昔の彼はリンゴの匂いがした
 朝の梅田か新宿駅前のイメージだ。
 巨大なビルの隙間を埋め尽くして、灰色の人波がいつまでも途絶えることなく押し寄せてくる。その雑踏の流れにただ一人逆らって立ち続ける少女が、このPVの主人公だ。カメラは遠ざかったり、角度を変えたり、ときどき明け行く街の様子のカットインが入ったりするが、大きな変化は何も無い。少女は独り、ただこちらに顔を向けて立っている。すれ違う人と肩がぶつかってよろけたりするが、彼女はただ立っているだけだ。初音ミクの曲に合わせて作られた動画だというのに、彼女は少しもミクに似ていないし、歌ってさえいない。ただ、絶望の手前のぎりぎりの場所で、静かに、辛抱強く、立ち続けているだけ。
 それが、じわじわと心に染みてくるのだ。
 三分二十八秒、全編が手描きのアニメーションで、たぶんそれは大変なことなのだろうけれど、私にはよくわからないそういう技術的なことよりも、ただ、胸が震える。それはきっと私だけのことではない。だから投稿後二週間足らずで再生数一万回を超え、今もすさまじい勢いで伸び続けているのだ。「溢れ出るセンス」、「もっと評価されるべき」、「プロの犯行」そんなタグが並ぶ。きっとたくさんの人が、この突然現れたクリエイターについて知りたがっている。
そして私だけが、彼が何者かを知っているのだ。

 骨と骨がぶつかるにぶい音がして、赤いものが空中に散った。カツキが廊下に倒れている。空気の色が変わるみたいに、周囲に血のにおいが満ちる。床にどんどん赤いものが広がっていって、カツキをなぶっていた奴らが顔色を変えた。隣のクラスの奴らが騒ぎ始めるが、逆に教室の中は静まり返っている。私が立ち上がろうとすると、後ろの席のミカが制止するように袖をつかんだ。その手をそっと解いて、私はその現場に向かっていく。周囲の男たちを無視して、横たわるカツキのそばにしゃがんだ。
「立って」
 カツキが動いて、その顔が見えて、私は息を呑んだ。カツキが、退屈しきった目をしていたからだ。
たいした怪我はしていないように見える。ただの鼻血に思える。だが、見えない部分に傷を負っているかもしれない。
「立ってってば」
 カツキがめんどくさそうに、のろのろと起き上がる。倒れるとき強打したであろう後頭部に手をのばしかけて、私は躊躇した。ぼさぼさの髪が油っぽくてフケだらけだったからだ。それに血の匂いに混じった、このひどい体臭。いつも持ち歩いている消臭スプレーを、顔めがけて吹きかけた。
「何日お風呂入ってないのよ、バカ」
 小声で叱り付け、咳き込むカツキにハンカチを投げつけた。カツキは文句も言わず、ありがとうとも言わず、そのハンカチを鼻にねじこむ。
「……保健室、行くから」
 カツキがついてくるのも確認せずに、私は歩き出した。

 クラスの大部分からは、陰気で不潔なキモイ男子とだけ認識されているこの男は、私のイトコだ。親は郊外でりんご農家をやっていて、今でも季節になると箱いっぱいのりんごを私の家に持ってきてくれる。私の中で子供のころのカツキの記憶は、果樹園の広い空と、土とりんごのにおいで彩られている。今のカツキのイメージといえば、制服の肩に散ったフケとすえた汗のにおいなのだけれど。

 保健室には誰もいなかったが、どこに何があるのかはわかっていた。血をふき取り、消毒し、脱脂綿を鼻につめた。とりかえしたハンカチはすぐに捨てた。
「あいつらはサルよ。動物と同じ匂いがする」
 だからかかわるな、と私が言うと、
「俺らも同類だよ。ナツミはサルのエリートってわけだ」
 だなんて嫌味を言う。まあ確かに、私はお高く止まった優等生だ。その自覚はあるけれど。
「下の名前で呼ばないで、って前にも言ったよね。人前でそれやったらぶっ殺すからね」
 あらんかぎりの冷たさでそう通告するのだが、カツキはあっさりと聞き流し、 
「俺に、何か用だったの」
 そう尋ねてくる。答えるかわりに消臭剤を顔面に吹き付けた。
「よせ、至近距離で顔に向けるな」そんなことを叫ぶが、私はとりあわない。
「保険委員だから仕方なくよ。何よ、文句あんの」
「ただの鼻血なのに?」
 答えに詰まった私は、また顔めがけてスプレーする。カツキは大げさに咳き込みながら言う。
「嗅覚過敏まだ治んないのかよ、それ神経症だぜ、きっと」
「明らかにあんたが臭いんでしょうが」
 ポケットタイプのスプレーはすぐに空になってしまうが、消臭剤のタンクはここにある。補充しながら言った。
「あんたのつくった動画、話題になってるじゃない」
「ああ、それで」
「それでって、うれしくないの?」
「去年流行った曲に動画をつけただけだもの。音声なしでアップロードしてたら誰も見ないって」
「でも、みんなすごいすごいって言ってるじゃん。YOUTUBEにも転載されてるの知ってる?」
「ああ、そうなんだ」
 本当に興味がない、という様子でカツキは言う。
「アップされて三日も経ってないのに、すごい数のコメントがついてる。世界中のひとがあんたの作品を見てるのよ」
「だから、俺の曲じゃないし……ああいうことをやれば目立つのはわかってるんだ。めんどくさいから誰もやろうとしないだけで。正直、見る人が見れば、雑なのはわかる。粗だらけだ。映像で語るってのがどれだけ難しいか、作ってみてやっとわかった。そんなレベルだよ、俺は」
「ちょっとは喜びなさいよ。あんたが喜ばなきゃ誰が喜ぶのよ」
 この男の、こういうところがよくわからない。
 数ヶ月前、製作途中のものを見せられ、どう思うかたずねられた。まだ色も塗っていない、数十秒の動画だったが、それでも鳥肌が立った。だが、人には言うなと口止めされた。このキモオタがこんな美しいものを作れることを、学校の誰も知らない。
「ナツミが喜んでくれたらそれでいいよ」
「はあああっ」
 逆上した。照れたわけではない。断じてない。
「な、ん、で、私が、あんたのために喜ばなきゃならないのよ」
「怒るなよ。おまえに喜んでもらうためにつくったとか、そういうんじゃ全然ないから」
「あんたみたいな陰気でバカで不潔なキモオタが、何勘違いしてくれちゃってんのよ。やめてよね、キモチワルイから。キモイじゃなくて、まじキモチワルイから」
「興奮すんなよ、めんどくせえなあ。だから、そういうんじゃないって。ちゃんとわかってるから、心配すんな」
 こんな男にめんどくさいと言われてしまった。私は落ち着きをとりもどすためにまたカツキの顔面にスプレーをかまし、窓を全開にした。
 グランドの土の匂い。日を受けた青葉の匂い。
「教室帰んないのかよ、昼休みおわっちまうぞ」
 ベッドに横たわってそういうカツキを無視して、私は窓の外を眺めながら尋ねる。
「やっぱり、将来はアニメーターとか?」
「さあ、どうだろうな」
「え、違うの」
「ここにさ、はっきりとあるんだ」そう言ってカツキはコメカミをつつく。「表現したいものが、カタチにされるのを待ってる。それを満足のいく形にできたら、その瞬間に死んでもいいと思ってる」
「いや、死んじゃだめだろ」
「いいじゃん。誰も気にしないし。てか、そうそう死なないけどな。――じゃなくて、そういう感じだから、新海誠みたいなのが理想だよ。プロダクションに入るかもしれないし、同人ゲームなんかを中心にやってくかもしれないし、いずれにしても、そういうのはぜんぶ通過点だ。目標は別にある」誰だよ、シンガイマコトって。
「……よくわかんないけど、そんな感じで食べていけるの?」
「そんな心配してる暇はないな」
「中ニ病」
「いいからもう教室帰れよ。俺と仲良いだなんて誤解されたら嫌だろう」
 じつにさわやかに笑って、カツキはそんなことを言う。まるで、傷ついたことなんかないみたいに。
「言われなくても帰るけれど。あんたも、たまにはお風呂はいりなさいよ」
「忙しいんだよ。合唱曲のPV作らないかって依頼がきてて……」
「イイカラ入レッテ言ッテンダロ」
 そんなにあせらなくったって、きっとあんたは成功するから。だから。
「ちょっとは私の頼みも聞いてよ」
 あんたのそばにいられないのは、あんたが嫌いなせいじゃない。
                                 了
書記長島耕作
2013年07月23日(火) 17時26分21秒 公開
■この作品の著作権は書記長島耕作さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
だいぶ昔に書いたものです。
作中「中ニ病」のせりふは、今の感覚だと誤用に近いような気がしますが、広義の中二病、ということでそのまま残してあります。
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No.6  書記長島耕作  評価:--点  ■2013-08-09 15:06  ID:cM0bPnvGwjU
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藍山椋丞さま、はじめまして。
PV、やはり伝わりませんでしたか。なかなか難しいですね。
「骨と骨がぶつかるにぶい音がして〜」以下の部分のご指摘、目から鱗でした。確かに3人称になってますね。
たいへん参考になるご指摘をいただき、感謝いたします。ありがとうございました。
No.5  藍山椋丞  評価:20点  ■2013-08-05 15:29  ID:i/iCocdcxPo
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初めまして、藍山椋丞と申します。
読ませていただきました。
他の方が仰られているように冒頭のPV描写が良くわかりませんでした。
文章的には充分お上手なので、もっと的確な表現や描写ができれば飛躍的に良くなると思います。
次に、「骨と骨がぶつかるにぶい音がして〜」からの件ですが、三人称になっていると感じました。視点保持者の主人公、ナツミは教室の自分の席に座っている状態ですから廊下の様子はこれほど察することができないと思います。
それと結果的に鼻血で済んだ怪我なのに「周囲に血のにおいが満ちる。床にどんどん赤いものが広がって」もおかしいと思いました。
私ならここの件は全部夢にしちゃいますね。それでミカに起こされて、トイレに行こうと廊下に出たらカツキが倒れている。どうしたと訊いたら「転んだ」と。「バカね、お風呂に入らないからよ」「風呂は関係なくね?」みたいな会話をさせても面白い、と思いました。
全体的な文章力、特に会話文にセンスを感じることができる小説だと思います。これからの期待を込めまして、点数はやや辛口とさせていただきます。
偉そうをことを言い、すみませんでしたー。
No.4  書記長島耕作  評価:--点  ■2013-07-28 19:05  ID:cM0bPnvGwjU
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えんがわさま、ありがとうございます。
PVの設定、やはりまずかったですかねえ。描写不足だったかしら。都市生活者の孤独みたいなものの表現で、主人公の境遇にもリンクしてるつもりだったんですが、独りよがりだったようですね。もうちょっとわかりやすい動画にしたほうがよかったかもしれません。
「イイカラ入レッテ言ッテンダロ」は照れですね。こういう態度しかとれないヒロインなので、じんとくる台詞は意地でも言わせたくない気持ちがあります(笑)。
ご指摘、自分ではなかなか気づかないところなので、大変参考になりました。
ありがとうございます。
No.3  えんがわ  評価:30点  ■2013-07-28 18:51  ID:1rXVLSXzIUI
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毎度なんですが、今回は特に客観性を欠いているんで、流し読みしてくだされば。

「今」っていう臨場感がびんびん来ました。人物も如何にも日常にいそうな雰囲気があって。
これをこうして今、読めたことに感謝したくなるくらい、感覚を沸き立たせるものがありました。
自分はニコニコ動画と、youtubeなどの「見る専」ですが、それでも凄い時代になったなぁと思ってます。
音楽や漫画、映像にそれに小説も、ネットによってどんどんアップロードされて。
それに現実を忘れる程にのめり込んじゃう人も少なからずいて。

で、本作のカツキもネットの自主制作アニメに熱中し、容姿や清潔感といった現実がおざなりになっている。んですよね?
それに見合う才能を持っているようにも描かれているのですが、それでも怖い。バーチャル空間の流行り廃りは凄まじく、一個人は容易く飲み込まれてしまう。
って自分の偏見ですが。

でも、それを現実で見せる相手がいて、それも製作中のかなりナイーブなものをさらけだせるヒロインの主人公がいて。
そこに光というか、暖かさというか、現実と虚構をぎりぎりにつなぎとめている信頼感、確かな心の繋がりを感じ、妙にほっとする。
そういう関係性が、かなりお気に入りです。
ただ、これは妄想癖のある自分なので、作中にもう少しそれを察せるようなピースを配置してもいいかもしれません。誤読だったらすいません。

気になったのは、他の方がふれているようにPVの何処が凄いのか、ちょっと共感できなかった。
「胸が震える」「鳥肌が立つ」
何で?
ここを踏み込んだり、ヒロインの自分の言葉で伝えてくれると、突破口が開ける気がします。
タグや周りの動き、再生数、世界中の人が見ている、といった「外からの評価」は作中で強調されているように確かに大事な要素なんですが、
それでもそれを引き起こした作品の「パワー」といったものを示唆すると、迫力や凄みが増すと思います。
って、映像の凄さを文章で的確に伝えるのはかなり筆力が要求されそうで、自分だったらバタンキューですが。

あと、一点だけ。
「イイカラ入レッテ言ッテンダロ」
ここがカタカナだったのが、ちょっと意図が掴めなかったです。
距離感の遠さを演出したのかなー?
でも、そういう見てくれの小技に頼らなくても会話の流れから、もちっと、じんと来る台詞をこのヒロインは発せれる気がします。

と、と今更メッセージ見てみました。だいぶ昔に書いたものなんですね。
いや、けっこう出来たてほやほやの今を反映した作品として受け取ってました。
作者さんは時代を見通す鋭い眼を持っているようで。
No.2  書記長島耕作  評価:--点  ■2013-07-26 19:23  ID:cM0bPnvGwjU
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かたぎりさま、ありがとうございます。
PV、確かに主人公の感動が読者にも共感できるものでないといけませんね。
リンゴの匂いは、今のカツキがどんな姿であろうと変わらない、ナツミの信頼の根拠、象徴のようなもので。わかりにくかったかもしれません。
ご感想ありがとうございました。
No.1  かたぎり  評価:20点  ■2013-07-26 16:31  ID:n6zPrmhGsPg
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こんにちは。感想を送らさせていただきます。
別に投稿されている作品よりも、私はこちらの方が好みです。
描写が必要と思える部分に不足を感じることはあったものの、ひとつの物語を読んだという満足感がありました。
カツキという少年の造形が特に良いと思います。一人の人間としてそこにいるのだと感じることができました。しっかりとした芯のある、中二病という言葉に収まりきらないものを持った人物だと思いました。

冒頭のPVに関する描写は、もう少し具体的、印象的に描くのも良いかもしれません。どういったPVかはこのままでも分かるのですが、読んでいる立場としては、主人公が感動した理由がいまいち想像しにくいのです。

それと、タイトルにもなっている「リンゴの匂い」です。これをなぜ作者が描いたのか、私には分かりませんでした。ここに何が込められているのだろう。仮に、昔は良い匂いという印象のカツキだったのに今は臭い、という対比だけならば、作品の雰囲気や展開にあまり生かされていると思えません。私の読み取り力が足りないのかもしれません。

以上、私として思ったこと、感じたことです。
すがすがしく、読んで良かったと思える作品でした。
これからも頑張ってください。それでは。
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