Tears Rains
「ねぇ、僕の話。聞いてくれる?」
 アリスが口を切った時、窓の外は氷雨が降っていた。すでに空は白んできていて、俺達がどれだけの時間、こうしていたのかを物語っていた。
「僕の、つまんなくて、意味のわかんない話」
 華奢な体を、気怠げにソファに投げ出して、アリスが言った。俺は脱ぎ捨ててあったシャツを羽織り、一本だけ残っていた煙草に火を点けながら「何それ」と問うた。
「たとえば、なんで僕がこうなっちゃったのかとか」
「今さら興味ないな」
「どうして」
「今さらだからだ」
 備え付けの小さな冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、渡す。ついでに床に落ちていた毛布をかけてやると、小さな「ありがとう」が聞こえた。
 細い体躯。淡い肌。柔らかくウェーブした金色の髪。
 長い睫毛。サファイアの眼。薔薇色の唇。
「冗談みたい?」
「いや。……凄く綺麗だ」
「冗談みたい」
「本当さ」
 ソファの縁に腰掛ける、近所のアンティークショップで一目惚れしたお気に入りのそれは、数ヶ月前からアリス専用の寝床と化していた。寝るならベッドを使えと何度も言ったが、アリスは聞き入れなかった。
 ――自分には、これくらいの居場所がちょうどいいのだと。
「悪いな、冷たいのしかなくて」
「いいのよ」
 缶のトップを開ける音がして、アリスは小鳥のような慎重さでコーヒーを飲んだ。じっと眺めていたら、横目で「なあに」と笑われた。
「人がコーヒー飲むのが、そんなに珍しい?」
「……お前」
 すっと手を伸ばし、缶を握る左手をとる――アリスが身をよじる前に、俺はそれを、窓の白さに晒した。
 握るだけで折れてしまいそうな手首に走る、奇妙に赤茶けた幾つもの線。アリスが自分でつけたものであることは、考えずともわかっていた。昨夜は言わないでやった。が、夜が明けた今は別だ。
「また増やしたな」
 強い口調で問うと、アリスは歪な顔で「だから?」
「なんなの」
「いったい、いつになったらやめるんだ」
「さあね」
「この間、二度としないって言ってたろ」
「覚えてないわ」
 いつもの流れだった。この間も、その前も、毎度毎度この調子で、結果的に逃げられてきた。
「どうしてこんなことを」
「死んでないんだから許して」
「バカ。死ぬ死なないの問題じゃない」
 二呼吸ほど睨み合い、アリスが「痛い」と呟いたことでそれは終わった。知らず手に力が入っていたようだ。反射的に謝り、手を離すと、背中を向けられてしまった。
「……ずいぶん軽い謝罪ね」
「お前が悪い」
「違うわ」
「違わない」
「じゃあどうすればよかったの」
 ささくれ立った不機嫌な声が、毛布の内から上がった。俺が応える間もなく、アリスは次々言葉を吐き出していった。
「どうすればよかったの? 貴方と違って、僕には誰もいないの。何の解決策もない。ずっと独りぽっちで、狭い部屋に引きこもってるしかないのよ。なのに。何をどうしろって? みんな同じことを、それこそバカみたいに。これは僕の体じゃないの? なら、僕が好きにしたっていいじゃない。誰かが傷つくでもなし。……楽になれるの。忘れられるのよ。これで楽になれるなら安いでしょう?」
 肩を掴もうとしたが、するりと逃げられてしまった。剥き出しになった白い背には、昨夜俺がつけた唇の跡の他に、赤黒く変色しきった切り傷やケロイドが、数えきれないほど浮き上がっていた。
 この傷も――誰の手によるものなのか、俺は知っている。
 いつからなのか、なぜなのかも含めて、全部。
「…………」
「わかってるなら、やめろなんて言わないで。できないんだから」

 アリスがこの世に生まれ落ちてから、周りの人間から拒まれなかった時間はほんのわずかだった。
 ――『なぜ』『どうして』
 周りと違うことを責められず、将来を期待されていた期間は、世間と比べてあまりに短いものだった。
「アリス」
「……っ」
 後ろからそっと抱きしめると、華奢な肩がビクリと震えた。
「悪かった」
「…………」
「わかってるはずなのに、なんで言っちまうんだろうな」
「……知らない」
「お前が大事すぎて、他が見えなくなってるのかな」
「…………知らない」
「大事なお前が傷ついて、傷つけた奴らが心底許せなくて、何もできない自分が憎らしくて、その間にお前が、今度は自分で自分を傷つけて……」
「……うるさい……」
「悔しいよ。……お前を救ってやれないことが。傷を舐めてやるしかできないことが、死にたくなるくらい悔しくてたまらない」
「……っ、……」
 腕の中で、アリスが泣き出したのがわかった。声を噛み殺すように、嗚咽していた。

 まるで少し前の自分みたいだ、と思った。
「悪かった……俺とお前は」
「……ばか」
 少し前の、死にたくて死にたくて、大嫌いな自分なんて愛されなくて当然だって、毎日自傷していた頃の自分を見ているようだった。
「俺達は、同じだから」
「…………」

 白んだ窓硝子に映る、二人。
 金髪の、少女のように美しい少年と、
 を抱きしめる、黒髪長身痩駆の女。
 俺達はきっと、どこかに何かを置いてきてしまったのだと。
「お前の空白は、俺が埋めるから」
「…………不器用な人。僕なんかのために」
 ――『僕』じゃないだろ、と。
「そうね」
 アリスの声がした。

「貴方の空白は、が埋めるから」
 どこにも置いていかないように。
 祈るように口づけた頬は、微かに涙の味がした。


時雨ノ宮 蜉蝣丸
2016年02月23日(火) 01時16分13秒 公開
■この作品の著作権は時雨ノ宮 蜉蝣丸さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
以前に深夜テンションで書いたものなので、細かいところは粗いままです。何だかんだ、ありきたりな着地になってしまいました。

稚拙な文ですが、読んでくださった方に深く感謝致します。

この作品の感想をお寄せください。
No.3  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2016-04-06 06:12  ID:UjMUhW54p3M
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昼野陽平 様

コメント感謝致します。なんだかお久しぶりですね。
切ない雰囲気になるよう、わざといろいろ削いでみたのですが、削ぎすぎたっぽいですね。。。否定するまでもなく、力不足。
もう少し、短編でも深く潜っていけるように精進していきたいです。

ありがとうございました。



こむ 様

コメント感謝致します。初めまして、でしょうか。
着地が上手くいって、よかったです。あまり掘り下げて雰囲気が壊れるのが嫌だったので、ここらで止めてしまいました。

次からもうちょっと頑張ります。ありがとうございました。
No.2  昼野陽平  評価:30点  ■2016-04-05 17:23  ID:uQhiKmCHatg
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読ませていただきました。
なんか読んでて切ない気分になりました。
ただ正直、ありきたりかなと思います。着地というか人物造形やシチュエーションも含めて。
でも描写の密度を濃くしてもっと雰囲気など出すといいかなと思います。
No.1  こむ  評価:30点  ■2016-04-05 13:36  ID:g3emUcYnoi6
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綺麗に着地したと思いました。ただもっと掘り下げてほしい部分があるなとも思いました。
総レス数 3  合計 60

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