魔法骨董品店の恋事情
 私は今、恋をしているのかもしれない。
 相手は誰もが憧れる男子生徒。ふとしたきっかけから言葉を交わすようになり、今では頻繁にメールをやり取りしている。彼のことが気になりだしたのは、国語の授業の時に音読する声を聞いた時だと思う。落ち着いた声で切々と訴えかけるように読む声に私は聞き惚れた。
 私は亡くなった父に魔法のかかった文箱を渡されている。本当に恋をした時に文箱は開くと父は言った。
 文箱の中には一体なにが入っているのだろう。そして、この想いは本当に恋なのか。
 私はそれを知りたい。



 無人駅である今泉駅に降りると、夏を感じさせる生温かい風が頬を撫でた。それだけで汗がにじんでくる。
 駅の正面に広がる町並みには高層建築物が一つもなく、都会と比べて空がとても広く感じられた。鮮烈な原色で染め上げられた空を見ているうちに、ともすれば気力の萎えそうだった心が再び灯を掲げてゆく。
 私はこじんまりした商店街を歩き始めた。
 骨董品店を営む母方の祖父とは生まれてから一度も会ったことがない。この田舎町に祖父は一人で住んでいると言う。私の亜麻色の髪は英国人である祖父から受け継いだものらしい。
 そして鳶色の瞳に、抜けるように白い肌。いわゆるクォーター。そのおかげで好奇の視線を受け続けてきた。学校での立ち位置も難しい。注目を集めてはいけないが、孤立してもいけない。ほどほどの外面を保つというのも、なかなかに骨が折れる。
 中学二年の夏休みの間、私は祖父の家業を手伝うためと称してその家に滞在することにしていた。母には、英語の勉強も兼ねて、と言っている。
 それにしても祖父の家に向けて道路を歩いていても誰一人として出くわすことがない。駅正面に並ぶ商店街はすぐになくなり、あとは道路の脇に稲穂が伸び始めた水田が広がるだけ。車さえ通らないのはどういうことだろう。本当に田舎に来てしまったのだと痛感する。
 鋭ささえ伴う殺人的な日差しによってアスファルトが熱され、焦げたような臭いを放つ。
「暑い……」
 思わず独り言が漏れる。
 私は時折、バッグから少し水滴の付いたペットボトルを取り出して喉を潤しながら、母の書いた地図を頼りに歩き続けた。と言って、地図がなくても迷う心配はないようだった。なんと言っても家が疎らにしか見当たらない。農道をまっすぐ歩けばたどり着く気がする。
 やがてレンガ造りのレトロな店が見えてきた。骨董品店と言うよりアンティークショップという佇まい。
 店に入る手前でドアのガラスに私の姿が映った。思わず身だしなみを確認する。
半袖のロングパーカーは水色、ショートパンツは黒色。活動的な格好は私の趣味だ。母にはもっと女の子らしい格好をしたら、とよく言われてしまう。胸のあたりまで伸ばして二つ結びにした髪にも乱れはない。
 第一印象は大切。
「こんにちは、お祖父ちゃん!」
 私は努めて明るい声を出しながら入店した。来客を知らせる鐘が軽やかな音を立てる。
 店内には雑多な商品が並べられていた。置時計、人形、玩具、食器、書画と言った具合で、品揃えに統一性がない。骨董品店に入るのは初めてだが、どこの店もこういうものなのだろうか。
 柑橘類の爽やかな香りが鼻をくすぐる。どこかでお香を焚いているのかもしれない。過剰でもなく、過小でもなく、控えめに自己主張する香り。何故か懐かしい。
店内には誰もいなかった。当然、私の声に反応する姿もない。しばらく待ってみたが、誰もやってこない。
 どうしたものかと考えていると、遠くからピアノの音が聞こえてきた。もしかすると祖父が弾いているのかも。
 私は一旦店を出て、母屋の方に回ってみた。
 ピアノの音は一層はっきりと聞こえてきた。冷たい月明かりを連想させるような、静かな調べだ。
 庭に入って家の中をのぞくと、一人の白人男性がピアノを弾いていた。歳の頃は二○代半ば。ウインドカラーの白いシャツに黒いベストを合わせ、同じく黒いスラックスを穿いている。一体誰だろう。歳の離れた祖父の友人だろうか。
 私はガラス戸を軽く叩いた。
「すみません!」
 青年は私の存在に気付き、演奏を止めると、こちらに寄ってガラス戸を開いた。
「店の方のお客人ですか? 申し訳ない、気が逸れていました」
 意外にも流暢な日本語だった。声は低音で、華やかで艶のある声。その声は、私の内側に響くような気がした。
 青年が立ってみると背が高いことが分かった。一八○センチ以上あるだろうか。その割には痩せ型で、繊細な印象を受ける。私と同じ亜麻色の髪をオールバックにしているのが目を引いた。私の学校には外国から来た英語の先生がいるが、このくらい格好良かったらいいのに、と思わずにはいられない。
 私は初対面の相手に緊張しながら答える。
「いえ、客ではないんです。祖父に用があって来ました。祖父はいますか?」
「君、もしかして明季(あき)かな? 器量よしに育ったね」
 確かに明季というのは私の名前だ。でも、この人が何故私の名前を知っているのだろうか。しかも「器量よしに育ったね」とはどういうことだろう。まるで昔に私と会っているような口振り。
 私は恐る恐る尋ねた。
「あの……あなたは一体、誰ですか……?」
 そんな私の声に、青年は明朗な口調で答える。
「ああ、君が生まれた時に一度しか対面していなかったね。覚えていないのも無理はないか。僕はナサニエル・エベレット・グリーン。君の祖父だよ」
 一瞬、空気の流れが止まった気がした。一体この人はなにを言っているのだろう。しかし青年は真顔。私は真意を測りかねた。
「なんの冗談ですか?」
 やっとのことで一言言えた。当然のことだ。冗談でなければなんだと言うのだろう。
 しかし青年は余裕に満ちた態度を崩さなかった。
「まあ、水が流れるように受け入れられるはずもないね。ちょっと失礼」
 そう言って青年は部屋にある本棚からアルバムを持ってきた。ぱらぱらとページをめくる。アルバムの後半に、若い頃の母とともに赤ん坊を抱いている青年の姿を映した写真が張られてあった。その青年は、今目の前にいる青年と同一人物だ。一体どういうことなのだろう。合成写真? でも、そんな手の込んだことをする理由が分からない。
 混乱する私に青年が柔和に微笑みかけた。財布から免許証を取り出す。両手で免許証を受け取った私はまじまじと確認する。
「ナサニエル・エベレット・グリーン……昭和二四年七月一九日生まれ……」
 なんで若いままなの? この人が私のお祖父ちゃんなの? 信じられない。けど、役所が病気とは思えないし。じゃあ、この人の言葉は本当なの?
「あなたは……本当に私のお祖父さん、なの……?」
「そうだとも。信頼に値すると分かってくれたかな?」
 にこやかに語る青年は、どう見ても二○代の半ば。
 青年は私を促す。
「ここで語らっていても暑さがこたえるだろう? 中にお上がり。冷たい物でも振舞おう」
 確かに日差しがきつい。
 私は祖父だと名乗る若い青年に言われるまま中に上がった。警戒の念がなかったわけではない。しかし、不思議とこの青年の声や表情には安心感があった。悪い人ではないと思う。
 フローリングの床を進み、リビングに入った。
 リビングには、先ほど青年が弾いていたピアノ、四人くらい食事ができそうなテーブルと椅子、本棚、そしてソファが置いてある。内装は落ち着いたクリーム色で統一されている。
 私はソファに座った。クッションの効いた柔らかさが歩き疲れていた私には心地良かった。
 青年はキッチンからアイスティーを出し、対面にあるソファに座る。
 青磁のティーカップに満たされたアイスティーの甘みが、まだ混乱の治まっていない私の心に染み込んでいった。
 一息ついた私は切り出した。
「あなたが私のお祖父ちゃんだという前提で話します」
「疑り深いね。仕様のないことではあるけど」
「これをあなたに見てもらおうと思って来たんです」
 とバッグから黒漆を塗った細い箱を取り出す。文箱と言う。昔、手紙を入れるために使われていたらしい。私はこの文箱を病床の父からもらった。
 息を引き取る間際、父は言い残した。
「本当に恋をしたら開けてごらん」
 それから私は二度この文箱を開けようとしたことがある。けれども文箱は決して開かなかった。恋をしたら開くと言われたのに。
 白い手袋をはめて、文箱を受け取った青年は、一見しただけで文箱のいわくを理解したらしい。
「これには魔法がかかっているね」
 魔法。
 それは、一般的にはおとぎ話の中の存在と思われている。考古学者だった父に聞いた話によれば、魔法とは古美術の世界では伝説的な存在であるものの、確かに息衝いているらしい。私たちは魔法の存在に気付いていないというだけで、確かに世界で息をしているのだとか。人から人へ美術品が渡ってゆくうちに、想いが重なり、魔法としか考えられない出来事が起こるようになるという話を聞いた。
 青年は宝石でも扱うような丁寧さで文箱を私に返した。
「鍵がかかっている。でも合言葉は必要ない。時期が到来すれば開けられるようになると思う」
「お父さんは本当に恋をしたら開けてごらんと言っていました。でも一度も開いたことがなくて」
 文箱と言うからにはきっとこの中には手紙が入っていると思う。恋に迷っている今、父の言葉を聞いてみたかった。
 青年はやんわりと告げた。
「文箱はきっと開く。焦らず待ってみたらどうかな」
「焦ってません」
「急ぐ必要はないと言った方がいいかな。年頃になると競うように恋をするものだけど、人にはそれぞれの自然な呼吸がある。自分の呼吸で自分の恋ができるまで、多少の足踏みをしても遅速ということはないよ」
 青年の落ち着いた声を聞いているうちに、不思議と心が凪いでゆくのが分かった。今まで、大人たちは競うことを教えるばかりで、立ち止まる大切さを説いた人はいなかった。
「君を見ていると千恵(ちえ)の若い頃を思い出すよ」
 と青年は私の母の話を始めた。
「千恵も若い頃は多くの恋をしたようだけど、本当の恋をしたのは君のお父さんと出会った時のようだね。二○歳頃だったかな、君のお父さんと出会った頃から千恵は急に綺麗になった。なにが変わったと上手く言いまえすることはできないけど、確かに変わった」
 青年は懐かしそうに目を細める。
 その様子には深い愛情が見て取れた。書類を偽造できても、愛情は偽装できない。
「あなたは本当に私のお祖父ちゃんなんですね……?」
 ここに来てようやく確信めいたものを感じるようになった。この青年の言葉を信じてみようと思う。
 ただ一つ問題があった。
「あなたのこと、なんて呼んだらいいですか?」
「お祖父ちゃん、でいいんじゃないかな」
「……ちょっと抵抗があります」
 この青年は余りにも若過ぎる。
 じゃあ、と青年は年長者らしい余裕を感じさせる笑みを浮かべながら提案する。
「ナサニエルでかまわないよ」
「ナサニエル、さん?」
「さんは付けなくていいって。それと堅苦しい言葉遣いもなしだよ。近しい血縁なんだからね」
「分かった。じゃあ……ナサニエル」
 と私はたどたどしく青年の名前を呼んだ。
 ナサニエルは微笑ましい物でも見るように目を細めた。
「ところで千恵から電話が来たよ。夏休みの間、うちで立ち働いてくれるんだって? 助かるよ。今日からよろしく」
「うん……よろしく」
 ところで私には気になることがあった。
「ナサニエルってどうして若いままなの?」
「骨董品にかけられた呪いだよ。扱いを誤ってしまってね。君も店の手伝いをするなら品に迂闊に手を触れたらいけないよ」
「うん……分かった」
 ぎこちなく新しい生活が始まった。



 電子音が目覚めを促す。手を伸ばしてアラームを鳴らす携帯電話を止めると、私はベッドから起き上がった。可愛らしいぬいぐるみや小物が置かれた部屋を眺めながら、夢に沈んでいた私の意識は、ゆっくりと現に浮かび上がっていった。
 私は母が使っていた部屋を借りている。その部屋を見ると、落ち着いた大人の女性である母にも、少女らしい時代があったのだと分かって面白い。
 Tシャツにスパッツという寝巻を着替えて一階に降りると、すでに朝食の準備が終わる頃だった。
 長袖のシャツの上にエプロンを着けたナサニエルが振り返る。
「おはよう、明季。良く眠れた?」
「おはよう、ナサニエル。遅れてごめん」
「かまわないよ」とナサニエルは軽く笑う。「僕は明け方には起きるから。僕に合わせていたら君が寝不足になってしまうよ」
 ナサニエルは手際良く料理をテーブルに並べてゆく。
 オートミール、茹でたソーセージ、トマトのソテー、オレンジジュースというのが今朝のメニューだった。トマトがあるのは私の好みに合う。栄養バランスが取れているように思われた。
 ナサニエルが微笑みかける。
「さ、ご飯にしよう」
「うん」
 まずは温かい紅茶を一杯飲んでから食事を始める。
 オートミールにはどうやらバターも加えてあるらしい。オートミール特有の麦の香りがバターによって和らいでいる。オートミールには苦手意識があったが、これなら食が進む。トマトのソテーも試してみる。ソテーにすることで、トマトの酸味や甘みが一層引き立っている。
 そこでナサニエルが尋ねてきた。
「どうかな? トマトは君の好物だと聞いたんだけど」
「美味しい。でも、どうして知っているの?」
「電話が来た時に千恵に確かめたんだよ。好きなものと嫌いなものはなにかって。短時日とは言え一緒に暮らすんだから、そのくらいは把握しておかないとね」
「……ありがとう」
 食事が終わり、私は食器を洗うことを申し出た。そのくらいしないと申し訳ない。
 それが済んだあと、私は店番をすることになった。バーコードのリーダーが付いていない古いタイプのレジを打つ練習もした。私の傍に立つナサニエルから、仄かに柑橘類の香りが漂ってくる。店内にも同じ香りがあるが、これはナサニエルの好みなのだろうか。
 私は夏休みの宿題に取り組みながら客を待つ。
 そんな日が何日か続いた。
 ある朝、外を掃除しようと店先に出ると、小さな木の箱がドアのところに置いてあった。「お譲りします」というメモも置かれていた。
 なにこれ? この店はゴミ捨て場じゃないんだけど。
 あたりを見回すが誰も見当たらない。仕方なく店の中に持って行った。一体なにが入っているのだろう。
 ふたを取ってみると、甘く粉っぽい匂いが鼻をくすぐった。中には白い陶器が入っていた。何故か触れてみたいという強烈な衝動が込み上げてくる。
 いいよね、ちょっとくらいなら。
 私は誘惑に負けて陶器を取り出してみた。ひんやりとした感触が気持ちいい。軽い。どうやら陶器の中は空洞のようだ。陶器の表面には龍が長い尾をくねらせるように踊っていた。今にも龍が飛び出してきそう。
 すごい迫力。きっと高いよね。
 どうしてこんな高価そうな品物をただで譲ろうと思ったのだろう。それにしても匂いはどこから発せられているのか不明のままだった。
 私が匂いのもとを探っていると、ナサニエルが店にやってきた。
「明季、それはなに?」
「店先に置いてあったの。お譲りしますってメモがあったよ。変だよね。こんなに綺麗なのに」
「譲る? 明季、それをカウンターに置いて」
 私が陶器をカウンターに置くと、ナサニエルが訝しげに陶器を見詰める。慎重に見極めるように、手は決して触れずに、陶器を鑑定する。やがてナサニエルは一言呟いた。
「悪徳の香炉……」
「あくとくのこうろ?」
「端的に言えば、悪事を働けば働くほど運が回ってくるというものだよ。ただし、時期が来ると鬼に連れ去られてしまう」
「鬼? 鬼ってなに? そんなのがいるの?」
「鬼というのはね、あの世に住まう者たちのことだよ。人間の負の想念が凝り固まったものだ。どこへ逃げても追ってくると言う。倒しても倒しても鬼はいずれ蘇る。やっかいな相手だよ。鬼に狙われたら一生怯えて暮らさなければいけない」
 私はにわかには信じられなかった。しかしナサニエルがいたずらに私を怖がらせるようなことを言うはずがない。と言うことは、ナサニエルの言葉は真実なのか。
「明季、君はまずいことをしたね。この香炉に触れただろう。触ることで所有者が変わる。おそらくこれを持ってきた人間は僕たちに押し付けるつもりで来たんだろう。だから不用意に触らないようにと言ったのに」
 そんな恐ろしいものがこの世にいるのか。私は恐怖に震える体を腕で抱いた。
「……鬼に連れ去られるとどう、なるの?」
「鬼に食われてしまう、と語られている。悪徳を積んだ人間がことのほか好物らしい」
「食われる……」
 恐ろしいことになってしまった。一体どうすればいいのだろう。夢であって欲しかった。けれど、これは夢ではない。
 その時、ナサニエルが私の肩に手を置いた。
「大丈夫。僕が君を守るよ」
 初めてナサニエルが頼もしいと思えた。



 不安で眠られない。鬼は夜に訪れると言う。夜が怖かった。私はベッドから抜け出してナサニエルの寝室を訪ねた。
 前髪を下ろしたナサニエルを初めて見た。
「不安かい?」
 私の顔を見て、ナサニエルはすぐに感情を読み取ってしまったらしい。私は声を絞り出す。
「少しお話ししてもいい?」
「いいよ。入って」
 ナサニエルは嫌な顔一つ見せず、中に入れてくれた。部屋の中は小奇麗にまとまっていた。本が多い印象だが、それもきちんと整理されている。
 そのあと私は、ナサニエルのベッドに座り、取り止めのない話をした。学校のこと、友達のこと、将来のこと。あえて悪徳の香炉については触れなかった。とにかく誰かと話したかった。けれど、こんなとんでもない状況を友達に言えるわけがない。メール相手である彼に相談しようとも思わなかった。
 どうして? あんなに彼からのメールを心待ちにしていたのに。
 ナサニエルは私の隣で、時折相槌を打ちながら、静かに話を聞いてくれた。きっとこれが大人の対応なのだと思う。こんな大人の人は私の周りにはいなかった。メール相手である彼でさえナサニエルに比べれば幼い。
 いつの間にか私はナサニエルを頼みにしていた。メール相手の彼よりもずっと。
「あふ……」
 やがて話疲れてきた私は欠伸を漏らした。時計を見れば午前二時を回っている。それでも私は一人になったら不安に押し潰されそうで怖かった。
 ナサニエルは微笑む。
「一緒に床に就いてもいいんだよ?」
「え? え?」
 私は、祖父とは言え、こんなに若い男の人と一緒に寝たことなどはない。
「軽口だよ。驚いた?」
「う、うん。でも……眠るまで手を握っていてくれる?」
 私たちは部屋を移動した。
 私はぎこちない動きで自分のベッドに横になる。ナサニエルが私の手を両手で包み込んでくれた。それだけでほっとするのが分かった。父を早くに亡くした私は、もしかするとファザコンなのかもしれない。
 眠気が襲ってくる。私はそのまま眠りに落ちた。
 目が覚めるとナサニエルが私の手を握ったまま眠っていた。ずっと傍にいてくれたのだ。
 私は胸の痛みを覚えた。死にたくない。離れたくない。そう強く思った。



 数日後の夜。私は、冬の墓場を暴いたような寒気を覚えて目を覚ました。すぐにナサニエルが部屋に入ってきた。
「ナサニエル……」
「明季。支度して」
 ナサニエルはリボルバー式の拳銃を取り出した。「これで君を守る」
 長さは三○センチを超える。全体は銀で、銃弾を込める部分は金で、持つ部分は象牙をはめ込んである。蔓が絡まるような装飾が美しい。
 ナサニエルは銃に息を吹きかけた。かちゃり、と音がして銃弾が装填されたようだった。
「鬼には物理的な攻撃が通じない。でも、この銃は魔法を撃ち出すことができる」
「魔法?」
「こういう商いをしているおかげで覚えたんだよ。詳しい説明はあとにしよう」
 私たちが支度を終えた頃、異常が視覚化された。部屋の中に霧が入ってくる。膝あたりが霧で覆われる。そしてドアの隙間から黒い影が入ってくる。人の輪郭をしているが、人ではない。目も鼻も口もないのに、微笑んでいることが何故か分かる。まるで影法師が独り歩きしたような印象。
 一体これはなに?
 ナサニエルは拳銃で影を撃った。青い火花が咲く。銃声は意外に小さかった。銃弾が命中すると、その中心点から蔓が伸びて、影を螺旋のように絡み付く。粘つくような体液をまき散らせて影はねじ切られた。
「一体なにこれ?」
「これが鬼だよ」
「これが?」
 鬼と言うともっとたくましい姿を思い浮かべるけど。
「今のが鬼の原型。鬼というのは隠(おぬ)が転じてできた言葉だと言う。端的に言えば、人の残した未練などが形を取って動き出した存在なんだ」
 私たちは部屋を出て走り出した。霧の中、階下には鬼たちが群れをなして待ち受けていた。
「おいで、おいで」
 鬼たちはノイズ交じりにそんなささやきを漏らす。
 私は耳を塞いだ。銃声が続く。
 やがてナサニエルの銃の弾が尽きた。鬼たちが密集して押し寄せる。しかしナサニエルは冷静だった。銃にまた息を吹きかけると再び発砲する。密集した鬼たちが一息に倒される。
 鬼たちが温もりを求めるようにナサニエルに手を伸ばす。その手が届くより先にナサニエルの銃弾が鬼たちを滅ぼしてゆく。
 猛然とナサニエルは銃を撃ち続けた。
 銃声が鳴り止んだ時、ナサニエルの手が私の肩に置かれた。
 私は顔を上げる。
「終わったの?」
「ああ、終わったよ」
 いつの間にか鬼たちは全滅していた。部屋に籠っていた甘く粉っぽい匂いも消えている。
 ふとナサニエルの顔を見た瞬間、体の力が抜けてその場に膝をついてしまった。腰が抜けるとはこういうことを言うのだろう。床に水滴が落ちる。
 涙? 私、泣いてるの? なんで? なんでナサニエルの顔を見ただけなのに涙が出るの?
 数日間抑えていた恐怖が涙になって流れ出て行く。そんな私をナサニエルが強く抱き締め、耳元で囁くように告げる。
「これからは僕が君を守る。なにも恐れなくていいんだよ」
「うん……ありがとう」
 私はナサニエルの背中を力一杯つかんで答えた。



 次の日の夜、私は部屋で一人、父から贈られた文箱に向かい合っていた。
 あっけないほど簡単に文箱は開いた。
 開いた瞬間、柑橘類の香りが広がった。私はようやく思い出す。この香りは父が好んで使っていたオーデコロンの匂い。初めてこの家に来た時に懐かしいと思ったのは、このためだったのかもしれない。
 中にはなにも入っていなかった。
 何故、文箱は開いたのだろう。答えは知らなくてもいい気がした。答えを知ってしまったらいけないとも思う。今まで私は焦っていた。私も早く恋をしなければいけないと思っていた。でも今は違う。
 私は今、本当の恋をしているのかもしれない。
クジラ
2013年07月12日(金) 08時26分03秒 公開
■この作品の著作権はクジラさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
少女小説のつもりで書きました。

この作品の感想をお寄せください。
No.9  青空  評価:40点  ■2014-01-03 13:25  ID:wiRqsZaBBm2
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ファザコンならぬGrandfatherコンだな、と甘い調子に心を奪われて、うきうきしました。

ティーソーサなどの小物使いがお上手で、細かく書くとはこういうことも含んでいるのかなとも思いました。
No.8  クジラ  評価:0点  ■2013-11-10 15:07  ID:52PnvSC7.hs
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>鈴木理彩さん

感想ありがとうございます。
とてもうれしいです。励みになりました。
No.7  鈴木理彩  評価:40点  ■2013-11-04 13:04  ID:/YXHBesa/G.
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拝読いたしました。
とても雰囲気がよく、読んでいて引き込まれました。
戦闘シーンのナサニエルさんがかっこよかったです。
あと、「香り」の使い方がうまいと思いました。
No.6  クジラ  評価:--点  ■2013-07-15 17:19  ID:52PnvSC7.hs
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>おさん
コメントありがとうございます。

主人公の女の子のバッググラウンドを語ると冗長になってしまいませんか?
今のままでも普通の女の子として受け取ってもらえると思うのですが。
普通なバッググラウンドを語る枚数があるのなら、
その枚数で恋の相手である祖父の魅力を語るべき、
というのが私の判断です。

戦闘シーンをあっさりにしたのは、
あくまで祖父の強さを語るためだけのシーンだから、
という理由があります。
少年向けではありませんから。

雰囲気が良いと言ってもらえて嬉しいです。
No.5  お  評価:30点  ■2013-07-14 21:46  ID:.kbB.DhU4/c
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なるほど、なるほど。
少女小説なるものがどのようなものなのか僕は存じないわけですが、雰囲気は、あぁ、こんな感じが少女小説なのかもとなんとなく納得してしまいました。納得させるくらいの雰囲気作りには成功していると言っても良いと思います。
プロ志望のクジラさんなれば、少々ハードルの高いかも知れない要望も言ってしまった方が良いかなと言うことで言えば、
まず、家族のことにもう少し触れないと、バックグラウンドが量りづらい。それは主人公の少女への思い入れに関わってくるとと思います。
それから、まぁ短く収めるためにカットしてあるのかもと思いつつ、じいさんの振る舞い、少女とじいさんの普通の日常における距離感の変化などが示されていると、これも思い入れしやすいのではないかなと。
そして、これはクジラさんらしくないなと思ったのは戦闘シーンがやけにあっさりで、まぁ、少年もののように派手であれば良いわけではないでしょうが、ただ雑魚を潰していくだけでは減り張りに掛ける。何か見せ場が欲しかったかな。少女が直接的な危機に見舞われるとか。
それから、少女の爺さんへの気持ちは、恋と言うよりも、尊敬と憬れという要素が見られ、さてこれを真の恋と判定するかどうかはやや拙速な気もしますね。まぁ、この尺を前提とすれば仕方ないのかも知れませんが。もし長編になるなら恋のライバルが欲しいところです。
全体の雰囲気としては楽しかったです。
ネタとしては、もっと膨らませるに耐えうるものだと感じました。

評価は、期待を込めて 良い で。
No.4  クジラ  評価:--点  ■2013-07-13 00:34  ID:52PnvSC7.hs
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>楠山歳幸さん

雰囲気が出ていると言っていただけて嬉しいです。
今風ですか。
難しいですが、考えてみます。
コメントありがとうございました。
No.3  楠山歳幸  評価:30点  ■2013-07-12 23:23  ID:3.rK8dssdKA
PASS 編集 削除
 初めまして。読ませていただきました。
 世界観に雰囲気が出ていて良かったです。青年のような祖父という設定と柑橘系のオチもロマンチックで良かったです。欲を言えば、うまく説明できなくて恐縮ですが、主人公に今風みたいな?子供っぽさが欲しかったかなあ、と思いました。
 失礼しました。
No.2  クジラ  評価:--点  ■2013-07-12 22:22  ID:52PnvSC7.hs
PASS 編集 削除
>Masaiさん

読んでいただき、ありがとうございます。
主人公を危機に陥れるのがいけなかったのでしょうか?
男が女性主人公を守るというのは、
少女小説の基本だと思っていたのですが、違うのでしょうか?
No.1  Masai  評価:20点  ■2013-07-12 22:16  ID:cPQ6sklUjQ.
PASS 編集 削除
読ませていただきました。
序盤のナサニエルに会うまでの雰囲気がよかったです。
鬼が出てくるあたりからの雰囲気の違いに多少ついて行きづらかったので、そこが少し気になりました。
面白かったです、次回作も期待しています。
総レス数 9  合計 160

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