ハンスの募金缶
「よいか! 飢えに苦しむ者も、寒さに凍える者も、一人として出してはならない! 今こそ、全国民が貧困と闘い、決別する時なのだ! 君達もまた、更なる募金活動によって、国家に寄与することが求められる!」
 壇上から、槍で刺すかのようだった。その下で背筋をぴんと張り、起立している少年の一団は、困惑を隠せない。
「二週間! 二週間だ! 次の集会までに、この募金缶を各自、一杯にしたまえ!」
 募金缶が高く掲げられると、動揺は抑えきれずに、ざわめきとなって広がった。その要求の困難さは集会の規律よりも重く少年達を襲い、不平不満の囁きは今やはっきりと聞こえるようになっていた。姿勢は崩れ、隊列が乱れ始める。
「静粛に!」
 少し間を置き、両手を演壇に付け、身を乗り出し、
「次の集会では、いよいよテオドール少佐がお見えになる。我々に貴重な時間を割いて、演説をくださるのだ。また、募金活動において優れた成果を挙げた者には、お声をかける機会を設ける予定である」
 一転、集会所は歓声で沸き立った。少年達は顔を綻ばせながらも、改めて背を垂直に伸ばし壇上を食い入るように見つめている。語り聞かされた勇敢なる兵士達は今や彼らの憧れの的で、まして少佐なぞと言ったら遥か彼方の夢に住む英雄だった。
「テオドール少佐に、恥じぬよう、募金活動に精進するように!」
 帰りの道すがらの話題は、これで持ちきりだった。誰もが希望を膨らませていた。学校の国語の授業中でも、次の少年団の集会へと心は弾んでいた。



 ドイツ、ケルンの冬の街は寒く、ハンスの吐く息は白い。何処からか訪れた厚い雲が空をうす暗く覆い、バルト海をくぐった北風は身体を芯から震えさせる。毎年、路上で寝食する人びとの多くの命を奪い続けた冬の冷気だが、今年は特にそれが酷い年だった。
「寄付をお願いします。冬季救済事業に、寄付をお願いします」
 ハンスの声は細く、雑踏にかき消えた。息の跡だけが少しの間留まり、それも直ぐに溶けていった。コートの襟を掴みながら歩く男達も、夕食に間に合うよう駆け足の女達も、少年には一瞥もくれず家路へと急ぐ。
「寄付をお願いします。冬季救済事業に、寄付をお願いします」
 声はまた一段と、心許ないものとなった。誰も見向きさえしない。ハンスは灰褐色の壁に小さな背をつけ、通りを行き交う群集を見守るしかなかった。石畳に溜められた冷たさは靴越しにも伝わり、募金缶を掴む手は風に晒され赤くなっていた。
「寄付をお願いします。冬季救済事業に、寄付をお願いします」
 声はいよいよ小さく掠れ、壊れたレコードのようだ。灰色の家々に赤茶の屋根が乗ったこの街でそれを聞き取る者など居ないことは、ハンスにも良く分かっていた。数え切れないほどの革靴が延々と行き交い、しかし誰一人とて止まらぬ風景を、彼はただ眺めていた。石畳をまるで踏みつけるかの如く、闊歩する靴の数々。その中で、しかし、軽やかにステップするかのように流れを縫って行く小さな足が、ハンスの目に止まった。見上げてみると、それはヴォルターのものだった。

「こんにちは、お嬢さん。どうか救済募金に、ご協力お願いします」
 にこやかに微笑みながら、ヴォルターは円筒状の募金缶を婦人の前に差し出す。
「やあねぇ、もう募金なんかしたわ。ほら」
 婦人が指差した胸元には、バッジが鈍く光っていた。募金缶にお金を入れる代わりに、少年達から受け取るオモチャのような小さなバッジだ。星空の下で袋を担いだサンタが刻まれている。それは婦人が既に国民の義務を済ませていることを証明していた。しかし、ヴォルターは顔を崩さず、
「ああ! もう募金を終えているとは、なんて聡明で優しいお嬢さん! どうです? その優しさをここにも分けて頂けませんか?」
「まぁ、口達者な子だこと」
「いやいや、ここで募金してくだされば、もうこんな目には会わせません。二つもバッジを付けた真摯で賢いご婦人から、金をせしめ盗ろうなんて、誰が思うものですか!」
 芝居がかった大袈裟な身振り手振りで言ったものだから、婦人は思わずくすりと笑い、つれてヴォルターもより大きな笑みを浮かべた。
「しょうがないわねぇ」
 婦人は渋々、ポケットから十ペニヒ硬貨を二枚探り出し、募金缶へと入れた。金属が缶の中で弾む鈍い音がした。すると「ありがとう」と満面の笑みで両手を握られ、それがまるで宝物であるかのような眩い目でバッジを渡されたものだから、婦人はすっかり上機嫌となり、スキップをするかのように去っていった。
 ヴォルターは一つ大きく息を吐いて、次の獲物を探そうと辺りを見回す。すると街路の隅っこで、ハンスが震えながら覗いているのに気が付いた。



 ヴォルターが近づくと、ハンスの鼻に何時ものそれがやって来た。ヴォルターからは外国の香水、例えばスイスやフランスのような、クラスメートの誰とも違った爽やかな香りがぷんとするのだ。
「調子はどうだ? ハンス?」
 こっちは絶好調だ、と続ける代わりにヴォルターは募金缶を横に振る。ジャラジャラと硬貨が擦り合う音がして、羽振りの良さを伝えていた。ハンスもまた、応答をする代わりに募金缶を振る。カランカランと、幾つかのコインが缶の中でぶつかる音がした。
「こんな調子…… 僕には無理だよ。やっぱり……」
 俯いたハンスの顔は青く、元気が無い。ヴォルターはそれを払うように、ことさら陽気に話しかけた。
「そんなことはないって! まだ始まったばっかりだぜ」
「でも……」
「いいか? お前は出来るやつだ。結果が伴わないだけで、他の誰よりも頑張れるやつだ。俺が言うんだから間違いない」
「ちっ、違うよ」
「全くなー。ちょっとは自信を持てよ。わかった! コツを教えてやる。ざっと掴めば、後はお茶の子さいさいだ。いいか」

 ヴォルターは自然な声の掛け方から、稼げそうな時間帯まで、事細かに教えてくれた。それは学校の先生の授業よりも親身で、また楽しく愉快にさせるものばかりだった。ハンスは彼の洗練された身振りや格好、ましてや人を惹きつける朗らかな調子を持てずに、形だけ真似たところで、それが無駄に終ることを知っていた。けれど、本当に熱心に教えてくれる姿に心打たれて、話の区切り毎に真剣に頷いたのだった。
 ハンスは勉強も運動も下から数えた方が早く、何をするにしてもドベの方に残る何処にでもいる落ちこぼれだった。一方ヴォルターは勉強も運動もよく出来て、何をするにしても一番で、人当たりも良く話上手だったから、街が誇るような人気者だった。ハンスのような子にも優しく接するその姿勢こそがヴォルターの人気を不動のものとしていたのだが、とにかく二人は親友であり、それはハンスにとって心から嬉しく有難いものだった。
 最後にハンスが力強く「うん!」と答えると、ヴォルターは照れくさそうに笑いながら募金活動へと戻っていった。その別れ際に思い出したかのように
「なあ。グスタフって奴、知ってるか?」
「うん、一つ上の学年の……」
「小汚い方法で、金を集めてるって噂だ。一応、気をつけとけよ」
「ん…… 負けないでね」
「んっ? 何だ?」
「負けないでね! そんなのに! ヴォルターが一番になるって、僕、信じてるから!」
「おう! 負けるもんか! お前も頑張るんだぞ!」



 夕食は、ライ麦パンとソーセージに、ジャガイモのスープだった。冷えた身体にスープは温かくて、ほくほくして、ハンスは二度もお代わりをした。仕事から帰ったばかりの父が、煙草をふかしながら、その横で新聞紙を捲っていた。
「それで、どうだ? 募金は集まったのか?」
「えっ、えっと……」
 言葉が途切れたのを隠すように、ハンスはスープを口に運んだ。それから
「まぁまぁだったよ。うん」
「よし、少し協力してやるか」
 ハンスがこう答える時は好ましくない事態を取り繕っていることを、父はよく知っていた。財布を開けながら、説き伏せるように続ける。
「父さん、まだ募金して無いんだ。それに、貧窮と断固として闘うと言う、政府のやり方にも痛く共感している。だからな、少し多めに寄付させてくれ。見ず知らずのガキ共にくれてやるより、よほどいい」
「いらない!」
「どうしてだ? 多かれ少なかれ、皆やっていることだろう?」
「いらない! そんなズルなんかしたくない!」
 ハンスは残りのスープなどお構い無しに、席を立ち自分の部屋へと出て行った。父は眉をしかめて、再び新聞へと目を通す。
「どうしたのかな?」
「あの子も男の子ですもの。これ位で丁度いいのよ。むしろ遅いくらい」
「そんなものか。俺には無かったがな」
 流し場で食器をカチャカチャさせながら、母は微笑んでいた。

 ハンスは眠れなかった。一昔前の彼ならば、父の申し出を喜んで受け入れていたに違いない。いや、事実父に語りかけられるまで、ハンス自身それを密かに期待していたのだ。しかし、いざそうなった瞬間、ハンスの頭の中で、まだ見ぬテオドール少佐の怒りの顔が、街頭で溌剌と弾むヴォルターの小さな靴が、橋のたもとで眠る浮浪者やよれよれになった失業者の姿まで、次々と浮かんでは重なったのだった。すると同時に、今までの寒さが一気に煮え立つほどの熱いものがハンスを貫き、居ても立ってもいられなくなり、席を立たされたのだ。それはハンスが初めて経験する衝動だった。
 ハンスは机の上に置かれた募金缶をじっと見ていた。明日は休日だから、早めに寝て、早めに外に出て行って、募金活動を始めなくてはならない。けれど、腹の底をぐるぐると回る熱が、寝付く事を許さなかった。結局ハンスは一睡もせずに、まだ母が目を覚ます前から、街の中心部に位置する大通りへと飛び出していた。



 休みの日の朝方は、何処もまだ眠ったままだ。何時もなら絶え間なく混雑する街一番の大通りも、例外ではない。十五分ほど前にふらふらと中年の男が渡り歩いて以来、寒さと静けさだけが辺り一面に積もっていた。ハンスはそこに立ちながら少年団の制服の襟や裾を正すと、少しだけ誇らしい気持ちになった。糊の張ったそれに負けまいと、身体を棒のように真っ直ぐにし、胸を張る。制服は魔法のようだった。普段はデパートで売っているような服を着ている男の子も、お下がりばかり着ている末っ子も、同じ茶色の制服を着るのだ。そこには確かに目に見える形での平等があった。連帯感があった。
「寄付をお願いします。冬季救済事業に、寄付をお願いします」
 誰も居ない虚空に向かって、彼は声をあげた。もう一度、
「寄付をお願いします。冬季救済事業に、寄付をお願いします」
 こうして、ハンスは何度も何度も繰り返しそれを口にした。少しずつ声は大きく、太くなり、より高く響くようになっていった。やがて人が通い始めると、その多くがハンスの方へと目を向け始めた。昼になって人混みが生まれ沢山の話し声が喧騒となっても、ハンスのそれは決してへこたれることなく、通りを駆けるのだった。やがて、少しずつ募金缶に余った小銭を入れてやろうと思う者も増え、それに応じてハンスの声に喜びと誇りが加わり、また一段と高く声が発せられた。彼がハンスに目を留めたのはそんな時だった。

「おい」
 ハンスが振り返ると、大きな風体の少年が見下ろしていた。横に一回り小柄な取り巻きが二人並んでいるが、それもハンスと比べればずっと立派な体格だ。大柄の男は、きょろきょろと見回すハンスを抑えつけるかのように、睨みを利かせ、話しかけた。青い目が濁っていた。
「でっかい声を出して。頑張ってるみたいだなあ」
 何処か笑いを堪えているかのようで、同時に威圧しているかのようなその口調を、ハンスは遠くから良く耳にしていた。グスタフだ。
「なっ…… 何の用なの?」
 声は枯れていた。慣れぬ大声を絞り続けたせいで喉が酷く痛んでいることに、ハンスは今更ながら気付いた。そこから恐れを読み取ったかのように、グスタフは満足気な表情を浮かべ、彼の取り巻きもまた狐のように顔を歪めた。
「いや、な。随分と熱心に張り切っていると、なあ。どうせ少佐様に釣られたのだろうけどな」
 軍の上官のようにわざと勿体ぶった喋り方をすると、グスタフは両手をハンスの両肩へと置いた。ハンスは身をすくめたが、がしりと掴まれる。丁度フットボールのスクラムのようだ。グスタフは腰を屈めながら、見下ろす。
「ほら、こっちを見ろ! 相手の目を見て話せと、教えられなかったのか!」
 返事はない。頭は真っ白で、ハンスは何も出来なかった。
「お前らがいくらやっても、そんなもん、どうせ叶いっこないんだ! わめいたって目障りなだけなんだよ! クズは何をやってもクズなんだ! わかったな!」
 震える唇で、「うん」と頷く。取り巻きがどっと笑った。
「まあ、しかし、お前のした事も、決して悪いことばかりじゃない。他人に少しでも役立とうとするのは、なるほど、たいした心構えだ」
 少し柔らかくなった口振りに、ハンスは顔を上げた。グスタフはそれを確かめると、右手をハンスの肩に乗せたまま、もう片方の手で取り巻きから自身の募金缶を取った。それを顔に押し付けるようにして、
「だからな、寄付してくれよ。坊ちゃん。飢えに苦しむ哀れな貧民の為にさあ」
 右肩の手に力が入り、ハンスは顔をしかめたが、弱まることはなかった。
「なあ、考えてもみろ。お前なんかの菓子代に消えるよりも、ずっと有意義だろう?」
 ハンスはただ、しどろもどろとしていた。
「頭の悪いクズが! 財布を引っ張り出して、これに入れろって言ってるんだよ!」
 唾が頬にかかり、怒号が耳をつんざいた。ハンスは涙を溜めながら、財布をポケットから出した。
「マルク札も渡しな。全部だ。後から俺が両替して、貧しい民衆の為に寄付しておいてやるからよ」



 ハンスはそれに従うつもりだった。いや、そうした意思など最早関係無く、恐怖に怯える身体は自然とグスタフに屈しただろう。だが、何かがハンスの胸の奥につっかえた。堪えきれずに吐き出すと、それはか細い疑問となった。
「な…… なんで…… こんなこと、するの?」
 グスタフは、嘲りの笑みを浮かべる。
「だから、貧乏人どもの為だと言っているだろう。何べん言えばわかるんだ。クズ! お前なんかよりも、俺に使われたほうが、何だって、ずっとマシなんだよ!」
 荒々しく吐き捨てられた筈のそれは、しかしハンスにとって驚くほど虚しく響いた。トンネルの中で音が行き場も無く反響するかのようだった。吠えるグスタフが何処か哀れにさえ思えた。そしてハンスをあれほど縛り付けていた恐れや怯えといったものは、跡形も無く消えていた。ハンスは財布の口を空ける。その手は、もう震えていない。
「そうだ! 全くもってクズが。早くこうしておけば、痛い思いもしないで済んだんだ」
 グスタフはハンスの右肩を掴んでいる手に、また一つ力を加えて引き寄せ、もう片方の手で募金缶を掲げる。ハンスは財布から一番大きな硬貨、銀色の五十ペニヒ硬貨を摘み出す。グスタフの目がにやりとした。それもハンスには酷く下卑たものに映った。
「誰が! お前なんかにやるもんか!」
 ハンスは募金缶に五十ペニヒ硬貨を入れた。グスタフのではなく、ハンス自らの缶に。ハンスの手元でコインが弾んだ。瞬間、動揺の為か、肩を掴んでいた力がめっきりと抜けた。それを知るとハンスは笑みを浮かべた。いや、全くの無意識の所業だったのだから、浮かべさせられたといった方が正しいのかもしれない。
 思い出したように改めて力が込められ、拳を襟に持っていかれ、吊るし上げるようにされても、ハンスには最早滑稽にしか思えなかった。グスタフは先程までこれ見よがしに掲げていた募金缶を、怒りと共に石畳へと叩きつけた。そうして空いた手で、ハンスをぶん殴った。
「クズが!」
 例えば遊びの延長での喧嘩のそれとは違い、首の骨がきしみ、頬に痛みが熱として残るような拳を受けたのは、ハンスには初めてのことだった。それが教会の鐘を打つかのように、何度も何度も繰り返される。一発、二発、三発……。十発を超えると、ハンスはそれを数えるのも止めた。
 しこたま殴られると、壁際に押し付けられた。そうして延々と殴り続けたグスタフが息の乱れを正そうとした際、僅かに間ができた。奇妙な間だった。グスタフの後ろでは取り巻き二人が、オリンピックのレスリング観戦に興じるかのように野次と歓声を挙げていた。けれど、ハンスの印象に強く残ったのは、更にその向こう側で、怪訝そうな顔をしながらも足早に過ぎていく沢山の通行人だった。そしてハンス自身、彼らと同じように、こんなことは、たいしたこともない他人事のように感じられたのだった。
 グスタフの蹴りが腹に飛んだ。胃が潰れるかのような衝撃が走った。ハンスは呻き声を挙げるが、グスタフは容赦ない。腹の中を暴れる痛みが抜けぬうちに、次の蹴りがぶつけられる。息が詰まり吐き気がした。ハンスは涙を流していてツバを垂らしていた。ツバには血が滲んでいて、それは口の中の切り傷からのものだった。飽きるほど蹴ってから初めて、グスタフはハンスの襟を放した。ハンスはそのまま崩れ、石畳にしゃがみこんだ。
「クズが! クズが! クズが!」
 グスタフは金を財布ごと奪い、足元のハンスを二度、三度と蹴りつけて、大通りを去って行った。



 小路を歩きながらも、グスタフの周りの二人はまだ興奮が覚めやらぬ様子だった。グスタフの少年からの募金活動はこれが初めてではなかったが、彼に抵抗して殴られるようなのは他に居なかったからだ。取り巻きの二人はハンスがやられるさまを如何にもみっともなく誇張して笑いあったり、グスタフの容赦の無い勇姿を遠慮がちに褒めちぎっていた。
 しかし、グスタフの心は何時までたっても、煮え切らないままだった。蹴られながらも募金缶を必死に掴んでいる少年のイメージが、脳裏から離れなかった。殴られても、蹴られても、片時も離されなかった募金缶。それと比べると先程回収したばかりの財布も、俄かに軽いものの様に思えてきた。取り巻きの一人が、「けっこう入ってますね。クズのわりに」と感心するほどの収穫であったが、同じように喜べなかった。グスタフはあの募金缶に入れられた五十ペニヒ硬貨をとうとう奪えなかったのだ。そして、それを守り通したぼろぼろの少年が、どうしようもなく憎く、疎ましく思えた。
「もういい、もう沢山だ」
 二人が驚きながらグスタフを見上げる。
「あの糞みたいな集会も、国の犬どもに尻尾を振るようなのも、もう沢山だ! やめる」
 取り巻きが何とか反論をしようと、しかし主の気分を害さぬようにと、口をまごつかせている。グスタフは盗ったばかりの財布から、マルク札を差し出す。
「ほら、これで遊んでいろ。俺はもう帰る! 今日は気分が悪いんだ!」
 遠慮がちに受け取りつつも、刑務所から出たばかりのように二人は楽しげに去っていった。グスタフはもう集会にも、あの少年にも、二度と関わるまいと決めた。それらはどうしようもなく彼を苛立たせ、その苛立ちは殴り倒す事で消せる類のものではないと知ったからだ。

「寄付をお願いします! 冬季救済事業に、寄付をお願いします!」
 ハンスのそれは叫びに近かった。ハンスは、何倍も集中して街中を行く人を見つめ、何倍もの思いを込めて、何倍も真剣に、ただ声を振り絞っていた。日中の大通りを歩く誰もが、ハンスに目を留めた。そしてそれを避けるかのようにして歩いた。かくして人が忙しく行き交う通りの中で、彼の周囲の一角だけが、がらんとしていた。ハンスの声は潰れていて痛々しく、頬は赤く腫れていて、制服はよれよれだった。時が経ち、ハンスが叫べば叫ぶほど、それらは一層酷くなり、人は離れ、彼だけの空間も広くなっていった。



 次の日には、顔の腫れは青あざに為っていた。それでもハンスは、学校が終ると直ぐに、かけっこで大通りへと行き、また「寄付をお願いします! 冬季救済事業に、寄付をお願いします!」と叫んでいた。制服は綺麗になったが、喉の痛みは一層酷くなり、声量はふらふらと覚束無くなっていた。人々がハンスを避けるのだけは、変わらなかった。

 その次の日は、もっと酷かった。大雨が降ったのだ。ハンスは屋根の下で雨宿りしながら寄付活動をしたのだが、道を打って弾かれた雨粒は、ハンスの靴をびしょびしょにした。靴下まで湿り、足先が酷く冷えた。当然人通りは絶えがちになり、ハンスの叫びも殆どが雨音に吸い込まれた。

 それから明くる日だった。大通りへ行くとまだ声も出さぬ内に、小太りの中年の男がハンスの所にやって来た。そして何も言わずに、募金缶に10ペニヒ硬貨を三枚と、5ペニヒ硬貨を二枚、入れた。ハンスはきょとんとして、しかし直ぐに「ありがとうございます」とバッジを手渡した。早足で通り過ぎていく中年の顔を、ハンスは昨日見かけたことがあった。そして彼も雨の中、不恰好に叫んでいたハンスのことを覚えていたに違いなかった。それに似た事が一日の間に、何十もあった。

 喉の潰れも良くなり、青あざも薄れていき、街の人もハンスに慣れてくると、まるで初めてではないかのように親しみ深く声を掛け、募金に協力する人が増えていった。それは本当に驚くほど多く、そして沢山の硬貨を入れてくれたことを、ハンスはこれからも決して忘れないだろうと思った。例えばこんなことがあった。

「寄付をお願いします! 冬季救済事業に、寄付をお願いします!」
「よう、坊主。今日もやかましいな。何時、終るんだい?」
「あ、明日までです」
「なんだ、小鳥のようにさえずる喋り方も出来るのか」
「す、すいません……」
「まぁ、なんだ。俺はお前らから見たらアカってやつだ。と言っても、まだ子供にゃ分からんか。おっちゃんはな、あんたらとは支持する信念が違うんだけどな」
「でも……」
「ひとの言う事は最後まで良く聞け、坊主。だけどな、坊主がピーピー鳴くのが、気に障った。募金がてらに、静めてやろうと思ったのだが、明日までじゃなあ。しょうがねぇ」
「……」
「ほら、五十ペニヒ硬貨。それに五ペニヒ硬貨もだ。おっちゃんはケチなんだから、こんなこと滅多に無いぞ。ちゃんと有難がれよ。一枚はお前が叫んでいる貧民の為とやらにくれてやる。もう一枚は、坊主、お前へのお駄賃だ。帰りがてらにでも、何か旨いもんでも買ってけや」
「あっ! ありがとうございます! ご協力、ありがとうございます!」

 こうしてハンスの募金缶に一枚の五十ペニヒ硬貨が、右手には五ペニヒ硬貨が渡された。しかしハンスは躊躇うことなく右手のそれも募金缶へと入れたのだった。



 集会の日がやって来た。会場は少佐を見ようと、沢山の子供たちでごった返していた。普段は見かけない他の地区の少年達も幾人か紛れ込んでいた。彼ら全員が酷く興奮していて、しかし少しでも格好よく厳粛でいようと、それを胸の奥で抑えつけている。ハンスもまたその一人だった。右隣にヴォルターがいた。まだ少しだけ残る黄色のあざの跡を見て「大丈夫か」と声を掛ける。ハンスが「大丈夫」と応えると、一安心したように「お前、頑張ったな」と笑みを浮かべた。グスタフの姿は無かったが、気にも留めていなかった。
 やがて、テオドール少佐の演説が始まった。会場は何時になく静まり、少佐の凛とした声が屋根の奥まで響いた。まるでそこは何時もの小さな木造の集会所では無いかのようだった。それはハンスがまだ小さな時に連れて行って貰ったオペラよりも、ずっとずっと荘厳で偉大なものに思えた。テオドール少佐は、昔の戦の体験や数々の武勇伝、そしてそこで発見した人間のあるべき在り方を、とうとうと語っていた。

 次いで、会場入り口で回収された募金缶の結果が報告される段取りとなった。平時なら成績の良い者から順に発表されるが、それとは逆の順番だった。今回の焦点は最後に成績の悪いおちこぼれを見せしめにすることではなく、優秀な者を称えることにあったからだ。発表主は、テオドール少佐だった。
 成績最下位の者の名がまず呼ばれた。隊列の何処かから「はい」と返事が返る。皆がそちらを盗み見る。少しの間を置いて、次の者。こうして憧れの少佐から最悪の形で名を呼ばれる屈辱に、多くの少年が俯き、黙々と涙を流す者すらいた。ハンスはまだ呼ばれないようにと祈りながら待っていた。あっという間に半分ほどが過ぎた。
 横を見ると、ヴォルターが瞬間、笑った。よくやったな、と目で言ってくれたのが、今のハンスには堪らなく嬉しかった。どんどんと発表は上位に来る。やがて上位五名に入った子が、壇上で将校と二、三の言葉を交わす所にまで至った。しかし、まだヴォルターの名もハンスの名も呼ばれていない。周りの目が俄かに集まってきている。ハンスは歓喜や興奮よりも、もしかしたら名前を呼ぶのを忘れられてしまったのではないか、と心配で気が気ではなかった。何も耳に入らず、胸は早鐘のように鳴っていた。ヴォルターに肩をぽんと叩かれ、少しだけ治まる。成績三位の者の名が呼ばれた。ハンスとヴォルター、どちらの名でも無かった。
 周囲の目は、いよいよ二人へと注がれる。一方は当然のように残った者に対する羨望の目線で、もう一方は思ってもみなかった者への驚きの目線だった。多くの者はヴォルターの勝利を予想していたが、ハンスが大通りをすっかりと自分のものに占拠していたことを知っていた幾人かは、ハンスの逆転を漠然とだが、予感していた。



 ヴォルターの名が呼ばれた。その瞬間、ヴォルターは今まで見せることの無かった恨めしそうな顔を、ハンスへと向けた。しかしハンスが困った表情を作る前に満面の笑みを浮かべ、壇上へと誇らしげに向かうのだった。集会は終りへと近づき、少年達の瞳の熱もいよいよ増していた。少佐へと滑らかに礼儀正しく謁見するヴォルターへと多くの目線。緊張の余り真っ赤な顔をしたハンスへと残りの目線。やがてヴォルターが列へと帰ると、成績最上位の者の名が呼ばれた。
「ハンス!」
「はい!」

 足元がおぼつかない。右足を前に出し、左足を前に出す。そのようなことを必死に意識しなければ、歩けぬほどだった。見上げると、白髪混じりのテオドール少佐の姿がくっきりと映った。細身だが骨量豊かな長身に軍服が映えていて、整った髭がぴんと立っていた。壇上へと昇る。
 拍手が鳴る。テオドール少佐は、もう息がかかる程の距離だ。「良く頑張った」と手が差し出された。深く皺が刻まれた兵士の手だった。胸が高鳴る。呼吸が出来ない。
「当然の義務を果たしただけです! 飢えに苦しむ人達、寒さに凍える人達に、どうか役立ててください!」
 握手をする際に発した言葉は、不思議と震えることなく真っ直ぐに、高く集会所へと響いた。それを受け止めるかのように、ハンスの手を包む手に力が込められた。優しく、力強いものだった。テオドール少佐は、冬季救済事業で集められた金の多くが、 貧民の元へは決していかないことを知っていた。けれど、それこそが国民の為であると、少佐は信じていた。
「うむ。君達が集めたお金は、一つも余す事なく役立たせて貰うよ。君のような素晴らしい若者に恵まれて、我が国の未来は明るいな」
 テオドール少佐の微笑みは、何処か田舎の祖父のそれに似ていて、ハンスは感激で言葉を継げなかった。少佐はそんな少年を、温かく見守っていた。

 ハンスは羨望を浴びながら、少年達の列へと戻る。テオドール少佐は、冬季救済事業の意義とその望まれる成果を、国家が一つとなり助け合う理想を、切々と訴えかけていた。横でヴォルターに肘で軽くこづかれる。ハンスは少しだけ誇らしげにこづき返す。夢のようだった。
「君ら少年達が胸を張って誇れるような明日の為に、私も全力を尽くす所存である」
 そう言い終えると、会場は拍手の雨で包まれた。誰もが手がじんと痛くなってもそれを叩くことを止めることはなく、音は三分も続いた。やがてぱらぱらと小さくなり会場がしんとするのを確かめると、少佐は右手を掲げ、別れの挨拶をした。
「ハイル! ヒトラー!」
 それに応じて、少年達は規律を乱すことなく一斉に手を上げる。
 ハンスもまた誇らしい思いを一杯にしながら、叫ぶ。
「ハイル! ヒトラー!」
えんがわ
2014年01月26日(日) 13時17分08秒 公開
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No.6  えんがわ  評価:--点  ■2014-02-10 16:54  ID:ci2fvnChkkc
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うわー、ありがとうございます。
知らない人を驚かすのを重視したのですが、歴史の知識ある方からのご意見も気になってたので、嬉しいです。
そうなんです。分かる人には即効でヒトラー・ユーゲントだとわかり、凄く小手先感が強いです。きっと、じりじりしたでしょう。
伏せなくても楽しめたようなんで、これはど真ん中ストレートでも通じたかな、と嬉しく、そして反省です。
確かにビックリで終わっていて。そこはかとなく哀愁が漂えばと思ったんですが、筆力と筆量が足りないんでしょう。

ヒトラー・ユーゲント絡みで書きたい題材はあって、けっこうマイナーで多面的なものなんですが、それ故に知識量、文章力、興味の持続が追いつかず、
ここ数年停滞していて、多分あと数年単位はかかるかと。
ここまで期待していただきありがたいのですが、うー、どうだろー、それに応えれるのは書けそうにありません。
でも、書いてみたいって念は心の奥底でふっふっ、ふぅ、と沸き立ちそうでため息をついてるので、楽しくロングスパンで取り組もうと思います。
ありがとうございました。
No.5  陣家  評価:30点  ■2014-02-08 03:36  ID:kOIbAC2GXGY
PASS 編集 削除
拝読しました。

情景描写、心情描写とも、とても丁寧で、WW2前夜の異国の雰囲気がとてもよく伝わってきました。
だけれども、ドイツ労働者党とかヒトラーユーゲントの固有名詞が出てこないところが、どうにも引っかかって、違和感とともに読み進めることになりました。
最後まで読んで、なるほど、そういう意図があったのですねと納得しました。
でもこのままだと、ほら、びっくりしたっしょ? ね? ね? という感じで終わってしまいすぎるので、是非とも続きを書いて欲しいと思いました。

多分、文科省推薦図書的な展開ということであれば、グスタフが収容所送りになって、ハンスの純粋さと残酷さと、そして哀れさが主観を交えず淡々と描かれていくような展開になるのでしょうけど、それは作者さんとしても面白くないでしょうから、手記的な中立性の立場をあざ笑うかのような尖ったストーリーを引き続き希望します。
例えば、加害者ですけど、それがなにか? みたいな。
きっと作者様ならやってくれるのではと思えます。
おっと……勝手な希望を申し上げてすいません。
おもしろかったです。
ではでは。
No.4  えんがわ  評価:--点  ■2014-02-07 21:56  ID:ci2fvnChkkc
PASS 編集 削除
あー、ありがとうございます。そして申し訳ない。
量を書けずに、迷ってしまうばかりの自分は、過去作を再掲するのも少なからずあり。削除癖もあり。ほんと、新作を投下し続ける楠山さん達に申し訳なく。

以前、感想を頂いたでしょうか。少年らに萌えていただき、萌えって深いって思ったのは、記憶に残ってるんです。楠山さんだったのかな?
心の動きは、ちょっと苦手で、主人公で失敗したようですが、グスタフは何とかなったのだろか。
うーん。読後にどんな印象をお持ちになるのか、自分でもコントロールしきれてないので、何かこう、思っていただき、嬉しいです。
多分、書きたいのはその後の話になるんですが、知識と筆力が及ばず、寝かせっぱなしで。
そういう時に、こんなありがたいお言葉、励みになります。のろのろ、頑張ろ。
No.3  楠山歳幸  評価:50点  ■2014-02-07 00:21  ID:3.rK8dssdKA
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 読ませていただきました。
 旧TCでも読ませていただきました。
 まだ4,5ぐらいしか小説を書いてなかった頃で、ラノベしか読んだことのなかった頃でした。文章そのものに慣れていないわたしでも面白かったのですが、改めて読んでも面白かったです。
 zooey様の感想にうなづき、また、主人公の力強さとなんだか萌えの入ったキャラ、グスタフの心の動きと悪役の伏線も唸りました。
 確かに悲劇でありますが、なぜかそう思われないほど主人公の描写が良かったです。
No.2  えんがわ  評価:--点  ■2014-01-28 21:05  ID:ci2fvnChkkc
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ありがとうございます。
視覚イメージは「どうだろう? ダメっぽい?」と自分自身で思ってた部分なので、そう伝わっていただき、ありがたく、嬉しいです。

>ハンスの変化
ハンスさん変わりすぎっすね。ご指摘を受けて振り返るとスーパーサイヤ人化してました。
ハンスさんがどのようにこのシステムや組織に、ハマっていったかってのが、肝だと思ってたので、深刻です。
もうちょっと段階を踏んで馴染むように変化を描写したいと思いました。
グスタフの部分も、もうちょい初対面時にハンスさんが弱い気持ちを持ってれば、ハラハラするかなとか。確かに。

オチは、うん、気づかれるか気づかれないか、ここら辺は賭けでして、気になった部分です。
あれって、実は一般的で、特殊なケースじゃなくて、日常はこんなふうに変わっていき、ハンスのような人も身近に居るんだよ、
って感じを目指したので、おおってなっていただき嬉しいです。

でも、面白かった、楽しかった、ありがとうございました、ってお言葉を頂くのは、実はちょっと悔しいです。
「悲しかった」「読後感がキツ過ぎる」「このファッ(ピー)野郎」とか、思っていただくのが、目指すところだったんじゃないかと、今回の投下とお返事で気付きました。
No.1  zooey  評価:40点  ■2014-01-28 02:35  ID:L6TukelU0BA
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読ませていただきました。

面白かったです。
寒い路地や行き交う人々など、
街の様子がありありとイメージできました。
赤くなった手先とか、細かな点が丁寧に描かれていて、雰囲気を形作っていて、それまいいなあと思いました。
登場人物も生き生きとしていたと思います。

あえて気になった点をあげるとすると、
父親からの募金を断った後、ハンスの変化が早過ぎる感じがするところかな、と。
もう少しじっくり、これまでには抱いたことのなかった感情を温めてから、
街で大きな声で呼びかけ始める感じだったら、さらにハンスに寄り添って読むことができたかなと思います。
その方が、後に続くグスタフの場面にも説得力があったように思います。

また、オチの意外性に、おおっとなったのですが、
アイロニックなラストにしなくても楽しめる作品ではないかなと思いました。

楽しかったです。ありがとうございました。
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