花雨 |
「 坂道を半ばまで上ってきた頃、俺は頭上より降ってきた声に足を止めた。 「どこまで行かれていたのですか」 白木の下駄に、鶯の色無地。細い首に乗っかる顔は、下手な役者ならば裸足で逃げ出すほど整っている。左手で差しているのは赤い蛇の目。 「 呆れと少々の怒りを孕んだ声で、その男・御園は言った。 午後から降り出した雨が、俺の肩と御園の傘を叩いていた。 「亞砂希」 「……シベリア」 「ああ、『 俺が白い風呂敷包みを突き出すと、御園は包みの柄から容易に俺の行き先を突き止めた。三丁目の角にある老舗の菓子屋を俺が贔屓にしていることを、我が家の使用人はちゃんと知っている。 「仰っていただければ、御園が買いにゆきましたのに」 「……道明寺」 「一度に二品も買われたのですか、 傘を差し掛け、懐から取り出したハンケチで俺の顔を拭いながら、溜め息をつく御園。 「体を冷やして……まったく、我が主は子供ですか」 「二十七は子供に入ると思うか」 「いいえ」 即答する御園へ「もういい」とハンケチを下げさせて、俺は「砂月は」と訊いた。 「ええ、亞砂希を心配しておられます」使用人ながら、幼馴染みでもある御園には、未だ「亞砂希」と呼ばせている。 「具合は」 「あまり芳しくないようです。特にこの頃は」 砂月とは、俺の娘の名である。年の割にませた子で、今年で五つになる。が、母譲りのひどく病弱な身故に、家の外に出ることもままならないでいる。 俺が歩き出すと、御園は半歩遅れについてきた。いつの頃からか、御園は俺の半歩後ろを歩くようになった。使用人らしく遠慮しているのだろうが、俺としてはそれが気に食わない。 「おい」 声をかけ、横に並ばせる。反射的に身を引こうとする御園を掴まえて、 「下がるな、話しにくい」 「しかし」 「うるさい」煩わしかったので、空いている右手を強引に握ってやった。 「あ、亞砂希」御園の語尾が上擦る。 「何を」 「お前が悪い」 「な、いえ、何……」 驚いて口を動かす様は酸欠の魚のようだった。いい気味だ。 「あ、あの、亞砂希。こういうのは普通……」 慌てる御園を無視して、俺は坂道を途中で折れ、脇道へ入った。ぎりぎり傘の縁が擦れないほどしか道幅がないが、こちらからのが家まで近い。 さっさと歩いてもよかったが、そうすると御園が、俺を濡らすまいと傘を傾けてくる。つまり俺の代わりに御園が濡れるのだ。俺はそれも嫌いだった。 だから、できるだけ御園にくっつくようにして(この優男は、ある程度以上自分から主人に寄るのがどうも苦手らしい)、歩いた。 「あの……亞砂希……」 にしても今日は、ずいぶん諦めが悪い。普段ならここらで、居心地悪そうにではあるが大人しくついてくるようになるのだが。 路地の先は分かれ道で、我が家は左手の方にある。線路へ向かう右とは異なり、河原に近い左の道脇には桜が植わっており、奇しくも現在、満開であった。 雨は相変わらず。水を吸った淡い花弁が重たげに、一片、一片、と落ちていく。 「なんだか、勿体ないですね」 「……『春雨は、いたくな降りそ、桜花、いまだ見なくに、散らまく惜しも』、か」 ぼんやり歌を口ずさむ、これは何の歌だったろう。 ――『いまだ見なくに』、 ――また今年も、駄目なのかしら。 誰が教えてくれたのかは、鮮明に思い出せる。砂月が生まれる前の春、雨の頃。 出歩けなくとも、せめて花くらいは、と枝を折った。 あいつがまだ生きていた頃。 「亞砂希」 呼ばれて我に返った。御園の方を見ると、妙にセンチメンタルな顔色をしていた。 「……すまん」 「奥様のことですか」御園が問うた。かなりつっけんどんな口調だった。 「まあな。……もう五年経つか」 「……哀しい、ですか」 「もう流石に」 哀しみはとうに過ぎた。残っているのは、『愛していた』記憶と『愛されていた』感触だけだ。 「……でも、忘れられてはいないのですよね」 「………………ああ」 忘れられやしない。忘れようがない。 桜の枝を枕元に持って行った時のあいつの笑顔は、未だ瞼の裏に焼きついている。どんな雨も、あれを洗い流せはしまい。 「……『冬こもり』、……」 御園が何やら呟いた。と思うと、近くの桜から手頃な一枝を折って、俺の前に立った。 御園の方がわずかに背が高いので、自然見上げる形になる。 「『春咲く花を手折り持ち、千たびの限り、恋ひわたるかも』」 囁くように歌を詠み、 薄い唇を花に寄せ、 「御園は、赦しようのない男です」 ――繋いでいた俺の手に、そっと枝を握らせた。 「さあ、帰りましょう。砂月様がお待ちです」 言うが早いか、歩き出す。 今度は御園が俺の手をとって、喋る間もなく連れて行く。 「帰ったら風呂を沸かしますので亞砂希、風邪を引かないうちに入ってください。恐らく夕餉まで間があるでしょうから、道明寺を茶と一緒に用意しておきます。シベリアは小さく切って砂月様に、でよろしいですか」 「あ、ああ……」 矢継ぎ早の問いかけに頷く傍ら、御園を見やった。少し、目が潤んでいるように見えた。 ――『春咲く花を』 ――『千たびの限り、恋ひわたるかも』 ああ、そういえば。 去年の春も一昨年の春も、床の間には桜が飾られていた。 あれは誰が、どこからもらってきたものだったのだろう。 「『亞砂希』」 花の雨は、しばらくやみそうにない。 |
時雨ノ宮 蜉蝣丸
2016年04月09日(土) 05時47分12秒 公開 ■この作品の著作権は時雨ノ宮 蜉蝣丸さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.7 時雨ノ宮 蜉蝣丸 評価:--点 ■2016-04-25 01:06 ID:eFOY3cHRZZU | |||||
青空 様 コメント感謝致します。こんばんは。 春になると、抹茶と甘いお菓子が恋しくなりますね。春でなくても桜餅は美味い。 二人の、片方は親友として、もう片方は少し違う関係としての感情を、加熱しすぎない色合いで書いてみました。短歌は解説も載せようかと思ったのですが、読み手様に調べて悶々考えていただきたかったのでやめました(サボりではない)。上手いこと歌がフィットしてよかったです。 桜の枝を置いたのは、はてさて。歌の意味から、なんとなく察してくだされば……(サボりではない二回目)。 ところで『柿食へば』の句は、松尾芭蕉でなく正岡子規では? 種田山頭火も最後『藪の中』でなく『青い山』じゃなかったかしら。 子規の句の中では個人的に『痰一斗ヘチマの水も間に合わず』が好きです。あと宮沢賢治先生の詩や小説が大好きです。 ありがとうございました。 |
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No.6 青空 評価:50点 ■2016-04-24 04:29 ID:HKNVg/ZgRqk | |||||
(==トンッ、トンッ、ガラガラ、おはようございます〜 シベリアと道明寺が抹茶と食べたいと思いました(冒涜かいっ、作者にあやまれ!)m(−−;)mすみませんでした。 内容は、返らぬ奥様を懐古している主人とそれを見守る御園。二人の関係性と春の桜と雨。満ち足りぬ気持ち、満たせぬ気持ち、桜の枝を置いた人の優しさがいいと思いました。あと、和歌が効果的でした。 ちなみに、おいらの好きな句は、松尾芭蕉の 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 と、山頭火だったと思いますが、 分け入っても分け入っても藪の中 中村 草田男の 万緑の中や吾子の歯生えそむる が、大変お気に入りです。 |
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No.5 時雨ノ宮 蜉蝣丸 評価:0点 ■2016-04-14 18:52 ID:OLF2p1hprzk | |||||
こむ 様 コメント感謝致します。 しっとりを目指して書いたので、そのとおりになってよかったです。「可愛い」、嬉しいです。 一応は、そっち系小説に分類されるのでしょうが、あまりそのこと自体が重要というわけではないです。雰囲気を楽しむ方向です。 ありがとうございました。 |
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No.4 こむ 評価:40点 ■2016-04-13 09:41 ID:/dxzQ0Wmf36 | |||||
しっとりしてますね。微妙な心の変化がうまく捉えられているなと思いました。 一回読んで、あーかわいいって思ったんですが、あれ、両方男だったような?とかなって、も一回読みました。おもしろい。 ありがとうございました。 |
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No.3 昼野陽平 評価:0点 ■2016-04-11 17:15 ID:uQhiKmCHatg | |||||
コメントされてたのですね。 大変失礼しました。 |
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No.2 時雨ノ宮 蜉蝣丸 評価:0点 ■2016-04-11 14:56 ID:dnM2fE55frs | |||||
昼野様 ありがとうございます。 一週間ルール及び利用規約についてはきちんと把握しており、すでにコメントもしております。 お互い楽しく、サイト利用していきましょう。 |
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No.1 昼野陽平 評価:0点 ■2016-04-10 21:24 ID:uQhiKmCHatg | |||||
すみません感想ではありません。 このサイトの利用規約を読まれたでしょうか? 一作投稿するのに最低一つは感想をつけましょうみたいなルールがあります。 詳しくは利用規約を読んでください。 お互いにルールを守って楽しく利用していければと思います。 |
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総レス数 7 合計 90点 |
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