えいご(投コメよんでね) |
古びた窓が酷く軋む音で目が覚めた。安アパートらしく、昭和の匂いが部屋の端々に染み込んだまま時間の流れに取り残されている。目覚めるたび、自分は何かの間違いで、時空を越えてしまったのではないかと思う。夢の続きではないか、と。 「長い昼寝だったなあ」 間延びした低い声が、何かを咥えたままで喋った。鼻先につくメンソールが、腕を引っ張るようにして私を現実に引き戻した。体を起こすと薄い煙が顔面に直撃し、その向こうに髭を生やした男が眠そうな顔でこちらを眺めている。彼の髭面と目の下のクマは、大学から課された課題が一向に進んでいないことを静かに物語っていた。 「何時、今」 「十一時。十時間も寝てたぞ、お前」 「飽きた。あんたの課題なんかどうでもいいもん」 ぼんやりした頭を抱えて、男が銜えている煙草を掠めとる。彼は軽く唇をつきだした、強面に似合わぬひょうきんな顔で「なんだよ」と呟いた。平成に珍しい愛煙家の彼のために買ったガラスの灰皿は、これ以上詰まれないくらいに吸殻を積み、危なっかしく、微かな振動にも震える。 「喫い過ぎ」 「代わりにお前のおっぱい吸っていい?」 「ばかじゃねえの、死ね。早く課題やれよ。必修の単位落とすとかマジないからなバカ」 「うひょー、こわいこわい」 男は五つも年上らしくうまい具合に躱して、ボールペンを指先でくるくると回した。必修の単位を落とすくらいに危機感が無いくせに、余裕の表情をしているのが気に入らなくて、こたつの中でごつい脛を蹴る。男はちらっと私をみて、あとで遊んであげるからね、とふざけた。 たとえ蹴ろうが殴ろうが、どんな汚い言葉で罵ろうが、男は私を叱るどころか手をあげたことすらない。こちらが怒れば怒るほど、なぜか嬉しそうにしている。真性の変態か、真性のバカか、あるいはそのどちらもだろう。十八の小娘に本気で接そうとしない飄々とした感じに、腹の読めない大人の風貌に、いつだって苛々した。 「ねえ、その和訳不自然だと思わないの」 「ん?」 英語の単位をを落とした彼に課された課題は、授業に使ったテキスト全文の和訳らしい。一番下のクラスの、要するに、高校生の時に英語の授業を全く聞いていなかったか、先天的に英語の才能がない人々が集結した、恐るべきクラスのテキスト。自分から見ると、どうしてわからないのかわからないくらいに簡単な英文が並んだ代物だった。これだったらアルバイト先の塾の中学生達の方がまだ和訳のセンスがある。一番下のクラスである時点で生き恥なのに、あまつさえ単位を落とすなんて。 「単語を一個ずつ大事に訳すのは別にいいけど、日本語として成立してない。たとえばここの文章だったら、who以下を先に訳して、he isの直後に持って来て、彼はこのクラスで数学が最も得意な生徒です、の方が自然だと思わない?」 「おお、賢いな」 「……」 呆れて言葉もなかった。この調子だから十時間かけても二ページしか進んでいないのだろう。もともと頭の作りが完全に理系なのか、理数科目は彼に誰も及ばない。それなのに、文系の科目になった途端これだ。嫌いだとか好きだとか、そういうことではなく、理系にありがちな「興味がない」から「やりたくない」のかもしれない。理系の端くれとして気持ちはわかるが、だからといって全くやらないという訳にはいかないのに。この男、もし私がいなかったらどうするつもりだったんだろう。同い年の男友達とは明らかに違う大人の男が、去年高校を出た女に罵倒されながら英語の課題をこなしている。 ばかじゃないの。B6の鉛筆でスケッチしたような、精悍な顔の作りを見ながらうっすらと思った。骨ばって乾燥する熱い手は、正しい持ち方でボールペンを持ち、きりりとした文字を書いている。私は小さな頃から鉛筆の持ち方が歪だったせいで、右手の薬指にペンだこがある。いつだったか、彼はそれを見て、変な持ち方なのに綺麗な字だなあ、と言ったのだった。 近年稀に見る大寒波の影響か、暗い窓の外は極寒の風が吹き荒れ、どこからか吹き込むすきま風は私の肩を刺した。こたつの中に退散しようとしたが、彼の不自然な和訳の羅列が気になる。凸凹とした質感、全く色が違うのに無理矢理同じグループに並ばされているものだから、せっかく美しい単語なのにひどい色彩を放っている。 ああ、その色はそこに置いてはいけない。 「バカッ」 「うお、びっくりした。どうした」 耐え切れずに罵る。本気でこの和訳を正しいと思っているなら、もう一度中学校からやり直したほうがいい。男はきょとんとして、ボールペンにキャップをした。 「書いてて変だと思わない? それとも、提出課題だから出せばなんとかなるとか思ってる?」 「いや、思ってないよ」 「今の私の質問のどっちに対する答え?」 「どっちも」 「じゃあ余計に質が悪いよ!」 「おー、落ち着け。悪かったよ」 「悪かったとか……」 平然とした感じで言い返されると余計に腹がたって、言ってはいけない、とわかっていたはずの言葉をつい吐き出してしまった。内臓の奥に仕舞い込んでおいた、黒い重い言葉が鋭いエッジで飛びだすのを、私は冷や汗をかきながら見ていた。 「二十三にもなって、いい年こいて、よく平気でいられるねって言ってんのよ!」 ああ。 言っちゃった。 「言っておくけど、正直言ってこんな低いレベルの英語に付き合ってるほどヒマじゃないのよ!こんなのもできないで、恥ずかしげもなく平気な顔で煙草なんか喫ってさ!」 いけない。違う。彼はただ苦手な科目がひとつあるだけなのに。私はたまたま、彼より英語が得意なだけなのに。その他の科目で、彼の背中は追いつけないほど遠くにあるのに。 「お前さ」 眼の表面が干からびそうに熱く、痛み、じりじりと涙がしみた。天井に溜まる煙のように、静かに黙っていた男がしんどそうに口を開くのを、最後の審判が言い渡される気持ちで見ている。同い年の相手ではない。ただただ遊んでこの年齢になったのではない。知っている。 「本当は俺より歳上なんじゃないか、わはは」 「……はあ?」 「ヒマじゃなくても付き合ってくれてるじゃんか。大人の女だな」 にこにこしながら立ち上がった。のっそりと熊のように、大きな足で歩み、私の横にあぐらをかく。そうすると、開けたシャツの隙間からぎすぎすと音が聞こえてきそうな縫い跡が微かに見えるのだった。くすんだ肌色のその場所は、空気が冷たい時期になると未だ痛むらしい。 「忙しかったのに呼ばれたの、本当はやだったんだよな。ごめんなあ」 (ごめんじゃねえよ……) 彼は私と同じ歳の時、センター試験の帰り、交通事故に遭った。三年間進学校で一生懸命積み上げてきたものが全部無駄になったその一瞬以来、生きているのか死んでいるのかわからない境界線の上で、長い間立っていたらしい。境界線は、事故にあった横断歩道に似ていたそうだ。 同じ制服の友達が向こうで待っている、横断歩道の真ん中で、一人。 目が覚めた時、長い長い夢から醒めた時、彼はほんとうに一人で、自覚がないまますっかり大人になっていた。歩道の向こうにいた友だちは、彼を置いて、それぞれに歩いて行った。振り返れば自分よりずっと年下の子供達が、物珍しげに年嵩の彼を見ながら歩いてくる。どうしてここにお兄さんがいるんだろう? そんな目で。それでも一緒に歩かざるを得なくなってしまった。 子供たちの流れに押されて仕方なく歩きながら彼は幾度思ったことか知れない。 自分は何かの間違いで、時空を越えてしまったのではないかと。 夢の続きではないか、と。 「……ごめん、なさい」 「いやあ、俺、本当英語だめだから。お前が怒るのも仕方ないよ。ごめんな」 男は……。 心は私と同じ歳なのだ。 体だけが年をとってしまったから、仕方なく年上を演じている。本当は、生意気な口を聞く自分のことを、顔を潰してしまいたいくらいに殴りたいこともあるに違いない。二度と口をきけないくらいに、恵まれた腕力にものを言わせたいだろう。そうすれば、とても体格では敵わない私は黙るに決まっているのに。泣いて従うに違いないのに。 それをしないのは、彼が自分が時間に置いていかれたことを……。 「これはさ、どう訳せばいい」 男は自然に私をあぐらの上に抱いて、薄っぺらなテキストの一文を指で差した。 I know. 「知っている? それとも、分かっている?」 頭の上に降ってくる低い声に、答えを返してやれない。 あなたは、知っているの。それとも、分かっているの? 自分が時間に置いて行かれたことに。 「Do you know the thing?」 くすんだ傷口に向かって囁くと、答えは上から降ってきた。 「I won’t know.」 見上げた先で彼は微笑んでいた。 全部の答えが、きっとそうなんだと思った。 |
名無しの顔無し
2014年08月18日(月) 20時48分14秒 公開 ■この作品の著作権は名無しの顔無しさんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.6 名無しの顔無し 評価:--点 ■2014-08-25 18:40 ID:FSd4a9TfDhI | |||||
国際気象情報センター様 コメントありがとうございます。励みになります。 表現を褒めていただけるととてもテンションが上がります! 読んでいただきましてありがとうございました。 今後ともよろしくお願いいたします。 |
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No.5 国際気象情報センター 評価:50点 ■2014-08-25 06:30 ID:y0TkzTAmoV6 | |||||
拝読致しました。生きるということの痛さ、人間の辛さ痛みがよくわかる印象に残る作品でした。部分部分の情景描写が素晴らしく、B6の鉛筆でスケッチしたような、などの大変刮目出来る文章には思わず感情が吸い込まれそうで非常にむべなるかなと思いました。内容が稠密でもあり、非常に参考になります | |||||
No.4 名無しの顔無し 評価:--点 ■2014-08-20 10:28 ID:FSd4a9TfDhI | |||||
皆様、感想をありがとうございます。 一括にて返信させていただきます。 木原 広 様 感想を頂きましてありがとうございます。大変励みに、勉強になります。 この男主人公はもともと英語ができなかったのですが、事故に遭ってから他国の言語にまるで脳みそが対応しなくなってしまった、しなくなりつつある、という後出し設定があります。 まあ日本語喋れればいいじゃんね! というスタンスです。 コツンと打つものがこの拙作のなかにあったのはよかったです。誰かの心に波を起こせて幸せです。 いやあ、そもそも新人賞に掌編おくるなよっていうことで、結局別の短編を送ることにしたので、一度削除した作品もそのうちまた再掲させていただきたく思っております。 素晴らしい感想を頂いたにもかかわらず、失礼なことをして大変申し訳ありません。 逆に木原様は私が絶対に書けない作品をお書きになるので、作品ごと現代文の授業をうけるような心境でいます。 ありがとうございました。 shiki様 いつも感想ありがとうございます。とてもうれしいです。 shiki様は拙作から、いいとおもう部分を抜き出して下さるのでとても勉強になります。抜き出していただいた部分を自分でも読み直し、他の作品に生かせるよう書いております。 私はあまり難しい文章、硬い文章に適性がないようで、この文体にたどり着きました。自分のスタイルを見つけつつあるのはよいのですが、もっときりっと書いてみたいものです。 印象深い作品と言っていただけて小躍りしております。 shiki様の次回作も楽しみにしております。 ありがとうございました。 海原 鯨 様 はじめまして。感想を頂きましてありがとうございます。 箇条書きにしていただけて大変分かりやすく、メモをとらせていただきました。 叙述トリックが上手いなんて初めて言われました。うれしくて吐きました。 この二人は仲良しなので、別に煙草を吸っている姿も嫌いではないのだけど、ツンデレ要素の強い女主人公はそんなこといいません。男主人公は熊のようです。 こちらこそ、拙作を読んでいただきまして本当にありがとうございます。励みになります。 あまり言葉遣いや態度が良くないメッセージを残しておりますが、 それも本音であるのでよろしくお願い申し上げます。 ありがとうございました。 今後ともよろしくお願いいたします。 |
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No.3 海原 鯨 評価:50点 ■2014-08-19 23:34 ID:maZ9JF8Rmio | |||||
感想を一度書いて投稿しようとしていたのですが、俺の手違いで全部消去されてしまい……。要点のみ思い出して書きますが、多分言いたいことが繋がらないので何とかそっちの方で丸めてやってください。 ・叙述トリックが上手い ・舞台とヒロインが、主人公の魅力を上手く引き出せていたように思う ・灰皿をプレゼントしながらも、健康を気遣う? ヒロインが素敵 ・文章は、難しくを簡単に、簡単にを面白く、面白くを奥深く。これを凄く見習いたいと思った ・ヒロインと主人公が横に並ぶシーンがとても印象的。そこからの主人公の言動がグッド ・ダラダラ要素のある優しい主人公と、きっちりしてサバサバしたヒロインの設定を重ね合わせて展開を進める、ここ重要! 的なことが書いてあったと思います。あと、「この小説を書いてくれてありがとう」と最後に打った覚えがあります。大好きな作者様を思い出しました、とかで。絶対違う人だけどね!!!! |
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No.2 shiki 評価:50点 ■2014-08-19 12:25 ID:/S6hyAqUMcE | |||||
拝見させていただきました。 生きるということの痛さを感じる作品でした。 リアルにいそうな登場人物達に心が揺さぶられます。 >B6の鉛筆でスケッチしたような、精悍な顔の作りを見ながらうっすらと思った。骨ばって乾燥する熱い手は、正しい持ち方でボールペンを持ち、きりりとした文字を書いている。私は小さな頃から鉛筆の持ち方が歪だったせいで、右手の薬指にペンだこがある。いつだったか、彼はそれを見て、変な持ち方なのに綺麗な字だなあ、と言ったのだった。 この文章が妙に印象に残っています。 全体に読みやすく、でも読み手を切り付けてくるような鋭さもある文章で、完成されているなあ、と羨望をいだきました。 なんか上手くかけなくてすみません。 すごく良かったです。(←子供の感想文かっ!笑) 印象深い作品有難うございました。 |
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No.1 木原 広 評価:50点 ■2014-08-19 06:26 ID:YCnvT1ZjdsY | |||||
名無しの顔無し様 短いけど、とても面白く、怖い気持ちで読ませてもらいました。交通事故に遭遇して他の科目はできるのに英語だけができないという人ですね。映画監督のスピルバ−グは学校時代は学習能力のない人だったそうで、何か原因があるのでしょうね。「バカ、死ね」と乱暴な言葉を吐きながら、関わりな続けているのですが、生きることの困難さ、どうしょうもなさが伝わってきました。コツンと打つものがありました。「Iwon’tknow」は切ない言葉です。男にも女にも感情移入ができました。よかったです。前の作品も読もうとしたのですが、削除されていました。 新人賞はネットでも掲載したらダメということですか。太宰治賞は営利でなければよい、とTCに書いてありますが。これに懲りずにドシドシ応募されることを期待しています。名無しさんの作品は私の中に眠っている欠損や欠如感覚を呼び覚ましてくれます。 |
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総レス数 6 合計 200点 |
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