十二ヶ月の小説 一
 一月 七草

 横町通の市の空気は冷たく耳元を通り過ぎていくのに、見上げた空は熱っぽくゆらめいていた。
 湯気を発する大人たちの首が狭めた空を三羽の小鳥が通り過ぎていく。大輔はその鳥たちを、この前読んだ「カラーでわかる野鳥図鑑」で見つけていた気がしたが、記憶の中の名前を全て並べてみても、一つとして腑に落ちるものはなかった。
 こんなところに来るのではなかった。つまらない。市場の人ごみは滞ったままでちっとも進みそうになかった。目当てにしている「やっさん」の店まで、あとどれくらい待たねばならないのかは見当がつかず、たどり着く前におつかいの内容を忘れてしまいそうだった。
 すずしろ、なずな、ほとけのざ……
 母親に教えてもらった語呂合わせを口ずさみながら大輔には今にも泣きそうになっていた。

 
 すずしろ、なずな、ほとけのざ……と、ひらがなを音にできたその時に、本当なら、母は褒めてくれるはずだったのだ。正月生まれで人より遅く六歳になった大輔は、それでも他の子より早くひらがなを書けるようになり、知らない文や単語でも漢字でなければすらすら読めた。それが大輔の自慢の一つで、見たことのない言葉の列に出会うたび、母の目の前で読み上げる。母も母でそれを楽しみにしていて、何かを持った大輔がそわそわしながら近寄ってくるのをにこにこしながら迎えるのだった。そして、ひととおり大輔が読み終えると、すごいねすごいね、と言いながら彼の頭を撫でるのだ。大輔はそれが嬉しくて飯を食うのと同じように、毎日毎日新しい文字列を探してくるのだった。
 だのに、今週に限っては事情が違った。遅い正月休みで、従兄が叔母らとやってきたのだ。二つ年上のこの小児は小学生であるから、いくらかならば漢字が読める。ひらがななぞは当たり前に読み書きできる。しかも、彼は大輔に劣らず読書好きで、母の親指ほどの厚さのある本を一日で読み終わってしまったらしいのだ。そんなやつのいる家の中で、大輔が威張れる道理はなかった。大輔の読む本といえば、まだ絵本ぐらいのものだった。従兄は、それを馬鹿にするわけではないし、むしろ一緒に絵本を読んでくれるのだが、大輔はそれも悔しかった。
 だから、すずしろ、なずな、ほとけのざ……と母親の書いたメモを読んだその時、母親が褒めてしまう前に、こんなのふつうだけど、と言ってしまったのだ。ふつうの意味も知らないままに。
 母はびっくりした顔になり、それから眉をくもらせて、
 そうだよねえ、ふつうだよねえ。ごめんね。
 と言った。
 大輔は誤られる理由が分からずにきょとんとし、同時にひどく落胆した。母が褒めると思っていたのだ。友達の隆人がよく言う「べつにふつう」は彼の知りうる言葉の中で一番大人びた言いまわしだった。従兄に劣った自分を消し去る強がりが「ふつう」という言葉の全てだった。それなのに母は悲しそうな顔で黙ってしまい、急にこわばった家の空気が大輔の柔らかい肌を刺した。
 予想しなかった状況にあせり始めた大輔は、どうにか取り直そうとして、七草のお使いをかってでた。七草のメモはそれが入り用だからと用意されたもので、その申し出に不自然はなかったが、母は心配そうな顔をした。
「俺、もう六歳だよ、いいでしょ」
と、彼が言うと、母親は
 でも、日曜日だから、
と呟き、なおしぶった。
 日曜日だから、なんだというのか。大輔にはやはり分からなかった。絶対に行ってやると思った。彼にとって日曜は等しい曜日の一つでしかなかったし、ここで母の賞賛を得られなければ、もうどうにもならないという気になっていた。
 どうにかこうにか母を押し切り、件の七草のメモをもらって、もしものときの語呂合わせも教えられた。これなら、しくじるわけがない。そう高をくくっていた大輔は、市場の入り口に立ち、その蠢く人の塊を見た瞬間、その自信が塵のように小さくなっていくのを感じた。目当ての品はその通りに確かにあって、目的の店は見知ったところであるのに、自分が途方もないことに身を投じようとしているという予感が、言葉としての形を持たずに、ぬるりと心を舐めた気がした。しかし、もう戻れない。このまま戻ることは敗北だった。従兄のいる家に、手ぶらでは戻れなかった。
 わざとらしく思えるほどに大きく息を吸い込んで、大輔は人の海の中へと潜って行った。


 そして、今である。
 背の高い大人たちが塀のようになっているせいで、大輔は、自分がどこにいるのか分からなかった。低い視点から見えるのは足と足の間からのぞいた屋台の断片と、やたらにせせこましくなった真昼の青い空ばかりで、こんな小さな子供が迷っているというのに、助けてくれる人は誰もいなかった。助けを求めようとして大人の顔を見ようとしても、逆光のため、全てが全て黒いのっぺらぼうに見えるそれらに、声をかけることはできなかった。
 すずしろ、なずな、ほとけのざ……
 雑踏に満ちるざらざらした音に打ち負けないように、大輔は歌った。そうしないと厚みのあるその音に脳みそが押し流されてしまう気がした。
 七草だけは忘れられない。ぜったいに、ぜったいに。
 そのために持たされたあのメモは、見ようと懐から出したとき、後ろの足に押された拍子に、どこかに落ちていってしまった。焦った大輔が早く目的地に着こうと、やっさんの店を探しても、足の合間で切れ切れになった屋台の様からは、どれがそうかは分からなかったし、分かったとしてそちらに向かう自由もなかった。
 もう成す術を無くした大輔は人の流れに動かされるまま、地面に落ちた小石の数を数えたり、近くの女が着ている着物の柄を眺めたりした。
つまらなかった。なぜ、誰も、
おつかいなの、えらいね、迷ったのかい、俺が連れてってやろう
と言ってくれないのか。
 俺らの日陰で寒かろうな、俺のカイロをやろうなあ
と言ってくれないのか。
 大輔は泣きそうだった。だんだん顔が火照ってくるのが分かるのに、細い指先はかじかんで冷たかった。この世の全てが大輔を責めて、泣け、泣け、と囃しているようだった。


 どうにか泣かずに市場を抜けた大輔に、七草が買えたわけがなかった。広い空間にようやく立って、寄せる人波を睨んでも、そこに飛び込む勇気はもう無く、あきらめて家へと帰ることにした。このお使いはもとから無理なことだったのだと、大輔は思い込むことにした。従兄に勝つか負けるかなどは、あの退屈な時間を思えば、とても小さなことに思えた。
 ただいまと言いながら靴を脱いでいると、母が出てきて、
 どうだった?
 と聞いた。そして、何もない大輔の手元を見て、
 また、今度頑張ろうね
 と言った。悲しそうに笑ったその頬に黒い点が浮かんでいた。それはほくろではない。母の顔にほくろはなかった。その黒が、母のセーターの袖口にもついているのを見て、大輔は(墨だ)と了解した。
 冬休みの宿題に、従兄は書初めをするといっていた。自分の持ったことのない筆で、自分の書いたことのない文字を従兄が書く。たぶん母はそれを先程まで見ていたのだ。いや、一緒に書初めをしていたのだ。自分を抜きにして、従兄と二人で。
 大輔は七草を持っていない自分の手が恥ずかしくなった。帰ってくるべきではなかったと思った。書初めをしている従兄の隣で、これから彼はじっと座っていなければならない。それがとても辛かった。
 ほら、早くあがって。==ちゃんが書初めしてるよ。横でお母さんと一緒に見ようよ。
 玄関の段差に座りっぱなしだった大輔に、母が笑っていった。その調子は先程と違いひどく陽気だった。
 大輔はもうどうしようもないと思い、ついに泣き出してしまった。母はもう従兄のものになってしまい、二度と大輔を褒めることはないと思った。どうしたの、と尋ねた母に大輔は、
「七草買えなかったのね、違うの、みんなが悪いの。みんなのせいなの」
と言った。口走った彼自身、みんなが誰かは分からなかったが、これ以外に彼のお使いをぶち壊した何者かを表す言葉はないように思えた。(母はその言葉を聞いて、そうなの、と頭を撫でるだけで、彼のいうみんなを信じているわけではないようだった)
 ふと奥の間から何かが走る音が聞こえた。音の軽さでそれは従兄のものだと知れた。それは、どんどんこちらに近づいてきている。もうすぐこちらにやってくる。従兄がここに現れる。
 大輔ははっとして、靴に足をねじ込むと横町通りの市の方へと走り出した。
飛び出した外の空気は冷たいままで、濁った息と涙のせいで、世界は大きくねじれ曲がっていた。早く、早く、早く。七草を今すぐに手に入れなければ。
涙を押し込めようと見上げた空を、大輔よりもずっと素早く小鳥たちが通り過ぎ、横町通りの上空あたりを旋回してから、あざけるように彼方へと消えた。
カムサッカ
2013年02月04日(月) 20時05分10秒 公開
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