歪みきった恋の歌 |
誰もに好かれる委員長。如月みちるについて簡略的に説明させると、誰もがそう言うか、類似したことを答える。事実、如月みちるはそんな女子生徒だった。HRや学校行事等でクラス全員を見事にまとめ上げ、頭も決して悪くなく、人好きのする笑顔を振りまき、先生からも生徒からも絶大なる信頼を得ている。 欠点がないことが欠点。如月みちる以上の完璧人間には、まだ十七年の短い人生だが、俺も出会ったことがない。 だが、教室の右斜め後方の席から彼女を見つめていて、いつも思うことがある。 「如月っちー」 昼休み。いつもどおりクラスメートの女子に囲まれながら昼食をとっていた如月みちるは、ひとりの男子生徒に呼びかけられて、楽しげな会話を中断させた。 「あ、松木くん!」 「先生に進路希望の紙、全員分出しに行ってくれたっしょ? サンキュね」 もうひとりのクラス委員、松木が手を合わせる。如月みちるは仕方なさそうに笑って、軽く頬を膨らませた。 「今朝寝坊したんでしょ? 先生に『しっかりさせろ』って言われちゃったよ。連帯責任だって!」 「悪い悪い! 勘弁! な?」 嫁の尻に敷かれた旦那がごとく、松木が情けない声を出す。途端に周りでどっと笑いが起こった。クラス内カースト上位の人間は、基本なにをしても周りを笑わせられる。そんなことがよくわかる絵だった。 「まあ、とにかくありがとな」 そう言って松木は、如月みちるの左肩を軽く叩くと、仲のいいメンバーたち大勢と教室を去っていった。おおかた購買にでも行ったのだろう。中庭で菓子パンを片手に談笑している姿がしばしば見受けられる。 「みっちーってさ、松木と付き合ってないわけ?」 松木たちが去った途端、如月みちるを囲む女子のひとりが問う。他の女子も、興味津々に聞き入る。 「えー、付き合ってないよお! 同じ委員ってだけ!」 「でも松木は明らかにみっちーのこと好きじゃんかー!」 「もういいから付き合っちゃいなよ!」 女子という動物はすぐにこういう話に繋げたがる。俺は小学校高学年の時点で、その生態に気付いていた。 「松木かー。いいねえ、優良物件」 「賃貸じゃないんだからさ」 しみじみと呟く女子に、如月みちるが素速くつっこみを入れる。再び辺りを笑声が支配した。 ひとしきり笑った後、如月みちるはおもむろに席を立った。 「どこ行くの?」 「ちょっとゴミ捨ててくるね! すぐ戻る!」 彼女は片手に五百ミリリットルの紅茶の紙パックを持っていた。 教室のゴミ箱は――何人が守っているか知らないが――昼食のゴミを捨てることが禁じられている。 えらーい、真面目ー、と声をかけられながら、如月みちるはひとりで教室を出た。さすがに一階の購買脇のゴミ箱までは、誰もついてくる気になれないらしい。 また好き勝手に喋り始めた女子を横目に、俺はよっこらせ、と腰を上げる。昼休み終了までに、隣の隣のクラスの奴に、午前中に拝借した数学の教科書を返す約束がある。 教室を出た俺は、進路方向である右手を向いた。隣の教室のすぐ横に階段があり、その更に向こうに目的の教室がある。 如月みちるはちょうど階段に差しかかったところで、彼女はすでに足を掛けていた。 上に行く階段に。 俺は一瞬間立ち止まった。購買は一階、ここは三階。あの如月みちるがそんな初歩的なミスを犯すはずがない。 なにより心を引いたのは、階段を上りゆく彼女の、ちらりと見えた横顔。 クラスメートに囲まれている時のように微笑みを湛えているわけでもなければ、授業中のようにきりっと引き締まっているわけでもない。 ひたすらに、無表情。唇は固く結び、視線はただ階上を見つめている。 一階に行くと嘘を吐き、上階へと向かう如月みちる。それに気が付いているのは、俺ひとり。 友人に返すはずの教科書が、急速に頭の片隅へと追いやられていくのを感じた。 ★ 四階には三年生の教室が並んでいる。もしかして彼女の所属する吹奏楽部の先輩に用があるのかとも思ったが、彼女は上級生たちがガヤつくその階を素通りしていく。 五階には主に演習室と会議室がある。生徒会室も同じ階にあるが、如月みちるが上っている階段からは遠く離れた場所に位置している。 この階まで来ると、辺りが静まり返ってくるのが肌で感じられた。埃っぽい五階に人の気配はなく、遠くに三年生たちの喧騒が聞こえる。 階段を上りながら、足音を立てないようこっそり上履きを脱ぐ。如月みちるはそんな俺に気付くことなく上り続け、やがて五階の廊下を歩き始めた。 振り返られたらおしまいなので、ここから先は階段横の防火扉の陰から、後ろ姿を見つめることにする。 彼女は颯爽と廊下を闊歩していたが、不意に足を止めて、その場に佇んだ。 横には「演習室C」の札が掛かった教室。そこに入るのかと思えば、そんな様子も見せない。ただその場に静止して、軽く俯いているだけ。 いよいよ如月みちるのしたいことがわからなくなってきた俺の耳に、突如としてそれは飛び込んできた。 カコンッと響く、乾いた音。 なにが起こったのかわからなかった俺は、一拍置いてから、ようやくそれが如月みちるの紅茶パックが床に叩きつけられた音だということを理解した。 すでに静寂に包まれていた五階が、さらに静まり返ったような気がした。 左肩に手を伸ばす彼女。松木に叩かれたほうの肩だ。 心なしか、身体がわずかに震えている。 「キモ」 聞き間違いでなければ、如月みちるは確かにそう言った。普段なら絶対に聞き取れないような声だが、如月みちるに全神経を集中させていた俺には、ぎりぎり聞き取ることが出来た。 キモ、だと。朗らかな笑い声を上げ、人に対する優しい言葉を繰り出し、クラスをまとめる凛とした声を出す、あの口が、キモ、だと。 極めつけは、顔を軽く右に向けた彼女の、肩越しに見えた、目。 嫌悪感に満ち溢れ、本気で気持ち悪いものを見つめるような、目。 「……」 ようやく震えが止まると、如月みちるは床に叩きつけた紅茶パックを拾い上げ、別の階段から下りていった。 五階にひとり、取り残される。 俺は防火扉の傍に立ち尽くしたまま、一歩も動くことが出来なかった。 なぜか。 如月みちるの、あの目を見た瞬間、 「――は」 ものすごく興奮した自分が、そこにいたから。 心臓が凄まじい速さと力で脈を打つ。 シャワーカーテンの隙間から女神の裸体を覗き見てしまったかのような高揚感に包まれながら、俺は昼休みの終わりを告げるチャイムを、どこか遠くに聞いていた。 ★ 「お前、なんでそんな鬼気迫ったような顔してるの」 本鈴が鳴る一分前に教科書を返した友人から、向かい合った瞬間にそう言われた。おかげでなるべく平常心を装ったまま、自分の教室に戻ることが出来た。 五限は英語だった。如月みちるが素晴らしい発音で長文を読み上げ、教室中の拍手喝采を受けた。彼女に読ませると一番流暢なため、先生が面倒くさがってわざとしょっちゅう当てている感は否めない。 周りの礼賛に笑顔を返しながら、如月みちるは席に着いた。 冒頭でも言ったとおり、俺は教室の右斜め後方から、彼女の完璧人間然とした姿を見ていて、いつも思うことがある。 彼女は、誰に対しても本気で笑わない。 「よく読めてたぞ、如月。他の奴らも読む練習しろよ。音読大事だからな」 毎度お決まりのこの台詞に、クラスの数人が間の抜けた返事をする。如月みちるは照れたように笑っていた。 初めて違和感を覚えた時は、自分のことながら下衆の勘繰りかと考えを改めたものだった。 しかし、見れば見るほど、如月みちるがクラスメートの女子に囲まれて笑い合う時には、ひとりだけ温度が低く見えて―― 「坂元、六行目まで和訳」 「あ、はい」 当てられて、如月みちるに向けていた視線を手元のノートに落とす。 「personalityという言葉は、ラテン語で『仮面』を意味するpersonaから来ており――」 今日、五階であの光景を見て、俺は確信した。 如月みちるは、きっと誰にも心を開いていない。 だから、誰かに対して本気で笑うなんて、はなから有り得ないのだ。 「――人格とは、表向きを整えるための『仮面』なのである」 ★ その日の帰り際、たまたま職員室の前を通りかかった俺は、中で如月みちるが化学担当の先生と話し込んでいるのを見かけた。 廊下の壁に寄りかかって、その様子を見守る。周りの目には、職員室に呼ばれた友達を待っているだけのように映るだろう。 回転椅子に腰掛け、如月みちるを見上げながら話す化学担当。 うちのクラスの化学担当は、まだ年若く、決して醜男ではない風貌から、女子の人気を集めている。 如月みちるはその若手教師の話を聞きながら、時に相槌を打ち、時に笑みをこぼし、楽しげに談笑していたが、 「わざわざ持ってきてくれてありがとう。引き止めてごめんな」 最後にポンポンと肩を叩かれた瞬間、彼女の右足が半歩ほど後ずさったのを、俺は見逃さなかった。 「如月さん」 職員室から出てきた如月みちるに、すかさず声を掛ける。化学担当との話が終わり、気が緩んでいたのか真顔になりかけていた如月みちるは、俺に話しかけられると「なあに?」と顔に笑みを貼りつけた。 「米山に用だったの?」 一メートルほど間に距離を挟み、喋りながら歩き出す。「忘れ物をね」と如月みちるは返した。 「六限の化学で、先生が教卓に腕時計を忘れていったから、届けに行ったの。それからしばらく世間話」 「そう」 「坂元くんはこのまま帰るの?」 「そのつもりだけど」 そっか! と彼女が言ったのを最後に、暫しの沈黙が横たわる。もともと俺は如月みちるとそこまで仲がいいわけではないので、会話が弾むわけもない。 「じゃあ、ここでバイバイかな!」 二階へ続く階段の下に来て、如月みちるが言った。 「気を付けて帰ってね! また明日!」 一段目に足を掛けた彼女の後ろ姿に「ねえ」と声を投げる。 「五階に行くの?」 瞬間、如月みちるの足が止まった。驚いたようにこちらを振り返る。 「……どうして?」 それでも、即座に余裕を取り戻し、笑顔で対応する辺り、さすが委員長。 「紅茶のパックもなにも持ってない時は、一体なにを床に叩きつけるわけ?」 「見てたんだ」 「それとさ」 じり、と彼女ににじり寄る。一段高いところにいる如月みちるは、俺よりもわずかに目線が高い。 「キモ……っていうのは、肩を触った松木に対して? それとも」 さらに近付くと、彼女はこちらに身体を向けたまま、器用に一段、階段を上った。大股で再び一歩距離を詰めると、今までにないほど、如月みちるに身体が近くなった。 「この世の男すべてに対して?」 彼女はもはや、笑ってはいなかった。正確に言うと、口元には相変わらず微笑みが浮かんでいたが、常に優しいはずの目が、まったくもって笑っていなかった。 ずかずかと、それも土足で自らのパーソナルスペースに入ってきた男子に向ける視線。 それはまさに、嫌悪以外の何物でもなかった。 引き攣った笑顔で、素晴らしい顔色の悪さのまま、俺を見下ろしてくる如月みちる。 これだ。この目だ。思わず見入ってしまうような、雄弁な目。 本日二度目の興奮と高揚感に包まれながら、俺の喉が、ごくりと鳴った。 ★ 「キモいね、確かに」 演習室Cの窓を開け放ちながら、如月みちるははっきりとそう言った。 「松木も米山も、誰に許可取って肩触ってんだよって感じ。ふざけんな、あたしの身体の、あたしの肩だっての」 しばらく使われていなかった演習室内は、埃っぽい上に空気が淀んでおり、窓から外気が入ってきたことで、清涼感が広がっていくのが感じられた。 「そして坂元」 入口の俺に振り返り、敵意を含んだ厳しい目を向ける。 「あたしが男性恐怖症だって勘付いてて近付いてこないでよ。ただでさえ米山の件で機嫌悪かったのに。そういうの悪趣味だよ。性格悪いよ」 「そこまで言う?」 「言う」 あ――と女子にあるまじき声を上げながら、自らの肩を抱く如月みちる。 「松木も米山も、思い出しただけでほんとに鳥肌立ってくるわ。キモい。マジで無理」 とめどなく口汚い罵り言葉を吐き続ける彼女は、紅茶のパックを床に叩きつける代わりに喚き散らしているように見えた。 「なんでそんなに男がだめなの?」 適当な席に着きながら尋ねると、如月みちるは小さく鼻を鳴らして、窓の外を見た。橙色の雲が流れる空。それも、この季節はすぐに紺色に染まってしまうのだけど。 「……小学生の時、母親の再婚相手がね」 その時点で彼女の家庭環境の複雑さが垣間見え、俺は早くも訊いたことを後悔していた。 「なによ」 「いや」 「お察しの通り、母親の目につかないところで、あたしの身体べたべた触ってきたの。娘と戯れてるんじゃないよ? そんなレベルじゃなくて。無抵抗な小学生だったあたしはされるがまま。ようやく事態に気が付いた母親が急いで離婚してくれた時には、時既に遅し。男アレルギー娘の誕生ってね」 「大変だね」 「坂元に言われるとなんか腹立つ」 「ひどい言い様だ」 腹が立つ、と言われても、実際しょうがないと思った。その時の俺は『仮面』の剥がれた如月みちると対峙出来て、ものすごく声が弾んでいたのだ。 「じゃあ、クラスの女子が如月さんと松木の仲を囃し立ててる件についてはどう思ってる?」「は? って感じだね。なんであいつと噂にならないといけないの。しかも、あたし今朝あいつのことで先生に怒られたんだよ! しっかりしろよ!」 どうやら昼休みに冗談めかして言ったことには本気でむかついていたらしい。窓枠に手を打ちつけると、彼女は痛そうに掌をさすった。 「つーかなんで女子ってすぐそういう話に繋げたがるわけ? 話しててうざいんだけど」 「生態だと思って諦めたほうがいいと思うよ」 如月みちるは長い髪をくしゃくしゃと掻きむしると、俺のふたつ隣の席に着いて、だらしなく肘をついた。吐き出し尽くしたのか、余韻のように深い溜め息を吐く。 世の中のすべてを敵に回しているかのようなその表情に、思わずドキリとして目が離せなくなる。 「……じゃあ、どうして女子校にしなかったの? それに委員長なんて、そんな目立つ存在」 三つめの問い掛けに、如月みちるは、ちらりとこちらを見やった。そこに嫌悪的なものはなく――まあ実際あるのだろうが――純粋にこちらを意志の強い目で睨んでいるように見えた。 「……中学は私立の女子校だった」 やがて、とつとつと語り出す。こいつなら話しても大丈夫、と思われたのなら狙い通りだ。 「そこはパラダイスだったよ、男の先生と関わりさえしなければ。……でも、その環境に甘えていたら、大人になってからひどいことになる。どうせ結婚出来ないんだから、独立した人にならないといけないでしょ? だから公立の共学を受験した。委員になったのは……いろんな責任を背負って、生き抜く訓練をするため」 「生き抜く……か」 高校生とは思えない志である。俺は深く感心しながら、最後の質問をする。 「如月さんて、今のクラスに友達いる?」 「さあね。少なくともあたしは、特に誰のことも友達とは思ってない」 これで決定的になった。俺は内心ほくそ笑む。 「キモい男子も、うざい女子も、みんな知らない。将来のために、付き合ってるだけ。文句ある?」 俺はなにも答えなかった。如月みちるは顔の向きを前に戻すと、不貞腐れたように、もう一度鼻を鳴らした。 「……まあ、クラスのみんなには黙っといて。といっても、坂元がなにか言ったところで、あたしのキャラがブレるとは思えないけど」 なんかひどい言葉が聞こえた気がする。俺は苦笑して、ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。 「今日は随分とぶっちゃけてくれたね」 「溜まってたみたい。溜まったものには『処理』が必要。男子もそうでしょ?」 「あはっ! 今のも録っておけばよかった」 場にそぐわない言葉に、如月みちるは、訝しげにこちらを見た。 「録って……?」 ポケットから手を出す。そこには、青いケースにはまったスマートフォン。 「最近のスマホって、すごく性能いいよね」 トン、トンとタップして、再生。 「ポケットに入れてても、よく録れる」 『キモいね、確かに。松木も米山も、誰に許可取って肩――』 如月みちるの顔に、絶望の色が浮かぶ。 『――キモい。マジで無理』 やがてそれが激しい怒りに変わるのと同時に、見えてくるものがある。 『特に誰のことも友達とは思ってない。キモい男子も、うざい女子も、みんな知らない。将来のために――』 「……下衆が」 まさに、嫌悪感の塊。心底気持ち悪いものを見つめる時のような、軽蔑の込められた、目。 ははっ、と笑い声が漏れるのを止められなかった。 そして俺は、そんな自分を心底気持ち悪いと思った。 ★ 滑稽。ゆえに面白くないものもある。 「喧嘩なく決まってよかったねー!」 「な! ってかパン食いの倍率やばかったな」 「なんだったんだろ、あの壮絶なじゃんけん大会」 その日の六限はHRだった。月末に開催される体育祭に向けての係決め、種目決めを終えて、クラス委員のふたりが、使用した黒板を綺麗にしている。 昨日散々扱き下ろしているのを聞かされたからだろうか、如月みちるがいかにも楽しげに喋っているのが、非常に滑稽である。そこらのアイドル女優よりもずっと演技力があるかもしれない。 しかし、だ。 「松木くんは『台風の目』でしょ? なんか意外だなあ。足速いんじゃなかったっけ?」 「最後のリレーのために蓄えとこうと思ってな」 「そっか! 頑張ってね。応援してる!」 面白くもない。教室の右斜め後方で、誰にも気付かれないように舌打ちする。 なんでかわからないが、如月みちるがそんな風に笑うのが、えらく気に食わなかったのだ。貼りつけた笑み。思ってもない言葉の数々。彼女の『仮面』の表情は、俺にとってもはや違和以外の何物でもなくなっていた。 「如月っち、ブレザー!」 「え?」 その時、松木がなにかに気が付いて声を上げた。見ると、如月みちるのブレザーの脇腹辺りがが、チョークの粉で白く汚れていた。 「待って、動かないで」 黒板消しを持っていないほうの手で、松木が如月みちるの脇腹を軽く叩く。瞬間、彼女の肩が小さく跳ねた。わずかな動きなので、松木は気にもかけない。 彼が顔を上げたなら、さすがに気付くだろうか。 俺が好きで好きでたまらない、彼女のあの、目に。 「――ありがとう、もう、いいよ」 声と口元はにこやかに、如月みちるが手を離させる。いいことをしたとばかりに満足げな表情を見せる松木から少し顔を背け、彼女が視線を投げたのは、俺だった。 怯え、怒り、緊張、屈辱、軽蔑、懸念、そして嫌悪。 雄弁な目は、本日も様々な色を映し出す。 あ、面白い。と口角が上がるのを感じた。 滑稽さと面白さが両立する時が、俺の最も心が躍る瞬間だった。 「如月さん」 帰りのHRが終わった。相変わらず女子に囲まれて笑顔を振りまく如月みちるに、俺は無遠慮に声を掛ける。周りの女子が訝しげにじろじろと見てきた。あたり前だ。いつも教室の右斜め後方で静かにしている空気が、いきなりクラスのマドンナに話しかけたら、何事かと思うだろう。 「ちょっといい?」 それらの視線を振り切り、輪の真ん中にいる如月みちるを誘う。 彼女は迷っているようだった。えっと……と目を伏せる。 しかし、これ見よがしにブレザーのポケットに手を突っ込むと、彼女は諦めたように小さな溜め息を吐いた。 「坂元があたしを呼び出すとか生意気」 彼女がそう言ったのは、階段を上り始めてからのことだった。 「一応四月二日生まれなんだけど」 「生まれ順の話じゃなくて」 うんざりしたような返答を後ろに聞きながら、五階へ到達。相変わらず人の気配はなく、遠くに三年生たちの声が聞こえるだけに留まっていた。 「で、なんか用? それともからかいに連れてきただけ?」 演習室Cに入り、窓をひとつ開ける俺の背後で、如月みちるが後方の席に着き、椅子の前脚を浮かせる。 「俺が誘わなくてもここには来たんじゃないの?」 「否定はしないけど超むかつく」 如月みちるは不機嫌そうな溜め息を吐くと、自らの震える身体を抱き締めた。 「胴を触られるのはきつい?」 「高一の初期なら家帰ってから吐いてた」 「吐いてたんだ」 意外な事実に目を丸くする。如月みちるは肯定しようとして「――待って」と俺をびしっと指差した。 「スマホ、出して電源切って」 「別に今日は録音してないよ」 「いいから切れっ!」 さすがに昨日の嫌がらせが堪えたらしい。俺は肩をひとつ竦めてみせると、ポケットの中からスマートフォンを取り出し、電源を切って、窓際の机の上に置いた。 顔は怒ったままだが、如月みちるは満足げに鼻を鳴らして、ぷい、と前を見た。 ふと、疑問に思っていたことを尋ねてみる。 「……どの程度までなら、平静を保てるの?」 俺の唐突な質問に、しばらくの間を置いてから、如月みちるは「はあ?」と柄悪く返してきた。 「だから、どこをどのくらい触られたら『誰もに好かれる委員長』的スマイルが崩れるのかなって」 「……知らないよ。ほんとは指一本でどこ触られたって、その手を叩き落してやりたいくらいだし」 「そっか」 俺はスマートフォンを手に取ると、窓の傍を離れた。演習室の後方にいる如月みちるに近付く。 「ちょっと測ってみようか」 「え? ――なに?」 顔を上げ、近くに寄ってきた人影にようやく彼女が反応した時には、俺はすでにすぐ傍まで来ていた。 思わず逃れようとした彼女の左手を、俺の右手で机の上に押さえつける。 ひっ、と喉の奥から息のような悲鳴が漏れるのが聞こえた。 「ここに『誰もに好かれる委員長』はいないから……そうだな、如月さんが本気でこの手を振りほどくのを限界だとしようか」 「離し」 コン。と固い物がぶつかり合う音で、如月みちるの言葉を遮る。見せつけるように、左手でスマートフォンを机の上に置くと、彼女は大人しくなった。 押さえつけた彼女の手も、肩も、長い髪の毛先も、かすかに震えている。 以前の俺なら、女子のこんなところを見たならば同情のひとつもしただろう。 しかし―― 「っ!」 逃げるように宙を惑っていた右手も、がっちりと手首から捕まえる。両手でしっかり繋がった俺たちは、端から見れば何事かと思うほど、互いに戦々恐々とした空気を醸していたことだろう。 「……ねえ、如月さん」 囁くような声で、ゆっくりと名前を呼ぶ。顔を上げるように促したつもりなのだが、彼女は反応しなかった。 「如月さん」 さっきよりも毅然とした声音で呼びかけながら、両の手に少し力を込める。如月みちるはびくりと身体を震わせると、 「……この外道」 ぎっ、と強い目で睨んできた。 知らず、こぼれ出る笑み。 この目に睨まれる感覚を憶えてから、俺は彼女にただ同情することは出来なくなっていた。 「……すごい顔」 俺が彼女の嫌悪的な視線を好きだと知ったら、どんな目をするだろうか。 きっとまた、気持ち悪いものを見るような目をして、俺を悦ばせるだけなんだろうな。そう考えると、いろいろおかしくて笑えてくる。 「……なに」 「いや、ね」 口元が緩みすぎるのを抑え、じっと如月みちるを見つめ返す。男子との接触で、視線は有効か否か。 答えは有効で、彼女は頬を朱に染まらせて、歯を食いしばった。しかし、目は決して逸らさない辺り、生来の気の強さを感じる。 「……いつか如月さんが男子にキスなんかされた日には、一体どうなるんだろうね」 「してみれば」 憤った声で返される。 「あんたの制服にゲロ吐いてやる」 「……ぷ」 思ってもみなかった言葉に、小さく吹き出して笑う。彼女らしいといえば、まさにその通りだ。いかにも本気な辺り、とか。 「如月さんさ、怖いもの見たさって知ってる?」 「制服汚れるよ」 「逃げるよう善処する」 「やめて」 如月みちるは俺の手を振りほどこうと藻掻いた。が、そこはやはり男女の差。俺の手が緩むことはない。 「離して。お願いだから」 「やーだよ」 「ほんっとに――」 それは、調子に乗った罰だった。 あ、と思う間もなく、 「――」 如月みちるの下瞼に、透明な液体が乗っかる。 表面張力。この状況で、なぜかそんな言葉を思い出した。 でも、そんな力が働いていたのは、ほんの少しの間のことだ。ダムは瞬く間に決壊し、それは頬と机に転がり落ちる。 重すぎる沈黙が、演習室を襲う。これは明らかに俺が悪い。彼女をからかいすぎたことも、彼女の頬の筋から目を離せずにいることも。 「……ごめん」 ゆっくりと、彼女の両手を解放する。自由になった彼女は、手の甲でごしごしと目元や頬を拭った。 「…………もう行ってもいい?」 目の周りを赤くなるほどこすった後、ようやく如月みちるは口を開いた。俺は頷くほかない。 如月みちるは最後にもうひと睨みしていくと、席を立ち、足早に演習室を去っていった。鼻を啜る音が、やけに響いて聞こえた。 机に残る水滴を見つめる。静かでがらんとした演習室内において、唯一そこだけが彼女のいた形跡のようで、妙に浮き上がって見えた。 ――なんだか、未だかつてなく舞い上がっていたのが、嘘のようだ。 彼女の涙が塩分だけを残して乾いてしまっても、俺はその場から動けずにいた。 ★ 「みっちー放課後に呼び出されてるんでしょ? 松木に」 そんな話題が飛び出したのは、気まずいことがあってから一週間ほど後の、昼休みのことだった。 如月みちるは摘まんでいたおかずを弁当箱の中に取り落とした。彼女にしては珍しく動揺している。 「――うっそやだーっ! なんで知ってるのー!」 それでも、きららかな笑顔を崩すことなく対応する辺り、もはやプロ根性としか言い様がない。 「松木がめっちゃ言いふらしてるよ! 『頑張る! 俺!』とか言って」 「それガチな奴じゃーん!」 「ちょっとみっちーも頑張ってよー?」 「そんなんじゃないってばーもう!」 如月みちるは飽くまで笑っているが、素性を知っている人間からしたら、見ていて痛々しいほど辛い場面である。 男子全般が嫌いでも、まだ憎からず(?)思う相手なら救いはあった。しかし如月みちるは、人気票だけでクラス委員になった、委員としては頼りにならない松木を唾棄しているのだ。そいつに放課後呼び出されて、そしてそれがクラスに広まっている。 「ねねね、どこに呼び出されたの?」 「ぜーったいに教えない! どうせ何人かで見にくるでしょ?」 「じゃあー松木に訊こ!」 「あれ、松木は?」 「中庭じゃね?」 噂のもうひとりの中心人物は、いつもどおり友達とともに太陽の下だ。きっと放課後への意気込みでも語っているのだろう。 「あんまり邪魔しないほうがいいんじゃん? 告白なんだし」 助け舟のつもりか、はたまた素だったのか、のんびりとした雰囲気を持つひとりの女子がごはんを食べつつ言う。それもそうかー、と賛同者が増えてくると、如月みちるはほっとしたように息を吐いた。 人気者は楽じゃない。と俺は教室の右斜め後方で思った。自分ならごめんである。そもそもなれないが。 ぼんやりとそう考えていた俺は、ふと如月みちると目が合った。 一瞬だけ向けられる、不安げな瞳。 俺だから向けてくれたんじゃない。俺が彼女の素性を知っている人間だからだ。誰か無難な人に少しでも感情を吐露したくて、知ってほしくて、俺をその捌け口に利用したに過ぎないこと。 すぐに視線は逸らされる。クラスの誰も、この遠距離交信に気が付かない。 秘められた刹那の逢瀬のよう――という自分の考えを急いで振り払う。こんなことを考えるのは、直前が古典の授業だったからだろうか。自分で自分が気持ち悪い。如月みちるにあの目で気持ち悪いと見下されるのは好きかもしれないが、自分のことを自分で気持ち悪がるとなると、少し違う。 俺が欲しいのは、あの目だ。あの目がこちらに向いている瞬間が、たまらなく好きなのだ。 あの目以外は欲しくならないし、あの目が他人に向けられるかと思うと――反吐が出る。 基本的に闘争心のない俺が珍しく覚えた嫉妬の感情が、まさかこんな形で現れようとは。俺は机に肘をつくと、誰にもわからないように、こっそり自嘲した。 ★ 言っておくが、期待するのは浅ましい、と自覚はしている。そのうえで浅ましいことをしているのだから、誰も突っ込まないでほしい。俺はがらりと引き戸を開けた。 相変わらず埃っぽくて殺風景な演習室Cには、人の姿はなく、俺は静かに溜め息を吐くしかない。 期待するのは浅ましい。しかし、それでも期待してしまうのは、なぜか。恋か。まさかの恋か。 足取り重く、演習室内に歩を進める。 如月みちるはHRが終わるや否や、誰からも話しかけられないうちに教室を飛び出していった。数人がにやにやしながらその後ろ姿を見送り、時間を置いてから今度は松木がクラス中に応援されながら去っていった。 窓を開け、室内の空気を入れ替える。ふたりでこの演習室に頻繁に駄弁りにくるようになれば、埃くらいは取り除いたほうがいいかもしれないと先週まで思っていたが、そんな必要はもうないような気もする。 夕方になって風が出てきたのか、冷たい空気がひやりと頬を滑る。もうすぐ合服期間も終了だ。そしてあっという間に冬が来る。うう、と俺は身を縮めた。 かさり、という微かな音に気付けたのは、彼女が来るかもしれない、とまだ期待していたからだ。俺は弾かれたように振り返った。誰もいない。しかし―― 風に煽られて、教室後方の机の上で動いている紙片が目に入った。 落っこちてしまう前に、慌てて手を伸ばす。紙片をつかんでから気が付いたのだが、そこは如月みちるの手を無理やり取った席だった。 「――マジ」 紙片は、松木から如月みちるに宛てたメモだった。今日来てほしい場所、時間が書いてある。 彼女だ。彼女がこれを、ここに置いていったのだ。俺は演習室を飛び出す。 期待は半分だけ応えられたらしい。 場所は西校舎裏。 時間は、すでに少し過ぎている。 ★ 何回も転びそうになりながら階段を一階まで駆け下り、下駄箱で靴を履き替え、昇降口から外へ飛び出す。生徒が何人か俺を奇異の目で見たが、まったく気にならなかった。 しばらく走って西校舎の裏に滑り込むと、 「だからね、松木くん」 控えめな話し声が聞こえてきた。ぴたりと立ち止まり、近くの壁に身を隠す。辺りに他の生徒の姿はない。幸運だ。松木もひとりなのである。 「松木くんとは、そういう関係になれないっていうか……あんまり考えられないっていうか」 「考えられなくて当然だよ。如月っち、男と付き合ったこととかないっしょ?」 「ないけど……ね」 委員長にしても、素顔にしても珍しく、如月みちるの歯切れが悪い。初めてというわけでもないだろうに、上手く断りきれていない。しつこいのだろうか。 「松木くん、かっこいいんだし、もっと可愛い子のほうがお似合いだと思うなあ」 一ミリも思っていないことを口に出すのはいかがなものかと。俺はブレザーのポケットに手を突っ込んで、息を整えながら苦笑した。 素顔を見せてしまえば、『仮面』を剥いだなら、松木の心を離すことは格段に楽になる。そんなことは、如月みちる本人もわかっているはずだ。 それでも、それをしないのは、やはりクラスメートに素性が知れるのが怖いからなのだろう。 「如月っちだって可愛いよ。それに、委員長同士とか、すげーお似合いじゃん」 「えっと」 「だーいじょーぶ」 松木が如月みちるの手を取る。彼女の肌が粟立っていくのが、遠目からでもなんとなくわかる。同時に、むか、とダマになった不快感が、胸の中に落ちていくのが感じられた。 「俺がいろいろ、教えてあげられるからさ」 如月みちるがその手を振り払ったのは、その時だった。ぎっ、と視線を上げた彼女は、すでに委員長の顔をしていなかった。 心底気持ち悪いものを見つめているような、嫌悪感の込められた、目。その視線の真っすぐ先には、拒絶されて驚く松木。 その時の俺は、どれほど暗い目をしていただろうか。 ブレザーのポケットから手を出す。 ああ――反吐が出る。 如月みちるの視線が松木に向けられていることも、彼女が手に入って当然だと思い込んでいる松木のことも、こんなにも彼女に執着している自分のことも。 でも、今、本当の意味で一番反吐が出そうになっている人物は―― 松木が腕を伸ばす。反応が一歩遅かった如月みちるは、精一杯抵抗したが、そこはやはりまた男女の差。あっという間に絡め取られる。 男性恐怖症になった経緯を、彼女はこの前語ってくれた。力で屈服させられる怖さを、彼女は知っている。 だから、今この瞬間の松木も、一週間前の自分も、双方同じだけ最低だ。 「なんでだよ。いつもふたりでクラスまとめたり、バカ話したりしてたじゃん。他の女子も、俺の話題が出た時の如月っちは満更でもなさそうだって」 「ほんとに離してったら! 嫌なの!」 「だからなにが嫌なんだよ!」 「嫌って言ったら嫌! ってか松木くんはこんなにしつこいのは、あの教室に手ぶらで戻るのが恥ずかしいからでしょうがっ!」 あ、禁句。と俺が思った瞬間、松木の顔にサッと赤みが差した。プライドが無駄に高い松木に、それは言ってはいけない。俺には好都合だけど。 「――っ!」 声にならない叫びが、漏れる。ここに敢えて『漏れる』と書いたのは、彼女の唇が、すでに松木のそれに塞がれていたからだ。 如月みちるが、松木の胸元を力一杯押す。申しわけないが、まだ助けにいけない。 頼む。耐えてくれ。 如月みちるが藻掻く。知らないうちに、左拳を強く握っている自分がいた。 松木の口付けは、しつこい。彼女が後ろへ後ろへと逃げても、粘っこく追い求めて止まない。 炎。腹の辺りで、正体不明の、炎が灯っているのがわかる。ぎり、という音がして、奥歯と奥歯が軋り合う。 そして、松木が彼女の制服のリボンに手を掛けた瞬間を見届けると、俺は普段よりかは声を張り上げて、言った。 「録画完了」 ふたりの顔が、ぱっとこちらを向く。 「は?」 松木が俺に気を取られた隙を逃さず、如月みちるは腕から脱け出した。そのまま校舎にもたれかかって座り込む彼女に、松木が再び近付く前に、続ける。 「だから、録画。如月さんが手を振り払った辺りから、今さっき無理やりモノにしようとしたところまで。『手ぶらが恥ずかしい』って言い当てられて怒ったところも、全部」 右手に持ったスマートフォンを軽く振ってみせると、松木は苦々しげに口元を歪めて訊いた。 「……なんで、坂元にここがわかったんだよ」 ちらり、と如月みちるに目を向ける。青ざめた顔に表情はない。すぐに視線を前に戻し、俺は「なんとなく」と肩を竦めてみせた。 「ちなみに今録った物は家のパソコンに送るから、今後俺のスマホを狙ったとしても無駄だから。一応」 「そもそもどうしてお前が介入してくるわけ。関係ないはずだろ」 「関係ある。如月さんは俺のいい友人だ」 俺の発言に、松木はもちろん、如月みちるも驚いたように顔を上げた。というか、俺も内心首をひねっていた。自分で言い放っておいてなんだが、友人? 俺と如月みちるが? しかしその他の言葉でここの関係性を説明するのも面倒くさいので、特に訂正はしない。 「……は、如月っちと坂元なんか、喋ってるところも見たことないけどな」 嘲るように、松木が言う。 「あれだろ? お前どうせ一方的に如月っちが気になってるだけだろ? こんなところまで探しにきて、挙句に盗撮までして。ストーカーかよ。マジで気持ち悪いぞ、そういうの」 「松木が自分の物差しで俺をどう測るかは知らないけど――」 スマートフォンを操作しながら、顔も上げずに、 「SNSとかにさっきの奴アップされたくなけりゃ、ここでのことは口外せずにとっとといなくなってくれないかな」 脅す。それはまさしく、脅迫以外の何物でもなかった。 自分の口から、こんな平然と残酷な脅し文句が出てくる日が来るとか思わなかった。……いや、嘘だった。たった一週間ほど前にも、ほぼ同じ手段で如月みちるを脅したばかりだ。 あの時は、ただただ楽しかったが、今はただ、胸糞が悪いばかりである。 「クラスの中心ってだけでクラス委員になった松木は、クラスメート、主に女子にどう思われるだろうな、この映像を」 「……」 向こうに反論の余地はない。それを悟ったのか、松木は開き直って鼻を鳴らした。 「俺じゃなくて、お前らのほうがいなくなれば?」 どこまでも傲慢な男だ。俺は思わず溜め息をこぼすと、如月みちるの傍に歩み寄って、しゃがみ込んだ。彼女が震えて、身を縮める。 「如月さんが動けない」 「なんで」 質問が多い男である。 「さあ。おおかた、松木が怖いんだろ」 なんてこともなさげに答えてやると、松木は多少傷付いたような目をして、顔を伏せた。 「恐怖の対象から逃げるより、恐怖の対象が自ら去ってくれるほうがよっぽど楽だと思うんだけど」 そこに決して同情しないのは、間違いではないはずだ。 「……下衆が」 こちらを睨む松木。普段は端正な面立ちも、怒りに歪めば多少は醜い。 「下衆はお前だ」 そして俺も、特定の人物以外に睨まれて悦ぶ趣味はない。 ★ 「あたしからすれば、どちらも下衆だけど」 松木が立ち去ってから間もなく、如月みちるがおもむろに口を開いた。 「しかもなに、友人って。あたしは絶対にごめんだね……」 口調は通常と変わりないが、声は絞り出したように細い。 「……我慢しなくていいよ」 「なにを」 「吐き気、おさまらないんでしょ」 「……」 ただでさえ蒼白な顔が、さらに青く変色する。口元を押さえる手が小刻みに震えているのは、気のせいではない。 「……じゃあ坂元もどこか行ってよ」 「そんな状態の如月さんを置いてはいけない」 「なら見ないで」 「それも聞けない」 「お願いだから……っ」 如月みちるは片手を壁につくと、俺に背を向けて、地面に咳込んだ。吐瀉特有の酸っぱい匂いが、辺りに立ちこめる。 俺は背中をさすってあげようと手を伸ばしたが、触れるや否や「触らないで」と鋭い声が飛んできた。 「今のあたしは、汚い。そしてあたしは男が大嫌い。お互いにいいことなんかひとつもない」 「俺は汚いとは思わないけど」 「あたしがだめなの!」 口元を拭って、如月みちるが叫ぶ。 「男なんか、大っ嫌い! 松木も坂元も、本気の本気で気持ち悪いんだから――!」 だから、どっかに行ってよ。そう呟いた彼女の声は、今にも泣き出しそうだった。 「……」 彼女の言葉を受けて、どうしてそういう判断に至ったのかはわからない。 俺は如月みちるの左肩を引っ張って身体を反転させると、彼女が反応するより先に、 「――」 一瞬にして、唇を奪った。 彼女は驚いていた。俺も驚いた。 吐瀉の味はしていただろうか。憶えていない。それほど気にしていなかったのだ。直前に口元を拭っていたから、しなかったのかもしれない。 俺はそのまま如月みちるの後頭部に手を添えると、自分の胸元に彼女の顔を押しつけた。 「……吐く?」 恐る恐る声を掛ける。如月みちるはなにも言わなかった。 ただ、しばらくして、押し殺したような啜り泣き声が聞こえてきて、俺はなぜかほっとしたような、悲しいような、苦しいようなそんな感じの妙な気持ちになった。 如月みちるは、俺に縋りつくでもなく、拒絶するでもなく、両手をだらんと下げて、静かに涙を流していた。 下校時刻を告げるチャイムが、どこか遠くに聞こえる。 ★ 「如月さんが好き……とかじゃないんだと思う」 ようやく如月みちるが泣き止んで、ふたりして校舎に背を預けて座り込んだ時、俺はぽつりと言った。 「へ?」 「ほら、松木が『一方的にうんぬんかんぬん』って言ってたから」 ああ、と如月みちるは話を聞く体勢に入ってくれた。言葉を慎重に選びながら、俺は続ける。 「なんか……如月さんに、嫌悪感丸出しの目で見られるのが、好き、なんだと思う」 「なにそれ引くわ」 慎重に選んだ意味は特になかったらしい。 「え、なに、Mなの?」 「Mなら如月さんを困らせて楽しんだりしないかな」 「確かに」 疲労の色が濃い如月みちるは、ふんっと鼻を鳴らして、投げやりに返した。 「SでもMでも、どちらにしろキモいけど」 「申しわけないけど、それすらも悪口にはならないかな」 「うわ、面倒くさ。貶すたびに悦ばれるわけ?」 はは、と如月みちるが渇いた笑い声を上げる。教室で笑うのとは違う、皮肉げで乱暴な笑い方だが――不覚にもドキリとした。 完璧人間然とした彼女には一ミリも覚えたことのないような動悸が、なぜか今、唐突に心臓を襲う。 「てゆーか、なんであんたがここに来たわけ?」 「え、俺呼ばれたんじゃないの?」 動揺を悟られないよう平常心を心がけながら、冷静に返す。 「演習室Cにメモを残したのって、俺があれを読むって踏んだからでしょ? あそこに行くのなんて、俺くらいのもんだし」 「……あれは、落としただけだから」 図星だったのか、唇を尖らせてそっぽを向く。彼女のことだから、計算でやっているのではないだろう。素でこんなに可愛らしい仕草が出来るのに、男が嫌いとは実にもったいない。 ああ――そうか。そこで俺はようやく気が付いた。 「如月さん」 「なに」 拗ねたまま返事をする如月みちるに、俺は言う。 「俺さ、如月さんの素の表情を見せてもらうのが好きなんだ」 彼女の顔が、わずかにこちらを向く。 「いつも思ってたんだよ。委員長からあの作り笑顔を取っ払ったら、どんな表情が残るんだろうって。『仮面』の下に興味があったんだ」 だから、男子に対する嫌悪も、皮肉げな笑いも、拗ねた横顔も、すべてが素の彼女で、欲しくなる。 「もっとも、如月さんに睨まれて興奮する困った性癖は否定しないけど」 「やっぱキモい」 「だからそれ悪口にならないんだって」 疲れと怒りの混じった溜め息に、俺は苦笑する。 それからしばらく、ふたりの間に沈黙が横たわる。それは決して気まずいものではなく、少なくとも俺にとっては非常に心地のいいものだった。 「……あたしからも、三つ」 不意に、彼女が口を開く。三つ、ということは、この沈黙の間にぐるぐると考え込んでいたのだろうか。 「どうぞ」 「まず、ブレザー汚してごめん」 「ああ」 俺のブレザーの胸元は、まだ彼女の涙で湿っていた。しかも、顔を押しつけた際に、口の中に残っていた吐瀉で、ほんのわずかにだが、白く汚れているのだ。 「別にいいよ」 「よくない。クリーニング代出さないと……あ、でもその間、学校にブレザー着てこれないか。それはどうしよう」 「大丈夫だよ。まだぎりぎり合服期間だし」 「そうじゃなくて、寒いじゃん」 気持ち悪い、と突き放した相手にすら、ここまで気を遣う。律儀な彼女らしいといえば、まさにその通りだ。 「それと、一応、助けてくれてありがとう」 「まあそれは、呼ばれたからには」 「だから呼んでない」 「はいはい」 噛みつく彼女を宥めつつ、最後の件を待つ。 如月みちるは「だから、その」と口の中でもごもごと呟くと、そろり、と隣の俺を見上げてきた。 女子の上目遣いに弱い男は、多い。そして俺も例に漏れず、そういう馬鹿で単純な男のひとりだったらしい。不自然に目を逸らした俺に、彼女は突っ込まなかった。有難い。 「なに? 如月さん」 「……」 またしばらく口ごもった末に、彼女はぽそりと呟いた。 「松木にされた時よりは、嫌じゃなかった」 「……」 なにが、と如月みちるは言わなかった。俺も訊かなかった。 唇の端が変に吊り上がっていくのがわかる。それを見て、彼女は非常に不可解そうな顔をしていた。 「……え、それってまたキスしていいってこと?」 「は? 冗談! マジ無理! マジキモい! ふざけんな!」 「ごめんごめん」 「あたしは松木よりはマシって言ったんであって、要するに最低の一個上ってことだからね! 自意識過剰とかほんとないから!」 「わかったわかった」 ぎゃいぎゃいと喚く彼女を落ち着かせながら、俺は心の底からおかしくて笑っていた。 気持ち悪がられるのが好きな俺と、男が嫌いな如月みちる。 彼女の裏の顔に恋する俺と、俺のほうが松木よりかはマシだという彼女。 お互いに歪んだ感情を持つふたりの恋は、すでに始まってしまったらしい。 これは、決して綺麗な恋物語にはならない。 面倒くさい気持ちと気持ちが、不協和音を奏でながら交差する。 そんなふたりの、笑っちゃうくらい、歪みきった恋の歌。 〈fin〉 |
水澤しょう
2014年11月25日(火) 00時04分43秒 公開 ■この作品の著作権は水澤しょうさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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