幻の人参 |
幻の人参 ウラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア 朝鮮東部に泰然とそびえたつ雪岳山に、一人の少年の声が響き渡った。 その人並みならぬ野性的な叫び声は、雪岳山の粛々たる静謐を破り、新緑の産毛をむしり取るような猛々しさで隆起した地肌を伝っていった。 そんな雄々しい声のこの少年は、名をグンファと言った。姓はわからない。口減らしのために弟と共に山に捨てられた孤児だからである。 故に、彼のその透き通るような白い肌は泥土にまみれ、申し訳程度に腰に巻いた麻の布はもはや寒風から身を守る責務を微塵も果たしていなかった。頬は痩せこけ、少年としての愛嬌など欠片も感じさせない。 しかし、それでも彼は生きていた。 雪岳山の豊かな自然は、彼に有り余るほどの水と食料を与え、日当たりのよい高台の洞窟は、彼を雨露から、夜の闇から守った。雪岳山のすべてが彼を生かしていたのである。 さて、ひとしきり大声を上げ終えて満足した様子のグンファは、口元に装着していた手を腰に当て、誇らしげな表情で鼻息をついた。 「どうだ、ユンファ。いい加減目が覚めたかよ」 ユンファと呼ばれた少年はグンファよりもやや幼い、白髪が特徴的な少年だった。ユンファもまた、口減らしに捨てられた捨て子、そしてグンファの弟である。 ユンファは不満げに口を尖らせ、藁でできた布団の中からグンファを睨んだ。 「はぁ……。兄さんの奇声を浴びてなお眠り続けられる人がいるなら、僕はその人の垢を煎じて飲むよ」 「ハハッ、言ってくれるじゃん。どうだよ、俺の垢を飲めば案外耐性がつくかもしれないぞ」 グンファはいやらしい笑みを浮かべながら、腕をほれほれとユンファの顔に突きつける。 「うわっ、やめろ汚い。垢っていうかもはや泥しか見えないよ」 ユンファは慌てて起き上がると、逃げるように洞窟を飛び出した。 洞窟を出ると、雲一つない、突き抜けるような青空が二人の眼前に広がっていた。 体温を内側からはぎ取っていくような冷涼な秋の寒風に、ユンファは思わず身震いをする。 「な、寒いだろ。お前、こんな寒いのによく昼寝なんかしてられるよな」 グンファはどんな天候だろうと欠かさずに昼寝をするユンファに呆れつつも、少しばかり羨ましく思った。些事などすべて払い飛ばしてしまうような図太さが、自分にも欲しかった。 「寒いよ。でも昼寝はしないと。昼寝をサボリ続ければ、体の免疫力が低下して、パフォーマンスが落ちて、なんか、こうとにかく死に至るということは医学的に証明されているからね!」 鼻高々に語るユンファの顔はいたって少年らしい可愛げに満ちていた。その顔を眺めながらグンファは、やはり兄は大変だと感じながら、嬉しそうに小さくため息をついた。 「アホが。医学の知識なんてないくせに偉そうによぉ。昼寝してても腹は膨れねぇだろ。ほら、仕事行くぞ、仕事。金さえたまれば医学の本の一つくらい買えるかもしれないぞ」 グンファは仕切りなおすように手をパンパンと打ち鳴らすと、ふもとの街、束草に向けて、坂道を下り始めた。 「ソクチョまで歩いて二時間、下見前に日が暮れたらお前の昼寝のせいだからな!って今日は言わないんだね、兄さん意外だ」 ユンファは茶化すようにグンファの口調を真似ながら、兄の後を追って歩き始める。 「……うるせえ、走るぞ、先に街についたほうが今朝獲ったサワガニ全部な!」 言い切る前にグンファの足は加速を始めていた。 「ええ!?ちょっと、うそだよ待って兄さん、ずるっ、走れないの知ってるくせに」 途端に余裕をなくしたユンファは必死に兄の後を追う。 「ハハッ、冗談だよ」 グンファはとっさに踵を返し、弟のもとに戻ってくる。 「兄さんのバカ」 ……何気ない、いつもの光景だった。 彼らがこの山に捨てられて約半年が過ぎた。青々と茂っていた緑林はやがて、赤に黄色に山吹色に、華やかにその身を彩らせ、そして枯れていった。 冬が、迫っていた。 ある夜のことである。 束草の街はずれにぽつねんと鎮座している、ある商人の家があった。そこにはボムチョルという名の商人が住んでおり、妻子と共につつがなく暮らしていた。 決して富があるわけでもなく、家の造りを見てみると、何の変哲もない瓦葺きの屋根に、年季の入ったオンドル床、そして地味な大門と、ごく一般的な韓屋であることは瞭然であった。 商人でありながら人格者で、徳も高く、誠実なボムチョルは、人々からは敬われ、また親しまれていたが、自分に厳しく、欲を律し過ぎてしまう彼は、表情が豊かではなく、接客で微笑むことはあれど、心底喜んだことは久しくなかった。 しかし、そんな堅物の彼でさえ、頬の筋肉がたゆんたゆんに弛緩してしまう程、喜ばしい行事が目前に迫っていた。 八つになる愛娘の誕生日である。 ボムチョルはこの日のために清から取り寄せた上質なかんざしを、絹織物や桐製の木箱で丁寧に梱包し、そっと箪笥にしまいこんでいた。 生まれてくれてありがとう。育ってくれてありがとう。すべての感謝を贈り物に込めた。 富などなくていい、ボムチョルはただ、愛する娘の笑顔さえあればそれでよかったのである。 日も暮れてまだ間もなかったが、早々に床に就き、わずかにひらけた窓の隙間からぼんやりと空を眺めていると、闇色に染まった雲の間から、流麗に弧を描く上弦の月が煌々と光を照らしてきた。 そういえば、普段より幾ばくか夜鷹の鳴き声が騒がしいようでもあったが、幸せで胸がいっぱいのボムチョルはさして気にも留めなかった。 チョゴリに身を包み、嬉しそうにはしゃぐ娘の姿を想像しながら、ボムチョルは来たるべき明日に備え、静かに眠りについたのだった。 「……で、今度は何をかっぱらってきたんだ?」 露店でにぎわう大通りの喧騒からやや外れた路地裏の暗がりの中、怪しげな中年男が小汚い子供と何やら話し込んでいた。 「まず見てよこの高そうな木箱。これだけでも、四両は下らないだろ。あの狸ジジイ、金目の物には興味ないふりして、こんな豪華なもん隠し持ってやがった」 みすぼらしい身なりの少年が男に応じる。 「うんうん、兄さんの言う通りだ。この絹が八両、かんざしは三十両するだろうね。でもなんでかんざしなんだろう?奥さんにでもあげるつもりだったのかな?」 さらにその隣から、少年の弟が発言をかさねる。 「はっ、おかまなんだろ、察してあげなよ。あ、そういえばユンファ明日誕生日じゃん。あげよっか?」 「いらないよ! 僕はそんな趣味ありませんー」 二人の少年は顔を見合わせて笑う。 泥にまみれた、汚らしい二人の盗人の少年。そう、ユンファとグンファである。二人はこうして金を稼ぐことで、山暮らしからの脱却を図っていた。 冬の山は、娘の笑顔などでは乗り切れない。より多くの、尚且つ迅速に、資金を手に入れなくてはならなかった。 「てめぇら、勝手に騒ぐんじゃねぇ。四両八両と簡単に言うが一両ありゃあ米俵が丸々買えるぜ?三十両なんて到底しないだろ、このかんざしは」 水を差された二人は途端にしょげかえった。 「で、でも、本当に金が要るんだ、オッサンもわかるだろ?」 グンファは必死に訴えるが、男が意に介す様子はない。しかし、何かを思い出したのか、わざとらしく手のひらを打った。 「あ、そ〜だ。そんなに金が欲しいのなら一つ耳寄りな情報があるぜ、聞くか?」 二人は不審そうに男の顔を凝視していたが、誘惑に負けたのか、無言で先を促した。 「なあお前ら、幻の人参のうわさは聞いたことあるか?たった一本の人参をちびっとかじるだけで、どんなケガも、どんな難病もたちどころに癒えちまうってな話なんだけどな。その人参は橙色じゃねえ真っ白な見た目なんだとよ。聞くところによりゃあ清の仙人がうっかりなくしちまって、あれよあれよという間に朝鮮まで流れてきたらしいんだが、誰も消息がつかめねぇ。でもよ、俺は知っちまったんだ。今、この束草にその全能の人参があるってことをな。ふふ、街の情報網はすべて俺がマークしてる。信頼できる筋からだぜ」 「束草全体じゃ広すぎる。デマじゃないのか?」 グンファがすかさず突っ込みを入れる。 「いや、絞り込みはもう済んでる。襄陽都護府のお偉いさんの家だ。場所は、舎廊房の戸棚の中が有力だな。奴は頑強な警備隊がいることに慢心してやがる。そんなたいそうな場所には隠さないはずだ。チャンスだぜ」 舎廊房は男性が住む部屋のことである。女性と男性は分かれて生活し、女性の部屋はアン房といった。 「あー、あれか、大通りの突き当りの派手なお屋敷だろ。まあ庶民の品ではないわな、なるほど……って、警備隊がいんのかよ! その時点で超リスキーだし、てかそもそもそんな人参この世にあるわけねーだろっ! 危うく乗せられそうになったわ! パスだパスパス」 グンファはあぶねーあぶねー、と小声で呟きながら右手をひらひらと左右に振った。 「……そうかよ。ま、明後日までにはこのかんざしセットの査定が出来っから、それまでのお楽しみだな」 男は意地悪く笑いながら、かんざし入りの箱をグンファの手から取り上げた。 「ちぇ、わーったよ。さ、帰るぞユンファ」 グンファが踵を返したので、ユンファもそれに倣う。 男は二人が去っていく後姿を何故だかもどかしそうに見送っていたが、抑えきれなくなったのか、ついに二人を呼び止めた。 「……おい、ちょっと待てお前ら。もう一ついい話があるんだ。ちょっと聞いて行けよ」 「まだあんの? さすがにもういい……」 「いや、聞こう。なんだ?」 振り向きざま、面倒臭そうに男をあしらうユンファを制し、グンファが聞き返した。 「……いやな、その……、お前らは洞窟に住んでるんだったよな。もうすぐほら、あの……そう! チゲがおいしい季節だよな……、ってお前らは食ったことねーか、いや、そうじゃなくてつまりだな。もし、良かったらなんだが、…………お前ら、俺ん……」 「俺の作ったチゲを食ってみないか、絶対美味いから! だろ? もうその手には乗らねーぞ」 グンファは男が言い終わるのを待たずに言葉をかぶせると、得意げな目線を男に送る。 「…………………………。ちっ、ばれたか」 「ったりめーだ、この前食ったポシンタンはドブみたいな味だったじゃねーか!もう二度と騙されねーぞ、って、……ん? いやそこまで悲しまなくても……料理以外にもやれる特技はなんなとあるって。気を強く持てよ……じゃ、じゃあ、俺たちはもう行くからな。査定適当にやったらマジ許さねーから」 えもいわれぬ気まずさから逃れるように、二人は足早に路地裏を離れていく。 一方、自作したポシンタンの味をけなされた闇商人の男は、悲しそうな表情で唇を噛みながら、すでに二人が曲がった建物の角をただ茫然と眺め続けていた。 大通りの雑踏を背に、住処である雪岳山へと歩を進めながら、グンファはこみ上げてくるような焦燥に駆られていた。 闇商人の男のあのおかしな態度。あんなに動揺している彼をグンファは初めて見た。あれは見抜いている。ユンファの足が、もう使い物にならないことを確実に見抜いている。 そう、ユンファの体は得体のしれない病気に侵されている。最初は足にむくみが出る程度の症状だった。しかし、徐々に悪化し、今では激痛と共に歩くのが精いっぱいである。 今回の仕事も、山の往復はグンファに背負われて同行していたのである。 では、なぜ見抜かれてはならないのか。それは、グンファら二人と闇商人の関係が、単なる取引相手ではないからである。 彼らの関係は、某人から窃盗依頼を受けた商人が、身寄りのない子供を使って盗みを実行させ、仕事のスケールに応じて子供に報酬を与えるというシステムの上に成り立っていた。 依頼主が買い取る金額が大きくなるほど、二人の報酬も増える。 孤児が単独で盗品を売って儲けることなど不可能だ。安定した収入を得たければ、必ず闇商人の仲介が必要になる。 そしてこのシステムの軸は、いつでも子供を切り捨てることができる点にある。 つまりこの稼業、一度のミスが命取りになり、見限られたら終わりである。仕事ができなくなったなど、以ての外だ。無理をさせてでも連れて行き、闇商人の前では気炎万丈に振舞わせる他なかった。故に、グンファは焦っていたのである。 背中で気持ちよさそうに寝息を立てるユンファのぬくもりを肌で感じながら、しかし胸中に安らぎを与えることなどなく、かえってグンファの焦燥を加速させていった。 洞窟に着き、ユンファを寝かせ、また自らも藁敷きの寝床に身を委ねる。 眠れるわけがなかった。目を深くつむっても、何度寝る体勢を変えてもそれは変わらなかった。緊迫した諸問題が脳裏に浮かんでは消える。 悪化の一途をたどるユンファの病状 切り捨ての危機 もはや誤魔化しきれないほど明確な外気温の低下 底が見える貯金箱 あげていけばきりがない。 医者になりたいユンファ 山に捨てた非情な親 半年の山暮らし 今朝獲ったサワガニ ポシンタン チゲ …………幻の人参 時刻はおそらく子の刻過ぎ。夜明けまでにはまだ十分の時間が残されていた。 あくる朝。目を覚ましたユンファは、グンファの姿がないことに気づく。刹那、見捨てられたという可能性が脳裏をかすめたが、兄に限ってそんなことはあり得ないと即座に思い直した。しかし、黙って出ていくというのはよっぽどのことだ。普段なら、あの耳障りな大声で起こしに来るはずである。 しかし利口なユンファは、いま自分たちが置かれた状況や、直近の会話、兄の性格などを総合的に判断して、グンファは幻の人参を盗みに行ったのだと察することができた。 兄が自分に黙って出かけた理由は想像に難くなかった。 そう考えると涙が出そうだった。 グンファは、きっと人参を取って帰ってくるだろう。金に換える為ではなく、弟の病を治すために、一本丸々食べろと言うに違いない。金を得るあてはそれしか残されていないというのに。見捨てればいいのに。ただそれだけで幸せになれるというのに。本当に脳が足りてない。なんて非合理的なんだ。馬鹿な兄さん。本当に馬鹿な兄さん。 ……だから大好きなんだ。ユンファは改めてそう思った。 愚直ながらも、勇猛で情熱的な兄の行動はユンファの心魂を大きく揺さぶっていた。 兄への信頼が、敬意が、絶対的に強固なものへと昇華した瞬間だった。 ユンファは、何も思案を巡らさず、ぼんやりと洞窟の岩肌を眺めながら、黙ってグンファの帰りを待つことに決めた。 そうして、兄の帰りを待ち始めて半刻ほど経った頃だった。 山間から不意に聞こえた人の足音と話し声に、はっとなってユンファは即座に辺りを警戒する。 どうやら三人ほどの集団がこちらに近づいてきているようだ。 逃げようか逡巡したが、もはや遅かった。運良く通り過ぎてくれるか、もし来られても相手に敵意がないことを祈るしかない。 案の定、その三人組は洞窟までやってきた。 「お? 先客がいるみたいだな。よう坊主。調子はどうだ」 えらくガタイのいい髭面の男が、入り口をのぞき込みながらユンファに向かって話しかける。憶測だが、この男が三人の中心とみて間違いないようだった。 「……ここに住んでんのか。俺は到底ここで冬を越せるたぁ思えねぇけどな」 大柄な男は、洞窟の中をぐるりと見渡しながら言う。 「……、何者だよ、あんたら」 ユンファは排他的な態度で、しかし内心恐る恐る口を開いた。 「ああ、俺たちはマタギなのさ。ほら、もうすぐ冬になるだろう? 熊が冬眠してしまう前に、下見をしに来ているんだ」 今度は隣にいた細身の若者が、いつの間にか座っている髭面に倣って藁敷きの床に腰を下ろしながら、ユンファの問いかけに応じた。 「そういうこった。坊主は一人か? それともなんだ、誰かいたけどおっ死んじまったか。おーおー、健気なこったねぇ。こんなくそみてぇな洞窟で一人、ひもじく質素に暮らしてるってんだからよ、大したもんだぜ」 髭面がそれに乗っかる。見透かしたような物言いに、ユンファは腹底から沸々と込みあげてくる憤りを感じずにはいられなかった。 「違う! 兄さんがいる! 僕の兄さんはあんたらの何倍もすごい。今だって、あの幻の人参を手に入れに行ってるんだ! 一体売ればいくらになるんだろうな、楽しみだよ。少なくともあんたらより、数倍ましな生活が出来るようになることは間違いないだろうけどね」 「こら、落ち着かないか少年。お頭も言い過ぎです」 興奮したユンファを、また悪乗りが過ぎた髭面を、もう一人いた、眼帯が特徴的な女性がたしなめる。この女性も、他の二人に引けを取らぬ狩人の風格がにじみ出ていた。 「……ククク、今、幻の人参って言ったか? 言ったよなぁ。言ったよな。坊主よぉ、幻の人参ってのが一体どんなものか知ってて言ってるのか?」 髭面は、たしなめを無視してユンファに問う。 「……どうって、真っ白な見た目で、どんな病気もケガもあっという間に治してしまう人参だろう?」 むしろ、それがどうしたという表情でユンファは答える。 男はそれを聞いて、にやりと笑みを浮かべる。 「違ぇぜ、そりゃあ大衆に流れた真っ赤なデマだ。人参を食うだけで、何のリスクも無く、病気が癒えちまうなんて、そんな都合のいい話あるわけねぇ。貴族も信じちまってるところがこの噂のたちが悪い所なんだけどよ。まあ、お前の兄ちゃんのしてることは無駄足にすぎねぇってこった。だがよ、人参じゃねぇが、どんなケガも、病気も一瞬で完治しちまう魔法みてぇな食いもんが、いや確かに存在する。誰でも簡単に手に入るもんだ。聞きてえか?」 そこでいったん、髭面はユンファの反応をうかがう。明らかに動揺していた。それを確認して、髭面は続ける。 「そいつが何かって言うとな、人間のキモだ。それも生きた人間のな。誰か一人の命まで救っちまおうってんだから、それに見合う対価が必要だ。当然、誰かの命を差し出すくれぇじゃねぇと割に合わねぇ。肝抜かれちまった人間は死ぬしかねぇ。誰かを救いたいなら誰かを殺せ。これが幻の人参の正体だ。人間のキモって言うんじゃあ直接的すぎるからな、「人参」ってな隠語が生まれたんだろう。それをどっかの阿呆が勘違いして本当に人参ってことになっちまったみたいだがな」 「……そんな、そんなの嘘だ! そんなの、悪い奴らが人殺ししまくって、その肝を売れば儲け放題じゃないか! そんな馬鹿な話ったらないよ!」 ユンファは声を荒げて反論する。肯定すれば、グンファの好意が、厚意が、行為が。揃いそろって無駄になってしまう。それだけは、そうなることだけは避けねばならぬとユンファは奮った。 「ほう、人参は信じるのに、キモは信じねぇか。まあいい、悪事がはこびらねぇ理由の一つは、出したてを食わねぇと意味ねぇからだ。すぐ腐っちまう。売るのは不可能だ。しかも、 こいつぁ本人の精神状態にも依存すっからな、キモを差し出す相手を本当に救いたいと思えなきゃぁ効果がねぇんだ。これが最大の理由さ。しかも、腹を捌くときにコツがいる。刃物を肋骨と平行になるように当ててだな、ゆっくりと挿入するのさ。腸に当たらないように注意して掻っ捌いたらあとは、肝臓を引っ張り出すだけよ。だが意外とこれが難しい」 「お頭、そろそろ行きますよ、充分羽を伸ばせたでしょう」 眼帯の女性が、打ちとめるように言う。申し訳なさそうな視線をユンファに向けながら、髭面に立つよう促す。 「なんなら、兄貴で試してみたらどうだ坊主。お前その足、病魔に侵されてるだろう。ほら、こいつでザクーッといっちまえ。そんでもって肝を喰らえ。兄貴なんて、自分の一生に比べたら安いもんだ」 髭面はそう言って立ち上がりざまに、腰につけていた短刀をユンファのもとへと放った。 鈍色に刀身を光らせるその短刀はユンファの眼前に落下し、チャインチャインと無機質な音を立てた。 そうして、猟師たちは、ユンファという獲物を、心理的なわばりを、荒らすだけ荒らして去っていったのである。 後に残されたユンファは、茫然自失の面持ちで一人、洞窟の中にたたずんでいた。 このことを、受け入れがたい事実を、兄にどう伝えるべきなのか。そして、金を得る術を完全に失った自分たちはこれからどうすればいいのだろうか。……いくら考えても、探しても、答えは見当たらない。 じき、兄は帰ってくる。それまでに何とか。そう思うと焦りが、焦りを呼び、時だけが無慈悲に流れていった。 兄の声が聞こえた。たまらずユンファは足の痛みも忘れ、洞窟の外へ走り出る。 「兄さん! 兄さん!」 すると、洞窟へと続く小緩い坂道を、なんと血まみれで苦しそうに這い上ってくるグンファの姿が見えた。 そんな……。理解が追い付かない頭など構わずに放置し、ただ、兄のもとへと駆け寄るユンファ。 グンファの腕を肩に回し、支えるようにして慎重に洞窟までエスコートする。 苦しそうに吐息を漏らすグンファのわき腹には、生えるようにして矢が貫いていた。その周囲からは、燃えるように赤い鮮血がとめどなく溢れている。 そして何よりも、グンファの手には見事な純白の人参が、大事に大事に握りしめられていた。 それを見てユンファは涙を流した。唇を一文字に伸ばし、目をぎゅっとつむり、染み出させるように静かに泣いた。どの感情が涙として出てきたのか当のユンファには説明もつかなかった。何もかもが混然としていて筆舌しがたい感情だった。しかし胸中はすでに飽和していた。これ以上ない程パンパンだった。ありとあらゆる想いが遂にあふれ出て、ユンファは泣いているのだった。 「……、ハァッ、ハァッ、……くそ、しくじった。最後の最後で警備兵に見つかっちまった」 洞窟の壁にもたれ、だらりと座り込みながら、グンファは自虐的な笑みを浮かべた。口からは血が滴り、一本の糸となって口元が赤く染まる。 「無理して、喋らないで、今、止血するからね。えっと、あれ、どうすれば血って、あれっ?」 ユンファは半泣きのまま、必死にグンファの腹を抑えるが、手の平に血液が溜まるだけで一向に血の流出が収まらない。 グンファはそれを、やさしく払いのける。 「……まあ見ろよ、この人参を! フフ……やったぜ、俺はついにやったんだ! どんな……もんだってんだ。幻の人参を……手に入れてやったぞ!」 ……違う。そんな人参、本当はないんだ。嘘っぱちだ。 「ユンファ、やったな! これで……お前は自由に歩けるんだ! 良かった、本当に良かったなぁ。お前の体が治ったら何をしようか……。また一緒に仕事ができるな! はは……ガンガン稼ぐぞ……そうして金を貯めて……都護府なんか目じゃないくらいの……りっぱなお屋敷に住もうな」 ……僕の足は……もう治らないよ。兄さんは無駄骨を折っただけだ。 「それから、美味しいチゲを一緒に食べよう。医学書を買いに行こう。……夢が、広がるな……。そういえば……、今日はお前の誕生日だったな……かんざしなんかより、……もっと素晴らしい……俺からのプレゼントだ。 誕生日おめでとうユンファ」 ダメだ言えないっ! 「ありがどおっ! 見て兄ざんっ! すごい美味しい! 美味しい! 美味しいっ! あっ! ああっ! すごいや! ……あしがッ……こんなにも軽いよ……。ねぇ、兄さん! こんなにもッ」 こんなにも、こんなにも兄さんが好きだ。兄さんが生きて、幸せな人生を歩んでくれることこそが僕の希望なのに。 神様、どうかお願い、兄さんを助けて……。 ふと、視界の片隅に、猟師の残した短刀が映った。 猟師との会話が、ぎゅるぎゅると頭を巡る。 人間のキモだ…… 本当に救いたいと思うことが…… こいつでザクーッといっちまえ。 捌くときにコツがいるんだ。 肋骨に平行に、ゆっくりと…… 大丈夫、僕ならやれる。なんたって僕は医者の卵だからね。 「お頭! どうして……なにもそこまでしなくてもいいじゃないですか」 洞窟を後にし、再び山道を歩き続けながら、細身の男は不服を隠し切れないといった面持ちで、髭面に申し立てた。 「ああ? ガキへの態度がそんなに不満か」 髭面はうっとうしそうに答える。 「違いますよ! なにも……なにもあんなに高価な短刀をくれてやらなくてもいいのに、と言ってるんですよ、僕は」 国内屈指の名刀が、どうやら彼は惜しいようだ。 「ふん、あのガキの病、ありゃあただの脚気だ。食うもん食って栄養つけりゃあすぐに良くなる。あの短刀売っぱらえば、いくら食いもん買ってもたーんとおつりがくらあ。人間どんな不憫な状況にいてもなぁ、きっかけさえありゃあ変わるもんさ。俺はそのきっかけをくれてやったに過ぎねぇ。あいつならうまくやる。兄貴も一緒に。きっとな」 髭面はそう言って、男らしい、豪快な笑顔を見せた。 「もう……それにしても、短刀を渡す口実のためにあんな嘘までついて……照れ隠しも度が過ぎます! あなたは王室直属の猟師なんですからね! もう少し自覚を持って行動してもらわないと!」 眼帯の女性がすかさず横から突っ込みを入れる。 「う、うるせぇやい!」 「フフ……でもお頭のそういう所、好きですよ私」 いたずらな笑みを前に、思わず頬を赤らめる髭面。それを見て、楽しそうに笑う二人。 冬目前の雪岳山は閑散としていたが、彼らの周りは枯れ木も山の賑わい、終始暖かな陽気に包まれていたのであった。 後日、山を訪れた髭面一行は、二人の亡骸を目にすることとなる。しかしその様子はどう見ても、仲の良い兄弟が幸せそうに、昼寝をしているようにしか見えなかったという。 「こらあなた、またさぼりですか?」 開城市の郊外にあるのどかな雰囲気の農場に、人参農家を営む一人の男性の姿があった。 猟師を引退した、髭面である。 「違うさ、昼寝をしていたんだ。昼寝を怠ると体のパフォーマンスが低下して、こう……いろいろあって死に至るからね」 髭面は、嫁に上から凝視されても構わず寝転がり続けていたが、片目しか光がなくてなお、鋭すぎる眼光に恐れをなしたのか、素早く起き上がり、直立不動の構えをとる。 「……まったくもう。今日は新しい品種の人参を収穫する日でしょ。あなたが、待ちに待っていたことじゃない、もう忘れちゃったの?」 髭面の妻は呆れた様子でやれやれと手を広げた。 「いや、忘れちゃいないさ。俺の目標は、いつも明快。劇的でなく、少しの効果があればいい、何の対価の代償もいらず、国民誰一人犠牲にならずに、すべての人間が食べることのできる、そんな薬用人参を作ることだ。ついに世に広めれる時が来たな」 「……ええ、本当に」 二人は、静かに大空を見上げ、快い感慨に浸る。何も入る余地のない二人だけの空間がそこにはあった。 「名前は何にしようか」 「そうねえ、国民全員のための人参だもの、国の名前をとって、朝鮮人参、なんてどうかしら?」 「……ハハッ、そりゃあ傑作だ」 二人は顔を見合わせて笑いあった。 福寿草が花開いた。福寿草の花は、雪岳山に春の訪れを告げる伝令士だ。柔らかな春の日差しを全身で受け、嬉しそうに踊りだす。すると雪岳山は冬の間のそっけなさが嘘だったかのように、満開の花束と共に陽気な春のひと時を演出するのだ。今年も、この季節がやってきた。 ふと、軽やかな春風に乗って少年の叫び声が聞こえたような気がした。 慌てて振り返ったが、そこには春に酔いしれたばかりの雪岳山が、笑みを浮かべるばかりであった。 |
またたび
2017年05月23日(火) 14時22分02秒 公開 ■この作品の著作権はまたたびさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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