ゲシュタルトの祈り

我れは、我がことをなし、汝は汝のことをなす
我れ、この世にありて生きるは、汝の期待にそわんがためにあらず
汝もまた、我が期待にそわんとて、この世に生きるにあらず
汝は汝、我れは我れなり
されど我れらが心、ともにふれあうことあれば、これにこしたことなし
たとえ、心ふれあわずとも、それはそれで、せんかたなし

− ゲシュタルトの祈り −




 水色の空。そういえば聞こえがいいが、それが青空と、その下に充満するスモッグがブレンドされた色だとわかると妙に安っぽく見えてくる。まるで、特上のコーヒーにミルクを入れてしまう人を見たときのように興ざめしてしまうのだ。
 いつもと同じように地下鉄の階段を登りながら見上げる空の色。それを見るたびに俺は自分の生きるこのフィールドが、いかに猥雑であるかを思い知らされる。背後から吹き上げてくる熱気を含んだ風に背中を押されるようにして、地下鉄の出口から沢山の人が吐き出され、その誰もが足早に、それぞれの役割を果たすべき場所へと靴底を鳴らして歩いていく。そして俺もまた、流れに抗うことなく目的地へと押し流されていくのだ。
 地下鉄を出て、目の前の横断歩道を向こう側へ渡りきったところで左に折れる。足早に歩きながら左手首を見た。驚くほど高くはないが、決して安くはない輸入物の腕時計の青い文字盤が八時十分と教えてくれる。始業まではあと二十分。足を止めることなく、上着の内ポケットからマイルドセブンを取り出し一本をつまみ出してくわえる。ライターをまさぐるうちに、ビルの玄関前の広いスペースについた。そのスペースの隅では建物から追い出されるように、いや、比喩ではなく現実に追い出されている愛煙家たちが喫煙スペースにたむろしている。ズボンのポケットからようやくジッポを探し当てた俺もその輪に加わり、火をつけると一息吸い込んだ。
 唇を狭めて吐き出した煙がすうっと水色の空に熔けていく。気が付くと十一月だというのに額にうっすら汗を感じた。煙草をくわえたまま上着の外ポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭う。ハンカチに染みこませたジバンシィが少しきつく香った。
 月曜の朝は、どうも気怠い。もう一度腕時計を確認すると始業十分前だった。シッと口を鳴らして、最後の一息を吸い込むと灰皿に煙草を落とす。火種が水に飲み込まれるジュッという音を聞きながら背筋を伸ばし、大きな自動ドアを通り抜けて、急ぐでもなくエレベーターへと向かう。
「おはようございます」
 必要以上に大きな声で挨拶をくれる守衛に軽く会釈して応えると、ちょうど開いたエレベーターに乗り込んだ。オフィスのある十五階を指定して「閉じる」のボタンを押したその時、急ぎ足で近づくハイヒールの音が聞こえた気がした。扉を開こうかと一瞬考えたが、思ったよりも早く扉は閉まり、エレベーターは動き出してしまった。
「まあ、仕方がない」
 独り言を吐き、聞こえたハイヒールの靴音からその主の容姿を想像しつつ、体にかかるGに軽く耐える。あの靴音の高さだと履いていたのはピンヒールで、かなり早足だったからきっと若い女性だろう。もちろん自分との接点など無いのだろうが。
「チン」という少し間の抜けた到着音と、急に体が軽くなる感覚に少し戸惑いながら、俺は十五階の廊下へと足を踏み出した。
 自分以外誰もいない廊下を歩く。タイムレコーダーの時計は八時半の二分前を指していた。自分のカードを取り、差し込むとジッという音とともに出社時間が印字された。八時二十九分。俺はオフィスのドアを押し開けた。
 オフィスの中は、廊下とは対照的に雑然とした人の気配に溢れている。幾人かが条件反射的に俺を見るが、特に何を言うでもなく、それぞれの役割に戻っていく。只一人を除いては。
「今井君! 」
 俺の所属する東京営業部営業一課の島田課長が自分の席で立ち上がり、手招きをしながら俺を呼んでいる。
「おはよう、今井君。いやあ、ぎりぎりだから心配したよ。今日のプレゼン、期待してるからね」
 なにも部下にまで営業スマイルを振りまく必要はないだろうといつも思うのだが、職業病なのだろう。いつか自分も笑顔が消せなくなるのだろうかと考えるとうそ寒く感じられる。その気配を気取られぬよう表情を変えずに答える。
「資料はすべて整っています。あとは機材の準備だけですね。プレゼンに使用する機器は先方で用意してもらえるようですから、私はデータだけもう一度確認しておきます」
 給料分だけの仕事はしよう。いつもそう考える。経営診断ソフトの販拡。それが自分に与えられた役割だった。別段、難しい仕事ではないし自信もある。
「いつもどおり頼むよ。君のように熱心な若手が営業を引っ張ってるんだ。今月も目標は軽くクリアしているようじゃないか。この調子で頼むよ」
 毎回、おきまりのセリフ。褒められるのは嫌いではないが、過剰な意思表明はかえって相手に不快感を与えかねない。課長が課長止まりの理由がなんとなく分かる。とりあえず義務的に「はい」と答えた。いつもならここで終わる会話だが、今日は先があるようだ。
「そうそう、今日、親会社から派遣研修でひとりスタッフが来るんだが、君のプレゼンに同行させたいんだ。仕事の雰囲気を知ってもらうのと勉強も兼ねてね。いいかな?」
 そもそもうちの会社はワイエーコーポレーションという監査や会計業務全般を商う親会社のグループ企業のひとつだ。親会社から新人社員が研修に来るのはよくあることだった。特に断る理由もない。
「ええ、わかりました」
 課長がまたあからさまににこやかな表情を作る。
「よかった。宜しく頼むよ。始業時間に間に合うようにと言ってあるんだが、まだ来ていないようだな」
 課長が壁の時計を見上げたとき、俺の背後から声が聞こえた。
「おはようございます! 遅れてすいません!」
 振り向くとオフィスの入り口で若い女が頭を下げている。グレーのタイトスーツに真っ白い襟の高いシャツ。足下には黒のピンヒールを履いている。それほど背は高くないが、細身の線がすらっとした印象を与えていた。
 彼女は下げていた頭を勢いよく上げた。肩より少し長いストレートの黒髪がさらっと揺れる。少し厚めの唇の端に引っかかった後れ髪をあわてて指で慣らしながらこっちを見つめる。大きな瞳が綺麗と言うよりはどこか憎めない雰囲気を醸し出していた。
「ああ、こっちだ、こっちだ」
 課長が呼ぶ声。それに応じて彼女がつかつかとこちらに歩を進めてくる。その時になって初めて、さっきエレベーターに乗り損なったのは彼女だったのかと思い当たった。
「今井君。今話していた親会社本社から研修で来た田村君だ。田村君、うちのエースの今井崇君だ。当面は今井君について仕事を覚えてくれ」
 課長に目配せし、今日だけのはずではなかったのかと俺は心の中で毒づいたが、課長は目を合わせようとしない。なるほど、とりあえず課長でいられるくらいのしたたかさは持ち合わせているようだ、と妙に感心してしまった。
「本社営業部より参りました田村咲子です。宜しくお願いします」
 その声に我に返りながら、差し出された名刺を手に取る。
「どうも。こちらこそ、よろしく」
 彼女がまっすぐに俺を見る。意志の強そうな、なかなかいい目をしている。
「よろしくお願いします。何をすればいいですか」
「今日は後ろをついてくればいいさ。そうだ、君は大卒なのかな?」
 髪を揺らして大きく頷く。
「はい」
「専攻は?」
「国文学です」
 さわやかな笑顔に彩られたその答えに俺は軽く溜息をついた。きっと、使えないな。
 俺は自席に着くとラップトップを立ち上げ、プレゼン資料をUSBメモリに落とす。俺の隣の席をあてがわれた彼女が、俺の手元をじっと見ている。ブルガリが微かに香った。場違いなほど大声でこれみよがしに挨拶したかと思えば、時にそこはかとない清楚さを感じさせる。なんとなくつかみ所のない彼女に俺はすこし興味を感じ始めていた。
「有価証券報告書って知ってるか」
 もう少し人となりをつかんでおこうと、意地悪く訊いてみる。
「いえ、知りません」
 いい傾向だ。俺の経験則だが、知らないことをはっきりと知らないと言えるのは、その人が正直であることの表れだ。わざとすぐには答えずに俺は作業を続けた。彼女は俺の手元から、顔に視線を移してじっと答えを待っている。答えを促すこともなく、こちらが話すのをただ待っている。よく言えば素直だが、馬鹿正直なのかとも思う。仕事ができるかどうかは別として、信頼は置けるようだ。それはそれで才能だろうと俺は思う。
「株式を上場している会社は公開が義務づけられている資料だ。俺はそれを元に売り込む会社を選定している。これをやっているのは社内では俺だけだろう。つまり俺個人の企業秘密だ。誰にも言うなよ」
 実はそれを見たからと言って、だれもが簡単に読み解けるものではない。特に秘密にするほどのものでもないのだが、彼女は真剣な目で大仰に頷いた。我ながら少し度が過ぎたかなと後ろめたい気持ちになった。だから、というわけではないが席を立つ。課長に行き先を告げて出て行こうとする俺の後ろで、唐突に動き出した状況に戸惑うように彼女が言う。
「あの、何を持って行けばいいのでしょうか」
 自分で考えろと、とはさすがに言えない。だから、こう言った。
「適当に」

 俺は冷たい男ではない。クールでいたいとは思うが、人に冷たくあたることはできない。相手がどう思うかは分からないが、自分では特段冷たくしているつもりはない。困っている人をみればできれば助けたいと思うし、人並みに同情もする。だから、いま俺は靴屋にいる。
「すいません」
 平謝りの田村を見ながら溜息まじりに俺はぼやいた。
「まあ、いい。急げばなんとか間に合うだろう。行こう」
 今から二十分前。赤坂見附で地下鉄を下りて目当ての会社へ向かう途中、急に彼女がバランスを崩し、俺の腕にしがみついてきた。驚いて振り返ると彼女のヒールが側溝の蓋にはまったお陰でぽっきりと折れていた。
反射的に腕時計に目をやると、約束の時間まであと三十分。まっすぐ目的地へ向かえば程よい時間につくはずだった。しかし、そういう理由でこの繁華街の真ん中で靴屋を探す羽目になった俺は、おどおどする彼女には目もくれずに道行く人に声を掛け、靴屋の場所を尋ねた。ようやくそれを聞き当て、ひょこひょこと歩く彼女をどうにかここまで連れてきたのだ。
「ほんとにすいません」
 もう分かった。何度頭を下げてもらっても時間が戻るわけでもない。
「急ごう」
 時計を見る。十分前。無駄に会話を交わす気も、その時間も無かった。携帯を取り出し、歩きながらリダイヤルリストをスクロールさせる。目的の番号を探し当て、通話ボタンを押す。
「お世話になります。私、ワイ・エー・アカウンティング・コーポレーションの今井と申しますが、高木総務部長様にお取り次ぎ願いたいのですが」
 自分でも息が上がっているのに気づく。それとなく隣を見ると、今にも泣き出しそうな田村の顔が見えた。勘弁してくれ。
「あ、高木部長様ですね。今井です。本日は宜しくお願い致します。ええ、今そちらにつくところです。少しトラブルがありまして、遅れてしまいました。申し訳ございません。至急、準備をさせて頂きますので、きちんとしたご挨拶はプレゼンテーションの終了後にさせて頂きます。ご迷惑をお掛け致します。はい、ええ。恐縮です。それでは、よろしくお願い致します」
 パタンと携帯を閉じて懐に収める。頭を下げながら歩くのは意外と難しい、そんなことを思いながら歩くうちに目的のビルについた。玄関ホール正面にいた案内の女性に用向きを伝え、早足でエレベーターへと乗り込み、五階のミーティングルームを目指す。
「履き心地はどうかな」
 少し意地の悪い訊き方だろうか。間に合った安堵感もあり、少し彼女をからかいたくなった。
「はい、大丈夫です。すいませんでした」
 彼女の目が真っ赤に潤んでいる。
「そう、なんども謝らないでもらえるかな。それにそんなにしょげた顔じゃ俺の仕事にも影響する。女性らしく華やかな雰囲気を演出してくれ。それが君の今日の仕事だ」
 隣で笑っていればいい。邪魔さえしなければ見栄えはいいのだから。
 エレベーターが開いた。明るい日差しが差し込む先にミーティングルームが見えた。
 ミーティングルームの中に入るとすでに出席者全員が座っている。前もって要望しておいたパソコンとプロジェクターも、もちろんすでに準備が整っている。
 経営診断ソフトといっても電気屋で売られているようなパッケージソフトでは、もちろん無い。クライアントにあわせてカスタマイズして、メンテナンスまで行うため業務委託契約が必要なのだ。その契約料金は保守も含めると数百万から一千万円ほどだろうか。
 それほどの契約をまとめるためのプレゼンだ。出席者は社長から部長級の幹部二十名ほど。俺は緊張を押し隠しながら、準備を終えるとプレゼンを開始した。

「どうでしたか?」
 向かい合って座る田村が訊いてきた。俺は、蕎麦を挟んだ箸を止めて答える。
「どうだろうな。あとはあっちが決めるだけのことだ。そんなことよりメシが先だ。仕事の話はあとでもいい」
 どうにか無事プレゼンを終えての昼食。自分の会社近くの行きつけの蕎麦屋だった。彼女が頼んだのはたぬきそばだった。好き、なのだそうだ。
 彼女は目の前で、髪が椀に入らないよう気にしながら、蕎麦をつまみ上げている。今年、採用されたばかりのまだ学生気分の抜けていない新入社員。長野にある本社から期限付き出向で東京営業部に派遣されてきたそうだ。そういう意味では期待の新人なのだろう。幹部候補生というやつだ。所謂一流大学とやらを出て、出世街道をひた走ることを期待されている人種だ。つまりは、俺と同じ。
「今井さんは、失礼ですがおいくつなんですか」
 会話が無いのに耐えられなかったのだろう。田村は、箸を休めて当たり障りのない話題を無難にふってきた。
「来月、三十になるよ」
 内心では早く会社に戻りたいのだが、無視するわけにもいかないので、仕方なく答える。急に彼女の目が輝いたように見えた。
「私も来月誕生日なんです。奇遇ですね。何日ですか」
 会話が広がりそうなので、安心したのだろう。場違いなハイテンションのノリで訊いてくる。臆病者なのだ。自分が誰かと繋がっていないと不安でいられなくなる、そういったタイプの人間なのだろう。営業には向かない。そういうものだとは分かっていても、どうしても哀れんでしまう。今日の俺はいつも以上にやさしいようだ。
「二十五日だ。あまり人には言いたくないんだけどな」
 クリスマスが誕生日というのは、なんとなく気恥ずかしく、軽くコンプレックスになっている。女にこの話をするとやたら食いついてくるから、いつもなら適当にごまかすのだが、田村の正直さに影響されたのだろうか。それとも、珍しく人恋しくなっているからだろうか。
 さらに表情が明るくなる田村を見て、俺はすぐ後悔した。きっと女子学生よろしく黄色い声を上げるのだろう。俺は無意識に少し身構えた。だが、彼女の答えは予想したものとは違った。
「十二月二十五日ですか? 私と同じです! ほんとに偶然ですね!」
 この場合、よかったのか悪かったのかにわかに判断できない。きっと俺は戸惑った顔をしていただろう。柄にもなく、なぜか心がざわついた。それをごまかすように、早く食事を済ませるようにせかす。
 程なく、店を出てオフィスへと戻る。代金は田村が支払った。なんでも靴屋を探してくれたお礼だそうだ。どちらかと言えば、迷惑をかけたお詫びだろうと思うのだが、その辺のズレが彼女らしいといえばそうなのかも知れなかった。悪い気はしない。お詫びよりはお礼をもらったほうが気分はいい。
 
 その夜、俺は同僚の瀬野真人と一緒に晩飯をすませ、カクテルタイムを行きつけのプールバーで過ごしていた。二人でポケットビリヤードの台をリザーブして球を撞きながら、他愛のない話を続けていた。ゲームは九番ボールを落とせば勝ちの「ナインボール」。会話の話題は「田村咲子」だった。
「初日から昼飯をおごらせるとは、なかなか厳しい先輩ぶりじゃないか」
 キュー先のタップにチョークを擦りつけながら、瀬野が言う。同じ営業一課で俺と成績を競い合う同期のライバルではあるが、新入社員の頃から苦労を共にしてきた親友でもあった。短髪を逆立て、年の割にはシャープでさわやかな印象を与えている。涼やかな笑顔が印象的な男惚れするような男だ。
「そう言うな。でかい取引のヤマで、遅刻するところだったんだ。盛りそばをおごってもらったところで割にはあわない」
 俺はそう言いながら、キューを突き出す。白い手玉は狙った的玉に当たったが、その狙った七番ボールはコーナーポケットの端でわずかに弾かれ、穴の目の前に残ってしまった。俺は、舌打ちしながらキューを立てかけ、スツールに腰掛けると、氷の溶けかけたジントニックをすする。入れ替わってキューを構えた瀬野は、七番ボールを難なくポケットさせると、八番、九番とテンポ良く取りきった。
「やるじゃないか」
俺はいやみたらしく感嘆の声を上げながら、グラスを置いて台に取り付き、ボールを並べてラックを組む。その様子を見ながら瀬野が言う。
「お前もそろそろ落ち着いたらどうだ」
 瀬野はすでに妻帯者で、一歳になる息子がいる。
「それで、パソコンの壁紙に嫁さんと子どもの写真を貼り付けて、ニヤニヤするのか? 馬鹿言うなよ」
 ラックを組み終えて座り直し、煙草に火を点けながら言い返してやる。瀬野は鼻で笑いながらブレイク用のキューを持って台へと向かった。スタンスを決めると上半身を倒して、ゆっくりと素振りを始める。俺は視線を外して、ジントニックを飲み干し、バーテンダーのいるカウンターへと向かった。後ろから激しく球が弾ける音がした。音を聞けば分かる。いつもながら、良いブレイクショットをしやがる。
 レッドアイを手にして戻ると、瀬野がスツールに座って足を組み煙草を吸っている。
「失礼」
 にやつきながらそう言う瀬野の声を聞いて台を見ると、手玉と的玉となる一番ボールの間に五番ボールが邪魔をしていた。直接は狙えない。相手のファールを誘う「セーフティ」といわれるテクニックだ。
 俺はひとしきり考えて、キューを手に取り、手玉をクッションに向けて構えた。少し強めにキューを出す。クッションに跳ね返った手玉はしっかりと一番ボールを捉えて、それをサイドポケットに押し込んだ。バンクショット。背中で瀬野が冷やかす口笛が聞こえる。俺は何事も無かったかのようにタップにチョークを擦りつけると順番通りにポケットしていく。そして手玉の下を強く撞いて八番ボールを落とすと、バックスピンがかかった手玉は勢いよくラシャの上を戻り、九番にぴったりとポジションされた。
「オーケー」
 瀬野の声がする。相手が外すはずがない場合、「オーケー」をかけて降参するのが礼儀なのだが、俺は聞こえないふりをして九番ボールをコーナーポケットに突き落とした。
「かわいい子じゃないか」
 瀬野が相変わらずにたにたと薄く笑みを滲ませながら言う。俺は分かっていたが、聞いた。
「何のことだ」
「田村だよ」
 思ったとおりだ。放っておいてくれ。球を撞くのに邪魔だからワイシャツの胸ポケットに突っ込んでいたネクタイを直し、上着を羽織る。賭けの勝ち分、煙草二箱分の金を瀬野から受け取り、店を後にした。晩秋の冷たい風が頬を撫でる。瀬野と別れ、上着の襟を立てて道路をまたぎ、タクシーを捕まえた。行き先を告げながら何となく急かされるように乗り込み、シートに身を預ける。
「落ち着けるかよ、この俺が」
 後部座席でぼやいた俺を、運転手がルームミラー越しにわずかに睨んだ。

 平々凡々。都会の日常は、まさに日常らしく淡々と過ぎていく。特に大きな変化はない。変わったと言えば隣に座る田村咲子の処理能力が、わずかながら上向いていることくらいだろうか。二週間が経ち、雰囲気にもなじんできたようだ。とりあえずの仕事として、クライアントからのプログラム修正要望の取りまとめを頼んでいるのだが、ようやく要点を押さえたレポートを提出できるようになっていた。
「損益分岐点の表示をもっと明確にということですね」
 電話での受け答えが耳に入る。それらしく答えになっていることに多少なりとも満足するべきだろう。些細なことでも良い方向に変化するのは望ましいことだ。
「今井さん、関東梱包の斉藤様からお電話です」
 向かいの席に座る女性が、受話器を持った腕を伸ばしてきた。俺の基準からすれば明るすぎる茶色の髪に、流行なのかぐしゃぐしゃにパーマをかけた若い女性社員、加納美佳。こいつにくらべれば、隣の田村が際だって清楚に見える。加納の顔も見ずに受話器を受け取り耳に当てる。関東梱包とは例の遅刻ぎりぎりで滑り込んでプレゼンをしたクライアントだった。
「お待たせ致しました。今井でございます」
 条件反射で笑みをつくる。電話の相手を知ってか知らずか、田村が俺の顔を見つめていた。
「はい、ありがとうございます」
 俺は芝居がかった声で、ことさら大きく答えた。契約内定の知らせ。オフィスにいるほとんどの人間が俺に注目する。
「はい、それでは明日にでも。ええ、そちらにおうかがいします」
 オフィスの奥で瀬野が拍手をしている。相変わらずにたにたと笑いながら。俺は大仰に頭を下げながら、さらに声を大きくする。
「はい、ええ。そうですね。ありがとうございます。それでは、明日、午後三時に」
 相手が電話を切ったのを確認して、受話器を加納に放り投げる。久しぶりのでかい当たりに気をよくしたのだろう。俺は無意識に、隣の田村に向かって親指を立てていた。瞬間、田村の顔になんとも言えない笑顔が弾けた。
「おめでとうございます」
 ありきたりの言葉を、ありきたりに言う。それだけの事なのにこの時はどうも心に引っかかった。まあ、こいつも悪いやつではないな、そう自分に言ってみる。いや、違う。そういうことではないことは、自分でも分かっている。だが、このときの俺は臆病者だった。自分の本当の気持ちを探ることに怯えていた。
「まあ、そういうことだ。どうだ、今日は晩飯でも。君の笑顔のお陰かもしれないしな」
 ただ、食事に誘うだけだ。別におかしいことではないだろう。心のどこかで自己弁護をしている自分に気づき、なんとなくそわそわする。どうも、調子が狂う。
「はい、よろこんで」
 返ってきた言葉と無邪気な笑顔が、なんとなく痛かった。

 真っ白い皿に、見るからに上品に盛りつけられたメインディッシュ。しっかりと焼き目のついた表面と桜色の脂身のない肉。それに濃い飴色のソースがかけられたその料理は一見、仔牛のフィレステーキに見えるが違う。今夜のメインディッシュは「野ウサギのステーキ、グレープフルーツソースと共に」だった。
 西麻布の細い路地沿いにある、こぢんまりとした小さなレストラン。昼間の内に、なじみのシェフに電話を入れてコースを予約しておいたのだ。目立たないが本格的なイタリアンと、それに合わせた豊富なワインを楽しめる知る人ぞ知る店だ。惜しいのは、オーナーシェフの名前をもじって付けた店名が覚えにくい、ということだろうか。
 薄くスライスされた肉をさらに小さく切り取り、ソースをからませて口へ運ぶ。野ウサギ独特の野趣溢れる少し癖のある香りを、グレープフルーツソースの酸味と渋みが絶妙にフォローする。その味は、口に残っていた赤ワインの渋みと相まって、至福の瞬間を演出した。
「でも、私なんかでよかったんですか」
 テーブルの上でゆらゆらと揺れるろうそく越しに、田村が話しかけてきた。食前酒のシャンパンとコースの合間に口にしたフルボディの赤ワインのせいで、少し頬を赤らめたその顔は、オフィスで見るものとは全く違って見える。
「何がだ?」
 意外と俺も子供だなと思いつつ、わざとらしく問い返す。田村は、料理の上でナイフとフォークを交差させたまま手を止めてこっちを見つめている。
「せっかくのお祝いを私なんかと一緒にいていいのかなと」
 期待通りの答えをもらえたことにわずかにほっとしながら、俺も手を休めた。
「誰と一緒にいたらいいんだ。瀬野と二人で居酒屋の生ビールで乾杯でもしてればいいのか。勘弁してくれ」
 鼻で笑ってみせる。それが相手に不快感を与えるというのは分かっているのだが、どうも抜けない。特にオフになると気がゆるむせいか、冷笑癖がますますひどくなるようだ。彼女の気を悪くしただろうかと、心の中で舌打ちしながら次の言葉を探す。その程度のことで軽く動揺している自分に気づき、また背中がむず痒くなるような違和感を覚えた。少しイラつきながら脳内を散歩したが、フォローする言葉に思い当たる前に彼女が先に声をだした。
「いえ。そうじゃなくて、彼女さんとかいらっしゃらないのかなと思って」
この質問が来ることは分かっていたはずだった。そのために会話を誘導してきたようなものではなかったか。答えを準備しきれていなかった自分をごまかすように、ワイングラスに手を伸ばす。グラスの底にわずかに残っていたワインを、すするように飲み干して、どうにか言葉を吐き出す。
「彼女がいたら、君を誘わないさ。察してくれ」
 ウェイターを呼び、ワインリストを見せてもらう。リストを受け取ったものの、それを見るふりをしながら俺の目は、その向こうにある彼女の瞳を見つめていた。結局、同じものを頼み、リストを返す。
「君の方こそ、迷惑じゃなかったかな。無理に付き合わせて悪かったね」
 社交辞令の台詞が返ってくることは、分かっていた。それでも俺は、その決まり文句のような台詞が聞きたかった。
「無理に、だなんて。素敵なお店ですし、お料理もおいしいです。ほんとにありがとうございます」
 そう、その期待通りの台詞。所詮、自己満足なのだ。先輩面をして、かわいい後輩を食事に誘い、酒に酔うふりをして、自分に酔う。田村には悪いことをした。時々襲う空虚感に怯えながら、それをごまかそうとぬくもりを求めているだけなのだから。この種の思いを中途半端に抱くと、お互いに傷つくだけだ。
 それからの会話は新人時代の失敗談や自慢話と他愛のないものになり、食事は進む。話題が最近妙に羽振りがいい上司の話になった。
「島田課長さんていつもにこやかですよね。見ているとなんとなく安心できるというか」
 人によって見方は様々だろう。俺は共感できなかったが、そういうとらえ方もあるのかなと納得した。
「それに太っ腹ですし。まさか歓迎会の費用を全部課長が出すなんて思いませんでした」
 先週あった田村の歓迎会で、島田課長は二次会の費用まで全部自分でもったのだ。それには俺や瀬野も少なからず驚いたのだが、なんでも最近、親の遺産とやらが舞い込んだらしい。果報は寝て待てというが、あの昼行灯のような課長にそんな甲斐性があるとは思ってもいなかった。
「まあ、悪い人じゃないさ」
 俺はそれだけ言って、その話題を遠ざけた。そして、いつしかデザートも済み、食後のコーヒータイムとなる。
「家は近くなのかな?」
 下心があるわけではない。タクシーで送る都合があるだけのことだ。別に心の中を読まれるわけでもないだろうに、また言い訳がましく心の中で自分に言い聞かせる。
「あの、実はここがどこかよく分かっていないんですけど」
 なにか照れるように微笑みながら、田村は言った。
 それはそうだ。東京に来てからまだ二週間で、しかも麻布の狭い路地に連れ込まれているのだ。説明しろというは酷だろう。自分の至らなさに苦笑しながら、最寄りの駅を聞く。
 返ってきた答えは「松陰神社」。聞き慣れない名前に戸惑う。それが、世田谷線の駅名だと思い当たるまでに数秒を要した。その周辺の情景を思い出そうと、ワインのお陰で動きが鈍っている思考を叱咤する。確か、世田谷区の真ん中で、比較的高い建物が少ない住宅地だったと思う。俺の住む街にくらべれば遙かに、暮らしやすい環境ではあるだろう。ここからだとタクシーで三・四十分というところだろうか。
「今井さんはこの近くなんですか」
 南青山。すぐそこだ。普段なら歩いて帰る距離だが、さてどうしたものか。とりあえず、質問に答える。
「ああ、すぐそこだ」
 寄っていくか? そう言うべきだっただろうか。いつものパターンなら押しをかけるタイミングだが、田村を見ているとどうもその気になれない。清楚と言うといささか大げさな気もするが、なんとなく俺がさわってはいけないような気がするのだ。歳のせいだろうか、ずいぶんと臆病になったように思う。
「チェックを」
 クレジットカードを渡すと、預けておいた上着を受け取る。彼女のベルベットのコートを手に取ると、シャネルの濃密な香りが鼻腔を刺激し、瞬間、体が疼くのを感じた。男などかくも単純なものだ。そう自嘲しながらまた鼻で笑う。カードを返してもらいながらシェフに会釈をしてドアを開けると、冬色の風が吹き付けてきた。
「じゃあ、ここで」
 そう言って別れようとする田村に言う。
「で、ひとりで帰れるのか」
 きっと、田村は「帰れます」と言うだろう。そうしたら、なんと返せばいい。どう言えば、一緒にタクシーに乗り込めるのだろう。そもそも、なぜ俺はそんなことを考えているのだろうか。そうか、俺はこいつに惚れたのか。酒の力を借りなければ、答えを導き出せないとは、本当になんとも臆病な話ではないか。
「……せん」
 彼女が呟いた声に、一瞬耳を疑う。帰れません、そう言ったのだろうか。思考を散歩するのに夢中だった俺は確信が持てずに彼女を見返すことしかできなかった。なんと言ったのだろう、そう考えている俺の怪訝そうな表情に気がついたのだろう。彼女の唇がもう一度動く。
「あの、ご心配にはおよびません」
 なるほど。それならそれで、いい。
 そのまま二人で歩き、六本木通りへと出る。さっきまでいた裏通りとはうって変わって、喧噪に満ちている大通りをほとんど言葉を交わすこともなく歩いていく。車道を行く車のテールランプがどこまでも繋がって流れていくのを見るともなく見ながら、タクシーが捕まりそうな交差点を探す。二人の距離は、肩が触れあうほど近い。ふと、手を繋いでしまおうかと考えて嗤う。我ながら初ぶだな、と。
ガードレールの切れ目を見つけて手を挙げる。このご時世で乗車拒否できるタクシーなど在りはしない。滑るように近づいてきた一台がすっと横に付けた。タクシー代は俺に請求するように言って、離れる。ごく機械的に閉じたドアの向こうで、彼女が笑った。

 日常は過ぎていく。ただ、俺のなかでは平々凡々というわけではなくなっていた。
 仕事はこの上なく順調だった。あの次の日、正式に契約を交わした関東梱包を皮切りに、手応えのありそうな契約を数社分抱えている。このままいけば、年間契約記録を更新できるかもしれない。今年のボーナスは、期待しても良さそうだ。だから、落ち着かないのは仕事のせいではない。
「課長、先日のプレゼンのレポートです」
 田村の声に無意識に視線を奪われる。そう、理由はこれだ。
 本社が送り込んだエリートらしく、さすがに頭は切れるように見える。正確なレポートの内容に、日に日に社員の見目も変わってきて、いまではその明るい性格と涼やかな見た目も相まって、すっかりムードメーカーとなっている。とりわけ、例の島田課長のお気に入りとなっていた。
「田村君。さすがに慣れてきたようだね。君のレポートはとても分かり易くて重宝しているよ。この調子で頑張ってくれ」
 すっかり生え際が後退した広い額に、うっすらと汗を浮かべながら満面の笑みで課長が話している。課長と田村が話すのを目にするたびに、なんとも言えぬ不快感を抱く。彼女が汚されるような気さえしてくる。そして、俺はこんなにも矮小な人間だったのかと気分が滅入るのだ。溜息混じりに、パソコンを眺めているといつの間に近寄ってきたのか、背中から瀬野の声がした。
「どうした。溜息なんかついて。だいぶお疲れか?」
 振り返りもせずに皮肉を込めて答える。
「なんせ、忙しいんでね。おたくと違って」
 俺の声を聞き流しながら瀬野は、空いている田村の椅子に座って俺を覗き込むと、名刺大のメモ用紙を渡してきた。
「ほらよ。とりあえず渡しておくぜ」
 そこに書かれていたのは、住所と簡単な地図だった。それが、なにかを尋ねた俺に瀬野が言う。
「田村の住所だよ。歓迎会のときにこっそり聞いておいたんだ。地図は俺が調べて書いた。俺もまだまだいけるだろう?」
 思わず笑ってしまった。俺は今でこそ愛妻家で息子思いのこの男が、かつてはどんな奴だったかを思い出した。
「今週末はクリスマスだ。お前、誕生日だろう。まあ、がんばれよ」
 さわやかに弾むような声を俺の内耳に残して、瀬野は自分の席へと帰っていく。手元にはメモが残された。
 しかし、どうしたものだろう。まさかいきなり自宅へ押しかけるわけにも行くまいし、誕生日を祝ってくれとも言えない。メモを眺めながら思案していると、課長に資料を無事提出した田村が戻ってきた。あわてて、メモを机の引き出しに突っ込む。
「ありがとうございました。いつもレポート書いてもらってすいません」
 耳元で田村がこっそり言う。実は田村の報告書は全て俺が書いたものだった。なんでも本社からの宿題が大量にあるとかで、田村は電話の応対以外は終始、自分の報告書づくりに励んでいるのだ。自分でも甘いなとは思うのだが、どうせ期限付きの研修生だ。少しくらい便宜を図ってやったところでバチはあたらないだろう。
「かまわないさ。俺がやれば十五分もあれば終わる仕事だ。そっちはそっちで納得のいく報告書ができればいい。それが君の仕事だろうからな」
 そう言いながら俺は、タイミングを考えた。いまなら、恩を着せて誘うこともできるだろう。弱みにつけ込むようで気が引けるが、悪いことをするわけではない。予定を尋ねるだけではないか。近頃どうも、自己弁護が多い気がする。
「ところで誕生日の予定は」
「前の日から母が遊びに来る予定なんです」
 玉砕。こうまで潔く断られると気持ちが良いくらいだ。俺は反射的に笑ってしまった。
「そうか。じゃあ、しっかり東京案内をしてやるんだな」
 はい、と答える横顔がしらじらしい。なかなかやるなと感心してしまった。その時は。

 十二月二十四日、下北沢。仕事を終えた俺は、赤や緑のクリスマスカラーに彩られた街が、なんとなくうっとうしく、かといってひとりで家にいる気にもならず、行きつけの喫茶店でひとり時間をつぶしていた。この下北沢の街は小さな路地が入り組み、そのひとつひとつが多種多様な色を持っている。渋谷や銀座といった流行の最先端といわれる街とは違い、言ってみれば流行の異端と言える街だろう。込み入っていて、雑多で理解しにくい街ではあるが、そのそれぞれが揺るがぬ信念を持っているように感じられる。自分がティーカップを持っているこの小さな店もそうだ。
 隠れ家というよりも、まるで店そのものが隠れるようにひっそりと佇む小さな喫茶店。看板も申し訳程度にしかなく、気にして見なければ通り過ぎてしまう。自分が初めてこの店を見つけたのも、偶然と言ってよかった。何とはなしに振り返ったら、店があった。そんな風な店だった。若い女性の店員がひとり。客はいつも多くても二、三組ほどしかいない。特に話しかけてくる人もなく、窓の向こうを歩いていく人を眺めながら、静かにダージリンを飲む。そして、紅茶の味はいつも通り、絶品だった。
 クリスマス・イブ、それも金曜日ともなればそれだけで心が浮き立つ。ましてやカップルならば言うまでもないだろう。窓の向こう、目の前の通りを歩いていく若い二人。手にはプレゼントが入っているのだろう、ブランドのロゴが書いてある紙袋を下げている。羨ましいとは思わなかった。口説こうとしたら「故郷から母が来ていますから」などと断られたなんて、あまりにも出来過ぎではないか。瀬野に話したら、腹を抱えて笑っていた。我ながら気持ちの良いフラれっぷりだろうと思う。だから、悲しくはなかった。クリスマスにこうしてゆっくりうまい紅茶が飲める、それはそれで幸せなことじゃないか。虚無感はあるが、悲壮感はない。なんとなく脱力しているだけだろう。そして、それはよくあることだった。
 ポッドを持ち上げ最後の一滴、所謂ゴールデンドリップを絞り出す。琥珀色の一滴が、カップの真ん中に落ちて綺麗に波紋をつくった。揺らぐ表面にしばし目を奪われる。忙しない日常に追われ、忘れかけていた時間だった。カップを持ち上げてもう一度、窓の外に視線を向ける。しかし、俺はそれに口を付けることなく、カップを置いた。窓の外に田村がいたのだ。当然、男と一緒に。
 ここにいてもあのシャネルが香ってきそうな黒いベルベットのコートに、その肩までとどく黒髪。初めて見たときと同じようなピンヒールを履いて歩いていく姿は、見間違いなどではない。しかし、俺が目を奪われたのは一緒にいる男のほうだった。ベージュのトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、猫背でがに股気味に歩を進めていく。そして、あの広すぎる額。その男を俺は知っていた。そう、あれは島田課長だった。
 二人は寄りそうでもなく、どこか人目を避けるような雰囲気で、早足気味に通りを歩いていく。俺は自分の口が開いていることに気がついた。動悸が速くなるのを感じる。気持ちを鎮めようと持ち上げたカップが、ポッドに当たって音を立てた。
 二人は、私鉄の駅の方向へと歩いていく。見つかるはずのない答えを探して、思考が巡る。浮かぶのは疑問ばかりだった。なぜここに、しかもあの課長と一緒にいるのだろうか。一瞬、店を出て後を追おうかとも思ったが、すぐに思いとどまった。いまここで自分が出て行っていったいどうなるというのだ。あの二人といまの自分は関係ない。二人は雑踏の中へ消えていった。
二人が消えた先を見ながら、俺は追加でダージリンを注文した。その後の紅茶の味は、覚えていない。

 せっかくの週末を鬱々と過ごすことになりそうだ、そう思った俺は遠出することにした。行き先は特に決めていない。土曜日、つまりクリスマスの朝、俺は愛車の助手席にボストンバッグ一つを放り込んでマンションの地下駐車場から飛び出した。
 BMWクーペZ4。就職して五年を数えた年に、記念とこれからの励みにと思い切って買った車だった。さすがにオープンにして走れる陽気ではないが、メタリックシルバーのボディは都会の鉛色の空にはよく合うように思う。それに今の自分の気分にも。エキゾースト音を右足の裏で感じながら環八を走り、和光インターから外環へと乗る。土曜の朝八時。道が混んでいるはずは無かった。そのまま、三郷ジャンクションから常磐自動車道に乗り換える。
 北へ向かいたかった。理由は特にないが、南より北へ、という気分だった。都会のビル群はとっくに見えなくなっている。視界に入るのは、高速道路の両脇にある防音壁とその上に広がる冬空だけだった。薄く曇ってはいたが、今の自分にはちょうどよいのかもしれない。とにかく目の前に広く開けた視界が気持ちよかった。
 心を覆ったごまかしの毛布をはがせば、浮かんでくることは一つしかなかった。恐る恐るその毛布をめくり、見なかったことにしてまた覆い隠す。ハンドルを握りながら、それを繰り返した。なぜ、あそこにあの男と。考えれば考えるほど導き出される答えは限定されていく。つまりはそういう仲なのだろう。そして、その現実を見つめたくない自分はこうして寒空の下、ひとりでドライブをしている。騒ぐ心をどうにか静めようと。
 時計をみると午前十時。小腹がすいた俺はちょうど見えたサービスエリアに寄った。守谷と書いてある。かなり大きめのサービスエリアだった。駐車場に車を止め、ドアを開ける。車を降りたとたん、冷気が体温を奪っていくのを感じた。北にいるとはいえ、まだ茨城県。関東地方と呼ばれるエリアを出ていない。それにしては、寒すぎるのではないか。我ながら自分勝手だなと思い自嘲する。
「何をしているんだ、俺は」
 ひとり、こぼす。いい年をして、傷心して家出か。なんとも滑稽だった。縁がなかった、そう思えばいい。飲んで忘れよう。携帯電話を手に取った。悪友を誘うために。
「ああ、俺だ。瀬野、今夜うちで飲まないか」
 帰りのエンジン音はやけに軽く感じた。

 月曜の朝。結局、土曜の夜からなんと日曜日の夕方まで酒盛りで過ごした俺の内蔵はさすがに悲鳴をあげていた。地下鉄で二度、途中下車をしてなんとか会社へとたどり着く。時間はいつも通り遅刻ぎりぎり。乗り込もうとしたエレベーター前で瀬野と一緒になった。
「飲んだな」
 瀬野が言う。
「おまえこそ」
 お互い頭痛と吐き気に顔をしかめながら、軽口を叩く。エレベーターのドアが開いた。二人で乗り込み、瀬野が十五階のボタンを押す。動き出した時にかかるGにさらに顔をゆがめ、お互いの顔を見て、苦笑した。なんとか、雑談をしようと試みる。瀬野は奥さんにこっぴどく絞られたそうだ。どうやら、しばらくビリヤードには誘えなそうだ。俺はと言うと、田村の顔を見るのが幾分楽になった、というところだろうか。そんな話をしながらエレベーターを下りる。いつもと同じように、誰もいない廊下を二人で肩を並べて歩き、タイムカードを押す。ぎりぎり間に合ったのを確認してカードを戻し、オフィスのドアを開けた。
 雑然としたオフィス内の気配に無意識に身構えていた俺は肩をすかされた。静かなのだ。誰も話をしているものがいない。オフィスにいる全員が、たったまま課長の席を見ている。正確には、課長の机の前に立つ三人のスーツ姿の男達を見ていた。
 わけのわからないまま、瀬野と顔を見合わせ、とりあえず自分の席に向かう。俺のとなりの席に居るべき田村の姿はなく、机の上にあった小物も綺麗さっぱりと無くなっている。向かいの席の加納に小声で状況を尋ねた。返ってきた答えに二日酔いも吹き飛んだ。
「あの三人は本社からの監査員だそうです。島田課長が社内規定に違反していたとかで、査察にきたみたいですよ」
 田村は朝から来ていないそうだ。加納が出社してきたときにはすでに机は綺麗に整理されていたらしい。
「というわけで」
 監査員らしい三人のうち、真ん中にいた一人が話す。
「島田課長は自宅にて待機となっている。捜索というほど大げさなものではないが、私たちは本日、書類等の収集をさせてもらうが、一般社員の皆さんは通常通り業務をこなして頂きたい」
 その言葉に場の空気がわずかにゆるんだ。次第に私語が聞こえ始める。
 俺は自分の机の引き出しを引っ張り、あの時突っ込んだメモを手に取った。加納に外回りに行ってくると告げて、オフィスを飛び出す。ビルの前でタクシーを捕まえ、地図が書かれたメモを見ながら、世田谷区役所までと告げた。地図に書かれている場所は、電車で行くにはかなり回りくどい場所だった。タクシーで行けば、道が混まなければ三十分ほどだろう。途中、瀬野から電話が入った。それによると、どうやら課長に横領の疑惑があるそうだ。田村については研修期間が満了して本社へ戻ったという通知があったようだった。あまりにも唐突な話に瀬野も驚いているようだった。
「不自然だったんで今本社に問い合わせてみたんだが、本社営業部には田村という社員はいないそうだ」
 続いた瀬野の言葉に、俺は自分の耳を疑った。頭のなかを混乱させながら、とりあえずマンションを確認すると告げて電話を切る。一体なにがどうなっているのだろうか。課長の横領疑惑に本社からの査察。時を同じくして、いなくなった研修生、いや存在しない田村咲子という女。その女と二人で歩いていた渦中の課長。考えれば考えるほど、ワケがわからなくなっていく。
「はい、つきましたよ」
 運転手の声にはっと我に返る。金を渡し、釣りを断って車を降りた。運転手の礼も聞かずに地図を頼りに歩き始める。道を挟んで向かいに立つ私立大学の隣をぬけて、住宅地へと坂を下る。その下り坂が終わった交差点の角に、目当てのマンションはあった。
 建物の名前を確認し、エントランスへと向かう。部屋番号の記された郵便受けを確認したが、メモにかかれた番号の郵便受けには名前はなかった。さすがに部屋まで行く気にはなれずそこをうろつく内に、目の前の柱に問い合わせ先の電話番号を見つけた。とりあえず、電話をしてみる。
「はい、ハウジングサロン梅ヶ丘、担当ササヤマです」
 どうやら、近くの不動産業者らしい。電話に出たササヤマという女性に、部屋の状況を聞いてみる。
「はい、そちらのお部屋はワイエーコーポレーション様で借りておられますね。確かに最近までタムラ様という方が入居されておられたようですが、昨日までで退居されております。法人名義での契約となっておりますので、どういった方が入居されているかということは、私どもではわかりかねますが」
 親会社名義での借り上げ。それでは個人を特定することはできない。ますます彼女の影は薄くなってしまった。
 電話を切り、路地を歩く。来た道を戻り、区役所前へと戻った。大学前では学生達の嬌声が聞こえる。それを遠い世界のことのように遠くに聞きながら、タクシーを捕まえた。
「日本橋まで」
 運転手に告げる。おそらく、極めて無愛想な客に見えていることだろう。俺の頭の中は田村咲子と名乗った女性のことで一杯だった。どこまでが本当なのだろうか。本社の人間なのは間違いないだろう。しかし、新入社員だろうか。今思うと、それにしてはどこか落ち着いた、慣れた雰囲気をもっていたように思う。あの、ハイヒールが折れた初日。あの動揺は演技だったのだろうか。いや、そもそもエレベーターに向かって走り寄ったあの靴音さえ、実は俺をだます最初の一歩だったのではないか。あの時の食事の合間の話題も、レポートを書かずに処理していた仕事も、そしてあの弾けるような笑顔さえも、何もかもが疑わしく、そしてそのどれもがつかみ所のない、もやもやすることだらけだった。思念が渦巻き、半ば放心状態となったまま、タクシーに揺られる。
 そして、もちろん答えが出ないうちにタクシーは止まった。
「着きましたよ」
 俺に合わせたのだろうか。運転手が、無愛想に告げた。金を払い、車を降りる。今度は、釣り銭はもらっておいた。
 二日酔いを思い出したような足取りでオフィスへ戻ると、そこにはとりあえずの日常があった。課長の席の周り三人の男達が居てと、田村という女性が居ないことを除けば。俺はその日、一日中机に座って目の前のパソコンを眺め続けた。

 何事も無かったかのように、一日一日が過ぎていった。あれから三日後には新しい課長が本社から赴任し、一時混乱した決済の流れも直ぐに正常に戻った。新しい課長にそれとなく田村について聞いてみたが、何も知らぬということだった。それはそうだろう。
 島田課長は表向き自主退社という形になったようだ。横領についても、「していたらしい」という情報だけで、どんな規定違反を犯したのか本当のところはわからなかった。
 俺もまた、まるであれは夢であったかのように、日常生活に没頭していた。営業に走り回り、瀬野と飲み歩く。全てがもとに戻ったような気がしていた。そうこのメールを見るまでは。あれから一ヶ月たった今、俺は自分のパソコンに来た社内メールを見ている。差出人名は田村咲子。

今井様
 その節は大変お世話になりました。もう、ご存知かと思いますが、私は本社監査室の人間です。名前も偽名です。本来ならばこのようなメールを出すことは、立場上許されるものではありません。このメールは私のごく個人的な判断でお送りしたものです。今井さんを信用に値する人間と判断し、経緯を語ります。
 本社監査室では、経理部の指摘により島田課長の横領の事実をつかみました。その内容はごく単純なもので、存在しないクライアントを作り上げ、そこへの販拡経費として架空請求を繰り返すというものでした。しかし、単純であるために証拠をつかむのが困難でした。そこで私が送り込まれたのです。
 私は社内でデータを集め、島田課長の身辺を調査しました。そこで領収書や請求書等の文書を入手し十二月二十四日、ダミー会社の事務所があった下北沢で監査チームとともに課長を詰問したのです。その後はご存知の通りです。
 わが社は監査法人も含む、会計監査企業です。社内に横領の事実があったと知れれば、イメージ悪化によりこうむる損失は計り知れません。そのために私たちのような監査室が存在するのです。
 私にとってこのメールがどれだけのリスクを負うことかお考えください。それを考えたうえで、ここから先をお読みください。
 私は今井さんを慕っていました。今井さんが必死で靴を探してくれたとき、私は本当に嬉しかった。こんな仕事ばかりしている私は、心がすさんでいました。現場で契約を取るために必死で頑張っている今井さんが、こんなに私のことを思って一生懸命、靴を探してくれている。そんな人を私はだましているんだと思うと、本気で悲しかったのです。
 あの契約が決まったとき、私はこんなにも達成感のある仕事があるんだと純粋に感動しました。あの夜の食事は本当に嬉しくて、楽しくて。今井さんには聞こえなかったようですが、私はあの時「帰れません」と言ったのです。今となっては詮無いことですが、もしあのまま一緒にいられたらと、思う時さえあります。
 このメールを監査室に送れば、私は間違いなく処分されます。これは私なりの誠意です。今井さんをだました償いのつもりです。どうぞ、今井さんの思うようにしてください。
このアドレスはすぐに消去します。以後、互いに連絡を取ることはできません。もし、このメールを公表しても私は恨みません。
 最後になりますが、出来ることなら、別の形でお会いしたかった。これが偽らざる私の気持ちです。それでは、ますます寒くなります。ご自愛ください。

追伸
 お誕生日おめでとうございます。


 俺は、しばらくそのメールを眺めた。俺は彼女におめでとうも言えなかったな、ふと思った。頭に学生時代にお気に入りの教授から教えてもらった祈りの言葉が浮かんだ。
「それはそれで、せんかたなし、か」
 振り返ってみた窓の外には水色の空が見える。煙草が吸いたいな、そう思った。
「おい、瀬野。一服しないか」
 俺は悪友に声をかけながら、そのメールを消去した。
天祐
2024年02月12日(月) 21時17分12秒 公開
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■作者からのメッセージ
某所でリクエストがありまして焼き直しての再投稿です。
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