哀歌のせい |
かつて私は、ラフマニノフの楽曲を暗く重たいもので、苦手な部類としていた。 私は中高と吹奏楽部に属していたので、音楽知識は人並み以上にはあると自負している。しかし、ラフマニノフに関する知識はロシア出身であるくらいしか持ち合わせていないので、彼がどのような人生を送ったのかは一切知らないが、彼の楽曲はどれも重々しく重厚な和音から始まり、その上に悲しく冷たいメロディが重なる。聴いているととても心が苦しくなり、あまり好みではなかったが、私はある出会いによって、ラフマニノフを好むようになる。今日はその思い出話をしたいと思う。 4年前、私は大学受験に追われる日々を過ごしていた。私が目指した大学は、合格すれば高学歴と呼ばれるものであったため、殆ど寝ずの生活を過ごしていた。そのため、これから話す一切の出来事は私の幻覚の可能性があるが、作り話だと思って耳を傾けていただければ幸いである。 その日、空は雨を降らしていた。私の住んでいる地域は関東の都会方面であったため、雪にいずれ姿を変えるのではないかと、クラスメイトが話題に出していたのをおぼえている。 私は授業が終わると、親友のサチと共に教室を出て、真っ直ぐに下校する。17時すぎに家に到着すると、夕食が出ているため、それらを食べた後、入浴し、それからひたすら勉強する。勉強を開始する時間は18時30分で、就寝するのは深夜3時の日々は、習慣化しているものであった。 私の部屋には窓が一つついていて、それは勉強机の横にあるから、私はカーテンをぴったりと閉めてから勉強をしていた。部屋には電気ストーブが一つあったので、ひざ掛けをし、上にパーカーを羽織れば十分に暖かかった。 その日の23時頃、私は日本史の勉強を始めようと参考書を開いた瞬間に、強烈な眠気に誘われた。これまでの疲労の蓄積だろうか。私は軽く伸びをし、日本史の問題集に取り組む。私は無理をする性格であったため、どんなに睡眠を体が欲しても、決められた時間まで勉強しないと不安で眠れないタチであった。 日付が変わってから1時間後、かつてないほどに体がだるく、私はついにペンを持つ指が痙攣し始め、手を止めた。このような生活は4月からずっとしてきたが、このようなことは初めてである。私は軽くため息をつき、カーテンを開く。私の家の前には橋があり、それは窓から見られる。街灯が照らす橋は、うっすらと白く染まっていた。雨は雪へと姿を変えたらしい。 私は無意識に立ち上がり、部屋着のまま玄関へと向かっていた。適当なサンダルを履いて、外へ出ると、凍るような風が私の頬をひっぱたく。暖かい部屋に数時間同じ格好で居たため、私は頭がポーッとし、体は表面からじわじわと冷えていく。 冬の夜ほど幻想的な空間はないだろうなあ、と、雪の降る空を見上げて思った。旭川の雪の美術館へ行ったのを思い出す。そこで見た雪の一粒一粒の結晶の形は繊細で美しく、肉眼で見えないことに、ぼんやりとさみしく思ったのを覚えている。それでも私の体に降り積もっていく雪は、白く、儚かった。 穏やかなマルカートの、ユーフォニアムの音色が、重く悲しい旋律を奏でていたのを右耳から聴いた。何処かで聴いたことがあるはずなのだが、その曲名は浮かんでこない。 音を辿って一歩ずつ前へ進むと、意外にも音の主は歩いて30秒ほどで見つかった。その光景は、非常に不思議で、幻想的なものだった。雪と同じほどに白く、星の光のように輝く銀色の髪を、ふわふわと遊ばせている、茶色のベレー帽の少年。フリルのシャツにえんじの蝶ネクタイ、そしてチェックのズボンを履いて橋の上に座り、ユーフォニアムを抱きかかえていた。 5mほど離れてその様子を見ていたので、彼の顔はよくわからなかったが、髪の毛様子からおそらく日本人ではないと予測がついた。彼はこちらの様子に気づいたのか、フレーズをアイスクリームをスプーンで掬うように処理し、演奏を終えた。そうして、私の方へニコッと笑いかけた。 「こちらへおいでよ、寒いだろう?」 彼は鈴を転がすような声で言った。音域はそう高くないのだが、よく通る、透明な声をしていた。私は足を少しずつ進め、彼の真正面で立ち止まると、先ほどまで降り続けていた雪は止み、此処だけ春が来たかのように、やんわりとした暖かさに包まれた。 「君は、今の曲を知っていたかい?」 彼は青色の瞳でこちらを真っ直ぐと見つめてきた。まつ毛は髪と同じ銀色で、陶器のように白く透明な肌を持っていた。触ったら、溶けてしまう、まさに雪のような感じ。 「知らないけど……多分、ラフマニノフかなにか?」 「ふふ、いい感性を持っているね。これは幻想的小品集 エレジー。作曲者はセルゲ イ・ラフマニノフだ」 「やっぱり、重いメロディだなと思った」 「幻想的小品集の中では最も悲哀に満ちていると言われているからね。僕は美しくて好 きだけれど」 「私はチャイコフスキーのような可愛らしい曲の方が好き」 「でも、ラフマニノフはチャイコフスキーの影響を強く受けているんだよ」 私は彼が何者なのか、そういったことは一切気にならず、ただ会話を交わした。彼は常に微笑んでいて、この暖かさは彼の微笑みが由来なのかと錯覚するほどだった。 「ねえ、君は楽器を演奏したことがある?」 彼は私に疑問符を投げてきた。 「クラリネットを6年くらい」 「なら、音階はわかるかな? 君はどんな音階がすき?」 「好きなのはDdurかな、演奏的にはあまり好かないけれど」 「愛の音階だね、素敵だ」 「愛?」 「そう。音階にもいろいろなものがあるんだよ。例えばFisdurは天国の音階なんだ」 「へえ。なんだか素敵ね」 「でも、短調はただくらいと思われがちだと思うんだ。君もそう思う?」 「思う。それこそラフマニノフのさっきの曲とか、ひたすら悲しいだけだと思うの」 「うんうん、そうだよね。でも、Gmollの意味は、内に秘めたる情熱、なんだ」 「内に秘めたる情熱……」 思わず反復する。彼の言葉は軽快で、それでも確かにずっしりと胸にくるものがあった。 「僕はさ、人間はみんな幸せになるべきだと思うんだ」 「随分話が変わったね」 「そうかな? ……僕はさ、音階に差別的に様々な種類をつけられているのが、人間と 同じように思うのさ」 「人間と?」 「そう。mollの曲はこの世に溢れていて、人々の胸を締め付けるような悲しい旋律が殆 どだと思うけれど、それは美しさがあるからだと思うんだ」 彼はゆるゆるとバタ足をしている。私はすっかり眠気も疲労も取れて、彼の言葉に夢中になっていた。 「人間もみんな、僕にとっては美しいんだ。だから、みんなに幸せになってほしい。少 なくとも、この美しい夜に出会えた君には、絶対に幸せになってほしいと思うよ」 「私は、君の演奏を聴けただけで幸せよ」 「嬉しいなあ、僕の演奏を褒めてくれるなんて。気分がすごくいいから、君の願い事を 一つだけ叶えてあげる。何がいい?」 首をほんの少し傾げた彼の言葉に、私は少しだけ考え込む。私の本来の願い事は、受験に合格し安定した生活を営むこと。しかし、私が彼を目の前にして思ったことは、別のことだった。 「またいつか、いつでもいいから、演奏を聴かせて」 彼はにっこりと微笑んだ。そして、大きく頷き、 「君が望むなら、いつでも」 と言った。 残念ながらそこからの記憶が私には無い。母親が言うには、私は外に出た形式はなかったし、そもそもその日の夜は結局雨は雪に変わらなかったらしい。 数ヶ月後、私は無事第一志望の大学に合格し、記念にウォークマンを買った。それにすでに入っていた曲の中に、題名、曲名ともに不明な曲があった。私はそれを再生すると、それはまさに、あの時少年が演奏した、あの楽曲だった。 それから私は、眠れない夜は必ずラフマニノフのエレジーを聴いて眠る。 |
無花果
2014年10月17日(金) 02時31分51秒 公開 ■この作品の著作権は無花果さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.1 辰巻 評価:40点 ■2014-10-19 20:34 ID:ULN/hIWlPbo | |||||
こんばんは。作品読ませて頂きました。 雪が好きなので、雪の描写が入ったシーンからぐっと引き込まれました。主人公とユーフォニアムの少年との会話は、思索的ですが、ユーフォニアムの少年の音楽への深い理解が、その思索を飛躍させて、人へと向かわせたのかな、素敵だな、と感じました。 音楽は詳しくはないので、音階にも意味がある、というのも新鮮でした。 感想が下手なもので、まとまらなくてすみません。 |
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総レス数 1 合計 40点 |
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