蛞蝓の恋




 生海が自分の性に奇妙な違和感を抱いたのは、十六の秋だった。
 当時付き合っていた一つ下の少女にキスをして、そっとその幼い胸に触れた時。高校指定の白いシャツのボタンを指先で外し、桜色の下着をあらわにして、まろやかな質感の乳房を手のひらで包み込んで、そうして、おかしいな、と思ったのだった。
 何がおかしいのかはそれから七年経った今でも明確にはわからないが、とにかく生海はその時はっきりと、自分が性を持て余していることに気がついた。




 
「ナメクジね、まるで」
 辛辣な言葉を遠慮無く吐いた横顔は大学の四回生にしては少し幼い。就職活動も無事終わり、最後の一回と染められた髪は見事な金色だ。ほの暗い店の明かりの中、夏衛は白い頬に長い睫毛の影を落としている。
「喩えるにしたって、もっといいものがあるでしょ」
「ぱっと思いついたんだもの」
 くっきりとしたアーモンド型の瞳の中に生海が映り込む。ゆるくウェーブのかかったヘイゼル色の髪に白磁の額、整った眉、通った鼻筋。長く密度の高い睫毛にしっかりと守られた瞳は、光の角度によっては青かった。
 遠い海の向こうから、はるばる日本へやってきた祖父の血。
 生海は生まれて一度だって祖父の祖国へ行ったことはなかったし、英語なんかさっぱりわかりはしないから、自分のこの見た目のことは大して好きではないけれど。
「ああ、そうか、カタツムリでもいいのかな」
 夏衛は水滴の浮くグラスの底を布巾で軽く拭いて、表情なく言った。
「それにしたって残念ね、生海の見た目だったら、大体の女は手に入るのに」
「男でも女でもいいわよ、手に入るんなら」
 好意を寄せてくる人間がいないわけではないし、恐らく自分の見た目だけを好きになってくれる人間なら、掃いて捨てるほどいることはわかっている。
 そんなことは全てわかりきっていることなのだ。
 生海にとって重要なのは、今この瞬間夏衛と時間を共有していることだけなのだから。

「ね、このお店のママ、大分長いこと外に出てるみたいだけど」
「ああ、お得意さんのお誘いだから、仕方ないのよ。私一人でも、お客さんの相手は出来るから別に大丈夫。そもそもこんな平日の早い時間に、ここ、人こないし。生海がきただけでびっくりしてるんだから、私もママも。」
「なんか悪いわね」
「別にいいのよ。お金さえ払ってくれれば文句なんかないから大丈夫」
「嫌な女」
「変な男」
 お互いそれなりの悪態をついて見つめ合った後、酒の回った夏衛は生海に軽くキスをくれた。
「彼氏居るくせに」
「キスして欲しそうだったから」
「不潔だわ。告げ口してやる」
「こんなキス一つで怒る彼氏なら水商売辞めさせられてるってば」
「それもそうね」
「でしょ」
 水商売をしている女友達は何人か居るが、夏衛が一番リズム良くぽんぽんと会話を進めてくれる。彼女は軽口が好きで、お酒が好きで、暗いところが好きだから向いているのだろう。幼い横顔を見て、生海は自分の唇に人差し指を重ねる。
「ねえ今度デートしましょうよ。原生花園、つれてったげるわ」
「いよいよ客と同じようなこと言い出した」
「本気よ」
「いいよ。じゃあ、今度の水曜日、私も生海も講義無いもんね」
「うん」
 約束を取り付けて、生海はぼんやりとテレビに視線をやった。普段はカラオケ用、もしくは客が居ないときの女の子の暇つぶし用のテレビで、客が居るときはつけないらしい。が、生海は夏衛と二人きりの空間が静かすぎるのもなんだか嫌で、テレビを付けてと来店したときに頼んだのだった。平日の八時。ゴールデンタイムのバラエティに、ゲイ能人とか言われる連中がきらびやかな衣装と凄まじい化粧ではしゃいでいる。
 この人達は光輝いているように見えて、その裏側の闇も深く暗く重いのだ。
 生海は別段、男が好きというわけでは無いが、好きになることもある。だが男性としての自覚を持つこともあり、女に恋することもある。今は、夏衛のことが欲しい。
 自分の物にしたい。友達としてだけではなくて。

  そのルックスを活かして夏衛にアピールしたこともあるが、世間一般の女性とはちょっと美意識の軸が違う彼女は見向きもしてくれないどころが、生海の趣向をきいて、ナメクジ、だなんて言い放ったのだった。あんた、それ、聞く人が聞いたら大顰蹙よ、なんて口調で冗談めかしてやるとケラケラと笑って、そっちのしゃべりの方が似合うわ、とか言っていた。
 差別しているわけでは無いが、マイナーなことを全て受け入れる必要は無い、というのが、夏衛の主張のようだった。まあ、否定はしない。生海だって自分がマイナーだと自覚している。

「この人達、明るいね」
 夏衛がぽつっと言った。
 結露するグラスをこまめに拭くところに商売中だという意識を感じる。
「生海とは大違い」
「一言多いわよ」
「だってほんとだもん」
 ハイヒールサンダルの足をぷらぷらさせて(小柄というか足が短いというか)夏衛は頬を膨らませる。そうしていると本当にハムスターに似ている。色気も何も無いわ。
「じゃあ、私も意地悪しましょう。あんたの名前、字面がゴツすぎるわ」
「東堂兵衛の衛だものね」
「名字も安藤じゃない。安藤夏衛ってすごいわよ」
「おじいちゃんがつけたのよね。おじいちゃんが兵衛って、名前だったから」
「あらー」
 だからそんな男臭い性格になっちゃったのね、よしよし、と頭を撫でると、ふてくされたハムスターはきちんと化粧された顔をゆがめた。すっぴんは何度か見たことがあるが、化粧をしていないともっともっと幼く、そして平凡で、派手な見た目の自分が隣に立つと可哀想なくらいに地味なことを知っている。それでも、生海は夏衛が好きだ。
「いまこの国って、男だとか女だとか、境界線が緩いじゃない。いいのよ、別に」
 言ってやると、夏衛は半分になったグラスにウーロン茶割りを足しつつ、唇だけで笑う。
「自己肯定もいいとこじゃない、ナメクジちゃん」
「減らず口ね。私が訴えたらあんた負けるわよ」
「生海がナメクジなら、私なんだろう? ナメクジに好かれるんだから私もナメクジかな」
「あんたねえ……」
 にこにこ笑っている夏衛の、むちむちした唇が、酒に湿って店のセピア色に光っている。その一粒の光をどうしても口に入れたくなって、ちゅっとキスをすると、夏衛はちょっとだけ体を引いた。
「ね、私たち結婚しましょうよ」
 割と本気で告白すると、彼女は丸っこい肩を竦めて、慣れた調子で笑った。
「やーよ」
「あら」
 夏衛はまたグラスを拭いて、空になったボトルの首を掴む。
「新しいのお入れしてよろしいですか?」
「んーん。もういいわ。かえろっかしら」
「じゃ、お会計ね」
 隣の席からぴょんと降りて、カウンターの向こうに回る夏衛のおしりを眺める。こういうとき、生海は自分が男であることをはっきり自覚する。かつて、高校生の時、初めて感じた違和感が夏衛じゃ無くて良かった。大学に入ってから、ある程度物事を割り切れる年齢になってから夏衛に会えて良かった。
「あ、待って夏衛。」
「何?」
「新しいの一本入れといて。グランブルー」
「お名前なんて書いときます? ナメクジ?」
「せめてカタツムリ!」
「ばーか。生海ちゃまって書いとくね」
 変な名前にして、あとでママに言い訳するのは私なんだから、と夏衛は言う。豊かな胸にグランブルーの青い瓶を抱えて、白いマーカーで名前と日付を入れていく。
 その横顔、可愛い睫毛ね。

 からん、と店のベルが鳴って、店のオーナーが帰ってくる。
 お帰りなさい、なんて夏衛は笑っている。

 夏衛のことはほんとに好きだけど、ナメクジの恋って……。
 蛞蝓の恋なんて、ほんと、それだけでかなわない気がするのよ。
 




名無しの顔無し
2014年08月25日(月) 18時46分34秒 公開
■この作品の著作権は名無しの顔無しさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
なめくじって砂糖かけても死ぬよね

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No.4  鈴木理彩  評価:40点  ■2014-10-18 18:58  ID:OV.iKSSikvg
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読ませていただきました。
最初は口調が両方とも女だったので、「?」となる部分もありましたが、分かってからはとても良かったです。
何より、発想が面白いなと思いました。
No.3  名無しの顔無し  評価:--点  ■2014-08-30 14:49  ID:FSd4a9TfDhI
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感想を頂きましてありがとうございます。
返信させていただきます。

shiki様
いつも感想を頂きましてありがとうございます。大変励みになります。
二人の名前は仰るとおり、いくみ、なつえ、と読みます。ちょっと古くて性別がわかりにくいものを選んでみました。個人的に夏衛はお気に入りです。
バイセクシャルの方ですか。生海と同様の方なのかな。私にはバイもホモもレズも友人にいるので、性別への考え方が割と緩いです、が、彼らの所為への考え方を全て受け入れるつもりは無いです。
友情と言うよりは、別の宇宙の価値観を見ている感じです。そういうもんなんだな、的な。
美形の蛞蝓って最高の皮肉だなと思ってます。
大学生の話ばっかりなのは私が大学生だからです。
あほんだら大学生なので、ろくな大学生活では無いですが、楽しみと言っていただけて嬉しいです。
ありがとうございました。


木原 広様
いつも感想ありがとうございます。とても嬉しいです。
私の文章は平淡なので、物足りないと言われることが多いのですが、現代的と評価していただけるとなんだか照れくさいです。ホモだろうがレズだろうがバイだろうが、性は単純な分、影が出来てしまうと凄まじく深いだろうなあと思って書きました。
男性と思われたのは初めてです。笑
境界線なんて揺らぐものです。どちらでもオッケーです!
しかし文章が美人だからと言って本物が……やめておきましょう。
ありがとうございました。
No.2  木原 広  評価:40点  ■2014-08-27 17:45  ID:YCnvT1ZjdsY
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名無しの顔無し様

「マイナ−なことをすべて受け入れる必要はない」けれど、名無しの顔無しさんのピカピカした現代的な文章力は何であろうとも訴えてくるものがあります。ゲイの「裏側の闇も深く暗く重い」としたらレズも同じですよね。余談ですが、最初に名無しさんの作品を読み、作者を男性とインプットしてしまい、途中で女性に気がついたのですが、まだ余韻が残っています(作品と混同しているわけではありません)。仰るように境界は曖昧ですから、男女どちらでもいいわけで、私は作品至上主義です。男とも女ともつかぬあわい描いていてユニ−ク、印象に残ります。文章もいいです。美人過ぎる文章!(なめくじを難しい漢字で書いているのが憎い。漢字だったら気持ち悪くないです。なめくじが偉くなったように見えるし)

No.1  shiki  評価:40点  ■2014-08-26 11:48  ID:/S6hyAqUMcE
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生海(いくみ)・夏衛(なつえ)と読むのでしょうか?
名前が二人とも独特なのが初めのうちは戸惑いましたが、読み進めるうちに気にならなくなりました。
わたしには、バイの友人がいます。女性で、ふつうに女性言葉でしゃべる人です。人として好きですが、男女両方に恋愛感情を持つというのは、実際のところよく理解できないでいます。理解できなくなくても友情は保てるので問題ないんですけどね。
生海は夏衛に恋愛感情を持っているというのがなんとも複雑。
オネエ言葉でしゃべるのでオネエなのかと思うとそうでもないというのがなんか不思議で、人の心のままならなさを感じます。
蛞蝓というのも、人の多様さ、複雑さを自嘲気味に表現しているようで、悲しいながら言いえているように思いました。美形の蛞蝓っていうのがいい対比になっている気がします
名無しの顔無しさんの作品は、大学生が主人公の話で統一されているので大学生気分を味わえて毎回楽しみです。
また期待しております。
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