絶対安全カッターナイフ
 分からないけど多分、暗いからそのまんま此処は暗闇なのだろう。際限ない黒の中、視線を遠くする僕、その先、闇の向こうに、僕がいないんじゃないかっていう不在感と、例えば夢を見ている時のような所在ないけど、何かが確固としてある、あの変な浮遊感。それらは似たようなもので、現実にあるであろう、布団の中に忘れ去られた生活ってのも、その類、今動いていく、やって来る朝が満ちていく。
 薄ら開けて半眼に、カーテン超えて、無遠慮な陽光が広がる。眩暈、幾許瞬いて、黒の感じ、長らく瞑っていたら、薄赤い斑点の形をした残像がポツポツ浮かんでくる。惚けて頭揺らめきながら、そういえば昔、目の中を泳ぐ、なんか微生物みたいなもの、アレよく見ていたな、呟く。それが見えるのは僕だけだと思っていたのだけど。おんなじ保育園に通っていたアリってあだ名のヤツに、聞いたら、君にも見えてるんだ、だってさ。
 気持ち悪さの余韻が延々廻る朝、9日前に130円で買った食パン。賞味期限2日過ぎている、それを咥えながら、蝉みたいに五月蠅い冷蔵庫開けて、トマトケチャップ取出し乱雑にかけて食らい、酸味甘味はぐちゃぐちゃになった頭をほんの少しキレイに整えてくれる。ならいいのに、低血圧の朝はまっしろが疼くだけ。塞がれてない方の手で野菜ジュースを引っ掴み、コップに注いで一気呵成に仰ぐ。冷え過ぎ。咽喉が清々するに違いないと期待していたのだが、肺腑凍てついて痛み伴って。
 時計を確認して8時05分、まだ大丈夫、大学には余裕で間に合う。そういえば今日は火曜日だ。燃えるゴミ捨てなければ。先月不意と捨てるのを忘れて、小蠅を集らせてしまった。流し台の下めちゃくちゃに放置された、数個の卵の殻、汚ねぇなと呟きながら、燃えるゴミの赤い袋に投げ捨てる。微妙に残っていた卵白が床に零れて、糸を引く。詮方ない。それを洗濯機の中に埋まって、少し水分を含んでいる、白のタオルで拭き取る。タオルを持つ指は揺れ、卵白が纏わりつく。蛇口を捻り、水でサーッと洗い流す。
 ビジネスバッグを肩に掛け、ゴミ袋をぶら提げていく。扉を開くと再び無遠慮な陽の光が満ちて、唐突に眩んでしまう。その最中、大きな石塊に躓く。幸いジーンズの下に眠る足が即座に反応し、無様にこけてしまうことだけは避けられた。そのままずっと歩いていくと、高校生らが通学していて、帽子を目深に被って俯いて歩き、ポケットに潜めたカッターナイフの先端、刃を出していないので、出し入れをする部分に触れて、ひんやりと心地良く、心も落ち着きを取り戻す。
 ゴミ捨て場の中に袋をゆっくりと横たわらせる。周囲を見渡して、若干の違和感を覚える。火曜日は燃えるゴミしか回収しないはずなのに、燃えないゴミや缶瓶ゴミの袋が詰め込まれている。それよりも何かがおかしい。何処かで嗅いだことがあるような異臭。まさかとは思うが、そのまさかだった。燃えるゴミ袋の中、動物、猫の死骸。不意にポケットに手を突っ込んでいた。
 外傷はなく、縞柄の猫のそのものを、一目見ただけでは死骸とは気づきそうにない。むしろ今にも呼吸しそうな気さえもする。けれども猫を包み込む、赤いゴミ袋を見れば、即座に判然と分かってしまう。この猫が死骸であるということを。
 一体誰がこんなことをしたのだろうか、飼い主か、動物虐待者か。などと考えながら、去年と合わせて、これが4匹目の猫の死骸だと数えていた。僕が目の当たりにした猫の死体の数だ。一匹目は駅付近の道路で轢死、二匹目は実家前の道路で轢死、三匹目も駅付近の道路で轢死していた。結局一匹も埋葬してやれなかった。
 後ろを振り返ると、未だ高校生の列が絶えない。胡乱な人物だとは思われぬよう、一度家に引き返した。どうすればいいのだろう。保健所、そうか保健所、でも電話をしなければならない、しなければ猫の死骸はどうにもならない、だったら僕が埋めてやればいいじゃないか、そうしなかったから後を引き摺っているんじゃないか、けれどそんなことができるなら初めから後を引き摺ったりなどしない。
 押入れの中で目を瞑って、秒数を刻んでいく。1,2、3、然し心臓は脈打つままで、どうにも収まる気配はない。今度こそは、と思っていたのに。どうすればいいのか、やっぱり保健所か、違う、僕がやらなきゃ、でもそれはエゴじゃないのか、死んだ猫自身にとってはどうでもいいことじゃないのか。分からなくなって、取り敢えず僕はそのまま体を横たわらせていた。
 どれくらい経っただろう、多分もう学校には間に合わない。僕は閉じ篭ることしかできないのか。小説でも人間関係でも僕は閉じ篭ることしかできないのか。狭小な空間でルサンチマンを綴ることしかできないのか。超えたいなら、行動するしかない。外に行こう、殻を破ろう。予定調和でも何だって構わない、進むことさえできればいいのだ。僕は外に出た。
 跡形もなかった。猫の死骸など初めからなかったかのようだった。燃えないゴミと缶瓶のゴミ袋だけが置き去りにされていた。

 次の日に、僕は再びゴミ捨て場へと向かった。やっぱりもう猫の死骸は無くなっていた。それでいいと思った。誰かがよくしてくれたのだろう。僕はそうやってまた善良者面をする。

 そのさらに翌日、金曜日だった。誰もがそうであるように、平日中、愛想尽くのと人付きあいに疲れた僕は、本屋に行こうと、大学の帰りに、中型のショッピングセンターに出かけた。先月に地下室の手記を購入したのだが、未だに読み終えていない。主人公にシンパシーを感じたのだが、何故か進まないのだ。自動扉を超えて、二階の本屋に向かおうとしていると、一階で古書市開催のチラシが貼られていて。大いに興味があった。僕は心拍が高まるのを感じながら、歩いて行く。
 ミステリ、時代小説などとジャンルごとに分かれているものがあり、いわくつきは5冊350円らしい。僕は胸の高まりを抑えつつ、いわくつきのコーナーへと向かう。
 そこには、ナイフについて書かれた本、サリンジャーのライ麦畑でつかまえて(野崎訳)、井上靖の孔子、アラゴンの詩集、宮沢りえの写真集、画集、風土について書かれた本、新約聖書について書かれた本、銀河鉄道の夜、雪国、三島由紀夫の本、よく分からない漫画、新書、官能小説紛いの本、荒木のエロ写真集などがあった。
 取り敢えず、画集2冊と野崎訳のライ麦畑でつかまえて(春樹訳は持っているが野崎訳は持っていない)、アラゴンと知らない人の詩集を抱えて、他の本を探すことにした。
 辺り廻ってみると、夢野久作や江戸川乱歩、ダンテの神曲上中下、バルザックの従妹ベッド、ピカソやゴーギャンの画集などがあった。然し、どれも高価で手が出しにくく、僕は安価の本を探し出した。大杉栄の全集本と坂口安吾読本、どちらも無頼な人物で読み応えがありそうだ。浩瀚な書を抱えて、僕はカウンターに向かった。
「す、すみません、会計お願いします」
 目の前の老人は、一瞬訝しげな目でこちらを睨んだ。
 然し、僕の購入した本を見て、態度を一変させた。
「君は大杉栄好きなのかい?」
 僕は大杉栄のことを詳しく知らなかったが、取り敢えず頷いた。
「僕とおんなじだ。大杉栄はね、捕まったんだけど、牢屋の中でね、何と6各国語を覚えたんだよ。だから彼は、牢屋とは外国語を修めるところであるって言葉を残したのさ」
 緊張で喉が震えて、「……ひはぁは」と頷いてしまう。
「映画があったんだよ。なんだっけな……まぁいいや、えーと合計で……」
 書に貼られた付箋を確かめながら、電卓を打つ。
「500円だね」
 僕は黙って1000円を差し出した。
「はい、500円のお釣り」
 老人は僕の掌にそっと500円を置いた。震える僕の手は500円を床に落としてしまう
「ありゃっ……まったく仕方ないねぇ」
 笑いながら老人は500円を拾い、またそっと手渡してくれた。
「あああ、ありがとうございます」
 まだ笑っている。僕は少し心が解けて、先刻気になった画集の方へ向かった。
 ゴッホの画集だ。彼に纏わるエピソードが重点的に描かれている。絵よりも文が多いので、厳密に言えば画集とは言えないだろう。それでも僕は欲しかった。1200円。それでも欲しい。僕はゴッホの画集を抱えて、又カウンターへと向かった。
「あれ、お兄さん、まだ買うんかい?」
 老人は惚けた顔をして、すぐに笑い始めた。
「今度はお釣りを落としさんなよ」
 僕は赤面してしまい、俯きながら財布を取り出し、先程のお釣りの500円とあとの700円を握って、カウンターに置いた。
「あれ、これじゃお釣り出んねぇ」
 余計に笑われてしまった。
「あああり、がとうございました」
 足を速めて場を後にした。

 とっくに陽が暮れていて、辺りは真っ暗の闇に包まれていた。一応ゴミ捨て場を確認する。勿論猫の死骸はなく、缶瓶のゴミも無くなっていた。燃えないゴミだけが残っていた。ならば、と思い持って帰ろうとしたが、他人のゴミを勝手に持ち出してはいけない、という自治体のルールを思い出して止めた。そんなことができるくらいに、僕の心は弾んでいたのだ。
「ブス!!」人の叫び声がする。大学生だろうか。割合大きな声だ。嫌な声。ブス。誰に。僕か。やっぱり僕なのか。思い出す。火曜日の講義の時間、人前で発表した時、緊張した僕は、俯きながらとんでもない早口で文章を読んだ、結果、嗤われたり、「キチガイじゃん」「キツ過ぎる」などと吐き捨てられた。それは詮方ない。詮方ないけど、だからこそ心が晴れない。ポケットに手が行きそうになる。何がしたいんだ僕は。リストカットさえ怖くてできないから、こんなことをするなんて、滑稽そのものじゃないか。いけない、またルサンチマンだ。もうやめよう。僕はこんなことがしたいんじゃない。僕より不幸な人間は腐るほどいる。僕は単に精神が弱いだけか。いや皆こんな鬱屈なものを抱えていて、だけど皆吐かないだけで、もうやめろ。
 やめればいいと思っても、やめられないんだ。吐かなきゃいけないって、思ってしまうんだ。吐かなきゃどうにかなってしまいそうなんだ。
 何もかもが正常に見えた。潔癖に見えた。真っ白に見えた。燃えないゴミ袋の中に詰め込まれている、アイスの袋や、黒い液体が付着しているビニール袋でさえ、真っ白に見えた。全てが正常である中で、僕だけが歪んでいる。歪んだ僕は全てが正常に見えている。滑稽。いつの間にかポケットから、カッターが落ちていた。浩瀚な書の袋をアスファルトに横たわらせ、カッターを拾う。人が前から歩いてくる。高校生だ。帽子を被った僕は俯いて、そのままやり過ごそうとする。
 その時、高校生が叫んだ。
「不審者!!!」
 心臓が鐘打ち始めた。パトカーの音も聞こえる。違う、あれは高速違反を取り締まっているからだ。でもこの声は大きい。どうすれば。僕は兎角家まで走っていった。闇雲に走った。何故か重い書のビニール袋を携えたまま、走っていた。あの女さえ叫ばなければ、こんな目に遭わなかったのに。
 家まで1分とかからなかった。時刻は8時、あの場所、僕が佇んでいる間に男は既に消えていて、僕と女しかいなかったから。大丈夫だ、皆高校生のイタズラくらいにしか思わないだろう。実際この辺りでは、深夜まで高校生か大学生の、女のフザケタ笑い声が聞こえてくる。大丈夫だ、自分に言い聞かせ、少しずつ心臓の拍数が減っていく。
 重い袋をそっと床に置いて、ビジネスバッグをベッドの上に投げつける。何だ、やっぱりそうじゃないか。あいつらの言った通りじゃないか。僕はキチガイそのものじゃないか。空笑う。キチガイ、キチガイ、キチガイ、僕は口の中で何度も反芻した。はは、マイノリティだ。僕は特別なんだ、大衆の奴等とは違うんだ、別格なんだ、特別、なんだ。分かってる、分かってる、僕は特別なんかじゃない、ただのキチガイだ。
 押入れに入る。目を瞑る、1秒2秒3秒と過ぎていく。大丈夫、何もかもきっとそのうち良くなる。それにこの生っていう辛いのも全て一つの死に内包されているじゃないか、大丈夫だ、死ねばもう何もかもなくなるから、だからまだ僕は生きてていいんだ。大丈夫、大丈夫。
 僕は電気を点けた。部屋が明るくなり、購入した本に気が付き、僕は即座に袋から取り出した。ゴッホの画集。紐解いた、矢張り絵は少なめで解説の部分が多い。初めの辺りをよく見ると、この本が画集ではないことが明示されていた。それでもいい。ゴッホだって、キチガイ扱いされていたというじゃないか、しかも彼は生前全く評価されていなかったそうじゃないか。知りたい。読み進む。
 ゴッホ、炎の画家、実直で勤勉だが、癇性持ちで人から遠ざけられていた。途中キリストに心奪われ、自分より他人を優先し、捨て身で人々を救った。然し、そこでも牧師に認められず(性格上の問題で何にしても認められないことが多くあった)、クビとなった、その後は絵に傾倒し、殊に色彩に気を使うようになる。そして、ある色に囚われる。黄色、真っ黄色、太陽の色、その色が色彩が絵だ、絵だ、絵の力だ。その中で向日葵と出会う。向日葵向日葵向日葵向日葵と。
 僕が何故あんなにも猫の死骸に囚われてしまったのか。それを考え始めた。ゴッホは向日葵とその色彩の強さに心奪われて固執した。じゃあ何故、僕は猫の死骸から意識が離れられないのか。
 前に出した答え、舞城王太郎の言だが、「唐突にポンと生まれ、それは一過性の衝動で仕方のないもの」なのだろうか。訳の分からない衝動が答えなのだろうか。
 向日葵が咲く向日葵が咲く向日葵、ゴッホ、分からない、僕には分からない。けれど、僕の頭にも向日葵が咲いたんだよ。佐藤友哉の世界の終わりの終わり読んで。
 青年が自殺を試み、ロープに首を掛けて、意識が怪しくなる中、妄想の中で死んだ妹ともう一人の自分と会話して、さようならを言う、妹が死んだ踏切、向こうの向日葵畑に辿り着けず踏切、さようならを言う。咲く向日葵が向日葵咲く向日葵向日葵。そして、生きて小説を書く。
 
 またいつものワンパターン、型にはまった小説を書いてしまっている。僕はそれを破らなきゃいけないと分かっているのに。よく分かっているだろ、皆僕の小説に共感できないほどハッピーだってことは、いや、皆僕より不幸だから、共感できないのか。違うだろ、僕の小説が小説じゃなく、給食食った後の心臓が吐き出そうになるくらいの思い、それをそのままゲロとしてぶちまけているからいけないんだろ。分かってるよ。分かってるけど。じゃあどうすればいいんだ。どうやったらこの狭小な空間から、抜け出すことが出来るんだ、それが分からないんだ。いつになっても露悪趣味じゃあ、成長なんかできやしない。僕は何をすればいいんだ。幸福な小説を書こうとしても、書けなくて、結局不幸になってしまう。

 分からない。

 だから小説書いてんじゃねぇか。

 ポケットからカッターを取り出す。刃を出して、人差し指の腹を軽く一線してみる。痛みが走った。ゆっくりと赤い水滴が浮かんでくる。トイレットペーパーを取りに行って、押さえる。じわじわ赤が浸透していく。何故か落ち着いている。自分の殻を破れた気がする。僕とは違う人間が僕を見ているような気がする。夢の中にいるような気がする。遠い僕は僕なのか、仄かな痛みだけは僕が僕であることを証明し続けている。小さな叫び、小説とおんなじだ。僕はここにいるっていうことを証明しようとする。それでも皆、僕と同じように自分を証明したいから、人の存在証明なんかに構っていられない。皆自分を証明できないまま、人を証明しないまま、過ぎていく。指先から口に含んだ。鉄錆の味が口腔に広がる。濃密で干乾びた塩のような味、海水に似ている。僕は海の中で溺れている。「気づいて!僕はここにいるよ!僕はここにいる!!」誰も気づけないのは当たり前だ。皆が助けを求めて海でもがいているから。床に横たわるカッターの刃は鮮紅に濡れている。
 それでも吐き足りなかった僕は、ゲロはゲロでも一字一句に血を込めた、血反吐にしようと、パソコンを起動させ、タイプを打ち始める。僕がここにいるということを、僕はまだ全然吐き足りていない。叫び足りていない。打つ。打つ。打つ。
 絶対に安全なカッターナイフでリストカットを繰り返しているのだ。
 僕はここにいる。僕はここにいる。僕はここにいるんだよ!!!
山田花子アンダーグラウンド
2013年05月12日(日) 02時25分40秒 公開
■この作品の著作権は山田花子アンダーグラウンドさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
また僕はゲロを吐いてしまいましたが、今度のは血反吐です。

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No.2  山田花子アンダーグラウンド  評価:0点  ■2013-05-22 19:42  ID:BrBj.1iOdwk
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ご感想有難う御座います。

刻苦勉励、兎にも角にも頑張ります。
No.1  坂倉圭一  評価:30点  ■2013-05-22 18:24  ID:KMpPt7smfM6
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読ませていただきました。

面白かったです。
まるでアート作品のような印象を受けました。

御作は一部の読者層から強い支持を受けそうなご作品ですね。

ありがとうございました。
総レス数 2  合計 30

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