お母さんといっしょ
 曇天に覆われ、今にも雨が降り出そうとしていた。そんな日はじめじめとまとわりつくような陰々さで、継ぎはぎだらけのアパートをよりもの寂しくさせた。アパートの窓越しから少女は不安気に空を仰ぐ。そして祈るように手を組む。どうか、雨が降りませんようにと。何度も何度も溢れんばかりの悲しみを堪えながら。
 なぜなら、少女は今日、母とともに食事に行く約束をしている。天気予報では雨と言っていた。だが、根拠のない不確かな希望を胸に、儚い期待をせずにはいられない。彼女の母は一日のほとんどの時間を仕事に費やし、朝に帰るとそそくさと寝間着に着替え夜頃まで寝てしまうため、娘である少女にとって二人きりでいられる時間は代えがたいものであった。
「無理そうね、この空模様じゃ」
 鈍い輝きによりきな臭いながらも甘ったるい、そんな夜の香りが漂う。
 背後からの声の主に嬉々として少女は振り向くが、言葉の意味を理解すると表情は曇る。母は寝起きだったため、気怠そうに少女の隣に立つ。
 改めて空を見ると、ため込んだ雨水を吐き出すように灰色の雲は雨を降らす。窓から映る景色は徐々に霞んでいく。ビルが、木が容赦のない雨粒にうたれる。
「だめなの? お母さん」
 縋り付くように少女は母に呼びかける。彼女は聞かずにはいられなかった。
「あんたの行きたいところ結構遠いでしょ? うちには車がないからね。お昼はうちで食べよ、ね」
 母は困った顔を作って娘を見つめると、一つため息をつく。そして、何事もなかったように髪をなでながら踵を返す。
 母は冷蔵庫を開け、中を確認すると台所に立った。少女には狭い部屋のはずが、窓際から台所までの距離が途方もなく遠くのように感じられた。目頭が熱くなっていることに気が付く。目を力強くつぶり、漏れ出そうとする感情を必死で塞き止めようとする。だが、一筋の涙が零れた。肌を伝う水滴はあっという間に、ぽつんと床の上に落ちた。重力に従って、すとんと。
 少女は我慢しようと歯を食いしばるが、嗚咽が漏れてしまう。すると、せきを切ったように涙が眼から流れ出した。止めようと思うたびに、抵抗するかのように涙は出てきてしまう。
 娘の啜り泣きを耳にした母は包丁を握る手に力を込め、長ネギに向かって振り下ろす。手から力が抜けていく。それから目を閉じて深呼吸をした。
「泣いちゃダメよ、幸せが逃げちゃうって、いつも言っているでしょ」
 首をひねり、娘を見やる母親は諭すように言った。可能な限りやさしい声で、口角を上げながら。目と目が合う。少女は安心したのか落ち着き始める。穢れのない、透き通るような両の目が向けられると、母はすぐ様に視線を少女の小さな鼻に移した。このまま少女と目を合わせていると自身の心の内が見透かされるような気がしてならなかったのだ。
「ごめんさない。もう泣かないね」
「そうね、それがいいわ。いい子」
 再び母は包丁を握り、長ネギをざくざくと切り刻み始めた。
 冷静になると少女は腹の虫が空腹を訴えていることに気が付き、テーブルに体を預け、昼食は何が並ぶかとあれこれと想像する。浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
 ぼんやりとテレビを眺める。ニュース番組が放送されていたが、少女はその内容を全く記憶に止めていない。それよりも母の手料理が楽しみで仕方がなかった。母も手際よく作業を進める。

――――本日未明、M市に住む主婦が自宅で殺害されました。腹部を数か所刺傷があり、発見したのは娘のAちゃんで、金品が無くなっていることから、警察では金品目的の犯行として捜査を開始しました……。



 蝉のけたたましい鳴き声が響き渡る。
 小学校は夏休みに入り、日に日に暑さが増していく中、少女はぼんやりと寝転んでいた。自分とほとんど大きさの変わらないウサギの人形に抱き着きながら。
 冷房機のひとつも取り付けられていない室内は彼女の活力を根こそぎ奪っていく。惰性で少女は人形をもてあそぶ。時たま、開け放った窓から吹く風が顔を撫でると気分が凪いだ。
 彼女は母が起きるのを待ちわびていた。学校が休みの今、少女は常に眠っている母の姿を目にしている。普段ならば学校から帰ったのちのわずかな間の光景だが、現在は数時間と長い時間を母の寝顔を傍から見る。彼女には数時間では飽き足らず、何日も経っているように感じられた。ふと、母の均整のとれた顔立ちに気が付く。きれいな顔と、少女は微笑む。だが、時折見せる苦悶の表情には胸に突き刺さるものがあった。
 少女はなにも友人がいないのでも、外に出ることが嫌いなのでもない。母が仕事に行ってしまう前に少しでも話して、ふれあって、優しく笑いかけて欲しかっただけなのだ。陽射しが傾き、陽光が少女に当たる。熱が体を包むと、少女は疲労していく。眼前の景色がぼんやりとすると、頭の中が真っ白になっていった。

 夕日のほんのりとしたオレンジ色は、辺りの暗さをよりいっそ際立たる。黒々しい影は何もかも飲み込んでいく。
 僅かながら気温が下がった時、少女は不意に目を覚ますと体を纏う熱が幾分と緩和され、過ごしやすくなったことを実感する。ただ、一つの変化に心づく。目の前で眠っていた母の姿がないことに。
 きょろきょろと周囲を見渡す。焦燥に駆られながら人形がそこに在ることを確かめるように密着させる。
玄関から人の気配を感じ取り振り向くと、そこには夜の香りを漂わせた母が立っていた。
「……目が覚めたの。お母さん今から仕事に行ってくるから。もし、お腹がすいたら冷凍庫の中にあるもの食べるのよ」
「うん、わかった。お仕事、がんばってね」
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
 母はヒールの高い靴を見事に履きこなし、品のある白のワンピースを身に着け優雅に消えていく。階段を下る足取りは軽く、こつん、こつんとリズムよく金属音を鳴らす。
 少女は以前、母にどんな仕事をしているのかと、聞いたことがあった。母親は娘を抱きかかえながら軟らかなほほを撫で困ったように、きれいなドレスを着て微笑むお仕事だと、答える。きれいなドレスという言葉に少女は目を輝かせる。少女はおひめさまだ! おひめさまだ! と、表情をほころばせた。すると、母も笑い返してきた。
 閉じていくドアの隙間から外の様子を覗くと、蝉が一匹、地べたを這いつくばっていた。羽を痛めたらしい蝉は羽を震わせ、激しく動かすと円を描くようにまわり続ける。背筋に悪寒が走る。嫌悪を覚え、見るに堪えなくなった少女は目をそむけた。
 糸が切れたように少女は崩れ、床に座り込む。ぺたんと、か弱い音が床に伝わる。

 それから数日がたったある日。夕食を済ませた少女は食器を洗い、風呂に入り、寝間着に着替え、歯を磨き、洗濯物を畳み寝床に入る。いつもと同様に母を心配させまいと奮闘した後、満足げに布団の上で丸くなる。うだるような暑さすら感じさせず、心地よさそうに眠りに就こうとする。
 突如、ぎぃぎぃと、ぎこちなく扉が開く。背を向けている少女には、いったい誰が入ってきたのか視認することができない。振り向けばいい、それだけで済むことにも関わらず石のようにびくともしない。動悸がする。体が震える。この焦りを、恐怖を外界へ出してしまいたい気持ちに駆られるが、声が出ない。
 背後の人物はのっそりとした動作で靴を脱ぐ。漏れ出すは少女の吐息のみ。胸の中を暗い海が氾濫し、息が詰まる。吐息と一緒に口から吐き出すも胸の中いっぱいに潮は満ちてしまう。濁流のように荒ぶり、このまま呼吸ができず、溺れ死んでしまうのでないかと、彼女は思った。
「……電、気つけて」
 聞き覚えのある声が耳に響く。細々として消え入りそうな声だった。
 安心した少女は素早く立ち上がり、蛍光灯からぶら下がる紐を引っ張り、
「びっくりした、こわいことしないでよ、お母さん」
 涙目になりながらそう言った。
 光はうつ伏せている母に影を作っているため、顔つきは確認できない。点滅を終え、明るくなった室内を母親は歩く。おぼつかない足取りで。
 少女は時計を見る。日付はまだ変わっていない。こんなにも早く母が帰ってくることは一度もなかったため、意図を読み取ることができない彼女は返答を待つ。
「……」
 沈黙を続ける母を見つめていると、少女は母の変化を察する。夜の香りがしないのだ。あれほど強く、深く染みついていた香りが全く嗅ぎ取ることができない。少女には彼女の香りはどこへ行ってしまったのか見当もつかない。
「早いんだったら、ねないで待ってたのに」
 耐え難い緊迫感に痺れを切らした少女は語りかける。異変に感づきながらも平静を装う。
 目の前の母はゆっくりと顔を上げると、穏やかな表情をしていた。困惑する娘を気にも留めず、流暢にしゃべりだす。
「私はね、今から天国に行くことにしたの。素敵でしょ」
「てん……ごく?」
「そう、ずっと迷っていたのよ。ここにいるべきか、天国に行くべきかね。でも、もう私は生きている必要がないの」
「てんごくって何」
 開口一番で突飛なことを言い出す母に少女は素直な疑問を投げかける。
「天国っていうのはね、幸せに満ち満ちた楽しいところよ。怖いことも、寂しいことも、心が飢えることもないわ」
 母は笑う。少女には母がぼやけて見えたが、瞬きをすると相変わらず上機嫌の母が鮮明に映る。
「使い果たしてしまったものを求めても無駄なの、無くしてしまったらそれでお終い。取り繕って継ぎはぎだらけなんて言語道断、再び手に入るものなんて大した事ないに決まっているわ」
「すごいね……」
 少女には母の言っていることを全く理解することはできなかったが、それ以上に愉快な母親を嬉しく思った。だが、母の影が薄くなり、おぼろげで不気味だった。
「お母さんがしあわせならわたしもしあわせだよ。本当だ、すてきだね」
「分かってくれた? 良い所でしょ天国」
「でも、どうやって行くの?」
「魔法の粉を使うのよ」
 そう言って、ショルダーバックから小さく折りたたまれた薬包紙を取り出す。左右に揺らし娘の興味をそそる。かさかさと、中身を何度も何度もゆする。瞳を閉じ、満足げに頷く。
「それをどうするの?」
「中の粉を飲み込むの。ただ、それだけ」
「それだけ」
 少女は抑揚のない声で繰り返す。そして迷いながらも続ける。
「わたしもてんごくに行ってみたい」
「駄目よ」
 母は隙のない毅然たる態度ではねつける。強い口調だった。少女はびくっと、震える。
「……どう……して」
「あんたはね、まだ若いの。これから生きていると、それはたくさんの出来事に出合うわ。楽しいことにも、辛いけれど悲しいことにも」
 捲し立てていく母に、少女は気後れする。
「うん」
「そういうことを体験してからじゃないとね、天国は行っちゃ駄目なの。十分に良さが味わえないのよ」
「ごめんなさいお母さん」
 軽率だったと反省の色を見せる少女。だが、こんなにも朗らかな母を見たのは久方ぶりであったため、内心では幸福感に包まれていた。それからしばらくはたわいもない会話を繰り返した。
 夜風が吹いた。重苦しく、生暖かい。不意に香る母からの匂いは、無機質でそっけないものだった。それが合図だったかのように母は薬を口に流し込み、コップの水を飲み干す。ごくっごくっと、喉仏を上下させる。
 ふらふらと布団に倒れ込むと、伸びをする。伸ばし切ると気持ちよさそうに脱力する。
 砂が風に身を委ね、彼方へ舞うように自信の存在がかすかに途切れていく。ようやく終わると、涼しい面もちで、母は娘を捕えた。
 少女は母の目を覗き見るが、全く芯をつかむことはできず、空を切る。何もかも飲み込み、重く乗りかかる泥で何処までも沈んでゆく底がない虚無の沼であった。依然、母は見つめ続ける。そのまま自他ともども飲み込んでしまうかのように。
 母は天井へ向かって語りかけるように独りごちる。はじまりから終わりの軌跡を懐かしみ。
 その追憶は一言たりとも少女の耳には届くことはなかった……。

 母は手や足を痙攣させ始める。伸ばし広げられ、ひきつるように小刻みに動いた。少女は母に触れようとするが、異様な光景に後ずさりする。
「おっ……お母さん、だいじょうぶ? お母さん!」
 先ほどまで少なくとも身体的異常の見られなかった母の変化に、どのように対応すればいいのか分からない少女は、必至で声をかけ続ける。だが、返答はなく、体をびくつかせるだけだった。それから弓なりに反ると、最後には笑ったような顔をなる。
 茫然と見守ることしかできなかった少女は、魔法の薬のことを思い出す。飲むと天国に行くことができると母が言っていた薬。そして、薬を飲んだ母がこれから天国に行ってしまうと思った少女は、喉を震わす。
「てんごくにいっちゃうの?」
 蛍光灯に照らされる母は、苦悶に満ちた雰囲気を醸し出しながらも笑う。皮膚は柔軟に動き、体温を放ち、確かに脈を打ち、息をしている。そこにある存在感は現実のもの他ならなかった。だがそれもじきに緩慢になり、終わってしまう。少女は、母が遠く離れた場所に行ってしまうと予感し、経験のない恐怖を覚えた。
「があぁ、あぁ……あぁ」
 母は羽虫のような声を絞り出す。
「わたしも、わたしも連れて行ってよ。もっと、いい子になるから!」
 目元に涙がたまり、視界が歪んでいるため、少女は自分が泣いていることに気が付いた。母との約束が脳裏をよぎるが、感情の歯止めがきかない。
 小刻みに震えていた母が忽然と動きを止める。少女は時間が止まってしまったかと錯覚した。自分が泣いていることなど忘れ、目の前起こった出来事を反芻する。
 少女は動かなくなった母を上から見下ろすと、終始浮かべていた笑顔を張り付けたままであった。



 私の終わりの時は近いらしい。そう思うと、吐き出してしまいたいことが源泉のように湧き出てくる。なので、しばしの間、私の独白に付き合ってほしい。

 私には娘がいる。変哲もない一人の少女。それなりの愛嬌と無垢な心は人を惹きつけているだろう。きっと、成長して女になった時、娘は、可憐な容姿でそれはそれは見栄えするだろう。私から産まれたのだから。魅力的であって当然だ。だが、私は娘のことを何よりも畏怖した。
 私が十代の頃のことだ。日常は強固であり、その風景が模様替えされることはない、そう思っていた。だが、不意に母から輝きが失われる。茶色く変色して朽ちてしまったのだ。濁った眼は卑しく光り、艶を失った土気色の肌は荒れ果て、骨ばった腕は、生気を失ったかのように力なく垂れ、かつての美貌はすべて削げ落ちてしまった。しかも、性格まで横暴で雑になり、醜くなってしまった。
 対して私は、原石を磨いたかのように輝き始め、純白の花を咲かせる。澄んだ瞳は眩く光り、艶やかな肌は潤い、華奢ながら健康的な腕、垢抜け一点の曇りもない。元から育ちの良かった私は容貌も手伝い、さらにしとやかで優雅になる。あっさりと模様替えされてしまった。
 このように、私は母と入れ替わるように美しくなった。青天(せいてん)の霹靂(へきれき)だ。周囲の見る目も次第に変わり始め、私を讃え奉る。崇め、捧げてくる。私は自身の価値を実感する。皆を照らす輝きになったこと、それは誇りだった。
 時が経ち、逃げるように実家を出る。母が恐ろしくて堪らなかったのだ。彼女とともにいることで腐ってしまうのではないかと。
 私はより輝きを得るために彷徨った。そして、鈍く輝く場所を見つけた。そこはきな臭いながらも甘い、夜の香りで私を揺さぶる。光も闇も入り乱れ、共存する不可思議な空間だった。
 相対的な二つの存在は互いを高めあい、純度を増す。ああ、穢れ無き美しさ。半端な腐臭など簡単に撥ね除けてしまう。それが、私が求めていた輝きなのだと信じ込んだ。
 その証拠に私は万人を魅了する。そして彼らは尽くす。ある者はダイヤが施された指輪を、またある者は仔牛の革を使用した財布を差し出してきた。それらは部屋のとある場所に山ほど蓄えてある。娘はこの宝の数々のことなんて、知る由もないだろう。
 娘は私がいなければ生きていけない。それに気付いた私は戦慄を覚えた。つまり、私の輝きは娘のための養分として消費されているのだと気づいてしまった。まだ娘は女として未熟だが時折、片鱗を示す。
 懐が温かいにも関わらず、あんな人もほとんど寄り付かないおんぼろアパートに住み続けていたのは、私のせめてもの抵抗だった。あそこに住んでいるような人間は、多かれ少なかれ裏に問題を抱えているようだし、周りに興味がないのだ。そのおかげで、娘から距離を置くことができる。一時しのぎにしかならないことは自覚していた。
 完全に娘が女として目覚めてしまえば、私はいずれ吸い尽くされ、枯渇し散っていく。母のように腐り、果ててしまうんだ。この美貌はその時期が来れば急激に衰え、輝きを失う。誇りも失ってしまう。
 私の存在は娘にとっての養分でしかないのだ。高く積み上げていたのが奪われることで意味を成すのなら、私にとって輝きに意味などない。端から自らを犠牲にし、朽ちるために生まれるだろうか。なら、そんなものすべてガラクタに過ぎない。私は私であって私ではない、もはや輝きは私のものでなく、娘のものになってしまった。
 私は死んだ。所詮、がらんどうに過ぎない。

 こんなところでそろそろ終わりにさせてもらう。では、ごきげんよう。



 レンジから取り出し、テーブルに二人前の食事を並べると、少女は母に小さな声で呼びかける。
「ごはん出来たよ」
狭い室内に彼女の囁きが染み込んでいく。仰向けの母は瞳を閉じ、起き上がる気配はなく、そこに在る。

 昨日母が足掻き、動かなくなった。直後、少女は母の腕を握ってみる。幾度かの母が透けてしまうという想像が引っかかっていたのだ。恐る恐る触れると、確かに腕は存在し、すり抜けることはなかった。見開いた両目は黒く、光を宿す。先ほどの飲み込まれてしまうような深さはそこにはもうない。少女は、母がいなくなってはいないことに安堵する。
 それからお母さんさんはおっちょこちょいなんだからと、母の開いたままの目を閉じると、夜が更けるともに少女の意識は沈んでいった。

 囁きは静寂となり部屋中に反響する。少女にとってはそれなりの余裕を持つはずの空間が迫ってくるように見えてしまう。縮み、押し潰されてしまいそうな圧迫感を覚える。
「そうだ、おなかすいてるんだ。食べよう、食べよう」
 目の前に広がる食べ物ことだけを一心に凝視すると、つい今しがたの感覚を頭の隅に追いやった。
 一人前をぺろりと食べきった少女は母を見やる。思わず母の肌に手を置くと非常に冷たい。夏の暑い日にも関わらず、氷かと間違えるほどであった。そこだけ時が止まったようで、完成されきった美貌はこれからも変わることがない気さえさせた。
 母を温めなければと押入れを開け放つと、せっせっと冬用の厚い毛布を取り出し始める。押入れの中を勝手にみることは禁止されていたが、急の事態に少女はそんなことは忘れていた。何枚か同時に持っていこうとするが体勢を崩し、ばら撒いてしまう。仕方がないので一枚ずつ持って行っては、母に向かって丁寧にかぶせていく。少女には大量の毛布をかぶせられた母は快適そうに見えた。
 夜の香りが漂う。母からはではなく、それは押入れから香っていた。これまでは母の香りで気づくことがなかったのか、香りが消えてしまった今はとても濃く漂う。
 押入れの奥には、香りの中心である高価なバックや服がひっそりと置いてあった。少女は几帳面に並べられたそれらからの香りにうっとりとする。恍惚とした表情で香りの発生源に埋もれ、沈んでいく。母から消え失せてしまったものがここにはある。心の奥にある波が静まっていく。
 香りに誘われ、部屋中のいたるところを探し出した結果、煌びやかな装飾品や靴などが山ほど見つかった。それを部屋中に振る舞うと、香りが充満していく。逃げないように空いていた窓を閉め密封した。額に汗の粒が垂れてくるのもお構いないしに。
 いつもなら仕事に出かける母であるが、昨日から目を覚まさない。少女は起こそうと思ったが、今日は仕事がないのかもしれないと考え、おやすみと、呟く。これまで見たことがないほど穏やかな顔をしていた母のことが嬉しくて仕方がなかった。あれほど退屈で終わることのないと思われた時間の流れが緩やかに感じられた。

 いくら日付が過ぎても起きる気配のない母を少女は、不審がることはなかった。むしろこれからはずっと一緒にいられると、喜ぶ。残りの夏休みをめいっぱい楽しむために母とどこへ向かうか、何をして遊ぶか、何を食べようかと想像は膨らんでいく。今か今かと、母が目を覚ますのを待った。
 天井に、布団に、壁、テーブルに、冷蔵庫やテレビにも香りは染み付いていた。きな臭くも甘い香りは少女を揺さぶる。香りによってどこまでも少女を陽気になる。どたどたと、足踏みをしながら小躍りをしたかと思えば、突然くるくると髪をなびかせながら回り始める始末だった。
「まだかな、まだかな」
 ぼろぼろのアパートは不格好で、壁紙も所々薄汚れ、部屋には熱気がこもり、死臭が漂っているはずだった。
 心をいたぶり、消耗させ、朽ち果てさせる檻。
 だが、少女には全てが輝いて見えた。ここには少女の欲しいものがある。母と過ごす時間。無理やりにでも起こして今すぐ味わいたいが、自身の腕と腕で体を抱き、抑え込む。床から足が浮いているかのように体は軽かった。なので、力の限り飛び跳ねる。

 ある時少女は生命に危険を知らせる死の臭いが夜の香りを打ち消し、室内に満ち満ちてしまったことに気づいてしまった。
 そして知ることになる。母の死体は肉や臓器がドロドロに崩れ、彼女であったものに成り代わってしまったと。

 太陽を、灰色をした雲が侵食し、空は闇に沈んでいく。
 母にかぶせた毛布には、インクを落としたようにシミが広がっている。駆け寄り、腹部に重ね重ねかけられていた毛布を取り去ると、穴が開いている。いつか見た母の底の見えない目のようではなく、中には底があった。明瞭としている。そこには形状を失った臓器が詰まっていた。
 少女は人の外見が生き物として活動していることを受け入れていたが、中身に関しては夢見がちな空想でいっぱいだった。体が温かいのは心がぽかぽかしているから、寒いのは心がひえびえしているから。幼い彼女にはやむを得ない話である。
 形を失った膵臓や肝臓などが、かつては人体構造の一部として活動しており、人の中身も生き物であったことをありあり.と証明する。
 少女はぜんまい仕掛けの人形のことを思い出し、人の体も同じだと知る。中で動いているからこそ、外で何らかの現象が現れる。
 動かなくなった母が、おもちゃのように壊れてしまったかと少女は肩を掴み揺り動かし、声をかけるが、腹部から液体が布団に飛び散るだけだった。
 愕然とした少女は母の顔を見る。唇は黒く、顔からはひどく傷み崩れそうであった。強烈な死の臭いが這う。かつての母はもういない、空っぽなってしまったと少女は悟った。
 少女は無意識のうちに母の死を隠蔽していた。母の死体の腐敗を見ないために毛布を被せ、死臭を夜の香りで打ち消し、夜の香りを持つ美しい母はまだいるのだと自身を欺いた。ついに耐えられなくなった少女は気づけば、窓を開け放ており、事実を目にした。
 母の躰は崩れてしまい、死を意識せざる得ない。
 重力に身を任せぐったりとする母の姿をみじめに思い、少女は悲しむ。約束など忘れ、母に寄り添いながらわんわんと泣いた。
 清涼な風が室内で渦巻く。そして気づく。
 美しい輝きが零れ落ち、失った母は無防備で飾らない自然の姿ではあった。そこに在るのは死体に置き去りにされた母親である彼女他ならない。纏わりついていた汚れを流し、できた純粋な母。少女が真に欲していたそれ。
 空っぽなどではなく余計なものを取り払い、弱々しくあるも笑う母には温もりが詰まっている。そう少女は盲信する。

 少女は手を母の背中にあて、強く抱きしめる。滴りを慈しみ。
 切れ屑がかろうじて人の体裁を保っていたが、脆く、穴からぼろぼろと崩れた肉片が垂れ、服に付着する。欠落していく。
「会えた、ようやく会えた。なのに、もうおわってしまうの。そんなのイヤだよ」
 腐った肉片を口元に近づけ、注ぎ込むが、異物はこみ上げる吐き気とともに喉元を伝う。両手で口元をふさぎ、蓋をする。傷んだ母の臭いに意識が朦朧とするのもいとわず口を固く閉じるが、舌の隅々まで侵入してくる酸っぱさと汚れた味に耐え切れず吐き出す。
「おぇ……はっ……おぇ」
 吐瀉物は黄色を帯び、口内は舌をえぐるような痛みが支配していた。包んであげたい、輝きに取り残された孤独の母親を。その気持ちが偽りのものなのかと少女は胸の内に問いかける。なんで? どうして? と。
 不意に、蝉の鳴き声が彼女の耳に忍び込む。それは規則的で、間の抜けた面白みに欠けるものだった。それはだんだんと大きくなり、頭の中をぐらぐらと、揺さぶる。
「うるさいな! もう、だまってよ!」
 少女は声を荒げ、布団にこぶしを振り下ろす。自身でも戸惑うほどの怒声だった。だが、状況は変わらず、蝉は鳴き続ける。
 二人の時間が壊れてしまう。無粋で馬鹿げた騒音で。そう思うと、苛立つ少女は玄関に走りよると、そのまま裸足で外に出てしまう。
「居た!」
 足をたたみ、腹部を見せ、抵抗の気配を感じない蝉の死骸が転がっていた。
「……さっきまでのお母さんみたい」
 蝉の死骸を見たことで死体であった母を連想すると、少女は死骸を踏み潰し、磨り潰す。こんなものと母は違うのだと。粉々になった死骸に安心した少女は廊下を後にした。
 自らの吐瀉物がへばりつく肉片をすくい上げ、再び飲み込もうと掲げると、隙間からぽたぽたと濁った汁が抜け落ちていく。それは雨粒の如く。
「わたしが守るよ。どこにも連れて行かせたりしない」
 そう決断した少女は腕を寄せ、飲み込もうとするが、腕は蝋で塗り固められたように堅い。頭の中では、いとも容易く口の中に含むイメージが繰り返される。
 なぜ、一寸たりとも体を動かすことができないのかと少女は戸惑う。
「お母さんなんだよ、こわくない。なのに……なのに……」
 直前の悪臭が蘇り、少女の体は拒絶する。すると、母の笑みは苦しげ見えた。
「好きだよ。しんじて、おねがい」
 手を広げ、がっしりと母を包む。
「一人じゃないよ、わたしがいる。お母さんがいる」
 母から言ってもらいたかった言葉を空に向かって呟く。自分は愛されているのだという肯定を少女は咀嚼する。
 離れてしまわないように、指という指に母の髪の毛が絡み付く。髪の一本一本の感触を手に焼き付け。
 雲の合間から陽射しは明るい輝きを届ける傍ら、彼女らの影は対照的に暗く、闇と区別がつかない程に沈んでいた。
希海
2015年11月15日(日) 23時19分27秒 公開
■この作品の著作権は希海さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
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この作品の感想をお寄せください。
No.2  希海  評価:0点  ■2015-11-26 00:42  ID:nK02IyfhOB2
PASS 編集 削除
通りすがりですさん、ありがとうございます。
この作品はただ一生懸命キャラクターのことを考えて作りました。
それを描くことができているなら、よかったです。
No.1  通りすがりです  評価:40点  ■2015-11-16 19:28  ID:MKVN4HyVNcg
PASS 編集 削除
 好きか嫌いかで分けるなら、私、このお話は嫌いです。
 最後の章なんて、本当にやり切れないです。
 でも嫌いだけど、何か強い力で胸の中を殴られたような気持にさせてくれるのだから、きちんと書かれている作品なんだと思います。
 それにきっと中途半端な優しさとか救いを入れちゃったら、中途半端な作品になっちゃうのだろうな、と思いました。
総レス数 2  合計 40

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