かいだんのはなし |
あの階段を、踏み外す事のないように。 じゃあ行ってきます、と振り返った先に誰もいなくなったのは、もう何年前になるだろうか。冷えた廊下にそっと響く自分の声は、毎朝同じ位置に放られて、受け止められること無く降り積もっていく。あるかなきかの儚い質量は羽毛のように、それでも確実に積もってゆく。 やがて私の喉元も追い越して、そのうち口の中に詰まるに違いない。 目に見えないだけの毒、透明な病。 繰り返される沈黙の見送りに、いつだか心臓は酷く跳ね上がったけれど、近頃は全くおとなしくなっていた。それこそ、止まっているのか、と思うほどだった。 少し立て付けの悪いドアを押すと、五月の日曜の光が切り込んで目を刺してくる。雨上がりの夕暮れ、遠い空にみえる天使の階段によく似た光の帯。 みんなを連れて行ってしまった、その階段を私は憎んでいる。 * 「やあ、いい天気だね」 着古された白衣の腕を捲った教授が、湯気がたつコーヒーに口をつける。 「おはようございます。」 東向きの研究室にさす朝日は彼の姿を金色に縁って、まだ眠る機材達の影をリノリウムの床に落としていた。他に誰もいない、午前六時の研究室。 外は晴れている。 「毎朝早いね。動物当番もこんな早くは来ない」 「目が覚めてしまうんです。こういうふうに、晴れてると自然に。眠いんですけどね」 今年四十になった若い教授は、口元だけで自然に笑ってまたコーヒーを飲む。ミルクとシロップがふんだんに加えられたそれを、とてもではないが飲む気にはなれない。それはもうコーヒーでは無いでしょう、と院生に指摘された彼は、それでも、いいやコーヒーだと言い張った。紅茶に同じ事はしないが、コーヒーだからこそミルクもシロップも入れるのだ、と。 「ああ、でも実にいい天気だ。本当にいい天気だ」 カップを置いて、彼は私に背を向ける。太陽はその全貌をいよいよ森の中から表して、ぱっと白い光を放った。初夏の匂いをほのかに纏った眩しさに目がくらむ。無数の光の粒が、研究室中にあふれ、影は一層濃く深く、その色を強くする。 「君の傷もよく見える」 教授は肩越しに振り返った。 影になった顔の中で、眼鏡の奥の聡い瞳だけがきらりと輝くのだ。 その瞬間、教授は私だけのものになる。 私にとりつかれた一人になる。 * 今でも残る背中の傷痕は、全部あわせて三つある。鋭利な包丁が綺麗に自分の体に刺さった感覚はもう覚えていないが、それでもその事実だけは何年もたった今でも残っている。肌が白いから、くすんで不自然に盛り上がったその傷跡はよく目立つらしい。体温が上がるとほんのりとした桜色にもなるらしい。 自分で自分の背中は見えない。 ただ、彼がそう教えてくれただけだった。 「君を刺した人は、君がまさか死なないなんて思わなかったんだろうね」 「ええ……そうでしょうね」 背中に髭が当たる感触がある。傷痕に唇が寄せられる。彼は私とキスをしないが、私の古傷とはよくキスをした。彼にとって、私は私ではなく、私の古傷のことかもしれなかった。 それか、あるいは。 「あっ……」 「君が来る前に、刃を替えてしまったんだよ。昨日折れたろ」 背中の丁度半ば辺りに、ぬるっと血が流れる。さすが新品の刃はよく切れる。日曜大工センターでよく売っているような、大ぶりのカッターを彼は愛した。冷たい刃が背中にすっと当たると、次に訪れる痛みに備えて体が硬くなる。冷や汗が浮く。彼と私の間に流れる緊張感はめまいがするほどに愛おしかった。 カンバスに赤い絵の具を自在に走らせる彼よりも、誰よりも、私はその瞬間の私のことを一番愛している。 彼だって、私の背中に傷をつける自分を愛しているのだ。 だから、救われなくったって、お互い様だった。 「この古傷も、全部、僕のものならいいのにな」 吐息とともに吐き出された願いに心が詰まる。本当は全部、彼のものにしてあげたかった。 振り返って彼の白衣の背中に腕を回す。心臓がきちんと動いている。 誰かさんの凍えた心臓とは違って。 * 小学生だったように思う。 ランドセルを跳ねさせながら走って帰る通学路には、昼間降った雨が水たまりになって空を映し込んでいた。雨が降っている最中は蒸し暑かったが、夕方になるとさらさらと風が吹いて瑞々しい空気に汗がそっとひいていく。田舎の初夏、土手に茂り出す雑草、田んぼの用水路にはザリガニが息づいている。シャッターの降りたラーメン屋から、脂っぽい匂いがしたら、友人の家が近い。フィリピーナの友人はくりっとした瞳に長い手足を持った愛らしい子で、夕日に透ける赤いドレスを颯爽と着こなす彼女の母とよく似ていた。 明日は晴れるから、ザリガニ採りに行こう、と彼女はいった。 どうして晴れるの、と聞くと空を指して 「天使がカイダン作ってるからよ!」 そう言って、彼女はパブに隣接した家に帰っていくのだった。 雨上がりの空はたっぷりと水分を含んで艶めき、より透明で、ともすれば天国が見えるのではないかと思うほどだった。夏を連れてくるずっしりとした雲が夕日に少しかぶさり、その雲間から、光の帯が幾条もさして平野に降り注いでいる。その幾条の内のひとつを目で追っていくと、ちょうど自宅があった。 天使がうちまで、せっせと階段を作ってくれたらしかった。 ああ、彼女の名前はなんと言ったか、今ではもう思い出せない。 川から少し離れた、砂利道を挟んで向こうに水田が延々と続くような、緑ばっかりのところに自宅があった。どこを見回しても緑みどりで、引っ越す前の大都会からすると大変な環境の変化だった。なんでも、弟を育てる環境を自然豊かなところにしたかったかららしい。これは後から、養母であるおばから聞いた。 「ただいま」 玄関のドアを開いた時、おかえりといってくれたのは父でも母でも祖父母でもなかった。 それだけははっきりと覚えている。 今でも、きちんと覚えている。 * 「私の背中は今どうなっているんですか」 消毒作業に没頭して、一言も発さない教授から何か聞きたかった。 「傷だらけだよ」 「そうですか」 むき出しの乳房が寒い。 正面から陽光が降り注いで、体の表面だけは暖かく高熱が出た時のような、気味の悪い体温だった。眩しさに目を細めて雲を眺めている。 「刺された時……」 天使が階段を作る相談でもしているのか、雲が太陽にかぶさろうとしている。 「一階の和室だったんですよ。ランドセルでかわしてたんだけど、とられちゃって。一度刺されて、慌てて逃げ込んだのが和室で……そこに母が転がってたから、助けてもらおうとしたんですけどねぇ……」 教授は淡々と消毒し続けている。 「転んだかどうかして、倒れた時に母はこっちを向いていたけど目はあわなかった。ああ、どうしたんだろうと思ってたら、もうそこからよくわからなくて。でも和室の大きな窓から見える庭に光がさしてて、みんなそっちに行ったんだと思ったんですよね、すごく自然にね」 消毒の手が止み、かすかな音を立てて教授が再びカッターを握ったのが背後で分かった。階段が少しずつ私に向かって伸びてくるのがよく分かる。暖かいけれど、あまりにも眩しすぎた。あの時も、今も、とにかく眩しくて嫌だった。 朝、差し込む光が恐ろしくて目が覚めるだけなのだ。 「背中に傷が増えるたびに、お母さんに近づける気がしたんですよね」 教授のデスクの電気ポットが音を立て、湯気がほこほこと溢れ始める。沸き上がれば自動的に、かちっと電源が切れる仕組みの便利な電気ポット。教授のコーヒを淹れる重要な任務を持ったこのポットは、別の意味を持とうとしている。 教授の手が完全に、カッターを構えているのが分かった。 後は振り返るだけ。 振り返るだけでいい。 「教授」 振り返るだけ。 「天使が階段を作ってくれましたよ」 かちっ |
羽田
2013年08月25日(日) 20時42分00秒 公開 ■この作品の著作権は羽田さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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No.2 青空 評価:30点 ■2014-01-03 13:05 ID:wiRqsZaBBm2 | |||||
なんか、肉感的ですね。背中の傷を何度もつけられ、最後にも…… 血を見せずに血を感じてしまいました。 |
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No.1 お 評価:30点 ■2013-09-07 19:32 ID:wxwaeJFv2JA | |||||
やあやあやあ、久しぶりーですね。 良い感じですねー、クールでカッコいい。 で、す、が、 わかんねっす。 ポットの別の意味が分かんねっす。 つまりは、このお姉ちゃんが何を望んでのか、いくつか浮かぶもの絞れないんで、たぶん、ここが分かればポットの謎も解けるのかなぁと思いつつ、わかんねっす。まぁ、僕が情感読めねーだけですが。 そんなことで、雰囲気はごっつ好きです。 足元にご注意くださいませ! |
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総レス数 2 合計 60点 |
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