夏の言い訳 |
「お前、マジでつまんねえな。」 幼い頃、同級生にそんなことを言われた。自己嫌悪に陥ると必ず思い出す、俺の、忌々しい過去の記憶。 俺はあまり学校が好きではなかった。勉強が嫌いなわけではなく、仲の良い友達もいた。嫌いだったのは学校行事だ。運動会なんて勝っても優勝旗を自分が貰える訳じゃないし、合唱祭だって歌が下手な俺は口パクをしてその場を凌でいた。特に、月に1回程の頻度で催される他学年との交流会、これがとても面倒だった。俺は他人との親睦を無理矢理深めさせられるのも気に食わなかったのだ。その他にも、運動のできるやつらに笑われるくらいなら、昼休みは1人で宿題をやっている方が有意義で、効率的だと思った。「外で遊べ。」とうるさいヒステリックな女の先生の言うことは絶対に聞かなかったし、それに従順な学級委員長の言うことも無視していいと思っていた。当時の俺は、自分が他よりも合理的に動けていると思っていたし、そのことについて優越感を抱いていた。お門違いも甚だしい。俺は所謂、天邪鬼だった。 クラスメイトの一部は俺を敬遠していて、敵意を露わにするやつもいた。俺はそいつらにつまらないやつなのだと、そう言われた。言われた時に見下されたような腹立たしさと同時にこのままでいいのかという疑念がそこでやっと生まれた。同級生が俺に言い放った言葉は本当にその通りだと思うし、今でも形を変えて胸に鋭く突き刺さる。これから先もそうなのだろうかと未来を想像すると、なんだか悔しい気分になった。ああ、嫌だ、嫌だ。 「ねえ。」 その一声で体から離れていたような俺の意識は呼び戻された。急に話しかけられたので俺は少々戸惑う。 「何。」 「海、行こう。」 何だって。 朝っぱらからゲーム機を片手に俺の家に入り浸っている幼馴染が突然、口を開いたかと思えば何の脈絡もなしにそう言った。 「……行かねえ。」 「何でよ。行こうよ。」 「見て分かれよ。今、俺は勉強中なの。」 俺は参考書やノートの広がるごちゃごちゃした机上を彼女に見せてみた。 「どうせ、だらだらして勉強になってないでしょう。」 「うるせえ。」 否定できない俺を見て、彼女は得意げに鼻を鳴らした。俺は喉まで上ってきた乱暴な言葉を飲み込んで、彼女に弁解する。 「そりゃあ俺だって遊びたいけどさ。後から言い訳したくないんだよ。」 「どうせ勉強してないなら1日潰れたって関係ないよ。」 ばっさり一蹴された。 「あのなぁ。」 そんなやり取りをしていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。 「お菓子と飲み物を持ってきたの。ドアを開けてくれない?」 そう言われて俺は椅子から立ち上がり、渋々ドアを開ける。するとドアの外から快活に俺の母親が麦茶と菓子の乗ったトレイを持って入ってきた。 「葵ちゃん、麦茶で良かったかしら。」 「はい、ありがとうございます。」 母親は持ってきた麦茶をテーブルに置くと、部屋を少し見渡してから小さく溜息をついた。 「葵ちゃんがせっかく家に来てくれたのに、一緒に遊ばないの?」 「俺は勉強したいの。」 ふうん、と母親は顔をしかめた。 「1日くらい遊んだって変わらないわよ。」 その台詞さっきも聞いたぞ。 母親の言葉に、彼女もポテトチップスをつまみながら便乗して言った。 「そうですよね。さっきも、せっかくだし海に行こうよって誘ったんですけど、陽太君は勉強するから行かないって言うんです。」 「いいじゃない、たまには。」 「親がそんなこと言っていいのかよ。」 「海に行くなら帰りに水羊羹、買ってきてよ。」 「ああ、あそこの和菓子屋さんですよね。」 「明日、お客さんが来るのよ。よろしくね。」 母親は俺にいくらかお金を差し出す。 「陽太、お使いだよ。」 「だから、俺は行かないって。」 俺は突き出されたお金を押し返した。 「あら、余ったら使って良いわよ。」 「余ったお金も使わなくていいから、俺は行かない。」 「頑なだなぁ。」 葵はどこか面白がって俺と母親のやり取りを見ていた。しかし当の母親は明らかに険悪な顔をしている。 「陽太、勉強するって言ったってどうせぐだぐだしているだけでしょう。行って来なさいよ。」 母親は語気を強めた。こういう時の母親は面倒くさい。何でそんなに不機嫌になるんだよ。俺は勉強するって言っているんだぞ。普通は褒めるところだろう。 「分かったってば。水羊羹買ってくればいいんだろ。」 「よろしく。」 結局俺は折れて、葵と2人で水羊羹を買いに、ついでに海へも向かうことになった。 彼女が電源を付けっ放しにしたゲームの画面には「GAME OVER」の文字が表示されていた。 「暑い。」 太陽の光で、頭皮からジリジリ焼けていくようだった。そして拍車をかけるように、蝉が喧しく鳴いている。 この町から約三十分強、バスに揺られれば海まで行ける。海水浴場ではないが、彼女としては海を一目見れたら、それでいいらしい。そういうことで、追い出されるように家を出た俺と彼女は最寄りのバス停へ向かっていた。 一体、何が楽しくてこんな暑い中を歩いているのだろう。もちろん海に行き、帰りに水羊羹を買うためなのであるが、今の俺には楽しい学生時代の思い出よりも、苦しい勉強時間の記憶を刻むことの方が必要であるように思う。しかし結局は受験勉強にいまいち身が入らず、だらだらと長期休暇を食い潰しているのは事実。どうするんだろう、俺は。 定期テストの度に「これから頑張るわ。」と友人に言ったが最後、その言葉が現実になったことは一度もなかった。そして成績をとやかく言われれば腹を立てる。もちろん、そんな資格なんて無いのな。あぁ、さっき家を出たばかりなのに、もう帰りたい。 最寄りのバス停に着くと、そこにら俺たち以外には誰もおらず、二人、バス停と一緒に並んでバスを待つことになった。時刻表を見るとあと五分程待たなければならないようだ。バスが来るまでに彼女は時々何かを喋っていたが、俺は何も聞いていないことを、空返事で誤魔化した。その時の俺は、暑さと苛立ちに堪えることで精一杯だった。 鉄板のようなアスファルトの上で、待つこと約十分。バスは遅れてやってきた。待ち望んでいたバスの扉が開くと、ひやりとした空気が少し伝わってきた。葵が先に乗車し、それに続いて俺もバスに乗る。エアコンの効いた車内は冷た過ぎて妙に気味が悪かった。葵はずんずんと奥へ行ってしまう。それを追っていくと途中の席に見知った顔を見つけた。相手もこちらに気付いたようで少し目を丸くしてから、俺に優しく微笑みかけた。 「こんにちは。」 同じクラスの佐々木さんだ。彼女は小さな声で挨拶をしながら空いた席に置いていたリュックを膝の上に移動させた。片手に単語帳を持っている。彼女はこれから勉強のために学校か図書館へ向かうのだろうか。そんな勉強熱心な彼女へ敬意を払って俺は短く言った。 「お疲れ。」 ここで労いの言葉を言うのもおかしいか。まあいい。へまを無かったことにして俺はバスの後方へ進もうとすると佐々木さんはまだ何か言いたそうな顔をしていた。そんな気がした。やはり見当違いな挨拶をしてしまったかもしれないと思ったが、訂正するのも面倒だった。 すでに葵は一番後ろの席に座ろうとしていたので俺も急いで後ろまで行った。俺と彼女は互いに端の席に座った。俺と彼女の間に三席分の空間ができる。俺が意図的に離れて座席に着いた事を彼女は何も言ってはこなかった。昔はいつでも俺にくっついて来たし、さっきも一緒にバスを待っていたけれど、今の彼女はまるで他人のようだった。彼女は携帯をいじり始め、俺もぼうっと前の座席を見つめた。それに飽きてくると、今度は窓の外を眺めるフリをして、少し、葵と佐々木さんのことについて考えた。 葵と佐々木さんは中学生の時から仲が良く、高校生になってからも一緒に登下校をしていた。しかしいつからか、二人が共にいる姿を見かけなくなった。 環境が変わって、都合が合わなくなって、疎遠になっていったのだろうか。同じバスに乗っても、特に反応は無し。悲しい事だな。 「……。」 佐々木さんは、俺なんかには挨拶をするのに、葵には何も反応を示さなかった。環境と時間のせいで疎遠になっただけなら、少し声をかけるくらいしてもいいと思う。それが故意なのか、偶然なのか、俺には確かめる術もないので、ただ二人の間に起こったことを、妄想するしかないのだ。 「……。」 もう止そう。他人について俺があれこれ考えたってしょうがない。我に返った時、図書館前でバスが停車した。見ると佐々木さんがバスを降りていく。やっぱり勉強のためだろうか。俺は焦燥を感じた。けれど、自分でも驚くほど勉強への意欲が湧かない。多分あれなんじゃないか?無気力症候群だっけ。俺はもう病気か鬱かもしれない。そうであったらどんなに気が楽であろうか。誰か、お前は病気だと、言ってくれ。俺が今いちばん欲しているものは、学力でも夏休みの思い出でもなく、勉強をしなくてもよい正当な理由なのかもしれない。 俺が馬鹿みたいなことを考えているといつのまにかバスは俺たちの目的のバス停に着いていた。時計を確認すると丁度十一時を回ったくらいで、外は心なしかバスに乗った時よりも暑さが増していた。 「さっさと海に行くぞ。」 「待って、陽太。」 「何。」 俺が問い質すと、ぐう、と情けない音が代わりに返事をした。 どうやら海へ向かう前に、腹ごしらえしなければならないようだ。 俺たちは降りたバス停から十分程歩いた場所にある定食屋へ入った。この定食屋は昔から安くて量も多いと評判が良く、十一時半に開店して早々に、店内には多くの人が雪崩れ込んだ。かろうじて二つのカウンター席が空いていたので、そこへ滑り込むようにして座る。するとすぐに店のアルバイトらしき少年が水を持ってきてくれた。 上を見るとメニューの札がずらりと並んでいる。焼きそば、ラーメン、丼ものそして定食と続き最後はジュースで終わっている。とりあえず「目玉焼きそば」が目に留まったのでそれを頼むことにした。葵はカツ丼定食を頼むらしい。 すみません、と声をかけるとこの店おなじみのおばちゃんが、はい、と返事をして厨房から出てきた。 「ご注文は。」 「目玉焼きばとカツ丼定食を」 俺がそう言いかけると、急に葵が言葉を遮ってきた。 「待って。」 おばちゃんが首を傾げる。 「何。」 そして何を言い出すかと思えば、こんなことだった。 「やっぱり塩ラーメンもいいかも。」 「はあ?どっちでもいいから早く決めろよ。」 「ううん、どうしよう。」 「早く。」 「……ううん。」 「ほら。」 「……じゃあ、カツ丼定食で。」 結局、カツ丼定食かよ。 「カツ丼定食と目玉焼きそばですね。はいはい。」 おばちゃんはメニューを伝票にかつかつと書き殴り「少々お待ちください。」と言うとせかせかと厨房へ戻っていった。 そんなおばちゃんを見届けると葵が小声で話しかけてくる。 「ねえ。」 「何だよ。」 「『目玉焼きそば』ってなんか怖くない?」 何かと思えばそんなことだった。 恐らく「目玉焼き」と「焼きそば」がくっついてそうなったのだろうが、もう少し別の名前でも良かったと思う。 「まあ、ホラーだよな。」 そう俺が素っ気なく言うと葵は、本当にね、とくつくつ笑った。俺はなんだか、一緒に笑ったら負けのような気がして、それを誤魔化すように水を一口飲んだ。 しばらくしてからアルバイト少年が「カツ丼定食です。」と少し強張った声と一緒に丼ぶりの乗った盆を置いていった。どうやら味噌カツだったようで、カツの上に乗った味噌がツヤツヤしていて美味しそうだった。 「一切れあげようか。」 「え、マジで?」 「うん。」 そんなに物欲しげな様子だったのだろうか。少し恥ずかしくなる。 「いらない?」 「いる。」 葵の問いかけに俺は即答した。少し機嫌が良くなったことが、自分で分かった。そして少し考えてから、こう付け加えた。 「俺の焼きそば、ちょっと食っていいよ。」 「え、本当に?」 「いらないか。」 「いる。ありがとう。」 葵は満面の笑みを作って、待ちきれないとそわそわし始めた。それから、 「先に食べていい?」 と言った。俺が「食えよ。」と言うと、彼女は早速カツを一切れ、ぱくりと頬張った。それからもぐもぐ、にんまり、そしてこっちを向いた。顔で美味しいと主張してくる。やめろよ、腹が鳴るから。 俺の、空腹との葛藤が始まったときに「目玉焼きそばです。」と先程の緊張したような声が後ろで聞こえた。やっと来たようだ。目の前にすっと熱々の焼きそばが差し出される。茶色いソースがてらてらと店の照明に照らされていて、その上には広い目玉焼きが敷かれていた。箸で黄色い円を割くと、中からとろりと黄身が垂れ出した。それを葵が感心した様子で見ていたので、俺は麺に黄身をたっぷり絡ませてばくりと一口入れてやった。それから思い切り美味しそうに咀嚼した。その時の彼女の顔は何とも羨ましげで、ちょっと勝ち誇った気分だった。 「食うか?」 「あ、うん。いただきます。」 彼女は黄身のかかった部分を少し掬って恐る恐る口に運んだ。口に入った瞬間、また嬉しそうな顔になった。俺もそうなりたくて「カツ、くれよ。」と急かしてしまった。「はいはい。」と味噌がたっぷり乗った一切れを皿に置いてくれた。カツは熱々で柔らかくて美味しかった。 そんな楽しい昼食の雰囲気に飲まれて、少し気分が高ぶった。そのせいで俺はよく考えずに葵にこんなことを言った。 「そういえばバスに佐々木さんいたけど、お前ら仲良かったよな。気づいてた?」 俺がそう言うと、葵は不意打ちを食らったような顔をした。そして何か答えかねているような表情をした。明らかに焦っている様子だった。 「そうなんだ。」 そして少し考えるように黙ってからぼそり「全然気づかなかったよ。」と、変に元気な声で言った。 「ふうん、そっか。」 彼女の妙な様子を少し怪訝に思ったが、俺はまた焼きそばへ意識を戻して、再び焼きそばを楽しもうとした。が、それに水を差すように、誰かの声が聞こえた。 「あれ、佐々木じゃん。」 聞き覚えのある名前に俺は反応した。葵も横で一瞬手を止めた。振り返って店内を探すが、俺が思い浮かべた人物はいない。別の人だったようだ。しかしその会話はまだ続いていた。 「あいつバイトなんてするんだな。そんな風に見えないけど。」 「意外だわ。」 どうやらアルバイト少年の苗字は佐々木らしい。不躾だが、俺は焼きそばを食べながらその会話の続きを聞いた。 「あいつ接客とかできるのかよ。」 「馬鹿、失礼だぞ。」 失礼だと言っているそいつの口調は、完全に笑っている。いるよな、こういうやつ。自分の知り合いにもいる。別に悪いやつじゃないんだろうけど、気づいたら誰かを馬鹿にしているような、無神経なやつ。自分は人よりそういう輩に過敏だと自覚がある。俺には関係ないし、大して憎む程でもないのだけれど、内心では気分が悪かった。そう、関係がない。そう思っていた矢先だった。急に少年たちの会話が小さくなった。 「……後ろの……。」 「え、マジかよ。」 「陽太と葵……。」 何かと思えば会話の内容は、完全に俺たちのことだった。 初めは聞き取れなくてもどかしかったが、だんだん話が盛り上がってきたのか、遠慮で小さかった声は大きくなって、俺たちが聞き取れるほどになっていった。 「こいつら付き合ってんの?」 「知らなかったのかよ。」 「昔っからな。」 「うわあ、俺だけ知らなかったのかよ。まあ怪しいとは思ってたけどさあ。」 「……。」 俺は彼らの会話を聞いて内心呆れていた。そして声の主が誰なのか記憶を探った。しかし朧げな声のサンプルをあれこれと当てはめてみるが、全く分からない。俺と葵は幼少期からの付き合いだから、同級生といったらきりが無いし、小学生の頃の知り合いなら、声変わりをしていて完全に判別できないだろう。箸がカツン、と皿を突く。そこでようやく自分が焼きそばを完食したことに気づいた。葵はまだもう少し白飯が残っていた。彼女はこの会話に気づいているのかいないのか、呑気に味噌のついた白米を味わっている。早く食べ終えてくれないかな。そしてこいつらは話題を変えてくれないかな。しかし同級生(であろう少年)たちの話は変わるどころか盛り上がりを見せていた。 「懐かしいな。そんなことあったわ。」 「あれは必死すぎて笑えたな。」 「今、もう一回言ってやれば?」 「言わねえよ。」 おいおい、何の話だ。俺は様々な記憶の中を巡回しまくった。 「『つまんねえ』とか本人に言う言葉じゃねえよ。」 「いや、だって本当なんだよ。ずっと本ばっか読んでるし、俺がレクレーション係だったから昼休みの遊びに誘ってやったのに、あいつ、無視しやがってさ!」 自分の中で何かがゴトンと型にはまる音がした。 よりによって、お前か! 俺は噴き出しそうになった感情を水で流し込んだ。コップは結露でベタベタになっている。最悪だよ。思い出したくなかった過去をこんなところでぶり返すとは思ってもみなかった。あんな自分の過去なんて。今すぐに店を飛び出して、穴があったら入りたい。そんな気分だった。 「そろそろ行こう。」 「え。」 「だから、そろそろ行こうって。」 誰の声かと思ったら、葵だった。 「そうだな。」 俺は置かれていた伝票を取って勢いよく席を立った。すると椅子が大きくがたん、と音を立てた。それに反応して何が面白いのだか、因縁の同級生達がからからと笑う。頭に血が上っていくのが分かった。にやけたあの顔がなんとも憎たらしい。さっきは悪いやつじゃないとか何とか思っていたが前言撤回だ。こいつらはクソだ。俺がパニックに陥っていると不意に3人いたうちの1人と目があってしまった。ああ早く逃げ出そう。俺は渾身の恨みを込めて相手を睨み、脱兎の如く店を後にした。 どうして今日という日はこんなにも俺をいじめてくるんだろう。こんなことになるならやはり家にいれば良かった。「ありがとうございました。」と挨拶をしてくれた佐々木少年の悲しそうな表情が何故だか頭に張り付いて離れない。俺たちが出て行った後でも、あいつらは俺たちのことをまだくっちゃべっているのだろうか。そうでなければあの佐々木少年が標的にされているかもしれない。彼も俺も、気の毒だ。口を堰き止めていないと、負の感情が勢いよく飛び出しそうだった。だから何も喋らずに歩いて、気づいたら俺たちはすでに海についてしまっていた。 海には俺たち以外、特に人の姿は見当たらなかった。葵はキラキラと水面が光る海を見て、感嘆の声を漏らした。 「海だよ!陽太、海!」 俺たちにとって海はそれほど特別なものではない。幼い頃から近くにあるものだった。それなのにわざわざ海を特別扱いをする葵に、何故だか無性に苛立った。 「ただの海だろ。」 言葉が刺々しくなる。 「『ただの』じゃないよ。」 「じゃあ『何の』海だよ。」 「それは…。」 「海に特別も何もないだろ。」 「そうかな。」 至極どうでもいい話のはずなのに、俺はイラついてしまう。そんな俺を置いて彼女は靴と靴下を脱いで、バシャバシャと海の中に入っていった。 「冷たい!」 そんな当たり前なことを大声で叫んだ。その時の俺は、彼女の振る舞い1つ1つに過剰反応していた。どうしてこいつは、さっき好き勝手言われていたことを気にしていないんだろう。もしかして本当に気づいていないのか?そんなはずない。俺に聞こえて、こいつは聞いていなかったなんて、そんなことはないだろう。じゃあ、俺とこいつ違いは何だ。俺の心が狭いだけなのだろうか。あんな幼い頃の出来事を未だに引きずっていじけている俺が、ただ小さい人間なだけなのだろうか。そう考えながら1人海水をザブザブと楽しそうに歩く彼女を見たら、何だか自分が惨めに思えてきた。一人悩んでいることを、彼女は内心で馬鹿にしているのではないかとさえ思った。すると突然、バシャ、と頭から水飛沫が降りかかった。彼女はいたずらっぽい顔で笑っている。 「うわぁ、ちょっとくらい避けようとしなさいよ。めっちゃ水被ってるじゃん。」 ほら、と言って彼女は再び、海水を蹴り上げる。そしてそれは容赦なく俺にかかってきた。今度はさっきよりも水の量が多くて、バシャリ、と俺のシャツを濡らした。俺はムカついて、砂浜に打ち上げられたワカメを拾って、彼女に投げつけた。 「ちょっとやめてよ、気持ち悪い!」 いい気味だと思った。けれど胸の内に出来始めたわだかまりは消えなくて、なんだか苦しかった。 「もういいだろ。水羊羹、買ってさっさと帰るぞ。」 「ええ〜、まだ遊びたいんだけど。」 「じゃあ、遊んでろよ。俺は帰るから。」 「…何それ。」 「あ?」 「つまんないの。」 彼女がぼそりと呟いたそれは、俺の耳にしっかりと届いていた。 「つまんない人間で悪かったな。」 俺はそう言うと、本気で海から立ち去ろうとした。 「え、待ってよ!」 葵が声を上げた。それまでのおちゃらけた様子ではなくて、何というか、必死な声だった。 「何でそんなに怒ってるの?私が強引に連れ出したから?でも、本当に嫌なら着いて来なければよかったじゃん。」 彼女が畳み掛けてくる言葉で、俺の口からは抑え込んでいたものが徐々に溢れ始めた。 「お前と母さんのせいだろう?今更何言ってんだよ。」 「でも、出かけるの満更でもなかったんでしょ?」 「は、馬鹿言うなよ。」 「どうせ、ろくに勉強もしてないくせに。」 「うるせえ。」 「一丁前に受験生ぶってさ。」 「黙れよ。」 「それに、お昼ご飯の時のこと気にしてるんでしょう?」 「……!」 俺が明らかに動揺した。その様子を見た彼女は勝ち誇ったようにせせら笑った。 「やっぱり。あんな奴ら無視すればいいじゃん。腹立ててる時間が無駄だよ。」 「お前はそうやって簡単に言うけどさ、何も思わなかったのか?あんだけ無神経なこと言われたのに?」 「別に。だって、怒るのって面倒じゃん。」 俺はその言葉で一気に抑えが効かなくなった。 「面倒ってなんだよ。お前は、俺なわざわざ面倒なことをしているって言いたいのか?」 「そういうことじゃないけど」 「お前は俺の感情さえも否定するってことかよ。怒りを感じて、それを発散して何が悪いんだよ。付き合ってる?冗談じゃない。ただ男女が一緒にいるだけですぐに好奇の目で見られる。だからお前と出かけるのは嫌だったんだよ。」 「……何それ。」 「大体、なんで俺なんだよ。」 「え?」 「だから、なんで俺ん家にわざわざ来るんだよ。」 「それは、他の友達が皆んな勉強するとか、用事があるとかで、遊べないから。」 「だから暇してそうな俺の所に来るってわけ?馬鹿にしてんのか?それに、友達が皆んなお前と会ってくれない理由、本気で信じてんの?」 「……どういうこと?」 「お前はさあ、それ、面倒くさがられてるだけだから。」 「え」 「佐々木さんとだって、前はあんなに仲良かったのに、今は全然一緒にいないし、むしろお互い避けあってるだろ。」 「何で、」 「まあ、お前みたいな面倒な奴とここまで付き合えたなら逆にすごいんじゃないのか?」 「何でそんなこと言うの。」 「お前が傷つくように、わざと言ったんだ。お前は、今みたいな無神経なことを、無意識に言ってんだよ。俺にも佐々木さんにも、他の奴らにも!いや、もしかしたらわざと?うわぁ、だったら最低だな。」 ぼろぼろと黒い言葉が口から這い出て止まらなかった。そして全て吐き切ってしまうと妙な達成感を感じた。しかしそれは、その時限りのまやかしだった。 「やめてよ!」 彼女の叫びで我に返った。しまった、と彼女の顔を見たときにはもう遅かった。彼女は鼻を赤くして、目を大きく見張って込み上げるものを必死に我慢していた。そして終いには我慢することができなくて涙が零れ出した。やってしまった、と後悔の念がどっと押し寄せた。けれど、今更自分にはどうしようもなくて、俺はとうとう1ミリも動けなくなった。 蝉の声が聞こえてきて、ふと、意識が戻った。本当に記憶がすっぽり抜けてしまったようで、気づいたら俺と葵は、二人でトボトボと道を歩いていた。白いガードレールが延々と続いて、それは果てがないように思えた。そうだ。確かあの後、人が来たからようやく体が動いて、今は当初の目的であった水羊羹を買うために和菓子屋へ向かっているんだった。俺たちは特に面白みもない田舎の国道をただ黙って歩く。気まずかった。今更になって後悔と申し訳なさが体の中を渦巻く。そして自分はあんなにも感情的になれたことに、驚いていた。いつも心の中で沈下していくだけだった言葉が、あの時に限って口から次々と出できて、自分でも戸惑っていた。いろんな事に疲れているのかな、と思った。俺の罵声を浴びた彼女は今、どんな顔をしている?数歩先を歩く彼女の背中は、いつも感じるような覇気を無くして、もぬけの殻になっていた。ごめん。ごめんなさい。さっきみたいに声に出して言えない。俺の声は文章になりきれず「あ、おいよ」とまぬけな声になって飛び出した。 「……何?」 葵は足を止めて、少しだけこちらに顔向ける。しかし髪が邪魔で表情は見えない。多分、彼女が見せたくないのだろう。彼女の掠れた声に怖気付いて、俺はただ謝罪するだけのことができなかった。 「あ、あそこのひまわり。」 俺はガードレールの向こうに見えたひまわり畑を指差した。黄色い顔が一斉に太陽を向いて煌々としている。敷地こそ狭いが、見事なひまわりだ。葵はおもむろに俺が指をさした方を向いて、じっとひまわり畑を見ていた。 「見に行きたい。」 俺は残りの言葉を絞り出すようにそう付け加えた。 「何それ。」 「嫌ならいい。」 「……別に、いいよ。」 葵は静かにそう言って、またトボトボと歩き始めた。 俺が行きたいと言ったひまわり畑は、俺が小さい頃によく行っていた場所だった。確か、家族ぐるみで葵とも行ったことがあった。そのことを思い出して、なんだかんだで俺たちは付き合いが長いんだなと実感した。喧嘩なんて昔はしょっちゅうしていたのに、どうして今はこんなにも上手くいかないのだろう。俺は不甲斐ない気持ちになった。 歩けば歩くほど黄色が近づいてくる。そしてひまわり畑に着いて見上げてみれば、真っ直ぐで高いひまわり達が全員太陽に向かって伸びている。どうしてこいつらは光に対してこんなにも盲目的になれるのだろう。同じ方向を向いている黄色い顔を、気味悪く感じた。今なら、このひまわり畑の中に迷い込めるんじゃないだろうか。この毒々しいくらいに輝くひまわり畑に、俺は入り込んでしまえる気がした。そしてそのまま誰にも見つからず、どこか、遠く、遠くへ、俺を隠してほしい。このけたたましい蝉の声に紛れてしまいたい。隠れ紛れた先が地獄だったら、もうそこで俺をさっさと裁いてほしい。 「……。」 ひまわりはただ、太陽を向いていた。俺のことを見ている奴は、どこにも無い。そう思った矢先、一本だけ別の方向を向いているひまわりがあった。バカだな。足並み揃えろよ。自分で言って、悲しくなる。太陽で、体がどろどろに溶けそうだ。頭も、ぼうっとしてきた……。 「陽太」 本当に、今ので何回目だろう。今日だけで何度も彼女に意識を呼び戻されている。俺は判然としない頭を彼女に向けた。 「この場所、覚えてるの?」 「うん。」 「そっか。」 彼女の返事はなんだか他人事のようで違和感があった。 「何で、そんなこと聞くんだ?」 彼女は少しばつの悪そうな顔をして、 「私、覚えてないんだよね。」 と言った。 そうか。俺にとっては思い出の場所でも、彼女にとっては初めても同然の場所らしかった。 「親から話を聞かされたことはあるんだけど、全然記憶に無くて。」 彼女が過去を覚えていないのは自然なことだと思う。このひまわり畑に来たのは俺たちがまだ幼稚園児だった頃の話だからだ。俺は自分ばかり過去に囚われているような気がした。過去の記憶に振り回されて、あるいは酔いしれて、そんな自分恥ずかしくなった。そして思わず顔を背けた。 「嫌だった?」 絞り出すような声だった。俺は弾くように顔を上げて彼女を見た。改めて見た彼女は目が赤く、口元が震えていた。そして彼女の悲痛な嘆きが、ぼろぼろと口から零れ始めた。 「無理やり連れ出して、振り回して、嫌な思いばっかりさせてごめんなさい。無神経なことばっかり言って、気を遣えなくてごめんなさい。せっかくひまわり畑行きたいって言ってくれたのに、昔のことを覚えてなくてごめんなさい。ごめんなさい。」 彼女が繰り返す、少し投げやりなごめんなさいに、俺は罪悪感を微増させていく。 「友達を遊びに誘っても皆んな、忙しい、勉強するって断るの。もちろん、その理由に嘘は無いと思うよ。でも本当は、気づいてるから。」 そこで彼女は嗚咽に言葉を詰まらせた。俺はその言葉の続きを察して、体の内側が、ひゅっ、と冷えるような感覚がした。彼女は正常に発声しない喉から、強引に話の続きを吐き出した。 「皆んな私を避けてるってことくらい、分かってるから。」 彼女がそう言い切って、その瞬間に俺は世界で一番、自分が嫌いになった。受験への苛立ちを彼女に向け、暴言を吐き、それなのに今は彼女のことがこんなにも可哀想だと思っている。最低だ。彼女だって悩んでいたんだ。今日の彼女をここまで弱らせたのは、俺だ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいすら上手く言えなくて、ごめんなさい。 俺はもう自己嫌悪が絶頂に達していた。そして情けないことに、俺自身まで泣いていた。本当に本当に、こんな自分が大嫌いだと思った。 葵は昔から、良く言えば元気、悪く言えばうるさい子だった。頑固で、ワガママで、変にこだわりが強くて、こんなこと言うと怒られるけど、ちょっと頭が悪そうな子だった。 園児の頃から俺たちは知り合いだった。家が近くて、親同士も仲が良かった。それで小さい頃、葵は俺にずっと付いて回っていた。それは小学校3、4年生くらいまで続いた。確か、その時期だっただろうか。ある出来事があった。 「お前、マジでつまんねえな。」 俺が昼休みに外で遊ぶことを断ると、同級生の男子は、そう俺に吐き捨てた。 「バカ、んなこと本人に言うなよな。」 そう言いながら制す同級生も、笑っている。俺は黙って、その同級生らを睨み返した。いつもならそうやって無視していれば良かったのだが、その日はそうはいかなかった。 「ねえ陽太君、みんな困ってるよ。」 そう言ったのはクラスの真面目な女の子だった。 「お昼はみんなで遊ばなきゃダメなんだよ。」 そう、大真面目に言われて、俺は腹を立てた。 「なんで外で遊ばなきゃいけないの?俺は今宿題やってるし、文句言われることじゃなくね?今日は鬼ごっこやるんだっけ?俺、走るの嫌いだからやりたくないんだけど。なんで嫌いなこと無理やりやらせるの?嫌々やってる奴だっているだろ?なんで強制参加なの?やりたいやつだけやればいいじゃん。」 俺はその女の子に畳み掛けた。すると、俺の心無い言葉に、その女の子は泣いてしまった。 「おい、泣かせんなよ。」 「サイテー。」 「可哀想。」 涙は悲しさを測るバロメーターらしい。そんなことを俺は考えた。なんなら俺も泣けばいいのか。いや無理だ、余計に煙たがられるだけだ。俺は泣く代わりに言葉を吐いた。 「なんで泣いてる奴ばっかり味方するの?俺間違ったこと言ってなくね?俺だってお前らに言われたことで傷ついてるのに、なんで俺ばっかり悪者扱いするの?」 それは天邪鬼の吐いた、分かりにくいSOSだった。誰にも自分の言い分が通らず、よく分からなかった。みんなバカだ、と当時は思った。俺も泣きたくなった。というかもう、半泣きだった。 女の子が泣き、俺も半泣き、同級生が囃し立て、野次馬が増える。そしてとうとう担任のヒステリック先生がやってきた。 「みんな、どうしたの?」 「先生、陽太さんがこの子を泣かしましたー。」 「陽太さんが昼休みに外で遊ばないのを注意したら、陽太さんが言い訳して。」 「そうなの?陽太君。」 先生は俺に少し厳しい目を向けた。元々問題児扱いされていたから、もう逃げ場はないと思って、俺は腹を括った。 「先生、なんで昼休みは外で遊ばなきゃいけないんですか。遊びたい奴だけ遊べばいいじゃないですか。」 「あのね、陽太君。お昼のレクレーションは、みんなとの仲を深めるための大事な時間なんだよ。」 「すでに俺に突っかかってくる奴らがいるんですけど、それはいいんですか。外で遊べば許されるんですか。」 「それは……。」 「なんだよそれ。俺らのことかよ。」 「俺らがお前に、外で遊ぼうって誘ってやったんだぞ。」 俺の言葉で事態はどんどん大きくなっていく。内心、しまったなと思ったが、ここまできたからにはもう後には引けなかった。謝りたくもなかった。だって、俺は間違ってないだろ。言い方こそ不味かったけれど、俺、何か可笑しなことを言ったのか? そう自問自答を繰り返す俺を、周りは冷たく覗き込んだ。みんな嫌いだ。当時の俺は、俺が周りに受け入れられないのを、周りのせいにした。どうしたらいいのだ。もう、逃げ出したい。そう思った時だった。 「陽太君は何も悪くないと思います。」 そう言葉を発したのは、葵だった。葵は先生と俺に歩み寄った。後ろの方では、葵を止めようとする友人の姿があったが、葵はその子を気にも留めず、問題の起こった輪の中心に堂々と入り込んで来た。 「陽太君は間違ったこと言ってないと思います。運動が嫌いな子は、本当は外で遊びたくないって言ってました。」 おいおい、自分の意見を他人に依拠するのはまずいぞ。案の定、葵の友人の1人が顔色を悪くしているのが分かった。 「それに廊下にまで聞こえたけど、そこの2人が陽太君に、『つまんねえな』って酷いこと言ってました。」 「お、おい。」 「そんな人たちと仲良くしたくないと思います。」 「……。」 言葉に容赦が無かった。先生は絶句し、野次馬が騒めいた。皆葵を、奇怪なものを見たかのような目で見つめた。葵は野次馬の誰も見ず、先生を見つめていた。俺は、どこも見れず、教室の床の、木目を見ていた。ああ自分にも、味方がいたのだなと思った。葵本人に、敵味方という意識があったかは知らないが、それでも十分だった。心が満たされて、泣きそうになった。というか泣いた。多分、安心したのだと思う。自分の心に初めて寄り添われた気がして、嬉しかったのだ。ああそうだ、確かその時に、ちょうど昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴って、野次馬は去り、その後の学活の時間で、昼休みの遊び方について話し合うことになったんだ。確か、外で遊ぶのは強制参加ではなくなって、次の学期からは、昼休みの遊びを考えるレクレーション係という仕事自体が無くなった。これだけ見れば一件落着なのだが、その事件は後にも尾を引いてなかなか終わらなかった。俺と葵は昼休みの自由を手に入れた代わりに、周りから冷やかしを受けるようになった。好き合っているだの、キスしただの、可笑しい者同士だの、散々言われた。俺は結構気にしていたが、葵は気にしていなかったように見えた。ただ、今思えば、それはそういう風に見えていただけであって、多分葵は葵なりに、いろいろ思うところはあったのだと思う。葵という女の子は恐らく、俺や周りが思っている以上に、複雑で、繊細で、孤独なのだと、今更になって思ったのだ。 「なんで陽太まで泣いてんのよ。」 気がついたら俺は、泣いていた。悲しみなのか、怒りなのか、感動なのか、分からない。 「……なんか、いろいろ思うところがあって、いっぱいいっぱいになった。」 「そんなの、私もだよ。」 「うん、そうだな。」 「何それ。」 「ごめん、本当、お前が悩んでることに、とどめ刺して、追い詰めて、ごめん。」 「アンタ、本当に都合がいいよね。」 「ごめん。それ以外に、なんて言えばいいの?俺はもう分からん。」 「……。」 「ごめん。」 「謝ってる陽太、なんか気持ち悪い。」 「気持ち悪くて悪かったな。」 「別に、いいよ。もう聞きたくない。」 「ご……分かった。」 「……こっちも、ごめん。」 「うん。」 俺たちは和菓子屋で水羊羹を買った。お釣りは好きなように使えと母に言われたので、2人で饅頭を買って食べた。こし餡の饅頭で、美味しかった。ただ、1人でご飯を食べている時みたいに、あまり味が感じられなかった。黙って饅頭を食べている間に、自分の中で何かが激動して、走り去って行く感覚があった。今の俺は、この夏最高に、もぬけの殻だった。 帰りのバスに乗ると乗客は存外少なくて、俺は安堵した。俺と葵はまた一番後ろの席へ行き、端と端とに座った。真ん中には三つ分の席が空いた。2人ともバスの中では何も喋らなかった。ぼうっと、窓の外を眺めてバスをやり過ごした。 バスを降りて、俺は葵を家まで送り届けた。葵の家は俺の家から2、3分歩いた所にあって、送り届けたと胸を張って言えるような距離ではなかったが、一応送って行った。すると帰り道に葵が、こんなことを言った。 「私さ、つまんないって言ったじゃん?」 「ああ、なんか言ってたな。」 「うん。」 「あれが、何?」 「あれは、陽太がつまらないってことじゃないからね。陽太が一緒に遊んでくれないからつまらないって、そういう意味だから。」 「何が違うんだ?」 「陽太自体はつまらなくないよってこと。」 「……そうか。」 心を見透かされたようだった。葵は変に鋭くて、たまに嫌になる。わがままで、うるさくて、バカっぽくて、無神経で、そういうところが本当に嫌だ。でもそれは、今更なんだ。子どもの頃からそうで、むしろ子どもの頃と比べれば彼女は人間として、かなり成長している。そんなことに気付くことさえできないほど、自分の心には余裕が無かったらしい。本当に今更だった。お互いに。 別れ際に葵は、もう家には遊びに来ないと俺に告げた。朝はあんなに邪魔をするなと怒っていたが、いざそう言われると、とても寂しい気持ちになると同時に、夏休みと受験の孤独が、また戻ってくるようで気が滅入った。葵も同じなのだろうか。誰にも満たすことができない孤独が、そこにはあるのだろうか。俺は、気の利いた一言も言えなかった。俺という人間は、本当に、卑しい奴だ。そう思って、苦しくなった。嗚咽を漏らしたくても漏らせない、そういう、苦しさだった。 俺は家に帰ると、夕飯も食べず、風呂にも入らず、汗だくのままベッドにダイブした。暗くなった外では、カエルが絶え間なく鳴いている。そのカエルの声と睡魔の中で、今日起こったことが一つずつ俺の脳裏に浮かび上がった。カエルの鳴き声、昼間の蝉、葵が絞り出した、ごめんなさい。混濁した音声が、俺の鼓膜を駆け巡っていく。俺は堪らなくなって、布団に頭を埋めた。少し音が弱まったその時、俺の頭にひまわり畑の光景が広がった。その中で、一本だけ日に背いたひまわりが、音もなく孤独に咲いている。俺はなんとなく、その様子を思い出した。 もう、どうにでもなってしまえ。 俺はまたもや忌々しい記憶を作ってしまったみたいだ。夏休み、受験勉強を全くしなかったこと、誰かを傷つけたこと、来年の自分に、なんと言い訳しようか。 |
ナカトノ マイ
2019年08月15日(木) 00時42分57秒 公開 ■この作品の著作権はナカトノ マイさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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