主が気の毒だと思い、日頃買い物がてらに目にしていたこの事務所を、思い切って訪ねたと言うことだった。
「こちらでよろしかったかねえ」
 老婆が軽く眉間にしわを寄せながら言う。俺はメモをもう一度読み返しながら答えた。
「ええ、まあ。尋ね人の一種だと思えばよろしいでしょう」
 老婆が見るからにほっとしたような顔で笑った。
「ああ、よかったわあ。ところでお代金はいくらくらいになるのかね」
「そうですねえ。はっきり言いますと、私のところでは人捜しは一人につき二十万円が相場となります」
「あら」
 老婆は驚いたようだった。無理もない。年金暮らしの老人には決して安い金額ではない。俺はこの依頼はキャンセルかな、と少し身構えた。しかし、続いた老婆の答えは意外なものだった。
「思ったよりお安いのねえ。じゃあ、お願いしますね」
 俺は職業柄、観察力はある程度秀でていると自負しているのだが、老婆の態度に多少の違和感を覚えた。決して派手な格好ではない。資産家という雰囲気も感じないし、それほど余裕を持って生活しているようには見えなかったのだ。その老人が二十万円という金額を安いという。それも赤の他人を捜すためにだ。底なしの善人か、それともほかに何か理由があるのだろうか。引っかかるものを感じたが疑っていたらきりがないし、商売は商売だ。すぐに簡単な契約を交わし、後日、その猫を引き受けに行く約束をした。
「それでは、宜しくお願いしますねえ」
 帰り際、そう言って頭を下げる老婆を俺は軽く会釈をしながら見送った。

 三日後。老婆との待ち合わせは彼女の自宅ではなく、住宅街の公園だった。散歩のついでに会いたいということだった。事務所から私鉄で二駅ほどの閑静な住宅街に、その公園はあった。こぢんまりとした公園で、週末だからブランコやシーソーには子供達が群がって嬌声をあげている。
「すいませんねえ、こんなところまで」
 先についてベンチに座って待っていた老婆が言う。その手には真っ白い猫を抱いていた。猫にそれほど造詣のない俺にはそれが何という種類の猫なのかはまったく分からなかったが、その猫が明らかに血統書つきの大したものだというのが分かるほど、上品な猫だった。ふさふさの真っ白い毛をまとい、蒼い目をこちらに向けている。首には細い皮の首輪が巻かれ、それには「JUSTICE」と刻印がしてあった。確かに、こんな飼い猫がいなくなってしまったら、飼い主はさぞ落ち込んでいることだろう。
「それが例の猫ですね」
 俺は老婆の隣に腰掛けながら言った。
「ええ。ほら、こんなに立派な猫ちゃんをお預かりするなんて、私にはなかなか畏れ多くてねえ」
 俺はその猫を預かると、持参した猫用のバスケットに押し込んだ。経費で購入したものだが、大きめのものにしておいて良かった。
「確認なんですが、この猫はお宅に入り込んで来たんですよね」
 俺は老婆に尋ねた。やっぱりどうも引っかかる。この猫はどうみても家猫だ。かってに外を歩き回るものだろうか。ましてや知らない家に居座ることなどあるのだろうか。確かに犬よりも猫の方が自由気ままな印象は強いが、家猫がそんなに遠出をするだろうか。
「ええ、ええ。いつのまにか家の軒先に座っていてねえ。どこへも行こうとしないんですよ。それでかわいそうになってねえ。少し残り物をあげたら、ずっと居座るようになっちゃって」
 老婆が言う。確かに餌をもらえるとなればそこに居座ることもあるだろうか。きっと迷って帰れなくなってうろついていたところで、餌をもらったので居着いたのだろう。俺はそう考えることにした。
「じゃあ、たしかにお預かりしますよ」
 猫入りバスケットを持って立ち上がると、それを見て老婆がバックから封筒を取り出して差し出した。受け取ると金が入っている。報酬だそうだ。
「先にお支払いしておきますよ。よろしくお願いします」
 通常は前金で半分をもらって成功に応じて残りをもらうことになっている。それを伝えると老婆は言った。
「いいんですよ、みつからなくても。もし、飼い主が見つからなければ、私がもらうだけですからねえ」
 なるほど、それもそうだなと考えた俺は、金をそのままもらうことにした。あとは適当にあたりをつけて探す。見つからなければ猫を老婆に返すだけだ。型どおりの挨拶をして老婆と別れると、俺は事務所へと戻った。

 事務所に帰った俺は猫をバスケットから出し、コンビニで買った缶詰のキャットフードを与えた。ソファの上でそれをがっつく猫を横目に見ながらパソコンを立ち上げる。
「ジャスティス。正義、か」
 検索サイトを開いて迷い猫関係のサイトを探しながら、思わず口に出した。首輪に書いてあるところをみるとそれが名前なのだろう。ずいぶんとたいそうな名前だ。
 目的のサイトは直ぐに見つかった。どうやら東京のエリアごとに迷い猫の情報を集めてあるようだった。俺はあの待ち合わせの公園周辺の住所を入力して検索した。
「ビンゴ」
 わずか数秒で二十万円の仕事が片づいてしまった。画面には、いま目の前にいる猫の写真がでかでかと浮かんでいる。付随する情報を確認する。
「バーマン種、オス。名前、ジャスティス」
 情報は十分に満足のいくものだった。ただ一点、気になることを除けば。
「今年八月、飼い主と外出中にゲージごと盗難。なんだ、お前誘拐されたのか」
 思わず猫に話しかけてみたが、どうなることでもない。話しかけられた方は「ニャア」と一声鳴いてソファで丸くなった。のんきなものだ。
 とりあえずサイトにある指示通りに管理人にメールを送り、持ち主と連絡を取りたい旨を伝える。あとは飼い主と連絡をとって猫を返せば終了、となるはずだった。

 翌日、事務所の電話が鳴った。出てみると昨日メールを送った迷い猫サイトの管理人からだった。簡単な確認と自分の身元を証明するための情報をいくつか教えると、飼い主の連絡先を教えてくれた。どうやら「森口」という女性らしい。そこから先のやりとりは当事者同士でやってもらうことになるのだそうだ。謝礼などデリケートな問題を含むからだそうだが、確かにそういうこともあるだろうと納得した。とりあえず電話を切ったその手ですぐに受話器を持ち上げ、教えられた番号をプッシュする。三回呼び出しのベルを聞いたあとで女性が出て名乗った。
「はい、椎名です」
 ダイヤルを間違えただろうか。
「失礼。間違えました」
 受話器を下ろし、今度はゆっくりと確かめながらダイヤルする。
「はい、椎名です」
 どうやら番号が違っているらしい。
「たびたびすいません。間違えました」
 電話を切ろうとした俺に相手が言った。
「あのどちらにお掛けですか」
「いえ、森口さんという方に掛けたつもりなんですが、教えてもらった番号が違うようです。すいませんでした」
 そう言うと意外な答えが返ってきた。
「やっぱりそうですか」
 問い直すと最近名字が変わったのだそうだ。結婚ですか、と聞こうとしたが逆の場合もありうるのでやめておいた。
「それで、どちら様でしょうか」
相手が聞いてきたのでようやく本題に入れる、そう思って自己紹介をした時だった。
「探偵さんですか! いい加減にしてください!」
 女性が突然、声を荒げたのだ。
「本当に私は何も分からないんです!」
 俺は訳が分からないままそれを聞いた。聞こえてくるのは「あの事件」とか「あの女」、それに彼女の「夫」がどうとかいう話。それを俺が口を挟む間がないほど激高しながらしゃべる。
「もう切りますからね!」
 切られてはたまらない。そう言われたところで俺はようやく声を出した。
「猫です」
「は?」
 拍子抜けしたような調子はずれの声を最後に女性がようやく黙った。
「ジャスティス。そちらの飼い猫ですよね。見つけた方からお預かりしましたので、そちらにお返しに行きたいのですが、よろしいでしょうか」
「あ、ええ。そういうことでしたら。すいません、私、あの」
 女性はしどろもどろに言葉を繋いだが、明らかに動揺を隠せないでいるようだった。
「どうぞ、気になさらずに。職業柄、勘違いされることには慣れていますので」
 俺がそう言うと、相手は下手な言い訳をしながらようやく話を合わせてきた。住所を聞き、引き渡しのための打合せをすませる。
「ジャスティスちゃんのこと、ずっと探してたんです。すいません、折角見つけて下さった方に色々と失礼なことを言ってしまって」
 自分が見つけたのではないということを強調して、電話を切る。俺は溜息をついた。すぐに老婆に連絡をしようかとも思ったが、実際に受渡が終了してからの方が確実だろうと思い直した。
 昨日と同じキャットフードの缶を開けてジャスティスにあてがってから、自分用にコーヒーをいれる。ドリップするしばらくの間、俺はこの猫の件について考えていた。
 盗まれた猫。その猫を赤の他人のために金を出して届けさせようとする老婆。探偵と聞いて取り乱す飼い主。それぞれがどこか釈然としない霧に包まれているような違和感を漂わせている。依頼の目的は確かに達成しようとしていたが、俺の中で漠然とした疑問符が増殖していた。
「まあ、会ってみれば何か分かるかも知れないな」
 コーヒーカップを手にとって呟いてみる。鼻腔を擽る豆の香りは心地よかった。背中で猫が鳴いた。

 飼い主、椎名香織の家は、あの老婆と待ち合わせに使った公園から歩いて五分ほどの所にあった。新築の高層マンション。いまはやりのデザイナーズマンションとやらだそうだ。駅で捕まえたタクシーの運転手が、一発でその場所を思い当たったことでも、そのマンションがいかにこの周辺でも浮き立つ存在かということがわかる。
 タクシーを降りてエントランスに入ると、そこはまるでホテルのロビーのような場所だった。ご丁寧にクロークまである。思わず口笛を鳴らすと、手に持っているバスケットの中でジャスティスが低く唸った。
 壁に付いたインターホンで教えられた部屋番号を呼び出す。
「はい、椎名です」
「あ、お約束してました麻木です」
「あ、はい。今開けますので」
 直ぐに目の前の自動ドアが開いた。安い履きつぶしかけたスニーカーでは、踏むのを躊躇してしまうような大理石張りの床に進んで、エレベーターに乗り込む。がさごそとバスケットの中で猫が揺れる。
「おい、おとなしくしてろ。もうすぐ家に帰れるぞ」
 我ながらばかばかしいと思いながら猫をなだめ、エレベーターを下りる。廊下の壁を見ながら歩いて、目当ての部屋の前でインターホンを押した。見るからに重厚なドアがゆっくりと開いた。
「どうぞ」
 二十代後半といった感じだろうか。細身の体に白いニットのアンサンブルをすらっと着こなし、背中まで伸びた髪と相まって清楚な雰囲気を漂わせている。少し面長の顔にすっと切れのある目元が印象的な女性。所謂、美人だった。
 案内されるままにリビングへと入る。そとのつくりに違わず、洗練された室内空間。通されたリビングダイニングは優に二十畳ほどはあるだろう。そこで真っ白い革張りのソファに座る。すぐに暖かい紅茶が出された。
「ご確認下さい」
 俺はバスケットごと猫を渡した。
 椎名香織は、それを少し開けて中の猫を確認する。
「確かにジャスティスです」
 そういって直ぐにバスケットを閉じた。猫を取り出す様子がない。不思議に思って尋ねた。
「もともと主人がかわいがっていたので、私にはあまり懐いていないんです」
「失礼ですが、ご主人は」
「去年の暮れに死にました」
 俺は一瞬言葉を失った。彼女の夫が死んでいたことよりも、彼女が口にした「死にました」という言葉に絶句したのだ。通常身内が死んだ場合でも、ストレートにそう言い放つ人は少ないだろう。その時の彼女の表情に俺は、何か透き通るような冷たい恐怖さえ感じた。
「それは失礼」
 内心の動揺を気取られぬように努めて冷静に頭を下げた。さすがにそこから先を詮索することもできずに用件だけを話す。親切な老婆がその猫を託したこと。その老婆から依頼金を受け取っているため謝礼は不要と言うこと。そして、
「依頼主から言われておりますので、その老婆がどこのどなたかを教えることはできません。こういってはなんですが、奇特な方もいらっしゃいますね」
「そうですか。ひとことお礼を言いたかったのですが」
「それは私から伝えておきます。それでは、せっかく戻ってきたんですから大事にしてあげて下さいね」
 それとなく部屋を見回す。座って眺めるとその広さが際だつ。若い女性が自力で暮らせるとは思えない。夫の遺産で買ったのだろうか。
「失礼ですが、こんなに広いお宅にひとりでは淋しいでしょう」
「ええ、まあ。でも、ジャスティスが帰ってきたので少しはまぎれるかと思います」
「そうですね。拾った方もきっとよろこぶでしょう」
 その後、雑談になって程なく彼女がこのあと仕事なので、と言った。
「看護師なんです。今日は夜勤なのでこれから準備をしないと」
「ああ、それは失礼しました。大変ですね」
 そう言って席を立つ。見送りもそこそこにしてもらって俺はその場を後にした。
 その足であの老婆を訪ねるつもりでいた。依頼を受けたときに確認した住所を尋ねることにしたのだが、書かれた番地がなかなか見あたらない。仕方なく駅前の交番まで戻り、そこにいた警官にたずねた。警官は周辺の住宅地図を開いてくれたのだが首をひねっている。
「おかしいね。その番地は家じゃなくて、工場の跡地だよ。ほら、ここ」
 地図上、指さされた場所は確かにメモにある番地だった。しかし、広い土地に何の表記もない。わけのわからないまま警官に礼を言って交番を出た俺は、家を探すのをあきらめて、老婆に教えられた携帯の番号に電話をかけてみた。もしかしたら繋がらないんじゃないかという心配は杞憂に終わったが、電話の向こうから聞こえてきた言葉に俺はまた混乱することになった。
「はい、もしもし」
 電話に出たのは老女ではなく、若い女性だった。
「あの、高田さんの携帯ですよね」
 思わず聞き返す。
「ええ、そうですが、ちょっと事情がありまして高田さんは今、電話に出られないんです。私は高田さんがいらっしゃる老人ホームの者です」
 なるほど、老人ホームか。妙に納得した俺は、いつなら老女と話が出来るのかを聞いた。が、質問は質問で返された。
「あの、もしかして麻木様ですか」
 そうだ、と答えると直ぐに来てくれと言う。てっきりその老人ホームへ行けばいいのかと思ったのだが、指定された場所は病院だった。


「検死は済んでます」
 言われた病院までタクシーで乗り付けた俺を案内をしてくれたのは、門倉という若い男だった。所轄警察署の新米刑事だという。霊安室と書かれたドアを静かに押し開いた。そこにあの老婆がいた。
「今朝早く、自室で首をつっているのを職員が見つけたそうです。検死の結果も、ほぼ自殺でまちがいないだろうということでした」
 表情だけみれば一見、穏やかな死に顔に見える。しかし、首から下に比べるとその顔の色は黒く、鬱血した後が見てとれる。首には浴衣の帯が食い込んだ後がくっきりと残っていた。その周りに爪が食い込んだ細かいひっかき傷がある。死にきれずにしばらくもがいたのだろう。あの別れ際に見せた老婆の笑顔を思い出し、目の前の現実がにわかには信じられなかった。わからないことが多すぎた。
「それで、なんで俺が呼び出されたのかな」
 その問いを待っていたかのように門倉が紙を見せた。遺書だそうだ。

(麻木通夫様 ありがとうございました。後のこと、よろしくお願いします。)

「この方には尋ねてくる身寄りの方はいなかったそうです。あなたとはどういうご関係ですか」
 門倉の目つきが変わった。よもや疑われてはいまいとは思ったがあまり気分の良いものではない。俺は全てを話した。自分が探偵で「通夫」は事務所の名前。迷い猫の飼い主を捜してくれと依頼を受けたこと。そして、飼い主が見つかったので報告しようと連絡を入れたこと。
「なるほど」
 とりあえず相手は納得したようだった。
「自殺で間違いは無いでしょうが、動機がはっきりしないのでどうも釈然としないんです。麻木さんは探偵なんですね。どう考えますか」
 この新米刑事はテレビドラマの見過ぎだ。内心でそう思いながらも考えを整理する。遺体が安置された部屋を出て、外来のロビーへと向かう間に門倉に話を聞いた。その老婆、「高田みよ」は五年前に入所してきたそうだ。身よりは無く、人が会いに来ることもほとんど無かったという話だったが、去年までは時折若い女が尋ねてくることがあったらしい。もともとかなりの資産があったらしく、入所費も当初に完済してあった。特に持病もなく、今更将来を悲観するようなことも思い当たらないという話だった。
「ただ、ひとつ」
 そこまで話して、門倉が首をかしげるように言った。
「昨日の夜、つまり首をくくる直前と思われますが、最後に話をした職員に『孫に会いにいく』と言ったそうなんです。身寄りがいないということなので今署のほうで調べてもらっているんですけどね」
 孫か。会いに行く、といって首をつったということはその孫はもう死んでいるのだろうか。そう考えればなんとなく理解できないことはない。ただ、気になることがありすぎる。
「で、どう思いますか」
 いかにも興味津々といった表情で門倉が俺を見る。俺は溜息をこらえて言った。
「刑事さん、探偵がみんなテレビに出てくるような名探偵ってわけじゃないんだ。あの婆さんが何で自殺したかなんてわからないよ」
 そう言いながら老婆からの手紙を預かってロビーを後にする。別れ際、門倉が名刺を求めた。断る理由もなかったので一枚渡してやる。
「ありがとうございます。もし機会があったらまたお話を聞かせて下さい」
 俺はなにも話していないのだが、と思ったが適当に返事をして病院を出た。


 芋焼酎はロックが良い。冷えたそれを口に含むと芳醇な香りが鼻を抜ける。香りを楽しんでから喉に送ると、強めのアルコールが焼けつくように沁みていく。生を実感する瞬間だ。
 一日の終わりを自室でゆっくりと過ごすのが好きだ。老婆が首をつったと聞いたその日の夜、事務所の奥にある自宅のリビングで俺はグラスを傾けていた。目の前のテーブルにはあの遺書が置いてある。いなくなった孫が恋しくなって、寂しさから衝動的に首を吊った。ただ、そういうことならばそれでいい。しかし、気になるのが遺書の文面。
まず、「ありがとう」という言葉だ。老婆は猫の飼い主が見つかることをまるで知っていたかのようではないか。そして、「よろしくお願いします」。見つからなかったらその時は、という意味だろうか。だが、それならそう書くはずだ。この事務所に依頼に来たあの時、老婆はしっかりとメモを書いてきた。そう、丁寧すぎるくらい詳細に。しかし、この遺書はまるで謎かけのようだ。老婆は俺に何を頼んでいるのだろうか。
 カラン、という音を立ててグラスの中で熔けた氷が転んだ。俺はペールからアイスをつまんでグラスに放り込み、焼酎を足した。グラスを傾けて一口すすろうと思ったその時、背後で電話の音が鳴った。軽く舌打ちをして受話器を持ち上げる。
「はい、麻木探偵事務所」
 間髪入れずに聞き覚えのある声が返ってきた。
「あ、門倉です。夜分すいません」
 あの新米刑事だった。ああ、と一声返事をして時計を見る。午後十時を少し回ったところだった。確かに夜分だ。
「で、こんな時間になにか」
 わざと煩わしそうに声に出したつもりだったが、やや興奮気味の相手にはその雰囲気はうまく伝わらなかったようだ。
「昼間の件でいくつかわかった事があったのでお伝えしようかと思いまして」
 そんなことを自分に教えてしまっていいのかと聞いたが、一応、事件関係者であるし、上には内緒にしてあるから知恵を貸してくれということだった。なんとも都合の良い解釈だと思ったが、刑事事件で探偵が調査協力することはままあることではあったし、職業倫理としての守秘義務も持ち合わせてはいる。自分自身、気にはなっているところであったので都合がよいと言えば都合がよかった。
「力になれるかどうかは分からないが、話を聞かせてもらおうか」
 その答えを待ってましたとばかりに門倉は話し始めた。
「まず、孫というのは女性でした。名前は木村裕子。木村の両親、つまり高田みよの娘夫婦ですが、娘が幼い時期にふたりそろって事故死しています。それ以来、高田が親代わりに木村裕子の面倒を見ていたようですね。その木村ですが、すでに死亡しています」
 それは予想していた通りだった。去年の冬に死んでいるそうだ。死因は自殺。
「交際相手だった男性と旅行先で無理心中を図ったようです」
 九州、湯布院の温泉宿に宿泊し、夕食時に毒物を混入したビールを飲み死亡。交際相手の男性も死亡したらしい。
「他殺の可能性はなかったのか」
「ええ、私もそこを疑いました」
 どこか誇らしげに門倉が答える。自殺と断定された理由は、旅館の関係者には全く接点が無く、部屋の中にも二人以外の人物が進入した形跡がない。そして、木村の鞄から彼女の指紋のついた青酸カリが入った小瓶が見つかったということだった。
「相手の男性には妻があり、不倫関係だったと思われます」
 相手が自分の自由にならないことを苦にして道連れにした、ということだろうか。あの老婆が調べて欲しいというのはこのことだったのだろうか。とりあえず、その交際相手について聞いてみた。
「名前は森口誠。当時三十六歳。南海銀行に勤めるサラリーマンです。木村とは」
「ちょっと待ってくれ」
 俺は門倉の話を遮った。その男の名前に引っかかったのだ。まさかとは思ったが、聞いてみた。
「その森口って男の嫁さんは、香織って名前じゃないか」
「ええ。あれ、なんで知ってるんですか」
 いかにも不思議そうな口調で門倉が言った。
猫の飼い主、椎名香織。最初の電話で俺が探偵だと聞いて取り乱した理由がわかった。あのとき動揺しながら口にした「あの事件」、「あの女」そして「夫」という言葉の意味はこの心中事件にからむものだったのだろう。
「それはまあいい。続けてくれ」
「え、ああ、はい」
 釈然としない感じではあったが、門倉は話を続けた。
木村と森口は南海銀行の都内の支店の同僚だったらしい。しかし、二人の関係を知っているものは誰もいなかったそうだ。猫の飼い主が孫の不倫相手。これが偶然であるはずがない。そうなると猫を盗んだのはおそらく老婆自身だ。老婆は不倫相手の森口誠が死んでいることも知っていたはずだ。ということは俺に森口誠ではなく、その妻を捜させた、ということになる。二人の死が門倉が言ったとおりの心中だったとしたら森口の妻「椎名香織」はある意味、被害者だ。その椎名をなぜわざわざ探させる必要があったのだろうか。
 現時点の情報から、可能性として考えられるのは老婆はその心中事件について何かを知っていたか、もしくは疑っていた。そしてそれには椎名香織が深く関わっている。自分の孫を死に追いやった男の妻への嫌がらせという線も考えられなくはないが、あの老婆がわざわざ猫を盗んでまで、椎名に目を向けさせた理由としては考えにくかった。
「高田みよは、かなり再捜査を願い出たようです」
 門倉が思い出したように付け加えた。
「しかし、自殺としての物証がそろっていて、高田の言い分には状況を覆すほどの確信や証拠もありませんでした。それに相手方の妻、つまり森口香織ですが、彼女も無理心中という線で同意していたこともあって、結局捜査は終了となっています」
 老婆の言い分とは孫娘、木村裕子には別に付き合っている人物がいて、森口誠とは縁を切りたがっていた、というものだったそうだ。
「確かに交際相手はいたようですが、その男が逆に木村と森口の親密な関係を強調したために高田の主張が認められなかったそうです」
 結局のところなんらかの事情を知っているのは椎名香織しかいない。当たり前だ。今現在生きている当事者は、彼女だけなのだから。俺はもう一度彼女に会うことにした。その事だけを門倉に伝えて電話を切る。
 気がつくとグラスの氷がすっかり溶けている。俺はまた軽く舌打ちをして、すっかり水っぽくなった中身を喉に流し込んだ。


「あのご用件はなんですか?」
 翌日午前、俺は椎名香織のマンションのロビーにいた。昨日、渡しそびれたものがあると伝えて部屋に通してもらう。俺が手に持っていたのは猫用のゲージ。ゲージと言っても外出用のバッグのようなもので、ブランドのロゴが所狭しとプリントされている。老婆の遺品のなかにあったものを今朝老人ホームに行って譲り受けたのだ。あの猫を老婆が盗んだのなら必ずあるはずのものだった。捨ててしまってはいないだろうかと思ったのだが、どうやらこれにずっとジャスティスを入れて飼っていたようだった。これであの猫を盗んだのが老婆だということがほぼ確実となった。
「こちらも椎名さんのですよね」
 玄関口でそれを見せる。
「ええ、そうです。猫を入れておいてそれごと盗まれたんです」
 椎名香織は驚いた表情で受け取った。どこで手に入れたかを聞かれたので、それごと老婆が拾ったのだと伝えた。
「きっと犯人は金目のものが入っていると思ってそれを盗んだのでしょう。中身が猫だと分かってそれをそのまま捨てた、というところでしょうか」
 椎名は納得したようだった。表向きの用件は済んだ、さて、ここからだ。
「どうですか、ジャスティスの様子は」
「ええ、なんか前よりも私になついてくれてるみたいです。手を差し出すとまるで笑っているような顔になるんですよ。それがかわいくて」
 薄く微笑みながら言う。猫が笑う、どこかでそんな話を聞いたような気がするが、よく思い出せなかった。俺は話の核心に触れるため神妙な表情を作って言った。
「ご主人は残念でしたね」
 椎名の表情が困惑から微かに怒気をはらんだものに変わる。努めて意識しないようにしながら話を進める。
「ああ、気を悪くしたらすいません。少しご近所で小耳に挟んだものですから。職業病でしょうか、どうもこういう話に首をつっこみがちでして」
「もう終わったことです」
 強い口調で椎名が言う。彼女の手で渡したゲージが細かに震えているのが見えた。単なる怒りだろうか、それとも動揺だろうか。
「でも、もう少し詳しく調べてみても。私が聞いた限りでは少し不審な点もありますしね。よろしかったらご協力しますが」
「どこが不審だっていうんですか。本当にもう良いんです。今日もこれから仕事がありますので、お帰り下さい」
 ドアが閉められた。ある程度予測された反応ではあった。
俺はおとなしくエレベーターに向かいながら、今のやりとりを反芻した。直接の収穫は乏しかった。しかし、まったく無かったかというとそうでもない。気になったのは最後の会話だ。「不審な点がある」という俺に、彼女は「どこが不審だっていうんですか」と尋ねながら、答えを聞くことなく俺を追い出した。これはつまり、当事者であれば当然関心があるはずの「不審な点」を見たくない、指摘されたくないという気持ちの表れだ。思い出したくないという気持ちが強いのかも知れないが、俺の経験則からいうと椎名はやはり何かを隠しているように思える。
 エレベーターをおりてロビーへと戻る。後ろで自動ドアが閉まった。これでもう中に入ることはできない。そのまま待ち続けて椎名の周辺を当たる、という手もあったが、関与が漠然としすぎている以上、あまり効果が無いようだと判断した。
 他に当たれる人物と言えば、無理心中を図った張本人、木村裕子と交際していたという男だが、昨夜の門倉との電話ではとりたててその男について聞いていなかった。居場所どころか名前も分からない。あの調子のよさそうな男に頼るのもどこかしゃくに障ったが、このままでも仕方がない。俺は昨夜聞いておいた門倉の携帯に電話を掛けた。

「ああ、麻木さんですね」
 こちらが話すよりも早く、そしてこちらが身構えていたよりも二目盛りくらい大きなボリュームで門倉が電話に出た。おそらく名刺を見て直ぐに携帯に番号を登録しておいたのだろう。几帳面な奴だ。
「ああ、いま椎名を訪ねたんだが」
「どうでしたか」
 身を乗り出している様子が目に浮かぶような声だった。
「何もわからん、今のところはな」
 そうですか、と答える門倉に電話の目的を告げる。電話の向こうでバタバタという足音と、書類をめくる音がひとしきり聞こえた後、門倉が答えた。
「えーっと、名前は板谷学。私立大学で助手をしているようですね。事件当時は大学の近くに住んでいたようですが、現在もそこにいるかどうかは分かりません」
「なるほど。そこの詳しい住所は分かるか」
「じゃあ、携帯にメールしますよ。それと今回の事件、署内では老婆が将来を悲観しての自殺事件という線で落ち着いてしまいそうなんです」
 途中から門倉が声を潜める。
「ただ、自分としてはもっと裏があるんじゃないかと思うんです。これは刑事の勘ってやつなんですけど」
 新米に勘も何もないだろうと思ったが、情報源は必要だ。新たに何かわかったら伝えると約束して電話を切る。そのまま駅へと向かって歩いた。途中、老婆と待ち合わせをしたあの公園を通った。ふたりで座ったあのベンチを金網越しに横目で見ながら歩く。老婆の話しぶりが思い出された。
 いまはもういない老婆。娘を事故で亡くし、また孫娘を理不尽な形で亡くし、その悲しみをどうにか拭おうとあがいたのだろうか。あの穏やかで落ち着いた所作を見せた老婆の心の内には、どれほどの悲しみと葛藤があったのだろうか。自分の部屋で、自らの人生を終えようとしたその時、一体どんな心持ちであったのだろうか。そして、俺に託したものは、俺が追い掛けているものとは何なのだろうか。
 猫探しはあっけなく終わった。仕事に対する報酬としては大分儲けてしまった感がある。釣りを返せない分、老婆の頼みを聞いてやるとしよう。それが今、俺が歩いている理由だった。
 少し歩幅を大きくした俺のジーンズのポケットで、携帯が鳴った。門倉から板谷学の住所を記載したメールだった。ちょうど目の前に駅が見えたところだった。

 閑静な住宅街。そう言えば聞こえが良いが、要するにぱっとしない街だ。改札を出て目の前のどこか窮屈そうな商店街を抜け、一戸建てやアパートが密集した狭い路地を歩く。途中、電柱に貼られている住所表示に時折足を止めながら訪ねたアパートの一室。そこには誰もいないようだった。隣に住んでいるオーナーに事情を簡単に説明して話を聞いた。
「ああ、板谷さんね」
 今起きました、というような跳ねた髪を片手であわててなでつけながら玄関に現れた年輩の女性。不労所得者とは誰もがこのような風体になるのだろうか。スウェットにカーディガンを羽織った格好で、どこか不遜な空気を漂わせながら話す。
「参ったわよ、あの時は。あたしの所までカメラを持った人が来てね」
 あの時とはその心中事件の時だろう。男女の情愛のもつれから心中とは格好のワイドショーのネタだ。その関係者が住んでいたアパートとなれば状況は容易に想像できた。
「まだ、解約はしてないのよ。家賃だってちゃんと払ってくれているし。でもね、ここにはほとんど住んでないみたいよ」
 住所を移さずに生活拠点を変えるための手段だろう。家賃は定期的に口座に振り込まれているそうだが、今年の春を最後に直接顔を見たことはないという。
「でも、隣に住んでいる人の話だとたまに帰ってるみたい。夜中、電気が点いているのを見たって言ってたわ」
「それはいつ頃ですか」
「一番最近聞いたのは先月だったかしら」
 掃除でもするために来るのだろうか。きっと雑音を避けるために別の場所で生活しているのだろうが、それならわざわざここを訪れる必要はないはずだ。とにかく今ある情報だけでは何かを判断するには少なすぎた。
 いつの間にか話題が下世話なものに変わっていた。「前からどこかおかしいと思っていたのよ」とか「やっぱり勉強ができる人っていうのはだまされやすいのかしらね」など。オーナーからはこれ以上得るものはないなと判断した俺は、適当に礼を言ってその場を離れ、すぐ近くにある板谷の職場、つまり近くの私立大学を目指した。
 すぐ近くと言っても歩いて二十分ほどかかる場所に大学があった。さすがにその周りはさっきまでうろうろしていた住宅地とは雰囲気が違う。それなりの広さの道路が大学の前を走り、コンビニや不動産屋の事務所などが軒を連ねている。歩道は若者言葉を自在にあやつる学生達が闊歩していた。街中の立地ということもあり、構内は学生ばかりでなく犬を連れて散歩をするおそらく近所の人と思われる姿も見える。
 俺は学生部と表示のある建物に入った。入り口に十三号館とかいてあるパネルが貼られていた。
「すいません。こちらにお勤めの板谷学さんにお会いしたいのですが」
 学生部のカウンターに座る女性職員に尋ねる。どちら様ですかと問う彼女に正直に身分を明かす。女性は少し身構えるように表情をこわばらせて答えた。
「実はいま海外に研修留学中でして」
 板谷は半年以上、大学には出勤していないという。定期的にアパートに現れている以上、それは嘘だろうと思われた。だがここでそれを言ったところで、体よく追い返されるのは目に見えている。せっかくここまできて収穫なしで帰るわけにはいかない。
「では、助手をしているとお聞きしていますが、担当の教授をご紹介いただけないでしょうか」
 女性職員は困ったように後ろを振り返った。事務室の奥、彼女の視線の先にある応接セットでお茶を飲んでいた老齢の男性が、こちらに気づき立ち上がった。
「私が板谷君に助手をお願いしている藤堂です」
 豊かな白髪をやわらかくなでつけ、真っ白い口ひげを蓄えている。細身の長身で、仕立ての良いスーツを姿勢良く着こなす、まさしく大学教授といった容姿。老人は深みのあるバリトンで話す。
「どうやら、デリケートな話のようですな。ここではなんですから、私の研究室へどうぞ」
 事務室を出ると落ち着いた物腰で、俺を先導する。たまたま板谷の件で学生部に相談に行っていたそうだ。藤堂の研究室は隣の建物、十二号館の五階にあった。
 大学教授の研究室というと書類や研究機材が散らばり雑然としている印象があったが、案内されたそこはまるでオフィスのように整然としていた。その疑問に藤堂が答える。
「まあ、理系の研究室となればそうでしょうが、専門が経営学ですからね。極端な話、パソコンといくつかの蔵書があればほとんどことが足りてしまう」
 なるほど、そういうものなのだろう。俺は早速板谷の話をすることにした。
「彼はもともと私のゼミの学生でね」
 真面目な学生で、藤堂も一際目をかけていたらしい。
「あんな事件さえなければ、今頃はすばらしい研究論文が仕上がっていただろうに」
 眉間にしわを寄せ、無念そうな表情で老教授が言う。板谷の専門は中小企業の経営判断。地道に資料や数値を集めるだけでなく、自分の足で下町の零細企業をまわり、数字の奥にある実態や本質をねばり強く理論立てる手法でつくられた彼のレポートは、学会でも一目置かれるような出来だったそうだ。
「恋人のことは何か聞いていましたか」
「あまりプライベートなことは話さないタチだったがね、いつだったか結婚を考えている恋人がいると聞いたことがあるな」
 相手が銀行員であると言っていたようなので、木村裕子とみて間違いないだろう。話は自然と心中事件のことになった。なにか変わった様子は無かったかと尋ねた俺に教授が、板谷が事件前に頻繁に医者を訪ねていた、と話した。
「近くの大学病院に知り合いがいるそうでね。精神科医だそうだが、たびたび訪ねて、カウンセリングとまではいかないが話をしていたようだったよ」
「その医師の名前は聞いてますか」
「どうだったかな。あ、そうだ。そういえば、板谷君から『何かあったときには』ということで、名刺をもらったな」
 藤堂はそう言って、机から名刺入れを取り出し、その中から一枚を探し出した。見せてもらうと「精神科医 里見晋司」とある。もらっていい、と言うことだったのでそれをジーパンのポケットにねじ込んだ。
 板谷は、教授や学会での引き立てもあり、仕事の面では順風満帆といったところで特にトラブルも無かったようだ。医師に相談というとやはり木村との関係について悩んでいたということだろうか。
「実は彼とはあの事件以来、一度も顔を合わせていないんだよ」
 残念そうに教授が言う。大学には事務室に電話を入れて休む旨を伝えただけだったという。藤堂のかける電話にも出ないのだそうだ。大学側でも事情を察し、それなりの救済をしようと手を差し伸べているのだが、本人と連絡が取れないために何もできない状況で藤堂も困っているとのことだった。
「さっきもその件で学生部に相談に行っていたんだよ。彼の事例研究の模擬発表自体もゼミ生には人気でね。私も彼がいないのが残念でならないんだ。探偵さん、私からもお願いするよ。彼をどうにか復帰させてもらえないか」
 俺はべつに板谷を復帰させるために動いているわけじゃないんだがな、そう思いながらもせっかく話をしてくれた老教授をがっかりさせる気にもなれず、とりあえず板谷の居場所を探すと約束してその場を後にした。

 研究室がある建物を出て上を見上げると、ビルに挟まれた狭い空が青く見えた。秋の清しい風が襟元を撫でる。腕時計を見ると午後三時を回ったところだった。小腹がすいた俺は駅へと徒歩で戻る途中ハンバーガー屋を見つけて入った。適当に注文して、トレイを持ち二階に昇って、通りを見下ろせる窓際の席に座る。
 腑に落ちないことがひとつ。教授の話によると板谷は心中事件の間際まで彼女を慕い、気遣う様子だったという。しかし、板谷は木村裕子が森口誠との親密な仲だったと証言した。なぜ、恋人が無理心中を引き起こしたと容認するような証言をしたのだろうか。本当なら徹底した捜査を依頼するべきではないか。そう、あの老婆のように。
「これじゃ、あの婆さんに追加料金を請求することになるかな」
 あっけなく終わった猫探しとは対照的に、どんどんともつれていく状況に俺は溜息をついた。コーヒーをすすりながら、見るともなく見下ろしていた通りにふと気になる影を見つけて目を留めた。通りのむこうがわにある駅の改札口から早足で出てきた髪の長い細身の女性。それは椎名香織だった。ハンバーガーの残りを口に押し込んで、席を立つとトレイの上にあるものを全部ゴミ箱に放り込んで店を出る。俺は彼女の背中を追った。

 ベージュのタイトなパンツスーツにパンプス。大きめのブランドバッグを肩に掛けて足早に歩く彼女の後ろを、距離を保ちながらつける。幸い人通りは多く、気づかれる心配はほとんど無かった。もちろん後をつけられているなど思ってもいないだろう。彼女は、後ろを振り返ることなく歩を進める。傾き掛けた日の光を受けて、背中で揺れる長い髪が紅く煌めいている。彼女が足を運んだのは大学病院だった。俺は彼女が看護師だということを思い出した。案の定、彼女は受付やロビーを素通りして、スタッフ用の扉の奥に姿を消した。
 もちろんその先まで後を追うことははばかられたので、とりあえずロビーの椅子に腰をおろす。しばしロビーを眺めていた俺はもう一つ思い当たって、病院内の案内板を眺めた。精神科という文字を見つけて場所を確認する。俺はエレベーターを目指した。
 板谷が通っていたという病院とはおそらくここのことだろう。来たついでに何か話が聞けるかも知れないと思ったのだ。エレベーターを三階で降りて、左に少し歩くと精神科の外来窓口があった。壁に掛けられているホワイトボードに、本日の往診医師の名前が書いてある。そこに「里見」とあった。窓口にいた事務員に話す。
「すいません、里見先生にお会いしたいのですが」
「初診の方ですか。それでしたらこちらに受付票をお渡し下さい」
 自分の名刺を渡して身分と用件を話すと「少々お待ち下さい」と言って事務員は奥に消えた。しばらくして戻ってきた彼女が言う。
「先生からですが、今は忙しいので今日の診察が終わった後にもう一度来てもらえないかとのことです」
 どうやら無駄足にならずにすみそうだった。事務員に礼を言ってロビーに戻ろうとして立ち止まる。念のため、もう一つ聞いておきたかった。
「椎名香織さん、前の姓は森口なんですけどご存じですか」
「ええ、この病院の看護師ですね。ああ、それで里見先生のところにいらしたんですか?」
 妙に納得した表情で事務員が頷く。どうやら板谷と里見だけではなく、椎名と里見にも接点があるらしい。思いがけず繋がった糸をたぐろうとさらに話を聞く。
「私が言ったって言わないで下さいね」
そう断ってから事務員は声を潜めるように話した。病院職員の間で里見と椎名がいい仲だという噂があるという。勤務する病棟は違うのだが、よく一緒に話をする姿を見るとか、里見の車の助手席に乗っていたのを誰かが見たとか、そういう話だ。
「まあ、里見先生も独身ですし、椎名さんも旦那さんを亡くされているでしょ。だから、やましいことがあるわけじゃないんですけどね」
 手元の書類をまとめながら、事務員が言う。二人が噂されるようになったのは、心中事件から間もなくのことだったそうだ。傷心の椎名を里見が慰めたのだろうというのが、もっぱらの見方のようだった。事務員が、自分が話したことをくれぐれも内密にと念を押すので、もちろんですと安心させてやる。そのまま面会の時間を確認して、礼を言ってその場を離れた。


「里見晋司です」
 診察室で向かい合った相手が言った。歳は三十代半ばくらいだろうか。短髪をわずかに茶色に染め、一般的な医者のイメージよりもあか抜けている印象だった。挨拶もそこそこに本題に入る。
「板谷学さんをご存じですね」
 俺は里見の顔をじっと見た。最初の印象はその後の全てを象徴する。板谷の名を聞いた時、里見の表情は全く変わらなかった。
「ええ、知ってますよ」
 板谷とは、テニススクールで知り合ったのだという。事件のことは後から色々と知ったそうだ。里見が板谷から受けた相談については、守秘義務があるからという理由で詳しくは聞けなかったが、事件とまったく関係が無いというワケではないそうだ。
「男女間の話ですよ。これ以上は勘弁して下さい」
 里見はそれだけ言って、お茶を濁した。板谷が言う「男女間の話」となれば、木村裕子との関係についてだろう。里見は事件の背景について何か知っているのかも知れなかったが、それをこの場で質すのは難しいと感じた俺は、話題を変えた。
「椎名香織さんもご存じですね」
 里見は軽く咳払いして答えた。
「ええ、その質問が来ると思いましたよ」
 彼の口元には、微かに笑みが浮かんでいる。下世話な話だと思っているのだろう。こっちは真面目に聞いてるんだと、多少癪に障ったが平静を装って質問を重ねる。
「例の心中事件で亡くなった方の奥さんだというのは、もちろん知っていたんですよね」
「ええ。それを知ったのは偶然でしたけど」
 椅子の背もたれに体を預けて、足を組み直しながら里見は続ける。
「犯人が板谷君のガールフレンドだったと言うことも、彼女は知っていますよ。ただ、お互いの面識はありません。彼女は、板谷君も自分と同じ悲しい被害者だと言っていました」
 椎名香織と板谷学は言ってみれば、鏡に映したような位置関係だ。互いのパートナーに裏切られた者同士。椎名の中に同情の心があっても不思議ではない。
「失礼ですが、先生と椎名さんは、つまり、その、親密な仲なんですか」
 多少大仰に言葉を選びながら聞く。時には芝居も必要だ。里見はにやつきながら答えた。
「適切な関係、です。彼女から色々と相談を受けているのでね。病院のスタッフのなかには先走った勘違いをする人もいるようですが」
 お前もそう思っているのだろう、という里見の目。俺は明らかに自分を見下す視線に気づいた。自分に時折投げかけられるその視線。その瞬間、いつも俺は自分の優位を確信する。その視線は相手が油断しているというサインだからだ。
 今回の事件。関係する人物の立ち位置の中で、里見は特異な位置にいる。板谷学と椎名香織、双方と繋がっているのだ。心中事件そのものに何らかの形で関わったということは十分に考えられる。
 俺は営業スマイルを浮かべながら、名刺を取り出して差し出した。
「もし、板谷さんから連絡がありましたら、ご連絡頂けますか」
「ええ、いいですよ。私も心配しているんです」
 医者特有の愛想笑い。俺は自分が医者嫌いなせいもあって、里見が信用ならない人物に思えた。探偵とは本来なら主観を廃して、客観的に物事を積み上げなければならないのだろうが、俺は勘に頼ることが多い。大抵は、当たらずとも遠からずといった結果に納まるからだ。その勘が、里見に何かあると告げていた。
 俺が時間を取らせたことを詫びて、椅子から立ち上がると、里見は上目遣いに俺を見て、唇の端に笑みを浮かべた。
「探偵さんも、大変ですね」
 そう言う里見に、大きなお世話だと思いながら言葉を返す。
「あなたほど大変な仕事じゃないですよ」
 診察室のドアを閉めた俺は、大きく息をついた。鼻腔を刺激する病院特有の臭いに眉をひそめる。俺は息を止めて足早に出口へと向かった。


 渇いた喉にビールを流し込みながら、手詰まりかなと思う。つまみに焼いたベーコンの油の香りが、鼻腔をくすぐる。一つつまんで、ビールの苦みの残る口に放り込んだ。
 椎名香織と里見晋司。この二人には直接話を聞いた。例の心中事件に直接関わったような証拠はないものの、なんとなく何かを隠している雰囲気がある。しかし、それを問いつめるほどの確証もない。これ以上話を聞きに行っても、ガードを堅くされるのは容易に想像できる。いまのままでは進展は望めない。そうなると切り口としては別の人物を捕まえる必要がある。
 板谷学。心中事件の首謀者である木村裕子の恋人という立場で、彼女の一番近くにいて結婚まで考えていたはずなのに木村と森口誠、二人の死を心中事件と決定づける証言をした人物だ。木村との間になにかがあっただろうというのは、カウンセリングをしたという里見の話からほぼ確実だろう。しかし、木村裕子と板谷学の二人が、不仲だったという話は聞こえてこない。順風であったはずの恋人同士と心中事件。この矛盾の中心に板谷はいる。手繰る糸に目星はついた。
 他にも少し探りを入れたいところがあるのだが、自分ひとりでは少々手に余るかもしれない。そう思った俺は、二本目の缶ビールを開けながら電話に手を伸ばした。着信履歴の中から一つを選択して発信ボタンを押す。ビールを一口すする内に、相手が出た。
「はい、門倉です」
 予想通りの大きな声。顔をしかめながら用件だけを手短に話す。妙に張り切って答える相手に辟易しながら「頼んだぞ」と付け加えて電話を切った。たまにはあの新人らしからぬ肥大した自尊心をおだててやっても良いだろう。それで物事が上手く進むなら。
 一つ息を吐き出してから、缶ビールを傾ける。すっかり冷めたベーコンがちらっと見えたが、もう食指は伸びなかった。


 次の日の午後。俺は板谷のアパートの前にいた。板谷の部屋は狭い階段をのぼった二階にある。ドアの郵便受けには新聞がぎっしりと詰まっていて、さらに入りきらない新聞や郵便物がドアの前に積まれていた。新聞の一番前の日付は、三週間前のものだ。部屋の中に人の気配はなく、もちろん鍵もかかっていた。
「現状は予想通り、か」
 独り言を吐きながら、郵便受けに突っ込まれていた新聞やダイレクトメールの束を全て引っ張り出して下に重ね、用意してきた便箋をその空になった郵便受けに落とした。中身は何のことはない、自分の携帯の番号を記したメモだ。ただ、少しイタズラをした。差出人の名前を「高田みよ」にしたのだ。結婚まで考えた相手の祖母の名前を、知らないわけがない。俺の名前を書くよりも、返答がある可能性が高いと踏んだからだが、多少イタズラが過ぎたろうか。
「まあ、いいだろう」
 自分を納得させるように呟いて、階段を下りる。空を見上げると、水色の空が見えた。本当なら秋晴れの深い青空が見えるのだろうが、排気ガスに覆われた都会ではそれを望むことは出来ない。急に息苦しさを感じて、大きく溜息をついた。この件が一段落したら山奥の温泉にでも行こうか、などと考えて駅へと歩く。もう少しで駅が見えるという辺りで、いつかと同じようにポケットの中で携帯が暴れた。まさか、板谷学ではあるまいと思いながら携帯を手に取る。着信の名前を見て、納得した俺は通話ボタンを押して、幾分耳から遠ざけるようにして携帯を構えた。
「門倉です」
 耳から離しておいて正解だった。予想通りの良く通る声が、しっかりと聞こえてくる。
「頼まれた件、午前中のうちに行ってきましたよ」
 何が嬉しいのか分からないが、新米刑事は妙にテンションを上げて話をする。それに内心辟易しながらも、頼んだ用件を聞く。内容は木村裕子の職場だった南海銀行についてだ。
「もしかしたらビンゴかもしれませんよ」
 門倉が早口にしゃべる。
「支店長代理に話を聞いたんですが、実は木村裕子が担当していた融資で、不明金があったそうなんです」
 不明金の総額は二千万円ほど。当時の直属の上司は心中事件で一緒に死んだ森口誠で、もしかしたらその不明金についてなんらかの事情を知っていた可能性もあるという。しかし、それなら横領事件として取り扱わなかったのだろうか。
 俺の質問を受けて「ちゃんと聞きましたよ」と門倉が鼻にかけながら話しを続ける。
「当事者が死亡していて、追求が出来ないことと、金額がそれほど多くないこともあって、内部で欠損金として処理をしたそうです。銀行としてもイメージが大事ですからね。あ、これはオフレコということでお願いしますね」
 二千万円とは決して少ない額では無いはずだが、大手地方銀行となるとそれくらいのリスクマネージメントはできるものなのだろう。それが外部に漏れたときのイメージダウンの損失の方が、ダメージが大きいということか。それでも気になるのは二千万の行方だ。
「まったく分からないようです。全部が小口での融資で、架空口座を経由してすでに全て現金化されてしまっていたそうです。警察沙汰にしていないため、妻である森口香織、つまり今の椎名香織ですが、そちらに確かめることも出来なかったようです。金を引き出したのは木村裕子で間違いないようですが、こちらも本人が死んでいるために、真相は藪の中です」
 門倉が得た情報は、ここまでだった。礼を言って電話を切る。門倉は最後までハイテンションだった。役に立ったのが嬉しいのだろう。単純でお気楽そうに見えるが、まあ、悪い奴ではない。憎めない奴なのだ。
 とにかくまいた餌にかかるまでは、待ちだ。何気なく駅前の商店街を歩いていると、一軒のペットショップが目に入った。透明なガラスの向こうに猫や犬がショーケースのようなかごに入れられて並んでいる。椎名香織が、飼い猫のジャスティスが笑うと言っていたことを思い出した。
「すいません」
 中に入って店員に話を聞く。
「ああ、フレーメン反応のことですね。猫はフェロモンを感じるとそんな表情をすることがあります」
 猫がマタタビに酔うというのも、その反応なのだそうだ。店員に礼を言って店をあとにする。そんなこともあるのだなと思っただけで、そのまま帰宅するために電車に乗った。


 板谷学から電話が入ったのは、それから数日後のことだった。時間は夜の十時を越えた辺り。見覚えのない着信番号に、もしやと思った俺はすぐに「板谷さんですか」と相手を確認した。
「誰です?」
 板谷が当然の問いを発する。
「私は私立探偵の麻木と申します。高田みよさんの代理人です。実は木村裕子さんの件でお話があるのですが」
 無言。だが、電話を切る様子はない。
「単刀直入に申し上げます。木村さんは心中ではなく、森口誠さんを殺害するつもりだったんじゃないですか」
 これは俺が考えた推理だった。木村の横領の事実を知った森口が、それをネタに木村を脅し、関係を迫る。それに耐えかねた木村が、森口の口を封じようとしたが、なにか予期せぬことがあり、自分も死んでしまった。粗い推理だが一応、筋は通っている。俺はこれを呼び水にして、板谷から真相を聞き出そうと考えていた。数瞬、間をおいて相手が答えた。
「家まで来てもらえますか。そこでお話ししましょう」
 わかった、と伝えて電話を切る。相手は、しっかりと餌に食いついた。時計を見ると午後十時半。万が一の時のことを考えて、門倉にも連絡を入れる。板谷のアパートの近くで落ち合う約束をして家を出た。


 めずらしく星が見えた。といっても一つか二つ、おぼろげにだが。都会で見る星は、何とはなく不吉な気がする。普段そこに無いものが見えるというのは、どうも良い気分がしないからだ。
 アパートの近くのコンビニ。そこで門倉と待ち合わせたのだが、しばらく待っても来る様子がない。携帯に電話をしても圏外のガイダンスが流れるだけで、応答しない。時計を見ると日付が変わる直前だった。門倉の性格を考えて、ここに来ないわけはない。もしかしたら先にアパートへ行ったのかも知れないと思い、コンビニを出た。
 アパートを下から確認したが、カーテン越しに見ても電気が点いている様子はない。階段を上り、ドアの前に立つ。つい数日前、そこに積まれていた新聞や郵便物の束は綺麗に片づけられていた。試しにドアノブを回してみると、カチャっと安っぽい音を立ててドアが開いた。
 中を窺うと1LDKとおぼしき室内は、真っ暗だった。
「板谷さん、麻木です。いらっしゃいますか」
 声を掛けたが、応答はない。足下をみると革靴が一足、脱ぎ捨てられた形で置いてある。俺はそのまま、その狭い玄関スペースに入り、ドアを閉めて靴を脱いだ。キッチンを横切り、奥の部屋の引き戸を開けた。
 暗闇に慣れてきた目に映ったのは、部屋の奥、窓際に横たわる人影だった。さらによく見ると、背中を向けて横たわるその人物は両手を後ろ手に縛られている。動く気配は全くなかった。
 ゆっくりと部屋を見回す。他に人がいる気配はない。ゆっくりと倒れている人物に近づく。
「おい」
 声を掛けて覗き込んで見たのは、よく見知った顔だった。
「門倉」
 思わず口に出した瞬間だった。背中で扉が開く音が聞こえた。反射的に振り返って見たのは、クローゼットから飛び出してきた男。軍手をはめた手に金槌を持っている。
 俺は頭よりも体で反応した。振り下ろされた腕を左手で受け止め、相手の体重のかかった軸足を蹴り払う。バランスを失って、前のめりに崩れ落ちる相手の顎に、カウンターの右掌ていを打ち込んだ。相手は、そのまま畳の上に倒れ込む。畳の上で伸びた相手を見て、俺は除隊以来、初めて自衛隊の訓練に感謝した。
 ロープを外してやると、門倉はすぐに目を開けた。
「あ、麻木さん」
 俺に気づいて呆けた声を上げる。
「手錠をだせ」
 状況がつかめないで目を丸くする門倉に一通り説明してやる。倒れ込んだ男に手錠をかけながら門倉は話した。
「先に現場を確認しておこうと思ってここに来たんですけど、明かりが点いて無くて。で、近くで様子を窺おうとドアの前まで行ったんです。そしたらいきなり後ろから殴られたみたいで」
 間抜けな刑事だ、と笑う俺に憮然としながら門倉が言う。
「後ろからですよ。不意打ちですもの仕方ないじゃないですか」
「殴られたから助かったんだ。お前、刺されてたら死んでたかも知れないぞ」
 そこまで言ってようやく門倉が黙った。瞬きもせずに、うそ寒そうな表情で殴られた後頭部に手を当てている。
「さて」
 俺は後ろ手に手錠をかけられて、畳と接吻している男に目をやった。ひっくり返して、頬を張ってやる。男はすぐに呻きながら目を開けた。長めの前髪が隈の浮かぶ目にかかり、暗鬱な表情を演出している。
「板谷学さん、ですね」
 いきなり襲われた腹立たしさと皮肉を込めて、慇懃に声を掛けてやる。相手は答えなかったが、かまわずに話を続けた。
「私の推理は間違っていなかった、ということでよろしいですね」
 俺を襲う理由は他には無い。依然、無言。
「どうです。取引しませんか」
 手錠をかけられておとなしく座り込んでいる板谷の前に、あぐらをかいて座る。
「あなたが首尾良く気絶させたこいつは、実は刑事なんです。普通なら暴行と公務執行妨害の現行犯で即、逮捕ということになります。ですが、木村さんの件を詳しく話してくれるなら、この件は不問にしましょう」
「ちょっと、麻木さん!」
 後ろで門倉が抗議の声を上げた。勝手なことを言うな、ということだろう。しかし、門倉が殴り倒されたことよりも、真相を聞き出す方が俺には重要なことだった。新米刑事の声を無視して、俺は板谷の反応を待った。
 板谷はしばらくうつむいたままだったが、ゆっくりと顔をあげると口を開いた。
「あんなことになるはずじゃ、なかったんです。わたしはあの男を殺すつもりはなかったんです」
 板谷は「わたし」と言った。「彼女は」ではなく。俺は言い間違いかと思って、問いただした。
「彼女に薬を渡したのは、俺なんです」
 横領事件の首謀者は木村裕子ではなく森口だった。木村が知らないうちに横領事件の片棒を担がされ、さらにその森口につきまとわれて困っている。そう聞いた板谷は、テニスサークルで懇意にしていた里見に相談したそうだ。もちろん、横領事件のことはふせたままである。
「そのとき里見は、警察に相談するようにと言って俺を帰したんです。でも、警察に相談なんてしたら横領事件のことがばれてしまうでしょ」
 木村が森口に温泉旅行に誘われる段になって、もう一度里見に相談した板谷は、またも力になれないと帰された。
「それから数日後、小さな小包が届いたんです。差出人は書いてなくて、中には薬が入った小瓶がありました。同時に自分のパソコンに里見からメールが来ていて、薬は強力な睡眠薬で、もし森口が迫ってきたらそれを飲ませればいいと書いてありました。まさか、死ぬような薬だったなんて知らなかったんです」
 板谷は手錠のかかった両手で頭を抱えた。
「なんであんな証言をしたんですか」
 門倉が尋ねた。あんな証言とは、「木村が森口と親密な仲だった」という、この事件を心中事件と決定づけた証言だ。
「事件のあと里見を尋ねて問いつめたんです。でも、そんな話は知らないと白を切られて。その日の夜、パソコンにまたメールが来ていて、『証拠は何もない。お前も共犯なんだ』と書いてあったんです。それで怖くなって」
 俺は板谷の部屋を見回した。入ったときは暗くて気が付かなかったが、壁のコルクボードにたくさんの写真が貼り付けてある。すべて板谷と女性のツーショット写真だ。写真の中で笑う小柄なショートカットの女性。それが木村裕子だろう。なぜ、彼女は死ななければならなかったのか。
「まさか、彼女まで薬を飲んでしまうなんて。彼女は何も知らなかったんです」
 板谷が頭を抱えたまま、声を潤ませる。
「いえ、彼女は知っていましたよ」
 門倉が神妙な面持ちで言った。
「心中事件としての証拠が十分でしたので、気に留めていなかったんですが、彼女の死亡推定時刻は森口よりも数時間あとなんです。つまり、彼女はその薬が死に至るものだと知っていて自ら飲んだんです」
 板谷がおどろいて顔を上げる。声にならない声で「なぜ」、と呻いた。
「後日確認したのですが、彼女の携帯電話にあなた宛の作りかけのメールがあって、そこには『ごめんなさい』と書いてあったそうです。あなたの居場所が分からなくていままで教えられなかったのですが」
 森口が死んだのを見て、木村はすべてを悟ったのだろう。自分が死ねば、板谷に罪が及ぶことはない。だが、いま連絡をすれば、あとに証拠を残すことになる。だから作りかけのメールを残すことで、板谷に思いを伝えたかったのだろう。
 板谷は呆けた表情で、壁を見つめている。その視線の先には、あのコルクボードがあった。板谷の頬を涙が伝う。
「なぜ、彼女が死ななければいけなかったのか。彼女は、何も悪くないのに。俺が彼女を殺したんだ。俺が」
 門倉がゆっくりと板谷を引き起こし、手錠を外した。
「とにかく任意で同行をお願いします。暴行と公務執行妨害についてはお約束の通りにしましょう」
 門倉の声に板谷が小さく頷く。アパートを出て広い通りに出ると、タクシーを捕まえ、警察暑に向かう。そのタクシーのなかで高田みよが死んだことを板谷に教えてやった。
「そうですか」
 板谷はそう呟いただけだった。
 署について拘留の手続きを取り、板谷を署員に引き渡す。その後に門倉が回してきたパトカーに乗り込んだ。
「じゃあ、里見のところですね」
 門倉の声に、俺はパトカーの助手席で曖昧に頷いて目を閉じた。道すがら、頭の中でパズルを組み立てる。
 森口誠にだまされた木村裕子。その木村を救おうとした板谷学。その板谷に薬を送った里見晋司。なぜ、里見は森口を殺す必要があったのか。考えられるのは椎名香織を自分のものにするため。だが、その為だけに、人ひとり殺すだろうか。
 今回の事件に関わる人物達のなかで、森口誠がいなくなって困るのは誰だ。それは妻である椎名香織だけではないか。順当に考えれば、消去法で真っ先に消えるのは椎名だろう。つまり、その他の人間は皆、森口がいなくなればいいと思っていたわけだ。
 そこまで考えたとき、俺の脳裏に唐突にある情景が思い出された。俺は、反射的に時計を見た。午前一時半。
「準夜ならちょうど良い時間だな」
 俺の独り言に門倉が怪訝そうな顔をした。
「ジュンヤって何ですか?」
「準夜勤のことだ。夕方から深夜にかけての勤務だよ」
「お詳しいんですね、病院」
 門倉がちらっと俺を見て続けた。
「でも、里見は精神科の医師でしょ。夜勤なんてしてないんじゃないですかね」
 ハンドルを握りながら、門倉が聞く。
「誰が里見のところへ行くなんて言った」
 違うんですか、といぶかしがる門倉に目的地を告げる。さらに一言付け加えた。
「ああ、それから今夜はお前がキーパーソンだ。しっかり、頼むぞ」
「え、本当ですか! はい、頑張ります!」
 夜中でも相変わらずうるさい奴だ。俺はそのテンションに付き合いきれず、着いたら起こしてくれと頼んで目を閉じた。

「なるほど、キーパーソンですね」
 門倉が憮然としながらエレベーターに乗り込む。
 椎名香織のマンション。俺と門倉は、パトカーをおりて玄関ホールへと入った。そこで門倉にバトンを渡して、魔法の言葉「ひらけゴマ」ならぬ「警察の者です」ってやつで、椎名香織に入り口を開けさせたのだ。
 エレベーターを降りて話をしながら部屋へと向かう。
「お前がいなかったら入れないからな。まさしく鍵だろ」
「それはそうですけど。でも麻木さん、よく今日が準夜勤だってわかりましたね。」
「前に来たときにカレンダーをちらっと覗いてな。月末に準夜勤の印が集中してたんだ。もしかしたらと思ってな」
 看護師のシフトの取り方は様々だが、準夜勤や夜勤の回数は決まっている。それが極端に集中していたので気になって覚えていた。昔俺が看護師と付き合っていたというのは、門倉には伏せておこう。
 車の中で頭をよぎったのは、俺が初めてこのマンションに来たときのことだ。
「死にました」
 とぎすまされたナイフのような鋭さで、俺の耳を突き刺したあの椎名の言葉。負の感情を凝縮したあの暗い響きが、突然脳裏に蘇った。俺は先入観から、椎名は他の人物に比べて、容疑者からは一番遠い位置にいると思いこんでいた。だが、その先入観を取り払うと、つまり椎名が森口を疎んでいたのではと考えると、今回の事件で彼女ほど利を得た人間はいない。もちろん、あくまで憶測で、現時点では証拠は何もないが、俺は自分の勘にかけた。
「ここですね」
 そう言って門倉がインターホンを押すと、すぐにドアが開いた。椎名香織が、いかにも今帰ったばかりという雰囲気で、気怠そうに玄関に立っている。
「こんな時間になんですか。いい加減にしてください」
 もちろん歓迎はされていない。分かってはいたが、仕方のないことだ。
「すいません。少しお話をうかがいたいんです。中に入ってもよろしいでしょうか」
 そう言いながらも門倉はすでに中に入っている。令状は無い。あくまで任意で話を聞くのだ。なかなか押しが強いなと思いながら、俺も後に続いた。
廊下の突き当たり。通されたリビングのソファにすわる。部屋の奥でジャスティスが「ニャア」と声を上げた。相変わらず毛並みは良かったが、少しやせたように見えた。
「それでお話ってなんですか。だいたい想像がつきますけど」
 向かい合って座った椎名が聞いた。
「板谷学さんをご存じですね」
「ええ、顔はしりませんけど名前は聞いてます。主人の被害者ですね」
 被害者、か。確かに被害者だが、椎名が言う被害者とは全く違う。俺の脳裏に恋人の写真の前で泣き崩れた板谷の姿が浮かんだ。
「このマンションはご主人が?」
 突然変わった話題に戸惑うような表情で、椎名が頷く。心中事件の直前に購入したそうだ。支払もすでに終えているという。夫の生命保険を当てたのではなく、即金で支払ったそうだ。
「恥ずかしい話ですけど、夫の資産についてはよく知らなかったんです。マンションの支払の時もこんなに貯蓄があったのかとびっくりしたくらいで」
 淡々と語る椎名に、横領事件について問いかけたが、なんのことか全く分からないと言う。
「夫はもう死んでるんです。これ以上私を苦しめないで下さい」
 椎名が声を荒げた。
「板谷学。彼はもっと苦しんでいますよ」
 俺は抑揚を押さえて言った。何か言おうとした椎名を制するように言葉を続ける。
「はっきり言いましょう。あなた、ご主人とはあまり仲がよろしくなかった。そして、ご主人の横領事件を知っていましたね。すでに懇意だった里見先生との話で板谷学のことを聞いたあなたは板谷に薬を渡した。わらをもすがる思いで悩んでいた板谷にです。結果、ご主人は死に、横領事件もうやむやになり、あなたはこのマンションと保険金と里見を手に入れた。違いますか」
 椎名の体が震えている。白い顔がさらに透き通るように青ざめている。そして、彼女は薄く微笑んだ。秀麗な冷たい視線が俺に向く。
「そんな馬鹿な話。どこにそんな証拠があるんですか。私は主人を愛していました。証拠も無しに、でたらめを言わないで下さい」
「猫です」
 俺の声に椎名が押し黙る。いつか電話でした会話と全く同じやりとり。だが、状況は全く違う。
「あなたは、以前は笑わなかったジャスティスが笑うようになった、と言いましたね。それはフレーメン反応と言って、猫がフェロモンを感じ取った時に示すものです。つまり、ご主人が亡くなった後のあなたは、以前よりも異性を強く意識しているということです。ご主人がいたときよりも、あなたは生き生きとしている。違いますか」
 椎名の目が一瞬、ジャスティスを睨んだ。彼女の表情に明らかに動揺の色が浮かんでいる。もう一押し。
「ひとつ分からないことがあるんですが」
 俺は口調を和らげて問いかける。
「どうやって板谷の連絡先を調べたんですか」
 彼女がさらに声を荒げた。
「知りません! どうやったら私がその人のアドレスを調べられるんですか!」
 ビンゴ。俺はゆっくりと自分の手元を見つめた。膝の上で両手が震えている。嬉しさや喜びはなかった。ただ、急に虚無感に襲われた。
 下ろしたときと同じようにゆっくりと顔を上げる。彼女の美しい顔を見ながら聞いた。
「私は『連絡先』としか言っていません。なぜ、メールで連絡したのを知っているんですか」
 彼女の瞳に吸い込まれるような感覚。俺の手の震えは止まっている。
俺の目の前で、わずかに口を開き、呆然と虚空を覗き込む彼女は、まるで絵画のようだった。
 沈黙が三人と一匹がいる空間を支配する。誰も動こうとしない。それぞれがそれぞれに空気の重さを実感しているようだった。どれくらい待っただろうか。やがて、椎名はさっきまで声を荒げていたのが嘘のように静かに、穏やかに口を開いた。
「愛していたのに。それなのに、彼は私を裏切って。私には見向きもしなくなって。大金を手に入れて、若い女を連れて、私を捨てようとしたのよ。許せなかった」
 椎名は開き直ったようにソファの背もたれに深く背中をあずけると、ゆっくりと話し始めた。
「最初は偶然だった。クローゼットの奥にしまいこんであった猫のゲージに、大金が入っていたのを見つけて問いつめた。そしたら、夫は『金づるが見つかった』って」
 その後、たまたま病院の懇親会で同席した里見から、板谷の話を聞いたそうだ。話のなかで出てきた木村裕子という名前に聞き覚えがあり、森口が勤める支店の職員名簿を確認して夫の秘密を直感した。里見に近づき隙を見て板谷学の名刺を手に入れ、タイミングを見計らってメールを送りつけた。薬は薬事課から盗んだという。そんなに簡単に盗めるのかと疑問に思って聞いたが、厳重に管理されていても、研究目的のデッドストックがまれにあるのだそうだ。
「あとは探偵さんの見込みどおりよ。里見先生は何も知らないわ。あんな軽い男、私趣味じゃないの。プライドばかり高くて、まさか利用されたなんて思って無いでしょうけどね。ああ、あと木村って女が死んだのは予想外。本当は彼女に罪をなすりつけるつもりだったの。たどれる糸は薬を送った里見まで。私を疑う人なんていないと思ってた」
 いつの間にか彼女の足下に、ジャスティスが擦り寄っている。椎名はその小さな頭をそっと撫でた。猫は、笑わない。
「わたし、よっぽど猫と相性が良いのね。まさかフェロモンだなんて」
 ジャスティスの蒼い目を覗き込みながら、椎名が微笑む。猫は椎名の黒い瞳をじっと見つめ、少しだけ首を傾げる。その様子を見て、俺は言った。
「でたらめです」
俺の言葉にはっとして、椎名が顔を上げる。
「あなたを動揺させるためのね。人間のフェロモンに、猫が反応するかどうかなんて知りませんよ」
 数瞬後、椎名香織は声を上げて笑い出した。彼女は、パトカーに乗るまで笑い続けた。

 

 この事件の回想はこんなところでいいだろう。
 少し付け加えると、逮捕された椎名香織は殺人罪で立件され、裁判が進んでいる。板谷学は、薬が致死性のものであることを知らなかったということで、起訴猶予となった。今は大学側の配慮でアメリカへ留学している。里見晋司がどうなったかは聞いていないが、あいつのことだ。きっと調子良くやっていることだろう。
 さて、今日もそろそろ店じまいの時間だ。猫に餌をやらないといけないしな。あれ以来、ジャスティスはここにいる。飼い主には会えなくなってしまったし、なにせあの老婆によろしく頼まれたしまったから。
 あの事件で表彰を受けた門倉は、猫以上に俺に懐いてしまって、事あるごとにここに遊びにやってくる。いつもそこそこ上等な酒を持ってくるから許してはいるのだが、男やもめが二人で過ごす時間というのは他人には見せられない。いい加減、いい女を捕まえないと、とは思うんだが、どうにかならないものか。ただ、もう看護師だけはお断りだ。俺にとっては、色んな意味で厄介な事件だったわけだ。
 ソファの上で、ジャスティスが唸り始めた。どうやら噂をすれば、今日もあの賑やかな若手刑事が来たようだ。とりあえず今夜は、上手い酒にありつけそうだ。それはそれで、素晴らしいことじゃないか、と思う。


― 了 ―

天祐
2023年04月23日(日) 21時22分09秒 公開
■この作品の著作権は天祐さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
猫のお話を拝読しまして、猫つながりのお話を投稿します。
お目汚し失礼。

この作品の感想をお寄せください。
No.3  天祐  評価:--点  ■2023-06-02 19:25  ID:YV7Um1wtNM2
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>えんがわ氏
お読みいただきましてありがとうございます。
うれしい感想でした。
たしかにオーソドックスすぎる設定でステレオタイプの作品ですね。
やはり、まだまだ精進が必要ですね。
今後とも、よろしくお願いいたします。

>アラキ氏
お読みいただき、ありがとうございます。
もったいない感想です。
コーヒーを淹れてじっくりなんて、作者冥利につきますね。
老婆の必死さとか執念のようなものをどのように表現しようかと工夫はしてみましたが、少しくどかったかもしれませんね。
精進します。
No.2  アラキ  評価:50点  ■2023-05-22 11:15  ID:pu1HY/1I14U
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面白かったです!
軽い気持ちで読み始めたのですが、深みにはまっていく展開にワクワクしてコーヒー淹れて座り直しました。

ちょっと気怠い雰囲気の主人公が「特別じゃない普通の大人」という感じで、だいぶ没入しやすかったです。
会話も地の文も軽妙で心地良い。長めの作品ながらスルスル読めてしまいました。

門倉刑事はもちろんのこと、脇役たちもみんな個性強めでいいですね。
個人的には里見医師のイヤラシイ感じと彼を評する椎名香織のバッサリな物言いがツボでした。

商店街によく買い物に来るというから近所だと思いきや散歩コースが二駅先だったり、住所のメモが嘘だったりという、お婆さんの謎行動。
こうして胡散臭くしておけば、放っておいても嗅ぎ回ってくれるとふんだのでしょうか。
だとしたらお婆さん意外にやり手ですね。猫も保護してもらって、これで二十万は確かに安い!

それにしても、こんな夫婦に飼われていたのが「ジャスティス」とはね。なんという皮肉。

楽しませていただきました。
次回作も期待しています。
No.1  えんがわ  評価:30点  ■2023-05-02 16:16  ID:PyFRimgEhSs
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カッコいいですね。

実際に見たことは無いんですけど、もう「松田優作」って感じのダンディーな探偵像が浮かんできました。

独り酒を飲みながら推理する場面も雰囲気があって、何よりも体育系な門倉刑事とのコンビがイイ感じに凹凸があって、面白かった。
ストーリーも二転三転しながらも、流れるように展開し、飽きさせませんでした。

個人的に好きなのは、探偵が歩幅を広げたというシーンです。
あそこから自然な決意や、物語が歩き出すというのを感じられ、ドラマチックだなーって。

恋愛や情のもつれの悲しい事件ですが、一歩ひいた探偵の視点でのドライな感触も味わい深い。

個人的にほとんどパーフェクトな作品だと思います。
自分はあんまり得点とかつけるの苦手で、いつも通り30を押しますが、インプレッションとしては「素晴らしい」に限りなく近いです。

個人的にシリーズ化しても面白いかなと思うし。
自分のなんか自己満足な猫話から、このような秀作を読む機会を得れて、それだけでラッキーだし。

唯一、難点を言えば、ちょっと見慣れた素材なので、どこかしらにユニークなアイテムや個性がもうちょいあれば、と思います。

素晴らしい小説、堪能しました。
ありがとうございました。
良い作品なので、他の方も読んで欲しいな。
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