ぐるぐるまわる
 僕は馬に乗っていた。メリーゴーランドにあるような、ピンクと青と金色に塗られた、体中が白くぼんやりかがやく、朝焼けみたいなつくりものの馬だった。今にも走り出しそうに、勇ましく前足を蹴り上げたままの姿勢でぴたりと固まっていた。
「ねぇ、ここがどこだか知っている?」
 馬に話しかけてみるけれど、濡れたような黒い瞳は、ぼんやりとどこかを見つめたまま、ちょっとだって動かない。僕はまわりを見渡した。前も後ろ右も左も、ずうっとひたすらにただ真っ暗。そっと馬の灰色のたてがみに触れてみると、手のひらが固く跳ね返されて、胸のあたりがきゅっと冷たくなった。
「どうしてこんなところにいるんだろう」
 その時、視界の端で何かが光った。暗闇に目を凝らすと、今度は二回、ちかっちかっと白い光が瞬いた。遠い先の地面に、僕ら以外で光るものが落ちているらしい。
「行ってみても大丈夫かな。どう思う?」
 少し迷って、馬を降りることにした。あれが何か確認したら、すぐに駆け足で戻ってくればいい。腰を浮かして、片足を上げようとしたところで、
「やめておいた方がいいよ」
 いきなり響いた声に、僕はびっくりして落馬しそうになり、慌てて馬の背中にかじりついた。後ろの方で、誰かが小さく笑った声が聞こえた。
「あれには触れちゃいけないし、その馬から降りるのはもっといけない」
 振り向くと、小さな女の子が一人、立っていた。僕らと同じように、ぼんやりと光っている。彼女は工事現場にいる大人が着るような紺色のつなぎを着ていて、右肩から大きくて真っ白なショルダーバックを下げていた。片手には、銀色の小さな箱を持っている。
「少し待ってて」
 そういうと、女の子は光るものを拾って戻ってくると、ぱっと僕に差出してみせた。
「ね、たいしたものじゃないでしょう?」
 女の子のぷっくり丸い手のひらには、真っ黒なじゃがいもみたいな石がのっていた。形もぼこぼこといびつで、表面はぺったりしている。じっと見つめていると、石の全体がちかっと一度、白く光った。こんな暗闇の中で間近で見たにも関わらず、その光は弱々しく、僕の視界にはぼんやりした残像すら残らない。
「これは、転がり落ちちゃったものなの」
「転がり落ちるって、どこから?」
 尋ねると、女の子は上を指さした。顔を上げると、はるか頭上に、両手いっぱいに広げても収まらないくらいどっぷりと広い、一本の光の川があった。川はずうっと遠い暗闇の先の先まで続いている。
「あの光の川は、きれいなものしか流さないの。最初こそみんな一緒だけど、こういうものは、流れの途中で転がり落ちてくるんだよ」
「じゃあ、もしかして、僕もあそこから転がり落ちてきちゃったのかなぁ」
「まさか! 全然違うよ」
 女の子は弾けるように笑う。白く柔らかそうな頬が震えた。
「あんた、今ここらへんで、ちょっとした有名人だよ。みんな探してる。元の場所まで連れて行ってあげるよ」
「本当!」
「うん。これも一応、わたしの仕事だからね」
 仕事、という言葉を口にするとき、女の子はすこし誇らしげに胸をそらした。
「わたしの仕事は、ここらへんに落ちているものを拾い集めることなの。ほら」
そういうと、女の子はショルダーバックの金具を外し、中を開いた。その中には、丸かったり尖っていたり、様々な形の黒い石がぎっしりと入っていた。
「とっても重そうだね」
「全然! まだまだ大丈夫だよ」
女の子はふんと鼻をならすと、手に持った石をバッグの中にしまった。それからちょっと背伸びをすると、馬の頭に手を伸ばし、何度かそっと撫でた。
「ねぇ、ちょっとだけでいいから、起きてくれる? この子を連れて行きたいの」
 すると、空中でぴったり停止していた馬の前足が、急に地面に着地して、僕の体はがくんと揺れた。馬は二、三度頭を左右に振ると、ゆっくりと歩き出す。僕は慌てて手綱を握り締めた。
「すごい、馬が動き出した!」
「あたりまえだよ、馬は動くものだもん」
 女の子は馬に並んで歩きながら、呆れ顔で言う。
「あんた、本当に何も知らないんだね」
「……うん。でも、知らないのと同じくらい、何でも知っているような気がするんだ。自分の名前だって知らないのに、変だよね」
「ううん。名前が無いのは、あんたはまだ名づけられてないってだけのこと。ごめんね。何も知らないのは、あんたのせいじゃない」
 慌てた口調で慰めてくれる女の子の言葉に、僕は納得した。そうか。僕はまだ、名づけられていないだけなのか。
「じゃあ、君の名前は、なんていうの?」
「わたしは、小ねずみ!」
「小ねずみ?」
「そうよ、素敵でしょ」
 言って、女の子はくふふ、と嬉しそうに笑った。
 突然、馬が左右にぐらぐら揺れた。そんなに大きな揺れではなかったけれど、僕は慌てて紺色の手綱を強く握りしめ、ぎゅっと内腿に力を入れる。どこからか、ひひ、ひひっと、こらえるような笑い声が聞こえてきた。声は低く、大人の男性のようだった。
「なんだよそれ、変な名前だなぁ」
 笑い声が、言葉を話した。僕はびっくりして飛び上がる。
「なぁ、あんたも変だと思うだろ?」
「もしかして、しゃべっているのは、君なの?」
 馬の瞳を覗き込むと、白く長いまつげが肯定するようにゆっくりと瞬いた。
「すごい、馬がしゃべった!」
「あたり前だろ、馬はしゃべるもんだ」
 ここではな、と馬は付け加える。
「何よ、そんなに笑わなくてもいいじゃない」
 小ねずみが、ぶすったれた顔で言う。
「わたしは、呼びやすくていい名前だとおもうけど」
「そうか? 俺はどうかと思うけどね」
 言って、なおも笑い続ける馬の態度に、小ねずみの両肩が心もち落ちた。
「わたしの名前、そんなに変かな。仕事が一人前にできるようになったときに、付けてもらった名前なんだけど……」
 少し赤くなった目で、小ねずみが僕を見上げる。その顔を見つめて、僕はなんだと笑った。
「君って、ちょっとハムスターに似てるよ。だから、きっと小ねずみなんだ」
「ハムスター?」
「そう、手のひらに乗るくらいの、小さいねずみのこと。目がくりくりして、鼻がちょんとしてて、毛がすごく柔らかくて、とっても可愛いんだ」
「可愛い……」
 小ねずみは嬉しそうに目を細めると、もう一度くふふ、と笑った。
「やっぱり、素敵」
「おれはやっぱり変だと思うけどなぁ」
 なおも食い下がる馬のお尻を拳で軽くたたくと、空っぽの体の中をとおって、僕のお尻にコツンと振動が返ってきた。因果応報だな、と馬が笑った。


 僕たちは、光の帯の流れと同じ方向に歩いた。小ねずみはしきりにあたりを見回し、ちらりと瞬いた光を頼りに、石を拾って集めてはショルダーバックに入れて行く。小ねずみが一歩足を踏み出すたびに、その中からかちゃかちゃと石同士がこすれあう音が聞こえた。
「僕の後ろに乗ったら? 高いところからの方が見つけやすいと思うよ」
 小ねずみは少し黙り込んだ後、それには乗っちゃいけないことになっているから、と首を横に振った。
 しばらく歩いていると、突然、小ねずみがあっと小さく声を上げて立ち止まった。しゃがみこんでじっと地面を見つめ、片手に持っていた銀色の箱を開くと、中から金属でできたヘラと、てっぺんに赤いスポイトのついた茶色の小瓶を取り出した。
「どうしたの?」
「ちょっと、面倒なもの」
 手にぴったり張り付く薄い手袋を付けながら、小ねずみが言う。僕は地面を凝視した。そういえば、なにかうっすらと盛り上がっているような気もする。
小ねずみが小瓶から液体を地面に2、3滴落とすと、一瞬、地面にオレンジ色の炎が上がり、ギャっと悲鳴のような声がした。小ねずみはヘラを地面に押し当てると、がりがり何かを削りはじめる。箱から透明なビニール袋を取り出し、削り取ったものを入れて口を縛った。見ているだけで胸のあたりがむかむかしてくるような、どす黒い破片が入っていた。
「それも、さっきと同じ石?」
「そうだよ」
「まったく贅沢な話だよな。せっかく与えられたものを、自分から放棄するなんて」
ケッと馬が吐き捨てる。
「でも、見つけられてよかった。誰かが見つけない限り、これは永遠にここに居続けることになるから」
 銀色の箱に道具をしまいながら、ほっとした様子で小ねずみが言った。
 見たくない、気持ち悪いと思いながらも、僕は袋の中の黒い破片から目が離せなくなっていた。いきなり地面から削られ、僕の視線にさらされたことに緊張しているのか、破片はぎゅうっと身を固くしているような気がした。そんなことをしたって何も変わらないのに、まるで自分の存在を知られることを恐れているように―――自分の存在を恥じらっているかのように、できるだけ小さく見えるよう縮こまっている。冷たくて薄べったいその羞恥が、僕の胸をすぅっと冷たくする。
「大丈夫だ」
 ぼそりと、小さな声で馬がつぶやく。
「あんたには俺がいる。信頼しろよ。こんな場所には、絶対に来させない」
 静かで強い声だった。僕はもう一度、手綱を強く握りなおす。


 暗闇の中にぼんやりとオレンジ色に輝くアーチが見えたのは、そのあとすぐのことだった。
「おや、小ねずみ。もしかしてその子、例の子?」
 アーチの前にいた男が、僕らを見て声を上げる。男は僕たちよりずっと大人で、すらりと背が高くて、白いシャツに真っ黒なスーツを着ていた。
「そうだよ。途中で拾ったの」
「そうか! それは良かった」
 男はポケットから無線を取り出し、ちょっと離れた場所に行き、何やらやり取りをしはじめる。切れ切れに、迷子が、時間が、といった言葉が聞こえてきた。
僕の横で、小ねずみはどこか居心地悪そうにもぞもぞしていた。アーチは、ただそこにぽんと置かれているだけのようで、その先はまた暗闇。けれどその中が気になるらしく、ちらちら視線を向けたかと思えば、ちょっとかかとを浮かせて、アーチの向こうにあるものを見ようと首を伸ばしてみたりする。
僕の視線に気が付くと、小ねずみは恥ずかしそうに首を引っ込めた。それから、男に聞こえないくらいの小さな声で、
「わたしは、この先には入れないの。そういうルールだから……」
「でも、入りたいの?」
 尋ねると、小ねずみはちょっと黙り込んだ後、小さくうなずく。
「やぁやぁ、待たせたね。さあ、中へどうぞ」
 男が僕に近づき、にっこり笑った。
「小ねずみも一緒にいいですか?」
「小ねずみも? どうして」
「だって、入りたいと言っているから。どうしても、駄目なんですか。ちょっと見るくらいでも」
「本当かい、小ねずみ」
 男の言葉に、小ねずみは恐る恐るうなずいた。
「なぁ、中に入るくらい、別にいいんじゃないか。そいつのおかげでこいつも見つかったことだし、ご褒美くらいあげてもいいだろ」
 そう言ったのは、意外にも馬だった。男はうーんと唸った後で、顎に手をあてて考えているようだったけれど、少ししてから、よしっと声を上げた。
「じゃあ、今回だけ特別だ。でも、決して乗り物に触れちゃいけないし、乗ってもいけない。わかったね?」
「本当に、いいの?」
 呆然としたように、小ねずみがつぶやく。約束を守れるならね、と言う男に、何度もかくかくとうなずいてみせた。
アーチをくぐった途端、ぱっと視界に光が満ちて、僕は思わず目を閉じた。瞼の裏まで白く染まるくらいの眩しさだ。少しの間そうした後、そっと目を開けると、透けるくらいに晴れやかな青空が目に飛び込んできた。驚いて周囲を見回すと、あたり一面、コーヒーカップがずらりと並んでいた。遊園地にあるような、ぐるぐる回るあの遊具のコーヒーカップだ。
「すごい……」
 上ずった声で小ねずみがつぶやいた。興奮しているのか、頬に赤みがさしていた。
「さ、君の場所はずっとこの先だ」
 男はひらひらと手を振りながら、軽い足取りで石畳の通路を進んで行く。馬が歩き出し、その隣に小ねずみも早足で並んだ。
 まるで、コーヒーカップの森に迷い込んだみたいだった。よく見れば、人が乗っているもの、動いているもの、停止しているものがある。人が乗っているカップには、それぞれ一人ずつ腰かけている。男も女も、年齢も服装も様々だったけれど、みんな眠っているように首をがくんとたれ下げたままの姿勢なのは同じだった。どこから聞こえてくるのか、オルゴールの優しい音色が響いてくる。
 通路はずうっとまっすぐに続いていた。しばらく行くとまたアーチがあって、そこをくぐると、今度はジェットコースターだった。青空を埋め尽くすように、無数のレールが蛇のように絡み合っている。悲鳴も歓声も、人の声らしい音が何一つ聞こえない中を、僕たちは進んでゆく。
通路の側にぽつんと佇む、ソフトクリームの屋台の前に差し掛かると、男はぴたりと足を停めた。屋台にはピンクのワンピースを着た若い女の子が一人、頬杖をついていた。
「バニラを3つ」
女の子は一度大きく瞬き、すっと立ち上がった。屋台の上にかかっている深緑色のひさしが、屋台に薄暗い影を落としている中で、女の子の肌はきらめくように白い。感情のない横顔は、まるで人形のようにぺったりと均一だった。
「良ければ、どうぞ」
 僕たちにソフトクリームを差し出しながら、男が言う。女の子は、さっきと同じように頬杖をつき、ぼうっとした眼差しでどこか遠くの一点を見つめている。
「馬の君にはあげられないけどね」
「そんな子供だまし、俺には必要ないね」
 馬はふんっと鼻を鳴らした。 
僕と小ねずみがお礼を言ってソフトクリームを受け取ると、男は再び歩き出した。その後について行きながら、僕はソフトクリームに舌を絡める。
「美味しいね」
 声をかけると、小ねずみは困ったような顔でソフトクリームを見つめていた。どうしたの、と言うと、小さな声で、これってどう食べるの、と言う。
「舌ですくって食べるんだよ。こんなふうに」
 僕の動作を、小ねずみはじっと真剣な面持ちで見つめていた。それから、ゆっくり赤い舌をだして、ソフトクリームをぺろりと舐めた。
「甘くて冷たい」
 小ねずみが、目を大きく見開いて声を上げる。
「すごく美味しい……素敵な味!」
その言葉に、前を行く男の肩がほんのすこし揺れた。
振り返ると、そこにはもう屋台の姿はなくなっていた。僕は前を向いて、ソフトクリームの先っぽを一口食べる。女の子の肌と同じくらい白くてなめらかなバニラ味が、舌にひんやりと甘く冷たく行きわたった。


ジェットコースターの次は観覧車だった。観覧車のある場所から次へ、アーチをくぐると、空気が変わった。一息吸うと、胸の中に懐かしさが満ち溢れて、僕は切なさにたまらなくなった。
「さぁ、ここが君の場所だ」
 男は無数にあるメリーゴーランドの中の、一台を指さした。夢見るような色彩できらきら輝く、豪華なケーキのような遊具。男が、まわりをぐるりと囲んでいた柵を開け、僕たちを手招いた。メリーゴーランドには、僕が乗っているのと同じような馬が並んでいて、その背中には人が乗っている。等間隔に並んだ馬たちの間に、ぽっかりと空いた場所を見つけて、泣きそうになった。知っている、ここは僕の場所だ。
「……いいな」
 ふいに、ぽつりと小ねずみがつぶやく。
「わたしも早く、ここに乗りたい」
 その言い方があまりにも切実で、僕は思わず男の顔を見た。
「小ねずみを一回だけでも乗せてあげることは、できないの?」
「それはダメだ。いくら小ねずみが君を連れてきたとはいえ、それは絶対にダメだ」
 今まで穏やかだった男の顔が、キッと厳しく吊り上がる。
「何事にも順番がある。それを乱すことはしちゃいけないんだ。君は自分のことだけを考えていればいい。小ねずみのことは、口出しするな」
 心臓が握りつぶされそうなくらい、冷たい声だった。
「大丈夫、わたしちゃんとわかっているから! 変なことを言って、ごめんなさい。もう、持ち場に戻りますから、怒らないで」
 小ねずみが慌てて声を上げる。男は少し黙り込んだ後、ふうっと大きく息を吐き、困ったように微笑んだ。
「小ねずみの気持ちは、よくわかるよ。でもね、順番は、誰にでも必ずくるんだ。だからあせっちゃいけない。わかるね?」
「はい」
「大丈夫。小ねずみは働き者だから、きっと誰かが見ていてくれるよ。絶対に。さっ、そろそろこの子にも戻ってもらわなきゃ。お別れの時間だ」
 お別れ。僕は、ハムスターに似ている小さな女の子を見つめた。
「本当に、いろいろありがとう。仕事、頑張ってね」
なんて言えばいいのかわからずに、気の利いた言葉が出てこなかった。小ねずみは力強くうなずくと、にこりと笑った。
「あんたが無事に生まれて、幸せな時間を送れるように、祈ってる。くれぐれも、わたしみたいにならないでよ。仕事仲間はもう、たくさんいるんだからね」
 その言葉に、どくりと一度、大きく鼓動が波打った。
 ああ、そうか。そうだった――僕はこれから生まれるんだった。その瞬間を、僕は今まで何度も繰り返してきている気がした。だから、何も知らないのに、何もかもを知っているような気がしたんだ。このメリーゴーランドは、命の遊具だ。そしてここでは、誰もが遊具に乗りたがっている。
小ねずみは、足早に柵の向こうに行ってしまった。僕は馬のお尻を、拳で軽く叩く。
「なんだよ」
「なんか言うこと、ないの?」
「……なんだよ」
 面倒くさそうに言った後、馬はふんっと大きく鼻を鳴らした。
「名前のこと、バカにして悪かったよ」
 大きな声で馬がそういうと、柵の向こうで佇んでいた小ねずみが、嬉しそうに手を振った。きっと、くふふと笑ったに違いない。馬のたてがみをできるだけ優しく、ゆっくり撫でると、馬がひひっと笑った。
 僕らは、僕らがもとにいた場所に戻った。すると、天井からするすると金色の棒が伸びてきて、男がそれを馬の頭に取りつける。馬の瞳は、最初と同じように黒く濡れていたけれど、もう二度と瞬くことはない。
「小ねずみの順番は、まだまだ後なの?」
「そうだね、そう早くはない――けど、他の人よりは、ずいぶん早いよ。だってあの子は、生まれなかったものだからね。君はそうならないようにしなさい。そして、あの川の最後まで行きつけるような生き方をしなさい。わかったね?」
 そういうと、男は僕の額に手のひらを置いた。ひんやりと冷たい、大きな手のひらに、僕の頭の中にある熱が奪われてゆく。まどろむ意識の中で、小ねずみの紺色のつなぎが、ぐにゃりと歪む。肩から下げていた白いショルダーバックを、その中身のことを思った。もちろん、あの黒い破片のことも。
 体がふわっと前に進んで行く感覚がした。メリーゴーランドが動き出したのだ。
 とても遠くで、やさしい女の人の声が、僕を呼んでいる気がした。
 視界が暗闇に閉ざされる。けれど、僕の暗闇は温かく、そして次には、光に満ちるとわかっているから、何も怖くない。
猫丘
2014年03月04日(火) 21時59分52秒 公開
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■作者からのメッセージ
はじめまして。初投稿です。
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